一松書院のブログ -37ページ目

一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

  1. 韓国国立中央図書館の新聞データベース
     旧韓末・植民地期・解放後の韓国の新聞情報
     (1) 大韓民国新聞アーカイブ
     (2) 韓国歴史情報統合システム
  2. NAVERニュースライブラリー
     植民地支配下の新聞・解放後から1999年までの韓国の新聞情報
  3. 韓国言論振興財団 BIG KINDS
     1990年以降の韓国の新聞情報検索
  4. Internet Archiveの『京城日報』(2022年9月25日追記)

 

  1.韓国国立中央図書館の新聞データベース

 

 

 韓国の国立中央図書館が、旧韓末(朝鮮王朝末〜大韓帝国)、植民地統治下、解放後1960年代までの新聞紙面をインターネット上で公開している。

 ただし、上掲の画面はJava Scriptを使用したもので、ブラウザーで直接行くことはできない。「大韓民国新聞アーカイブ」や「韓国歴史情報統合システム」などから、人名や地名、事項などをキーワード検索して「原文」を見に行くとこの画面が開ける。

 

(1)大韓民国新聞アーカイブ

 https://nl.go.kr/newspaper/

 

 トップ画面の「キーワード(키워드)」から検索画面に入り、キーワード検索する。キーワードは、ハングルはもちろん、漢字(旧字体・一部新字体でも可)でもできる。いろいろやってみた方がよい。日本人の名前をハングルで入れる場合は漢字の韓国音読み。

 

 検索結果から「原文(원문)」をクリックすると、上掲のJava Script画面が開く。新聞紙面はダウンロードも可能。スクリーンショットももちろんできる。

 

(2)韓国歴史情報統合システム

 http://www.koreanhistory.or.kr/

 

 

 トップ画面の左上の欄にキーワードを入れて検索する。要領は上記の新聞アーカイブと同じ。

 

 検索結果内の「連続刊行物(연속간행물)」のところに新聞の検索結果が表示される。デフォルトは「正確度(정확도)」順になっているが「日付(날짜)」順に変更すれば古い方から表示させることもできる。

 

 記事のタイトルをクリックすると、その多くは(1)上掲の国立中央図書館の「新聞アーカイブ」のJava Script画面が開くが、(2)国史編纂委員会の新聞情報データのイメージにリンクするもの(『東亜日報』『自由新聞』)、(3)独立記念館新聞資料のイメージにリンクするもの(『独立』『国民報』など)がある。

 

 ちなみに、独立記念館新聞資料には以下の新聞が収録されている。

 


 

 一旦国立中央図書館「新聞アーカイブ」のJava Script画面が開けば、左上の新聞名・年・月・日を選択して、当該新聞の発行日の新聞紙面に移動することもできる。

 

 

 ただ、発行された全ての新聞の全ての日付の紙面が見られるわけではない。例えば『京城日報』は1924年から1930年までしか入っていない。今後、デジタル化・キーワード登録が完了すると公開されるのかもしれない、と期待しているのだが……。
 

 『京城日報』に関しては、下の 4. Internet Archiveの『京城日報』(2022年9月25日追記)を参照

 

 

 現在ここに収録されている新聞は以下の104タイトルである。

 

  2.NAVERニュースライブラリー

 

 https://newslibrary.naver.com/

 

 

 トップ画面の2番目のタブの「キーワード検索(키워드검색)」から検索する。

 京郷新聞(1946年10月6日〜)・東亜日報(1920年4月1日〜)・毎日経済新聞(1966年3月24日〜)・朝鮮日報(1920年3月5日〜)・ハンギョレ(1988年5月15日〜)の各紙の1999年末日までの記事を検索できる。

 植民地時代から解放後80年代までは漢字でも検索できるが、それ以降はハングルで検索しないと出てこない記事が多い。ハングルで検索すべきであろう。

 

 記事はJava Script画面で表示され、記事内容はテキストウインドウでも表示される。しかし、このテキストはコピーできない。記事のダウンロードはできない。スクリーンショットは可能。

 

