関係する人物相関図
大韓帝国時代に皇室関連業務を管轄した宮内府は、1910年の韓国併合で解体され、その業務は「李王職」に移管された。
1945年、日本の敗戦で植民地統治体制は解体されたが、「李王職」は米軍政のもとでも存続した。しかし、李王の住まいとされた昌徳宮と、王族の二つの公邸(雲峴宮・寺洞宮)、それに付属する別邸や田畑、陵墓などの管轄や管理については混乱していた。
1945年11月、中国重慶にあった大韓臨時政府の要人らが帰国してくることになった時、金九の宿所として候補にあがったのが「雲峴宮」の洋館であった。使用をめぐっては「李王職」と協議が行われた。
しかし、金九が旧王族の施設の利用を嫌ったため、急遽崔昌学の別荘「竹添荘」を宿所とした。ここが「京橋莊」と改称されて1949年まで金九の私邸となり、大韓民国臨時政府庁舎、韓国独立党の本部となった。
12月に重慶から臨時政府第2陣として帰国した申翼熙は、李王職の昌徳宮旧王宮事務庁の関係者の了解を取ったとして、「雲峴宮」洋館の2階を新民同士会の事務所として使用した。さらにここに臨時政府内務部の執務室を置いた。また、臨時政府特別行動隊の司令部が置かれたり、独立促成愛国婦人会ソウル支部が置かれたりした。
申翼熙はしだいに金九と距離を置き始め、李承晩に接近した。1947年には「雲峴宮」洋館を李承晩の宿舎にするという報道が出たことがあったが、これは直ちに李承晩側が否定している。
このように、「雲峴宮」の洋館は、北緯38度線以南の独立国家樹立に向けた路線闘争の中で拠点の一つとなった。ただ、これは「雲峴宮」の所有者や居住者とは関係のないところでの動きであった。
「雲峴宮」の韓屋では、李載冕夫人、李埈鎔夫人、それに李鍝夫人朴賛珠が二人の息子とともに暮らしていた。
1948年、北緯38度線南側だけでの総選挙が近づいた2月、米軍政当局は洋館部分を使用していた韓国独立党に明け渡し命令を出した。そして、ここに選挙管理委員会が置かれた。5月に総選挙が行われ、7月に開かれた国会で李承晩が大統領に選出された。8月15日に大韓民国が樹立されることになった。
大韓民国の建国に先立って、7月に、米軍政長官のディーン少将(William F. Dean)の命令書で「雲峴宮」の所有者は李鍝の長男李清であることが確認された。その直後の8月、紫霞門外の三溪洞亭子が和信百貨店の朴興植の「興韓財団」に売却されるという記事が『東亜日報』に出ている。三溪洞亭子は、哲宗代の領議政金興根の別荘を興宣大院君が奪って石坡亭としたものである(現在の付岩洞の旧大韓航空会長宅の裏手)。さらに、12月には、それまでの負債を返済するために洋館と付属の土地を徳成女子中学校に売却したと報じられた。実際、11月30日に徳成学園が3600万ウォンで購入している(徳成女子大新聞)。
1949年2月12日合同通信配信記事「栄華も泡と消える 幻想だけを残す李王家」
一方、李鍵の公邸「寺洞宮」の方は、解放直後、いち早く売却された。1946年に朴某に600万ウォンで売り渡され、その後転売されて、1948年には分割されて売却されたと報じられている。当時、公邸の主であった李鍵自身は東京にいた。ちなみに、李鍵は1955年に日本国籍を取得して、桃山虔一となった。
「寺洞宮」の売却には、桂洞に隠居していた李鍵の父親李堈が関与したのかもしれない。
「寺洞宮」は現在は大半の建物が失われ、唯一「仁寺洞弘報館」として使われている建物だけが残っている。
大韓民国の国務会議は、1949年2月に「旧王宮財産処分法案」を承認した。1948年に「雲峴宮」の土地建物の一部が売却された後のことである
第一条 旧王宮財産は、国有とする。
本法において、旧王宮財産とは、旧韓国皇室又は義親王宮の所有に属したもので、財産として旧王宮職が管理した一切の動産及び不動産を指す。
第二条 旧王宮財産のうち、左の各号の一に該当するものは、国有として存置する。
