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一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

  • そもそも白頭山定界碑とは
  • 豆満江越江のはじまり
  • 統監府臨時間島派出所と「日清協約」
  • 「定界碑」が無くなった
  • 白頭山をめぐる現在の国境線
  • 「定界碑」の復元?

 

◆そもそも白頭山定界碑とは

 白頭山ペクトゥサンには「定界碑」があった。

 

 「あった」と過去形で書いたのは、1712年に建てられた「定界碑」が1931年7月28日から29日にかけて無くなってしまい、今もその碑は行方知れずのままだからだ。

 

 中国に清朝が成立してほぼ100年経った1712年、烏喇ウラ(吉林)総管の穆克登が朝鮮の官吏とともに白頭山に登り、山頂の天池の南側の分水嶺上に石碑を建てた。これが「定界碑」である。

 

 「定界碑」が消失する前に撮られた写真、地図、碑文の拓本などは残されている。

篠田治策『白頭山定界碑』楽浪書院, 1938

 

松田甲「白頭山に登りし追憶」『日鮮史話』 第二編 朝鮮総督府 1927

国会図書館デジタルコレクション 67コマから

 

 

京都大学貴重資料デジタルアーカイブ

1914年8月13日に和田雄治が現地で採った拓本

 

 この「定界碑」の碑文には、「西為鴨緑、東為土門」と記されていた。

 

 ここで東側の「界」とされている「土門」というのがその後物議を醸すことになった。19世紀の後半から20世紀の初頭にかけて、朝鮮と清、そして日本も加わって、「土門はどの川か」という論争になった。「土門」は、「豆満」「図們」のことだとする清側と、「定界碑」の位置を根拠に、もっと北を流れる別の川だとする朝鮮側が対立し、そこに日本も首を突っ込んだ。

 

 18世紀初頭に「定界碑」が設置されて以降、朝鮮王朝は鴨緑江アムノッカン豆満江トゥマンガンを超えて対岸に渡ることを「犯越」として禁じた。越江民が摘発されると「刷還」(清の地方官による送還)を求めたり「招撫」(呼び戻して懐柔する)という措置を取っていた。

  1861年に金正浩キムジョンホが製作した「大東輿地図テドンヨジド」にも、北の辺界として定界碑に発源する豆満江が描かれている。

 

 朝鮮側が豆満江を「犯越」となるラインとして設定していたことは事実であろう。

 

 だが、1787年〜1800年に制作されたと推定されている『各道地図』では、土門江上流が豆満江とは別に表記されている。また、分界江が北側から豆満江に合流する川として描かれている。

 

嶺南大学校博物館『韓國의 옛地圖』1998

 

 また19世紀前半とされる『八道全図 咸鏡北道』でも土門江は、豆満江とは別方向に描かれている。

嶺南大学校博物館『韓國의 옛地圖』1998

 

 早い時期から「東為土門」と定められた「界」が豆満江よりも北側にあったと認識され、地図に表記されていたとも考えられる。ただ、推定されている地図の制作年代のズレや後日の追記の可能性もないわけではない。 


◆豆満江越江のはじまり

 19世紀の半ばまでは、豆満江が「犯越」のラインとして守れられていた。しかし、1860年代以降、豆満江の対岸に渡る朝鮮人が徐々に増えていった。咸鏡道ハムギョンドでの飢饉の発生や朝鮮地方官の失政などもあったが、1860年の北京条約で沿海州がロシアに割譲され、豆満江最下流部の対岸にロシア人が出没するようになるといった周辺状況の変化も影響していた。越江を自制するタガが一気にはずれた。

 

 1883年、清の地方官が豆満江の対岸に渡っていた多数の朝鮮人を発見し、豆満江南側に「刷還」しようとした。ところが、越江朝鮮人たちは白頭山の「定界碑」の位置と碑文を根拠に、「分界江」の南側にいる朝鮮越江民の刷還は不当であると朝鮮地方官に申し立てた。碑文にある「土門」は、「豆満」の北側を流れる「分界江」であり、これは現在の海蘭江ヘランガンを指していたものと思われる。この時、たまたま西北経略使の魚允中オユンジュンが、清との新しい貿易章程の協議のために現地に滞在していた。魚允中は白頭山の「定界碑」について現地調査を行わせた上で、清の敦化県へ公文を送って豆満江とは別に土門江という河川があるとする見解を公式に伝達した。

 

