三坂通(厚岩洞)—日本人による土地取得 | 一松書院のブログ

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 横浜の本牧に「三溪園」という庭園がある。「三溪園」は、横浜の実業家原富太郎(三溪)によって1902年頃から造成が始められた個人の庭園で、早くから一部が一般にも開放されていた。戦後、1953年に原家から横浜市に寄贈されて一般公開され、2006年には国の名勝にも指定された。

 原富太郎は、先代の原善三郎の孫屋寿やすと結婚して原家の家督を継ぎ、個人商店を原合名会社へと改組し、生糸輸出や富岡製糸場の経営などで横浜を代表する実業家の一人となった。

 

 佐藤虎次郎は、1864年に埼玉の本泉村(現本庄市)の茂木家に生まれ、原善三郎のもとで貿易の実務を学んだ。1885にアメリカに渡って1890年にミシガン州立大学を卒業し、帰国後、和歌山の佐藤長右衛門の娘おくと結婚して佐藤家の養子となり、和歌山に移り住んだ。1893年にオーストラリアのクイーンズランド州の木曜島に渡り真珠採取業で成功を収めた。この時に、外務大臣陸奥宗光の依頼でオーストラリアでの移民調査を行なっている。しかし、日清戦争後、日本人への風当たりが強まって移民制限法が制定されたため、やむなく帰国した。
 帰国後は「横浜毎夕新聞」の経営を引き受け、「横浜貿易新聞」と合併して「横浜新報」を横浜の有力紙にするなど言論人として活動する一方、1903年の衆議院選挙に群馬県から立候補して当選した。ところが1909年に大日本製糖に絡んだ事件で収賄容疑で逮捕されて議員を失職した。その後、原富太郎の後押しで横浜からもう一度出馬したが落選している。

(吉良芳恵『横浜ジャーナリスト列伝 佐藤虎次郎」横浜開港資料館『開港のひろば』第37号1993年4月)

 

 上掲の記事に「数奇な一生」とあるのは、佐藤虎次郎は朝鮮総督斎藤実と間違われて襲われ、その時の傷が命取りになったからである。1926年、大韓帝国最後の皇帝純宗の弔問で昌徳宮に行った帰りに刃物で刺されて重傷を負った(金虎門事件)。この時の傷がもとで2年後に死亡した。

 ちなみに、大平正芳・中曽根康弘内閣のブレーンを務めた東大教授佐藤誠三郎は、この佐藤虎次郎の孫である。

下段の写真の左側が佐藤虎次郎


 

 1909年の議員失職を契機に、佐藤虎次郎は朝鮮に渡って土地・山林事業を始めた。その資金を提供したのは原富太郎であり、二人は朝鮮での土地・山林取得に積極的に関与していった。その最初の拠点になったのが、吉野町と三坂通,、すなわち現在の厚岩洞である。

 

 藤本實也の『原三渓翁伝』(三溪園保勝会 2009年)に、朝鮮での事業に関する記述がある。『原三渓翁伝』は、戦時中に藤本實也がまとめていた未発表の原稿を、2009年になって書籍として刊行したものである。

 

 この『原三渓翁伝』の「第9章 蚕糸業外の関係事業」の第4節に「朝鮮農林株式会社」に関する記述がある。

 朝鮮農林株式会社は三溪翁が予て朝鮮の土地が頗る廉価で将来朝鮮発展と共に価値の昂騰を期待して土地買収に指を染めたものである。これより先き横浜に永くゐて横浜貿易新聞を主宰し後代議士となつた佐藤虎次郎氏は、昔、先代の原家に事へ、後三溪翁の知遇を得てゐたが朝鮮に渉り事業を起さんと心懸けてゐたので仕事をさせたいと云ふ考もあつたものである。

 初め朝鮮人万玉なるものが京城の郊外に土地を纏めて所有したが、これを売りたいと云ふので買収して大正元年四月一日三溪翁は中村房次郎、市原盛宏、佐藤虎次郎の三氏と共に匿名組合を組織し、京城府吉野町、三坂通等京城府内に於ける宅地七千五百坪、同地上家屋及京畿道、坡前郡全村農地十三万坪を所有し、土地家屋及び農事経営に着手することとなつた。

