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一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

 横浜の本牧に「三溪園」という庭園がある。「三溪園」は、横浜の実業家原富太郎(三溪)によって1902年頃から造成が始められた個人の庭園で、早くから一部が一般にも開放されていた。戦後、1953年に原家から横浜市に寄贈されて一般公開され、2006年には国の名勝にも指定された。

 原富太郎は、先代の原善三郎の孫屋寿やすと結婚して原家の家督を継ぎ、個人商店を原合名会社へと改組し、生糸輸出や富岡製糸場の経営などで横浜を代表する実業家の一人となった。

 

 佐藤虎次郎は、1864年に埼玉の本泉村(現本庄市)の茂木家に生まれ、原善三郎のもとで貿易の実務を学んだ。1885にアメリカに渡って1890年にミシガン州立大学を卒業し、帰国後、和歌山の佐藤長右衛門の娘おくと結婚して佐藤家の養子となり、和歌山に移り住んだ。1893年にオーストラリアのクイーンズランド州の木曜島に渡り真珠採取業で成功を収めた。この時に、外務大臣陸奥宗光の依頼でオーストラリアでの移民調査を行なっている。しかし、日清戦争後、日本人への風当たりが強まって移民制限法が制定されたため、やむなく帰国した。
 帰国後は「横浜毎夕新聞」の経営を引き受け、「横浜貿易新聞」と合併して「横浜新報」を横浜の有力紙にするなど言論人として活動する一方、1903年の衆議院選挙に群馬県から立候補して当選した。ところが1909年に大日本製糖に絡んだ事件で収賄容疑で逮捕されて議員を失職した。その後、原富太郎の後押しで横浜からもう一度出馬したが落選している。

(吉良芳恵『横浜ジャーナリスト列伝 佐藤虎次郎」横浜開港資料館『開港のひろば』第37号1993年4月)

 

 上掲の記事に「数奇な一生」とあるのは、佐藤虎次郎は朝鮮総督斎藤実と間違われて襲われ、その時の傷が命取りになったからである。1926年、大韓帝国最後の皇帝純宗の弔問で昌徳宮に行った帰りに刃物で刺されて重傷を負った(金虎門事件)。この時の傷がもとで2年後に死亡した。

 ちなみに、大平正芳・中曽根康弘内閣のブレーンを務めた東大教授佐藤誠三郎は、この佐藤虎次郎の孫である。

下段の写真の左側が佐藤虎次郎


 

 1909年の議員失職を契機に、佐藤虎次郎は朝鮮に渡って土地・山林事業を始めた。その資金を提供したのは原富太郎であり、二人は朝鮮での土地・山林取得に積極的に関与していった。その最初の拠点になったのが、吉野町と三坂通,、すなわち現在の厚岩洞である。

 

 藤本實也の『原三渓翁伝』(三溪園保勝会 2009年)に、朝鮮での事業に関する記述がある。『原三渓翁伝』は、戦時中に藤本實也がまとめていた未発表の原稿を、2009年になって書籍として刊行したものである。

 

 この『原三渓翁伝』の「第9章 蚕糸業外の関係事業」の第4節に「朝鮮農林株式会社」に関する記述がある。

 朝鮮農林株式会社は三溪翁が予て朝鮮の土地が頗る廉価で将来朝鮮発展と共に価値の昂騰を期待して土地買収に指を染めたものである。これより先き横浜に永くゐて横浜貿易新聞を主宰し後代議士となつた佐藤虎次郎氏は、昔、先代の原家に事へ、後三溪翁の知遇を得てゐたが朝鮮に渉り事業を起さんと心懸けてゐたので仕事をさせたいと云ふ考もあつたものである。

 初め朝鮮人万玉なるものが京城の郊外に土地を纏めて所有したが、これを売りたいと云ふので買収して大正元年四月一日三溪翁は中村房次郎、市原盛宏、佐藤虎次郎の三氏と共に匿名組合を組織し、京城府吉野町、三坂通等京城府内に於ける宅地七千五百坪、同地上家屋及京畿道、坡前郡全村農地十三万坪を所有し、土地家屋及び農事経営に着手することとなつた。

 中村房次郎は、増田嘉兵衛の二男で中村初太郎の養子となったが、増田商店の実務を取り仕切って、横浜の実業界の実力者になった人物である。市原盛宏は、同志社からエール大学に留学して日本銀行に入行し、その後第一銀行に移り横浜支店長となった。1903年には横浜市長に就任している。1906年に第一銀行韓国支店の総支配人となり、韓国併合後はそのまま横滑りして朝鮮銀行の初代総裁となった。

 原富太郎、中村房次郎は横浜在住であり、佐藤虎次郎も市原盛宏も横浜と縁があった。この時に吉野町、三坂通などの土地を取得した匿名組合の4人は横浜つながりである。

 