1.重要な宮殿の建物及び敷地
2.重要な美術品、歴史的記念品又は門跡
その他永久保存を要するもの
前項各号の範囲は、大統領令で定める。
第三条 前条の規定により存置する必要のない財産は、大統領令の定めるところにより、売却し、又は貸与することができる。
第四条 旧王族の生計維持上必要な財産は、大統領令の定めるところにより、前条に規定する財産の中から王族に譲与することができる。
(後略)
旧王宮財産は全て国有と定められた。ただし、第4条で「生計維持上必要」とされる範囲は王族に譲与されるとなっている。「雲峴宮」も国有財産とされるのか、どこまで李清の私有が認められるかなど、「雲峴宮」を実質的に背負ってたつ立場にあった朴賛珠にとっては重大な関心事であっただろう。
その範囲を定める「大統領令」が出る前に朝鮮戦争が勃発した。戦争中、朴賛珠は二人の息子を連れて釜山に避難した。その避難先の釜山での出来事を、息子の李清が1991年の『東亜日報』のインタビューでこのように回想している。

インタビュー:大院君5代宗孫 李清氏
(前略)
解放後に制定された旧皇室保護法によって旧皇室の財産すべてが国有化されたが、雲峴宮だけは除外された。
「母が釜山避難時代に、政府の要人だけでなく、国会議員全員を訪ねてまわり、雲峴宮は大院君の私邸であると訴えました」
その結果、国会で、雲峴宮は旧皇室が所有していたものかどうかを問う投票まで行われ、150対8で雲峴宮は私有財産であると認められた。『東亜日報』1991.12.11
こうして、「雲峴宮」は興宣大院君の5代孫李清の個人所有だと認定された。
ところで、朴賛珠は、1940年に黄信徳が設立した京城家庭女塾を支援していた。1943年には、祖父朴泳孝の所有していた堅志町の土地を提供している。ちょうど「寺洞宮」の北側に隣接している。解放後、この学校は中央女子中学校となった。
中央女子中学校は、1948年11月に北阿峴洞の旧朝鮮総督府の林業試験場跡地(敵産・帰属財産)の払い下げを受けてここに移転した。1950年に学校法人秋渓学園(秋渓は黄信徳の号)が認可された時、初代理事長になったのは朴賛珠であった。「雲峴宮」の一部を売却した資金が帰属財産の払い下げ代金に使われた可能性もある。
1954年に京畿高校を卒業した李清は、翌年ウィスコンシン州のマーケット大学に進学した。まだ兵役に行ってない若者が多額の外貨を必要とする留学に行くのは容易なことではなかった時代である。さらに4歳年下の弟李淙も、ソウル大学を卒業後、プリンストン大学の大学院に留学している。
1968年2月12日、「雲峴宮」が日本大使館用地として売却されるとの新聞報道が出た。
この報道を手がかりに、1950年代後半から1960年にかけての「雲峴宮」の動きを追ってみたい。
借金に追われた韓末風雲の跡「雲峴宮」に日本大使館
電撃仮契約
外務部の協力で契約を急ぐ
大院君が執政した雲峴宮に在韓日本大使館が建てられる。12日雲峴宮管理所は雲峴宮裏側の土地930坪を駐韓日本大使館に1億5000万ウォンで売却することに決定し、昨年末すでに仮契約を終えたと明らかにした。
売却されるのは雲峴宮礼式場とその裏庭を合わせた930坪で、大院君が住んでいた老安堂、永宣君(李埈鎔)が居住していた二老堂、大院君の長男李載冕夫人(興親王妃)が現在住んでいる老楽堂などが一望できる場所である。
管理所は、この土地を売ることになったのは、銀行の借金4000万ウォンを返済できず、この土地が競売にかけられることになったためと説明した。
雲峴宮は牧蘭公園墓地造成費のため借り入れた第一銀行の借金4000万ウォンなど多額の借金を抱えており、利子だけでも毎月200万ウォン支払っており、この土地を売ることにしたということだ。
この土地が日本大使館に売却されたのは、昨年末に日本大使館の岩田参事官が敷地を借りに来たが、購入の意思を表明、昨年12月末に電撃的に仮契約を結ぶに至ったとのこと。
