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一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

 2022年5月10日、尹錫悦ユンソクヨル第20代韓国大統領の就任とともに、これまで大統領府として使われてきた青瓦台が一般に開放されることになった。

 

 

 5月10日時点では、まだKakaoMapのスカイビューや3D表示では青瓦台部分は緑の森の表示になっている。

 

 

 一方、Google Mapsでは、以前から青瓦台の敷地の部分は建物まで全て表示されてきた。

 

 

 今回の青瓦台の一般公開に合わせて、大統領府であった時期に行われていた「見学ツアー」の情報をもとに、青瓦台の内部の様子について再掲する。

 


 

 青瓦台は鍾路区チョンノグ世宗路セジョンノ一番地に位置しており、約76,000坪の敷地に大統領執務室と官邸、秘書室、警護室などがあった。

 

 

 大統領府の時の青瓦台見学ツアーでは、景福宮の横の駐車場から、大統領警護室が手配したバスで一番東側の春秋館チュンチュグァンまで移動し、ここから入ることになっていた。

 

 

 春秋館は、青瓦台担当の韓国のマスコミ関係者が出入りしていた記者クラブで、大統領の国政運営とそれに関連する様々なプレス向け発表が行われていた。1階に記者室と会見室があり、2階に大統領年頭記者会見や各種行事が行われる多目的室があった。青瓦台見学ツアーの時は、ここで手荷物検査を受けて1階のブリーフィングルームで全体的な説明を受けた。外国人参加者には外国語の音声ガイドシステムが渡された。

 

 春秋館から階段を上がって外に出ると緑地園ノクチウォンが広がる。ここには100本を越える木があり、歴代大統領の記念植樹が行われた。その北側に樹齢は330年、高さ16メートルの緑地園を象徴する韓国産の盤松ばんしょうがある。その裏手に全斗煥チョンドゥファン大統領時代の1983年4月に完成した常春斎サンチュンジェという建物がある。樹齢200年以上の春香木チュニャンモクを使った伝統家屋で、賓客との朝食会や非公式会合が行われた。ここの芝生では、大統領が主催する様々な行事や野外パーティが行われた。

 

 

 緑地園の南側に、大統領を補佐する秘書官が勤務していた大統領秘書室と、大統領とその家族の身辺警護に当たる大統領警護員が勤務していた大統領警護室の建物がある。盧武鉉大統領は、2004年に秘書室の建物を改修して執務室を作り、「与民1館」と名付けた。大統領が秘書官と近接した場所で執務できるようにするためだった。しかし、李明博・朴槿恵大統領時代には、この執務室は使われず、青瓦台本館の執務室が使われた。文在寅大統領はこの「与民1館」で執務していた。ところが、今回の青瓦台の公開では、この与民館は案内図の説明でも全く取り上げられていない。

 

 ここから守宮跡スグントに向かって登り坂を上がっていく。

 

 

 20年以上前、金大中キムデジュン大統領時代に「見学ツアー」が始められたが、その当時の案内原稿には次のように書かれていた。

 ここでは、青瓦台が歴史の中でどのように変化し、なぜ青瓦台と呼ばれるようになったのか、青瓦台の由来についてご説明申し上げます。現在、青瓦台があるこの場所は古くから風水地理学上、朝鮮半島の中で最も良い場所だと言われております。朝鮮時代に景福富が創建された当時、この一帯は景福宮の裏庭にあたり、この場所で科挙試験や武術大会が行われました。また王が直々に耕された水田があり、農業が国事の根本であることを国民に示した歴史的な由緒のある場所でもあります。

 1910年以降、日本の植民地統治下では景福宮に朝鮮総督府の庁舎が建てられ、その裏庭にあたるこの場所には朝鮮総督の官邸が建てられました。それによって、朝鮮王室を押さえ込んでその命脈を断ち、この国を永遠に支配しようと目論んだのです。

 独立後、大韓民国政府が樹立され、李承晩イスンマン初代大統領は朝鮮総督の官舎として使われた建物を大統領執務室として使用し、景武台(キョンムデ)と呼びました。

 1960年尹潜善ユンボソン大統領の就任後、3・15不正選挙などで李承晩独裁政権の「負の象徴」になってしまった「景武台キョンムデ」は、呼び方を変えて平和を象徴する青い瓦という意味の「青瓦台チョンアデ」と呼ばれることになりました。

