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一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

  • 閔忠正公
  • 忠正路の命名
  • 閔泳煥の銅像
  • 銅像の移転
  • 奠都600年と銅像移転計画
  • 閔泳煥像の再移転
  • 閔泳煥像、忠正路へ

 2022年8月30日、ソウル西大門ソデムン忠正路チュンジョンノ鍾根堂チョングンダンビルの向かいの緑地で、閔泳煥ミニョンファンの銅像の移転式が行われた。韓国の報道でもしばしば触れられているように、閔泳煥の銅像は、紆余曲折を経て忠正路に移されたものである。その経緯を振り返りながら、韓国の近現代史の一端を見てみよう。

 

中央日報より https://www.joongang.co.kr/article/25098189

 

  閔忠正公

 1905年11月17日、「第二次日韓協約(乙巳いつみ保護条約)」が締結されると、閔泳煥は条約締結に関わった5大臣の弾劾を上奏して高宗コジョン皇帝に協約の廃棄を求めた。しかし、それが却下されると11月30日に抗議の服毒自決をした。謚号は忠正、閔忠正公ミンチュンジョンゴンとも呼ばれる。

 

 閔泳煥は自分の名刺に遺書を書き残した。

 自決の翌日、12月1日付の『大韓毎日申報』は、閔泳煥の書き残した遺書を紙面に掲載した。

 

警して韓国人民に告ぐる遺書

嗚呼、国の恥と民の辱は乃ちここに至り、我が人民は行きて將に生存競争の中に殄滅せんとす。それ生きんとする者必ず死し、死を期せる者は生きるを得。諸公、豈に諒せざるか。ただ、泳煥いたずらに一死をもって皇恩に仰報し、以て我が二千万同胞兄弟に謝す。泳煥の死は死にあらず。九泉の下において諸君を助くるを期す。幸にも我が同胞兄弟千万倍奮勵を加え、志気を堅め、その学問を勉し、心を結びて復た我が自由独立に戮力すれば、則ち死者はまさに冥冥之中にも喜笑すべし。鳴呼、少しも失望するなかれ。我が大韓帝国二千万同胞に訣告するものなり。

各館館寄書
…略…

 英国人アーネスト・ベッセルと梁起鐸ヤンギテクによって創刊された『大韓毎日申報』は、ベッセルが社長だったこの時期には日本の朝鮮侵略を批判する記事をまだ掲載できていた。しかし、日本は1908年にベッセルを上海に追放して『大韓毎日申報』に弾圧を加え、併合後は『毎日申報』と改題して総督府の朝鮮語機関紙にしてしまった。

 

 日本の植民地支配下では、閔泳煥の抗議の自決が朝鮮の公の場で言及されることはほとんどなかった。しかし、多くの朝鮮の人々の記憶に鮮明に残り、それは語り継がれていた。

 

 日本による朝鮮植民地支配の終焉とともに、閔泳煥は、日本の侵略に抗した「殉国の先賢忠烈」として真っ先に取り上げられた人物の一人となった。

 

 

  忠正路の命名

 日本の敗戦後、朝鮮で米軍政庁による統治が始まると、それまでの日本式の「〜通り」は「〜路」、「〜丁目」は「〜ガ」、「〜町」は「〜ドン」に改められた。同時に日本風の町名は、旧来の呼称や、朝鮮の偉人の名前にちなんだ新たな名称に置き換えられた。1946年10月1日に公示された地名変更では、旭町は会賢洞フェヒョンドン、大和町は筆洞ピルドン、倭城台町は芸場洞イェジャンドンなどと変えられた。そして、本町は李舜臣イスンシンにちなんだ忠武路チュンムロとなり、黄金町は高句麗の英雄乙支文徳ウルチムンドクの名をとって乙支路ウルチロとなった。朝鮮軍司令官の長谷川好道にちなんだ長谷川町は小公洞ソゴンドンとなり、1882年から1885年まで在朝鮮日本公使だった竹添進一郎から名前をとった竹添町は、閔泳煥の諡号忠正をとった忠正路チュンジョンノと改められた。

 