仮契約の条件では、外国人土地売買法に基づいて大使館側が政府の承諾書を受けてから本契約を結ぶことになっているが、現在日本大使館は外務省の協力を得て内務·国防·商工当局の同意を得ており、今月末頃にも本契約を結ぶべく急いでいる。
この一帯の地価は、坪当たり15万ウォンで、一億5000万ウォンと評価されている。
管理人の金澤洙氏は、「今回の土地売却が、大院君が執政した場所だということで、心ある人々にはショックかもしれないが、国内でこの土地を売ろうにも買い手が現れず、日本大使館に売ることになった」と語った。
雲峴宮ではこの土地を売却した後、4000万ウォンの銀行債務を返済し、残りは牧蘭公園墓地に投資する方針だ。
記事によれば、日本大使館用地は「雲峴宮礼式場とその裏庭を合わせた930坪」とある。
1955年から「雲峴宮」の北端の一画で「雲峴宮礼式場」が営業をしていた。
1963年、この礼式場を含む区画について、東苑映画社との間で10年間の賃貸契約が結ばれた。東苑映画社は、ここに映画スタジオと映画学院を建てる計画だった。翌年、東苑映画社は事業資金を得るため、礼式場部分を高級料亭「瀛州閣」に又貸しし、ここに料亭ができることになった。これを知った近隣住民は、料亭などとんでもないと反対運動を起こした。この騒ぎを報じた『東亜日報』に写真と地図が載せられている。
この略図をその後の地図に当てはめてみると、東苑映画社がスタジオと学校を作ろうとしていた場所は「住宅」の西側に隣接している土地(雲泥洞114-2)、その西側が雲泥洞114-8と114-37、114-38(現在は、日本文化院が入居している国源ビルとその駐車場がある)、その南側が雲泥洞114-9と114-31(現在は、金&張法律事務所のソウルビルと金承鉉家屋がある)という位置関係になる。
「雲峴宮」は、1966年に第一銀行から4000万ウォンを借り入れていた。
坡州郡臨津面にあった興宣大院君の墓を、李載冕・李埈鎔・李鍝が葬られている楊州郡和道面の墓所に移すため、楊州の墓地整備を行った。それと同時に、「雲峴観光開発株式会社」を立ち上げて、有料の公園墓地「牧蘭公園墓地」を開発して分譲する事業を始めた。
「雲峴宮」の管理人として名前が出てくる金澤洙は、李載冕の姪婿で、興宣大院君の墓地の遷葬は金澤洙が仕切っていた。しかし、雲峴観光開発株式会社設立の発起人になったのは朴賛珠である。「雲峴宮」の当主李清は、アメリカで大学を卒業した後もそのままアメリカで就職していた。
雲峴観光開発の「牧蘭公園墓地」造成資金を第一銀行から借り入れ、東苑映画社からの賃貸収入を利子の支払いに当てようとしていた。ところが、東苑映画社は1965年に経営が行き詰まって倒産してしまった。
不運は続き、1966年の12月末に李清の弟李淙が留学先のアメリカで交通事故で死亡した。
日本大使館から「雲峴宮」の一部を大使館用地として買い取りたいとの話が持ち込まれたのは、この翌年のことである。
1965年の日韓条約締結で日韓間に外交関係が樹立されたものの、ソウルの日本大使館用地の取得は難航した。日韓会談の終盤から連絡事務所が置かれた半島ホテルの5階にとりあえずの大使館を開いたが、ホテル外で大使館用地を探した。しかし、植民地支配が終わって20年しか経たないなかで、ソウル中心部に日本大使館用地を求めるのは容易ではなかった。
1967年10月、国際ホテルを経営する車駿九が所有する南山南麓(現在の南山1号トンネルの漢南洞側出口の上の区画)が日本大使館敷地として売却されるという記事が出た。
『京郷新聞』1967.10.04
しかし、南山といえば、北麓一帯が日本による侵略の本拠地だったのであり、京城神社や朝鮮神宮のイメージも根強く残っていた。たとえ漢南洞側とはいえ南山に日本大使館ができることへの反発の声が高まった。
