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一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

雲峴宮(1) から続く

 

関係する人物相関図

 

 大韓帝国時代に皇室関連業務を管轄した宮内府は、1910年の韓国併合で解体され、その業務は「李王職」に移管された。

 1945年、日本の敗戦で植民地統治体制は解体されたが、「李王職」は米軍政のもとでも存続した。しかし、李王の住まいとされた昌徳宮チャンドックンと、王族の二つの公邸(雲峴宮ウニョングン寺洞宮サドングン)、それに付属する別邸や田畑、陵墓などの管轄や管理については混乱していた。

 

 1945年11月、中国重慶にあった大韓臨時政府の要人らが帰国してくることになった時、金九キムグの宿所として候補にあがったのが「雲峴宮」の洋館であった。使用をめぐっては「李王職」と協議が行われた。

 

 

 しかし、金九が旧王族の施設の利用を嫌ったため、急遽崔昌学の別荘「竹添荘」を宿所とした。ここが「京橋莊キョンギョジャン」と改称されて1949年まで金九の私邸となり、大韓民国臨時政府庁舎、韓国独立党の本部となった。

 

 12月に重慶から臨時政府第2陣として帰国した申翼熙シンイクヒは、李王職の昌徳宮旧王宮事務庁の関係者の了解を取ったとして、「雲峴宮」洋館の2階を新民同士会の事務所として使用した。さらにここに臨時政府内務部の執務室を置いた。また、臨時政府特別行動隊の司令部が置かれたり、独立促成愛国婦人会ソウル支部が置かれたりした。

 申翼熙はしだいに金九と距離を置き始め、李承晩イスンマンに接近した。1947年には「雲峴宮」洋館を李承晩の宿舎にするという報道が出たことがあったが、これは直ちに李承晩側が否定している。

 

 

 このように、「雲峴宮」の洋館は、北緯38度線以南の独立国家樹立に向けた路線闘争の中で拠点の一つとなった。ただ、これは「雲峴宮」の所有者や居住者とは関係のないところでの動きであった。

 「雲峴宮」の韓屋では、李載冕イジェミョン夫人、李埈鎔イジュニョン夫人、それに李鍝イウ夫人朴賛珠パクチャンジュが二人の息子とともに暮らしていた。

 

 1948年、北緯38度線南側だけでの総選挙が近づいた2月、米軍政当局は洋館部分を使用していた韓国独立党に明け渡し命令を出した。そして、ここに選挙管理委員会が置かれた。5月に総選挙が行われ、7月に開かれた国会で李承晩が大統領に選出された。8月15日に大韓民国が樹立されることになった。

 

 大韓民国の建国に先立って、7月に、米軍政長官のディーン少将(William F. Dean)の命令書で「雲峴宮」の所有者は李鍝の長男李清イチョンであることが確認された。その直後の8月、紫霞門ジャハムン外の三溪洞サムゲドン亭子チョンジャ和信ファシン百貨店の朴興植パクフンシクの「興韓フンハン財団」に売却されるという記事が『東亜日報』に出ている。三溪洞亭子は、哲宗チョルチョン代の領議政金興根キムフングンの別荘を興宣大院君が奪って石坡亭ソッパジョンとしたものである(現在の付岩洞プアムドンの旧大韓航空会長宅の裏手)。さらに、12月には、それまでの負債を返済するために洋館と付属の土地を徳成トクソン女子中学校に売却したと報じられた。実際、11月30日に徳成学園が3600万ウォンで購入している(徳成女子大新聞)。

 

1949年2月12日合同通信配信記事「栄華も泡と消える 幻想だけを残す李王家」

 

 一方、李鍵の公邸「寺洞宮」の方は、解放直後、いち早く売却された。1946年に朴某に600万ウォンで売り渡され、その後転売されて、1948年には分割されて売却されたと報じられている。当時、公邸の主であった李鍵イゴン自身は東京にいた。ちなみに、李鍵は1955年に日本国籍を取得して、桃山虔一となった。

 「寺洞宮」の売却には、桂洞に隠居していた李鍵の父親李堈イガンが関与したのかもしれない。

 

