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一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

 2004年1月放送のKBS「바른 말 고운 말(正しい言葉、美しい言葉)」でホッチキスを取り上げている。

 「호치케스:ホチケス」と発音されることも多いが、外来語表記法の規則では「호치키스:ホチキス」が正しいという。考案者とされていたHotchkissのハングル表記は「호치키스」となる。ただ、この紙を綴じる道具の名称としては、「스테이플러:ステープラー」とすべきだというのが結論。ホチキスは商品名なので… とバッサリ!。
 

 

 明治日本で、この紙を綴じる道具を最初に輸入したのは伊藤喜商店だという。伊藤喜商店は現在のイトーキ。そのホームページにはこのような記載がある。

1903年ゼムクリップ、ホチキスの輸入販売を始める

1890(明治23)年12月1日、伊藤喜十郎が発明特許品の普及を目指して創業した伊藤喜商店は、時代の流れにあわせて事務用品の販売を増やしていき、西日本一帯に「平野町のハイカラ屋」として知られていくようになった。その中でも一世を風靡したのが、今のオフィスでは当たり前に使用されているゼムクリップとホチキスのふたつだ。ともに1903(明治36)年から輸入販売を始めており、どちらも伊藤喜商店の登録商標であったとされる。

 実は、この「ホチキス式自動紙綴器」の登録商標は、梶仁太郎商店の方が先に取得しており、伊藤喜はそれを譲り受けたともいわれている。

 

 日本の朝鮮侵略の過程で、この「ホチキス式紙綴器」も朝鮮に持ち込まれ、広く使われるようになっていたのではないかと推測されるが、特段の資料はない。

 1938年5月7日付の『東亜日報』に、日中戦争の激化で鉄製鋳造品を制限するという記事があり、その制限対象の一つとされたホチキスは、ハングルで「호치키스」と表記されている。植民地時代には「호치키스」が朝鮮語表記として定着していたことを窺わせる。

 

 

 解放後の韓国でも「호치키스」と表記されていた。

 1960年の4・19で政権から退いてハワイに亡命していた李承晩が1965年7月21日にハワイで死去した。この時の『朝鮮日報』の号外に、書斎の机の上に「호치키스」があったと記されている。

 


 

 敗戦後の日本では、戦争中に飛行機部品を製造していた山田航空工業が山田興業と会社名を変えて事務器製造業に転じ、会社名をマックスと変えたのち1952年に国産のステープラーを「ホッチキス」として発売した。

 

同じ時期に販売されていた内田洋行TOHOの同種の商品は「トーホー紙綴器」で、「ホッチキス」ではない。

 


 

 解放後の韓国で、紙を綴じるステープラーを最初に製造したのは和伸ファシン工業で、1962年のことであった。それ以前の1959年に、釜山プサン影島ヨンドに設立されたピースコリアが、ホチキスの針の生産を始めていた。これは解放前からの器具向けや、戦後生産され始めた日本のマックスのホッチキスの針を生産したのであろう。

 

 1970年の新聞記事によれば、この当時の韓国の事務用品はこのような状況だった。

鉛筆、ボールペンなど基本的な事務用品は国産化されたが、事務機器などはいまだ輸入やアメリカ軍部隊の流出品に頼らざるを得ない。スコッチテープ(セロテープ…訳者注)は国産品が使いものにならず99%が日本からの輸入品、ホチキスも国産品は評判が悪く、値段が国産の2倍の250ウォン (小型)もする日本製を使っている。

 

 1967年には、外務部・文教部でホチキス5個が盗まれるという事件があった。

 

七星写真館の外交員だった二人は、11日午後12時50分、中央庁の外務部情報課と文教部大学教育課の事務室から、ホチキス5個(時価7,600ウォン)を盗んだところを守衛にみつかり警察に突き出された。

 この当時、5個で7,600ウォンだと、今の日本円に換算するとホチキス一つが5,000円程度になる。びっくりするほどの値段ではないが、値段以上の希少価値があったのだろう。

 ところで、中央庁の庁舎(旧朝鮮総督府の建物)の守衛はどうやって盗まれようとしていたホチキスに気づいたのだろうか。ひょっとすると厚手のものを綴じる大型のホチキスだったのでバレたのかもしれないが…。

 