 『原三渓翁伝』には、「朝鮮人万玉なるものが京城の郊外に土地を纏めて所有した」とある。朝鮮の姓に「マン」という姓は存在する。地主になるような有力者にしては珍しい姓だが、「マン・オク」については何の手がかりもなかった。

 

 ところが、イ・ギョンア編『京城の住宅地』(ジップ 2019)を読んでいたら、次のような記述があった。

(1927年に発刊された京城府管内の地籍台帳で)三坂通244番地、248番地、249番地の1917年の所有者は、萬玉啓二という日本人と、権鎬辰という朝鮮人だった。

 「万玉」という日本人の苗字が珍しいものだったので、藤本實也はこれを朝鮮人の姓名と判断したのであろう。

 萬玉啓二については、朝鮮総督府官報にその名前が出てくる。

 

 

 1912年4月に、原富太郎、中村房次郎、市原盛宏、そして佐藤虎次郎が入手したのは、「朝鮮人万玉」の所有したものではなく、日本人の萬玉啓二が所有していた土地・建物であった。

 

 萬玉啓二は、1914年に仁川学校組合に200円の寄付をしている。仁川で発行されていた『朝鮮新報』に、苗字が同じ萬玉岩吉が、仁川居留民団の議員、高額納税者として名前が挙がっている。『群山開港史』には「仁川の萬玉商店」と出てくる。萬玉啓二は、萬玉岩吉と姻戚関係にある仁川在住の資産家だったと思われる。

 

 ではなぜ、仁川在住の日本人が、南大門外の土地を所有していて、それを1912年に手放すことになったのか。この吉野町・三坂通一帯は、その後日本人の住宅地として広範囲に開発されるところだけに、その初期における日本人の土地取得として注目される。その背景を探ってみたい。

 

 1907年の『最新京城全図』(日韓書房)を見ると、南大門の外側、南大門停車場の前に仁川の『朝鮮新報』の京城支局が置かれていたことがわかる。日韓図書印刷の工場と精米所が記載されている。その東側が吉野町、吉野町の南側が三坂通で、ここに仁川の萬玉啓二の所有する土地があった。

 ちなみに、仁川の新聞だった『朝鮮新報』は1908年に『朝鮮新聞』と改題して京城に拠点を移し、『京城日報』に対抗する有力日本語新聞になっている。ただ、この時にはまだ南大門の外に支局が置かれていただけだった。

1907年『最新京城全図』(日韓書房)

 

 その北側に「崇礼門 一名南大門」が描かれている。城壁で囲まれた漢陽は、城壁の門が夜になると閉じられて内外の通行が禁じられた。夜の9時前後に鍾閣の鐘が「人定インジョン」を告げると閉門し、明け方の4時前後に鳴らされる「罷漏パル」で門が開かれた。1890年代の南大門の朝の様子をエミール・マーテルはこのように描写している。

仁川と京城の間に未だ鐡道が開通してゐなかつた頃は郵便は勿論旅行者の交通は皆小さな朝鮮馬によつてゐた。そこで早朝南大門から城内に殺到する馬は二千、三千といふ夥しい數に上つた。當時南大門は夜間閉鎖してゐたので夜明の開門を待って我先にと市内に入つたわけである。定刻二、三時間も前から待ってゐて先を爭ふので毎日喧嘩の絶間がなかつた。いざ開門といふ時は全く怒濤のやうな勢で馬・牛・人間・荷物が一時に折重なつてなだれこんだ。 

『京城府史』第2巻 297ページ
「外人の見
たる朝鮮外交秘話」

 1898年には、「人定」「罷漏」の打鐘は停止されて夜間の通行禁止はなくなった。

 そして、1900年には、京仁鉄道が全線開通して、西大門の外側(現在の柳寛順ユグァンスン記念館と梨花イファ女子高の敷地)に建設された京城駅と仁川が汽車でつながった。この時、南大門の外にも南大門停車場が置かれた。1915年にはこちらが京城駅となり、西大門の駅は1919年になって廃駅となった。

 

 仁川と京城城外の停車場が鉄道で結ばれてからも、南大門は依然として城内への通行のネックとなっていた。仁川から京城に向かう日本人も南大門で待機を余儀なくされることも多く、南大門外では日本人向けの旅館なども営業していた。仁川の朝鮮新報が支局を南大門の外に置いたのは、仁川との連携の便宜を考慮してのことだったのだろう。すなわち、仁川の日本人からすると、この南大門の外側は京城へのアクセスの足掛かりだったと考えられる。

 

南大門(1904年の消印の絵葉書)両側に城壁があり、電車も門の中を通っていた。

 

 1907年、ハーグ密使事件が起こり、伊藤博文は高宗皇帝を退位させて皇太子坧(後の純宗)を皇帝に即位させた。即位に合わせて、10月に日本から皇太子嘉仁(後の大正天皇)が韓国を訪問した。嘉仁は仁川まで軍艦で渡り、京仁鉄道を使って南大門停車場で下車した。このとき、日本の皇太子の移動の便宜のため、南大門の両側の城壁を急遽取り壊して南大門通りの道路を門の横に拡張した。予定外の工事経費2万2千円余りは韓国政府の予備費から支出されている。

