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一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

◉京城の地図

◆韓国京城全図 附釜山日本居留地及大邱市街全図

京釜鉄道株式会社 1903
1:10000  97×68cm

ソウル歴史博物館(カラー)

国会図書館(白黒分割)


◆実測詳密 最新京城全図

森山美夫 日韓書房 1907 

1:10000  74.8×52.9cm

ソウル歴史博物館(11月修正版 カラー)

東京経済大学 桜井義之文庫(3月初版 白黒分割 DjVuファイル)


朝鮮全地図 京城市街全図

財藤勝藏 大阪十文字屋 1913

 1:10000

国会図書館(白黒分割)


◆京城府市街疆界図

大阪十字屋編 1914
1:10000  109.4×77.5cm

国会図書館(白黒分割)


◆京城市街明細圖

日韓書房 1920
1:15000  76×53cm

日文研所蔵地図データ(朝鮮)


◆京城市街案内図

三中井呉服店 1925 

1:7500  68×97cm

朝鮮神宮鎮座祭奉祝記念


東京経済大学 桜井義之文庫(白黒分割 DjVuファイル)


◆京城市街図

朝鮮総督府 1925 

1:7500  65×93cm


日文研所蔵地図データ(朝鮮)
ソウル歴史博物館


 

◆京城府市街図

 
朝鮮出版協会 1927
1:15000

ADEAC
 

◆京城市街地図

名産商会 1929 

27×39.5cm 

ソウル歴史博物館(カラー)

 

海市商会 1929

32×47cm

日文研所蔵地図データ(朝鮮)


◆京城精密地図 

三重出版社京城支店 1933 

1:4000  79×109cm

ソウル歴史博物館(カラー 複数ファイルDL可)
東京経済大学 桜井義之文庫(白黒分割 DjVuファイル)


◆地番区画入大京城精図

森田仙堂 1936

1:6000  54.2×78.7cm 

京城府校閲 京城府尹甘蔗義邦の序あり

ソウル歴史博物館(カラー 複数ファイルDL可)

ソウル歴史博物館(カラー 複数ファイルDL可)


◆大京城府大観

小野三正編集・作図 朝鮮新聞社 1936

1935年8月24日に航空写真撮影


 

ソウル歴史博物館編『大京城府大観』(2015)

1936年に製作された鳥瞰図「大京城府大観」を87等分し、1.4倍程度に拡大して収録した地図集。町名索引、協賛者(地図の製作に協賛した団体等)索引の検索ができる。

ソウル歴史博物館

ソウル歴史博物館編『大京城府大観』e-book版

ソウル歴史博物館編『大京城府大観』PDF版



◉ソウルの地図

◆KYONGSONG OR SEOUL(KEIJO)

米陸軍地図局長の指示により以下のものを編纂して1945年に作成

  1. 京城 1:10,000、陸地測量部 1917
  2. 朝鮮 1:25,000、陸地測量部 1920 京城、纛島、牛耳洞、北漢山
  3. 永登浦 1:10,000、日本陸地測量部 1918
  4. 航空写真 アメリカ空軍 1944年12月
  5. 航空写真 アメリカ空軍 1945年1月
  6. 航空写真  アメリカ空軍 1945年1月
  7. 京城市地図 1:7,500 朝鮮総督府1937.
  8. 龍山 1:7,500 朝鮮総督府 1929.
  9. 京城 1:50,000、日本陸地測量部、1932.
  10. 大京城地図最新版 1:25,000 1939.
  11. 最新朝鮮地図 1:1,000,000、大阪毎日新聞社  京城 1:40,000 1937
  12. 情報部データ

朝鮮語表記はMcCune-Reischauer方式、日本語表記(括弧内)はヘボン式による。

Korea Map - Perry-Castañeda Map Collection - UT Library Online


◆地番入新洞名入ソウル案内(신동명입서울안내)

尹錫勳 1946年10月2日ソウル行政区域名改称公示以降

36.8×52.6cm

ソウル歴史博物館 


◆ソウル市街地図(서울시가지도)

U.S. ARMY MAP SERVICE, FAR EAST  1950年代中盤

92×68cm 

ソウル歴史博物館(カラー 複数ファイルDL可)


◆最新ソウル特別市街図地番入(최신서울특별시가도지번입)

漢公地図工業社  1968

1:9000  108.6×78.5cm 

ソウル歴史博物館(カラー 複数ファイルDL可)

