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一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

映画「モガディシュ」—その時代背景— から続く…

 

  モガディシュからの脱出

 ソマリア駐在の韓国と北朝鮮の大使館員が協力してケニアに脱出したのは、韓国時間の1991年1月13日未明のことだった。

 

 脱出前に、イタリア発のロイター通信が「コリアの外交官がモガディシュのイタリア大使館内で死亡」と流し、ナイロビ発のAFP通信が11日に北朝鮮外交官1名が死亡したことを報じている。

 

 アフリカの東端の国で、内乱の中を韓国と北朝鮮の外交官らが命からがら隣国に逃れた事件だったが、当時の韓国社会はその脱出劇にあまり関心を示さなかった。韓国の新聞は、ソマリアからの脱出について、外務部当局者の話をべた記事で報じただけだった。有力紙『東亜日報』『朝鮮日報』は、べた記事にすらしなかった。

 

『京郷新聞』

『ハンギョレ新聞』

ソマリア大使、ケニアに撤収

 ソマリアの事態が悪化したため、13日未明(韓国時間)、駐ソマリア姜信盛カンシンソン大使を始めとする公館員と在留韓国人6名が、イタリア政府が手配した航空機で全員無事に隣国ケニアに撤収したと外務部が14日明らかにした。

 またソマリアにいた北朝鮮公館員とその家族等13名も、同じ航空機で撤収したと外務部当局者は語った。

 

  『中央日報』の姜信盛大使インタビュー

 ただ、『中央日報』だけは、韓国に帰国した姜信盛カンシンソン大使に取材して、そのインタビュー記事を1991年1月24日付の紙面に掲載した。

 

 