 「寺洞宮」は現在は大半の建物が失われ、唯一「仁寺洞インサドン弘報館」として使われている建物だけが残っている。


 大韓民国の国務会議は、1949年2月に「旧王宮財産処分法案」を承認した。1948年に「雲峴宮」の土地建物の一部が売却された後のことである

第一条 旧王宮財産は、国有とする。
本法において、旧王宮財産とは、旧韓国皇室又は義親王宮の所有に属したもので、財産として旧王宮職が管理した一切の動産及び不動産を指す。
第二条 旧王宮財産のうち、左の各号の一に該当するものは、国有として存置する。
1.重要な宮殿の建物及び敷地
2.重要な美術品、歴史的記念品又は門跡
その他永久保存を要するもの
前項各号の範囲は、大統領令で定める。
第三条 前条の規定により存置する必要のない財産は、大統領令の定めるところにより、売却し、又は貸与することができる。
第四条 旧王族の生計維持上必要な財産は、大統領令の定めるところにより、前条に規定する財産の中から王族に譲与することができる。
(後略)

 旧王宮財産は全て国有と定められた。ただし、第4条で「生計維持上必要」とされる範囲は王族に譲与されるとなっている。「雲峴宮」も国有財産とされるのか、どこまで李清の私有が認められるかなど、「雲峴宮」を実質的に背負ってたつ立場にあった朴賛珠パクチャンジュにとっては重大な関心事であっただろう。

 

 その範囲を定める「大統領令」が出る前に朝鮮戦争が勃発した。戦争中、朴賛珠は二人の息子を連れて釜山プサンに避難した。その避難先の釜山での出来事を、息子の李清イチョンが1991年の『東亜日報』のインタビューでこのように回想している。

インタビュー:大院君5代宗孫 李清氏

(前略)

 解放後に制定された旧皇室保護法によって旧皇室の財産すべてが国有化されたが、雲峴宮だけは除外された。
「母が釜山避難時代に、政府の要人だけでなく、国会議員全員を訪ねてまわり、雲峴宮は大院君の私邸であると訴えました」
 その結果、国会で、雲峴宮は旧皇室が所有していたものかどうかを問う投票まで行われ、150対8で雲峴宮は私有財産であると認められた。

『東亜日報』1991.12.11 

 こうして、「雲峴宮」は興宣大院君の5代孫李清の個人所有だと認定された。

 

 ところで、朴賛珠は、1940年に黄信徳ファンシンドクが設立した京城家庭女塾を支援していた。1943年には、祖父朴泳孝パギョンヒョの所有していた堅志町の土地を提供している。ちょうど「寺洞宮」の北側に隣接している。解放後、この学校は中央女子中学校チュンアンヨジャチュンハッキョとなった。

 中央女子中学校は、1948年11月に北阿峴洞ブクアヒョンドンの旧朝鮮総督府の林業試験場跡地(敵産・帰属財産)の払い下げを受けてここに移転した。1950年に学校法人秋渓チュゲ学園(秋渓は黄信徳の号)が認可された時、初代理事長になったのは朴賛珠であった。「雲峴宮」の一部を売却した資金が帰属財産の払い下げ代金に使われた可能性もある。

 

 1954年に京畿キョンギ高校を卒業した李清は、翌年ウィスコンシン州のマーケット大学に進学した。まだ兵役に行ってない若者が多額の外貨を必要とする留学に行くのは容易なことではなかった時代である。さらに4歳年下の弟李淙イジョンも、ソウル大学を卒業後、プリンストン大学の大学院に留学している。

 


 

 1968年2月12日、「雲峴宮」が日本大使館用地として売却されるとの新聞報道が出た。

 

 この報道を手がかりに、1950年代後半から1960年にかけての「雲峴宮」の動きを追ってみたい。

 

借金に追われた韓末風雲の跡「雲峴宮」に日本大使館

電撃仮契約
外務部の協力で契約を急ぐ
 大院君が執政した雲峴宮に在韓日本大使館が建てられる。12日雲峴宮管理所は雲峴宮裏側の土地930坪を駐韓日本大使館に1億5000万ウォンで売却することに決定し、昨年末すでに仮契約を終えたと明らかにした。
 売却されるのは雲峴宮礼式場とその裏庭を合わせた930坪で、大院君が住んでいた老安堂、永宣君(李埈鎔)が居住していた二老堂、大院君の長男李載冕夫人(興親王妃)が現在住んでいる老楽堂などが一望できる場所である。
 管理所は、この土地を売ることになったのは、銀行の借金4000万ウォンを返済できず、この土地が競売にかけられることになったためと説明した。
 雲峴宮は牧蘭公園墓地造成費のため借り入れた第一銀行の借金4000万ウォンなど多額の借金を抱えており、利子だけでも毎月200万ウォン支払っており、この土地を売ることにしたということだ。
 この土地が日本大使館に売却されたのは、昨年末に日本大使館の岩田参事官が敷地を借りに来たが、購入の意思を表明、昨年12月末に電撃的に仮契約を結ぶに至ったとのこと。
 仮契約の条件では、外国人土地売買法に基づいて大使館側が政府の承諾書を受けてから本契約を結ぶことになっているが、現在日本大使館は外務省の協力を得て内務·国防·商工当局の同意を得ており、今月末頃にも本契約を結ぶべく急いでいる。
 この一帯の地価は、坪当たり15万ウォンで、一億5000万ウォンと評価されている。
 管理人の金澤洙氏は、「今回の土地売却が、大院君が執政した場所だということで、心ある人々にはショックかもしれないが、国内でこの土地を売ろうにも買い手が現れず、日本大使館に売ることになった」と語った。
 雲峴宮ではこの土地を売却した後、4000万ウォンの銀行債務を返済し、残りは牧蘭公園墓地に投資する方針だ。

