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一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

 1924年8月3日の『東亜日報』の「洞・町内の名物」では、中林洞チュンニムドンのカトリック聖堂ソンダンを取り上げている。

 

中林洞 天主敎堂
 ソウルでカトリックの聖堂というと、たいていは鍾峴のとんがった建物を思い出します。しかし西大門の外の中林洞にもカトリックの聖堂があります。この中林洞聖堂は鍾峴の建物の小型版です。我が洞・町内の名物に、大きな建物を外して小さな建物の方を取りあげたのは、大きな建物の場所が名物を選ぶ対象になっていないからです。大きい方の建物が外れてしまうので、この小さい方の建物を大きい建物の代わりにしたのです。鍾峴聖堂が代表ということなら、我が洞・町の名物の企画の中では、この中林洞聖堂が、朝鮮のすべてのカトリックの聖堂を代表するものということになりましょう。
 全朝鮮を代表するカトリック聖堂の話をするなら、朝鮮のカトリックの歴史を見るのが筋でしょう。カトリックの歴史は血の歴史です。ですから、カトリックが朝鮮に入ってからの血が流された話をしようと思います。最初に血が流れたのは純祖元年(1801)のことです。その時、血を流したのは、朝鮮人では李家煥、李承勲、丁若鍾など、外国人としては清の周文謨が有名です。その後、高宗3年(1866)にも多くの血が流されました。有名な朝鮮人には南鍾三、李身逵、洪鳳周がいます。外国人としてはフランスの宣教師10人余りがいました。


 この中林洞聖堂は、薬峴ヤッキョン聖堂とも呼ばれ、今も中林洞にそのまま残っている。

 


 この聖堂は、フランス人神父コースト(E.G.Coste)が設計して、1891年10月に着工し、1893年9月に完成した。朝鮮王朝がキリスト教の禁令を解いた1884年以降、初めての西洋式教会として建築されたのがこの中林洞聖堂で、現在は史跡に指定されている。

 ちなみに、鍾峴チョンヒョン聖堂ー現在の明洞ミョンドン聖堂ーが完成するのは、その5年後の1898年のことである。こちらもコーストが設計したもので、聖堂の規模としては鍾峴聖堂の方が大きかった。ただ、「場所が名物を選ぶ対象になっていない」とあるように、鍾峴聖堂があった明治町が「洞・町内の名物」の対象ではなかった。そのため、京城だけでなく朝鮮を代表する鍾峴の聖堂が「名物」として挙げられることがなかったのである。

 

 『東亜日報』の「洞・町内の名物」の連載企画では、黄金町(現在の乙支路ウルチロ)から南山にかけての町、本町や旭町・南山町・明治町・南米倉町など、それに南大門から漢江にかけての吉野町・三坂通などは、「洞・町内の名物」から除外されていた。掲載された記事の場所を地図上に表記すると、このようになる。

 

 この緑色で囲んだ部分が内地人の居住が多かった場所、すなわち「朝鮮の人々のものでなくなった京城の街」である。『東亜日報』は、そこをこの企画から除外した。

 

 そうした事情から、明治町の鍾峴聖堂よりも規模の小さな中林洞の聖堂が「朝鮮を代表する聖堂」として取り上げられた。

 

 Netflixで公開されているドラマ「39歳」の冒頭の葬儀の場面は、この中林洞の聖堂で撮影されている。内部の様子もよくわかる。

 

 

 この中林洞の聖堂は、1801年のカトリック弾圧(辛酉シニュ迫害)で獄死した李家煥イガファンの居宅のそばにあり、多くの信者が殺された西小門ソソムン外を見下ろせる丘に建っている。辛酉迫害で刑死した丁若鍾チョンヤクチョンの弟の丁若銓チョンヤクチョンは全羅道黒山島フクサンドに流刑、その下の弟の丁若鏞チョンヤギョンは全羅道康津カンジンに流刑となった。丁若銓は、この時に黒山島の海洋生物について『茲山魚譜チャサンオボ』を編纂した。2019年制作の韓国映画「茲山魚譜」が、2021年に日本でも公開された。