 朝鮮日報社は、自社の朝鮮ニュースライブラリーを運営しており、記事によってはこちらのサイトからテキスト化された文字情報が読める。文字のコピーも可。ただし、全ての記事がテキスト化されているわけではない。また、紙面画像の解像度はNAVERニュースライブラリーの画像に比べて格段に落ちる。

 

 『東亜日報』の紙面画像は、国史編纂委員会新聞情報データの紙面画像とは別物である。画像の文字が読みにくい場合は、両方を対照しながら読むと解読できる場合もある。

 

  3.韓国言論振興財団 BIG KINDS

 http://www.kinds.or.kr/

 

 トップ画面から「ニュース分析(뉴스분석)」「ニュース検索・分析(뉴스검색・분석)」に行くと、記事検索ができる。

 

 キーワードはハングルのみで、漢字では検索できない。さらに、期間を設定する。期間は、1990年以降の記事検索ができるが、初期値は「3ヶ月」となっているので要注意。また言論機関は多岐にわたっている。必要に応じて、ある程度の絞り込みをした方がよい場合もある。

 

 Google Chromeであれば、「日本語に翻訳」ができる。その場合、個別の記事内容も全て日本語に翻訳される。韓国語に戻すには、再度「日本語に翻訳」を選択して、「韓国語」をクリックすると韓国語表示に戻せる。

 

 BIG KINDSに登録されている言論機関は以下の通り。

 

 このサイトでは、新聞の紙面情報は出てこない。全てネット上で公開されているオンラインソースである。原本のオリジナルサイトのURLへのリンクもある。

 

  4. Internet Archiveの『京城日報』

 非営利団体のインターネット・アーカイブが公開しているデータベースで、1905年の『朝鮮日報』・1907年〜1912年の『京城新報』(いずれも『京城日報』の前身)と、1915年から1944年までの『京城日報』デジタル版を閲覧できる。ただし、全てが揃っているわけではなく、時期によっては一定期間が全部抜け落ちていたりする。

 

 キーワード検索はできない。新聞を開くとURLに日付が出るので、閲覧したい日付に変更すると当該日付の新聞誌面が表示される。

https://archive.org/details/kjnp-archive

 

 

 


 

 検索のためには、背景・関連用語などからキーワードのアイデアが必要。それだけではなく、検索経験の積み重ねや、「出てこないわけがない」という確信、「絶対に探してやる」という執念も必要になる。

 また、旧韓末から植民地統治期のハングル表記は、現代韓国語の文字表記や綴字法とは異なっており、読解のためにはそれなりの知識が必要となる。

 韓国の国歌「愛国歌エグッカ」の作曲は、安益泰アニクテによるもので楽譜にもそう明記されている。

 ところが、作詞については、空白のまま。誰が作詞したかをめぐっては、諸説あって作詞者の断定には至っていない。

 

 

 今の歌詞とは多少の違いはあるものの、「愛国歌」は日本による大韓帝国併合以前からすでに歌われていた。当初は、スコットランド民謡のオールド・ラング・サイン(AULD LANG SYNE)の曲で歌われていた。日本では「蛍の光」で知られているメロディーである。

 

 

 その後、1937年3月にアメリカにいた安益泰が新しく曲をつけ、在米コリアンがそのメロディーで歌い始めた。1940年12月には、大韓臨時政府がその曲の使用を公認している。1942年8月29日にアメリカのロサンゼルスで録音されたレコードが残されており、デジタル復元されたものが韓国日報のyoutubeで公開されている。

 

 解放直後の朝鮮では、オールド・ラング・サインのメロディーで歌われていたが、1945年11月21日の『自由新聞』に、安益泰が新しく作曲した経緯とその楽譜が紹介されている。「荘厳で溌剌とした新しい曲調で歌おう」という記事である。

 

 

 オールド・ラング・サインが離別の哀愁を帯びたもので、故国を失った人々の心情にはマッチしていたとしながらも、新しい曲についてこのように記している。

(前略)アメリカにいる同胞たちは、このメロディーがふさわしくないということで、指揮者でチェリストとしても世界的に著名な安益泰氏に依頼して、荘厳でありながらも歌いやすい新しい曲を作ってもらい、在米同胞はこの新しいメロディーで愛国歌を歌っているという。在米韓族連合会の金乎キムホ氏は次のように語った。
 在米同胞は新しいメロディーの愛国歌を荘厳でありながらも溌剌と歌っています。国民会で出版した楽譜を持ってきたので、皆さんもこのメロディーで広く歌ってくださるよう望みます。(後略)

