日・韓ノービザに至るまで | 一松書院のブログ

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 韓国にはいろんなパスポートで渡航した。それぞれのパスポートにいろんなビザが残っているし、出入国スタンプが押されている。

 

 初めての韓国渡航は1976年3月だった。それまで、外国に行くことはもとより、飛行機にも乗ったことがなかった。当時住んでいた福岡で、本籍地の静岡から戸籍抄本を取り寄せて旅券を取り、赤坂門にあった韓国総領事館に行って領事部の窓口で15日間滞在できる観光ビザをもらった。

 

 

 当時買ったJTBの観光案内書には、このように書かれている。

 

 

 後段の部分に「査証不要」とあるが、これは韓国を通過するトランジットだったら5日間滞在できるということで、日本から韓国だけを往復する場合には該当しない。

 だから、韓国に行くだけだったらそのたびに韓国大使館や領事館にビザをもらいに行く必要があった。


 

 金浦空港に向けて初めて福岡空港から飛び立ったのは1976年3月30日。その時の日本出国のスタンプは「ITAZUKE」となっている。米軍の板付基地が日本側に返還されたのは1972年だが、それ以前から飛行場は「福岡空港」と呼ばれていた。1970年4月のよど号ハイジャック事件の時も「福岡空港」と報じられたし…。ただ、福岡の地元では「板付」と呼ぶことも多かった。1968年に九州大学の構内に墜落した米軍のファントム戦闘機はプエブロ号事件で板付基地に飛来した中の1機だったし、「板付=米軍基地」のイメージが強かった。

 1976年の入管のスタンプはなぜ「ITAZUKE」だったのだろうか…。1979年8月には「FUKUOKA A・P」のスタンプに変わっている。

 

 この最初の韓国旅行の時は、ソウルから扶余・公州、大邱、慶州、釜山をめぐって釜山から関釜フェリーで下関に帰ってきた。下関のスタンプは「KANMON(S)」だった。

 

 その後、1981年5月から留学ビザで1983年7月まで韓国に居住した。その間は韓国の観光ビザを取ることはなかったが、日本に一時帰国をするときに入管で再入国許可(リエントリービザ)を取る必要があった。一回きりのリエントリービザしか出なかったので何度も入管に通った。

 

 1983年に留学を終えて日本に帰国し、韓国に行くために久しぶりに観光ビザを取ったら、滞在期間が15日から30日に延びていた。30日間になったのはこの1983年からである。この年からは日本人観光客の済州島への渡航が15日間までノービザになり、日本の高校の修学旅行については15日間ノービザ渡航ができるようになった。この当時、日本からの修学旅行生は1万人近くに上っていた(読売新聞1983年7月15日朝刊)。

 

 1985年のガイドブックの記載ではこのようになっている。

 

 

 ビザ取得の窓口手数料は3,100円、旅行社に頼んだことはないが手数料込みで8,600円もかかっていたらしい。今から思えば、ビザ取得だけでえらく高い費用がかかっていたものだ。

 

 1986年にソウルでアジア競技大会が開催された。この時は、私は仕事で再び韓国に滞在していた。

 アジア大会の前の新聞報道には、競技の観客にはノービザの滞在期間が15日間から30日間まで延長されるとある。そもそも15日間のノービザ渡航も認められてなかった日本人観客にもこれが運用されたのか…。自分でビザ申請をする必要がなかったのでよくわからない。


 さらに、1988年のソウルオリンピックの開催の時も同様の措置が取られている。

 

 この時、日本は10人以上の団体の場合にビザ無しで30日間滞在が認められた。個人の観光旅行のビザが免除されたものではなかった。

 

 この88ソウルオリンピックをきっかけに、韓国政府は「海外渡航自由化」に踏み切った。すなわち、それまでの韓国では、パスポートの取得に当たって海外渡航の理由や目的が審査されていた。それが、申請さえすれば誰でも旅券が取得できることになった。ただし、兵役義務対象者への旅券発給がすぐには実現しなかったので「段階的な自由化」となった。

 

 この「海外渡航自由化」にともなって、韓国政府は日本とのビザ免除の交渉に乗り出した。

「韓日ノービザ協定推進」

 