 


 

ソウル歴史アーカイブには91種の地図データがある。
(2021年1月10日現在)
 

서울역사아카이브>서울지도>근현대지도>서울지도



 

 Netflixのドラマ「イカゲーム」で、世界中で一躍有名になった遊びだが、ドラマの冒頭部分にこの遊びについての解説がある。

 日本語字幕付き短縮版↓

 

 ドラマの中でこの遊びの場面が登場するのは、一番最後の6番目のゲーム。本来は子供たちが集団で遊ぶものだが、ドラマでは、幼馴染のアジョッシが二人で対決する設定なので、地面に描かれている「イカ」以外には、ほとんどイカ遊びっぽくない。

 

 「イカ遊び」については、1995年に光州クァンジュ広域市立民俗博物館が編纂した『光州의 民俗놀이(光州の民俗遊び)』にこのような記載がある。

25. イカ遊び

1.概観

 季節に関係なく子供が集まると広い庭や田畑で線を引いてこの遊びをやった。この地域一帯で多くの男女の子供が楽しむ遊びだ。

 イカの形をした頭の部分の円の中に攻撃側が入り、イカの胴体部分に守備側が入って遊びが始まる。攻撃側は、くびれた部分を通ってイカの胴体を横切ることができるので、攻撃者はイカの凹んだところで守備側と攻防戦をやって、ここを通過する。

 通過した攻撃者は、下の入り口部分で様子をうかがい、守備側が少なくなったところで突撃してイカの頭部の三角形に足を踏み入れると勝ったことになる。

2.遊び方

 じゃんけんで勝った方が円の中に入って攻撃し、負けた方がイカの中に入って守備をする。

 攻撃側も守備側も、イカの外では片足で移動しなければならない。くびれた部分を渡り切ると内・外に関係なく両足で動くことができ、片足よりも攻撃がしやすくなる。守備側をほとんど死なせて、チャンスを見計らって入り口からイカの中に入り、'突撃'しながらイカの頭と円とが重なっている三角形の部分を「ジン」と言って踏むと勝ちになる。突撃を試みて一人でも成功すれば、死んでいた仲間がみな生き返って再び遊びが始まる。イカのくびれた部分を通過しようとすると守備側が押したり引いたりするので、それをかわしながら通過しなければならない。このときに死んでしまうことが多く、味方が全滅すると攻守が交代して攻撃と守備が入れ替わって遊びが続けられる。

 ドラマの冒頭のルール説明とほぼ同じ。ただ、くびれた部分を通過して両足で動けるようになると、「暗行御史(アメンオサ)」と宣言するというのは、ここには出てこない。また、三角部分を踏んで「マンセー」というのも、光州の調査では「ジン」と叫ぶことになっている。

 

 もう一つ、韓国の国立民俗博物館がネット上にも公開している『韓国民俗大百科事典』「韓国民俗芸術事典  民俗遊び」にも、この「イカ遊び」についての記載がある。

https://archive.md/5wnd2

 イカ遊びは遊び場に描かれる絵がイカに似ていることから名付けられた。地域によっては「イカ・ガイシャン(오징어 가이샹)」または「イカ・タッカリ(오징어 따까리)」とも呼ぶ。

 遊び方のルールは、光州の報告書の説明とほぼ同じ。ただ、最後に攻撃側が攻略する三角の部分は「万歳マンセトン(만세통)」となっているので、ここを踏んで「マンセー」と叫ぶのだろう。ただ、「暗行御史アメンオサ」は出てこない。暗行御史は、国王の直命を受けて、地方長官の不正を暴く監査の任務にあたる官吏で、強力な権限を与えられたという意味で、両足が使えるようになったところで「暗行御史」を宣言することにしたのかも知れない。子供の発案であろう。

 

 この解説の中では、植民地時代に日本から入った遊びだとされている。

 この遊びは、普通「イカ・ガイサン(오징어 가이상)」と呼ばれたが、地面に線を描く遊びで「十字シプチャガイセン」「八字パルチャガイセン」などのように「ガイセン(가이생)」や「ガサン(가상)」といわれる遊びが多い。この「ガイサン(가이상)」は日本語の「開戦」に由来する。日本による植民地時代の遊びの名前から来たものだったが、今はほぼ日本由来の痕跡はない。