 記事によれば、日本大使館用地は「雲峴宮礼式場イェシクチャンとその裏庭を合わせた930坪」とある。

 

 1955年から「雲峴宮」の北端の一画で「雲峴宮礼式場」が営業をしていた。

 

 

 1963年、この礼式場を含む区画について、東苑トンウォン映画社との間で10年間の賃貸契約が結ばれた。東苑映画社は、ここに映画スタジオと映画学院を建てる計画だった。翌年、東苑映画社は事業資金を得るため、礼式場部分を高級料亭「瀛州閣ヨンジュカク」に又貸しし、ここに料亭ができることになった。これを知った近隣住民は、料亭などとんでもないと反対運動を起こした。この騒ぎを報じた『東亜日報』に写真と地図が載せられている。

 

 この略図をその後の地図に当てはめてみると、東苑映画社がスタジオと学校を作ろうとしていた場所は「住宅」の西側に隣接している土地(雲泥洞ウンニドン114-2)、その西側が雲泥洞114-8と114-37、114-38(現在は、日本文化院が入居している国源ククウォンビルとその駐車場がある)、その南側が雲泥洞114-9と114-31(現在は、金&張法律事務所のソウルビルと金承鉉キムスンヒョン家屋がある)という位置関係になる。

 

 

 「雲峴宮」は、1966年に第一銀行チェイルウネンから4000万ウォンを借り入れていた。

 坡州郡パジュグン臨津面イムジンミョンにあった興宣大院君フンソンテウォングンの墓を、李載冕イジェミョン李埈鎔イジュニョン李鍝イウが葬られている楊州郡ヤンジュグン和道面ファドミョンの墓所に移すため、楊州の墓地整備を行った。それと同時に、「雲峴観光開発株式会社」を立ち上げて、有料の公園墓地「牧蘭モラン公園墓地」を開発して分譲する事業を始めた。

 

 「雲峴宮」の管理人として名前が出てくる金澤洙キムテクスは、李載冕の姪婿で、興宣大院君の墓地の遷葬は金澤洙が仕切っていた。しかし、雲峴観光開発株式会社設立の発起人になったのは朴賛珠である。「雲峴宮」の当主李清は、アメリカで大学を卒業した後もそのままアメリカで就職していた。
 

 雲峴観光開発の「牧蘭公園墓地」造成資金を第一銀行から借り入れ、東苑映画社からの賃貸収入を利子の支払いに当てようとしていた。ところが、東苑映画社は1965年に経営が行き詰まって倒産してしまった。

 

 不運は続き、1966年の12月末に李清の弟李淙イジョンが留学先のアメリカで交通事故で死亡した。

 

 日本大使館から「雲峴宮」の一部を大使館用地として買い取りたいとの話が持ち込まれたのは、この翌年のことである。

 

 1965年の日韓条約締結で日韓間に外交関係が樹立されたものの、ソウルの日本大使館用地の取得は難航した。日韓会談の終盤から連絡事務所が置かれた半島バンドホテルの5階にとりあえずの大使館を開いたが、ホテル外で大使館用地を探した。しかし、植民地支配が終わって20年しか経たないなかで、ソウル中心部に日本大使館用地を求めるのは容易ではなかった。

 

 1967年10月、国際クッチェホテルを経営する車駿九チャジュンギュが所有する南山ナムサン南麓(現在の南山1号トンネルの漢南洞ハンナムドン側出口の上の区画)が日本大使館敷地として売却されるという記事が出た。

『京郷新聞』1967.10.04

 

