2022年度の麻生中学の「社会」の入試問題で、国籍や外国人労働者、難民政策に関する問題が出された。その中に、次のような設問があった。

この図版は、出典表示にあるように、有馬学『帝国の昭和』(講談社 日本の歴史23 2002)のプロローグに掲載されており、その本文にはこのようにある。
… これは1930年(昭和5)の福岡県若松市(現北九州市)における市会議員選挙のポスターである。ポスターの市議候補者は、評論家で参議院議員の舛添要一氏の父だ(舛添要一「候補者名にハングルのルビ」、「朝日新聞』2000年6月2日夕刊)。
しかしそんなことよりも、注目したいのは候補者名にふられたハングルのルビである。何のために?もちろん市内に居住していた、在日朝鮮人の票を獲得するためである。彼らに選挙権はあったのかと疑問に思う人がいるかもしれない。しかし実際にどれだけの人が権利を行使したかは別にして、選挙権はあったのである(1年以上の居住要件を満たしていれば)。
「市内に在住していた、在日朝鮮人の票を獲得するためである」というのが解答のヒントになりそうだが、当時、朝鮮も「日本」とされていたので「在日」というのは正確性を欠くし、今日「在日朝鮮人」は「外国人」であるので、1930年代の選挙について叙述するには不適切な表現である。
さらに、「ハングルが記されているのはなぜ」という設問の「なぜ」に答えようとするなら、きちんとした事実関係の整理と考察が必要なのではないかと思う。
この際なので、当時の状況を整理しておきたい。
1925年の衆議院議員選挙法(普通選挙法)の改定で、納税額の要件などがはずされ、内地に居住する日本国籍を有する25歳以上の男に選挙権が与えられた。朝鮮人・台湾人(朝鮮や台湾に本籍地を置く者)も日本国籍を持つとされていたので、内地の同一居住地に1年以上継続して居住している場合には選挙権が付与されることになった。朝鮮人や台湾人への選挙権付与については、帝国議会の委員会で法的な整合性をめぐる議論はあったが、世論の場では比較的スムーズに受け入れられ、これが激しい論議の対象となった形跡はなかったという(有馬上掲書)。

この選挙法は、1925年5月5日に公布されたが、この選挙に基づく最初の衆議院議員総選挙が行われたのは、1928年2月20日であった。その選挙に先立って、投票用紙に朝鮮文字(諺文)、すなわちハングルで候補者名が記載された場合の票の扱いが議論されたことがあった。内務省は、ハングルで書かれた票は無効票とするとの見解を示し、それが朝鮮総督府の朝鮮語の機関紙『毎日申報』に報じられている。

朝鮮人有権者
諺文(ハングル)投票は無効
内地在住朝鮮人の衆議院選挙について
今回、兵庫県郡市長会議において、朝鮮人の内地在住者で衆議院議員の選挙資格を具備した者の投票が有効か否か、またこの場合、朝鮮文字を使用したときの効力はいかがかという問題について協議が行われた。これに関して、法制局並びに内閣側の意向は、このような事例は全く前例がないが、第1点、すなわち朝鮮人の内地在住者で選挙権を具備して日本の文字で投票する場合はもちろん有効である。第2の場合のように朝鮮文字を使用して投票したものについては、最終決定は大審院の判例を待つことになるが、現行の選挙法並びに普通選挙法立法の趣旨・方針に鑑みると、日本文字以外のローマ字及び点字投票はこれを認定するとしているが、それ以外の一般に通用していない文字の使用は原則としてこれを禁止している。従って、朝鮮文字を使用した場合は無効となるとの見解であった。
この時には、選挙で投票用紙記入に使えるのは漢字・仮名・ローマ字・点字のみで、ハングルでの投票は無効だとされたのである。
1928年2月20日の衆議院選挙投票日を前に、朝鮮総督府の機関紙『京城日報』は、内地在住の朝鮮人有権者についての記事を掲載している。

