箱根駅伝と朝鮮人ランナー | 一松書院のブログ

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 1934年1月11日の『東亜日報』に、箱根駅伝で早大の金恩培キムウンベが7区で区間記録を出したことが顔写真入りで報じられている。

 金恩培は、箱根駅伝を走る前、養正ヤンジョン高等普通学校在学中の1932年にロサンゼルス五輪の男子マラソンに出場していた。同じロス五輪のマラソン代表権泰夏クォンテハは、明治大で1927年から5回箱根駅伝を走っていた。

 1936年のベルリン五輪のマラソンで銅メダルの南昇龍ナムスンニョンも明治大で箱根駅伝を走っている。しかし、この時に金メダルを取った孫基禎ソンキジョンは、1937年に明治大に入学したが、箱根駅伝を走ることはなかった。

 箱根駅伝と植民地支配下の朝鮮人ランナーはどのように関わっていたのか。

 


 

 箱根駅伝は、1920年に慶應大・東京高等師範・明治大・早稲田大の4校で始まり、翌年、中央大・東京農大・法政大、翌々年に東大農実科・日本大・日本歯科大が出場した。その後、1928年から数回関西大学が招待され、1933年に拓殖大・東洋大、1934年に専修大・立教大、1936年に横浜専門が加わった。

 戦前の箱根往復の駅伝は、1940年の21回大会で一旦中止になった。それまでの出場選手から朝鮮人と思われる人名を拾い出してみたのが下の表である。1943年に行われた靖国神社ー箱根神社駅伝が22回の箱根駅伝とされるが、創氏改名のため、名前から朝鮮人ランナーを抽出するのは困難なので除外した。

※表の作成後、早稲田の林和引、東農大の陳水能は台湾人選手、拓殖大学の林英香も台湾人選手と思われるとのご指摘をいただいた。表中でマークして朝鮮人選手から除外した(2023.12.30追記)

 

 箱根駅伝を最初に走った朝鮮人ランナーは、1923年の3回大会の文天吉ムンチョンギル(明治大)と李明植イミョンシク(中央大)の二人。その後、1933年から朝鮮人ランナーが増え始め、参加校が12校になっていた1938年には12人11人が走っている。

 文天吉は、明治大の選手として1922年大会で7区、23年大会で10区を走っている。ただ、1928年の『毎日申報』では中央大商学部を卒業と報じられている。途中で転学したのであろうか。

 李明植は、1922年大会で中央大の10区を走っている。
 その2年前の1920年3月1日、東京の朝鮮人学生たちが日比谷公園で3・1独立運動一周年の集会を開いた。この時53名が検挙されたが、その中に「李明植」の名前がある。同一人物であろう。

 それ以外の情報は今のところ出てきていない。

 

 この時期、朝鮮でも陸上の長距離は盛んになっていた。1923年に京城日報社が主催して「京城仁川リレー競走」が行われた。京城から仁川への片道コースだったが、これが朝鮮での最初の駅伝である。そのコースと結果は、以下の通り。

1.培材学堂 2.京城中学 3.第一高普 4.仁川南商 5.高等農林 6.養正高普 7.善隣商業 8.龍山中学 9.徽文高普 10.南大門商 11.鉄道学校 12.東光学校 13.高等工業 14.中央高普 15.京城工業

 京城中学と龍山中学は、ほとんどが内地人の生徒、高普(高等普通学校)は朝鮮人、商業系・実業系の学校には内地人・朝鮮人の両方が通っていた。

 

 この頃、徽文高普に入学した権泰夏は、徽文高普を中退して内地の立命館中学に転入した。卒業後、明治大学法学部に入学し、1927年から毎年箱根駅伝に出場して箱根駅伝に出場した3人目の朝鮮人ランナーになった。そのうち2回は区間新記録で区間賞を獲得し、1932年のロス五輪のマラソン代表にもなっているが、それについては後述する。

 

 1925年には、朝鮮系新聞社である朝鮮日報社の主催で、1923年と同じコースを仁川から京城へ走る「仁川京城リレー競争」が行われた。この駅伝での順位は以下の通り。

1.養正高普 2.培材学堂 3.高等農林 4.中央高普 5.善隣商業 6.徽文高普 7.高等予備

 この時は、京城中学や龍山中学などの内地人の中学は参加しておらず、高等農林・善隣商業でそれぞれ数名の内地人ランナーが走っただけで、86%が朝鮮人ランナーであった。

 

