ホッチキス・ホチキス・ホチケス・ステープラー | 一松書院のブログ

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 2004年1月放送のKBS「바른 말 고운 말(正しい言葉、美しい言葉)」でホッチキスを取り上げている。

 「호치케스:ホチケス」と発音されることも多いが、外来語表記法の規則では「호치키스:ホチキス」が正しいという。考案者とされていたHotchkissのハングル表記は「호치키스」となる。ただ、この紙を綴じる道具の名称としては、「스테이플러:ステープラー」とすべきだというのが結論。ホチキスは商品名なので… とバッサリ!。
 

 

 明治日本で、この紙を綴じる道具を最初に輸入したのは伊藤喜商店だという。伊藤喜商店は現在のイトーキ。そのホームページにはこのような記載がある。

1903年ゼムクリップ、ホチキスの輸入販売を始める

1890(明治23)年12月1日、伊藤喜十郎が発明特許品の普及を目指して創業した伊藤喜商店は、時代の流れにあわせて事務用品の販売を増やしていき、西日本一帯に「平野町のハイカラ屋」として知られていくようになった。その中でも一世を風靡したのが、今のオフィスでは当たり前に使用されているゼムクリップとホチキスのふたつだ。ともに1903(明治36)年から輸入販売を始めており、どちらも伊藤喜商店の登録商標であったとされる。

 実は、この「ホチキス式自動紙綴器」の登録商標は、梶仁太郎商店の方が先に取得しており、伊藤喜はそれを譲り受けたともいわれている。

 

 日本の朝鮮侵略の過程で、この「ホチキス式紙綴器」も朝鮮に持ち込まれ、広く使われるようになっていたのではないかと推測されるが、特段の資料はない。

 1938年5月7日付の『東亜日報』に、日中戦争の激化で鉄製鋳造品を制限するという記事があり、その制限対象の一つとされたホチキスは、ハングルで「호치키스」と表記されている。植民地時代には「호치키스」が朝鮮語表記として定着していたことを窺わせる。

 

 

 解放後の韓国でも「호치키스」と表記されていた。

 1960年の4・19で政権から退いてハワイに亡命していた李承晩が1965年7月21日にハワイで死去した。この時の『朝鮮日報』の号外に、書斎の机の上に「호치키스」があったと記されている。

 


 

 敗戦後の日本では、戦争中に飛行機部品を製造していた山田航空工業が山田興業と会社名を変えて事務器製造業に転じ、会社名をマックスと変えたのち1952年に国産のステープラーを「ホッチキス」として発売した。

 

同じ時期に販売されていた内田洋行TOHOの同種の商品は「トーホー紙綴器」で、「ホッチキス」ではない。

 


 

 解放後の韓国で、紙を綴じるステープラーを最初に製造したのは和伸ファシン工業で、1962年のことであった。それ以前の1959年に、釜山プサン影島ヨンドに設立されたピースコリアが、ホチキスの針の生産を始めていた。これは解放前からの器具向けや、戦後生産され始めた日本のマックスのホッチキスの針を生産したのであろう。

 

 1970年の新聞記事によれば、この当時の韓国の事務用品はこのような状況だった。

鉛筆、ボールペンなど基本的な事務用品は国産化されたが、事務機器などはいまだ輸入やアメリカ軍部隊の流出品に頼らざるを得ない。スコッチテープ(セロテープ…訳者注)は国産品が使いものにならず99%が日本からの輸入品、ホチキスも国産品は評判が悪く、値段が国産の2倍の250ウォン (小型)もする日本製を使っている。

 

 1967年には、外務部・文教部でホチキス5個が盗まれるという事件があった。

 

七星写真館の外交員だった二人は、11日午後12時50分、中央庁の外務部情報課と文教部大学教育課の事務室から、ホチキス5個(時価7,600ウォン)を盗んだところを守衛にみつかり警察に突き出された。

 この当時、5個で7,600ウォンだと、今の日本円に換算するとホチキス一つが5,000円程度になる。びっくりするほどの値段ではないが、値段以上の希少価値があったのだろう。

 ところで、中央庁の庁舎(旧朝鮮総督府の建物)の守衛はどうやって盗まれようとしていたホチキスに気づいたのだろうか。ひょっとすると厚手のものを綴じる大型のホチキスだったのでバレたのかもしれないが…。

 

 上述のホチキス針を製造していたピースコリアは、1973年に日本のマックスと技術提携して「피스코리아 MAX 호치케스」を発売した。今も「호치케스:ホチケス」と表記されており、韓国語で「ホチケス」と呼ばれるようになったのは、この発売以降のことかと思われる。


 

 というようなことで、2004年に製作・放送されたKBS「바른 말 고운 말」では、「ステープラー」が正しい呼び方とされた。

 