 しかし、南山といえば、北麓一帯が日本による侵略の本拠地だったのであり、京城神社や朝鮮神宮のイメージも根強く残っていた。たとえ漢南洞側とはいえ南山に日本大使館ができることへの反発の声が高まった。

 

 ちょうどこのタイミングで、日本大使館は「雲峴宮」の礼式場跡地のことを知ったのであろう。「雲峴宮」側は、東苑映画社の倒産で、第一銀行の抵当権が設定されていたこの土地が競売にかけられるところまで追い込まれていた。水面下で交渉が進み、1967年末には仮契約を済ませ、外国人・機関が韓国内で土地を購入するための手続きにも着手した。 

 

 ところが、「雲峴宮」に日本大使館が建てられるという記事が2月12日に新聞で報じられると、各種社会団体が抗議声明を出し、新聞各紙も反対の社説を掲載した。このため、2月15日に内務部は「外国人土地法」で求められている政府承認を与えないことを表明した。

 

 「雲峴宮」は、日本大使館への土地売却を断念せざるを得なくなった。

 

 一方、日本大使館は、その後すぐに別の土地の購入に動いた。4月初めには、極東ククトン海運の南宮録ナムグンノク中学洞チュンハクトンに所有していた770坪の土地の購入契約を結び、内務部もこれを承認したのである。現在は更地になっているが、いまも日本大使館が所有している敷地である。

 

2015年に建替えのため取り壊された日本大使館

 

 日本大使館への売却が不調に終わったことで、第一銀行の抵当権が設定されていた「雲峴宮」北側の区画は、結局競売にかけられたのではないかと思われる。

 雲泥洞114-9、114-31を金承鉉が取得したのが1968年9月7日。雲泥洞114-8、114-37、114-38を趙源貞が取得したのも1968年9月7日。同じ日付になっている。

 雲泥洞114-2には、1969年11月17日にTBC(東洋放送トンヤンバンソン)の雲峴スタジオがオープンしている。東苑映画社が建てかけていた建物が転用されたと考えられる。ここも、同じ時期に売却されたのではなかろうか。その後、1980年に全斗煥チョンドゥファンによるメディア統廃合でTBCがKBSに強制併合された時に、系列の中央日報社に所有権が移されたのであろう。

 

 雲泥洞114-9、114-31を所有した金承鉉キムスンヒョンは、初代大統領李承晩イスンマンの主治医だった人物である。雲泥洞114-31の韓屋は「雲峴宮」内の建物を解体した建材を用いて再建築したもので、ソウル市民俗文化財19号に指定されている。韓屋の西側114-9のビルは、金承鉉の3男金永珷キムヨンムが設立に加わった金&張法律事務所のオフィスとして使われたソウルビルである。

 

 その北側、雲泥洞114-8、114-37、114-38は、在日韓国人の趙源貞チョウォンジョンが所有した。現在は子息が相続している。1974年ここに国源ビルが建てられた。

 

 日本大使館は、1970年1月に中学洞チュンハクドンに本館が完成したが、大使館外に日本文化院を開設しようとしていた。しかし、「日本の文化侵略」を警戒する世論を考慮して、1971年7月に鍾路チョンノ警察署の向かい側のガールスカウトのビルに日本大使館の文化広報館室をオープンさせた。そして、1974年に落成した国源ビルのオーナー趙源貞と賃貸契約を結んで、1975年に日本大使館文化広報官室をここに移転させた。1980年代の前半、「日本文化院」という呼び方が一般的になっていって、いつの間にか地下鉄の案内板なども「日本文化院」と表記されるようになっていた。

 

 

 「雲峴宮」の当主の李清は、1969年に韓国に帰国した。橋梁設計の専門家として科学技術処が帰国を勧めて、国内企業に勤務したとのこと。しかし、その後1975年に再び渡米した。

 1990年に韓国に帰国して、ソウル市に「雲峴宮」の売却を申し出た。ソウル市当局は、110億ウォンで購入して10億ウォンを投入して「雲峴宮」の復元計画を立てた。しかし、ソウル市議会では反対論、慎重論が強く、一旦は保留されたが、1992年になって買い入れが決定された。

 

 朴賛珠は、北阿峴洞ブクアヒョンドンに邸宅を購入して李清夫妻と暮らしていたが、1995年7月13日に死去した。遺体は「牧蘭公園墓地」に隣接する「雲峴宮墓地」に埋葬された。

 

 

 そして、復元された「雲峴宮」は1996年10月25日に公開された。

 

 

 