 この結果、1885年と1887年の2回にわたって境界について協議する「勘界会談」が朝・清間で開かれることになった。この協議は、華夷的な冊封の境界線を定めた「定界」を、国際法的な主権の境界線である「国境」として設定するプロセスでもあったといえる。


 しかし2度の「勘界会談」でも朝鮮と清双方の主張は対立したまま最終的な国境線の確定には至らず、豆満江の北岸は朝鮮人と清人の住民が混住する状態になっていった。「分界江」と豆満江に挟まれたこの一帯は「間島カンド」あるいは「墾島カンド」と呼ばれるようになり、それが現在の延辺朝鮮族自治州の原型となった。

 

 豆満江対岸に渡る朝鮮人の定住が増加するにつれ、清側の地方官・住民との間での緊張が高まり、摩擦が大きくなった。朝鮮政府は、1902年に辺境警務署ピョンギョンギョンムソを設置して李範允イボムユンを間島管理使に任命して越江派遣した。李範允は武装部隊を配下に置いて朝鮮人越江民の利益擁護に努めた。1904年に日露戦争が勃発すると、李範允はロシア軍と連携して咸鏡北道地域で日本軍と交戦した。日露戦争終戦後、李範允はロシア領内に亡命して抗日運動を繰り広げた。

 

◆統監府臨時間島派出所と「日清協約」

 1905年11月17日に締結された第二次日韓協約によって、大韓帝国の外交権は日本に接収された。日本政府は、間島に居住する越江朝鮮人の管轄も統監府に委ねられたとし、朝鮮人の「保護」を口実に境界問題に介入した。

 1907年に龍井に統監府臨時間島派出所を開設して、朝鮮側の境界主張に沿った立場を表明して清側の官民と対峙することになった。

 

 この時、統監府臨時間島派出所の総務課長として清・朝鮮の境界問題の歴史的経緯を整理して「間島=朝鮮領有論」を展開したのが篠田治策である。篠田治策は、日露戦争の時に国際法担当顧問として従軍し、日露戦争終結後は統監府の嘱託となって間島問題に関わることになった。その後、要職を歴任し、1932年には李王職長官(朝鮮王室職のトップ)、1940年7月からは京城帝国大学総長となった。

 

 1938年に、臨時派出所時代の研究成果をまとめた『白頭山定界碑』(楽浪書院)を出版している。この書物は、現在Googleブックスで慶應大学図書館の蔵書全文が読める(ただし図版と地図がない)。

篠田治策『白頭山定界碑』所収地図

 

 この地図に描かれているように、「定界碑」に刻されている「土門」は豆満江とは別流で、松花江の上流であるという主張を展開した。

 

 ただし、日本政府は、早い段階から朝鮮と清との間の境界線問題では清側に譲歩し、その見返りとして満洲での鉄道敷設権などの利権を確保する方針を固めていた。対清交渉を有利に進める方策として、統監府臨時間島派出所を通じて朝鮮側の境界主張に同調していたのである。


 結局、大韓帝国の北方の国境線は、日本と清との間で締結された「間島に関する日清協約」によって決められた。

 1909年9月4日に調印された協定の第1条に、白頭山山頂付近の国境線について、定界碑を起点として石乙水を国境とするとある。豆満江の最上流部は、北から紅土水・石乙水・紅丹水の源流があって、その真ん中の石乙水が国境とされた。

 石乙水を国境とする案は、1887年の2回目の勘界会談で清側が強く主張し、朝鮮側が最後まで拒否して合意に至らなかったものである。清側の案を日本が丸呑みすることで、日本が満洲利権を手中に収めたわけである。

「間島に関する日清協約」とその付属図の一部

 

 ただ、篠田治策は、個人的には「間島」は朝鮮側との主張に正当性を認めており、『白頭山定界碑』の叙述の端々に忸怩たる思いが滲み出ている。

 

 この国境線が1945年までの日本による植民地支配下の朝鮮と清、中華民国、そして日本の傀儡国家満洲との間の国境線となった。白頭山山頂南側の分水嶺にある「定界碑」が国境線とされたことで、日本の植民地支配下の朝鮮の国土には白頭山山頂は含まれないことになった。

 

 

 松田甲が『日鮮史話』 第二編(朝鮮総督府 1927)に「白頭山に登りし追憶」を書いている。松田甲は、朝鮮総督府臨時土地調査局の測量技師で朝鮮各地の測量や地図作成に携わった。5万分の1地図のための白頭山測量をおこなった際の「追憶」をまとめたのが上掲の記事で、その書き出しの部分にはこのように書かれている。