 この番組は、国立国語研究所の見解に準拠した語学啓蒙番組だった。ところが、2013年になって、「ホチキス」の名称に関係した国立国語研究所の見解が大きく修正された。

 

機関銃発明家の名前を取った商標? 「ホチキス」語源定説が覆る
東亜日報 2013-09-26
国立国語院「根拠がない」辞書的定義の修正


「そこのホチキス取って」
 「ステープラー」(stapler)を韓国と日本ではホチキスと呼ぶ。国立国語院が発行した『標準国語大辞典』にも、ホチキスが「ステープラーの別名。ステープラーの考案者である米国の発明家の名前から取った商標名」と定義されている。
 ここでいうアメリカの発明家ホッチキスは、第1次世界大戦当時、フランス、イギリスなど参戦国のほとんどが使用した機関銃を開発したベンジャミン・ホチキス(1826-1885)だとするのが定説だった。戦争が終わった後、弾倉に銃弾を入れてバネの反動を利用して弾丸を押し出す仕掛けを応用して、紙を綴じるホチキスを作ったといわれてきた。自分が作った機関銃によって数百万人が命を失ったので、その反省の意味でホチキスを作ったという説まで出ていた。
 しかし、その定説は通用しなくなった。国立国語院は25日「辞書の見出し語ホチキスの説明は史実とは異なるのではないかという問題提起があり、調査した結果、ステープラーはベンジャミン・·ホチキスが作ったという証拠はないことが明らかになった」として、「『標準国語大辞典』では、今後ホチキスの説明部分を修正する」と明らかにした。
 国立国語院関係者は、「日本に初めてホチキスが入ってきた時、製品の裏面に書かれた製造会社の名前がE.H.Hotchkissとなっており、製造会社の創業者がホチキスであるとされた。しかし、この製造会社の創業者ホチキスのフルネームは、ジョージ・ホチキスで、機関銃を発案したベンジャミン・ホチキスとは関係がないことが確認された。ジョージとベンジャミンの2人とも、(文房具の)ホチキスの実際の発明者ではなく、誰がステープラーを発明したものかは確認できていない」と述べた。
 これにより「ホチキス」の辞書的定義は、「ㄷ字型の針金針を使って書類などを綴じる道具。米国の商標名から出たもの」に変更された。

 

 長年にわたって信じられていた「機関銃を製造していたアメリカの企業家ホッチキス氏が、機関銃の仕組みを応用して紙を綴じる機械を作った」とする説が根拠薄弱として取り消され、「商標名」とされていた「ホッチキス」は「商標名に由来するもの」となった。つまり、「商標の普通名称化」を容認したのである。

 

 「그 호치키스 좀 주세요.(そこのホチキス、とってください)」と言っても、「호치키스가 아니라 스테이플러예요(ホチキスじゃなくてステープラーですよ)」と注意されずにすむようになったわけだ。まぁ、理屈の上では…ということだが。

 

 日本でも、NHKは、ホチキスは商品名だとして放送では「ステープラー」としていたが、かなり前から「ホチキス」と使うようになっている。2004年10月のNHK放送文化研究所「最近気になる放送用語」には次のようにある。

ホチキスは、アメリカの兵器開発者ホチキス氏(B.B.Hotchkiss)が、機関銃の弾丸送り装置にヒントを得て考案したものとされています。商標名であると示した資料もありますが、現在では「紙をとじる文房具」の一般名称として放送でも使うことができます。これと同じ意味の「ステープラー」という言い方も問題ありません。
なお、一般には「ホッチキス」と言うことが多いかもしれませんが、NHKで採用しているのは促音(小さい「っ」)のない「ホチキス」ということばなので、ご注意ください。

 NHKは、機関銃の応用からできたという説の時から既に普通名称として使っていたのである。

 

 ちなみに、朝鮮民主主義人民共和国の社会科学出版社『朝鮮語大辞典』(1992)でも「호치키스」が見出し語で掲載されている。

ホチキス[名]何枚かの文献の紙を綴じる器具の一種。金属のかすがい型の留め具を機械に入れて取っ手を押すと自動的に用紙に刺さって端が折れ曲がって一つにまとめられる。[hotchkiss英]

 


 

 機関銃から紙をとじるホチキスが生まれたという説は、ネット上でもいまだあちらこちらに残っている。ただ、それを否定する記載も多く見られる。

 

 日本で最初に商標登録した梶仁太郎商店の特約店が粟谷銃砲店だったり、戦時中に軍用機の部品を作っていた会社がホッチキスの製造を始めたり、韓国のホチケス製造会社の社名がピースコリアだったりで、機関銃から紙綴器ができたという説は、なんとなく捨て難い気もするのだが…