「無駄死はしない」と手を取り合った南北

姜信盛大使が明かしたソマリア脱出記

銃撃をくぐり抜け一緒に安全地帯に
ケニアでの別れ、「統一後また隣人になろう」

 血は水より濃かった。
 アフリカの奥地ソマリアの首都モガディシュで内戦に巻き込まれて脱出路が閉ざされた中で、南北双方の大使と大使館職員が繰り広げた合同脱出作戦は、体制と理念を超越した純粋な同胞愛から実行された。
 モガディシュは、昨年末以降続いた政府軍と反政府軍の市街戦で、銃弾が降り注ぎ、政府機関や通信施設はほぼ破壊され、住宅街や外国公館などには銃を持った強盗が押し入り、婦女子の恐喝、金品の強奪などが日常的に起こる無政府状態でした。
 17日に帰国したソマリア駐在の姜信盛大使(54)は、まだ半月間の悪夢が消えないかのように緊張した面持ちで当時の危機状況を振り返った。
 ソマリアの内戦が激化したのは昨年の12月30日。
米国、ソ連、中国など主要国の公館が撤収したことを受け、韓国大使館も撤収することを決め、7日から李昌雨イチャンウ参事官をモガディシュ国際空港に待機させ、航空便での非常脱出を試みたがうまくいかなかった。
 李参事官とともに脱出路を探すため、9日朝早く空港に行った姜大使は、待合室で金龍洙キムリョンス大使(55)ら北朝鮮公館員とその家族14人を見つけた。「全滅するかも知れない危機の中では南も北もないでしょう。同じ民族同士で力を合わせて脱出作戦をやりましょう。』
 姜大使は、韓国公館の置かれている状況も難しいが、空港で孤立している北朝鮮側を何とかしなければならないと考えた。
 北朝鮮の金大使はやや当惑した表情を浮かべ、「何か良い方法でもありますか」と前向きな態度を見せた。
 この時、空港関係者からケニアのナイロビの韓国大使館が手配した2機のイタリア軍用機がまもなく到着するので、搭乗者名簿を知らせてほしいという連絡があった。姜大使の指示によって、李参事官は、韓国側搭乗者6人(在米韓国人1人は残留希望)と北朝鮮大使館側14人、そしてあとから合流したソマリア駐在ルーマニア代理大使など21人のリストを空港側に通報した。
 軍用機は予定通り飛んできた。ところが、管制塔との交信ミスで、別の軍事基地に着陸してしまい、民間空港で待機中だった公館職員たちはこの救助機を逃してしまった。救助機は他の難民を乗せて出発してしまった。
 韓国と北朝鮮の大使は、「何か別の方法を探そう」と励まし合って、銃撃戦の続く市内をくぐり抜けて、比較的安全な韓国公館に戻り夜を明かした。韓国公館の通信が途絶えた中で、北朝鮮の金大使は夜が明けると、北朝鮮と国交があったエジプト大使館を訪れ、カイロにある北朝鮮大使館に安否を知らせる電報の打電を依頼し、在カイロ韓国総領事館にも韓国公館員たちの無事を知らせる電文を送ってくれるよう依頼した。この電文は、韓国政府側に到着していたことが後日確認された。
 一方、姜大使も同日朝、現地の警備警察官2人を同行させ、6キロほど離れたイタリア大使館を訪れ、救助機を再び要請した。
 イタリア大使のマリオシカ氏(45)は、12日の午後に軍用機が来る予定だが、事情により韓国側の公館員7-8人程度しか乗せないと返答した。北朝鮮とは外交関係がないことを意識したようだった。
 姜大使は、「互いに体制と理念は異なるが、同じ民族なのに、北の大使館員らを置いて韓国側だけが脱出することはできないとマリオシカ大使を4時間説得し、南北両方の搭乗の確約とともに、安全な場所がない南北公館の職員が、飛行機が飛来するまでイタリア大使館に避難できるよう約束を取り付けた。
 姜大使は、直ちにこのことを金大使に通報したが、金大使は最初はイタリアが未修好国であることを意識したためか難色を示した。しかし、武装した強盗集団から館員家族を保護する手立てがないという状況判断から、最終的に韓国側の提案を受け入れた。
 南北双方は、10日午後3時55分ごろ、太極旗を掲げた6台の乗用車に分乗して、イタリア大使館に向かった。
 車両がイタリア政府軍が配備された大使館の裏門に接近したところで、70-80メートル前方から集中放火が浴びせかけられた。前方を走っていた数台は、急ハンドルを切って銃撃を免れたが、後方の車を運転していた北朝鮮公館の通信官の韓相烈ハンサンヨル氏(36)が左胸に銃弾を受けた。
 韓氏は、銃で撃たれながらも胸を押さえながら約1分間超人的な意志と使命感で運転を続け、300メートル走らせて安全地帯の大使館裏門にすべり込んだ。それ以外の犠牲者は出なかった。
 韓国公館職員たちは応急処置をしたが、韓氏は銃撃から約20分後に死亡、同日午後10時、双方の公館職員たちによってイタリア大使館の構内に埋葬された。
 双方の公館員と家族、ルーマニア代理大使など22人は、10日と11日夜をイタリア大使公館の応接室などで一緒に過ごした。
 韓国側は姜大使、李参事官、朴ヨンウォン雇用員夫婦、在米韓国人の李ギュウ氏(45)夫婦と息子の7人、北朝鮮側は金大使夫婦と孫(5)、参事官夫婦、一等書記官夫婦と息子(4)、韓相烈通信官の夫人と息子(7)、もう1人の通信官夫婦と娘(3)の計13人。
 双方の公館職員と家族は、この期間には体制や理念の問題など互いの自尊心と感情に触れる言動を慎み、韓国側はコチュジャンを、北朝鮮側はチョンガクキムチなど持ち寄って分け合うなど、親しい隣人として過ごした。
 12日午後、ついに国際赤十字社のマークをつけたイタリア軍用機2機が到着、南北双方の19人とルーマニア代理大使など20人はイタリア大使館を出発、厳重な警戒の中を空港に向かい、午後5時頃ソマリア難民300人余りとともにイタリア軍用機に搭乗、2時間30分後の午後7時30分にケニアの海辺都市モンバサに無事到着した。
 姜大使は、北朝鮮側の女性や子供たちが韓氏の死を目の当たりにして恐怖感に怯えていることを勘案し、空港に行くまでの間、彼らをイタリア大使が乗った防弾車に乗せた。
 艱難辛苦の末に戦場を脱出した両国の公館職員と家族は、モンバサ空港で互いに抱き合い、「この間本当にありがとう」「統一できたら隣人としてともに暮らそう」などと別れの挨拶を交わしながら、この間の熱い同胞愛に思いを馳せた。
<金局厚記者>