同山に就て注意すべきは名士の筆に成れる地理書にすら「白頭山は朝鮮第一の高山なり」と記せるものもあれば、巷間の俗曲に「朝鮮で一番高いは白頭山」などと謡って居り、同山を以て朝鮮第一の高山なりと信ずる人も甚だ多いやうであるが、これ全く誤りたるを知り置くべき事である。実際地勢よりすれば、朝鮮第一の高山と云ひたいのである、併し如何せん今より二百十五年前、即ち李朝粛宗三十八年(清国康熙五十一年)建立したる定界碑がある爲めに、此れより以外は朝鮮の地域ではない。而して世人が誤りて朝鮮第一と為す白頭山の最高頂たる大正峰(又名兵使峰)は、海拔二千七百四十四米突(朝鮮總督府臨時土地調查局測定、以下山高亦同じ)と算せられてゐるが、其の位置は定界碑より外方西北約一里に當り、即ち支那の地域である、故に朝鮮第一の高山と言ふ事は出來ぬのである。 

 

◆「定界碑」が無くなった

 この「定界碑」は1931年7月28日に確認されたのが最後で、その翌日にはなくなっていた。その前後の状況については篠田治策が『白頭山定界碑』の自序に書いている。

 白頭山定界碑は、清国康煕帝が其祖先発祥の霊地を自国版図内に包容し、並に朝鮮との境界を明かにして国境地方の紛擾を避けんが為に、朝鮮にも知照し、烏喇総管(吉林総督)穆克登を白頭山に派遣して建立せしめたる有名なる国境石であつた。而して後年「間島問題」の生ずるに至り、清韓両国間と日清両国間に、前後を通じて二十八年間にわたる国際争議の原因となりし重要なる史蹟であり、更に現今に於ては、明治四十二年九月四日日清間の「間島に関する協約」に基く日満両国の国境石である。

 然るに此定界碑は、昭和六年七月二十八日より、翌二十九日の朝に至るまでの間に忽然其姿を消した。

 近年白頭山に登る者は、警戒を要する爲め我國境守備隊の夏期行軍登山に同行するを例とせる が、此歳亦恵山鎮の守備隊約五十名、茂山及び三長守備隊約五十名と共に、五十六名の普通登山者を見た。一行が昭和六年七月二十八日午前九時半頃、定界碑の所在地にて少憩したる時には、定界碑は厳然として確かに存在した。普通登山者は軍隊と分れて、更に山頂に登り天池の附近に露宿し、翌朝歸途に就きて再び定界碑の所在地に到りし時は、既に定界碑は何れにか撤去せられて、其龜跌 (臺石) の傍に白頭山登山道と書したる木標の樹立せられたるを見るのみであつた。一行中の史蹟研究家は、歸途に於て充分に碑及び碑文を調査する豫定なりしも、遂に其目的を達するを得ず、甚だしく失望して山を降りしとは、當時の登山者の一人が著者に對する直話である。

 咄、何者の没常識漢ぞ、斯かる重要なる史蹟を壊滅して、國境を漠然たらしめんと企てたるは。

 蓋し碑石を撤去し代ふるに木標を以てしたるを見れば、固より計劃的の行爲にして一時の好奇心に出でたる悪戯に非ず、而も多人數の所爲なること、及び天池の附近に往き、一團となりて露宿したる普通登山者以外の者の所爲たることは推知せらるるのである。

 篠田治策は、名指しこそしていないが、日本軍守備隊の仕業だと思っていたのだろう。「多人数」で「普通登山者以外」となれば、それしかない。

 

 恵山、茂山、三長の国境守備隊は朝鮮軍(朝鮮を管轄する日本軍)20師団の麾下にあった。この時の司令官は林銑十郎である。

 

 この3週間ほど前の7月2日に万宝山事件が起き、朝鮮の仁川や京城での大規模な華僑への襲撃事件にまで発展した。中国東北部の長春北西の万宝山で、朝鮮人農民と中国人農民との間で水路をめぐる小競り合いが起き、これが発端となって日本の警察と中国人農民との衝突にまで発展した。この事件が朝鮮で報じられると、仁川や京城で興奮した朝鮮人による中国人への襲撃・焼き討ちが起きた。