 その後、歴代の大統領がこの建物を使用したのですが、1990年と1991年に現在の大統領官邸と大統領執務室である本館建物が新たに建設されました。そして1993年11月に「景武台」として使われた建物を撤去して元の姿に復元し、景福宮を守る守宮スグンすなわち禁衛があった地という意昧で「守宮跡スグント」と名付けました。景武台時代からあったものとしては、その玄関前にあった白い標石だけが当時のまま残されています。

 守宮跡の北側にある青い瓦の建物が大統領一家が生活する大統領官邸。1990年10月25日に完成した。ただ、ここは大統領の私生活の場所なので、見学ツアーのコースには入っていなかった。

 

 

 この守宮跡には「天下第一福地」という石碑がある。新たに建物を建てようと基礎工事で掘ったところ、地中から「天下第一福地Jという文字が刻まれた岩が出てきたという。まさにこの地が天下第一の良い場所だということでその文字を石碑にしたとされる。大統領官邸の裏手の岩にも3倍に拡大した文字が刻まれているという。

 

 これが、朝鮮総督官邸であり、その後大統領官邸として使用されていた旧官邸の写真。

 

 この守宮跡から西側に移動すると、青瓦台の本館、すなわち大統領執務室の正面にでる。

 皆さまがご覧になっているこの建物は、大統領執務室のある青瓦台本館の建物です。この建物の屋根は韓国宮殿建築様式の中でも最も美しいとされる八作パルジャク屋根となっています。あの青い瓦は30万枚ほど使われていますが、一つ一つ手作りで焼き上げたもので、耐用年数は100年以上だと言われています。

 

 1990年代後半の金大中大統領時代には、中央の大きな建物の1階に大統領夫人室と接見室があり、2階に大統領執務室と会議室があった。本館左袖の別館は、国務会議や各部署長官会議が開かれる世宗室セジョンシツ、右側は小規模の会議が開かれる忠武室チュンムシルといった。本館前の広い芝生は、大統領が国賓を迎える際に、陸・海・空軍儀仗隊の閲兵式が行われる場所であった。

 

 本館前を左に向かって進むと青瓦台の最西端に位置する迎賓館の前に出る。

 

 

 この迎賓館の1階は接見室として使われ、2階はイべントホールとして使われていた。内部は1階と2階が同じ構造になっている。迎賓館の内部には、木槿むくげの花や月桂樹、太極模様を形象化したデザインが用いられている。上部には「喜び」を意味する「」の文字が三つ描かれている。この建物では21本の石柱が2階までを支えているが、前面の4本の石柱は継ぎ目のない高さ13メートル、周囲3メートルの一枚岩で作られたものになっている。2階建てではあるが、一般の建物でいえば5階に相当する高さの建造物である。

 

 ここで、見学者は西門から孝子洞ヒョジャドン宮井洞クンジョンドンに出て青瓦台の見学ツアーは終了した。


 迎賓館前の西門ゲートを出て右に行くと、朝鮮王朝時代の七人の後宮のために設けられた祠堂「七宮チルグン」がある。

 

 西門ゲートのすぐ前が、朴正煕大統領が暗殺された宮井洞 安家 アンガという大統領専用の宴会場があった場所である。今はムグンファ・ドンサンという公園になっている。ここの「安家」で、1979年10月26日に朴正煕大統領が中央情報部長金載圭キムジェギュによって射殺された。2020年には「南山の部長たち」が韓国で封切られ、2021年には日本でも公開された。

 

 この「安家」は、密室政治・情報政治の象徴であるということで全斗煥政権時代に取り壊された。さらに、その向いにあった秘書室長の官舎建物も取り壊され、歴代大統領の功績を展示する孝子洞サランバンに改修された。現在は、青瓦台サランチェとして、広報館や展示館として使われている。

 

 

 一般公開で「旧青瓦台」見学に行かれる際に参考になればと書いてみた。

 

  • 桃花洞 煉瓦工場
  • 煉瓦工場の設置
  • 京城監獄新設と囚人労働
  • 煉瓦造の建築物
  • レンガの需要と価格
  • マンションへの変貌

  桃花洞 煉瓦工場

 1924年8月8日の『東亜日報』の「洞・町内の名物」は、桃花洞の煉瓦工場である。

 