 上述のホチキス針を製造していたピースコリアは、1973年に日本のマックスと技術提携して「피스코리아 MAX 호치케스」を発売した。今も「호치케스:ホチケス」と表記されており、韓国語で「ホチケス」と呼ばれるようになったのは、この発売以降のことかと思われる。


 

 というようなことで、2004年に製作・放送されたKBS「바른 말 고운 말」では、「ステープラー」が正しい呼び方とされた。

 

 この番組は、国立国語研究所の見解に準拠した語学啓蒙番組だった。ところが、2013年になって、「ホチキス」の名称に関係した国立国語研究所の見解が大きく修正された。

 

機関銃発明家の名前を取った商標? 「ホチキス」語源定説が覆る
東亜日報 2013-09-26
国立国語院「根拠がない」辞書的定義の修正


「そこのホチキス取って」
 「ステープラー」(stapler)を韓国と日本ではホチキスと呼ぶ。国立国語院が発行した『標準国語大辞典』にも、ホチキスが「ステープラーの別名。ステープラーの考案者である米国の発明家の名前から取った商標名」と定義されている。
 ここでいうアメリカの発明家ホッチキスは、第1次世界大戦当時、フランス、イギリスなど参戦国のほとんどが使用した機関銃を開発したベンジャミン・ホチキス(1826-1885)だとするのが定説だった。戦争が終わった後、弾倉に銃弾を入れてバネの反動を利用して弾丸を押し出す仕掛けを応用して、紙を綴じるホチキスを作ったといわれてきた。自分が作った機関銃によって数百万人が命を失ったので、その反省の意味でホチキスを作ったという説まで出ていた。
 しかし、その定説は通用しなくなった。国立国語院は25日「辞書の見出し語ホチキスの説明は史実とは異なるのではないかという問題提起があり、調査した結果、ステープラーはベンジャミン・·ホチキスが作ったという証拠はないことが明らかになった」として、「『標準国語大辞典』では、今後ホチキスの説明部分を修正する」と明らかにした。
 国立国語院関係者は、「日本に初めてホチキスが入ってきた時、製品の裏面に書かれた製造会社の名前がE.H.Hotchkissとなっており、製造会社の創業者がホチキスであるとされた。しかし、この製造会社の創業者ホチキスのフルネームは、ジョージ・ホチキスで、機関銃を発案したベンジャミン・ホチキスとは関係がないことが確認された。ジョージとベンジャミンの2人とも、(文房具の)ホチキスの実際の発明者ではなく、誰がステープラーを発明したものかは確認できていない」と述べた。
 これにより「ホチキス」の辞書的定義は、「ㄷ字型の針金針を使って書類などを綴じる道具。米国の商標名から出たもの」に変更された。

 

 長年にわたって信じられていた「機関銃を製造していたアメリカの企業家ホッチキス氏が、機関銃の仕組みを応用して紙を綴じる機械を作った」とする説が根拠薄弱として取り消され、「商標名」とされていた「ホッチキス」は「商標名に由来するもの」となった。つまり、「商標の普通名称化」を容認したのである。

 

 「그 호치키스 좀 주세요.(そこのホチキス、とってください)」と言っても、「호치키스가 아니라 스테이플러예요(ホチキスじゃなくてステープラーですよ)」と注意されずにすむようになったわけだ。まぁ、理屈の上では…ということだが。

 

 日本でも、NHKは、ホチキスは商品名だとして放送では「ステープラー」としていたが、かなり前から「ホチキス」と使うようになっている。2004年10月のNHK放送文化研究所「最近気になる放送用語」には次のようにある。

ホチキスは、アメリカの兵器開発者ホチキス氏(B.B.Hotchkiss)が、機関銃の弾丸送り装置にヒントを得て考案したものとされています。商標名であると示した資料もありますが、現在では「紙をとじる文房具」の一般名称として放送でも使うことができます。これと同じ意味の「ステープラー」という言い方も問題ありません。
なお、一般には「ホッチキス」と言うことが多いかもしれませんが、NHKで採用しているのは促音(小さい「っ」)のない「ホチキス」ということばなので、ご注意ください。

 NHKは、機関銃の応用からできたという説の時から既に普通名称として使っていたのである。

 

