慶煕宮の防空壕
京城の電話と電話局
防空壕の一般公開
ソウル市内の中心部に、日本の敗戦の直前、すなわち植民地支配の最末期に作られた地下電話局が残っている。
慶煕宮の防空壕
慶煕宮の跡地に2002年5月にオープンしたソウル歴史博物館の北西側、博物館の駐車場の端にその施設はある。
2020年 航空写真(国土情報プラットフォーム:韓国)
もともと、ここには朝鮮の離宮慶煕宮があったが、19世紀後半に興宣大院君が景福宮を再建する時に一部の殿閣を撤去して景福宮の建築資材とした。
『最新京城全図』日韓書房 1907年
その王宮の敷地に、統監府が残りの建物を撤去して日本の内地人子弟の中等教育のための京城中学校の校舎を建てた。校舎は1910年11月に完成した。
時代は下って、1936年の『大京城府大観』には、京城中学校はこのように描かれている。東側の附属小学校は、1915年4月に開校した京城中学校附属小学校である。
1945年の解放後、この京城中学の跡地は、新しく出発したソウル高等学校の敷地となった。1980年にソウル高校は江南の瑞草区へ移転したが、1973年の航空写真を見ると、旧京城中学の校舎がほぼそのまま残されていたことがわかる。
1973年 航空写真(国土情報プラットフォーム:韓国)
そして、1973年の航空写真の右上の赤丸のところ、ここに朝鮮総督府の逓信局が1945年2月に完成させたとする「地下電話局」が残されている。1936年の『大京城府大観』では、やや盛り上がった丘になっているように見える場所である。
日本電信電話公社『自動電話交換ニ十五年史』第 3 巻(1953)に、このような記述がある。
地下防衛局の建設
第2次大戦が熾烈となり、南方戦線の後退と北支米空軍が活躍を開始するに及んで、首都京城の非常通信施設建設の重要性が痛感されるようになつた。これより先逓信局は京城・釜山・平壌等の主要都市に、緊急通信施設として、第2局と称する電信機及び電話交換機を設備した。京城は逓信寮の運動場に平屋約70坪の耐弾局舎を建設し、これに単式交換機2台、小市外交換機10台を設備したのであるが、とうていこの程度の施設に依存することはできず、総合的な防衛通信本部を建設することとなり、昭和19年6月京城中学校々庭に幅8メートル・長さ105メートル・広軌鉄道複式線トンネルと同大で、上部のコンクリートの厚さ1m余りの大地下防空壕を構築し、更にその内部に練造防湿性の機械室等を設けた。通信施設は自動電話交換装置5数字式1,000端子・電信施設及び150KVAヂーゼル発動発電機その他の付属設備である。自動装置とその電力装置は前述の光化門分局その他から転用したもので、昭和20年2月完成したが終戦により撤去された。
すなわち、慶煕宮の地下施設は、自動電話交換装置やディーゼル発電装置などを備えて1945年2月に完成したとされる構造物である。
京城の電話と電話局
韓国の電話は、大韓帝国の時代の1902年にソウル(漢城)に電話局が開設されたのに始まる。この時は、ハンドルを回して交換手を呼び出し、通話相手に接続してもらう単式交換機だった。1908年に、受話器のフックを上げるだけで交換手が呼び出せる共電式手動交換機になった。
1922年には、龍山局を京城電話局の分局とし、京城電話局は本局となった。さらに、電話加入者の増加にともなって、1923年7月には光化門分局が開設された。
国史編纂委員会電子史料館
1932年当時の京城の本局と光化門分局、龍山分局の加入者数はこのようになっていた。
本局
光化門
龍山
合計
朝鮮人
293
1,022
96
1,411
日本人
4,331
1,503
1,289
7,123
外国人
70
48
12
130
合計
4,694
2,573
1,397
8,664
1933年1月8日付『東亜日報』より
1930年の京城の人口・世帯数は、内地人57,758人・22,671世帯に対して、朝鮮人251,228人・51,136世帯。すなわち、内地人では、3.2世帯に1台の割合で電話があったが、朝鮮人は36世帯に1台しかなかったということになる。
この当時は、電話は年間使用料金が京城で108円、今の貨幣価値だと50万円程度かかった。1936年からは、114円に値上がりした。これに初期費用として高額の架設費用もかかったため、内地人と朝鮮人の間にこうした大きな差が生じたのである。