 “日本語の「開戦」に由来する”とあるが、それがどのような遊びなのかは書かれていない。「開戦」という言葉の入った日本の遊びというのをネットで調べると「開戦ドン」というのがある。しかし、イカ遊びとはかなり違う。これは、チーム対抗の陣取りではあるが、じゃんけんで遊ぶもの。ただ、「陣取り」という点では共通性があるが…。

 

 日本の陣取り遊びで、攻撃側と守備側が激しい攻防戦を繰り広げるものといえば「にくだん」というのが一番それに近いだろう。

 円の内側に守備側が入り、攻撃側は外側の部分を回る。島の部分には、攻・守いずれもが渡れる。攻撃側は線の外に出されるか、内側に引き込まれると死ぬ。ただ、共通しているのは攻防戦をやることだけで、遊び場の描き方やルールはかなり違う。

 

 ネットで検索すると、「にくだん」を「がいせん」と呼んでいたというブログがあった。このブログにある小豆島の例以外のものは見つからないが、「がいせん」と呼ばれた陣取り遊びが日本にあったことは事実。だからといって、これが「가이상(カイサン)」「가이생(カイセン)」となったとか、イカ遊びとつながりがあるとは言えないが、可能性の一つではある。

 

 植民地時代に、朝鮮の子供たちの様々な遊びに、日本の子供の遊びが影響を与えていたことについては、秋月孝久「朝鮮児童の遊戯(『国民文学』1942年11月)に言及がある。

 陣取りゲームについては言及されていないのだが、石蹴りについて次のような記述がある。

 石を用うる遊戯について調べてみると、此処でも朝鮮と内地とは非常によく似ている。

 殊に朝鮮で「碑石打ち」と書いてピザンチギという石打ち遊びは、大分県で「尊氏の塔倒し」とよび、山口県などの「石けつちり」の規則と比べてみると、よくもこんなに似たものだと驚く程似かよっている。石を肩や背や頭にのせて行って当てるのがそっくりそのままである。

 宝取りといわれるものも、朝鮮で「石取」「俵取」という名で呼ばれていて、内地では「玉取」「陣取」といわれ、相手の陣に入って宝にしてある石を持って来る遊びである。

 一般に石けりと言っても、種類は随分沢山あって、規則も千差万別である。大ざっぱに分けると大体付図の様に四通りになる。

(一)は丸跳型で、小さな円を描いてそれを跳んで遊ぶ。内地の何処にでもあり、朝鮮でもよく遊んでいるから大方想像がおつきになるであろう。

(二)は角石けり型と名づける。これは四角が基本型で、部屋がふえたり、跳び方が複雑になるから難しくなる。これも内地にも朝鮮にもある普及版で、少し子供を見ている人は誰でも知っている。

(三)は渦巻のものが多いのだが、円形石けり型と呼んでおこう。渦巻き石けり、蝸牛石けりと内地で言われるもので、朝鮮ではトングルラミサラゲッキと呼んでいる。これも内地でやっているし、朝鮮でもよく路上に遊んでしまったトングルラミが残っている。

(四)に登場するものは、内地では見られないから、私はこれを「朝鮮石けり」と命名する。この特徴をあげると、右から左の方へ蹴って行く場合と左から右に蹴って行く場合と両方あるが、どちらも、(イ)の所が上の例の如く点数で、(ハ)から蹴って、(イ)に入れて、その点数を採点する。点数は中央が最高点であればいいので、別に統一があるわけではない。中央が萬点なら周囲は九千点、八千点、七千点、六千点となっている。これは多分に博打になる傾向が見られるが、慶北の一部ではサバンチギを禁止しているとか言う話を聞いたことがあるので、大人の世界から子供の方に移った遊びではなかろうかと思う。

 (ロ)という所は、石が入ってはならない所である。此処に入ると、始めから出直さなくてはならない。そういう意味で真に恐ろしい場所で、はまり込む、とか、落ちこむという言葉がしっくりする場所である。

 ここの(四)については、「内地にはみられない」というのだから、朝鮮で独自的に創作・発展したものというべきものであろう。さらに、

 この入ってはならぬ場所を子供たちは何と呼んでいるかを少しく調べてみよう。

 キーサンチップ、キーサンボというのが中々ある。妓生の家、妓生の房というのだそうで、朝鮮の子供も中々隅に置けない。近寄ってはならぬ所、入ったら人生出直さなければならないと考えている。その真相をよくつかんでいる所、どうも子供の命名したものではなさそうな気がするが、案外直観力に秀でている子供の事だからやりかねないかも知れない。同様な意味からであろう、酒場、スリチビ、此処へ入ることを「酒を飲んでいる」と、表現している場合も洪城で拾った。井戸、水の屋と言う時には「ハマッタ」といってはやし立てる。大同江、洛東江もやはり、はまったら大変で、人生出直し所か、今度は馬に生まれるか犬になりかわるかわからない人生の出直しである。