 ちなみに、朝鮮民主主義人民共和国の社会科学出版社『朝鮮語大辞典』(1992)でも「호치키스」が見出し語で掲載されている。

ホチキス[名]何枚かの文献の紙を綴じる器具の一種。金属のかすがい型の留め具を機械に入れて取っ手を押すと自動的に用紙に刺さって端が折れ曲がって一つにまとめられる。[hotchkiss英]

 


 

 機関銃から紙をとじるホチキスが生まれたという説は、ネット上でもいまだあちらこちらに残っている。ただ、それを否定する記載も多く見られる。

 

 日本で最初に商標登録した梶仁太郎商店の特約店が粟谷銃砲店だったり、戦時中に軍用機の部品を作っていた会社がホッチキスの製造を始めたり、韓国のホチケス製造会社の社名がピースコリアだったりで、機関銃から紙綴器ができたという説は、なんとなく捨て難い気もするのだが…

この記事に出てくる新聞について(参考)

『京城日報』は朝鮮総督府の機関紙で、『毎日申報』は朝鮮語で発行されていたその姉妹紙。

『朝鮮新聞』は、仁川の『朝鮮新報』が1908年に拠点を京城に移して発行したもので、『京城日報』に対抗する在野系の日本語新聞。

『東亜日報』『朝鮮日報』は、1919年の3・1独立運動の後に、総督府が懐柔策として発行を認めた朝鮮人主導の朝鮮語新聞。

 1932年のロサンゼルス五輪のマラソン競技には、権泰夏クォンテハ金恩培キムウンベの二人の朝鮮人選手が出場することになった。

 権泰夏は明治大学在学中に箱根駅伝などでも活躍し、卒業後は京城に戻って陸上長距離の強豪校養正ヤンジョン高等普通学校の陸上部と共に練習していた。金恩培はその養正高普5年生に在学中で、朝鮮や内地の陸上競技会や駅伝で活躍していた。

 

 養正高普の陸上部を指導していたのは、1921年に体育教師として赴任した峰岸昌太郎。二人のオリンピック出場が決まった時には、峰岸は養正高普の教員から朝鮮体育協会の職員に転職していたが、二人の合宿トレーニングをサポートしている。この峰岸に焦点を当てた記事を『京城日報』が書いている。

 

 

 この記事は、朝鮮人選手が「日章旗をロスアンゼルスの空高く翻へし君ヶ代の国歌がなかでな(ママ)される下に我朝鮮の選手が栄冠を握り立つ姿」を待ち望む内地人の指導者峰岸昌太郎に焦点を当てたものだ。

 

 権泰夏と金恩培は、京城での合宿トレーニングを終えて、明治神宮外苑での全体合宿に合流するため、6月13日に盛大な見送りを受けて京城駅を出発した。

『東亜日報』の上の写真に見送りの峰岸昌太郎が写っている

 

 ところが、釜山から下関に渡る関釜連絡船の中で、権泰夏が釜山水上警察の特高警察に暴行されるという事件が起きた。

 

 このニュースは、連絡船が到着した下関発で各新聞社に流された。京城では、『朝鮮新聞』と『毎日申報』、それに『朝鮮日報』が15日付の紙面で報じた。

 

 見出しに「又も御難」「又重傷」「又復被打」とある。

 実は、この1ヶ月ほど前にも権泰夏が警官に暴行される事件があった。5月9日に予定されていたマラソンの朝鮮予選会に向けた練習中、黄金町(現在の乙支路)の交差点で警官の指示に従わなかったとして、今増巡査から殴る蹴るの暴行を受けた。予選会への出場が危ぶまれるほど負傷した。

 

 しかし、権泰夏は予選会に強行出場し、この大会で優勝したのである。さらに、東京で行われた全国予選競技会でも優勝し、2位になった金恩培とともにオリンピックのマラソン代表となったのである。

 


 

 再び起きた警察による暴行事件は、朝鮮の人々には大きな衝撃であった。オリンピック代表選手への暴行事件ということで、内地の新聞も下関発でこの事件について大きく報じた。

 

 

 『東亜日報』は、他紙より1日遅れで6月16日に、より詳細な記事を掲載した。暴行を加えたのが、釜山水上警察署特高課の鈴木辰・陳順吉チンスンギル劉命龍ユミョンニョンの3人の刑事だと実名を挙げ、水上警察署長や慶尚南道の保安課長のコメントも掲載している。