『地番入新洞名入ソウル案内(신동명입 서울안내)』 赤字が旧地名
ソウル歴史博物館 

 

 朝鮮王朝の首都に花房義質よしもとが最初の日本公使館を置いたのは1880年12月。西大門外の京畿監営(現在の赤十字病院)の向かい側、西池ソジ(現在の金華クマ初等学校)を見下ろす高台(現在の東明トンミン女子中学校)に公使館を置いた。1882年の壬午イモ軍乱でこの公使館は焼かれた。花房義質の後任として赴任した竹添進一郎は、現在の楽園ナゴン商街の北西側、朴泳孝パギョニョが所有していた屋敷の敷地を日本公使館とした。しかし、竹添公使が深く関与した甲申カプシン政変でこの公使館も焼失した。京城に舞い戻った竹添公使は、西大門外に拠点を確保して朝鮮政府と交渉し、南山北麓の泥峴ニヒョン(チンコゲ:現在の芸場洞)に公使館の場所を確保することに成功した。こうした経緯を踏まえて、西大門外の一帯が竹添町と名付けられたのであろう。

 ブログ「日本の公使館」参照

 

 日本が朝鮮の内政に横槍を入れ始めた時にその先頭に立った竹添進一郎の「竹添」がこの一帯の町名に使われ、解放後は、死をもって侵略に抵抗せんとした閔泳煥の諡号「忠正」が冠せられることになった。この場所が、閔泳煥とつながりのある場所だったから「忠正路」と名付けられたわけではなかった。

 

  閔泳煥の銅像

 日本の侵略に抵抗した人々を顕彰しようとする動きは植民地支配からの解放の直後から始まっていた。閔泳煥の銅像の建設の話は、安重根アンジュングンの銅像などとともに早い時期から出ていた。

 

 

 さらに、大韓民国建国後の1948年11月30日には、「閔忠正公追念大会」が開かれることになり、その顧問に李承晩イスンマン李始栄イシヨン金九キムグ金奎植キムギュシクという錚々たる面々が顔をそろえた。

 

 

 大統領李承晩は、閔泳煥とはただならぬ因縁があった。李承晩は、1899年1月に朴泳孝らの高宗皇帝廃位陰謀に加担したという嫌疑で逮捕され、漢城監獄で5年9ヶ月服役した。1904年に出獄した後、李承晩は閔泳煥の斡旋でアメリカに渡った。アメリカではルーズベルト大統領に会って大韓帝国の独立擁護を請願しようとしたがうまくいかなかった。1905年8月9日付で李承晩が閔泳煥に送った手紙が残っている。閔泳煥は、李承晩にとって特別な存在であった。

 

 しかし、銅像の建設が具体化する前に、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の建国、さらに朝鮮戦争の勃発といった激動の中で、抵抗運動や独立闘争の顕彰事業は先延ばしを余儀なくされた。

 

 閔泳煥の銅像建立が実現したのは1957年。閔泳煥の邸宅があったとされる竪志洞キョンジドンからほど近い安国アングックロータリーの北側(旧朝鮮生命保険ビルの前)の緑地帯に立てられた。閔泳煥の誕生日8月30日に盛大な除幕式が行われた。

 

 

  銅像の移転

 1971年、ソウルで地下鉄1号線の工事が始まり、それを機に交通体系の整備と道路の拡張が進められることになった。安国ロータリーも拡張されることになり、閔泳煥の銅像は敦化門トナムン前に移転された。

 

 写真は、安国ロータリーの旧朝鮮生命保険ビル前の閔泳煥銅像

 

 10月から11月にかけて移転工事が行われ、もとの場所から600mあまり東側の敦化門斜め前に移された。

 

 

 都心の市庁前シチョンアプから南大門ナムデムンにかけての太平路テッピョンノ分離帯緑地の北端と南端に立てられていた金庾信キムユシン柳寛順ユグァンスンの銅像が、それぞれ南山白凡ペクポム広場西側と南山2号トンネル入口に移転されたのも、ちょうどこの時期のことであった。

 

 