 1930年には、日本語の新聞を出している朝鮮新聞社の主催で、京城・仁川間を往復する京仁駅伝が始まった。1回目の競技の参加チームは、養正高普、白馬クラブ、総督府、鉄道局の4チームであった。総督府、鉄道局は内地人と朝鮮人ランナーがほぼ半々であったが、朝鮮人ランナーのみの養正高普と白馬クラブが1・2位を占めた。

 優勝した養正高普は、1929年と1930年の大阪・神戸駅伝に参加して2年連続優勝するなど、この時期、圧倒的な強さを誇っていた。さらに、翌1931年にも優勝して3連覇を果たしている。

 この時に、養正高普の陸上競技を指導していたのは、峰岸昌太郎であった。峯岸は、1921年に養正高普に体育教師として赴任し、課外活動の指導にも力を入れていた。朝鮮人の教育を行う普通学校や高等普通学校には、校長や訓導はもとより、通常の教員としても内地人が一定数在職することになっていた。養正高普に赴任した峯岸は、朝鮮人生徒らの競技力の向上に努め、京城・仁川の駅伝での指導はもとより、阪神駅伝の際にも引率して遠征に出かけている。

1929年 阪神駅伝優勝記念 中央が峯岸昌太郎

後列左端が、1932年に明治大学に入学する鄭商煕チョンサンヒ

 

 さらに、1932年の第13回東京・横浜往復中等学校駅伝でも内地の強豪校を押さえて優勝した。この時には、峰岸昌太郎は養正高普を退職して朝鮮体育協会に移っていたが、峯岸が指導した趙寅相チョインサン、南昇龍、孫基禎などが選手として走った。

 

 ところで、上述の権泰夏は、1927年大会から1931年大会まで箱根駅伝を走っている。同時期に、東農大の白南雲ペクナムウンも4年連続して走っているが、どのような人物かよくわからない。1925年に東京商科大学を卒業して延禧専門学校の教授となる同名の経済学者がいるが、これとは別人である。

 

 明治大を卒業して京城に戻った権泰夏は、陸上の強豪校になっていた養正高普の陸上部でトレーニングに励んだ。峰岸昌太郎が指導した。

 1932年のロサンゼルス五輪のマラソン代表選考レースが5月に行われ、権泰夏と養正高普の金恩培が1・2位となって、3位の津田晴一郎と共にオリンピックに出場した。

 津田晴一郎は、1928年大会に特別招待された関西大のメンバーとして箱根駅伝を走り、その年のヘルシンキ五輪のマラソン代表となった。さらに、関西大から慶応大に移って1931年大会でも箱根駅伝を走っている。


 ロス五輪のマラソンでは、津田晴一郎が5位、金恩培が6位、権泰夏は9位でゴールした。

 

 1931年には、養正高普の中心選手だった鄭商煕が明治大に入学し、1932年大会から箱根駅伝を4年連続して走った。金恩培は、ロス五輪の翌年、早稲田大に入学し、1934年と35年の箱根駅伝を走っている。冒頭の記事は、1934年大会で区間新を出した時のものである。

 この頃から、朝鮮の新聞でも、箱根駅伝に出場する朝鮮人ランナーについて取り上げることが多くなった。

 

 1933年から37年の時期は、養正高普の出身者が特に多かった。1935年大会では、4人の養正高普卒業生が走っている。

 養正高普は、現在のソウル駅の西側、阿峴洞アヒョンドンへ越えていく道の右側、孫基禎体育センターの場所にあった。今も当時の校舎が2棟残っている。この学校はスポーツ有力校というだけでなく、有数の進学校でもあった。京城帝国大学や内地の有名大学に進学した卒業生も数多くいた。

 

 箱根駅伝の出場校は、1933年大会から拓殖大・東洋大が加わり、34年大会から専修大・立教大、35年大会からは横浜専門学校が加わった。そして1937年大会以降、朝鮮人ランナーが急激に増加する。


 その理由の一つには、1932年と36年のオリンピックのマラソンに、4人の朝鮮人ランナーが日本代表として選ばれたことで、朝鮮人の長距離ランナーへの注目度が高まっていたことがあるだろう。

 

 1936年のベルリン五輪の代表選考レースでは、養正高普中退で内地の目白商業学校を卒業して1934年に明治大に入学していた南昇龍が1位、養正高普在学中の孫基禎が2位だった。南昇龍は1934年〜36年の箱根駅伝に出場していた。孫基禎は、年齢は南昇龍と同じだったが、地方でスカウトされて遅れて入学したので、まだ高普在学中だった。