 

 

 この暴行には二人の朝鮮人刑事も加わっていた。支配される側に「被害」と「加害」の対立項を作り上げ、それを抑圧や脅しに利用するという陰湿な植民地支配の常套手段である。相手がたとえオリンピック選手であろうとも、遠慮会釈なく朝鮮人をいたぶり殴り付ける。朝鮮人の刑事であるが故に、日本人の前では手を緩めることはできない。それを権力者側は最大限に利用していた。

 


 

 ところで、『京城日報』だけは、このオリンピック選手への暴行事件について報じなかった。上掲の『東亜日報』と同じ6月15日夕刊の紙面に、小さなベタ記事で「権選手元気」と書いている。


さらに、翌日朝刊には、「下関で奇禍に遭つたマラソンの権君……軽快に初練習」と白々しく書いている。まさに、御用新聞・・・・である。

 

 

 とは言っても、この事件の被害者はオリンピック代表選手であり、すでに各新聞に大きく報じられている。朝鮮総督府としてもそのまま放置するわけにはいかない。『東亜日報』や『朝鮮日報』に、暴行した警官は懲戒処分になるとほのめかしたり、総督府警務局が連絡船の乗客に不快感を与えないよう、身元が明らかな者への取り締まりを適正化するといった方針を流したりして、火消しに躍起となった。

 

 

 しかし、実際には懲戒処分は行われなかったのであろう。暴行刑事の一人劉命龍は、翌年5月31日付で「巡査精勤証書」を授与されている。

 『朝鮮日報』が、記事の最後に「(取り締まりの適正化が)徹底されるか疑問」と書いているように、朝鮮人渡航者への恫喝的な「取り締まり」という名の暴力的威圧が、その後も関釜連絡船では日常的に行われていた。特高警察が朝鮮人乗客に不意に「皇国臣民の誓詞」を暗唱するよう要求し、できないと殴ったり旅行差止めや逮捕などが行われていたことが史料にも残されている。

 


 

 この関釜連絡船での暴行事件に関しては、被害者である権泰夏自らが手記形式で綴った事件の経緯と自身の心情を、6月24日の『東亜日報』が掲載している。

世界オリンピックに向かうにあたって

連絡船事件の経緯

東京にて 権泰夏

 李兄、ご心配いただいていると思います。容易ならざる責任を負った身でありながら、酒に酔った警官にわけのわからぬ暴行を受けました。しかし、湿布などで腫れもひき、東京での合宿練習も順調に終わり、数日のうちに米国に旅立つことになるので、関釜連絡船でのことが頭に浮かび、ご心配くださる皆様にその経緯をお知らせしないまま出かけるわけには参りません。

(書簡の一部内容)

 私はスポーツ選手として今回の五輪へ旅立つに際し、六月十四日夜、関釜連絡船の中で酒に酔った警官に殴られた。どのような理由で? 私は法に照らして、違法なことは何らしていない。しかし、ただじっと我慢して殴られていた。

 しかし、理由もなく殴られる私は怒りだけが胸の中で煮えたぎっていた。

 連絡船の中で私は負傷した。唇が割れて赤い血があごに流れても、私は自分が正しいことを主張し、警官のわけのわからない行為を非難した。

 私は自分の口からオリンピックに行く選手だと言うのは恥ずかしかったが、余りにも激しく殴るので、オリンピックが終わるまでは重大な責任があるので殴らないでほしいと哀願した。

 しかし彼は「間違っていた」と言えと、右目を激しく殴り痛くて目をあけていられなくなった。

 ああ、オリンピックだ。この責任の重いオリンピックが終わるまでは私は自重しなければならない。私は訳もわからないまま過ちを犯したと謝った。その警官は、何を容赦したのか、許すから出て行けといった。

 ああ、わけも分からないまま殴打され、間違ってましたと謝らなければならない者は権泰夏一人のみであろうか。

(以下数ページは省略する)

 怪我については経過が非常に良好で、連日の合宿練習にも参加し、二十二日を最後として記録競技会を開き、二十三日にはオリンピック大会場に向かうことになった。

 権泰夏は金恩培君とともに、異郷の地に行ってからも我々の心と意思を胸に抱いてベストを尽くすことを約束する。

 半島の諸兄、ご安心くださると共に一層のご声援を送ってくださるようお願いする。

  六月二十日

   東京にて 権泰夏

 