 

  エピローグ

 ソマリアの首都モガディシュに置かれた韓国と北朝鮮の大使館の最大の使命は、前述のように南北朝鮮の国連加盟問題をめぐっての総会での票の確保であった。

 

 韓国と北朝鮮の両国が国連に同時加盟したのは、1991年9月17日のこと。モガディシュからの脱出劇の8ヶ月後であった。

 

27年前の今日、国連は大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の同時加盟を承認しました。
[サメット·サハディ/第46回国連総会議長]
「満場一致で南北の国連加盟が決まりました」
待機席で待っていた韓国代表団は直ちに総会議場に席を移動し、大韓民国の英文名が書かれた名札が置かれました。
1949年に国連から朝鮮半島の南側に建てられた唯一の合法政府として認められた韓国は42年ぶりに国連の161番目の加盟国になったのです。英文の国名が韓国より前になる北朝鮮は160番目の加盟国になりました。
[ニュースデスク(1991年9月18日)]
いまだ国際法上、休戦状態にある朝鮮半島に平和を定着させる大きな一歩となりました」
国連本部の前には太極旗と人民共和国旗が並んで掲げられ、韓国と北朝鮮の代表はそれぞれに朝鮮半島の統一と世界平和を強調しました。
[イ·サンオク/韓国外相(1991年9月18日)]
「韓半島での平和定着と究極的な統一を促進しなければなりません」
[カン·ソクジュ/北朝鮮外交部副部長(1991年9月18日)]
「いつか南北は単一議席で国連活動に参加する日が来ることを…」
南北の国連同時加盟は、朝鮮半島の平和体制構築に向けた第一歩であり、東アジアの冷戦時代の終息を知らせる記念碑的な出来事として記録されています。


 2006年、外交官を引退した姜信盛元大使は、1991年のモガディシュ脱出劇を題材にした小説を書いて文壇デビューを果たした。

 

姜信盛『脱出』ハンガン、2006年4月

 

 『脱出』が刊行されるまでの15年間に、南北首脳会談が実現し、金大中と談笑する金正日の姿が韓国のテレビで流れ、南北朝鮮の関係も大きく変化していた。


 そして、さらにそれから15年。この事件は映画化され、2021年7月28日に韓国で封切られた。

 

 韓国では360万人以上の観客を集め、7月からは日本でも公開された。

 

 

 ただ、現実の南北関係を見ると、モンバサ空港の飛行機の中で挨拶を交わした人々が再会を果たすことができるのはまだまだ難しそうな状況である。


 あれから、すでに30年の歳月が過ぎ去った。

 映画「モガディシュ」の公開を機に、1991年のあの時代と、1990年代に至るまでの南北朝鮮の関係について整理しておこう。

 10年が「ひと昔」なら、もう「み昔」ということになる。

 

  1991年1月

 1991年1月、盧泰愚ノテウ大統領は年初の記者会見で単独での国連加盟申請も辞さないと言明した。

 

 1991年1月17日、アメリカ・イギリスをはじめとする多国籍軍がイラクを空爆して湾岸戦争が始まった。

 

 1991年1月 30日、日朝国交正常化のための第1回目の本交渉が平壌で開かれた。前年9月に北朝鮮を訪問した自民・社会両党代表団(金丸・田辺訪朝団)に北朝鮮の国家主席金日成キムイルソンが国交正常化交渉の開始を提案して始まったものだった。