南大門(1910年の消印の絵葉書)

 

 この城壁の撤去で、南大門停車場周辺地域など南大門門外から城内へのアクセスは格段に良くなった。ただ、南大門は道路の真ん中に取り残された門となった。

 

1914年「京城府明細新地図」(京城日報社)

 

 仁川の萬玉啓二が、朝鮮新報支局の背後側の三坂通(現在の厚岩洞)の土地を、いつ入手したのかはわからない。ただ、仁川在住の日本人の視点からは、南大門の外側は上述のような事情から、確保しておいて損はない場所であった。仁川につながる南大門停車場が設置され、さらに、南大門の両側の城壁が撤去されて道路が拡張されると、吉野町・三坂通の土地は地価上昇が見込める投資物件ということになった。

 

 1900年頃の韓国での土地の売買については、京城の日本領事館で勤務した信夫淳平が『韓半島』(東京堂 1901)にこのように書いている。

 

爰に附記して讀者の注意を乞ふべきは他なし、韓國にては地所は家屋に從屬すること是れなり。 
隨つて韓人より一家屋を買取らば、其土地の所有權も亦明約を俟たず家屋の所有權と共に移轉するなり。獨り家屋の存在する其土地に於てのみ然るにあらずして、例へば畑地若くは空地の場合に於ても、概して其附近の家屋を買收すると共に移るなり。故に地所若くは家屋のみの特立せる賣買に稀に其例を見るに過きざること本邦と頗る其趣を異にす。
京城内の宅地にては家券なるものあり。賣主證人及び家證等之れに署名し漢城府の證印を求めて之れを賣買の證となす。去れど京城以外には家券なく、唯其賣渡證書に田宅持主保證人等連署畫押し、其田宅に關係ある古文書あらば之れを添附して買主に交付するに過きず。家券なるものは明治二十七年五月の創設に係る。此設制ありて以來、幾分か古來地所家屋の賣買に伴ふ弊風をば洗滌するに至りしと雖も、而も尚ほ且つ韓國には未だ登記の方法あらざるが故に、時ありてか一家屋に数葉の家券若くは家券類似の證書現はれ、隨つて賣買当事者間の紛議となるが如きの例、往々にして是れあるを見るなり。 

 上掲の『最新京城全図』(1907)は、厳密に人家を描いた地図ではないが、Bの場所には1920年前後まで朝鮮人の共同墓地があったことがわかっている。萬玉啓二がAあたりの家屋を入手することでその南側の土地のBもしくはその東側(244番地)の土地の所有権を得たとも考えられる。

 

 

後に、佐藤虎次郎の居宅があった吉野町1丁目38番地の地番の土地が周囲に比べて広いこと、また三坂通244番地も同一地番で非常に広い区画を占めている。そのようなことも、土地入手の経緯と何か関連性がありそうな気がしてくる。

 

 

 この吉野町1丁目38番地と三坂通244番地は、1910年4月に、原富太郎、中村房次郎、佐藤虎次郎、市原盛宏が萬玉啓二から買い取った土地であろう。

 

 『原三渓翁伝』の「第4節 朝鮮農林株式会社」には、その後の展開について次のような記述がある。

 大正三年六月一日に至り、原合名会社を母体として原拓植部を京城府に設け、京城府外狎鴎亭里(旧朴泳孝別荘所在地)盤浦里附近の農地十三万坪を主体とし、京城府内三坂通普光里梨泰院里東氷庫里方面等南(ママ)門外より緑地南山を廻り漢江の清流に沿へる形勝地帯を併せ約十五万坪を所有し、農地及び果樹の経営に着手した。
 大正七年四月二十二日に至り前記の匿名組合并に(ママ)拓植部の経営体を買収し、資本金参拾万円の朝鮮農林株式会社を創立し、京城府龍山区三坂通二四四番地の一一(ママ)に本社を置き、現業地は住宅地経営は京城府及び仁川府内并にその近郊に、山林経営は全羅南道長興郡、慶尚北道青松郡に、農業経営は全羅南道長興郡に夫れぞれ事業を拡げた。創立当時の重役は、
 取締役社長 西郷健雄
 取締役 佐藤虎次郎 同 原太三郎

 同 岡野哲策 同 原菊蔵

 監査役 中村房次郎 同 原善一郎
の諸氏であつた。その後大正十年九月、中村房次郎氏の持株を譲受けて原家単独の経営となつた。

 原富太郎の原拓植部が、1914年に漢江の北側および南側の土地を広範囲にわたって「所有」したとしている。 これらの土地取得は現地にいた佐藤虎次郎が全て行った。この時期は、土地調査事業が行われていた最中で、登記制度が確立されておらず地籍台帳も不正確であった。1927年の京城府管内の地籍台帳で三坂通244番地の1917年の所有者が萬玉啓二になっていたのもその一例である。