桃花洞 レンガ工場

 ソウルに洋風の家が散在する今日、レンガ工場なしにはやっていけません。それで西大門の外の桃花洞にレンガ工場ができました。

 桃花には白い花の咲く碧桃もありますが、普通は桃花といえば赤い色が思い浮かびます。レンガにもいろいろの色がありますが、普通、レンガといえば赤だと思います。レンガを作る工場が桃花洞にあるのはぴったりでしょう。

 この桃花洞のレンガ工場で働く職工たちは、他の工場の職工とは違います。赤い服を着た職工たちです。赤い服を着た職工たちが赤いレンガ作るというのもやはり色がぴったりです。

 この赤い服を着た職工は、二人ずつ鎖でつながれています。もちろん仕事をする時は鎖は外されます。しかし、銃を持った人が見張り台に立ち、剣を下げた人が付いています。職工の中にはしがない身の上の人もいますが、心臓の煮えたぎる赤い血を涙として流す人も時折います。これを色で語るのはどうにも難しいので、このあたりでやめることにしましょう。

大京城府大観(1936)

 

 このレンガ工場があったところには、現在は麻浦マポサムソンアパートが建っている。

 「赤い服を着た職工」とは、工場の北側にあった京城刑務所の服役囚である。京城刑務所は、1912年に孔徳里に新たに建てられた監獄で、峴底洞に1908年に建てられた監獄(西大門刑務所)が手狭になったとして新設されたもの。解放後は麻浦マポ矯導所キョドソとなり、1963年に安養アニャン市に新設された安養矯導所に統合された。現在は、旧矯導所跡地の南西側ブロックが西部地方検察庁と西部地方裁判所の敷地になっており、他は払い下げられて民有地になっている。

 

  煉瓦工場の設置

 このレンガ工場は、大韓帝国の財政を管轄した度支部タクチブが1906年に建設を計画し、日本から小倉常祐などの技術者を招聘して1907年にホフマン窯2基を備えたレンガ工場を完成させた。小倉常祐は、1878年からレンガ製造が始まっていた小菅集治監(現在の東京拘置所)の技師であり、和井田は足立郡花畑村にあった帝国煉瓦工場の技術者であった。

 

韓国麻浦度支部煉瓦製造所ホフマン式窯

 

 1910年の韓国併合で、度支部の煉瓦製造所は、朝鮮総督府の会計局に移管されて麻浦煉瓦工場となった。その時の操業体制について次のような記載がある。

麻浦煉瓦工場は京義鉄道沿線漢江江畔にあり、専ら煉瓦の製造供給に従事し、工場敷地及原土採取場を合わせて50,479坪、原土調合場1棟、「ホフマン」式輪窯2基、汽罐2基(計120馬力)、汽機2基(計80馬力)、煉瓦圧出機1基(40馬力)、其の他所要機械器具営造物を有し、其の作業は之を部分工賃請負とし、内、原土調合及調合原土運搬のみを直営とし、職工人夫として内地人32名朝鮮人176名、計208名を使用せり

朝鮮総督府編『朝鮮総督府施政年報 明治43年』
第7章 官業 第74節 煉瓦及土管工場

  京城監獄新設と囚人労働

 この段階では、内地人32名と朝鮮人176名で生産が行われており、囚人労働への言及はない。ところが、その2年後の1913年8月23日付の『毎日申報』の記事では、囚人330人がこの工場で使役されていると記されている。

 

 

 この間、1912年12月に、朝鮮人の服役囚1,500人を収容する京城監獄が、麻浦煉瓦工場の北側1キロほどの孔徳里に完成している。この京城監獄の完成によって、麻浦煉瓦工場での囚人労働によるレンガの製造が始まったものと推測される。

 

 『朝鮮総督府始政25周年記念表彰者名鑑』(1935)に金春寿という人物の経歴が記載されている。

明治43年(1910)4月1日 麻浦煉瓦工場常用人夫

明治45年(1912)5月1日 常用人夫罷免同時京城監獄監丁

金春寿は、当初、麻浦煉瓦工場の職工として職に就いたが、1912年に煉瓦工場で囚人労働が始まるとともに京城監獄の看守の肩書きになったのであろう。

 

  煉瓦造の建築物

 煉瓦製造所で製造されたレンガは、大韓帝国末期から日本の植民地支配下での洋風建築物に建材として利用された。

 