朝鮮人有権者は12,000〜13,000人見当
最も多いのは大阪の3000人余り
選挙には気乗りせぬ
普選(普通選挙)の実施とともに内地に居住する朝鮮人に被選挙・選挙の権利が付与され朝鮮人の有権者数及びその選挙に対する態度については社会の注目を引くに至つたが、昭和2年6月末現在、内地居住朝鮮人は165,000人に達し、うち有権者は1割に足らず、12,000〜13,000人ではないかとみられている。何分朝鮮人は定住性に乏しく、転々として各地を流浪して回るもの多く、普選の条件とする1ヵ年の定住者は至極僅少で、前記のごとく12,000〜13,000人内外と予想されている。なお朝鮮人の最も多い大阪府にあっては居住者38,000人余りで、過般の府議選挙の際の有権者は3,000人で今回の衆議院選挙もほとんど同数とみられ、東京府は居住者15,000人余り、有権者1,200人余り、福岡県居住者16,000人、有権者1,400人余り、兵庫県居住者11,000人余り有権者930名、神奈川県居住者7,200人、有権者280人、山口県居住者5,700人、有権者540人、鳥取県居住者199人、有権者9人となつている。以上の数字から見て一番多い大阪府が、府内全部で有権者わずかに3,000名に過ぎず、仮に大阪府が5つの選挙区に分かれているとすれば一選挙区にして1,000名を超える所なく、朝鮮人の有権者のみで朝鮮人の代議士を選出するなどといふ事は到底思ひもよらぬが、官憲側ではわずか1割に足らぬ有権者中にさへ選挙に興味を有せず、棄権するものが相当多数に達するだらうと予想している。
この記事にもあるように、「1年以上の定住」というのがネックになって、実際に選挙権のある朝鮮人は、内地居住朝鮮人の1割にも満たないとしている。※1927年の内地在住朝鮮人人口は、237,980人(田村紀之「植民地期の内地在住朝鮮人世帯と常住人口」『国際政経論集』第17号 2011年3月) とあり、実際にはもっと多かったと思われる。
『朝鮮日報』は、朝鮮人の有権者は15,000人、無産政党支持が多いと報じている。

また、『東亜日報』は、東京発の記事で、朝鮮人有権者が10,000人余り、台湾人有権者が300名余り、アイヌ人有権者が2,000人余りと報じている。

この1928年の衆議院選挙で、内地全体で12,000〜15,000人と推定されていた朝鮮人有権者のどの程度が実際に投票したのかはわからない。また、ハングルで投票されて無効票となったものがあったのかについても、残念ながらわかっていない。
この時の選挙の後、朝鮮にも普通選挙法を施行するよう建白書を出すなどの活動をしていた国民協会の会長李東雨が、投票の際のハングル使用を認めるよう陳情書を民政党に提出した。

1930年の『朝鮮国勢調査報告』では、朝鮮に居住する25歳以上の男性の場合、ハングルでの読み書きができるのは48.2%となっている(朝鮮国勢調査報告. 昭和5年)。さらに、1926年以降、朝鮮人が内地に渡航するには居住地の警察署が発行する「渡航証明」を携帯する必要があったことから、内地に渡航できた朝鮮人のハングル識字率は、これよりも高かったと思われる。また、漢字は読めても書けないが、ハングルであれば書けるという階層もかなりいたようだ。そうしたことが、ハングルでの選挙投票を請願した背景にはあったのだろう。
1930年1月21日、衆議院は解散し、2月20日が投票日となった。
この1月末まで、選挙を管轄する内務省は依然として「ハングルでの投票は無効」としていた。
衆議院の解散の後、賀川豊彦陣営がハングルを使った選挙運動をやっていたという興味深い記事があるのだが、そこに当時の内務省の見解が記されている。

朝鮮文字投票無効
内務省側解釈
【東京27日発】本所深川の労働者村を根拠とする賀川豊彦氏は、本所松倉町の馬島僴医師が自宅に選挙本部を設けて中心となり運動中であるが、軍資金は労働者無産者から僅かな浄財を得てこれに当てている。その中には朝鮮人労働者の寄付者が相当に多いため馬島氏がこれに着目して「賀川豊彦」の横に朝鮮の諺文(ハングル…訳者注)を入れた看板を26日から区内に立てて通行人の目を引いた。区内の朝鮮人有権者は、数千人にのぼる見込みで相当有効と思われるが、諺文については潮(潮恵之輔…訳者注)内務次官は次のように述べた。
内務省の規定では一昨年の選挙時には朝鮮文字は無効であった。
賀川豊彦の広報看板にはどのようなハングルが表記されていたのかは書かれていないが、「하천풍언」だった可能性が高い。当時、朝鮮で発刊されていた朝鮮語新聞では、日本人の名前や固有名詞は、漢字をそのまま朝鮮漢字音で表記していた。