 

 中国東北部での事件をきっかけに、朝鮮軍の上層部が、中国人と朝鮮人間の紛争に鴨緑江・豆満江の境界線問題が絡んでいて、その原因の一つが「白頭山定界碑」にあると単純に考えた可能性は十分にある。

 

 実は、朝鮮軍司令官林銑十郎は、その後9月に満州事変が起きた時、鴨緑江の境界を無視して独断で朝鮮軍20師団の混成第39旅団に対して中国側への越境を命じている。奉勅命令のないまま勝手に境界を越えて部隊を移動させたのである。これは重大な軍律違反であったが、この独断渡河が後に追認されたことで「越境将軍」と誉めそやされるようになった。

 

 あくまでも推測の域を出ないが、朝鮮軍の司令官や参謀レベルで、朝鮮と満洲の境界の根拠となる「定界碑」は目障りだから、この際除去しておこうと7月中に撤去してしまった可能性は十分に考えられる。

 

 篠田治策は、この貴重な歴史史料を撤去してしまった連中を、「何者の没常識漢ぞ」と辛辣に罵倒している。さらに、このように悲憤慷慨している。

 三十餘年前、嘗て間島問題に關與し、定界碑に關して多少の研究を試みたる著者は、此事實を聞きて大に驚き、且つ憤激に堪へざるのである。斯る重要なる史蹟は國家としても永久に保存すべく、又現時の國境石として協約上其位置に存在せしめざる可からざるものなるは明かである。

 故に、著者は屢々朝鮮總督府に對して其捜査を進言した。蓋し相當の重量ある碑石なるを以て遠方には撤出せざる可く、必ず其附近に埋沒せるか、或は地缺内に投入せるならんと推定せらるるを以て、速かに搜査に着手せば其發見に難からざるのみならず、朝鮮總督の威令を以てせば、 誠に一舉手一投足の勞に過ぎずと信じたのである。然るに當局は斯る問題には殆んど關心を有せざるものの如く、遂に今に至るまで其捜査を試みざるのである。

 当時着任早々の朝鮮総督宇垣一成は、参謀本部や関東軍とも深いつながりのある参謀を擁す現役中将林銑十郎朝鮮軍司令官の前では、消失した白頭山定界碑について何らの「威令」を発揮することもできなかったのかもしれない。

 

 こうして、白頭山の「定界碑」は消失してしまった。

 

◆白頭山をめぐる現在の国境線

 1948年に朝鮮民主主義人民共和国が建国され、1949年には中華人民共和国が建国された。この時期、白頭山山頂部分の中朝国境がどのように設定されていたかは定かでない。

 

 1950年6月に朝鮮戦争が起こり、中国の義勇軍や鴨緑江・豆満江の中国側に居住していた朝鮮系の人々もこの戦争に参戦した。朝鮮戦争が休戦となり、1958年10月に北朝鮮に駐留していた中国義勇軍が撤退、1961年7月11日に中朝友好協力相互援助条約が締結された。

 

 そして、1962年10月12日に「中朝辺界条約」が締結され1963年3月20日に議定書が調印されて下のGoogleマップに描かれているような国境線が引かれたとされる。

 

Googleマップ

 

 この「中朝辺界条約」によって、白頭山山頂の天池については、54.5%が北朝鮮領、45.5%が中国領とされた。さらに、豆満江上流部分についても、「間島に関する日清協約」で国境とされた石乙水から大きく北上した位置に東行する直線の国境が設定されている。中国側が譲歩して、北朝鮮側が白頭山山頂を自国領土内に取り込むことができた合意ともいえよう。

 

 1999年10月21日の『東亜日報』は、白頭文化研究所の李炯石イヒョンソク代表が「中朝辺界条約」について延辺大学関係者から聴取した内容を地図とともに伝えた。

 

※点線が1909の日清協約の境界線、実線が1962年の朝中辺界条約の境界線

白頭山地域280平方キロメートル、中国が譲歩
 北朝鮮が62年に、中国との国境交渉を通じて、日本が日帝時代に清と結んだ間島協約(1909年)に比べて280平方キロメートルの領土を追加で確保したという主張が提起され、関心を集めている。
 これまで62年、中国の周恩来首相と北朝鮮の金日成首相の間で締結された秘密条約の内容が明らかにされなかったことから、北朝鮮が中国の朝鮮戦争参戦の見返りに中国側に白頭山天池を譲り渡したという仮説が提起されてきた。
 白頭文化研究所の李炯石代表(62)は、20日、「今年の夏、中国で延辺大関係者から『朝中辺界条約』の内容を聞いた」とし「この条約に基づき北朝鮮と中国の境界は白頭山天地を横断する21の定界碑で区分されている」と語った。「これは北朝鮮がむしろより多くの土地を得たということで、北朝鮮が中国に白頭山天池を譲歩したという説は誤りだ」と述べた。