 この様に朝鮮石けりは、点数をとることと、落ちこむ部屋を作ってある所が独特な点で、朝鮮色が濃厚に出ていて面白い。

 用語的にも「キーサンチップ」「キーサンボ」など、朝鮮の「妓生キーセン」が使われている。「暗行御史」などもその種のものではあるまいか。原型は日本からの影響かもしれないが、かなり早い段階で、子供の遊びにおいて、朝鮮独自のルールづくりや、用語の使用があったのではないか。

 

 結局、結論としては「イカ遊び」が日本由来の遊びかどうかよくわからない。ただ、子供の遊びの用語の中には、結構「日本語の残滓」があったようなのだが、遊びとしてはほとんど違うものとして出来上がっていたようにも思える。

 

 そういえば、「片足で進む」ことを光州の調査報告には「깸발(ケムバル)」と書かれてる。ドラマ「イカゲーム」では「깽깽이 발(ケンケンイバル)」。これって日本語の「けんけん」に由来するのかも… と思うのだが、確証はない。韓国でも若干の論争があるようだが…

 1970年代から80年代初頭にかけて、韓国の詳細な地図が欲しかったのだが、軍事上とか安全保障上の理由でなかなか入手できなかった。ソウルでは鍾閣の交差点、和信の向かい側にあった中央地図文化社でいろいろな地図を販売していたが、地図を購入するためには住民登録証が必要だった。それに、1:50,000の地形図は国外への持ち出しが厳しく制限されていた。

 

 

 ここでは、1:50,000、1:25,000、1:10,000などの地形図を中心に制作や販売についてまとめておきたい。

 


◆日本による地形図の作成
 1:50,000の「朝鮮地形図」の作成は、日本による朝鮮侵略プロセスの一環として臨時土地調査局の陸地測量部を中心に行われた。

 

 この時の地図制作に関係していた石原俊雄が雑誌『朝鮮』(1924年6月号)、『青丘学叢』(1934年11月)に地図作成の経緯を書き残している。

 それによると、朝鮮での三角測量は、1910年6月に着手され、1915年11月に測量が完了した。1915年から1918年にかけて1:50,000地形図620枚が発行され、1916年10月に朝鮮総督府が代理店を官報で公示して一般向けへの販売が始まった。さらに、1917年6月には代理店が追加となり、1:50,000だけでなく、1:25,000、1:10,000、それに特殊図(金剛山・慶州・扶餘・開城)の販売も行われた。

 

 その後、1921年には、1:50,000地形図の22枚が秘図解除となって追加販売されたが、それ以外の80枚以上については、要塞地帯や軍事上の機密ということで一般には販売されなかった。

 

 この地図では、地名や山川名称は漢字で記載されているが、その朝鮮語の読みがカタカナのルビで入れられている。石原俊雄によれば、

行政區劃を測定して、道・府・郡・面の境界を圖示し其の面別面積を算定して、逐次官報に發表し、圖上には、各面より徴した地誌調書により、之を參照して、實地調査の結果、公定名稱は勿論、小部名も山川其の他の名稱も、記入したのである。

とあり、ルビのカタカナは、当時の住民たちの呼び方を反映したものと思われる。

「纛島」1925年測図

 上掲の地図の右下にあるように「風納里」に「パラムトリ」、「下風納里」に「アレパラムトリ」とルビが打たれている。これらは、朝鮮語の漢字音ではなく、固有朝鮮語の言い方(いわば訓読)。「アレ」は「아래(した)」で、「パラム」は「바람(風)」、「ト」は「納める(드리다からの派生か?)。このような固有語地名の例は地図内に散見され、20世紀前半までの地名の呼び方としてきわめて興味深い。

 「地形図の発行数は年二十万枚」(石原俊雄)ということなので、相当に売れていたものと思われる。指定された販売代理店は大半が日本人もしくは日本人経営の店舗で、日本人社会で主として売買されていたと思われる。ちなみに地形図は一枚10銭で売られていた。今でいうと4・5百円程度だろうか。

 