 12月24日の『中央新聞』も、紙面で安益泰作曲の譜面を紹介して、このメロディーで歌おうと呼びかけている。

 


 

 12月15日の『東亜日報』には、12月16日・17日に明治座(現在の明洞ミョンドン芸術劇場)で開かれる梨花イファ高女同窓会主催の独立祝賀音楽大会で、安益泰のメロディーの愛国歌が披露されると報じている。

 

 その一方で、『東亜日報』主催や音楽家協会・文学同盟主催・『中央新聞』後援で、新しい愛国歌の募集も行われている。

「東海の水と白頭山」という愛国歌が韓末時代からあったが、歌詞や歌曲が新しい時代に合わない点もあり、これまでの愛国歌にこだわらず新しい感覚で創作する
(東亜日報より)



 ところが、この直後、モスクワ三国外相会議で米・英・ソ・中4か国による朝鮮の信託統治が決定され、それに反対する運動の中で愛国歌が繰り返し歌われた。この時期に安益泰の曲が定着していったのではないかと推測される。結局、大韓帝国時代からの歌詞がそのまま受け継がれ、この愛国歌が1948年の建国以降、大韓民国の国歌となった。

 


 1955年4月2日、韓国政府にアメリカの出版社からこの愛国歌の作詞者についての問い合わせがあった。その出版社で編集・刊行予定の百科事典に韓国の愛国歌の作詞者を掲載したいというのである。
 

 

 上掲の『京郷新聞』の記事では「島山トサン安昌浩アンチャンホ先生が愛国歌を作詞した年月日と、現在帰国中の安益泰氏が作曲した事実などを回答することになる」となっている。しかし、実際には韓国文教部は回答を保留し、4月10日になって国史編纂委員会に作詞者の調査を委嘱した。
 

 4月18日付の『東亜日報』は、資料の収集の過程で三つの説が出ていることを紹介している。

・安昌浩説
黃義敦ファンウィドン氏の話:今歌われている愛国歌は、併合の約2年前に私が大成テソン学校(平壌ピョンヤン)の教師の時に同校で学生たちに教えた歌である。当時この歌は、同校の設立者である安昌浩先生が作詞したと聞いており、先生はそれ以外にも多くの歌をお作りになった。
しかし、最近になって愛国歌の作詞が金仁湜キムインジェ氏という説も出ているが、当時金仁湜氏は安昌浩先生と親交があり、また音楽の先生でもあったので、金仁湜氏の協力を得て「愛国歌」を作詞したのかもしれない。
また、尹致昊ユンチホ氏が愛国歌の作詞者という話もあるようだが、私が知る限りでは、尹致昊氏が米国で開催された「公会」に参加した時、唯一韓国だけが国歌を持っていなかったために国歌を作ったが、その国歌は「上帝は我が皇帝を助け…」で始まるものだったと記憶している。つまり、現在の愛国歌ではなかったと思う。
・尹致昊説
尹永善ユンヨンソン氏の話:当時(1907年)、亡き父が作詞した愛国歌の原本を持っており、亡父と崔炳憲チェビョンホン氏が共同で愛国歌を書いたとも言われているが、私は亡父が一人で書いたと聞いている。亡父は『愛国歌』以外にも皇室歌や「千万年我が皇室」など多くの歌を書いていた。
・崔炳憲・尹致昊共作説
崔晃チェホン氏の話:愛国歌は私の祖父の崔炳憲(貞洞教会初代監理師)氏と尹致昊氏が共同で作ったものである。
 この愛国歌は1905年頃に作詞されたものと推定されるが、祖父の崔炳憲監理師が歌詞を書き、リフレーン部分は尹致昊氏が作った皇室歌から引用したと考えられる。

