モラン公園墓地の民主烈士墓域 | 一松書院のブログ

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 1966年に雲峴宮ウニョングン朴賛珠パクチャンジュが「雲峴観光開発株式会社」を立ち上げて、楊州ヤンジュ郡(当時)に「モラン(牧蘭)公園墓地」を造成する事業に乗り出したことは、雲峴宮のブログ朴泳孝の墓のブログですでに触れた。

 

 KakaoMapのスカイビューで見ると、このモラン公園墓地の北東側に「民族民主烈士墓域」と表示されている一角がある。

 


 この墓域には、ソウルの平和市場ピョンファシジャンの労働者で、劣悪な労働環境を改善しようと闘い、1970年に抗議の焼身自殺をした全泰壹チョンテイルの墓所がある。そして、1980年代、90年代の労働運動や学生運動、労働災害で犠牲になった人々、それを支援して闘った人々の墓がある。

 

全泰壹の墓所

 

 重篤な火傷を負った全泰壹は、治療のため聖母ソンモ病院に運ばれたが、11月13日にここで亡くなった。全泰壹の母李小善イソソンは、息子が命をかけて求めた労働環境改善の見込みが何らない中で息子を連れ帰ることはできないとして、霊安室の遺体の引き取りを拒んだ。

 

 一方、労働運動が高まることを懸念した朴正煕パクチョンヒ政権は、早期に葬儀を行い、ソウルから離れた場所に埋葬するよう圧力をかけた。

 結局、11月18日に倉峴チャンヒョンルーテル教会で葬儀が行われた。新聞は、「今後も労働環境改善の行方を見守る」とする李小善のコメントとともにこれを報じた。

 

 モラン公園墓地に全泰壹が埋葬されることになったのは、この墓地を運営する韓国公園開発の社長が朴正煕政権と近かった金詩宗キムシジョンだったからであろう。朴賛珠の共同経営者だった金詩宗は、後に維新体制下で朴正煕独裁を支える「統一主体国民会議」の議員になっている。

 

 全泰壹の1周忌追悼式の写真が残っている。全泰壹の墓は当初は、墓石が一つ立っているだけの質素なものであった。

 

 

 朴正煕の独裁体制が強まる中で、その後の全泰壹追悼行事は、墓地ではなくソウル市内のキリスト教関係の施設などで行われていた。

 1979年10月に朴正煕独裁体制は終わりを告げたが、新たな独裁者全斗煥チョンドゥファンが登場した。

 

 そうした中で、1984年には、全泰壹14周忌の追悼集会はモラン公園墓地で開催された。

 追悼式を伝える記事の前後には、光州事件の真相究明を求める学生運動関連の記事が掲載されている。学生運動が、次第に労働運動や市民運動との連携を深めていた頃である。

 

 そして、翌1985年11月18日の『東亜日報』の紙面には、大統領全斗煥の与党民正党ミンジョンダンの研修院を学生が占拠したことを報じる記事の下に、モラン公園墓地の全泰壹の墓前で400名余りが参席した追悼集会の記事が掲載されている。

 

 

 この時期、モラン公園墓地の墓地としての位置付けも以前とは大きく変わっていた。

 

 新聞に報じられる「訃音」欄(死亡記事)の掲載件数からすると、日本の植民地支配下で墓地として開発された忘憂里マンウリの墓地が、1960年代の終わりくらいで埋葬の上限に達した。モラン公園墓地への埋葬は1970年代から80年代にかけて増えていった。

 

NAVER Newslibraryで「망우리 부음」「모란 부음」で検索したもの

 

 ただ、1980年代後半になると、モラン公園墓地のスペースも限界に近づいてきたこともあり、埋葬も減少している。

 

 1987年の「民主化宣言」以降、労働運動や学生運動で亡くなった人々が埋葬されている一角に注目が集まるようになった。

 そのきっかけの一つは、1989年3月の朴鍾哲パクジョンチョルの招魂葬とモラン公園墓地での埋葬式であった。

 