 権泰夏は、ロサンゼルス五輪のマラソンは9位に終わった。コーチ兼任だった津田晴一郎が5位に入ったが、二人の間でレースの戦略を巡って対立があったという。権泰夏は五輪終了後、そのまま現地に残り南カリフォルニア大学に留学して体育学を学んだ。

 留学中から、1936年のベルリン五輪のマラソン代表として、養正高普の孫基禎ソンキジョンを関係各方面に推薦し、バックアップしていた。

 

 そして、ベルリン五輪のマラソンで孫基禎は優勝し、南昇龍ナムスンニョンが3位になった。

 『東亜日報』は、表彰台上の孫基禎の胸の日章旗を消した写真を紙面に掲載して、長期間にわたって停刊処分を受けることになった。

 


 

 孫基禎は、1976年1月13日の『東亜日報』の「あの時のあのこと」の中で、権泰夏について次のように回想している。

祖国愛の苦悶

(前略)

 私のマラソン人生は権泰夏先輩の激励と忠告に大きな刺激を受けた。

 私が養正高普2年生の時に、南カリフォルニア大学に留学していた権泰夏先輩から「36年オリンピックは孫基禎だ」との激励の手紙をもらったが、それが、私がベルリン五輪をわが人生最大の決戦場とするのに決定的な要因になった。

 権泰夏先輩は、32年のロサンゼルス五輪のマラソンで、ゴールまでの100m余りの死闘の末に9位になった忍耐と闘志の人だ。ロサンゼルス大会は、先輩が金恩培氏、そしてボクシングの黃乙秀氏とともに韓国人として初めて参加したオリンピックであった。

 先輩は、ロサンゼルス大会終了後、コーチ兼選手として一緒に走った津田晴一郎が日本チームの成績が良くなかった原因を、権泰夏先輩のせいにしたため、腹を立てて米国にそのまま残って南カリフォルニア大学に入学した。津田コーチは、権泰夏先輩が自分の前に出るなという指示を無視して前を走ったため、チームワークが壊れたと難癖をつけて、コーチとしての自分の責任を権泰夏先輩と6位になった金恩培、つまり「チョーセンジン」に転嫁しようとした。

 これ以降、津田にはコーチとしての資格がないと考えた先輩は、36年5月初めに行われたマラソン最終予選を前後して、毎日申報に「ベルリン五輪で日本マラソンに勝つためには」というタイトルで3回にわたって投稿して、津田にコーチの資格はないと強く主張した。また、権泰夏先輩は、朝日新聞の体育部長だった織田幹雄氏に私信を送り、「津田をベルリン五輪では絶対にマラソンコーチにしてはいけない」と力説した。

 織田幹雄氏は、28年のストックホルム五輪の三段跳びで優勝した日本初のオリンピック金メダリストで、その当時の日本体育界では相当な影響力を持った人物だったが、権泰夏先輩の示唆が功を奏したのか、マラソン選手団がベルリンに出発する2週間前、「病気のため」という理由でコーチが津田から佐藤に変わった。

 権泰夏先輩は、最終予選を経て五輪参加が確定した私と南昇龍氏を気遣って、津田のコーチとしての派遣を防いだのだ。

 私のマラソン人生が日の目を見るまで、多くの恩人たちが私に信念と勇気を与えたが、亡くなった権泰夏氏は、その欠かすことのできない一人だ。


 

 ベルリン五輪のマラソン表彰式で、孫基禎と南昇龍は国旗掲揚台を見ようとはしなかった。『東亜日報』は紙面の孫基禎の写真から胸の日の丸を削った。その場の思いつきや一時の激情ではなく、長く服従を強いられてきたことへの抗議であり抵抗であった。

 関釜連絡船での権泰夏暴行事件は、その不条理な服従強要の一例に過ぎない。

 1934年1月11日の『東亜日報』に、箱根駅伝で早大の金恩培キムウンベが7区で区間記録を出したことが顔写真入りで報じられている。

 金恩培は、箱根駅伝を走る前、養正ヤンジョン高等普通学校在学中の1932年にロサンゼルス五輪の男子マラソンに出場していた。同じロス五輪のマラソン代表権泰夏クォンテハは、明治大で1927年から5回箱根駅伝を走っていた。