 その調査過程で、尹致昊の直筆とされる歌詞が公開され、それに対して金仁湜がインタビューに応じて、尹致昊作詞説を否定して自分が作詞したものだと答えて話題になった。

 

 1955年7月28日、調査に当たってきた愛国歌作詞審査委員会は、「尹致昊氏説が最も有力」という結論をまとめたが、作詞者であるとは断定しなかった。

 

 

 その後も、間欠的に愛国歌の作詞者問題は取り上げられていたが、1998年から1999年にかけて議論が再燃した。

 

 

 この時に、KBSが各方面を取材して、1999年2月28日に「愛国歌の作詞者は誰かー終わりなき論争」という番組を放映した。

 

 

 この番組で、東京の韓国研究院の崔書勉チェソミョン院長が日本の公文書を紹介しているが、その後デジタル公開されるようになった1910年代の日本の公文書にも、「尹致昊の愛国歌」という記述が散見される。

 とはいえ、安昌浩を作詞者だとする主張も依然として根強い。
 

 2015年には、シン・ドンニップ(신동립)『愛国歌 作詞者の秘密(애국가 작사자의 비밀)』が出版された。

 この本によれば、上述した1955年のアメリカの出版社からの問合せに対し、当初、文教部では安昌浩作詞、安益泰作曲と回答をすることにしていた。ところが、これを知った尹致昊の遺族から訂正要求があり、愛国歌作詞審査委員会で資料調査が行われることになった。7月28日の審査委員会最終会議では、作詞者は尹致昊という意見が大勢を占めたが、最終の答申は「尹致昊が最も有力だが作詞者は未詳」となった。それは、植民地支配の最終段階で、尹致昊が日本に協力したことを大統領の李承晩が問題視していたため、愛国歌の作詞者を尹致昊とすると愛国歌自体が否定されかねないと躊躇したためだったとしている。詩人の徐廷柱ソジョンジュもそのような話をしていると著者は記している。

 

 尹致昊は、皇民化政策の中を生き延びて解放の日を迎えた。朝鮮に踏みとどまった朝鮮人が、日本による1930年後半からの戦時植民地支配体制の狂気の中で、「服従」で生き延びざるを得なかったことは事実であり、尹致昊も創氏改名をして日本の戦争遂行に協力的対応をした。そのことで、解放後「対日協力者」として糾弾された。

 尹致昊は、解放の年の12月6日に開城ケソンの自宅で死去した。12月13日に京城府都染洞トヨムドン宗橋チョンギョ礼拝堂で行われた永訣式には李承晩も列席しており(金乙漢『佐翁尹致昊伝』(乙酉文化社 1978))、尹致昊の作詞が明らかになると李承晩が愛国歌を否定してしまうから作詞者未詳にしたという説は信じ難い。

 

 他方、安昌浩は、1932年4月の尹奉吉ユンボンギルによる上海での爆弾投擲事件に関与したとして、上海から朝鮮に押送・投獄され、1935年に一旦釈放された。しかし、1937年の修養同友会事件で再び逮捕され、 獄中で病状が悪化して釈放されたが、1938年3月10日に死亡した。解放に立ち会うことはできなかったが、戦時下で対日協力を強いられることはなかった。

 

 

 韓国の愛国歌は、依然として作詞者未詳である。

 2022年度の麻生中学の「社会」の入試問題で、国籍や外国人労働者、難民政策に関する問題が出された。その中に、次のような設問があった。

 

 この図版は、出典表示にあるように、有馬学『帝国の昭和』(講談社 日本の歴史23 2002)のプロローグに掲載されており、その本文にはこのようにある。

… これは1930年(昭和5)の福岡県若松市(現北九州市)における市会議員選挙のポスターである。ポスターの市議候補者は、評論家で参議院議員の舛添要一氏の父だ(舛添要一「候補者名にハングルのルビ」、「朝日新聞』2000年6月2日夕刊)。

 しかしそんなことよりも、注目したいのは候補者名にふられたハングルのルビである。何のために?もちろん市内に居住していた、在日朝鮮人の票を獲得するためである。彼らに選挙権はあったのかと疑問に思う人がいるかもしれない。しかし実際にどれだけの人が権利を行使したかは別にして、選挙権はあったのである(1年以上の居住要件を満たしていれば)。