  奠都600年と銅像移転計画

 朝鮮王朝が開かれたのは1392年、1394年に開城ケソンから漢陽ハニャンに都を移した。都を移すことを「遷都」あるいは「奠都てんと」という。ソウルは、1994年が「奠都チョンド600年」ということでさまざまな事業が計画された。

 

 上述したように、植民地支配から解放されたのち、地名呼称を旧来のものに復元したり、歴史上の偉人・英雄の名前を地名に冠した。その後、銅像が立てられていったが、銅像の位置と銅像の主の名前が冠せられた場所との相関性は考慮されなかった。その不一致を解消しようというプランがソウル市の「奠都600年」事業の一環として打ち出された。

 

歴史的人物 銅像の位置 移転予定先
世宗大王 徳寿宮 →宗文化会館前
柳寛順 南山2号トンネル入口 →西大門独立公園
乙支文徳 オリニ大公園 →乙支路緑地帯
丁若鏞(茶山) 南山図書館南下 →茶山路
李滉(退渓) 南山図書館南東下 →退渓路緑地帯
元暁大師 孝昌公園 →元暁路
閔泳煥[忠正] 敦化門横 →忠正路緑地帯
李珥(栗谷) 社稷公園 →閔泳煥銅像跡地
 (栗谷路)

(  )内は号 [  ]内は諡号

 

 しかし、関係団体などから「ソウル市内の通りの名前は民族のプライドを高める意味で付けられたもので、歴史的人物とは無関係」、「銅像の位置は設置時にそれなりの検討を加えたもので、その移転は予算の無駄遣い」といった批判が出された(『한겨레』 1993年4月18日付)。

 

 その結果、この8つの移転案は全て白紙化され、移転は実現しなかった。

 

  閔泳煥像の再移転

 1971年に安国ロータリーの閔泳煥の銅像が移された先の敦化門横の敷地は、文化財庁が所有する国有地で、昌徳宮チャンドックン管理事務所がそこを管理していた。その国有地にソウル市の鍾路区チョンノグが所有・管理する閔泳煥の銅像が移された。その前の道路は朝鮮王朝時代の儒学者李珥イイの号をとって栗谷路ユルゴンノと名付けられていた。李珥の銅像は社稷サジック公園に設置されていた。

 

 2000年になって、この国有地を管理する昌徳宮事務所は、鍾路区に対して銅像の移転と国有地の返還を要求した。昌徳宮事務所側はその後も引き続き国有財産の返還を強く求め、2002年には返還訴訟も辞さないとした。しかし、鍾路区は代替地がすぐには用意できないとして国有地の無償使用の継続を要望した。

 それまで閔泳煥の銅像は30年近く敦化門横の国有地に立っていて、1994年には閔泳煥の銅像を忠正路に移してその跡に李珥(栗谷)の銅像を移してくるプランをソウル市が出したりもしていた。それが、突如として国とソウル市鍾路区との間で対立が起きた。これには1995年の地方自治制度改革が関係しているようだ。それまで政府による任命だったソウル市長は、1995年以降は選挙で選出される民選市長に変わった。これを境に、それまで黙認されてきた「国有地の上に設置されているソウル市の鍾路区が管理する銅像」が問題視されるようになったのであろう。

 

 2002年7月に李明博イミョンバクがソウル市長に就任した。李明博市長時代に閔泳煥の銅像を敦化門横の国有地から撤去して、曹渓寺チョゲサの前に移転することが決定された。移転は2003年3月1日に完了した。