 1936年のベルリン五輪のマラソンで銅メダルの南昇龍ナムスンニョンも明治大で箱根駅伝を走っている。しかし、この時に金メダルを取った孫基禎ソンキジョンは、1937年に明治大に入学したが、箱根駅伝を走ることはなかった。

 箱根駅伝と植民地支配下の朝鮮人ランナーはどのように関わっていたのか。

 


 

 箱根駅伝は、1920年に慶應大・東京高等師範・明治大・早稲田大の4校で始まり、翌年、中央大・東京農大・法政大、翌々年に東大農実科・日本大・日本歯科大が出場した。その後、1928年から数回関西大学が招待され、1933年に拓殖大・東洋大、1934年に専修大・立教大、1936年に横浜専門が加わった。

 戦前の箱根往復の駅伝は、1940年の21回大会で一旦中止になった。それまでの出場選手から朝鮮人と思われる人名を拾い出してみたのが下の表である。1943年に行われた靖国神社ー箱根神社駅伝が22回の箱根駅伝とされるが、創氏改名のため、名前から朝鮮人ランナーを抽出するのは困難なので除外した。

※表の作成後、早稲田の林和引、東農大の陳水能は台湾人選手、拓殖大学の林英香も台湾人選手と思われるとのご指摘をいただいた。表中でマークして朝鮮人選手から除外した(2023.12.30追記)

 

 箱根駅伝を最初に走った朝鮮人ランナーは、1923年の3回大会の文天吉ムンチョンギル(明治大)と李明植イミョンシク(中央大)の二人。その後、1933年から朝鮮人ランナーが増え始め、参加校が12校になっていた1938年には12人11人が走っている。

 文天吉は、明治大の選手として1922年大会で7区、23年大会で10区を走っている。ただ、1928年の『毎日申報』では中央大商学部を卒業と報じられている。途中で転学したのであろうか。

 李明植は、1922年大会で中央大の10区を走っている。
 その2年前の1920年3月1日、東京の朝鮮人学生たちが日比谷公園で3・1独立運動一周年の集会を開いた。この時53名が検挙されたが、その中に「李明植」の名前がある。同一人物であろう。

 それ以外の情報は今のところ出てきていない。

 

 この時期、朝鮮でも陸上の長距離は盛んになっていた。1923年に京城日報社が主催して「京城仁川リレー競走」が行われた。京城から仁川への片道コースだったが、これが朝鮮での最初の駅伝である。そのコースと結果は、以下の通り。

1.培材学堂 2.京城中学 3.第一高普 4.仁川南商 5.高等農林 6.養正高普 7.善隣商業 8.龍山中学 9.徽文高普 10.南大門商 11.鉄道学校 12.東光学校 13.高等工業 14.中央高普 15.京城工業

 京城中学と龍山中学は、ほとんどが内地人の生徒、高普(高等普通学校)は朝鮮人、商業系・実業系の学校には内地人・朝鮮人の両方が通っていた。

 

 この頃、徽文高普に入学した権泰夏は、徽文高普を中退して内地の立命館中学に転入した。卒業後、明治大学法学部に入学し、1927年から毎年箱根駅伝に出場して箱根駅伝に出場した3人目の朝鮮人ランナーになった。そのうち2回は区間新記録で区間賞を獲得し、1932年のロス五輪のマラソン代表にもなっているが、それについては後述する。

 

 1925年には、朝鮮系新聞社である朝鮮日報社の主催で、1923年と同じコースを仁川から京城へ走る「仁川京城リレー競争」が行われた。この駅伝での順位は以下の通り。

1.養正高普 2.培材学堂 3.高等農林 4.中央高普 5.善隣商業 6.徽文高普 7.高等予備

 この時は、京城中学や龍山中学などの内地人の中学は参加しておらず、高等農林・善隣商業でそれぞれ数名の内地人ランナーが走っただけで、86%が朝鮮人ランナーであった。

 

 1930年には、日本語の新聞を出している朝鮮新聞社の主催で、京城・仁川間を往復する京仁駅伝が始まった。1回目の競技の参加チームは、養正高普、白馬クラブ、総督府、鉄道局の4チームであった。総督府、鉄道局は内地人と朝鮮人ランナーがほぼ半々であったが、朝鮮人ランナーのみの養正高普と白馬クラブが1・2位を占めた。