 「市内に在住していた、在日朝鮮人の票を獲得するためである」というのが解答のヒントになりそうだが、当時、朝鮮も「日本」とされていたので「在日」というのは正確性を欠くし、今日「在日朝鮮人」は「外国人」であるので、1930年代の選挙について叙述するには不適切な表現である。

 さらに、「ハングルが記されているのはなぜ」という設問の「なぜ」に答えようとするなら、きちんとした事実関係の整理と考察が必要なのではないかと思う。

 この際なので、当時の状況を整理しておきたい。

 



 1925年の衆議院議員選挙法(普通選挙法)の改定で、納税額の要件などがはずされ、内地に居住する日本国籍を有する25歳以上の男に選挙権が与えられた。朝鮮人・台湾人(朝鮮や台湾に本籍地を置く者)も日本国籍を持つとされていたので、内地の同一居住地に1年以上継続して居住している場合には選挙権が付与されることになった。朝鮮人や台湾人への選挙権付与については、帝国議会の委員会で法的な整合性をめぐる議論はあったが、世論の場では比較的スムーズに受け入れられ、これが激しい論議の対象となった形跡はなかったという(有馬上掲書)。

 

 

 この選挙法は、1925年5月5日に公布されたが、この選挙に基づく最初の衆議院議員総選挙が行われたのは、1928年2月20日であった。その選挙に先立って、投票用紙に朝鮮文字(諺文)、すなわちハングルで候補者名が記載された場合の票の扱いが議論されたことがあった。内務省は、ハングルで書かれた票は無効票とするとの見解を示し、それが朝鮮総督府の朝鮮語の機関紙『毎日申報』に報じられている。

朝鮮人有権者

諺文(ハングル)投票は無効

内地在住朝鮮人の衆議院選挙について

 今回、兵庫県郡市長会議において、朝鮮人の内地在住者で衆議院議員の選挙資格を具備した者の投票が有効か否か、またこの場合、朝鮮文字を使用したときの効力はいかがかという問題について協議が行われた。これに関して、法制局並びに内閣側の意向は、このような事例は全く前例がないが、第1点、すなわち朝鮮人の内地在住者で選挙権を具備して日本の文字で投票する場合はもちろん有効である。第2の場合のように朝鮮文字を使用して投票したものについては、最終決定は大審院の判例を待つことになるが、現行の選挙法並びに普通選挙法立法の趣旨・方針に鑑みると、日本文字以外のローマ字及び点字投票はこれを認定するとしているが、それ以外の一般に通用していない文字の使用は原則としてこれを禁止している。従って、朝鮮文字を使用した場合は無効となるとの見解であった。

 この時には、選挙で投票用紙記入に使えるのは漢字・仮名・ローマ字・点字のみで、ハングルでの投票は無効だとされたのである。

 

 1928年2月20日の衆議院選挙投票日を前に、朝鮮総督府の機関紙『京城日報』は、内地在住の朝鮮人有権者についての記事を掲載している。

 

朝鮮人有権者は12,000〜13,000人見当
最も多いのは大阪の3000人余り
選挙には気乗りせぬ


 普選(普通選挙)の実施とともに内地に居住する朝鮮人に被選挙・選挙の権利が付与され朝鮮人の有権者数及びその選挙に対する態度については社会の注目を引くに至つたが、昭和2年6月末現在、内地居住朝鮮人は165,000人に達し、うち有権者は1割に足らず、12,000〜13,000人ではないかとみられている。何分朝鮮人は定住性に乏しく、転々として各地を流浪して回るもの多く、普選の条件とする1ヵ年の定住者は至極僅少で、前記のごとく12,000〜13,000人内外と予想されている。なお朝鮮人の最も多い大阪府にあっては居住者38,000人余りで、過般の府議選挙の際の有権者は3,000人で今回の衆議院選挙もほとんど同数とみられ、東京府は居住者15,000人余り、有権者1,200人余り、福岡県居住者16,000人、有権者1,400人余り、兵庫県居住者11,000人余り有権者930名、神奈川県居住者7,200人、有権者280人、山口県居住者5,700人、有権者540人、鳥取県居住者199人、有権者9人となつている。以上の数字から見て一番多い大阪府が、府内全部で有権者わずかに3,000名に過ぎず、仮に大阪府が5つの選挙区に分かれているとすれば一選挙区にして1,000名を超える所なく、朝鮮人の有権者のみで朝鮮人の代議士を選出するなどといふ事は到底思ひもよらぬが、官憲側ではわずか1割に足らぬ有権者中にさへ選挙に興味を有せず、棄権するものが相当多数に達するだらうと予想している。