ちょうどこのタイミングで、日本大使館は「雲峴宮」の礼式場跡地のことを知ったのであろう。「雲峴宮」側は、東苑映画社の倒産で、第一銀行の抵当権が設定されていたこの土地が競売にかけられるところまで追い込まれていた。水面下で交渉が進み、1967年末には仮契約を済ませ、外国人・機関が韓国内で土地を購入するための手続きにも着手した。
ところが、「雲峴宮」に日本大使館が建てられるという記事が2月12日に新聞で報じられると、各種社会団体が抗議声明を出し、新聞各紙も反対の社説を掲載した。このため、2月15日に内務部は「外国人土地法」で求められている政府承認を与えないことを表明した。
「雲峴宮」は、日本大使館への土地売却を断念せざるを得なくなった。
一方、日本大使館は、その後すぐに別の土地の購入に動いた。4月初めには、極東海運の南宮録が中学洞に所有していた770坪の土地の購入契約を結び、内務部もこれを承認したのである。現在は更地になっているが、いまも日本大使館が所有している敷地である。
2015年に建替えのため取り壊された日本大使館
日本大使館への売却が不調に終わったことで、第一銀行の抵当権が設定されていた「雲峴宮」北側の区画は、結局競売にかけられたのではないかと思われる。
雲泥洞114-9、114-31を金承鉉が取得したのが1968年9月7日。雲泥洞114-8、114-37、114-38を趙源貞が取得したのも1968年9月7日。同じ日付になっている。
雲泥洞114-2には、1969年11月17日にTBC(東洋放送)の雲峴スタジオがオープンしている。東苑映画社が建てかけていた建物が転用されたと考えられる。ここも、同じ時期に売却されたのではなかろうか。その後、1980年に全斗煥によるメディア統廃合でTBCがKBSに強制併合された時に、系列の中央日報社に所有権が移されたのであろう。
雲泥洞114-9、114-31を所有した金承鉉は、初代大統領李承晩の主治医だった人物である。雲泥洞114-31の韓屋は「雲峴宮」内の建物を解体した建材を用いて再建築したもので、ソウル市民俗文化財19号に指定されている。韓屋の西側114-9のビルは、金承鉉の3男金永珷が設立に加わった金&張法律事務所のオフィスとして使われたソウルビルである。
その北側、雲泥洞114-8、114-37、114-38は、在日韓国人の趙源貞が所有した。現在は子息が相続している。1974年ここに国源ビルが建てられた。
日本大使館は、1970年1月に中学洞に本館が完成したが、大使館外に日本文化院を開設しようとしていた。しかし、「日本の文化侵略」を警戒する世論を考慮して、1971年7月に鍾路警察署の向かい側のガールスカウトのビルに日本大使館の文化広報館室をオープンさせた。そして、1974年に落成した国源ビルのオーナー趙源貞と賃貸契約を結んで、1975年に日本大使館文化広報官室をここに移転させた。1980年代の前半、「日本文化院」という呼び方が一般的になっていって、いつの間にか地下鉄の案内板なども「日本文化院」と表記されるようになっていた。
「雲峴宮」の当主の李清は、1969年に韓国に帰国した。橋梁設計の専門家として科学技術処が帰国を勧めて、国内企業に勤務したとのこと。しかし、その後1975年に再び渡米した。
1990年に韓国に帰国して、ソウル市に「雲峴宮」の売却を申し出た。ソウル市当局は、110億ウォンで購入して10億ウォンを投入して「雲峴宮」の復元計画を立てた。しかし、ソウル市議会では反対論、慎重論が強く、一旦は保留されたが、1992年になって買い入れが決定された。
朴賛珠は、北阿峴洞に邸宅を購入して李清夫妻と暮らしていたが、1995年7月13日に死去した。遺体は「牧蘭公園墓地」に隣接する「雲峴宮墓地」に埋葬された。
そして、復元された「雲峴宮」は1996年10月25日に公開された。







