 優勝した養正高普は、1929年と1930年の大阪・神戸駅伝に参加して2年連続優勝するなど、この時期、圧倒的な強さを誇っていた。さらに、翌1931年にも優勝して3連覇を果たしている。

 この時に、養正高普の陸上競技を指導していたのは、峰岸昌太郎であった。峯岸は、1921年に養正高普に体育教師として赴任し、課外活動の指導にも力を入れていた。朝鮮人の教育を行う普通学校や高等普通学校には、校長や訓導はもとより、通常の教員としても内地人が一定数在職することになっていた。養正高普に赴任した峯岸は、朝鮮人生徒らの競技力の向上に努め、京城・仁川の駅伝での指導はもとより、阪神駅伝の際にも引率して遠征に出かけている。

1929年 阪神駅伝優勝記念 中央が峯岸昌太郎

後列左端が、1932年に明治大学に入学する鄭商煕チョンサンヒ

 

 さらに、1932年の第13回東京・横浜往復中等学校駅伝でも内地の強豪校を押さえて優勝した。この時には、峰岸昌太郎は養正高普を退職して朝鮮体育協会に移っていたが、峯岸が指導した趙寅相チョインサン、南昇龍、孫基禎などが選手として走った。

 

 ところで、上述の権泰夏は、1927年大会から1931年大会まで箱根駅伝を走っている。同時期に、東農大の白南雲ペクナムウンも4年連続して走っているが、どのような人物かよくわからない。1925年に東京商科大学を卒業して延禧専門学校の教授となる同名の経済学者がいるが、これとは別人である。

 

 明治大を卒業して京城に戻った権泰夏は、陸上の強豪校になっていた養正高普の陸上部でトレーニングに励んだ。峰岸昌太郎が指導した。

 1932年のロサンゼルス五輪のマラソン代表選考レースが5月に行われ、権泰夏と養正高普の金恩培が1・2位となって、3位の津田晴一郎と共にオリンピックに出場した。

 津田晴一郎は、1928年大会に特別招待された関西大のメンバーとして箱根駅伝を走り、その年のヘルシンキ五輪のマラソン代表となった。さらに、関西大から慶応大に移って1931年大会でも箱根駅伝を走っている。


 ロス五輪のマラソンでは、津田晴一郎が5位、金恩培が6位、権泰夏は9位でゴールした。

 

 1931年には、養正高普の中心選手だった鄭商煕が明治大に入学し、1932年大会から箱根駅伝を4年連続して走った。金恩培は、ロス五輪の翌年、早稲田大に入学し、1934年と35年の箱根駅伝を走っている。冒頭の記事は、1934年大会で区間新を出した時のものである。

 この頃から、朝鮮の新聞でも、箱根駅伝に出場する朝鮮人ランナーについて取り上げることが多くなった。

 

 1933年から37年の時期は、養正高普の出身者が特に多かった。1935年大会では、4人の養正高普卒業生が走っている。

 養正高普は、現在のソウル駅の西側、阿峴洞アヒョンドンへ越えていく道の右側、孫基禎体育センターの場所にあった。今も当時の校舎が2棟残っている。この学校はスポーツ有力校というだけでなく、有数の進学校でもあった。京城帝国大学や内地の有名大学に進学した卒業生も数多くいた。

 

 箱根駅伝の出場校は、1933年大会から拓殖大・東洋大が加わり、34年大会から専修大・立教大、35年大会からは横浜専門学校が加わった。そして1937年大会以降、朝鮮人ランナーが急激に増加する。


 その理由の一つには、1932年と36年のオリンピックのマラソンに、4人の朝鮮人ランナーが日本代表として選ばれたことで、朝鮮人の長距離ランナーへの注目度が高まっていたことがあるだろう。

 

 1936年のベルリン五輪の代表選考レースでは、養正高普中退で内地の目白商業学校を卒業して1934年に明治大に入学していた南昇龍が1位、養正高普在学中の孫基禎が2位だった。南昇龍は1934年〜36年の箱根駅伝に出場していた。孫基禎は、年齢は南昇龍と同じだったが、地方でスカウトされて遅れて入学したので、まだ高普在学中だった。

 

 