 ところが日本政府は、韓国人の不法滞在や不法就労が増大する恐れがあるとして韓国人観光客のノービザについてはきわめて否定的であった。観光ビザの免除は、双務的 — 韓国が免除すれば日本も免除する — に行うことを原則とする。しかし、日本は全くやる気がなかったので日韓のノービザ渡航の協議は一向に進まなかった。こうした中で、韓国政府は、1993年夏に開催予定の大田エクスポを前にして、観光客誘致のために日本人の観光目的のノービザ入国を期間限定で認めることにした。

 日本旅券を持っている観光目的の渡航者のみがノービザで韓国に行けて、韓国の観光客の日本訪問にはビザが必要という「片務的」な制度だった。そのため、この「ノービザでの韓国渡航」は1年ごとに韓国政府が延長を宣言していくという「暫定的な制度」の継続という扱いだった。しかし、実際にはこの1993年8月以降ノービザになり、私のパスポートにも韓国の観光ビザのスタンプはなくなっている。

 

 1996年5月31日にFIFAがサッカーW杯日韓共同開催を決定した。日韓両国がともに単独開催を主張して譲らなかったため、妥協策として例外的な共同開催となった。当時は、領土問題などを巡って日韓関係は「最悪」と言われていたのだが…。

 

内閣府「世論調査・外交に関する世論調査」より

 

 共同開催ということになったため、日韓両政府は7月にビザ発給手続きの簡素化などの協議を始めた。日本側は、大会関係者や外交・公用ビザの免除については応じたものの、韓国人観光客のノービザについては依然として消極的であった。

 この時に、ワーキングホリデー制度の提案が韓国側からあった。日本側もこれに応じて、ワーホリのビザは1999年から発給されることになった。対象者は原則として18~25歳、事情によって30歳まで可。日韓双方でそれぞれ年間1000人までという人数の上限が設けられた。初年度は韓国では約2700人の応募があり、選考の結果960人にビザが発給された。一方、日本人のビザ申請者は2桁台の少数にとどまり、その後2〜3年間は日韓間で申請人数の不均衡状態が続いた。韓国では「狭き門」であったのに対し、日本側では一人で2回ワーホリビザが取得できたケースもあった。ただし、2002年のW杯の開催、「韓流」ブームの到来とともに日本での申請者も増加してワーホリビザは1回だけになった。

 

 このワーホリでの渡航が始まった1999年からはノービザでの滞在期間が15日から30日に拡大された。

 

 

 2002年のサッカーW杯期間中、日本側は5月15日から6月30日までの期間に限定して韓国からのノービザでの日本入国を認めた。しかし、大会終了後は、日本からは韓国にノービザで行けるが、韓国からの渡航にはビザが必要という状態に戻った。

 

 2004年7月の日韓首脳会談で、日本側は翌2005年3月の愛知万国博覧会に合わせて、暫定的に韓国人訪日観光客のビザを免除すると表明し、ビザなし訪日が実現した。

そして、そのビザ免除措置は愛知万博閉幕後もそのまま継続された。その結果、2005年3月から、韓国からの観光目的の日本入国はノービザとなった。

 これによって日韓の双務的ノービザ往来が実現した。日本の旅券所持者がノービザで韓国に行けるようになってから12年遅れで韓国の旅券所持者のノービザでの日本渡航が実現したのである。

 

 この時に、日本からのノービザの韓国滞在期間は3ヶ月間(90日)に延長された。


 

 

 


 

 日本のパスポートで航空券や乗船チケットさえ買えば韓国に行けるようになって28年、韓国からもノービザで日本に来れるようになって16年以上になる。

 しかし、昨年からはコロナ感染によってノービザでの相互往来は停止状態になった。

 

 2020年6月の韓国の統計では、日本は前年同月比99.8%減となったと報じられた。

 

 

 私は、2020年2月の韓国訪問が最後で、それ以来1年半以上パスポートを使うことすらできなくなっている。

 最後はいつだったかな、とパスポートを開いてみたが、スタンプがない。そうだ!日本の入管は機械化されてスタンプもなくなったんだったと改めて思い出した。韓国の入国スタンプも2019年の年末に入国した時の痕跡が見つからない。

 

 今回、このブログを書くために10冊のパスポートを引っ張り出してきて、「ああ、あの時あの国に行ったんだ…」なんてことを思い出したりしたが、これからはパスポートを開いても、何の痕跡も残っていないということにもなりかねない。

 そんな時代になったのだろうが、スタンプがなくなっても、国境は依然として壁であることには変わりない。

 その壁を越えるために必要なのは、相互理解のための真摯な努力と、きちんと歴史に向き合おうとする姿勢である。