 1987年1月14日、下宿先から治安本部に連行され取り調べを受けていたソウル大生朴鍾哲が水拷問を受けて死亡した。死因を隠蔽するため、朴鍾哲の遺体は1月16日朝に碧蹄ピョクジェ火葬場(現ソウル市立昇華院スンファウォン)で火葬され、臨津江イムジンガンに散骨された。

 この事件は、その後5月にかけて次第に全貌が明らかとなり、6月の民主化抗争へと繋がっていく。映画「1987」にはその経緯が描かれている。

 

 この朴鍾哲の追悼の意味で、1989年に改めてモラン公園墓地で埋葬式が行われたのである。

 

朴鍾哲烈士、招魂葬に遺族など約1千人が出席
ハンギョレ 1989.03.04

 1987年1月に南営洞ナミョンドンの対共分室で拷問によって亡くなった朴鍾哲氏の招魂葬が民主烈士朴鍾哲招魂葬委員会(委員長白基完ペクキワン)主催で、3日午後12時45分にソウル大アクロポリス広場で朴鍾哲氏の家族と在野人士・学生・市民など1000人余りが参加した中で開かれた。
 市民・学生らはこの日、招魂葬を終え、棺を載せた霊柩車を先頭に路上葬をおこなおうと南営洞対共分室に向かったが、警察の阻止線に阻まれ、大学正門前と奉天ポンチョン交差点で3時間半にわたって対峙した。その後、奉天交差点で略式の路上葬を行い、19時ごろに埋葬地である京畿道楊州郡のモラン公園へ出発、夜遅く埋葬式を行った。

 