 地下鉄3号線「安国アングク」で降りて4番出口を上がり、そのまままっすぐ行くと左手に「雲峴宮ウニョングン」の塀が続き、その先に入り口がある。敷地の奥に韓屋の建物が並び、その屋根越しに洋館が見える。この洋館は、今は徳成トクソン女子大の施設になっているが、もとは「雲峴宮」の一部だった。

 

 

 「雲峴宮」が一般に公開されたのは、1996年10月26日。1980年代には、まだ敷地内には建造物がゴタゴタと立て込んでいた。徳成女子大の横の路地を入っていった奥に1989年まで伝統韓屋を使った「雲堂ウンダン旅館」があった。外国人観光客にはこっちの方が「雲峴宮」よりも知られていた。

 

 

 1992年にソウル市は、所有者の李清イチョンから「雲峴宮」を買い取った。2,148坪の土地に6棟の建物で83億ウォン。60点余りの歴史的な遺物は無償で李清がソウル市に寄贈した。

 

 4年間の修復・整備を経て一般公開され、今では認知度も高まっている。

 

 この「雲峴宮」が興宣大院君フンソンデウォングン李昰応イハウンの居宅であったことは広く知られている。興宣大院君は、朝鮮王朝第26代国王高宗コジョンの父であり、東アジア近代史の中で重要な人物なのだが、ここではその説明は必要最小限にとどめ、「雲峴宮」の方に焦点を当てることにする。

 


 

 「雲峴宮」の所有権は、下図の最上段の5人が引き継いでいる。オレンジのラインは養子関係を示している。これ以外にも「〜公」といった呼び名もあるが、ここではこの表の呼称で記述する。下図を参照しながらお読みいただきたい。

 1863年に李昰応の次男李㷩イヒ(高宗)が国王に即位すると、李昰応には国王の父に与えられる大院君の称号が与えられ、その居宅には老楽堂ノラクダン老安堂ノアンダン二老堂イロダンなどが順次建てられ、雲峴宮は権力の中枢の一つとなった。

 

 興宣大院君は、国王の高宗、そして高宗の王妃閔妃ミンビとその一族との間で、内政・外交の主導権をめぐって激しく争った。そして、1895年10月の閔妃殺害事件(乙未事変)、1896年の「俄館播遷」を経て、興宣大院君は表舞台から退いた。1898年1月に夫人が亡くなり、2月22日に孔徳里コンドンニの別邸「我笑堂アソダン」で興宣大院君も死去した。

 「我笑堂」は、現在のソウルデザイン高校(地下鉄6号線孔徳コンドク駅と大興テフン駅の中間北側)の場所にあった。

 

 

 「雲峴宮」は、興宣大院君の長男李載冕イジェミョンが継承した。

 

 当時、李載冕の息子の李埈鎔イジュニョンは、国外滞在を余儀なくされていた。1895年5月に興宣大院君が関与した政争の中で、李埈鎔は大臣暗殺の陰謀に加担したとして死刑判決を受け、その後流刑に減刑されて特赦で釈放された。そして、「乙未事変」後に日本に渡った。国王高宗は、李埈鎔を嫌ってその帰国を許さなかった。

 興宣大院君の夫人が死去した時、イギリス滞在中だった李埈鎔は、ロンドンの日本公使にも助力を求めて帰国を画策した。しかし、高宗の強い反対で帰国は実現しなかった。李埈鎔は高宗の在位中はずっと日本に滞在することになった。

この間、「雲峴宮」は次第に傷みがひどくなっていた。黄玹ファンヒョンの『梅泉野錄メチョンヤロク』には、1905年にこのような記述が見られる。

『梅泉野錄』卷之四  光武九年(1905年)乙巳 4月

命修理雲峴宮, 自李埈鎔不得返, 載冕杜門謝客, 垣戶一任頹圮, 至是下帑錢二百七十萬兩·白米三百七十石于雲峴宮, 俾淸積債, 又命營繕司葺其頹圮, 人言倭使將至有碍觀瞻故也, 時載冕頗患貧, 大院君葬役, 久未完。


雲峴宮を修理せよとの命を下した。李埈鎔が帰国できなくなってから李載冕は門を閉じて来客を謝絶している。塀と家屋が毀損しているので内帑金270万両と白米370石を雲峴宮に下賜し、債務を返済させ、営繕司に命じてその損傷部分を修理させた。ある人は、日本の使臣が到着するので美観を損ねないようにするためだと言う。この時、李載冕は大変苦しい生活をしていた。大院君の葬礼がまだ終わっていなかったからである。