 

 

 ベルリン五輪のマラソンレースでは、孫基禎が金メダル、南昇龍が銅メダルを獲得した。

レニ・リーフェンシュタールのベルリン五輪記録映画のマラソン場面(抜粋版)

 

マラソンの表彰式の場面(全)

 孫基禎も南昇龍も、表彰台でうつむいて目線を掲揚台からそらしているのが印象的である。孫基禎は、外国のインタビューに対して自分を「코리아コリア学生」と語っており、それを掲載したドイツ語の新聞記事を翻訳・引用するかたちで『東亜日報』が「朝鮮(コリア)の学生孫基禎君は故国で大変賞賛されている」と伝えている。

 

 

 そして、マラソンで優勝した孫基禎についてレポートした8月25日付の『東亜日報』では、表彰台上の孫基禎の胸の日章旗を消した写真を掲載した。

 これを問題視した朝鮮総督府は、『東亜日報』を直ちに無期停刊とし、東亜日報社内の関係者は逮捕・拘束された。

 

 実は、呂運亨ヨウニョンが社長をしていた『朝鮮中央日報』の方が『東亜日報』よりも先に日章旗を消した写真を掲載していた。

 呂運亨は、上海で独立運動をおこなっていた1929年に、上海の英国租界で逮捕されて日本に引き渡され、朝鮮で服役した。仮保釈された後、1933年に朝鮮中央日報の社長に就任し、朝鮮人のスポーツ選手の育成に尽力していた。青年をスポーツを通じて育成することが重要だと考えていたからである。それもあって、ベルリン五輪での孫基禎と南昇龍の活躍もいち早く報じたが、8月13日に掲載した孫基禎の写真で、胸の日章旗を抹消していた。

 ところが、『朝鮮中央日報』は輪転機の性能が悪くて写真がもともとクリアでなかったため、ほとんどの人が抹消されたことに気づかなかった。東亜日報が停刊処分になると、朝鮮中央日報も「謹慎のため」として9月5日から自主休刊を宣言した。うちの新聞も消していたんだというアピールだったのかもしれないが、その後経営悪化で復刊することができなかった。

 

 孫基禎は、10月8日に汝矣島飛行場に帰ってきたが、要注意人物としてマークされ、大勢が集まる歓迎集会は中止せざるを得ない事態も起きていた。

 孫基禎は、内地の大学への進学を希望したが、思うように進学先が見つからず、結局、朝鮮総督府学務局に勤めていた鄭商煕と、南満州鉄道に就職していた権泰夏が保証人になってくれて、明治大への入学が実現した。しかし孫基禎の入学に際しては、陸上競技はやらずに集会などには参加しないという条件がついた。朝鮮人の英雄として民族のシンボルとなることを懸念したからである。

 このため、孫基禎は明治大在学中、一度も箱根駅伝を走ることはなかった。

 

 1938年大会では、17名の朝鮮人ランナーが登録メンバーに入っており、中でも中央大と専修大では4人の朝鮮人が名を連ねていた。新たに箱根駅伝に参戦した専修大、横浜専門、立教大、東洋大などで朝鮮人ランナーが起用されていた。箱根駅伝のために有力選手をスカウトしたケースもあったのかもしれない。

 

 

 

 朝鮮人ランナー側からしても、1940年に開催が決定していた東京五輪のマラソンを視野に入れて、オリンピックランナーを輩出している箱根駅伝に注目していたこともあろう。彼らの目的が、「日の丸をつけて走る」ことではなかったことは言うまでもない。

 この1938年の箱根駅伝では、上述の呂運亨の次男呂鴻九ヨホングが法政大の8区を走っている。呂鴻九は養正高普の出身で、スケートやサッカーでも活躍した選手であった。呂運亨は、次男の東京在住を口実にして、内地留学中の朝鮮人留学生と会って「祖国独立の必然性」を力説し、資金援助を行なっていた。
 

 1940年に予定されていた東京五輪開催は、1938年7月、開催を返上するとの日本政府の発表によって霧散した。

 箱根駅伝も、日中戦争の激化と国際社会との関係悪化によって、1940年正月の第21回大会をもって中止を余儀なくされた。靖国神社から箱根神社という翼賛的なかたちで行われた1943年の大会で戦前の箱根駅伝は幕を閉じたのである。