 中村房次郎は、増田嘉兵衛の二男で中村初太郎の養子となったが、増田商店の実務を取り仕切って、横浜の実業界の実力者になった人物である。市原盛宏は、同志社からエール大学に留学して日本銀行に入行し、その後第一銀行に移り横浜支店長となった。1903年には横浜市長に就任している。1906年に第一銀行韓国支店の総支配人となり、韓国併合後はそのまま横滑りして朝鮮銀行の初代総裁となった。

 原富太郎、中村房次郎は横浜在住であり、佐藤虎次郎も市原盛宏も横浜と縁があった。この時に吉野町、三坂通などの土地を取得した匿名組合の4人は横浜つながりである。

 

 『原三渓翁伝』には、「朝鮮人万玉なるものが京城の郊外に土地を纏めて所有した」とある。朝鮮の姓に「マン」という姓は存在する。地主になるような有力者にしては珍しい姓だが、「マン・オク」については何の手がかりもなかった。

 

 ところが、イ・ギョンア編『京城の住宅地』(ジップ 2019)を読んでいたら、次のような記述があった。

(1927年に発刊された京城府管内の地籍台帳で)三坂通244番地、248番地、249番地の1917年の所有者は、萬玉啓二という日本人と、権鎬辰という朝鮮人だった。

 「万玉」という日本人の苗字が珍しいものだったので、藤本實也はこれを朝鮮人の姓名と判断したのであろう。

 萬玉啓二については、朝鮮総督府官報にその名前が出てくる。

 

 

 1912年4月に、原富太郎、中村房次郎、市原盛宏、そして佐藤虎次郎が入手したのは、「朝鮮人万玉」の所有したものではなく、日本人の萬玉啓二が所有していた土地・建物であった。

 

 萬玉啓二は、1914年に仁川学校組合に200円の寄付をしている。仁川で発行されていた『朝鮮新報』に、苗字が同じ萬玉岩吉が、仁川居留民団の議員、高額納税者として名前が挙がっている。『群山開港史』には「仁川の萬玉商店」と出てくる。萬玉啓二は、萬玉岩吉と姻戚関係にある仁川在住の資産家だったと思われる。

 

 ではなぜ、仁川在住の日本人が、南大門外の土地を所有していて、それを1912年に手放すことになったのか。この吉野町・三坂通一帯は、その後日本人の住宅地として広範囲に開発されるところだけに、その初期における日本人の土地取得として注目される。その背景を探ってみたい。

 

 1907年の『最新京城全図』(日韓書房)を見ると、南大門の外側、南大門停車場の前に仁川の『朝鮮新報』の京城支局が置かれていたことがわかる。日韓図書印刷の工場と精米所が記載されている。その東側が吉野町、吉野町の南側が三坂通で、ここに仁川の萬玉啓二の所有する土地があった。

 ちなみに、仁川の新聞だった『朝鮮新報』は1908年に『朝鮮新聞』と改題して京城に拠点を移し、『京城日報』に対抗する有力日本語新聞になっている。ただ、この時にはまだ南大門の外に支局が置かれていただけだった。

1907年『最新京城全図』(日韓書房)

 

 その北側に「崇礼門 一名南大門」が描かれている。城壁で囲まれた漢陽は、城壁の門が夜になると閉じられて内外の通行が禁じられた。夜の9時前後に鍾閣の鐘が「人定インジョン」を告げると閉門し、明け方の4時前後に鳴らされる「罷漏パル」で門が開かれた。1890年代の南大門の朝の様子をエミール・マーテルはこのように描写している。