 この年の6月には、『朝鮮日報』が「民主烈士墓地」について記事を書いている。

新しい「民主烈士墓地」と位置づけ
「第2の望月洞マンウォルドン」モラン公園墓地
全泰壹チョンテイル氏、朴鍾哲パクチョンチョル君ら11人が現在埋葬さる

◆南楊州郡磨石里マソンニに所在
 京畿道南楊州郡和道面磨石里モラン公園墓地内には、数年の間に「民主烈士墓地」と呼ばれる小さな墓地が造られつつある。
1970年11月13日に「労働基準法を遵守せよ」と叫んで焼身自殺したソウル清渓チョンゲ被服商街の全泰壹氏(当時22歳)がこの地に葬られて以来、亡くなった学生や労働者が相次いでここに葬られているためだ。
全泰壹氏の後、モラン公園に埋葬されたのは、1986年3月に賃上げなどを要求して焼身自殺したソウル新興精密シヌンチョンミルの労働者朴永鎮パギョンジン氏(当時27歳)と、1987年1月に南営洞治安本部対共分室で水拷問を受けて死亡したソウル大生の朴鍾哲君(当時21歳)ら計11人。
 彼らの墓はモラン公園入口から右に100mほど登った「特3地区」に集まっており、誰かの墓にお参りに来た人も、他の「民主烈士」の墓も一緒にお参りして行くと公園管理事務所職員は語る。休日には、大学生や労働者などの若者が10数名ずつ墓地を訪れるという。墓園の管理人南渠ナムゴ氏(46)は、「最近は特3地区にはもう空きスペースがないのだが、遺族や在野団体が繰り返し求めてくるので、なんとかやりくりしてスペースを提供している」と述べ、「ここが徐々に第2の望月洞になっていく感じ」だと語った。
 全泰壹氏の墓は、以前は名前だけが刻まれた小さな墓碑だけだったが、昨年11月に清渓被服労組で碑石を新たに作った。「時が経つにつれていっそう生き生きと蘇る死があり、ここにひとつの石を立てる…。」という碑文は趙英来チョヨンネ弁護士が詠み、書道家の張日淳チャンイルスン氏の文字を刻んだ。
◆水銀中毒死の文松勉ムンソンミョン君も
 朴鍾哲君の墓が作られたのは3月3日、朴君の遺体は死亡当時火葬され臨津江イムジンガンの支流に撒かれたが、朴君追悼事業会(会長文益煥ムンイッカン牧師)が臨津江のほとりの土を掘って招魂葬を行い、墓をここにたてた。遺族は、臨津江の土とともに、朴君が着ていたセーターやマフラーなどの遺品、「君よ、全身を旗として」と題した追悼集1冊を一緒に埋めた。
 最近は先月4日、「労組支部独立」などを要求して焼身自殺した九老クロ工業団地内の曙光ソグァンの労働者金鍾守キムジョンス氏(25)と、同月24日にソウル城東ソンドン華陽ファヤン洞のヨンジョン機械の作業場で労災事故で死亡したソウル大学物理学科の除籍生趙正植チョジョンシク氏(25)が、ここに埋葬された。
 また昨年7月水銀中毒で死亡したソウル永登浦区楊平洞の協成計工ヒョプソンケゴンの労働者文松勉君(当時15歳)、同年焼身した崇実スンシル大学生朴来佺パクネジョン君(当時25歳、国文科3年)と江原カンウォン太白テベク市炭鉱労働者ソンワンヒさん、同年、それぞれ学生運動と偽装スト撤廃闘争を繰り広げて亡くなった延世ヨンセ大学生ジョンヒ君と、仁川インチョン世昌セチャン物産労組員ソンチョルスンさんなどがここに葬られている。
 これ以外にも、73年10月に中央情報部で調査を受けていて死亡したソウル大学法学部の崔鍾吉チェジョンギル教授の墓もここに作られている。
 今月6日午後には崇実大学生約250人が朴来佺君の1周忌を迎えて参拝し、今年7月2日には人道主義実践医師協議会など在野団体の会員が文松勉君1周忌追慕祭をここで行う予定だ。
 崇実大生の朴来佺君の母金根順キムグンスンさん(58)は「どのみち行くところに行ってしまった息子だが、同じような境遇の人たちが集まっているから寂しくないはず」とし「命日になれば民主化運動遺族協議会の会員たちが集って、一緒に公園に行く」と語った。
◆入り口の右側に位置
 モラン公園墓地は、66年に造成された私設共同墓地で、現在約20万坪の広さに約1万1,500の墓地が造成されており、このうち「民主烈士墓域」は、一般墓地1,000基あまりが集まっている入口右側に位置している。
 全泰壹追悼事業会運営委員長の閔鍾德ミンジョンドク氏(37、全清渓被服労組委員長)は、「光州の望月洞墓地は狭くて空きスペースがなく、故人が生前に全泰壹烈士を尊敬し、そのそばに埋めて欲しいと願っていたため、このように一ヶ所に集まることになった」とし、「追慕事業会同士が集まって追慕祭を共同で行う案も論議している」と語った。

 

 1991年に、暻園キョンウォン大の千世容チョンセヨン西江ソガン大で全民連社会部長金基卨キムギソルが焼身自殺し、モラン公園墓地に埋葬された。この時に『ハンギョレ新聞』や『東亜日報』も「民主化の聖地」「民主聖域」としてこの墓地のことを取り上げている。

 

 

 

 

民主烈士追悼碑

 

 

朴鍾哲墓所

 

 延世大生李韓烈の葬儀で弔辞を読んだ文益煥ムンイッカンの墓もここにある。

 

 

 


 このモラン公園墓地の「民主烈士墓域」は、意図的に墓域を確保したものではなく、労働運動や学生運動、民主化運動に関わった人々が埋葬されることによって自然発生的に形成されていったものである。

 

 興宣大院君が葬られている広大な墓所に隣接している公園墓地に、朴泳孝とその一族の墓があり、朴正煕時代、全斗煥時代の有力者もここに埋葬されている。1970年に、労働運動から切り離そうとここに埋葬した全泰壹の墓所を中心に、1990年前後から「民主烈士」の墓域となったわけである。
 ある意味、韓国の近現代史の縮図ともいうべき場所であろう。