金丸信・金日成・田辺誠(1990年9月 妙香山招待所にて)

 


 そんな1991年の1月。ソマリアの首都モガディシュでは、内戦の混乱の中から南北朝鮮の外交官や居留民が、ソマリアからの国外脱出を試みていた。

 

 1月13日、韓国大使館関係者と在留韓国人6名、そして北朝鮮の大使館員とその家族13名が、同じイタリア軍用機に搭乗して隣国ケニアへの脱出に成功した。

 

 映画「モガディシュ」は、その実話をもとに製作された。

 

韓国映画『モガディシュ 脱出までの14日間』日本版予告編

 

  南北朝鮮と国連

 1948年12月12日の国連総会決議第195号(III)で、韓国は「朝鮮臨時委員会が観察・協議できたところの北緯38度線以南における・・・・・・・・・・・唯一合法政府」とされた。

 

 

 朝鮮戦争が1950年6月25日に勃発すると、7月7日の国連安全保障理事会で「安保理決議84」が可決された。この時、ソ連は中国代表権問題で欠席したため拒否権を使えなかった。韓国を支援する国連加盟国の軍はアメリカ軍の指揮下に置かれ、国連の旗を使用することになった。すなわち、「国連軍」が朝鮮戦争の当事者になった。

 1953年、国連軍と北朝鮮人民軍・中国義勇軍との間で休戦協定が成立した。

 

 その後、韓国も北朝鮮もそれぞれ国連加盟を画策した。しかし、国際情勢の変化や南北双方の思惑もあって、国連加盟は実現しなかった。


 1973年、韓国の朴正煕パクチョンヒ大統領は、南北朝鮮の同時加盟に反対しない意向を示した。韓国だけが朝鮮半島での「唯一合法国家」という主張を棚上げして、南北二つの国家がそれぞれ国連に加盟することを容認する方針を打ち出した。

 

ヘッドラインは「南北朝鮮の国連同時加盟に反対しない」

 

 ところが、北朝鮮の金日成は、南北別々ではなく、「高麗コリョ連邦」という一つの国家として国連に加盟することを逆提案した。



 南北それぞれを支持する加盟国数が拮抗していた1975年の国連総会では、韓国が単独で加盟申請をした案が否決された。これ以降、南北ともに加盟申請を棚上げせざるを得なくなった。


 この当時、北朝鮮は非同盟諸国会議のメンバー国として、アフリカなど発展途上国と緊密な外交関係を築いていた。一方、韓国は西側先進国との関係を優先していたため、「第三世界」の途上国の国々との外交関係においては北朝鮮に大きく遅れを取っていた。

 

  ソウル五輪と第三世界諸国外交

 1982年、バーデンバーデンのIOC総会で88年夏季オリンピックのソウル開催が決まった。

 


 1983年時点で、南北朝鮮のそれぞれと外交関係を有する国家数は、韓国が120カ国、北朝鮮が104カ国。ただ、アフリカ諸国に限ってみると、北朝鮮の40カ国に対し、韓国は28カ国、さらに韓国と国交のあるアフリカの国々の大半は北朝鮮とも外交関係を持っていた。

大:大使館設置 外:外交関係のみ 領:領事館のみ
1983年11月現在(在韓国日本大使館)

 

 オリンピック開催が決まった韓国は、アフリカの国々と強い結び付きがあった北朝鮮に対して外交攻勢をかけた。アフリカや東南アジアの発展途上国へ積極的な外交攻勢に打って出たのである。

 

 そうした中で起きたのが、1983年にミャンマーを訪問した全斗煥チョンドゥファン大統領の暗殺を狙ったアウンサン廟爆弾事件である。この事件は北朝鮮工作員による犯行とされ、ミャンマーは北朝鮮と国交を断絶し、南北朝鮮の関係は極度の緊張状態に陥った。