 

映画「茲山魚譜」予告編

 

 丁若鏞は、流配された康津で『経世遺表キョンセユピョ』や『牧民心書モンミンシムソ』を著し、朝鮮の「実学」の巨匠として現代でもよく知られている。

 

 一方、1866年の丙寅ビョイン迫害では、フランスの宣教師が殺害されたが、そのため、その年の10月に清国に駐屯していたフランス軍が江華島カンファドに攻め入った。これを丙寅洋擾という。フランス軍従軍画家だったアンリ・ジュベール(Henri Zuber)が、翌1867年にフランスの雑誌にこの戦闘の模様を版画と共に投稿している。

 

 


 中林洞の聖堂は、1924年の『東亜日報』の「洞・町内の名物」に取り上げられたものの中で現存する数少ない建造物である。

 

  • 慶煕宮の防空壕
  • 京城の電話と電話局
  • 防空壕の一般公開


 ソウル市内の中心部に、日本の敗戦の直前、すなわち植民地支配の最末期に作られた地下電話局が残っている。

 

  慶煕宮の防空壕

 

 慶煕宮の跡地に2002年5月にオープンしたソウル歴史博物館の北西側、博物館の駐車場の端にその施設はある。

2020年 航空写真(国土情報プラットフォーム:韓国)

 

 もともと、ここには朝鮮の離宮慶煕宮があったが、19世紀後半に興宣大院君が景福宮を再建する時に一部の殿閣を撤去して景福宮の建築資材とした。

 

『最新京城全図』日韓書房 1907年

 

 その王宮の敷地に、統監府が残りの建物を撤去して日本の内地人子弟の中等教育のための京城中学校の校舎を建てた。校舎は1910年11月に完成した。

 

 時代は下って、1936年の『大京城府大観』には、京城中学校はこのように描かれている。東側の附属小学校は、1915年4月に開校した京城中学校附属小学校である。

 

 

 1945年の解放後、この京城中学の跡地は、新しく出発したソウル高等学校の敷地となった。1980年にソウル高校は江南の瑞草区へ移転したが、1973年の航空写真を見ると、旧京城中学の校舎がほぼそのまま残されていたことがわかる。

 

1973年 航空写真(国土情報プラットフォーム:韓国)

 

 そして、1973年の航空写真の右上の赤丸のところ、ここに朝鮮総督府の逓信局が1945年2月に完成させたとする「地下電話局」が残されている。1936年の『大京城府大観』では、やや盛り上がった丘になっているように見える場所である。

 

 日本電信電話公社『自動電話交換ニ十五年史』第 3 巻(1953)に、このような記述がある。‎

地下防衛局の建設
第2次大戦が熾烈となり、南方戦線の後退と北支米空軍が活躍を開始するに及んで、首都京城の非常通信施設建設の重要性が痛感されるようになつた。これより先逓信局は京城・釜山・平壌等の主要都市に、緊急通信施設として、第2局と称する電信機及び電話交換機を設備した。京城は逓信寮の運動場に平屋約70坪の耐弾局舎を建設し、これに単式交換機2台、小市外交換機10台を設備したのであるが、とうていこの程度の施設に依存することはできず、総合的な防衛通信本部を建設することとなり、昭和19年6月京城中学校々庭に幅8メートル・長さ105メートル・広軌鉄道複式線トンネルと同大で、上部のコンクリートの厚さ1m余りの大地下防空壕を構築し、更にその内部に練造防湿性の機械室等を設けた。通信施設は自動電話交換装置5数字式1,000端子・電信施設及び150KVAヂーゼル発動発電機その他の付属設備である。自動装置とその電力装置は前述の光化門分局その他から転用したもので、昭和20年2月完成したが終戦により撤去された。

 すなわち、慶煕宮の地下施設は、自動電話交換装置やディーゼル発電装置などを備えて1945年2月に完成したとされる構造物である。

 