 

 ただ、1962年の中国と北朝鮮の協議の中で、白頭山定界碑の位置について、また「土門」と「豆満」「図們」とが同一河川か否か、定界碑から最も近いとされる源流が松花江の上流であったとされたこと、こうした点が議論されたか否かについては一切明らかにされていない。

 

◆「定界碑」の復元?

 2005年8月、7月19日から30日にかけて北朝鮮を訪問していた高句麗研究財団の調査団が撮影した石碑の写真を韓国の新聞が報じた。北朝鮮が1980年に天池登山道脇に白頭山定界碑を復元したものだという。

 

 

訪朝高句麗研究財団が標石の写真を公開

 1712年、朝鮮と清国が国境を区分するために建てた白頭山定界碑の具体的な位置が確認された。北朝鮮の高句麗遺跡を調査するために、7月19~30日に訪朝した高句麗研究財団(理事長金貞培キムジョンべ)調査団は、白頭山東南側4キロ地点の天池登山道脇の山麓に北朝鮮が建てた白頭山定界碑の標石を撮影し、3日これを公開した。白頭山定界碑を南側の学者が直接確認したのは解放後初めてだ。

 調査団が撮った写真資料によると、白頭山兵使峰ピョンサボン(北朝鮮名:将軍峰チャングンボン)と大臙脂峰テヨンジボンの間の中間地点に位置する白頭山定界碑の場所には、北朝鮮当局が1980年に建てた白い標石(高さ45㎝、幅25㎝の四角柱形)と定界碑の台座だけが残っていた。標石が位置するのは、行政区域上は両江道リャンガンド三池淵サムジヨン新茂成労働者シンモソンロドンジャ区で、白頭山下の駐車場近くの草むらの裏側である。白頭山定界碑は、朝鮮粛宗スクジョン38年(1712年)に白頭山に建てられた朝鮮と清の間の境界碑で、記録上では1931年7月28日まで存在が確認されているが、その後消失した。満州事変当時に日帝が撤去したという説がある。

 金理事長は「標石には文字が刻まれていなかった」とし、「北朝鮮が中国との外交摩擦となることを懸念して白頭山定界碑のあった場所だとは明言していないようだ」と語った。また、北朝鮮の中国語版の観光地図にも、この石碑は「定界碑」ではなく「白頭山史跡碑」と掲載されていたとしている。

『京郷新聞』2005.08.03 17:42

 「定界碑」があったとされる場所に、1980年に石碑が建てられたとされているが、詳細は不明である。

 1982年2月に金正日キムジョンイルが白頭山密営で生まれたとする中央人民委員会政令が出ており、1980年代後半に神格化が進んだ。それに先立って白頭山整備が行われたとも推測されるのだが…。通常、北朝鮮では「指導者」と無関係に歴史的遺物だけが再設置されることはないのだが、清が建てた「定界碑」が復元された経緯や意図はよくわからない。

 


 

 韓国の国歌の冒頭には「東海の水と白頭山が…」とある。この歌詞は、独立協会メンバーだった尹致昊ユンチホによるものともいわれるが、興士団フンサダンを組織した安昌浩アンチャンホによるものとの説もある。

 

 白頭山境界問題で「土門」と「豆満」が別流であると公式に表明したのは西北經略使であった魚允中であった。その魚允中が1881年に紳士遊覧団の一員として日本を視察した際、17歳の尹致昊は魚允中の随員の一人がだった。尹致昊は魚允中の指示でそのまま中村正直の同人社に留学した。1896年の金弘集内閣では、魚允中は度支部大臣(財務)、尹致昊は外務協弁を務めた。尹致昊なら白頭山を歌詞に入れそうな気もするのだが…。

 

 南北に分断された韓国からは、北朝鮮側から白頭山に登ることはなかなかできなかった。

 2018年9月には、南北首脳会談後の文在寅ムンジェイン大統領と金正恩キムジョンウン朝鮮労働党委員長が将軍峰の山頂に立っている。

 