◆鍾路図書館の5万分の1朝鮮地形図

 1922年1月、パゴダ公園(現在のタプコル公園)の横の旧大韓帝国軍楽隊跡地に、李範昇イボムスンが京城図書館を開館した。朝鮮人のための図書館として設立された京城図書館は、運営経費の捻出にも苦労する状態であったが、当時販売されていた1:50,000朝鮮地形図620枚と、その後追加で発行された地図を買い入れた。

 1926年、京城図書館は経営難から京城府に譲渡されることになり、4月1日に「京城府立図書館鍾路分館」として再スタートした。この時に、所蔵されていた1:50,000地図も鍾路分館に引き継がれた。

 解放後、1945年10月に李範昇はソウル市長に就任した。12月に京城府立図書館鍾路分館はソウル市立鍾路図書館となった。その後、1968年に鍾路図書館は社稷壇の北側の現在位置に移転した。

 

 ソウル市立鍾路図書館に現存する1:50,000地図には、鍾路分館の所蔵印と1926年(大正15年)4月1日(分館として引き継がれた日)の受け入れ印が押されている。

 

 鍾路図書館所蔵の1:50,000地形図は633枚あり、国史編纂委員会が鍾路図書館と協定を結んでデジタル化した。2009年に、日本で学生社が1981年に影印出版していた『朝鮮半島五万分の一地図集成』からデジタルデータ化した89枚の地図を補充して、全722枚の地図を公開している。

 

リンクはこちら↓

国史編纂委員会「韓国近代地図資料」

 

◆スタンフォード大学所蔵の朝鮮地形図

 日本の敗戦後、連合軍が進駐して来るまでに多くの地図が焼却されたり廃棄されたが、それでもアメリカ軍は日本国内や「外邦図」と呼ばれた「外地」の地図を接収した。また、連合国総司令部は1947年に陸地測量部が作成した「外邦図」のすべてについて50部の提出を求めたとされる。それらが、現在、日本国外の機関に残されている。
 スタンフォード大学では、フーバー研究所からブラナー地球科学図書館の地下に移されていた陸地測量部が作成した大量の地図が、2008年に偶然発見された。

 

 その後、それらの地図のデジタル化と整理が進み、1:50,000と1:25,000の地図がデジタル公開されている。ただし、5万分の1地図についてはかなり欠けている部分が多い。

 

リンクはこちら↓

[朝鮮] 五万分一地形圖

 

[朝鮮] 二万五千分一地形圖

 

 敗戦時に接収されたこともあって、ほとんどが昭和に入って修正測図されたものである。「京城」は1937年修正測図となっている。国史編纂委員会の地図とは異なる版である。

 

 また、「仁川」については、1927年修正測図、1932年改版、1936年発行となっており、参謀本部発行で軍事極秘に指定されている。

 

 

◆韓国国立中央図書館の1万分の1地図

 1985年に、柏書房が『朝鮮総督府作成 一万分一朝鮮地形図集成』を出版した。1915年測図1917年製版のものと、1921年修正測図のものとが収録されている。

 

 どのような経緯があったのかわからないが、この復刻版の地図が韓国の国立国会図書館でそのままデジタル化されてインターネット公開されている。ただ、解像度の関係で細かい字がつぶれてしまっており、復刻版で確認する必要がある。

 

リンクはこちら↓

一万分一朝鮮地形図集成

 

◆解放直後の地図 1945年9月6日にアメリカ軍は仁川に上陸した。9月9日にアメリカ軍が朝鮮総督から朝鮮の行政権の委譲を受けたとして、米軍政庁が朝鮮の統治を始めた。米陸軍では軍の地図局長の指示で「KYONGSONG OR SEOUL(KEIJO)」という地図が編纂されている。

 地図の左上の注記には、地図制作には以下の資料が使われたと記されている。

  1. 京城 1:10,000、陸地測量部 1917
  2. 朝鮮 1:25,000、陸地測量部 1920 京城、纛島、牛耳洞、北漢山
  3. 永登浦 1:10,000、日本陸地測量部 1918
  4. 航空写真 アメリカ空軍 1944年12月
  5. 航空写真 アメリカ空軍 1945年1月
  6. 航空写真  アメリカ空軍 1945年1月
  7. 京城市地図 1:7,500 朝鮮総督府1937.
  8. 龍山 1:7,500 朝鮮総督府 1929.
  9. 京城 1:50,000、日本陸地測量部、1932.
  10. 大京城地図最新版 1:25,000 1939.
  11. 最新朝鮮地図 1:1,000,000、大阪毎日新聞社  京城 1:40,000 1937
  12. 情報部データ
 使用された地図資料に年代的なバラツキがあり、1945年当時の地理情報としては明らかな誤りも見受けられる。ただ、地名の読みが朝鮮語はMcCune-Reischauer方式、日本語表記(括弧内)はヘボン式によって記載されており、当時の地名の呼称(特に日本語の)を知ることができる。
 