 この記事にもあるように、「1年以上の定住」というのがネックになって、実際に選挙権のある朝鮮人は、内地居住朝鮮人の1割にも満たないとしている。※1927年の内地在住朝鮮人人口は、237,980人(田村紀之「植民地期の内地在住朝鮮人世帯と常住人口」『国際政経論集』第17号 2011年3月) とあり、実際にはもっと多かったと思われる。
 『朝鮮日報』は、朝鮮人の有権者は15,000人、無産政党支持が多いと報じている。

 また、『東亜日報』は、東京発の記事で、朝鮮人有権者が10,000人余り、台湾人有権者が300名余り、アイヌ人有権者が2,000人余りと報じている。

 

 この1928年の衆議院選挙で、内地全体で12,000〜15,000人と推定されていた朝鮮人有権者のどの程度が実際に投票したのかはわからない。また、ハングルで投票されて無効票となったものがあったのかについても、残念ながらわかっていない。

 

 この時の選挙の後、朝鮮にも普通選挙法を施行するよう建白書を出すなどの活動をしていた国民協会の会長李東雨が、投票の際のハングル使用を認めるよう陳情書を民政党に提出した。 

 

 1930年の『朝鮮国勢調査報告』では、朝鮮に居住する25歳以上の男性の場合、ハングルでの読み書きができるのは48.2%となっている(朝鮮国勢調査報告. 昭和5年)。さらに、1926年以降、朝鮮人が内地に渡航するには居住地の警察署が発行する「渡航証明」を携帯する必要があったことから、内地に渡航できた朝鮮人のハングル識字率は、これよりも高かったと思われる。また、漢字は読めても書けないが、ハングルであれば書けるという階層もかなりいたようだ。そうしたことが、ハングルでの選挙投票を請願した背景にはあったのだろう。

 

 1930年1月21日、衆議院は解散し、2月20日が投票日となった。

 この1月末まで、選挙を管轄する内務省は依然として「ハングルでの投票は無効」としていた。

 衆議院の解散の後、賀川豊彦陣営がハングルを使った選挙運動をやっていたという興味深い記事があるのだが、そこに当時の内務省の見解が記されている。

朝鮮文字投票無効
内務省側解釈

【東京27日発】本所深川の労働者村を根拠とする賀川豊彦氏は、本所松倉町の馬島僴医師が自宅に選挙本部を設けて中心となり運動中であるが、軍資金は労働者無産者から僅かな浄財を得てこれに当てている。その中には朝鮮人労働者の寄付者が相当に多いため馬島氏がこれに着目して「賀川豊彦」の横に朝鮮の諺文(ハングル…訳者注)を入れた看板を26日から区内に立てて通行人の目を引いた。区内の朝鮮人有権者は、数千人にのぼる見込みで相当有効と思われるが、諺文については潮(潮恵之輔…訳者注)内務次官は次のように述べた。

 内務省の規定では一昨年の選挙時には朝鮮文字は無効であった。

 賀川豊彦の広報看板にはどのようなハングルが表記されていたのかは書かれていないが、「하천풍언」だった可能性が高い。当時、朝鮮で発刊されていた朝鮮語新聞では、日本人の名前や固有名詞は、漢字をそのまま朝鮮漢字音で表記していた。

 

 この方式を踏襲していれば、看板には「」のように表記されたと思われる。

 いずれにせよ、日本人の社会運動家が、選挙運動でハングルを使ったというので『東亜日報』が注目したのだろうが、内務省次官だった潮恵之輔は投票でのハングル使用について否定的な見解を述べている。