 韓国では、白頭山定界碑は亡くなってしまった過去のものではない。碑文の「西為鴨緑、東為土門」の「土門」については、今でもことあるごとに取り上げられる。これからの国際環境の変化によっては、領土ナショナリズムの火種にもなりかねない、そんな碑石である。

 1976年に発給された私の最初のパスポートから何冊目かのパスポートまでは、「渡航先」欄にはこのような記載があった。

 

 つまり、このパスポートは、世界中の全ての国と地域で有効。だけど、北朝鮮だけは除くとなっていた。

 


 

 1970年発行のパスポートでは、「except」とされた地域はさらに多かった。

 

 日本では、1964年4月に海外渡航が「自由化」された。ただ、この「自由化」とは持ち出し外貨の規制が緩和されたもので、旅券は一回の渡航にだけ有効、記載された渡航先以外には行けないものだった。

 

 外務省は、1965年に、渡航先を限定せず、一定期間何度でも使える数次旅券が発給できるよう旅券法の改正案を作成した。ところが、これに法務省と公安調査庁が強く反発した。中華人民共和国や朝鮮民主主義人民共和国などの未承認国家への渡航まで可能にする旅券発給は認められないとした。その結果、この時の旅券法の改正案は断念された。

 

 1969年になって、5年間有効の数次旅券に発給が可能な旅券法改正が実現したが、渡航先については、冒頭の写真のように、North Korea、Mainland China、North Vietnam、East Germanyを除外するという渡航先の制限が記載されることになった。

 

 1972年9月29日に、田中角栄が中国を訪問して周恩来・毛沢東と会談し、日中共同声明が出されると、翌月にMAINLAND CHINAが渡航先制限から削除された。

 さらに、1972年12月に東西ドイツ基本条約が締結されたことを受け、翌年2月10日に日本政府は東ドイツと国交交渉を開始することを発表した。そして、5月15日に国交が樹立されたことでEAST GERMANYが削除された。

 北ベトナムとの間では、1973年9月に国交を樹立することで合意されたことで、この時にNORTH VIET-NAMが削除された。

 

 中華人民共和国が、中華民国(台湾)にかわって国連加盟国となったのが1971年、日本が後追いをすることになったニクソン米大統領の訪中が1972年2月、沖縄の本土復帰が1972年5月、そして朝鮮半島で「南北共同声明」が出されたのが1972年7月4日。

 この1970年代前半が、一つの曲がり角であった。そして、日本の旅券もこの時大きく変わった。

 

 しかし、NORTH KOREA,だけは渡航先の除外対象として残された。

 拉致問題も核・ミサイル開発も全くなかった時期のことである。

 

 北朝鮮に渡航する際には、下のようなNorth Koreaを渡航先とする旅券を別途取得しなければ旅券法違反になった。

 

 一般旅券の渡航先に記されていた「Except North Korea」の記載は、1990年になって削除されることになった。この年9月、金丸自民党元副総理と田辺誠社会党委員長の訪朝団が平壌を訪問した。訪問団と朝鮮労働党との共同声明に日本旅券の渡航先の除外規定の削除が盛り込まれた。この結果、日本の旅券からは「except North Korea(Democratic People's Republic of Korea)」という記載がなくなった。

 

 

 私の一般旅券は1988年発行だったので、この除外規定が記載されていた。1991年に北朝鮮に渡航する時に北京の日本大使館で削除してもらった。


しっかり消してくれたのかもしれないが、もうちょっときれいに消してくれればいいのに…😀。

 

 金丸・田辺訪朝団がきっかけとなって、1991年から1993年にかけて日本と北朝鮮の間で国交正常化交渉が行われたが、会談は中断したままになった。

 

 今や、北朝鮮といえば、拉致と核開発とミサイルしか思い浮かばないというのが日本社会の実情だ。日本国内では「従軍慰安婦」の問題も「徴用工」の問題も「解決済み」と思っている人も少なくないようだが、それはあくまでも大韓民国との間の「日韓基本条約」と「日韓請求権及び経済協力協定」で「解決済み」とする日本政府の解釈を言っているに過ぎない。さらに、朝鮮民主主義人民共和国との間では、「従軍慰安婦」の問題も「徴用工」の問題も、「解決」はおろか、実質的な交渉すら未だ行われていないのである。