2003年4月9日付『東亜日報』

[首都圏]閔泳煥先生の銅像、またも移転
 ソウル市鍾路区臥龍洞の昌徳宮前に立っていた閔泳煥先生の銅像は、 3月1日に鍾路区堅志洞の郵政総局市民広場の敷地に移されたが、子孫たちは、世宗路の「光化門開かれた広場」に移転することを求めている。
 閔泳煥先生の子孫たちの麗興閔氏ヨフンミンシ宗親会は、鍾路区庁に銅像を近くの世宗路の「光化門クァンファムン開かれた広場」に移転することを求めている。
 宗親会側は「銅像が設置された市民広場(約200坪)は狭い上に、中央に噴水台があって銅像が隅に追いやられている」とし、「民族のために命を捧げた人物にふさわしいとは言い難く移転を建議する」と述べた。これに対して鍾路区は、「広場が狭いのは事実だが、現実的には代替地がない」と移転には難色を示した。さらに鍾路区は、「長期的には周辺の私有地を一部買い入れて公園の拡張を検討している」とし、「光化門開かれた広場はソウル市の所有なのでソウル市がこの建議を受け入れれば移転が可能かもしれない」と語った。
だが、ソウル市は消極的である。ソウル市関係者は、「関連会議で議論はするが、光化門の開かれた広場は朝鮮時代の役所の六曹ユクチョの通りの復元なので、閔泳煥先生の銅像はそれにはふさわしくない」と語っている。

 この時に移転先となった場所は、1884年12月に甲申政変の舞台となった郵政総局の北西側で、閔泳煥の邸宅があったとされる場所の近くだった。しかし、手狭で大通りからは見通せない空間だった。

 

  閔泳煥像、忠正路へ

 2009年、世宗文化会館セジョンムナフェグァン前の光化門広場に新たに世宗大王の像が出現した。1992年に計画された銅像の移転プランの中に徳寿宮トクスグンの世宗大王像の世宗路移転があった。しかし、光化門広場の世宗大王像は徳寿宮の世宗大王像を移転したのではなく、この新設時に新たに製作されたものである。

 徳寿宮にあった世宗大王像は、2012年になって徳寿宮を復元するとして文化財庁が徳寿宮から清涼里チョンニャンニの世宗大王記念事業会に移転させた。

 

左は1977年に徳寿宮にて撮影。

 

 この間、閔泳煥の銅像の周囲の環境はいちだんと悪化していた。

 2018年11月に『週刊東亜』のクォン・ジェヒョン記者はこのように書いている。

 11月30日に113回忌を迎えた忠正公の銅像はどこにあるのだろうか。 ソウル鍾路区堅志洞の郵政総局の建物(史跡第213号)、その後ろにある小さな公園の奥まった場所にある。 多分、全国で唯一のものだが、曹溪寺を訪れる信徒ですら忠正公の銅像がここにあるのを知らない。
 11月14日の午前、記者が訪ねた時には銅像のまわりには大勢のホームレスが集まっていた。酒のにおいもしていた。 銅像の後ろには彼らが使っているのであろう寝具が置かれていた。すえた匂いがするのは、銅像の後ろの塀が彼らの公衆便所として使われていたからだ。

 この取材のきっかけになったのは、韓国学中央研究院の鄭允在チョンユンジェ教授からの情報提供だった。鄭允在は2015年に高宗時代の政治指導者に関する研究プロジェクトを進める中で、閔泳煥の銅像が冷遇されていることを知ったという。

https://www.donga.com/news/article/all/20181118/92916760/1

 

 

 また、2018年11月7日の『文化日報』には、閔泳煥の4代孫の作家閔明基ミンミョンギが、銅像が劣悪な場所に置かれていることを訴えた 「放置された閔泳煥の銅像… 忠正公のような過酷な運命」という記事が掲載された。

 ブログの探訪記事などでも閔泳煥の銅像が劣悪な環境に置かれていることが取り上げられた。

 

 2022年3月になって、西大門区ソデムングが閔泳煥の銅像を忠正路3街の緑地帯に移転させると発表した。鍾路区から区をまたいでの移転なので、ソウル市も関与したのであろう。計画では、銅像の向かい側に、高麗コリョ大学校が所有する閔泳煥関係資料などもディスプレイされることになった。

 

 

 8月30日、閔泳煥の銅像移転の記念式典が開かれた。展示資料には、『大韓毎日申報』が伝えた遺書の元資料、遺書が手書きされた名刺なども含まれている。


中央日報より https://www.joongang.co.kr/article/25098189

 

閔泳煥の遺書 上掲『大韓毎日申報』記事参照
でもこれ、配置が逆じゃないかな…

 


 