 『高宗時代史』には1906年に次のような記載がある。

光武 10年, 丙午(1906년, 淸 德宗 光緖 32年, 日本 明治 39年) 10月 31日(火)  
伊藤統監이 朴泳孝등 日本에 亡命한 者의 特赦歸國을 위해 盡力하고 있다고 한다. 즉 朴泳孝를 우선 特赦하고 다음에 亡命者 全部를 特赦하는 同時에 雲峴宮의 惟一한 血統인 李埈鎔을 召還하고 亡命者에 連累犯을 解放하려하고 있다 한다.
출전    大韓每日申報 光武 10年 10月 31日

 

伊藤統監が朴泳孝ら日本に亡命した者の特赦と帰国のために尽力しているという。すなわち、朴泳孝をまず特赦し、ついで亡命者全員を特赦すると同時に、雲峴宮の唯一の血統である李埈鎔を召還し、亡命者の関連犯を解放しようとしている。
出典 大韓每日申報 光武10年10月31日

 伊藤博文は、朴泳孝パギョンヒョや李埈鎔など日本に亡命している要人を帰国させて、日本による統監府統治に利用しようとしていた。しかし、高宗はこれに強く反対しており、特に李埈鎔の帰国は絶対に認めないとしていた。

 『梅泉野錄』の「倭使」とは伊藤博文のことであろうか。伊藤博文にとやかく言わせないために高宗が「雲峴宮」の修理を指示したということなのかもしれない。

 

 1907年6月、ハーグの万国平和会議に高宗の特使が送られた、いわゆる「ハーグ密使事件」が起きた。この事実が新聞で報じられると、李埈鎔は7月11日に新橋から神戸に向かい、偽名を使って釜山プサンに強行帰国を敢行した。

「韓国皇族義和宮及同国人李埈鎔並に亡命者帰国一件」

 

 その直後、伊藤博文は、密使派遣の責任を問うとして高宗皇帝に退位を迫り、7月19日に譲位式を行って李坧イチョク(純宗)を皇帝に即位させた。帰国していた李埈鎔は永宣君ヨンソングンに封ぜられて、「雲峴宮」に住むことになった。

 

 日本が大韓帝国を併合した2年後、1912年に李載冕が死去した。

 

 

 李埈鎔が「雲峴宮」を引き継いだ。

 

 「雲峴宮」の洋館は、この前後に李埈鎔を懐柔するために日本が主導して建てられたのではないかとされる。この洋館は、赤坂迎賓館(旧東宮御所)の設計などを手がけた片山東熊トウクマが設計したとされるが、確証がない。片山東熊は、朝鮮では、1907年に着工された龍山の日本軍司令部を設計している。この建物は1910年4月に完成したが、この時点で用途変更がなされて統監官邸となった。併合後は総督官邸となったが、ほとんど使われることはなかった。

龍山の朝鮮総督官邸

 

 下の写真は、1918年に李垠イウンが朝鮮に一時帰郷した際の「雲峴宮」洋館の写真として韓国のサイトに掲載されているものである(出所不明)。日本居住を強いられていた李垠は、1918年の1月14日から25日まで京城に一時滞在した。

 現在は敷地が切り離されている韓屋部分と、洋館との関係がよくわかる写真である。

 


 1917年3月22日、腎臓と心臓に持病があった李埈鎔は47歳で死去した。後継の男児がいなかったため、高宗の息子李堈イガン(李埈鎔の従弟)の次男李鍝イウを養子とした。「雲峴宮」は、幼い李鍝が引き継ぐことになった。

 李鍝は1912年11月15日生まれで、養子となった時は満4歳。鍾路チョンノ小学校に入学したが、1921年4月から日本の学習院初等科に転校させられた。その後は陸軍中央幼年学校を経て、1933年に陸軍士官学校(45期)を卒業した。

 1925年には下渋谷常盤松の皇室所有地に李鍝の邸宅が建てられ、李鍝を日本内地に永住させることが既定路線となった。

 1928年、李王(李垠)と王妃方子マサコ(梨本宮方子)の夫妻が欧州旅行から神戸に帰国した時の写真が『朝日新聞』に掲載されている。李堈・李垠・徳恵トッケが高宗の子供たちで、李鍝は李堈の次男である。李堈の長男李鍵イゴンは、この時には習志野馬術大会出席のため神戸には来ておらず、写真に映ってはいない。李鍵もまた東京に邸宅があり、内地に永住することが規定方針とされていた。

 

 朝鮮の王族の子弟の多くが朝鮮から切り離されて、内地に居住させられていたのである。

 