  京城の電話と電話局

 韓国の電話は、大韓帝国の時代の1902年にソウル(漢城)に電話局が開設されたのに始まる。この時は、ハンドルを回して交換手を呼び出し、通話相手に接続してもらう単式交換機だった。1908年に、受話器のフックを上げるだけで交換手が呼び出せる共電式手動交換機になった。

 

 1922年には、龍山局を京城電話局の分局とし、京城電話局は本局となった。さらに、電話加入者の増加にともなって、1923年7月には光化門分局が開設された。


国史編纂委員会電子史料館


 1932年当時の京城の本局と光化門分局、龍山分局の加入者数はこのようになっていた。
 

  本局 光化門 龍山 合計
朝鮮人 293 1,022 96 1,411
日本人 4,331 1,503 1,289 7,123
外国人 70 48 12 130
合計 4,694 2,573 1,397 8,664

1933年1月8日付『東亜日報』より

 

 1930年の京城の人口・世帯数は、内地人57,758人・22,671世帯に対して、朝鮮人251,228人・51,136世帯。すなわち、内地人では、3.2世帯に1台の割合で電話があったが、朝鮮人は36世帯に1台しかなかったということになる。

 この当時は、電話は年間使用料金が京城で108円、今の貨幣価値だと50万円程度かかった。1936年からは、114円に値上がりした。これに初期費用として高額の架設費用もかかったため、内地人と朝鮮人の間にこうした大きな差が生じたのである。

 

 1932年、三越百貨店の裏手に敷地を確保し、ここに新しい4階建の本局が建設されることになった。1935年10月に自動交換機を備えた新しい本局で電話交換業務が始められた。

 

『大京城精図』(至誠堂 1936年)

ソウル記録院アーカイブより

 

 1937年には、加入者数が増えて、12,500を突破した。特に、京城の東部地区(清涼里・桜が丘・新堂町・往十里など)での開発が進んで加入者が増加したため、1940年に新堂町に東分局を建設して1942年4月から電話交換業務がはじまった。

 

 光化門分局の自動交換機の導入も計画されたが、戦争の激化で工事物資の調達が遅れて中断された。日本の敗色が濃くなっていく中で、主要都市に緊急通信施設として第2局と称する交換施設を建設した。京城では、「逓信寮の運動場に平屋約70坪の耐弾局舎を建設」した。逓信寮は、景福宮西側にあった逓信局吏員養成所にあり、その運動場に耐弾局舎が建設された。

 

 

 さらに、1944年になって「総合的防衛通信本部」が必要だということで、地下壕に自動交換装置を備えた電話交換局を建設することになった。

 

 その建設場所となったのが、京城中学校舎の東側、附属小学校の北側の斜面であった。1944年6月に着工し、広軌鉄道複式線のトンネルと同じ規模で、幅8メートル・長さ105メートル、コンクリートの厚さ1mという地下施設が作られた。工事には、当時京城中学に在学していた生徒たちも勤労奉仕として動員された(『文化日報』2003年4月10日)。

 

 『自動電話交換ニ十五年史』には、自動交換装置、発電機、その他の機器・設備は光化門分局などのものを流用し、「昭和20年2月完成した」とある。ただ、非常時の通信施設として作られたものであって、日常的な電話交換局として使われたわけではなかった。

 

 国史編纂委員会の電子資料館に、1945年10月にアメリカ陸軍通信部隊が撮影した電話局関係の写真がある。今回、その中に「Uncompleted Bombproof Local and Long Distance Telephone and Telegraph Exchange(未完成の防空壕内の長距離電話電信交換施設)」という写真があるのを見つけた。これは、前面のコンクリート擁壁の形状から、慶煕宮の防空壕だと判断される。

 

 

 写真の英文説明には、「800端子の自動交換装置」などと具体的に記されているので、機材類もそのまま残されていたのであろう。

 

 従って、1945年2月には施設は一旦完成はしたものの、実際には電話交換局としては機能しないまま放棄されたものと思われる。

 

  防空壕の一般公開

 この防空壕については、ソウル高校ではよく知られていた。ソウル高校の同窓生からは、「特に夏に涼しくて、ここで遊んだことを思い出す」(『京郷新聞』2001年5月19日)という話も出ている。