 信夫淳平が書き残したような「例へば畑地若くは空地の場合に於ても、概して其附近の家屋を買收すると共に移るなり」という土地取引の慣習が残っていて、その慣習を利用して広大な農地が原拓植部の所有になったものとも考えられる。例えば、狎鴎亭里の朴泳孝別荘を買い入れることによって、その周辺の農地が原拓植部の所有地になったといった推測が成り立つ。そうでなければ、これらの広大な土地の所有権が一気に転がり込んでくるということはないだろう。

 

 この翌年、1915年の10月に朝鮮銀行の現職の総裁だった市原盛宏が急死した。市原盛宏は上述のように原富太郎、中村房次郎、佐藤虎次郎とともに匿名組合のメンバーで、三坂通の土地所有に関わっていた。その持ち分は、遺家族に相続されたのであろう。

 

 1918年に匿名組合と原拓植部を買収する形で朝鮮農林株式会社が設立され、その本社が三坂通244-2(『原三渓翁伝』では「一一」となっているが正しくは二)に置かれた。朝鮮農林の社長西郷健雄は原富太郎の娘婿で、実際の経営は佐藤虎次郎が行っていた。

 

 この株式会社化のときに、匿名組合の中村房次郎の持ち分は株式化され、その株を1921年に中村房次郎が会社側に譲渡している。

 1915年に死去した市原盛宏の持ち分については、どのように処理されたかは不明である。ただ、1920年代に入って朝鮮銀行の社宅が三坂通244と247に建設されている。そのことから推測すると、匿名組合の市原盛宏の持ち分は遺家族に相続された後、朝鮮銀行に譲渡もしくは売却されたと考えられる。朝鮮銀行が、宅地としては開発途上の三坂通で大規模な社宅建設を行なったのは、そうした背景があったからであろう。

 

「京城精密地図」(1933)

 


 

 三坂通と、それに隣接する岡崎町、日本軍の練兵場の跡地である練兵町などで住宅建設が始まるのは、朝鮮銀行の社宅が建設されるのとほぼ同時期、1920年代に入ってからのことである。

 

家屋建築状況
住宅難緩和か
(略)
 龍山管內 大正十年中の建築は新築三百七十三棟、改築三十二棟、増築百二十七棟を数えるが、その中でも練兵町の新築が最も盛んでその数が二百戸以上に達し、新たに一市街を形成するに至っている。今春以来、建築はさらに一層活況を呈しており、新築家屋中で最も多くを占めるのは練兵町の百七八十戸、岡崎町 (岡崎橋梁溝渠沿道)の五六十戸である。三坂通の建築も少なくなく、同方面では目下工事中の家屋が非常に多く、三好氏の四戸建て六棟、朝鮮農林会社の貸地上の八棟約十戸、同社の貸家でもう少しで完成する商店が二棟九戸などがその主要なものである。

 ここに名前が挙がっている「三好氏」とは三好和三郎のことである。上掲の1933年の「京城精密地図」の三坂通周辺の地図に「三好和所有地」「三好和分譲地」「三好和借地」とあるように、1920年代から三坂通の宅地開発、借地・借家で大きな利益をあげた人物である。

 

 また、朝鮮で一番との評判だった清酒「金千代」の酒造業などで財を築いた齋藤久太郎も、三坂通101番地に広大な敷地を所有していて、ここに製糸絹織物工場と大邸宅を建てている。1917年に朝鮮人の共同墓地を潰して工場と宿舎、邸宅を建てた。その後、工場の跡地に金千代会館を建て、その建物は解放後も韓国の国防省・兵務庁として使用された。現在の厚岩洞ブラウンストーン南山アパートとライフミジュアパートのある場所である。

 

 三好和三郎は1899年2月仁川に渡って精米業を始め、その後京城に進出して不動産業に転じた。日本軍の朝鮮語通訳だった齋藤久太郎も、1896年に日本から籾摺機5台を輸入して仁川で始めた精米業から朝鮮での事業をスタートさせた。萬玉啓二と同時代に仁川から朝鮮での事業を始めている。朝鮮農林の佐藤虎次郎が1912年に朝鮮での土地事業に参入し、萬玉啓二の三坂通の土地を買い入れたことで、横浜の原合名会社の記録に土地の取得経緯が書き残された。これを手がかりに、同時代の資料を重ね合わせることで、吉野町・三坂通の土地入手のプロセスが見えてきた。

 

 三坂通の土地を所有した三好和三郎や齋藤久太郎の場合も、萬玉啓二と同じように土地を入手したのであろう。「畑地若くは空地の場合に於ても、概して其附近の家屋を買收すると共に移るなり」と信夫淳平が書き残した土地取引の慣習に乗っかって、その土地の使用者や関係者(埋葬者の縁故者など)が知らぬうちに日本人の土地になっていたものと考えられる。