仁川と京城の間に未だ鐡道が開通してゐなかつた頃は郵便は勿論旅行者の交通は皆小さな朝鮮馬によつてゐた。そこで早朝南大門から城内に殺到する馬は二千、三千といふ夥しい數に上つた。當時南大門は夜間閉鎖してゐたので夜明の開門を待って我先にと市内に入つたわけである。定刻二、三時間も前から待ってゐて先を爭ふので毎日喧嘩の絶間がなかつた。いざ開門といふ時は全く怒濤のやうな勢で馬・牛・人間・荷物が一時に折重なつてなだれこんだ。 

『京城府史』第2巻 297ページ
「外人の見
たる朝鮮外交秘話」

 1898年には、「人定」「罷漏」の打鐘は停止されて夜間の通行禁止はなくなった。

 そして、1900年には、京仁鉄道が全線開通して、西大門の外側(現在の柳寛順ユグァンスン記念館と梨花イファ女子高の敷地)に建設された京城駅と仁川が汽車でつながった。この時、南大門の外にも南大門停車場が置かれた。1915年にはこちらが京城駅となり、西大門の駅は1919年になって廃駅となった。

 

 仁川と京城城外の停車場が鉄道で結ばれてからも、南大門は依然として城内への通行のネックとなっていた。仁川から京城に向かう日本人も南大門で待機を余儀なくされることも多く、南大門外では日本人向けの旅館なども営業していた。仁川の朝鮮新報が支局を南大門の外に置いたのは、仁川との連携の便宜を考慮してのことだったのだろう。すなわち、仁川の日本人からすると、この南大門の外側は京城へのアクセスの足掛かりだったと考えられる。

 

南大門(1904年の消印の絵葉書)両側に城壁があり、電車も門の中を通っていた。

 

 1907年、ハーグ密使事件が起こり、伊藤博文は高宗皇帝を退位させて皇太子坧(後の純宗)を皇帝に即位させた。即位に合わせて、10月に日本から皇太子嘉仁(後の大正天皇)が韓国を訪問した。嘉仁は仁川まで軍艦で渡り、京仁鉄道を使って南大門停車場で下車した。このとき、日本の皇太子の移動の便宜のため、南大門の両側の城壁を急遽取り壊して南大門通りの道路を門の横に拡張した。予定外の工事経費2万2千円余りは韓国政府の予備費から支出されている。

南大門(1910年の消印の絵葉書)

 

 この城壁の撤去で、南大門停車場周辺地域など南大門門外から城内へのアクセスは格段に良くなった。ただ、南大門は道路の真ん中に取り残された門となった。

 

1914年「京城府明細新地図」(京城日報社)

 

 仁川の萬玉啓二が、朝鮮新報支局の背後側の三坂通(現在の厚岩洞)の土地を、いつ入手したのかはわからない。ただ、仁川在住の日本人の視点からは、南大門の外側は上述のような事情から、確保しておいて損はない場所であった。仁川につながる南大門停車場が設置され、さらに、南大門の両側の城壁が撤去されて道路が拡張されると、吉野町・三坂通の土地は地価上昇が見込める投資物件ということになった。

 

 1900年頃の韓国での土地の売買については、京城の日本領事館で勤務した信夫淳平が『韓半島』(東京堂 1901)にこのように書いている。

 

爰に附記して讀者の注意を乞ふべきは他なし、韓國にては地所は家屋に從屬すること是れなり。 
隨つて韓人より一家屋を買取らば、其土地の所有權も亦明約を俟たず家屋の所有權と共に移轉するなり。獨り家屋の存在する其土地に於てのみ然るにあらずして、例へば畑地若くは空地の場合に於ても、概して其附近の家屋を買收すると共に移るなり。故に地所若くは家屋のみの特立せる賣買に稀に其例を見るに過きざること本邦と頗る其趣を異にす。
京城内の宅地にては家券なるものあり。賣主證人及び家證等之れに署名し漢城府の證印を求めて之れを賣買の證となす。去れど京城以外には家券なく、唯其賣渡證書に田宅持主保證人等連署畫押し、其田宅に關係ある古文書あらば之れを添附して買主に交付するに過きず。家券なるものは明治二十七年五月の創設に係る。此設制ありて以來、幾分か古來地所家屋の賣買に伴ふ弊風をば洗滌するに至りしと雖も、而も尚ほ且つ韓國には未だ登記の方法あらざるが故に、時ありてか一家屋に数葉の家券若くは家券類似の證書現はれ、隨つて賣買当事者間の紛議となるが如きの例、往々にして是れあるを見るなり。 