 李鍝は、1935年に朴泳孝の孫の朴賛珠パクチャンジュと結婚した。

 

 

 李垠、徳恵、李鍵は、それぞれ日本人と結婚することになったが、李鍝は日本人との結婚を拒んで朴賛珠と結婚した。朴賛珠の祖父朴泳孝も難色を示す日本側の要人の説得に動いたという。新婚生活は下渋谷常盤松の邸宅で始まり、「雲峴宮」に暮らすことはなかった。李清と李淙イジョンの二人の子供も東京で生まれた。

 

 下の『地番区画入 大京城精図』は、1936年発行の京城の地図である。「雲峴宮」のところに「李鍝公邸」との記載があり、その西南側、現在の仁寺洞インサドンの真ん中の通りから西に入ったところに「李鍵公邸」との記載がある。これは、李堈の長男李鍵の公邸である「寺洞宮サドングン」である。元々は父の李堈の邸宅だったが、1930年に李堈が引退して李鍵がこの「寺洞宮」を引き継いだ。

 

『京城府校閲 地番区画入 大京城精図』(1936年)

 

 しかし、李鍝も李鍵も、実際には東京の渋谷常盤松に建てられたそれぞれの邸宅に住んでおり、「雲峴宮」「寺洞宮」には、一時帰郷の時に立ち寄るだけだった。「雲峴宮」には、先々代の当主李載冕の夫人と、先代の当主李埈鎔の夫人が暮らしていた。

 

 1945年8月6日、広島に原子爆弾が投下された。西部軍管区司令部参謀として広島に単身で赴任していた李鍝は、出勤時に被爆して翌7日に死亡した。遺体は、8月8日に飛行機で汝矣島飛行場に搬送され、「雲峴宮」に安置された。朴賛珠夫人も清と淙の二人の息子も飛行機で京城に戻った。

 

 

 葬儀は、8月15日午後1時から、東大門の京城運動場で「陸軍葬」として行われることになった。

 

 8月15日は朝から正午に重大放送があるとの知らせが様々な媒体で流された。正午にポツダム宣言を受諾するという天皇のラジオ放送が流された。日本は無条件降伏をした。

 しかし、李鍝の陸軍葬は午後1時から、予定通り執り行われた。

 

 葬儀が全て終わると、朴賛珠は二人の息子とともに「雲峴宮」に戻った。そして、二度と渋谷常盤松の邸宅にもどることはなかった。「雲峴宮」での暮らしが始まった。

 


雲峴宮(2)—日本大使館の候補地?— に続く

末広鉄腸『北征録』(2)行幸見物・大院君表敬 から続く

 

◆京城の町中の様子

 

 末広鉄腸は「京城の形勝並びに市街の有様」として、京城の様子を紹介している。

 この項目では、林武一の『朝鮮案内』を参照した記述に末広鉄腸自身の見聞を加えて叙述している。

 

 林武一は、長州萩の生まれでドイツ語を学びその後海軍の主計局に勤務し、1888年に交際官試補に任じられて8月に在朝鮮公使館に赴任し、1891年10月に3年の任期終了で離任した。当時、写真師や在日外国人写真愛好家などで組織された「日本写真会」があり、林武一はその会員であった。在任中に京城はもとより朝鮮各地で写真撮影をしている。

 このブログに転載している『朝鮮国真景』の写真は、林武一がこの時に撮影したものである。   

 

 林武一は、離任前の1891年8月に、東京で『朝鮮案内』を出版した。この本は、日本人の朝鮮渡航の指針となる情報提供を目的としたもので、写真は掲載されていない。釜山や元山の情報も現地の領事から入手しており、領事業務の一環であったとも考えられる。この本は、『読売新聞』の「批評」にも取り上げられた。

 

 

 翌1892年1月末、林武一は朝鮮の地方巡視のため朝鮮への出張を命じられている。4月4日、出張任務を終えて仁川から出雲丸に乗って帰任の途に着いた。ところが、出雲丸は全羅南道所安島付近の暗礁に乗り上げて沈没し、この事故で林武一は死亡した。

 日本国内では、4月9日にこの事故の第1報が報じられた。

 

 

 この事故では、海軍の将官も死亡し、日本国内でも、そして出港地の仁川でも連日大きく報じられた。5月25日には、仁川の青山好恵の『朝鮮新報』に親族が死亡広告を出している。

 

 