 

 2001年に、ソウル歴史博物館開館を控えて、慶煕宮の復元計画が持ち上がったところで、この防空壕は撤去するとの方針が示された。しかし、「日帝の侵略遺産」として残すべきだという反対論もあった。ソウル市は2003年に外部団体に慶熙宮防空壕のあり方に関する検討を依頼した。研究チームは2004年に防空壕は「日帝の侵略遺産」として保存するのが好ましいとの答申を出した。当時は、まだこの施設が電信・電話関係の施設だったらしいこと以外よくわかっていなかったが、ソウル市は展示館などとして活用する案を文化財庁などと協議を始めた。しかし、数十億ウォンに達すると試算された資金の確保が難しいということで、一旦は断念した。

 

『京郷新聞 』2009年4月21日より

 

 2010年になって、博物館の遺物収蔵庫としての活用案が出てきた。しかし、これも施設改修に経費がかかりすぎるということで断念。ソウル市は、最終的に、この防空壕を西大門刑務所歴史館のような植民地支配の負の遺産として改修・公開することにした。そして、2017年秋に予約による公開が実現したのである。

 

※防空壕は1分31秒から

 

実測図(ソウル歴史博物館)

 

 コロナの流行で、その後一般公開は中止されている。しかし、コロナが収まれば、また公開が始まるものと期待している。

 

 

 

  国土情報プラットフォーム

 

サイトはここ。

http://map.ngii.go.kr/mn/mainPage.do

 

ただし、このサイトは韓国国内のIP アドレスからの接続でないとつながらない。日本からアクセスする場合は、韓国のVPN サーバーを経由して接続する必要がある。

接続について

MacでTunnelblickOpen VPN使ってのVPNの利用については、こちら
WindowsでSoftEtherVPNを使ってのVPN Gateの利用については、こちら


※ データ転送速度が遅いと画像表示がうまくいかない。VPNをつなぎ直すか別のVPNサーバーを利用する。

 

 

 

最初はこの地点が出。上にスクロールするとソウル市内が出てくる。

 

 

  航空写真を見たい場所の選択

(1) 地名から選択する

 

[주소/명칭/위치 검색]から、航空写真を見たい場所を入力して検索する。

 

 

左で場所を選択して、しばらくすると付近で撮影された1972年から最近までの航空写真の撮影中心位置がブルーの飛行機マーク✈️で表示される。

 

 

ただし、この選択選択方法だと、検索結果で出てきた地点を示すアルファベット表示が地図上から消せない。スクリーンショットをする場合に邪魔になる。次の「範囲から選択する」の方がおすすめ。

 

(2) 範囲から選択する

 

[영역 검색]から、航空写真を見たい場所を範囲指定する。


 

しばらくすると、このように付近で撮影された1972年から最近までの航空写真の撮影位置がブルーの飛行機マーク✈️で表示される。

 

 

  航空写真を見たい時期の選択

上記の方法で検索した航空写真は、1972年から最近までのもの(1972年以前のものは解像度が低いものでほとんど使えない)である。見たい時期の航空写真を閲覧するためには、撮影時期を絞り込む必要がある。撮影は、毎回違うコースで、全ての地点を網羅的に撮影しているわけではない。ある地点をカバーしている年もあれば、その地点が撮影からはずれている年もある。

 

ある程度の幅をとって絞り込み時期の範囲を、下の始点年と終点年で設定する。

 

 

絞り込んでから、見たい地点をカバーしていそうな飛行機マーク✈️をクリックする。

飛行機が赤くなり、そこを中心とする航空写真が表示される(やや時間がかかる場合もある)

左側の航空写真リストで、何年の撮影かを確認できる。  

 

 

複数の写真を表示させて、不要な写真を非表示にしていくと、目的の写真が最前面になり、飛行機マーク✈️が後方に隠れる。その写真を適当な大きさに拡大/縮小してスクリーンショットで画像を保存。

 

ダウンロードは、登録してログインしなければできない。韓国国外からの外国人の登録方法はできないようなので、スクリーンショットするしかないようだ。