 

 

  洪水支援からの南北交流

 その翌年、1984年の9月の集中豪雨で漢江が増水し、ソウル市内を流れる中浪川チュンナンチョン城内川ソンネチョンが氾濫して市内各所が水没する水害が起きた。この時、北朝鮮の赤十字から支援物資の提供の申し出があった。韓国側は当然「いらない」と断るものと思われたが、全斗煥政権は意外にもこれを受け入れた。この南北間の想定外の接触が契機となり、翌1985年には、朝鮮戦争によって離ればなれになっていた「離散家族」の南北相互訪問と再会が実現した。北朝鮮の人々の姿や平壌の街並みが韓国のテレビにも映し出された。

 

 

 その後の1986年のソウルアジア競技大会、1988年のソウルオリンピックでも、南北の共催や合同チームの実現などに大きな期待がかかったが、結局実現には至らなかった。

 

  ソマリア脱出

 ソマリアは、北朝鮮とは1960年の独立当初から外交関係があった。韓国は、1987年になって経済援助などを条件にして国交樹立に持ち込んだ。12月、首都モガディッシュに初代大使の姜信盛カンシンソンが着任して大使館が開設された。

 


姜信盛大使の外交官証(SBS [꼬리에 꼬리를 무는 그날 이야기] より)


 世界各地に置かれていた韓国の在外公館では、トップの大使や総領事には外交部の外交官が任用されたが、No.2のポストには、情報機関である安全企画部(旧中央情報部)の要員が就くのが通例であった。

 ソマリアの韓国大使館でも、No.2の参事官は安企部の李昌雨イチャンウ(映画では、チョ・インソンが演じている)、そしてチョ・マンシク扮する書記官は外務部のノンキャリ外交官という設定である。


 1988年に大統領に就任した盧泰愚ノテウは、北朝鮮と密接な関係にあった「第三世界」諸国に食い込むと同時に、東側陣営の国々との外交関係構築を模索する「北方外交」を積極的に展開した。時あたかもソ連ではゴルバチョフのペレストロイカ(改革・開放)が始動し、ベルリンの壁が崩壊して東欧の国々が体制変動の最中にあった。南北朝鮮を取り巻く国際環境も新たな段階に移ろうとしていた。

 1990年6月の盧泰愚・ゴルバチョフ会談で国交樹立に原則合意がなされ、9月30日には韓国とソ連の国交が樹立された。これを機に、韓国は国連加盟申請に向けて動きを加速させた。国連総会での票を確保するため、特にアフリカなど第三世界の国々への働きかけを強めていた。

 

 盧泰愚大統領が1991年1月の年初の記者会見で、単独での国連加盟申請も辞さないと明言したのにはこのような背景があった。
 

 ちょうどその頃、アフリカ大陸の東端に位置するソマリアでは、反政府武装勢力の統一ソマリ会議(USC)が首都モガディシュを制圧し、1980年に就任して統治を続けてきたバーレ大統領は国外に逃亡した。
 

 1991年1月7日に、ソマリア在留外国人脱出のための休戦が成立したが、この休戦期間中に韓国と北朝鮮の大使館関係者や在留韓国人は脱出できなかった。

 

 

 モガディシュの混乱のまっただ中に取り残されてしまった韓国と北朝鮮の関係者は、互いに助け合って窮地を脱することになった。

 

 冷戦が終焉を迎えつつあった1990年代初頭、南北間の接触や交流は1980年代半ばに始まってはいたものの、南北双方の相互不信は根強く、疑心暗鬼の中にあった。北朝鮮から韓国側に「転向」した人は「帰順クィスン者」と呼ばれ、多額の報奨金が与えられた。しかし「帰順」するものは多くはなかった。韓国の情報機関は、「帰順」させれば自分たちの手柄になった。ちなみに、北朝鮮から韓国に逃れてくる人々を今は「脱北タルブック者」と呼ぶが、「脱北」という言葉が使われるのは1994年以降のことである。
 