 

 ところが、その直後、内務省は「朝鮮文投票有効」と内務省の省議の変更を発表した。

 

衆議院議員選挙法並にその付属法令中、議員候補者の氏名を記載すべき文字の種類については、何等制限したる規定なきをもって、仮令たとえ日本固有の文字に非ざるものといえども、その文字を用いて自他の氏名を記載するもの少からざる事実の存する以上、選挙人がその文字を用い、投票用紙に議員候補者の氏名を記載した場合、その投票を無効とすべきにあらず。従来、内務省大審院がローマ字をもって記載したる投票を有効とするの決定せるは、右の理由によるものとす。然るに、朝鮮文字をもって記載したる投票については、大正13年、これを無効とすべき旨省議の決定あり。けだし、当時における内地在住の朝鮮人はその数、十万人に過ぎざりしが、昭和4年6月においては、二十七萬余人の多数に達し、尚逐年著るしく増加しつゝありて、今日においては、朝鮮文字も既に相当多数の者の間に使用せらるゝものと認めらるゝのみならず、朝鮮人の選挙権に対する理解・要求共に当時に比し進行せるに拘らず、単に本邦固有の文字を書する能はざるがため、折角せっかくの権利を行使するを得ざらしむるが如きは、事実上甚だ不当なりといはざるべからず。これ等の点より見て、さきの省議はこれを変更するを相当と認む。(句読点・ルビは一松書院)

 驚くほど真っ当に見えてしまう内務省発表である。今日の閣議決定などよりも何倍も真っ当に見える。

 

 この数年後には、朝鮮では、国語(日本語)常用キャンペーンが展開されるようになり、朝鮮語教育が廃止され、朝鮮語の雑誌や新聞が廃刊に追い込まれ、さらに皇国臣民の誓詞の強要や創氏改名へと突き進んでいく。
 僅か5〜6年後から始まる朝鮮語とハングルの全否定と、この1930年のハングル投票を有効とした内務省の省議変更の趣旨説明は、異様なコントラストをなすものである。

 

 ところで、内地ではなく、朝鮮における選挙では、1920年代後半からすでにハングルによる投票が認められていた。

 1926年11月に行われた京城府協議会選挙では、ハングルによる投票も有効であった。

被選挙人の名前だけを漢字で書くが、漢字がわからない人については、ローマ字、諺文(ハングル…訳者注)、仮名で書いても構わない。

 その後の朝鮮における選挙では、ハングルでの投票はずっと有効だった。1931年5月21日の京城府議会議員選挙では、投票総数18,490票のうち、1,390票以上がハングルによる投票だった。

 ハングルでの投票は、ほとんどが朝鮮人立候補者への投票で、洪必求であれば「홍필구」と書けばよい。開票作業をする人にも立会人にも、ハングルが読めて誰の票であるか識別できる係員を配置することは、朝鮮で行われる選挙ではさほど難しいことではなかった。

 

 ところが、内地の衆議院選挙は、立候補者のほとんどが内地人である。しかも、内務省は、被選挙人の名前の日本読みをハングルで書いた票のみを有効票とするとした。 

 

   

注:上掲記事中の「ピングウン・ハヤン」は誤ったもの

 

 つまり、「濱口雄幸」であれば、漢字の朝鮮語音で「빈구웅행」とすると無効になってしまう。「하마구치유코」と書くと有効票になるというわけだ。

 賀川豊彦の場合は、「하천풍언」ではダメで、「카가와토요히코」と書けば有効ということだ。ところが、朝鮮語では濁音が意識されないので「가가와도요히고」という表記もありがちである。さらに、日本語の「ず」とか「つ」とか、長音をハングルでどのように表記するかは、今日においても一定ではない。さらに、当時は、内地ではハングルなど見たこともないのが当たり前の時代。ハングルの票を判読・識別できる係員を開票所に配置するのはかなり困難だったと思われる。

 

 衆議院選挙の4日前の『毎日申報』の報道によれば、東京では各開票所に立候補者(全て日本人)のハングル表記の対照表が配布されたとある。これを使って開票作業が行われたのであろう。ハングル表記のどこまでが「誤差」として許容されたのかはわからない。