 

 つまり、「近代的な土地所有の確立」などと言っている一方で、「現地の慣習」を逆手にとって土地を自分たちのものにしていった。そんなことだったように思えるのだが。

 

 1966年に雲峴宮ウニョングン朴賛珠パクチャンジュが「雲峴観光開発株式会社」を立ち上げて、楊州ヤンジュ郡(当時)に「モラン(牧蘭)公園墓地」を造成する事業に乗り出したことは、雲峴宮のブログ朴泳孝の墓のブログですでに触れた。

 

 KakaoMapのスカイビューで見ると、このモラン公園墓地の北東側に「民族民主烈士墓域」と表示されている一角がある。

 


 この墓域には、ソウルの平和市場ピョンファシジャンの労働者で、劣悪な労働環境を改善しようと闘い、1970年に抗議の焼身自殺をした全泰壹チョンテイルの墓所がある。そして、1980年代、90年代の労働運動や学生運動、労働災害で犠牲になった人々、それを支援して闘った人々の墓がある。

 

全泰壹の墓所

 

 重篤な火傷を負った全泰壹は、治療のため聖母ソンモ病院に運ばれたが、11月13日にここで亡くなった。全泰壹の母李小善イソソンは、息子が命をかけて求めた労働環境改善の見込みが何らない中で息子を連れ帰ることはできないとして、霊安室の遺体の引き取りを拒んだ。

 

 一方、労働運動が高まることを懸念した朴正煕パクチョンヒ政権は、早期に葬儀を行い、ソウルから離れた場所に埋葬するよう圧力をかけた。

 結局、11月18日に倉峴チャンヒョンルーテル教会で葬儀が行われた。新聞は、「今後も労働環境改善の行方を見守る」とする李小善のコメントとともにこれを報じた。

 

 モラン公園墓地に全泰壹が埋葬されることになったのは、この墓地を運営する韓国公園開発の社長が朴正煕政権と近かった金詩宗キムシジョンだったからであろう。朴賛珠の共同経営者だった金詩宗は、後に維新体制下で朴正煕独裁を支える「統一主体国民会議」の議員になっている。

 

 全泰壹の1周忌追悼式の写真が残っている。全泰壹の墓は当初は、墓石が一つ立っているだけの質素なものであった。

 

 

 朴正煕の独裁体制が強まる中で、その後の全泰壹追悼行事は、墓地ではなくソウル市内のキリスト教関係の施設などで行われていた。

 1979年10月に朴正煕独裁体制は終わりを告げたが、新たな独裁者全斗煥チョンドゥファンが登場した。

 

 そうした中で、1984年には、全泰壹14周忌の追悼集会はモラン公園墓地で開催された。

 追悼式を伝える記事の前後には、光州事件の真相究明を求める学生運動関連の記事が掲載されている。学生運動が、次第に労働運動や市民運動との連携を深めていた頃である。

 

 そして、翌1985年11月18日の『東亜日報』の紙面には、大統領全斗煥の与党民正党ミンジョンダンの研修院を学生が占拠したことを報じる記事の下に、モラン公園墓地の全泰壹の墓前で400名余りが参席した追悼集会の記事が掲載されている。

 

 

 この時期、モラン公園墓地の墓地としての位置付けも以前とは大きく変わっていた。

 

 新聞に報じられる「訃音」欄(死亡記事)の掲載件数からすると、日本の植民地支配下で墓地として開発された忘憂里マンウリの墓地が、1960年代の終わりくらいで埋葬の上限に達した。モラン公園墓地への埋葬は1970年代から80年代にかけて増えていった。

 

NAVER Newslibraryで「망우리 부음」「모란 부음」で検索したもの

 

 ただ、1980年代後半になると、モラン公園墓地のスペースも限界に近づいてきたこともあり、埋葬も減少している。

 

 1987年の「民主化宣言」以降、労働運動や学生運動で亡くなった人々が埋葬されている一角に注目が集まるようになった。

 そのきっかけの一つは、1989年3月の朴鍾哲パクジョンチョルの招魂葬とモラン公園墓地での埋葬式であった。

 

 1987年1月14日、下宿先から治安本部に連行され取り調べを受けていたソウル大生朴鍾哲が水拷問を受けて死亡した。死因を隠蔽するため、朴鍾哲の遺体は1月16日朝に碧蹄ピョクジェ火葬場(現ソウル市立昇華院スンファウォン)で火葬され、臨津江イムジンガンに散骨された。

 この事件は、その後5月にかけて次第に全貌が明らかとなり、6月の民主化抗争へと繋がっていく。映画「1987」にはその経緯が描かれている。

 

 この朴鍾哲の追悼の意味で、1989年に改めてモラン公園墓地で埋葬式が行われたのである。

 