 当時、北朝鮮の友好国だったエジプトには北朝鮮の大使館はあったが、韓国は居留民保護のための領事館があっただけだった。一方、ケニアのナイロビには韓国大使館はあったが、北朝鮮は大使館を置いていなかった。ソマリアの旧宗主国イタリアは、韓国とは国交があったが、北朝鮮とは外交関係がなかった。イタリアが北朝鮮と国交を樹立するのは2000年1月のことである。

 

 そうした中、1月13日未明(韓国時間)、韓国大使館関係者と在留韓国人6名が航空機でケニアに脱出し、同じ飛行機で北朝鮮の公館員とその家族13名も脱出した。日本の新聞も小さくではあるが、ソマリアからの外国人の脱出を報じた。

 

 

映画「モガディシュ」—脱出その後— に続く…

  • はじめに
  • 1934年の「発見」
  • 大坂六村の異論
  • 寺内正毅の開眼式
  • 移車(イゴ)寺趾
  • 総督官邸の移転
  • 新大統領官邸と新本館

 5月10日に一般公開された旧大統領府の青瓦台チョンワデ。この敷地内に官邸がある。ここは、盧泰愚ノテウ大統領から文在寅ムンジェイン大統領まで7人の大統領の居宅だった建物。その北側に「慶州キョンジュ方形台座石造如来座像」がある。「美男石仏ミナムソッブル」とも呼ばれるこの石仏は、今回の公開でもちょっとした話題になっている。

 

 

 青瓦台公開の翌日、この石仏の前の賽銭箱がクリスチャンだという50代の女性によって壊される事件が起きた。

 

 そもそもこの石仏は、日本による侵略の時代、それも初代の朝鮮総督寺内正毅マサタケが関係して慶州から京城に持ち込まれた文化財ということで、以前から注目されていた。

 

 今回の青瓦台公開を機に、慶州の元の場所に戻すべきだという声も再び大きくなっている。


 

  1934年の「発見」

 1934年の3月に、行方が分からなくなっていた慶州の石仏が「見つかった」という記事が『京城日報』と『毎日申報』に大きく掲載された。

 

 

 『京城日報』の記事によれば、慶州の南山の「美男石仏」がいつの間にかなくなっていたというのである。そのため、総督府博物館ではその行方を八方手を尽くして探していた。すると、倭城台の総督官邸の警官詰所の裏手で発見された。この記事に出てくる「榧本嘱託」とは、1930年から総督府博物館に勤務していた榧本カヤモト亀次郎である。

 

朝鮮総督官邸(南山)

 

 総督府博物館では、この石仏について、

  • 斎藤実総督の1回目の任期中(1919年8月〜1927年12月)に官邸に運び込まれたのではないか。
  • 総督府博物館所蔵の薬師如来と同じ慶州南山の谷筋にあったもの。

とコメントしていた。

 

 斎藤実は、1929年8月から1931年6月まで2回目の朝鮮総督を務めたが、この記事が出た時は文部大臣で東京在勤だった。当時、「美男石仏を発見」というのがちょっとしたニュースになったのは、新聞社はもとより、朝鮮総督官邸にも総督府博物館にもこの石仏のことを知っている者がいなかったためだった。

 

 総督府博物館では、総督官邸で「発見」されたこの石仏は、博物館で所蔵している薬師如来と同じ谷筋だとしていた。下の写真が朝鮮総督府博物館所蔵だった薬師如来座像である。

 

 この薬師如来は、慶州南山の三陵サムヌン渓谷にあったことが分かっていた。この薬師如来坐像は、現在も韓国国立中央博物館に所蔵されている。

 

石造薬師如来座像 慶州南山三陵谷(統一新羅8世紀後半~9世紀初め)

 

  大坂六村の異論

 ところが、3月31日の『京城日報』に、この総督府博物館の見解に対する大坂六村の異論が掲載された。

 