 上掲の『最新京城全図』(1907)は、厳密に人家を描いた地図ではないが、Bの場所には1920年前後まで朝鮮人の共同墓地があったことがわかっている。萬玉啓二がAあたりの家屋を入手することでその南側の土地のBもしくはその東側(244番地)の土地の所有権を得たとも考えられる。

 

 

後に、佐藤虎次郎の居宅があった吉野町1丁目38番地の地番の土地が周囲に比べて広いこと、また三坂通244番地も同一地番で非常に広い区画を占めている。そのようなことも、土地入手の経緯と何か関連性がありそうな気がしてくる。

 

 

 この吉野町1丁目38番地と三坂通244番地は、1910年4月に、原富太郎、中村房次郎、佐藤虎次郎、市原盛宏が萬玉啓二から買い取った土地であろう。

 

 『原三渓翁伝』の「第4節 朝鮮農林株式会社」には、その後の展開について次のような記述がある。

 大正三年六月一日に至り、原合名会社を母体として原拓植部を京城府に設け、京城府外狎鴎亭里(旧朴泳孝別荘所在地)盤浦里附近の農地十三万坪を主体とし、京城府内三坂通普光里梨泰院里東氷庫里方面等南(ママ)門外より緑地南山を廻り漢江の清流に沿へる形勝地帯を併せ約十五万坪を所有し、農地及び果樹の経営に着手した。
 大正七年四月二十二日に至り前記の匿名組合并に(ママ)拓植部の経営体を買収し、資本金参拾万円の朝鮮農林株式会社を創立し、京城府龍山区三坂通二四四番地の一一(ママ)に本社を置き、現業地は住宅地経営は京城府及び仁川府内并にその近郊に、山林経営は全羅南道長興郡、慶尚北道青松郡に、農業経営は全羅南道長興郡に夫れぞれ事業を拡げた。創立当時の重役は、
 取締役社長 西郷健雄
 取締役 佐藤虎次郎 同 原太三郎

 同 岡野哲策 同 原菊蔵

 監査役 中村房次郎 同 原善一郎
の諸氏であつた。その後大正十年九月、中村房次郎氏の持株を譲受けて原家単独の経営となつた。

 原富太郎の原拓植部が、1914年に漢江の北側および南側の土地を広範囲にわたって「所有」したとしている。 これらの土地取得は現地にいた佐藤虎次郎が全て行った。この時期は、土地調査事業が行われていた最中で、登記制度が確立されておらず地籍台帳も不正確であった。1927年の京城府管内の地籍台帳で三坂通244番地の1917年の所有者が萬玉啓二になっていたのもその一例である。

 信夫淳平が書き残したような「例へば畑地若くは空地の場合に於ても、概して其附近の家屋を買收すると共に移るなり」という土地取引の慣習が残っていて、その慣習を利用して広大な農地が原拓植部の所有になったものとも考えられる。例えば、狎鴎亭里の朴泳孝別荘を買い入れることによって、その周辺の農地が原拓植部の所有地になったといった推測が成り立つ。そうでなければ、これらの広大な土地の所有権が一気に転がり込んでくるということはないだろう。

 

 この翌年、1915年の10月に朝鮮銀行の現職の総裁だった市原盛宏が急死した。市原盛宏は上述のように原富太郎、中村房次郎、佐藤虎次郎とともに匿名組合のメンバーで、三坂通の土地所有に関わっていた。その持ち分は、遺家族に相続されたのであろう。

 

 1918年に匿名組合と原拓植部を買収する形で朝鮮農林株式会社が設立され、その本社が三坂通244-2(『原三渓翁伝』では「一一」となっているが正しくは二)に置かれた。朝鮮農林の社長西郷健雄は原富太郎の娘婿で、実際の経営は佐藤虎次郎が行っていた。