 銅像と地名を一致させようとするソウル市の30年前の銅像移転のプランは、歴史的人物の名前を冠したソウル市内の地名は必ずしもその人物と関係したものではないという声なども強く、結局白紙化され実現しなかった。解放直後の地名変更の経緯—必ずしも人物との連関性から地名が付けられたわけではない—がまだ意識されていたのであろう。

 

 しかし、今回の銅像の移転については、「忠正公閔泳煥の銅像が忠正路に設置されるのは順当な場所への移設」という受け止めであった。

 閔泳煥の銅像の従前の設置場所があまりにも環境が悪かったということもあろうが、忠正路という地名が30年間でソウルの地名として定着したことも一因だと考えられる。その意味では、乙支路ウルチロ茶山路タサンノ退渓路テゲロ元暁路ウォニョロ栗谷路ユルゴンノなど人名を冠した地名それぞれへの銅像の移設も出てきてもおかしくはないのだが、今のところその動きはみられない。今後はどうなるだろうか…。

  • 済州循環軌道
  • 軌道敷設申請と会社設立
  • 敷設工事と仮営業開始
  • 頻発した事故
  • 軌道会社解散

 

 日本の植民地時代の済州島チェジュドで、線路を走る手押し式の乗り物が運行されたことがあった。

 

 済州循環軌道株式会社が1929年9月6日に営業運行を開始したが、1931年8月には会社の解散が決まり、9月16日付で軌道の運営権も抹消された。わずか2年弱で手押し式軌道は営業運転を終えた。

 

 どのようなものだったのか、その設立の経緯や運行の実態などについて調べてみた。

 

  済州循環軌道

 釜山商工會議所が1930年に出版した『濟州島とその經濟』の地図には、済州チェジュ山地サンジを挟んで西の挟才ヒョプチェ、東の金寧キムニョンに延びる手押し軌道の路線が描かれている。

 

 

 さらに、この本の「5.交通の状態ー陸上交通」の項目に、発行当時運行中だった「人力循環軌道車」についての記述がある。1930年4月頃の取材に基づく記事内容である。長くなるが、現代文風に書き起こしておこう。

 

 次に北済州一円に運転されている人力循環軌道車について研究を進める。
 循環軌道は、一周道路に沿って本島を楕円形に一周し、貨客の積み下ろしにおいて山地一港集中を実現するものである。軌道は資本金50万円(払い込み4分の1)の済州循環軌道株式会社(社長山本政敏、専務大島宗三郎)の経営にかかり、朝鮮軽便鉄道令によりて軽便軌条を敷設し旅客貨物の運輸をなすをもって目的とする。
 島を一周する全線路120マイルに対する測量は既に了っているが、現在北済州を縦走する金寧、挟才里間35マイルの軌条を敷設し了ったばかりで、残余85マイルにわたる工事は未着手のままに放置されている。財界不況の折から、残余工事の着手期並びにその完成期などはいずれになるやら見当がつかぬとのことである。
 既設路線たる金寧、済州間15マイル、済州、挟才里間20マイルは一周道路上に敷設せられており、軌条は幅員2フィート、120ポンドのものを用い単線である。故に建設費としてレールには金は大して要していないが、想像以上に金のかかったのは架橋工事であったという。けだし線路の沿線に散在する河川の河床が岩盤であるがために橋脚も堅固に作らねばならず、また、軌道令に準拠するが故に木橋架設が許されず、全部を鉄橋としたからである。
 例の河川付近におけるV字型の地形は至るところ急勾配を現出し、1/15に達する箇所もある。ゆえに動力としてエンジンは使用することができない。もっとも現在の路線を約1里半ほど山手に変更すればエンジン動力を使用し得るそうであるが、この付近には部落が存在していないから問題にならず。どうしても現状にあっては手押人力によらなければならぬとのことである。
 既設路線が営業を開始したのは昭和4年8月6日である。停留所の数25カ所、所有台車110台手押人夫60名である。
 台車は乗客用のものは1台の定員4名、貨物用のものは1台400キロを限度とする。運転については、定期車は全部乗客用であり、貨物運搬のためには申し込みを受ければ即時に配車をするという不定期式である。乗客用の定期車は毎日午前8時、午後2時の2回にわたって同時に金寧⇄済州城内⇄挟才里というふうに単車運転を開始する。貨物車の運転は前述のごとく不定期であるが、大部分の台車が常に城内の車庫に集中されており、また、主要停留場には2〜3台の台車が準備されてあるから配車の需に応ずることは容易である。なお、台車の最大スピードは1時間6キロ内外である。
 台車の貸切運賃率を示せば左のごとくである。