1932年、三越百貨店の裏手に敷地を確保し、ここに新しい4階建の本局が建設されることになった。1935年10月に自動交換機を備えた新しい本局で電話交換業務が始められた。
『大京城精図』(至誠堂 1936年)
ソウル記録院アーカイブより
1937年には、加入者数が増えて、12,500を突破した。特に、京城の東部地区(清涼里・桜が丘・新堂町・往十里など)での開発が進んで加入者が増加したため、1940年に新堂町に東分局を建設して1942年4月から電話交換業務がはじまった。
光化門分局の自動交換機の導入も計画されたが、戦争の激化で工事物資の調達が遅れて中断された。日本の敗色が濃くなっていく中で、主要都市に緊急通信施設として第2局と称する交換施設を建設した。京城では、「逓信寮の運動場に平屋約70坪の耐弾局舎を建設」した。逓信寮は、景福宮西側にあった逓信局吏員養成所にあり、その運動場に耐弾局舎が建設された。
さらに、1944年になって「総合的防衛通信本部」が必要だということで、地下壕に自動交換装置を備えた電話交換局を建設することになった。
その建設場所となったのが、京城中学校舎の東側、附属小学校の北側の斜面であった。1944年6月に着工し、広軌鉄道複式線のトンネルと同じ規模で、幅8メートル・長さ105メートル、コンクリートの厚さ1mという地下施設が作られた。工事には、当時京城中学に在学していた生徒たちも勤労奉仕として動員された(『文化日報』2003年4月10日 )。
『自動電話交換ニ十五年史』には、自動交換装置、発電機、その他の機器・設備は光化門分局などのものを流用し、「昭和20年2月完成した」とある。ただ、非常時の通信施設として作られたものであって、日常的な電話交換局として使われたわけではなかった。
国史編纂委員会の電子資料館 に、1945年10月にアメリカ陸軍通信部隊が撮影した電話局関係の写真がある。今回、その中に「Uncompleted Bombproof Local and Long Distance Telephone and Telegraph Exchange(未完成の防空壕内の長距離電話電信交換施設)」という写真があるのを見つけた。これは、前面のコンクリート擁壁の形状から、慶煕宮の防空壕だと判断される。
写真の英文説明には、「800端子の自動交換装置」などと具体的に記されているので、機材類もそのまま残されていたのであろう。
従って、1945年2月には施設は一旦完成はしたものの、実際には電話交換局としては機能しないまま放棄されたものと思われる。
防空壕の一般公開
この防空壕については、ソウル高校ではよく知られていた。ソウル高校の同窓生からは、「特に夏に涼しくて、ここで遊んだことを思い出す」(『京郷新聞』2001年5月19日 )という話も出ている。
2001年に、ソウル歴史博物館開館を控えて、慶煕宮の復元計画が持ち上がったところで、この防空壕は撤去するとの方針が示された。しかし、「日帝の侵略遺産」として残すべきだという反対論もあった。ソウル市は2003年に外部団体に慶熙宮防空壕のあり方に関する検討を依頼した。研究チームは2004年に防空壕は「日帝の侵略遺産」として保存するのが好ましいとの答申を出した。当時は、まだこの施設が電信・電話関係の施設だったらしいこと以外よくわかっていなかったが、ソウル市は展示館などとして活用する案を文化財庁などと協議を始めた。しかし、数十億ウォンに達すると試算された資金の確保が難しいということで、一旦は断念した。
『京郷新聞 』2009年4月21日より
2010年になって、博物館の遺物収蔵庫としての活用案が出てきた。しかし、これも施設改修に経費がかかりすぎるということで断念。ソウル市は、最終的に、この防空壕を西大門刑務所歴史館のような植民地支配の負の遺産として改修・公開することにした。そして、2017年秋に予約による公開が実現したのである。
※防空壕は1分31秒から
VIDEO
実測図(ソウル歴史博物館)
コロナの流行で、その後一般公開は中止されている。しかし、コロナが収まれば、また公開が始まるものと期待している。