 さらに『朝鮮新報』は、9月3日に『朝鮮案内』の売り出し広告を掲載している。前年に出された『朝鮮案内』に、林武一の「肖像」と公使館前書記官近藤真鋤が書いた「伝記」がついていた。

 

 

 末広鉄腸が仁川に立ち寄るのは、9月19日と9月30日。それ以前に日本国内で入手していた可能性もあるが、著者の林武一への追悼の意から名前をあげて抜粋したのであろう。

 

 ちなみに、林武一が1888年から91年までの在勤中に撮りためた写真は、1892年11月に『朝鮮国真景』として出版された。「日本写真会」の会員小川一真が120数枚の写真からピックアップした。妻林亀子の「林武一略伝」がついている。写真の解説部分は林武一が書いたもので、生前にすでに原稿を用意していたと思われる。

 

林武一『朝鮮国真景』1892年11月
国会図書館デジタルコレクション

 

 末広鉄腸の『北征録』は1893年2月10日に出版されて、数枚の図版が載せられているがいずれも出典は不明である。

 

◆大三輪長兵衛の招宴

 

 「官妓」の話を書いているが、その舞台となったのは「大三輪氏の宅」で開かれた宴席である。大三輪長兵衛は大阪で海運業や問屋業で成功を収め、1878年に第五十八国立銀行を設立して頭取に就任した。大阪の実業界の大物であると同時に大阪府会議長、同市会議長等を歴任している。

 

 朝鮮は、造幣機関として1883年に典圜局を置いた。1891年、安駧寿を日本に派遣して、大三輪長兵衛のアドバイスを受け、大阪製銅の増田信之社長から借款を得て、洋式の新貨幣発行事業に着手することになった。

高宗29年辰(1892年)11月2日(陽暦12月20日)  

これより先、葉錢を鑄造するため典圜局幫辦安駧壽を日本に派遣し、銅を購買せしめた。安駧壽は大阪で、日本第五十八國立銀行頭取大三輪長兵衛および大阪製銅株式會社長 增田信之等が洋式貨幣の鑄造が有利であることを說いたことから、これを本國に轉稟して許諾を得、增田信之等に頼んで銀250,000圓を借りて典圜局を改築し、機器を購入して新貨を鑄造することとした。そして典圜局を仁川に、交換局を漢城に設置し、日本の前大藏省叅事官橫瀨文彦を典圜局監理に、大三輪長兵衛を交換局幫辦に任命にしたところ、10月に典圜局の建築と機械設置が完成したため、この日、戶曹判書朴定陽を典圜局管理兼交換署管理に、叅議內務府事成歧運を典圜局兼交換署總辦に任命した。

『高宗時代史』

 1892年10月には、大三輪長兵衛は交換局帮弁という最高顧問に就任して、京城の居宅に住んでいた。その居宅で、東京から出張でやってきた原敬一行を主賓として、典圜局幫弁の安駧壽、日本公使館、領事館の関係者を招いてパーティーが開かれた。末広鉄腸も招かれた。

 そこには、宮廷にも呼ばれる「官妓」が呼ばれていたが、宮中の行事の予行演習が長引いて2時間遅れで5名がやって来たという。

 

「官妓」となっているが時期は不詳
朝鮮絵葉書データベースより 

 

 1892年に仁川に新しい典圜局が建設されたが、ドイツや清との利権争いや日本内部でも大三輪長兵衛と増田信之の対立が起こり、1893年1月に朝鮮政府は典圜局を閉鎖し、同年10月に大三輪長兵衛は日本に帰国することになる。

 

◆京城から水路で仁川へ、帰国

 

 10月17日に、末広鉄腸は、原敬、永滝久吉とともに仁川に向かった。往路は陸路であったが、帰路は龍山から小型汽船で漢江を下る水路を利用した。

この当時の龍山(『朝鮮国真景』1892)
蔓草川の河口の西側、現在の元堯路4街の江辺


 当時龍山から仁川への船は、日本人所有とアメリカ人所有の2隻があり、ともに日本人の船員が運行していた。

 江華島の沿岸に設置された広城堡などの堡や鎮を目にして、1866年のフランス艦隊の侵入(丙寅洋擾)や1871年のアメリカ艦隊の侵入(辛未洋擾)について言及しているが、1875年の雲揚号事件には触れていない。


 

 10月21日、末広鉄腸は仁川から豊島丸に乗船し、23日釜山着、25日下関着、そして26日に神戸港に到着した。出発の時は、新橋から横浜へ行き、船で神戸に向かったところから始まっているが、帰路の記述は、この神戸帰着をもって終わっている。

 

(完)