朴鍾哲烈士、招魂葬に遺族など約1千人が出席
ハンギョレ 1989.03.04

 1987年1月に南営洞ナミョンドンの対共分室で拷問によって亡くなった朴鍾哲氏の招魂葬が民主烈士朴鍾哲招魂葬委員会(委員長白基完ペクキワン)主催で、3日午後12時45分にソウル大アクロポリス広場で朴鍾哲氏の家族と在野人士・学生・市民など1000人余りが参加した中で開かれた。
 市民・学生らはこの日、招魂葬を終え、棺を載せた霊柩車を先頭に路上葬をおこなおうと南営洞対共分室に向かったが、警察の阻止線に阻まれ、大学正門前と奉天ポンチョン交差点で3時間半にわたって対峙した。その後、奉天交差点で略式の路上葬を行い、19時ごろに埋葬地である京畿道楊州郡のモラン公園へ出発、夜遅く埋葬式を行った。

 

 この年の6月には、『朝鮮日報』が「民主烈士墓地」について記事を書いている。

新しい「民主烈士墓地」と位置づけ
「第2の望月洞マンウォルドン」モラン公園墓地
全泰壹チョンテイル氏、朴鍾哲パクチョンチョル君ら11人が現在埋葬さる

◆南楊州郡磨石里マソンニに所在
 京畿道南楊州郡和道面磨石里モラン公園墓地内には、数年の間に「民主烈士墓地」と呼ばれる小さな墓地が造られつつある。
1970年11月13日に「労働基準法を遵守せよ」と叫んで焼身自殺したソウル清渓チョンゲ被服商街の全泰壹氏(当時22歳)がこの地に葬られて以来、亡くなった学生や労働者が相次いでここに葬られているためだ。
全泰壹氏の後、モラン公園に埋葬されたのは、1986年3月に賃上げなどを要求して焼身自殺したソウル新興精密シヌンチョンミルの労働者朴永鎮パギョンジン氏(当時27歳)と、1987年1月に南営洞治安本部対共分室で水拷問を受けて死亡したソウル大生の朴鍾哲君(当時21歳)ら計11人。
 彼らの墓はモラン公園入口から右に100mほど登った「特3地区」に集まっており、誰かの墓にお参りに来た人も、他の「民主烈士」の墓も一緒にお参りして行くと公園管理事務所職員は語る。休日には、大学生や労働者などの若者が10数名ずつ墓地を訪れるという。墓園の管理人南渠ナムゴ氏(46)は、「最近は特3地区にはもう空きスペースがないのだが、遺族や在野団体が繰り返し求めてくるので、なんとかやりくりしてスペースを提供している」と述べ、「ここが徐々に第2の望月洞になっていく感じ」だと語った。
 全泰壹氏の墓は、以前は名前だけが刻まれた小さな墓碑だけだったが、昨年11月に清渓被服労組で碑石を新たに作った。「時が経つにつれていっそう生き生きと蘇る死があり、ここにひとつの石を立てる…。」という碑文は趙英来チョヨンネ弁護士が詠み、書道家の張日淳チャンイルスン氏の文字を刻んだ。
◆水銀中毒死の文松勉ムンソンミョン君も
 朴鍾哲君の墓が作られたのは3月3日、朴君の遺体は死亡当時火葬され臨津江イムジンガンの支流に撒かれたが、朴君追悼事業会(会長文益煥ムンイッカン牧師)が臨津江のほとりの土を掘って招魂葬を行い、墓をここにたてた。遺族は、臨津江の土とともに、朴君が着ていたセーターやマフラーなどの遺品、「君よ、全身を旗として」と題した追悼集1冊を一緒に埋めた。
 最近は先月4日、「労組支部独立」などを要求して焼身自殺した九老クロ工業団地内の曙光ソグァンの労働者金鍾守キムジョンス氏(25)と、同月24日にソウル城東ソンドン華陽ファヤン洞のヨンジョン機械の作業場で労災事故で死亡したソウル大学物理学科の除籍生趙正植チョジョンシク氏(25)が、ここに埋葬された。
 また昨年7月水銀中毒で死亡したソウル永登浦区楊平洞の協成計工ヒョプソンケゴンの労働者文松勉君(当時15歳)、同年焼身した崇実スンシル大学生朴来佺パクネジョン君(当時25歳、国文科3年)と江原カンウォン太白テベク市炭鉱労働者ソンワンヒさん、同年、それぞれ学生運動と偽装スト撤廃闘争を繰り広げて亡くなった延世ヨンセ大学生ジョンヒ君と、仁川インチョン世昌セチャン物産労組員ソンチョルスンさんなどがここに葬られている。
 これ以外にも、73年10月に中央情報部で調査を受けていて死亡したソウル大学法学部の崔鍾吉チェジョンギル教授の墓もここに作られている。
 今月6日午後には崇実大学生約250人が朴来佺君の1周忌を迎えて参拝し、今年7月2日には人道主義実践医師協議会など在野団体の会員が文松勉君1周忌追慕祭をここで行う予定だ。
 崇実大生の朴来佺君の母金根順キムグンスンさん(58)は「どのみち行くところに行ってしまった息子だが、同じような境遇の人たちが集まっているから寂しくないはず」とし「命日になれば民主化運動遺族協議会の会員たちが集って、一緒に公園に行く」と語った。
◆入り口の右側に位置
 モラン公園墓地は、66年に造成された私設共同墓地で、現在約20万坪の広さに約1万1,500の墓地が造成されており、このうち「民主烈士墓域」は、一般墓地1,000基あまりが集まっている入口右側に位置している。
 全泰壹追悼事業会運営委員長の閔鍾德ミンジョンドク氏(37、全清渓被服労組委員長)は、「光州の望月洞墓地は狭くて空きスペースがなく、故人が生前に全泰壹烈士を尊敬し、そのそばに埋めて欲しいと願っていたため、このように一ヶ所に集まることになった」とし、「追慕事業会同士が集まって追慕祭を共同で行う案も論議している」と語った。