 1907年に、現在の鍾路区チョンノグ公平洞コンピョンドンに建てられた平理院(裁判所)は、レンガ造2階建てのルネサンス様式の建物で、麻浦の煉瓦製造所で製造されたレンガが使われていた。

 

 

 また、1907年3月に着工し翌年5月に竣工した大韓医院本館の建物にも、麻浦煉瓦製造所のレンガが使われている。この建物は、現在大学路テハンノのソウル大学病院の構内に残っている。
 

 

 西大門刑務所の建設にも使われた。1923年、1932年の増改築時にも麻浦煉瓦製造所のレンガが使われている。

 

  レンガの需要と価格

 『東亜日報』の「洞・町内の名物」で桃花洞の煉瓦工場が紹介された1924年は、レンガの需要が減っていた時期であった。

 1924年、煉瓦工場として大手の朝鮮窯業と京城窯業は年間2,000万個の生産能力がありながら半分にまで減産していた。この年、麻浦煉瓦工場分を合わせた全体のレンガ供給量のうち600万個が供給過多となっていた。この時には、麻浦煉瓦工場廃止という新聞報道が出たことがあった(『毎日申報』1924年12月3日)。

 1926年も、供給1,600万個に対して800万個しか消費されなかった。その中で、囚人労働で生産コストが抑えられた麻浦煉瓦工場のレンガだけは完売しており、民間のレンガ工場を圧迫するとして問題視されたことがあった。

 

 1929年の『朝鮮新聞』によれば、この前年あたりからレンガの需要はやや持ち直していたようだ。この時期から、京城府の外郭地域の宅地開発—舞鶴町住宅、三坂住宅地、桜ヶ丘住宅地など—が急速に進んだことも関係しているのだろう。

 

 

 この時点で、最大手の京城窯業が800万個、鷺梁津の森田300万個、往十里の加藤100万個、清涼里の新井300万個、新村の某朝鮮人100万個、それに麻浦の刑務所煉瓦工場が300万個という生産水準だった。需要が増えたことで、価格がばらついたため1930年9月には、京城と仁川のレンガ業者が価格の統一をはかり、それを新聞紙上で告知している。

 

 

 ここに麻浦の煉瓦工場は入っていない。1926年の新聞記事では、囚人労働のため「民間製品に比して平均で4厘安い」とあるが、小売で2銭前後のレンガで4厘安いというのは相当な安さだったことになる。

 

 その後の麻浦煉瓦工場のレンガ生産については、1932年に煉瓦工場から囚人が脱走した事件が報じられていて生産が継続していたことがわかる。具体的なデータは見当たらないが、囚人労働によるレンガ生産は続けられていたものと思われる。

 

  マンションへの変貌

 1945年の日本の敗戦で、北緯38度線以南の朝鮮は米軍の軍政下に置かれた。麻浦刑務所で服役していた独立運動家や思想犯などは釈放されたが、刑務所施設はそのまま存続した。ただ、麻浦煉瓦工場で、そのまま囚人による煉瓦製造が行われていたかどうか、これも具体的な記録がない。

 

 煉瓦工場は、朝鮮戦争後の1957年に操業を停止したとされ、その後工場の敷地は大韓住宅営団(のちの住宅公社)に払い下げられた。1961年10月に煉瓦工場の跡地に最新式のマンションが建てられることが報じられている。

 

 

 

 麻浦アパートは、1962年に第1次のY型6棟が、1964年に第2次の4棟が分譲された。

 

 

 その後、1987年にサムソン建築との間で再建築の契約が結ばれ、最終的に1997年5月に竣工した。 麻浦サムソンアパートは14棟で、完成当時、漢江の北側のマンションとしては最高価格を記録した。

 


 

 現在の麻浦サムソンアパートには、煉瓦工場の頃の痕跡は全く残っていない。ただ、敷地の形状が昔の煉瓦工場の時代を偲ばせるだけである。

 

 1924年8月3日の『東亜日報』の「洞・町内の名物」では、中林洞チュンニムドンのカトリック聖堂ソンダンを取り上げている。

 

