殴られた朝鮮人五輪ランナー | 一松書院のブログ

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この記事に出てくる新聞について(参考)

『京城日報』は朝鮮総督府の機関紙で、『毎日申報』は朝鮮語で発行されていたその姉妹紙。

『朝鮮新聞』は、仁川の『朝鮮新報』が1908年に拠点を京城に移して発行したもので、『京城日報』に対抗する在野系の日本語新聞。

『東亜日報』『朝鮮日報』は、1919年の3・1独立運動の後に、総督府が懐柔策として発行を認めた朝鮮人主導の朝鮮語新聞。

 1932年のロサンゼルス五輪のマラソン競技には、権泰夏クォンテハ金恩培キムウンベの二人の朝鮮人選手が出場することになった。

 権泰夏は明治大学在学中に箱根駅伝などでも活躍し、卒業後は京城に戻って陸上長距離の強豪校養正ヤンジョン高等普通学校の陸上部と共に練習していた。金恩培はその養正高普5年生に在学中で、朝鮮や内地の陸上競技会や駅伝で活躍していた。

 

 養正高普の陸上部を指導していたのは、1921年に体育教師として赴任した峰岸昌太郎。二人のオリンピック出場が決まった時には、峰岸は養正高普の教員から朝鮮体育協会の職員に転職していたが、二人の合宿トレーニングをサポートしている。この峰岸に焦点を当てた記事を『京城日報』が書いている。

 

 

 この記事は、朝鮮人選手が「日章旗をロスアンゼルスの空高く翻へし君ヶ代の国歌がなかでな(ママ)される下に我朝鮮の選手が栄冠を握り立つ姿」を待ち望む内地人の指導者峰岸昌太郎に焦点を当てたものだ。

 

 権泰夏と金恩培は、京城での合宿トレーニングを終えて、明治神宮外苑での全体合宿に合流するため、6月13日に盛大な見送りを受けて京城駅を出発した。

『東亜日報』の上の写真に見送りの峰岸昌太郎が写っている

 

 ところが、釜山から下関に渡る関釜連絡船の中で、権泰夏が釜山水上警察の特高警察に暴行されるという事件が起きた。

 

 このニュースは、連絡船が到着した下関発で各新聞社に流された。京城では、『朝鮮新聞』と『毎日申報』、それに『朝鮮日報』が15日付の紙面で報じた。

 

 見出しに「又も御難」「又重傷」「又復被打」とある。

 実は、この1ヶ月ほど前にも権泰夏が警官に暴行される事件があった。5月9日に予定されていたマラソンの朝鮮予選会に向けた練習中、黄金町(現在の乙支路)の交差点で警官の指示に従わなかったとして、今増巡査から殴る蹴るの暴行を受けた。予選会への出場が危ぶまれるほど負傷した。

 

 しかし、権泰夏は予選会に強行出場し、この大会で優勝したのである。さらに、東京で行われた全国予選競技会でも優勝し、2位になった金恩培とともにオリンピックのマラソン代表となったのである。

 


 

 再び起きた警察による暴行事件は、朝鮮の人々には大きな衝撃であった。オリンピック代表選手への暴行事件ということで、内地の新聞も下関発でこの事件について大きく報じた。

 

 

 『東亜日報』は、他紙より1日遅れで6月16日に、より詳細な記事を掲載した。暴行を加えたのが、釜山水上警察署特高課の鈴木辰・陳順吉チンスンギル劉命龍ユミョンニョンの3人の刑事だと実名を挙げ、水上警察署長や慶尚南道の保安課長のコメントも掲載している。

 

 

 この暴行には二人の朝鮮人刑事も加わっていた。支配される側に「被害」と「加害」の対立項を作り上げ、それを抑圧や脅しに利用するという陰湿な植民地支配の常套手段である。相手がたとえオリンピック選手であろうとも、遠慮会釈なく朝鮮人をいたぶり殴り付ける。朝鮮人の刑事であるが故に、日本人の前では手を緩めることはできない。それを権力者側は最大限に利用していた。

