雲峴宮の2回目のブログで、1966年に朴賛珠が「雲峴観光開発株式会社」を立ち上げて、楊州郡で「牧蘭公園墓地」を造成する事業に乗り出したことに触れた。そのブログはこちら
「牧蘭」は、『朝鮮語辞典』(189コマ)に「牧丹⇨牡丹(모란)に同じ」とあるので、「牧蘭」も音は「モラン」である(以下モランと表記する)。
お墓も近代化か
有料公園墓地計画◇我が国初の公園墓地ができるようだ。雲峴観光開発株式会社(発起人代表=王孫李鍝公の未亡人朴賛珠女史と金詩宗氏)という個人会社で京畿道楊州郡和道面文案山の牧蘭峰に私設の有料の牧蘭公園墓地を作るという。大院君が眠っている牧蘭峰を中心にして100万坪の山野を墓地兼公園に造成、一般市民の休息の場ともなり墓地としても使用されるという。
1966年、坡州にあった興宣大院君の墓所を、李載冕、李埈鎔、李鍝が葬られていた南楊州の墓域に移すことになった。この時に、雲峴宮の4代目当主で広島で被爆死した李鍝の未亡人朴賛珠が、大院君一家の墓域の外側をモラン公園墓地として造成する事業を始めた。
朴賛珠は、開化期の急進改革派の一人朴泳孝の孫である。
そして、もう一人この墓地造成事業に加わったのが金詩宗である。
金詩宗は、どのようにしてこの事業に関わってきたのかわからないが、1968年10月に「韓国公園開発株式会社社長」の肩書きで『毎日経済新聞』を訪問している。
この1968年初め、「雲峴宮」が仮契約までしていた日本大使館への用地売却が白紙化され、9月に「雲峴宮」の北側の敷地が競売にかけられた。
その後、モラン公園墓地の販売が始まるのだが、そこでは「雲峴観光開発」の名前は消え、「韓国公園開発」の名前で売りに出されている。
金詩宗は、1972年からの維新体制下で朴正煕独裁を支える「統一主体国民会議」の議員になっており、朴正煕政権とは近い関係にあった若手実業家だったと思われる。ところが、1973年に首都警備司令官尹必鏞の業務上横領事件に関係して有罪判決を受けた。
上掲図のように、朴賛珠には朴賛汎と朴賛益の二人の弟がいた。下の弟朴賛益は立教大学を卒業後、外務部に入り、その後「モラン公園墓地の代表を勤めた」とある(姜健栄『開化派リーダーたちの日本亡命 : 金玉均・朴泳孝・徐載弼の足跡を辿る』朱鳥社 2006)。朴賛益は、1920年生まれで、1961年に在日韓国代表部の大阪事務所の領事として赴任している。これ以降の朴賛益の動静は不明なのだが、金詩宗が有罪となった1973年あたりから朴賛益がモラン公園墓地に関わることになったのかもしれない。
モラン公園墓地には、朴賛珠、朴贊汎、朴賛益の祖父である朴泳孝の墓所がある。。
太極旗は、朴泳孝が1882年に修信使として日本に派遣された時に考案したとされており、その碑が墓石の横に立てられている。
1939年9月に死去した朴泳孝は、生前に自分の墓所を選定していた。風水的に良いとされる場所を探し回って釜山近郊の多大浦の土地を朝鮮総督府から払い下げてもらって、ここを自分の墓所と定めた。死んだ翌月の10月に、朴泳孝は自ら選んでおいた多大浦の墓所に埋葬された(現在の釜山市沙下区多大洞1074番地)。
以前の多大浦の写真の赤丸の部分が墓所だった
(다대포, 박영효 무덤 터/ 부산이야기より)
現在の沙下区多大洞1074番地付近
いま、この場所はビルと駐車場が建っており、墓地らしきものは跡形もない。
『釜山の話』2003年3・4月号に次のような記事が載っている。
解放以降、朴泳孝の孫という人が墓の土地を他人に売り、 墓を暴いた。墓の中に何か宝物でも埋まっているのではないかという子孫のとんでもない強欲からだったという。こうして朴泳孝の墓場と周りの山地は人手に渡ったが、その土地を買ったのは松島で大きな料理店をやっていた人だったという。
時期は書かれていないが、モラン公園墓地に移葬するための作業だったのではなかろうか。
1969年3月8日付の『京郷新聞』の特集記事「歴史との対話 先覚の土地を訪ねて」の中にはこのようなくだりがある。
朴泳孝の墓は、実兄朴泳教の墓とともに現在釜山の多大浦にあるが、少し前まで「逆賊の墓」と言って村の子供達まで石を投げるような認識のままだったという。
それにしても、朴泳孝の孫はとんでもない子孫にされ、多大浦の墓所も歓迎されざるものだったとして描かれている。
1972年に朴泳孝の墓は、孫たちの手で多大浦からモラン公園墓地に移葬された。このモラン公園墓地の朴泳孝の墓石の右側には、他に3つの墓が並んでいる。
一つは、朴泳孝の息子夫婦、すなわち朴賛珠たちの両親の墓である。
墓石には、
潘南朴公日緖
之墓
密陽朴氏元熙
と刻まれている。
朴賛珠の父朴日緖は、1931年に、父朴泳孝よりも先に死亡した。母朴元熙が亡くなったのは1969年。ちょうどモラン公園墓地が完成した年である。父の朴日緖の墓に母親の朴元熙を合葬するという形をとってこの墓地に埋葬したのだろう。
今ではこのように墓石に夫婦の名前を刻むことはさほど珍しくはないが、この当時はあまり見かけなかったのではなかろうか。
時系列から考えると、この両親の墓地を作った後に、釜山の多大浦から朴泳孝の墓をモラン公園墓地に移葬したものと思われる。
あと二つの墓は、朴日緖・朴元熙の長男朴贊汎(朴賛珠の弟)と、朴贊汎の長男朴亨雨の墓である。二つとも墓石には埋葬者の名前だけが彫られている。ただ、1986年に死去した朴贊汎の墓石は一人の名前しか彫られていないのに対し、2012年に死去した朴亨雨の墓石の方には下にもう一人名前が彫れるスペースがあけられている。
これは時代の流れなのかもしれない。ただ、1968年に埋葬された朴日緖・朴元熙の墓は合葬で二人の名前が刻まれている。ひょっとすると、朴賛珠が、1945年8月7日に広島の原爆で死んだ李鍝とこんな感じで合葬して欲しかったのかもしれない。
朴賛珠は、1995年7月13日に死去した。
夫李鍝と合葬されたと記述されたものもあるが、「雲峴宮」の墓域に埋葬された墓石には朴賛珠の名前は見つけることができていない。
朴賛珠は、夫や事故死した次男の墓があり、隣接した墓地に自分の祖父や両親の墓もあるこの「雲峴宮」の墓域に眠っているのであろう。