 

 この株式会社化のときに、匿名組合の中村房次郎の持ち分は株式化され、その株を1921年に中村房次郎が会社側に譲渡している。

 1915年に死去した市原盛宏の持ち分については、どのように処理されたかは不明である。ただ、1920年代に入って朝鮮銀行の社宅が三坂通244と247に建設されている。そのことから推測すると、匿名組合の市原盛宏の持ち分は遺家族に相続された後、朝鮮銀行に譲渡もしくは売却されたと考えられる。朝鮮銀行が、宅地としては開発途上の三坂通で大規模な社宅建設を行なったのは、そうした背景があったからであろう。

 

「京城精密地図」(1933)

 


 

 三坂通と、それに隣接する岡崎町、日本軍の練兵場の跡地である練兵町などで住宅建設が始まるのは、朝鮮銀行の社宅が建設されるのとほぼ同時期、1920年代に入ってからのことである。

 

家屋建築状況
住宅難緩和か
(略)
 龍山管內 大正十年中の建築は新築三百七十三棟、改築三十二棟、増築百二十七棟を数えるが、その中でも練兵町の新築が最も盛んでその数が二百戸以上に達し、新たに一市街を形成するに至っている。今春以来、建築はさらに一層活況を呈しており、新築家屋中で最も多くを占めるのは練兵町の百七八十戸、岡崎町 (岡崎橋梁溝渠沿道)の五六十戸である。三坂通の建築も少なくなく、同方面では目下工事中の家屋が非常に多く、三好氏の四戸建て六棟、朝鮮農林会社の貸地上の八棟約十戸、同社の貸家でもう少しで完成する商店が二棟九戸などがその主要なものである。

 ここに名前が挙がっている「三好氏」とは三好和三郎のことである。上掲の1933年の「京城精密地図」の三坂通周辺の地図に「三好和所有地」「三好和分譲地」「三好和借地」とあるように、1920年代から三坂通の宅地開発、借地・借家で大きな利益をあげた人物である。

 

 また、朝鮮で一番との評判だった清酒「金千代」の酒造業などで財を築いた齋藤久太郎も、三坂通101番地に広大な敷地を所有していて、ここに製糸絹織物工場と大邸宅を建てている。1917年に朝鮮人の共同墓地を潰して工場と宿舎、邸宅を建てた。その後、工場の跡地に金千代会館を建て、その建物は解放後も韓国の国防省・兵務庁として使用された。現在の厚岩洞ブラウンストーン南山アパートとライフミジュアパートのある場所である。

 

 三好和三郎は1899年2月仁川に渡って精米業を始め、その後京城に進出して不動産業に転じた。日本軍の朝鮮語通訳だった齋藤久太郎も、1896年に日本から籾摺機5台を輸入して仁川で始めた精米業から朝鮮での事業をスタートさせた。萬玉啓二と同時代に仁川から朝鮮での事業を始めている。朝鮮農林の佐藤虎次郎が1912年に朝鮮での土地事業に参入し、萬玉啓二の三坂通の土地を買い入れたことで、横浜の原合名会社の記録に土地の取得経緯が書き残された。これを手がかりに、同時代の資料を重ね合わせることで、吉野町・三坂通の土地入手のプロセスが見えてきた。

 

 三坂通の土地を所有した三好和三郎や齋藤久太郎の場合も、萬玉啓二と同じように土地を入手したのであろう。「畑地若くは空地の場合に於ても、概して其附近の家屋を買收すると共に移るなり」と信夫淳平が書き残した土地取引の慣習に乗っかって、その土地の使用者や関係者(埋葬者の縁故者など)が知らぬうちに日本人の土地になっていたものと考えられる。

 

 つまり、「近代的な土地所有の確立」などと言っている一方で、「現地の慣習」を逆手にとって土地を自分たちのものにしていった。そんなことだったように思えるのだが。