 


 

 ところで、『京城日報』だけは、このオリンピック選手への暴行事件について報じなかった。上掲の『東亜日報』と同じ6月15日夕刊の紙面に、小さなベタ記事で「権選手元気」と書いている。


さらに、翌日朝刊には、「下関で奇禍に遭つたマラソンの権君……軽快に初練習」と白々しく書いている。まさに、御用新聞・・・・である。

 

 

 とは言っても、この事件の被害者はオリンピック代表選手であり、すでに各新聞に大きく報じられている。朝鮮総督府としてもそのまま放置するわけにはいかない。『東亜日報』や『朝鮮日報』に、暴行した警官は懲戒処分になるとほのめかしたり、総督府警務局が連絡船の乗客に不快感を与えないよう、身元が明らかな者への取り締まりを適正化するといった方針を流したりして、火消しに躍起となった。

 

 

 しかし、実際には懲戒処分は行われなかったのであろう。暴行刑事の一人劉命龍は、翌年5月31日付で「巡査精勤証書」を授与されている。

 『朝鮮日報』が、記事の最後に「(取り締まりの適正化が)徹底されるか疑問」と書いているように、朝鮮人渡航者への恫喝的な「取り締まり」という名の暴力的威圧が、その後も関釜連絡船では日常的に行われていた。特高警察が朝鮮人乗客に不意に「皇国臣民の誓詞」を暗唱するよう要求し、できないと殴ったり旅行差止めや逮捕などが行われていたことが史料にも残されている。

 


 

 この関釜連絡船での暴行事件に関しては、被害者である権泰夏自らが手記形式で綴った事件の経緯と自身の心情を、6月24日の『東亜日報』が掲載している。

世界オリンピックに向かうにあたって

連絡船事件の経緯

東京にて 権泰夏

 李兄、ご心配いただいていると思います。容易ならざる責任を負った身でありながら、酒に酔った警官にわけのわからぬ暴行を受けました。しかし、湿布などで腫れもひき、東京での合宿練習も順調に終わり、数日のうちに米国に旅立つことになるので、関釜連絡船でのことが頭に浮かび、ご心配くださる皆様にその経緯をお知らせしないまま出かけるわけには参りません。

(書簡の一部内容)

 私はスポーツ選手として今回の五輪へ旅立つに際し、六月十四日夜、関釜連絡船の中で酒に酔った警官に殴られた。どのような理由で? 私は法に照らして、違法なことは何らしていない。しかし、ただじっと我慢して殴られていた。

 しかし、理由もなく殴られる私は怒りだけが胸の中で煮えたぎっていた。

 連絡船の中で私は負傷した。唇が割れて赤い血があごに流れても、私は自分が正しいことを主張し、警官のわけのわからない行為を非難した。

 私は自分の口からオリンピックに行く選手だと言うのは恥ずかしかったが、余りにも激しく殴るので、オリンピックが終わるまでは重大な責任があるので殴らないでほしいと哀願した。

 しかし彼は「間違っていた」と言えと、右目を激しく殴り痛くて目をあけていられなくなった。

 ああ、オリンピックだ。この責任の重いオリンピックが終わるまでは私は自重しなければならない。私は訳もわからないまま過ちを犯したと謝った。その警官は、何を容赦したのか、許すから出て行けといった。

 ああ、わけも分からないまま殴打され、間違ってましたと謝らなければならない者は権泰夏一人のみであろうか。

(以下数ページは省略する)

 怪我については経過が非常に良好で、連日の合宿練習にも参加し、二十二日を最後として記録競技会を開き、二十三日にはオリンピック大会場に向かうことになった。

 権泰夏は金恩培君とともに、異郷の地に行ってからも我々の心と意思を胸に抱いてベストを尽くすことを約束する。

 半島の諸兄、ご安心くださると共に一層のご声援を送ってくださるようお願いする。

  六月二十日

   東京にて 権泰夏

 