 韓国にはいろんなパスポートで渡航した。それぞれのパスポートにいろんなビザが残っているし、出入国スタンプが押されている。

 

 初めての韓国渡航は1976年3月だった。それまで、外国に行くことはもとより、飛行機にも乗ったことがなかった。当時住んでいた福岡で、本籍地の静岡から戸籍抄本を取り寄せて旅券を取り、赤坂門にあった韓国総領事館に行って領事部の窓口で15日間滞在できる観光ビザをもらった。

 

 

 当時買ったJTBの観光案内書には、このように書かれている。

 

 

 後段の部分に「査証不要」とあるが、これは韓国を通過するトランジットだったら5日間滞在できるということで、日本から韓国だけを往復する場合には該当しない。

 だから、韓国に行くだけだったらそのたびに韓国大使館や領事館にビザをもらいに行く必要があった。


 

 金浦空港に向けて初めて福岡空港から飛び立ったのは1976年3月30日。その時の日本出国のスタンプは「ITAZUKE」となっている。米軍の板付基地が日本側に返還されたのは1972年だが、それ以前から飛行場は「福岡空港」と呼ばれていた。1970年4月のよど号ハイジャック事件の時も「福岡空港」と報じられたし…。ただ、福岡の地元では「板付」と呼ぶことも多かった。1968年に九州大学の構内に墜落した米軍のファントム戦闘機はプエブロ号事件で板付基地に飛来した中の1機だったし、「板付=米軍基地」のイメージが強かった。

 1976年の入管のスタンプはなぜ「ITAZUKE」だったのだろうか…。1979年8月には「FUKUOKA A・P」のスタンプに変わっている。

 

 この最初の韓国旅行の時は、ソウルから扶余・公州、大邱、慶州、釜山をめぐって釜山から関釜フェリーで下関に帰ってきた。下関のスタンプは「KANMON(S)」だった。

 

 その後、1981年5月から留学ビザで1983年7月まで韓国に居住した。その間は韓国の観光ビザを取ることはなかったが、日本に一時帰国をするときに入管で再入国許可(リエントリービザ)を取る必要があった。一回きりのリエントリービザしか出なかったので何度も入管に通った。

 

 1983年に留学を終えて日本に帰国し、韓国に行くために久しぶりに観光ビザを取ったら、滞在期間が15日から30日に延びていた。30日間になったのはこの1983年からである。この年からは日本人観光客の済州島への渡航が15日間までノービザになり、日本の高校の修学旅行については15日間ノービザ渡航ができるようになった。この当時、日本からの修学旅行生は1万人近くに上っていた(読売新聞1983年7月15日朝刊)。

 

 1985年のガイドブックの記載ではこのようになっている。

 

 

 ビザ取得の窓口手数料は3,100円、旅行社に頼んだことはないが手数料込みで8,600円もかかっていたらしい。今から思えば、ビザ取得だけでえらく高い費用がかかっていたものだ。

 

 1986年にソウルでアジア競技大会が開催された。この時は、私は仕事で再び韓国に滞在していた。

 アジア大会の前の新聞報道には、競技の観客にはノービザの滞在期間が15日間から30日間まで延長されるとある。そもそも15日間のノービザ渡航も認められてなかった日本人観客にもこれが運用されたのか…。自分でビザ申請をする必要がなかったのでよくわからない。


 さらに、1988年のソウルオリンピックの開催の時も同様の措置が取られている。

 

 この時、日本は10人以上の団体の場合にビザ無しで30日間滞在が認められた。個人の観光旅行のビザが免除されたものではなかった。

 

 この88ソウルオリンピックをきっかけに、韓国政府は「海外渡航自由化」に踏み切った。すなわち、それまでの韓国では、パスポートの取得に当たって海外渡航の理由や目的が審査されていた。それが、申請さえすれば誰でも旅券が取得できることになった。ただし、兵役義務対象者への旅券発給がすぐには実現しなかったので「段階的な自由化」となった。

 

 この「海外渡航自由化」にともなって、韓国政府は日本とのビザ免除の交渉に乗り出した。

「韓日ノービザ協定推進」

 

 ところが日本政府は、韓国人の不法滞在や不法就労が増大する恐れがあるとして韓国人観光客のノービザについてはきわめて否定的であった。観光ビザの免除は、双務的 — 韓国が免除すれば日本も免除する — に行うことを原則とする。しかし、日本は全くやる気がなかったので日韓のノービザ渡航の協議は一向に進まなかった。こうした中で、韓国政府は、1993年夏に開催予定の大田エクスポを前にして、観光客誘致のために日本人の観光目的のノービザ入国を期間限定で認めることにした。