この方式を踏襲していれば、看板には「賀川豊彦」のように表記されたと思われる。
いずれにせよ、日本人の社会運動家が、選挙運動でハングルを使ったというので『東亜日報』が注目したのだろうが、内務省次官だった潮恵之輔は投票でのハングル使用について否定的な見解を述べている。
ところが、その直後、内務省は「朝鮮文投票有効」と内務省の省議の変更を発表した。

衆議院議員選挙法並にその付属法令中、議員候補者の氏名を記載すべき文字の種類については、何等制限したる規定なきをもって、仮令日本固有の文字に非ざるものといえども、その文字を用いて自他の氏名を記載するもの少からざる事実の存する以上、選挙人がその文字を用い、投票用紙に議員候補者の氏名を記載した場合、その投票を無効とすべきにあらず。従来、内務省大審院がローマ字をもって記載したる投票を有効とするの決定せるは、右の理由によるものとす。然るに、朝鮮文字をもって記載したる投票については、大正13年、これを無効とすべき旨省議の決定あり。けだし、当時における内地在住の朝鮮人はその数、十万人に過ぎざりしが、昭和4年6月においては、二十七萬余人の多数に達し、尚逐年著るしく増加しつゝありて、今日においては、朝鮮文字も既に相当多数の者の間に使用せらるゝものと認めらるゝのみならず、朝鮮人の選挙権に対する理解・要求共に当時に比し進行せるに拘らず、単に本邦固有の文字を書する能はざるがため、折角の権利を行使するを得ざらしむるが如きは、事実上甚だ不当なりといはざるべからず。これ等の点より見て、さきの省議はこれを変更するを相当と認む。(句読点・ルビは一松書院)
驚くほど真っ当に見えてしまう内務省発表である。今日の閣議決定などよりも何倍も真っ当に見える。
この数年後には、朝鮮では、国語(日本語)常用キャンペーンが展開されるようになり、朝鮮語教育が廃止され、朝鮮語の雑誌や新聞が廃刊に追い込まれ、さらに皇国臣民の誓詞の強要や創氏改名へと突き進んでいく。
僅か5〜6年後から始まる朝鮮語とハングルの全否定と、この1930年のハングル投票を有効とした内務省の省議変更の趣旨説明は、異様なコントラストをなすものである。
ところで、内地ではなく、朝鮮における選挙では、1920年代後半からすでにハングルによる投票が認められていた。
1926年11月に行われた京城府協議会選挙では、ハングルによる投票も有効であった。

被選挙人の名前だけを漢字で書くが、漢字がわからない人については、ローマ字、諺文(ハングル…訳者注)、仮名で書いても構わない。
その後の朝鮮における選挙では、ハングルでの投票はずっと有効だった。1931年5月21日の京城府議会議員選挙では、投票総数18,490票のうち、1,390票以上がハングルによる投票だった。

ハングルでの投票は、ほとんどが朝鮮人立候補者への投票で、洪必求であれば「홍필구」と書けばよい。開票作業をする人にも立会人にも、ハングルが読めて誰の票であるか識別できる係員を配置することは、朝鮮で行われる選挙ではさほど難しいことではなかった。
ところが、内地の衆議院選挙は、立候補者のほとんどが内地人である。しかも、内務省は、被選挙人の名前の日本読みをハングルで書いた票のみを有効票とするとした。
注:上掲記事中の「ピングウン・ハヤン」は誤ったもの
つまり、「濱口雄幸」であれば、漢字の朝鮮語音で「빈구웅행」とすると無効になってしまう。「하마구치유코」と書くと有効票になるというわけだ。
賀川豊彦の場合は、「하천풍언」ではダメで、「카가와토요히코」と書けば有効ということだ。ところが、朝鮮語では濁音が意識されないので「가가와도요히고」という表記もありがちである。さらに、日本語の「ず」とか「つ」とか、長音をハングルでどのように表記するかは、今日においても一定ではない。さらに、当時は、内地ではハングルなど見たこともないのが当たり前の時代。ハングルの票を判読・識別できる係員を開票所に配置するのはかなり困難だったと思われる。
衆議院選挙の4日前の『毎日申報』の報道によれば、東京では各開票所に立候補者(全て日本人)のハングル表記の対照表が配布されたとある。これを使って開票作業が行われたのであろう。ハングル表記のどこまでが「誤差」として許容されたのかはわからない。
こうしたことから、候補者は、自分の名前の仮名表記はもちろん、有効票になるハングル表記も有権者に周知しておく必要があり、そのために朝鮮人票が期待できる場合は、ポスターや看板にハングル表記を入れたのであろう。