 こうしたことから、候補者は、自分の名前の仮名表記はもちろん、有効票になるハングル表記も有権者に周知しておく必要があり、そのために朝鮮人票が期待できる場合は、ポスターや看板にハングル表記を入れたのであろう。

 

 

 このようにして2月20日の衆議院議員選挙の投票は行われた。この選挙で、どの程度のハングル文字の投票があったのか、有効・無効の扱いはどうだったのかなどは、残念ながら定かではない。

 


 

 冒頭の麻布中学の入試に使われた舛添弥次郎のポスターは、若松市議会議員選挙に向けて行われた1930年5月30日の政権発表演説会のものである。地方選挙でも、衆議院議員選挙と同じようにハングルによる投票が認められたことを示している。そのポスターに書かれているように、仮名では「マスソエヤジロウ」、ハングルでは「마수소애야지로우」と書けば、舛添弥次郎の有効票になった。ただし、「천첨미차랑」と書いたものは無効。「마수조에야지로」といったハングル表記が微妙に違う票の扱いがどうだったのか、気になるところだが全く記録はない。

 この時の選挙で、舛添弥次郎は最下位で当選した。ところが、次点の候補者の疑義申し立てで1票差での落選となったという(『朝日新聞』2000年9月19日朝刊)。ハングルで書かれた票が… ということになると面白いのだが、残念ながら詳細は不明。そこまで当落に影響を及ぼすようなものではなかったのかもしれない。


 この「非内地人」にも選挙権を与え、しかもハングルでの投票まで認めるといった政策は、有馬学が『帝国の昭和』に書いているように、一票を投ずる自分が、その行為によって「国民」として意識され、その微妙な国民の境界は、差異を曖昧化させる装置として機能した。そして、内地人と朝鮮人が、まるで一体であるかのような幻想を作るものとして利用されたのであろう。

 

 その後、1932年、1936年、1937年、そして翼賛選挙の1942年と国政レベルでの選挙があった。

 1932年の選挙には東京4区から李春琴が立候補し、「おん文まぢりの立看板」を作成して選挙運動を行い、当選を果たしている。「おん文」とは「諺文」すなわちハングルのことである。

 

 余談だが、この時の東京4区には、戦後1960年に右翼の少年に刺殺された社会党委員長浅沼稲次郎も立候補して落選している。また、1930年に賀川豊彦の陣営で最初にハングルのルビを付けたとされる馬島僴マジマ ユタカが、この選挙には自ら出馬している。多分、ハングルでルビを打っていたこともあって朝鮮人候補「バ・トウカン」と思われたようだが、朝鮮人の票を朴春琴に持っていかれて最下位に沈み、供託金を没収されるはめになった。

 

 1936年の衆議院選挙では、大阪4区から立候補した李善洪が、朝鮮語による選挙公報への掲載を求めたが却下された記事が『東京朝日新聞』に報じられている。


 

 1945年の敗戦時まで選挙法自体は変わっていないし、ハングルでの投票を除外する決定も出ていない。内務省の1930年のハングルでの投票を認めた省議は有効だったのだろう。しかし、同調圧力や皇民化政策によってハングルでの投票は最後は有名無実化していったものと思われる。

 


 

 さて、冒頭の入試問題に戻ろう。

 

 1930年時点では、内地の同一地に1年以上定住という条件を満たす朝鮮人には衆議院議員選挙の選挙権・被選挙権があり、内地の地方選挙についても同様であった。朝鮮においては、京城府協議会選挙などの選挙権・被選挙権は朝鮮人にもあった。また、ハングルによる投票は、1930年2月に衆議院議員選挙で有効とされ、内地の地方選挙でもこれが適用された。朝鮮における選挙では、それ以前から既にハングルによる投票が認められていた。

 

 従って、「植民地にいた人は「日本人」として登録され、仕事をするために日本列島に移り住んだ人も多くいました」という本文を受けて、「ハングルが記されているのはなぜですか」という設問への答えはこうなるだろう。

 日本列島に移り住んだ朝鮮人に選挙権があり、ハングルによる投票も有効であった