 権泰夏は、ロサンゼルス五輪のマラソンは9位に終わった。コーチ兼任だった津田晴一郎が5位に入ったが、二人の間でレースの戦略を巡って対立があったという。権泰夏は五輪終了後、そのまま現地に残り南カリフォルニア大学に留学して体育学を学んだ。

 留学中から、1936年のベルリン五輪のマラソン代表として、養正高普の孫基禎ソンキジョンを関係各方面に推薦し、バックアップしていた。

 

 そして、ベルリン五輪のマラソンで孫基禎は優勝し、南昇龍ナムスンニョンが3位になった。

 『東亜日報』は、表彰台上の孫基禎の胸の日章旗を消した写真を紙面に掲載して、長期間にわたって停刊処分を受けることになった。

 


 

 孫基禎は、1976年1月13日の『東亜日報』の「あの時のあのこと」の中で、権泰夏について次のように回想している。

祖国愛の苦悶

(前略)

 私のマラソン人生は権泰夏先輩の激励と忠告に大きな刺激を受けた。

 私が養正高普2年生の時に、南カリフォルニア大学に留学していた権泰夏先輩から「36年オリンピックは孫基禎だ」との激励の手紙をもらったが、それが、私がベルリン五輪をわが人生最大の決戦場とするのに決定的な要因になった。

 権泰夏先輩は、32年のロサンゼルス五輪のマラソンで、ゴールまでの100m余りの死闘の末に9位になった忍耐と闘志の人だ。ロサンゼルス大会は、先輩が金恩培氏、そしてボクシングの黃乙秀氏とともに韓国人として初めて参加したオリンピックであった。

 先輩は、ロサンゼルス大会終了後、コーチ兼選手として一緒に走った津田晴一郎が日本チームの成績が良くなかった原因を、権泰夏先輩のせいにしたため、腹を立てて米国にそのまま残って南カリフォルニア大学に入学した。津田コーチは、権泰夏先輩が自分の前に出るなという指示を無視して前を走ったため、チームワークが壊れたと難癖をつけて、コーチとしての自分の責任を権泰夏先輩と6位になった金恩培、つまり「チョーセンジン」に転嫁しようとした。

 これ以降、津田にはコーチとしての資格がないと考えた先輩は、36年5月初めに行われたマラソン最終予選を前後して、毎日申報に「ベルリン五輪で日本マラソンに勝つためには」というタイトルで3回にわたって投稿して、津田にコーチの資格はないと強く主張した。また、権泰夏先輩は、朝日新聞の体育部長だった織田幹雄氏に私信を送り、「津田をベルリン五輪では絶対にマラソンコーチにしてはいけない」と力説した。

 織田幹雄氏は、28年のストックホルム五輪の三段跳びで優勝した日本初のオリンピック金メダリストで、その当時の日本体育界では相当な影響力を持った人物だったが、権泰夏先輩の示唆が功を奏したのか、マラソン選手団がベルリンに出発する2週間前、「病気のため」という理由でコーチが津田から佐藤に変わった。

 権泰夏先輩は、最終予選を経て五輪参加が確定した私と南昇龍氏を気遣って、津田のコーチとしての派遣を防いだのだ。

 私のマラソン人生が日の目を見るまで、多くの恩人たちが私に信念と勇気を与えたが、亡くなった権泰夏氏は、その欠かすことのできない一人だ。


 

 ベルリン五輪のマラソン表彰式で、孫基禎と南昇龍は国旗掲揚台を見ようとはしなかった。『東亜日報』は紙面の孫基禎の写真から胸の日の丸を削った。その場の思いつきや一時の激情ではなく、長く服従を強いられてきたことへの抗議であり抵抗であった。

 関釜連絡船での権泰夏暴行事件は、その不条理な服従強要の一例に過ぎない。