このようにして2月20日の衆議院議員選挙の投票は行われた。この選挙で、どの程度のハングル文字の投票があったのか、有効・無効の扱いはどうだったのかなどは、残念ながら定かではない。
冒頭の麻布中学の入試に使われた舛添弥次郎のポスターは、若松市議会議員選挙に向けて行われた1930年5月30日の政権発表演説会のものである。地方選挙でも、衆議院議員選挙と同じようにハングルによる投票が認められたことを示している。そのポスターに書かれているように、仮名では「マスソエヤジロウ」、ハングルでは「마수소애야지로우」と書けば、舛添弥次郎の有効票になった。ただし、「천첨미차랑」と書いたものは無効。「마수조에야지로」といったハングル表記が微妙に違う票の扱いがどうだったのか、気になるところだが全く記録はない。
この時の選挙で、舛添弥次郎は最下位で当選した。ところが、次点の候補者の疑義申し立てで1票差での落選となったという(『朝日新聞』2000年9月19日朝刊)。ハングルで書かれた票が… ということになると面白いのだが、残念ながら詳細は不明。そこまで当落に影響を及ぼすようなものではなかったのかもしれない。
この「非内地人」にも選挙権を与え、しかもハングルでの投票まで認めるといった政策は、有馬学が『帝国の昭和』に書いているように、一票を投ずる自分が、その行為によって「国民」として意識され、その微妙な国民の境界は、差異を曖昧化させる装置として機能した。そして、内地人と朝鮮人が、まるで一体であるかのような幻想を作るものとして利用されたのであろう。
その後、1932年、1936年、1937年、そして翼賛選挙の1942年と国政レベルでの選挙があった。
1932年の選挙には東京4区から李春琴が立候補し、「おん文まぢりの立看板」を作成して選挙運動を行い、当選を果たしている。「おん文」とは「諺文」すなわちハングルのことである。


余談だが、この時の東京4区には、戦後1960年に右翼の少年に刺殺された社会党委員長浅沼稲次郎も立候補して落選している。また、1930年に賀川豊彦の陣営で最初にハングルのルビを付けたとされる馬島僴が、この選挙には自ら出馬している。多分、ハングルでルビを打っていたこともあって朝鮮人候補「バ・トウカン」と思われたようだが、朝鮮人の票を朴春琴に持っていかれて最下位に沈み、供託金を没収されるはめになった。

1936年の衆議院選挙では、大阪4区から立候補した李善洪が、朝鮮語による選挙公報への掲載を求めたが却下された記事が『東京朝日新聞』に報じられている。

1945年の敗戦時まで選挙法自体は変わっていないし、ハングルでの投票を除外する決定も出ていない。内務省の1930年のハングルでの投票を認めた省議は有効だったのだろう。しかし、同調圧力や皇民化政策によってハングルでの投票は最後は有名無実化していったものと思われる。
さて、冒頭の入試問題に戻ろう。
1930年時点では、内地の同一地に1年以上定住という条件を満たす朝鮮人には衆議院議員選挙の選挙権・被選挙権があり、内地の地方選挙についても同様であった。朝鮮においては、京城府協議会選挙などの選挙権・被選挙権は朝鮮人にもあった。また、ハングルによる投票は、1930年2月に衆議院議員選挙で有効とされ、内地の地方選挙でもこれが適用された。朝鮮における選挙では、それ以前から既にハングルによる投票が認められていた。
従って、「植民地にいた人は「日本人」として登録され、仕事をするために日本列島に移り住んだ人も多くいました」という本文を受けて、「ハングルが記されているのはなぜですか」という設問への答えはこうなるだろう。
日本列島に移り住んだ朝鮮人に選挙権があり、ハングルによる投票も有効であった