 ベルリン五輪のマラソンレースでは、孫基禎が金メダル、南昇龍が銅メダルを獲得した。

レニ・リーフェンシュタールのベルリン五輪記録映画のマラソン場面(抜粋版)

 

マラソンの表彰式の場面(全)

 孫基禎も南昇龍も、表彰台でうつむいて目線を掲揚台からそらしているのが印象的である。孫基禎は、外国のインタビューに対して自分を「코리아コリア学生」と語っており、それを掲載したドイツ語の新聞記事を翻訳・引用するかたちで『東亜日報』が「朝鮮(コリア)の学生孫基禎君は故国で大変賞賛されている」と伝えている。

 

 

 そして、マラソンで優勝した孫基禎についてレポートした8月25日付の『東亜日報』では、表彰台上の孫基禎の胸の日章旗を消した写真を掲載した。

 これを問題視した朝鮮総督府は、『東亜日報』を直ちに無期停刊とし、東亜日報社内の関係者は逮捕・拘束された。

 

 実は、呂運亨ヨウニョンが社長をしていた『朝鮮中央日報』の方が『東亜日報』よりも先に日章旗を消した写真を掲載していた。

 呂運亨は、上海で独立運動をおこなっていた1929年に、上海の英国租界で逮捕されて日本に引き渡され、朝鮮で服役した。仮保釈された後、1933年に朝鮮中央日報の社長に就任し、朝鮮人のスポーツ選手の育成に尽力していた。青年をスポーツを通じて育成することが重要だと考えていたからである。それもあって、ベルリン五輪での孫基禎と南昇龍の活躍もいち早く報じたが、8月13日に掲載した孫基禎の写真で、胸の日章旗を抹消していた。

 ところが、『朝鮮中央日報』は輪転機の性能が悪くて写真がもともとクリアでなかったため、ほとんどの人が抹消されたことに気づかなかった。東亜日報が停刊処分になると、朝鮮中央日報も「謹慎のため」として9月5日から自主休刊を宣言した。うちの新聞も消していたんだというアピールだったのかもしれないが、その後経営悪化で復刊することができなかった。

 

 孫基禎は、10月8日に汝矣島飛行場に帰ってきたが、要注意人物としてマークされ、大勢が集まる歓迎集会は中止せざるを得ない事態も起きていた。

 孫基禎は、内地の大学への進学を希望したが、思うように進学先が見つからず、結局、朝鮮総督府学務局に勤めていた鄭商煕と、南満州鉄道に就職していた権泰夏が保証人になってくれて、明治大への入学が実現した。しかし孫基禎の入学に際しては、陸上競技はやらずに集会などには参加しないという条件がついた。朝鮮人の英雄として民族のシンボルとなることを懸念したからである。

 このため、孫基禎は明治大在学中、一度も箱根駅伝を走ることはなかった。

 

 1938年大会では、17名の朝鮮人ランナーが登録メンバーに入っており、中でも中央大と専修大では4人の朝鮮人が名を連ねていた。新たに箱根駅伝に参戦した専修大、横浜専門、立教大、東洋大などで朝鮮人ランナーが起用されていた。箱根駅伝のために有力選手をスカウトしたケースもあったのかもしれない。

 

 

 

 朝鮮人ランナー側からしても、1940年に開催が決定していた東京五輪のマラソンを視野に入れて、オリンピックランナーを輩出している箱根駅伝に注目していたこともあろう。彼らの目的が、「日の丸をつけて走る」ことではなかったことは言うまでもない。

 この1938年の箱根駅伝では、上述の呂運亨の次男呂鴻九ヨホングが法政大の8区を走っている。呂鴻九は養正高普の出身で、スケートやサッカーでも活躍した選手であった。呂運亨は、次男の東京在住を口実にして、内地留学中の朝鮮人留学生と会って「祖国独立の必然性」を力説し、資金援助を行なっていた。
 

 1940年に予定されていた東京五輪開催は、1938年7月、開催を返上するとの日本政府の発表によって霧散した。

 箱根駅伝も、日中戦争の激化と国際社会との関係悪化によって、1940年正月の第21回大会をもって中止を余儀なくされた。靖国神社から箱根神社という翼賛的なかたちで行われた1943年の大会で戦前の箱根駅伝は幕を閉じたのである。