話題特急

☆…総督官邸の美男石仏が本紙によって世に出るや忽ち人気を煽って全鮮的特急的話題となってしまった

☆…ところで、扶餘の大坂六村氏この美男仏の生れ故郷に異議ありと一筆飛ばして曰く

☆…あの釈奠様は慶州内東面道只里移車寺趾にあったもので南山ではない、大正1年ごろ、時の総督寺内伯が慶州視察の際既に金融組合の庭に移されていたが、この美男仏にきついご執心の目なざし…

☆…これを見てとった当時の小平理事は寺内総督を門前に送り出すなりガラガラガラッと荷造りして官邸へ急送

☆…やがて南鮮を廻って総督が帰へると、玄関前に例の美男仏がすましてござるので流石のビリケン伯も吃驚してピヨコリと頭をさげた代ものだ

☆…また台座は現に慶州博物分館に22年間貞淑にその空閨を守っている。

 大坂六村の六村は号で、名前は大坂金太郎。森崎和江が『三千里』1978年夏号に「ある朝鮮への小道 —大坂金太郎先生のこと—」を書いている。大坂金太郎は、1907年に咸鏡北道会寧の学校に赴任し、その後慶州に移って普通学校の教監・校長を歴任し、退職後は慶州の博物館館長を務めた。『慶州の伝説』や『趣味の慶州』という本も出している。

 

 

 慶州に移ったのは、1919年の3・1独立運動の前で、寺内正毅の慶州巡察の数年後のことであろう。大坂金太郎が語っている逸話は、信憑性があるとみていいだろう。

 

 植民地統治下の朝鮮の金融組合は、「直接地方大衆に交渉を有する第一線の政治機関」と位置付けられ、総督府によって選任された理事によって運営されていた。日本人理事のほとんどは私立大学・高等商業などを卒業した高学歴者で占められていた。慶州金融組合の小平亮三理事も、そうした植民地支配の最前線に配された人物であった。

 

 ちなみに、「ビリケン伯」とは寺内正毅のあだ名。朝鮮総督の後に総理大臣となり、「非立憲」内閣を組閣したことを揶揄して「ヒリッケン」をかけたとも言われるが、風貌もビリケン像によく似ている。

 

  寺内正毅の開眼式

 寺内正毅は、1912年11月7日から9日まで慶州巡視に出向いていた。8日には仏国寺から石窟庵に登り、その後、半月城(月城)、雁鴨池(月池)、瞻星台、芬皇寺石塔などを回っている。9日に浦項まで行って、そこから船で下関に渡って内地での陸軍演習を視察し、11月30日に京城の官邸に帰った。

 大坂六村の話のとおりなら、この時に慶州金融組合の小平理事が送った石仏が官邸に届いていたということになるのだが…。

 

 寺内正毅の1913年2月16日の日記に、官邸前の崖下に安置した仏像の開眼式を行ったとの記載がある。政務総監山県伊三郎や警務総長明石元二郎も参席していた。

 これに関連して、2017年12月の『ハンギョレ新聞』は、嶺南ヨンナム大学の鄭仁盛チョンインソン教授が東京大学博物館の所蔵資料からこの開眼式の写真を発見したと伝えている。

 

  これらの写真について、発見者の鄭仁盛は、谷井濟一ヤツイ セイイツが撮影したものと推測している。谷井濟一は、関野貞とともに『朝鮮古蹟図譜』の作成に携わり、1921年に内地に戻るまで総督府博物館の嘱託だった。

 ところが、1930年から総督府博物館に勤務していた榧本亀次郎には、この石仏のことは全く伝わっていなかった。また総督官邸や総督府内部でも、この石仏の存在については知られていなかった。すなわち、この石仏については、朝鮮総督の引き継ぎや総督府博物館の文化財管理が行われていなかったということだ。

 