 

 1991年に、暻園キョンウォン大の千世容チョンセヨン西江ソガン大で全民連社会部長金基卨キムギソルが焼身自殺し、モラン公園墓地に埋葬された。この時に『ハンギョレ新聞』や『東亜日報』も「民主化の聖地」「民主聖域」としてこの墓地のことを取り上げている。

 

 

 

 

民主烈士追悼碑

 

 

朴鍾哲墓所

 

 延世大生李韓烈の葬儀で弔辞を読んだ文益煥ムンイッカンの墓もここにある。

 

 

 


 このモラン公園墓地の「民主烈士墓域」は、意図的に墓域を確保したものではなく、労働運動や学生運動、民主化運動に関わった人々が埋葬されることによって自然発生的に形成されていったものである。

 

 興宣大院君が葬られている広大な墓所に隣接している公園墓地に、朴泳孝とその一族の墓があり、朴正煕時代、全斗煥時代の有力者もここに埋葬されている。1970年に、労働運動から切り離そうとここに埋葬した全泰壹の墓所を中心に、1990年前後から「民主烈士」の墓域となったわけである。
 ある意味、韓国の近現代史の縮図ともいうべき場所であろう。

 雲峴宮ウニョングンの2回目のブログで、1966年に朴賛珠パクチャンジュが「雲峴観光開発株式会社」を立ち上げて、楊州ヤンジュ郡で「牧蘭公園墓地」を造成する事業に乗り出したことに触れた。そのブログはこちら

 

 「牧蘭」は、『朝鮮語辞典』(189コマ)に「牧丹⇨牡丹(모란)に同じ」とあるので、「牧蘭」も音は「モラン」である(以下モランと表記する)。

お墓も近代化か
有料公園墓地計画

◇我が国初の公園墓地ができるようだ。雲峴観光開発株式会社(発起人代表=王孫李鍝イウ公の未亡人朴賛珠女史と金詩宗キムシジョン氏)という個人会社で京畿キョンギ道楊州郡和道ファド文案山ムンアンサン牧蘭峰モランボンに私設の有料の牧蘭公園墓地を作るという。大院君テウォングンが眠っている牧蘭峰を中心にして100万坪の山野を墓地兼公園に造成、一般市民の休息の場ともなり墓地としても使用されるという。

 1966年、坡州パジュにあった興宣フンソン大院君の墓所を、李載冕イジェミョン李埈鎔イジュニョン李鍝イウが葬られていた南楊州の墓域に移すことになった。この時に、雲峴宮の4代目当主で広島で被爆死した李鍝の未亡人朴賛珠が、大院君一家の墓域の外側をモラン公園墓地として造成する事業を始めた。

 朴賛珠は、開化期の急進改革派の一人朴泳孝パクヨンヒョの孫である。

 

 そして、もう一人この墓地造成事業に加わったのが金詩宗である。

 

 金詩宗は、どのようにしてこの事業に関わってきたのかわからないが、1968年10月に「韓国公園開発株式会社社長」の肩書きで『毎日経済新聞』を訪問している。

 この1968年初め、「雲峴宮」が仮契約までしていた日本大使館への用地売却が白紙化され、9月に「雲峴宮」の北側の敷地が競売にかけられた。

 

 その後、モラン公園墓地の販売が始まるのだが、そこでは「雲峴観光開発」の名前は消え、「韓国公園開発」の名前で売りに出されている。

 

 

 金詩宗は、1972年からの維新体制下で朴正煕独裁を支える「統一主体国民会議」の議員になっており、朴正煕政権とは近い関係にあった若手実業家だったと思われる。ところが、1973年に首都警備司令官尹必鏞ユンピルヨンの業務上横領事件に関係して有罪判決を受けた。

 