 循環軌道は営業開始後わずかに8ヶ月を経過した今日であり、なお、路線は半身不随的に金寧、挟才里間を連絡したに過ぎず、現在儲かっているのか、損をしているのか当局者でさえも見当がつかないという。しかし手押夫60名の約半数は北韓方面から招致した経験人夫であり、相当作業能率を挙げ得るものと推断して大過なかるべく、将来島民が時間的に目覚めてくれば相当に利用されるに至ると思う。筆者の目撃したところによれば、貨物運搬用として遠距離間においてはほとんど未だ利用されておらず、無論これが原因は沿線の主要部落に汽船の出入りすることが影響して、その利用を見ざる次第であるが、城内における市内線だけは相当に活用されつつあるように見受ける。なお、全線にわたって乗客用台車の利用は確かに寂寥たるもので、多くは定期自動車を利用しているという状況である。
 循環軌道計画が台湾における手押軽便軌道の施設実績に鑑み、これを本島に応用したものであることは本計画の趣意書中にも明記されているが、はたして目論見のごとく全島の貨客が将来山地の1港に集中積み下ろしされ得るであろうか。
 現在本島に就航しつつある定期船についてみるに、汽船は本島において最初まず山地に入港し、東廻りまたは西廻りのコースによって島を1周して再び山地に寄港し、次いで島を去るのであるが、その島1周に要する時間は24時間内外である。しかも島を1周するにあたり、各港に寄港して大量的に貨客の積み下ろしをなすこと言うまでもない。この汽船の周航に対抗して輸送力の少ない人力軌道車が、果たしてよく全島の貨客を1港に集中し得るであろうか。仮に輸送技術上これを実現するとしても、競争のためには極度の運賃引き下げをも意としない汽船に対抗をして、陸上の運輸機関がこれに挑戦対抗し得るであろうか。もっとも時間的に見れば全線開通時における全島120マイルにわたる貨客は二分されて、東廻り線または西廻り線を迂回して山地に集中さるるであろうが、最遠距離60マイルの地点より山地に達する場合を想像しても、フルスピードを出せばおよそ10時間内外で到達し得るから、汽船の1周24時間に比べれば確かに時間の短縮はできる勘定になる。しかし島と陸地との経済関係がわずかな時間を争うほどにスピード化さるることは、本島においては永久に望まれないと思われる。けだし如何ほど島内における陸上運輸機関をスピード化しても、一歩島外に出ると時化と濃霧とに悩まされる汽船の航行は避難また避難で、全くスピードを度外視してしまうからである。
 これを要するに、循環軌道は大規模の輸送機関でないがゆえに、定期船が島の一周を廃止せざる限り、全島の貨客一港集中を実現し得るものではない。むしろ 短距離の運転において地区的に貨客の集中積み下ろしに任ずべき性質のものであると思う。特殊の場合を除きその距離遠距離にわたる輸送は一般的に行われるものでないと思われる。

 

  軌道敷設申請と会社設立

 この人力軌道について報じられ始めたのは、1927年5月から8月にかけのことだった。5月に山本政敏などが済州島庁に線路敷設の願い書を出したとある。

 

 

 さらに、8月19日の『東亜日報』はこのように報じている。

 

…(略)…
元上海日日新聞編集長中山栄造氏を中心にこの敷設について鉄道局に正式申請し、資本金250万円の合資組織として済州邑内を起点に城山浦を過ぎて海岸に沿って全島を循環する軽便鉄道の建設をするもの。延長126マイルで、この島は海産物が豊富であり、農産・畜産も盛んで、この計画は一般の注目を集めており鉄道局も近々認可指令を発するという。朝鮮郵船会社でもこの鉄道との連結を要望し、近く具体的協定を結ぶとみられる。