 寺内正毅は、生前から故郷の山口に寺内文庫を作り、朝鮮関係の史料などを収集していた。1915年の朝鮮物産共進会開催の際に、会場となる景福宮内の韓屋建物が売却され、そのうちの1棟が「朝鮮館」として山口の寺内文庫内に移築された。寺内文庫は、ほとんどが典籍・古文書類で、文化財や遺物はなかったとされる(渡辺滋「景福宮継照殿の日本移建とその後」『山口県立大学学術情報 』14 2021-03)が、この石仏について、引き継ぎもされず、周辺にも知らされていなかったことから、寺内正毅が搬出を考えていた可能性も十分にあり得る。搬出が実現しなかったことで、この石仏は忘れ去られていったのかもしれない。

 

 そして、1934年になって「発見」されたのである。

 

  移車(イゴ)寺趾

 大坂六村(金太郎)は、慶州に居住しながら新羅時代の古蹟調査や慶州を紹介する文筆活動を行なっていた。地元の朝鮮人女性の識字学習などにも尽力し、朝鮮人との親交が深く、内地人からは「変わり者」と言われていたという。1938年、森崎和江が慶州に引っ越した時には、慶州博物館の館長だった。

 

 その大坂六村が、総督官邸の石仏は「慶州内東面道只里移車寺趾」のものと断言している。その場所は、慶州の南山の東側、仏国寺ブルグクサから慶州博物館を経由して市内に向かうバス路線の右手にある。

 

 

 「移車寺」は、이차사イチャサではなく이거사イゴサと読む。自転車の자전거チャジョンゴゴと同じ使い方である。

 大坂六村は、道只里の住民は「有徳寺といつて居る」と書いており(『朝鮮』1931年10月号)、「移車寺」「이거사」「有徳寺」は同一のものである。

 

 

  総督官邸の移転

 朝鮮総督府の庁舎は、1926年10月景福宮宮殿正面に新築された新庁舎に移った。しかし、総督官邸は南山の元の建物がそのまま使われていた。1937年になって、景福宮の北側、神武門外の景武台に新しい総督官邸を建築することとなり、建設がはじまった。1939年に新官邸が完成して10月中に移動作業が行われた。

 

現在「天下第一福地」の石柱があるスグントの場所にあった

 

 この総督官邸の移動の時に、石仏も南山からここに移された。敷地配置図では建物の北側の高台に構造物が見える。後述する新しい官邸(現官邸)と「美男石仏」との位置関係から類推すると、この官邸北側にあったのではないかと思われる。

 

  新大統領官邸と新本館

 1945年の日本の敗戦によって植民地支配から脱し、1948年8月の大韓民国の樹立で、この警武台は大統領の官邸となった。

 

 石仏については特段の情報はないのだが、大統領府の文化財として置かれていたのであろう。

 

 1988年に盧泰愚が大統領に就任すると、旧官邸の西側に新しい官邸の建設計画が持ち上がり、1990年10月に大統領の住居となる官邸の建物が完成した。

 

 

 翌年9月には執務室などとして使われる新本館が完成した。

 

 

 もともと朝鮮総督官邸として建てられた旧大統領官邸は1993年に撤去された。現在はスグントと呼ばれて「天下第一福地」の石柱が立っているだけである。

 

 1990年10月に完成した大統領官邸の建物建設の段階で、旧官邸の北側にあった石仏は新官邸の北側に移されたものと思われる。

 

 


 

 日本の植民地支配下からの紆余曲折を経てきたこの石仏は、もうしばらく「安住の地」を探すことになるのかもしれない。

 

 韓国の文化財管理局や、マスコミ、それに返還運動団体などは、この石仏の原位置を、大坂六村の言った「慶州内東面道只里移車寺趾」としており、移車寺イゴサのあった場所に石仏を移す請願もなされているという。しかし、移車寺イゴサの場所は現在は私有地になっており所有者は石仏の受け入れに難色を示しているという報道もある。

 

 今後どのようになるか、今しばらく推移を見守る必要がありそうだ。