 上掲図のように、朴賛珠には朴賛汎パクチャンボム朴賛益パクチャンイクの二人の弟がいた。下の弟朴賛益は立教大学を卒業後、外務部に入り、その後「モラン公園墓地の代表を勤めた」とある(姜健栄『開化派リーダーたちの日本亡命 : 金玉均・朴泳孝・徐載弼の足跡を辿る』朱鳥社 2006)。朴賛益は、1920年生まれで、1961年に在日韓国代表部の大阪事務所の領事として赴任している。これ以降の朴賛益の動静は不明なのだが、金詩宗が有罪となった1973年あたりから朴賛益がモラン公園墓地に関わることになったのかもしれない。

 

 モラン公園墓地には、朴賛珠、朴贊汎、朴賛益の祖父である朴泳孝の墓所がある。。

 太極旗は、朴泳孝が1882年に修信使として日本に派遣された時に考案したとされており、その碑が墓石の横に立てられている。

 

 

 1939年9月に死去した朴泳孝は、生前に自分の墓所を選定していた。風水的に良いとされる場所を探し回って釜山プサン近郊の多大浦タデポの土地を朝鮮総督府から払い下げてもらって、ここを自分の墓所と定めた。死んだ翌月の10月に、朴泳孝は自ら選んでおいた多大浦の墓所に埋葬された(現在の釜山市沙下区多大洞1074番地)。

 

 

以前の多大浦の写真の赤丸の部分が墓所だった
다대포, 박영효 무덤 터/ 부산이야기より)

 

現在の沙下区多大洞1074番地付近

 

 いま、この場所はビルと駐車場が建っており、墓地らしきものは跡形もない。

 『釜山の話』2003年3・4月号に次のような記事が載っている。

 解放以降、朴泳孝の孫という人が墓の土地を他人に売り、 墓を暴いた。墓の中に何か宝物でも埋まっているのではないかという子孫のとんでもない強欲からだったという。こうして朴泳孝の墓場と周りの山地は人手に渡ったが、その土地を買ったのは松島で大きな料理店をやっていた人だったという。

 時期は書かれていないが、モラン公園墓地に移葬するための作業だったのではなかろうか。

 1969年3月8日付の『京郷新聞』の特集記事「歴史との対話 先覚の土地を訪ねて」の中にはこのようなくだりがある。

朴泳孝の墓は、実兄朴泳教パクヨンギョの墓とともに現在釜山の多大浦にあるが、少し前まで「逆賊の墓」と言って村の子供達まで石を投げるような認識のままだったという。

 それにしても、朴泳孝の孫はとんでもない子孫にされ、多大浦の墓所も歓迎されざるものだったとして描かれている。


 1972年に朴泳孝の墓は、孫たちの手で多大浦からモラン公園墓地に移葬された。このモラン公園墓地の朴泳孝の墓石の右側には、他に3つの墓が並んでいる。

 

 

 

 一つは、朴泳孝の息子夫婦、すなわち朴賛珠たちの両親の墓である。

 墓石には、

  潘南朴公日緖

         之墓

  密陽朴氏元熙

と刻まれている。

 

 朴賛珠の父朴日緖パクイルソは、1931年に、父朴泳孝よりも先に死亡した。母朴元熙パクウォンヒが亡くなったのは1969年。ちょうどモラン公園墓地が完成した年である。父の朴日緖の墓に母親の朴元熙を合葬するという形をとってこの墓地に埋葬したのだろう。
 今ではこのように墓石に夫婦の名前を刻むことはさほど珍しくはないが、この当時はあまり見かけなかったのではなかろうか。

 時系列から考えると、この両親の墓地を作った後に、釜山の多大浦から朴泳孝の墓をモラン公園墓地に移葬したものと思われる。

 

 あと二つの墓は、朴日緖・朴元熙の長男朴贊汎(朴賛珠の弟)と、朴贊汎の長男朴亨雨パクヒョンウの墓である。二つとも墓石には埋葬者の名前だけが彫られている。ただ、1986年に死去した朴贊汎の墓石は一人の名前しか彫られていないのに対し、2012年に死去した朴亨雨の墓石の方には下にもう一人名前が彫れるスペースがあけられている。

 

 

 これは時代の流れなのかもしれない。ただ、1968年に埋葬された朴日緖・朴元熙の墓は合葬で二人の名前が刻まれている。ひょっとすると、朴賛珠が、1945年8月7日に広島の原爆で死んだ李鍝とこんな感じで合葬して欲しかったのかもしれない。

 

 朴賛珠は、1995年7月13日に死去した。

 夫李鍝と合葬されたと記述されたものもあるが、「雲峴宮」の墓域に埋葬された墓石には朴賛珠の名前は見つけることができていない。

 

 朴賛珠は、夫や事故死した次男の墓があり、隣接した墓地に自分の祖父や両親の墓もあるこの「雲峴宮」の墓域に眠っているのであろう。