中林洞 天主敎堂
 ソウルでカトリックの聖堂というと、たいていは鍾峴のとんがった建物を思い出します。しかし西大門の外の中林洞にもカトリックの聖堂があります。この中林洞聖堂は鍾峴の建物の小型版です。我が洞・町内の名物に、大きな建物を外して小さな建物の方を取りあげたのは、大きな建物の場所が名物を選ぶ対象になっていないからです。大きい方の建物が外れてしまうので、この小さい方の建物を大きい建物の代わりにしたのです。鍾峴聖堂が代表ということなら、我が洞・町の名物の企画の中では、この中林洞聖堂が、朝鮮のすべてのカトリックの聖堂を代表するものということになりましょう。
 全朝鮮を代表するカトリック聖堂の話をするなら、朝鮮のカトリックの歴史を見るのが筋でしょう。カトリックの歴史は血の歴史です。ですから、カトリックが朝鮮に入ってからの血が流された話をしようと思います。最初に血が流れたのは純祖元年(1801)のことです。その時、血を流したのは、朝鮮人では李家煥、李承勲、丁若鍾など、外国人としては清の周文謨が有名です。その後、高宗3年(1866)にも多くの血が流されました。有名な朝鮮人には南鍾三、李身逵、洪鳳周がいます。外国人としてはフランスの宣教師10人余りがいました。


 この中林洞聖堂は、薬峴ヤッキョン聖堂とも呼ばれ、今も中林洞にそのまま残っている。

 


 この聖堂は、フランス人神父コースト(E.G.Coste)が設計して、1891年10月に着工し、1893年9月に完成した。朝鮮王朝がキリスト教の禁令を解いた1884年以降、初めての西洋式教会として建築されたのがこの中林洞聖堂で、現在は史跡に指定されている。

 ちなみに、鍾峴チョンヒョン聖堂ー現在の明洞ミョンドン聖堂ーが完成するのは、その5年後の1898年のことである。こちらもコーストが設計したもので、聖堂の規模としては鍾峴聖堂の方が大きかった。ただ、「場所が名物を選ぶ対象になっていない」とあるように、鍾峴聖堂があった明治町が「洞・町内の名物」の対象ではなかった。そのため、京城だけでなく朝鮮を代表する鍾峴の聖堂が「名物」として挙げられることがなかったのである。

 

 『東亜日報』の「洞・町内の名物」の連載企画では、黄金町(現在の乙支路ウルチロ)から南山にかけての町、本町や旭町・南山町・明治町・南米倉町など、それに南大門から漢江にかけての吉野町・三坂通などは、「洞・町内の名物」から除外されていた。掲載された記事の場所を地図上に表記すると、このようになる。

 

 この緑色で囲んだ部分が内地人の居住が多かった場所、すなわち「朝鮮の人々のものでなくなった京城の街」である。『東亜日報』は、そこをこの企画から除外した。

 

 そうした事情から、明治町の鍾峴聖堂よりも規模の小さな中林洞の聖堂が「朝鮮を代表する聖堂」として取り上げられた。

 

 Netflixで公開されているドラマ「39歳」の冒頭の葬儀の場面は、この中林洞の聖堂で撮影されている。内部の様子もよくわかる。

 

 

 この中林洞の聖堂は、1801年のカトリック弾圧(辛酉シニュ迫害)で獄死した李家煥イガファンの居宅のそばにあり、多くの信者が殺された西小門ソソムン外を見下ろせる丘に建っている。辛酉迫害で刑死した丁若鍾チョンヤクチョンの弟の丁若銓チョンヤクチョンは全羅道黒山島フクサンドに流刑、その下の弟の丁若鏞チョンヤギョンは全羅道康津カンジンに流刑となった。丁若銓は、この時に黒山島の海洋生物について『茲山魚譜チャサンオボ』を編纂した。2019年制作の韓国映画「茲山魚譜」が、2021年に日本でも公開された。

 

映画「茲山魚譜」予告編

 

 丁若鏞は、流配された康津で『経世遺表キョンセユピョ』や『牧民心書モンミンシムソ』を著し、朝鮮の「実学」の巨匠として現代でもよく知られている。

 

 一方、1866年の丙寅ビョイン迫害では、フランスの宣教師が殺害されたが、そのため、その年の10月に清国に駐屯していたフランス軍が江華島カンファドに攻め入った。これを丙寅洋擾という。フランス軍従軍画家だったアンリ・ジュベール(Henri Zuber)が、翌1867年にフランスの雑誌にこの戦闘の模様を版画と共に投稿している。

 

 


 中林洞の聖堂は、1924年の『東亜日報』の「洞・町内の名物」に取り上げられたものの中で現存する数少ない建造物である。