 日本旅券を持っている観光目的の渡航者のみがノービザで韓国に行けて、韓国の観光客の日本訪問にはビザが必要という「片務的」な制度だった。そのため、この「ノービザでの韓国渡航」は1年ごとに韓国政府が延長を宣言していくという「暫定的な制度」の継続という扱いだった。しかし、実際にはこの1993年8月以降ノービザになり、私のパスポートにも韓国の観光ビザのスタンプはなくなっている。

 

 1996年5月31日にFIFAがサッカーW杯日韓共同開催を決定した。日韓両国がともに単独開催を主張して譲らなかったため、妥協策として例外的な共同開催となった。当時は、領土問題などを巡って日韓関係は「最悪」と言われていたのだが…。

 

内閣府「世論調査・外交に関する世論調査」より

 

 共同開催ということになったため、日韓両政府は7月にビザ発給手続きの簡素化などの協議を始めた。日本側は、大会関係者や外交・公用ビザの免除については応じたものの、韓国人観光客のノービザについては依然として消極的であった。

 この時に、ワーキングホリデー制度の提案が韓国側からあった。日本側もこれに応じて、ワーホリのビザは1999年から発給されることになった。対象者は原則として18~25歳、事情によって30歳まで可。日韓双方でそれぞれ年間1000人までという人数の上限が設けられた。初年度は韓国では約2700人の応募があり、選考の結果960人にビザが発給された。一方、日本人のビザ申請者は2桁台の少数にとどまり、その後2〜3年間は日韓間で申請人数の不均衡状態が続いた。韓国では「狭き門」であったのに対し、日本側では一人で2回ワーホリビザが取得できたケースもあった。ただし、2002年のW杯の開催、「韓流」ブームの到来とともに日本での申請者も増加してワーホリビザは1回だけになった。

 

 このワーホリでの渡航が始まった1999年からはノービザでの滞在期間が15日から30日に拡大された。

 

 

 2002年のサッカーW杯期間中、日本側は5月15日から6月30日までの期間に限定して韓国からのノービザでの日本入国を認めた。しかし、大会終了後は、日本からは韓国にノービザで行けるが、韓国からの渡航にはビザが必要という状態に戻った。

 

 2004年7月の日韓首脳会談で、日本側は翌2005年3月の愛知万国博覧会に合わせて、暫定的に韓国人訪日観光客のビザを免除すると表明し、ビザなし訪日が実現した。

そして、そのビザ免除措置は愛知万博閉幕後もそのまま継続された。その結果、2005年3月から、韓国からの観光目的の日本入国はノービザとなった。

 これによって日韓の双務的ノービザ往来が実現した。日本の旅券所持者がノービザで韓国に行けるようになってから12年遅れで韓国の旅券所持者のノービザでの日本渡航が実現したのである。

 

 この時に、日本からのノービザの韓国滞在期間は3ヶ月間(90日)に延長された。


 

 

 


 

 日本のパスポートで航空券や乗船チケットさえ買えば韓国に行けるようになって28年、韓国からもノービザで日本に来れるようになって16年以上になる。

 しかし、昨年からはコロナ感染によってノービザでの相互往来は停止状態になった。

 

 2020年6月の韓国の統計では、日本は前年同月比99.8%減となったと報じられた。

 

 

 私は、2020年2月の韓国訪問が最後で、それ以来1年半以上パスポートを使うことすらできなくなっている。

 最後はいつだったかな、とパスポートを開いてみたが、スタンプがない。そうだ!日本の入管は機械化されてスタンプもなくなったんだったと改めて思い出した。韓国の入国スタンプも2019年の年末に入国した時の痕跡が見つからない。

 

 今回、このブログを書くために10冊のパスポートを引っ張り出してきて、「ああ、あの時あの国に行ったんだ…」なんてことを思い出したりしたが、これからはパスポートを開いても、何の痕跡も残っていないということにもなりかねない。

 そんな時代になったのだろうが、スタンプがなくなっても、国境は依然として壁であることには変わりない。

 その壁を越えるために必要なのは、相互理解のための真摯な努力と、きちんと歴史に向き合おうとする姿勢である。