 この地図は、現在テキサス大学のペリー・カスタニェダ ライブラリー 地図コレクションで公開されている。

 

リンクはこちら↓

KYONGSONG OR SEOUL(KEIJO)

 

◆大韓民国での地図作成

 1948年に大韓民国が建国されたが、韓国で地図制作が本格的に始まったのは、朝鮮戦争が休戦になった後、1958年に国防部地理研究所が設立されてからのことである。朝鮮戦争の時には、植民地時代に作成されていた各種の地図が軍事地図として用いられたものと考えられる。

 

 1962年には国立建設研究所が設立され、航空写真測量を取り入れた地図制作に着手した。そして1972年に1:50,000地形図集の『全国地図』が出版された。3巻ものの地図集には、上巻に119枚、中巻に117枚、下巻に130枚の地図が収められている。地図の区切りは、植民地時代の陸地測量部の地図と同じである。

出所:ソウル歴史アーカイブソウル>地図>近現代地図>全国地図

 

 1974年に国立地理院が発足し、1975年に全4巻、計239枚の「新版1/50,000基本圖地圖帖」が発行された。この地図が、韓国の国土情報についての基本的な地図とされた。

出所:ソウル歴史アーカイブソウル>地図>近現代地図>全国地図


 その後、1982年には1:5,000地図の販売が始まった。

 

 1枚700ウォンの詳細な地図で、購入にあたっては「住民登録証」と「用途の提示」が必要だった。

 

 その後、モータリゼーションの発達や外国人観光客の増加で、詳細な道路地図や観光地図などが必要になったためであろう。地図の管理は大幅に緩和され、使用範囲が広まった。

 

 手元の地図資料で見ると、1986年に「国立地理院発行1:5,000・1:25,000基本図を基図に使用」した『観光案内 ソウル』という地図冊子が発行されている。

 また、1995年に出版された『全国道路地図』でも、国立地理院の承認を得て1:5,000・1:25,000・1:50,000基本図を使用したことが明記されている。

 

◆(付録)インターネット時代の地図

 この頃からインターネットの時代になっていくのだが、当初は有線LANで回線速度も遅く、パソコン画面で地図情報を投影するのもなかなか難しかった。

 

 2005年にGoogleが地図情報を無料で提供し始め、韓国でもネイバーやダウムが電子地図の提供を始めた。2007年にはcongnamul.comがソウル市内のバスルートの検索システムの提供を始めた。congnamul.comは、2003年にすでにカカオの傘下に入っていた。

이투데이  2007-03-23より

 

 2008年にiPhoneが発売されて、本格的なスマートフォン時代が始まると、ネイバー(map.naver.com)とダウム(local.daum.net)の間で「マップ戦争」と呼ばれた激しい利用者獲得競争が起きた。


 

 ストリートビューの提供もこの頃に始まった。現在、全ての場所ではないが、2008年〜09年からの過去のストリートビュー画面を遡及閲覧できる。

 

 ダウムマップは、2019年2月25日にカカオマップに一元化され、現在は、

などが主流となっている。
 日本語表記ならばコネストの地図が使いやすい。

 

 紙の地図が購入できるところをネット上で探してみたが見つからなかった。
 

 冒頭の「中央地図文化社」は、2015年の写真がネット上に残っている(뿌리와새싹 : 네이버 블로그)が、現在は「오목집」という食堂になっている。

 また、乙支路3街の地下商街にあった地図専門店も2017年に閉店したという(AMATEUR SEOUL)。

 

 大型書店に行けば、冊子になった地図帳などは売られていると思う。しかし、国土地理情報院の国家空間情報ポータルなどから取得できるようなので、紙の地図の需要はほぼ無くなりつつあるのだろう。

 ただし、国家空間情報ポータルは韓国国内の携帯電話番号がないとユーザー登録ができないため、残念ながらこのサイトのデータの詳細は不明…。