 

 済州循環軌道の敷設申請者で、のちに社長になる山本政敏は、1926年に『裸一貫生活法 : 生活戦話』という本を出版している。中山栄造が編集長だった「上海日日新聞」に連載していたものをまとめたもので、小資本で起業するには…といった小商売の手引き書といった内容である。どうも上海つながりだったようで、朝鮮に関する言及は全くない。

 

 その山本政敏が済州島で軽便鉄道の会社を立ち上げることになったのである。

 

記事中に「山下」とあるのは「山本」の誤り

 

 済州島は火山島で、河川は短く急峻で海に注ぐ河口付近でも両側が切り立った崖になっているところが多い。そのため「河川付近におけるV字型の地形は至るところ急勾配を現出し、1/15に達する箇所もある」ことになる。当時の非力なエンジンでは急傾斜の登りは無理ということで、台湾で実際に運行されている軌道上を人力で台車を動かす方式を採用することとした。

 循環軌道計画が台湾における手押軽便軌道の施設実績に鑑み、これを本島に応用したものであることは本計画の趣意書中にも明記されている

 

 ちなみに台湾での手押しの人力軌道の運行については写真や動画が残っている。

 

山崎鋆一郎『台湾の風光』1934


 

  敷設工事と仮営業開始

 線路の敷設工事は1928年11月に山地港から始まった。

 今は、山地川にかかる龍津橋ヨンジンギョのたもとに「トロッコ(軌道)車」の記念碑が建てられている。

 

1917年測図 1918年製版 1:50,000地図

 

 済州から挟才までの19.7マイル、済州から金寧までの14.8マイルの線路の敷設は8月後半に完了し、9月6日から仮営業を開始した。

 

 

 ところで、『濟州島とその經濟』には、

手押夫60名の約半数は北韓方面から招致した経験人夫であり、相当作業能率を挙げ得るものと推断

とある。

 朝鮮の北部では平壌ピョンヤンで手押し軌道が運行されていた。『平壌全誌』(1927)の第15編第3章交通に次のような記載がある。

平壌の地形は南北に頗る長く殊に唯一の停車場たる平壌駅は市の南端に位せるより之れと市の繁栄中心地との連絡輸送機関は市勢の進展に連れて必要を加へたる為、斉藤久太郎、坂倉益太郎、内田録雄、松井民治郎、百瀬廣之助、上杉松太郎、林文太郎氏等有力なる内地人の犠牲的投資の下に資本金1万8千円を以て明治38年9月、平壌市街鉄道株式会社を起こし…(略)…区間は大和町平壌駅前間複線1マイル17チェイン(軌間2フィート)手押式4人乗客車20台を有し随時乗客の要求によりて運転する制度にて賃銀片道10銭すなわち人力車の半額にも及ばざるを以て一部には頗る重宝視されたるもIカ年の乗客8~9万人、賃金8~9千万円にして収支償はず大正5年廃業せり

 

 平壌駅前と大和町(現在の金日成広場南側)間といえば起伏もほとんどないところ。1916年廃業となっているが、『毎日申報』の記事(1917年9月12日付)では1917年11月まで、手押し軌道車が平壌で運行されていたことになっている。

 

 平壌以外でも、規模は小さいが北部朝鮮の咸鏡北道ハムギョンプクト生気嶺センギリョン咸鏡南道ハムギョンナムド霊武ヨンム、それに江景カンギョン(忠清南道チュンチョンナムド)や金堤キムジェ(全羅北道チョルラプクド)でも手押し軌道車が運行されていた。そして、それらは1928年から30年にかけてほとんどが営業運行を停止している(『朝鮮鉄道状況 第25回』1934年)。

 

 こうしたところの「経験人夫」を済州島に呼び寄せたとも考えられる。

 

  頻発した事故

 済州島の手押し軌道は、1929年の9月7日から仮営業を始めて、全ての監査が完了して11月5日から本営業となった。

 

 ところが、仮営業の当初から、脱線や転覆する事故が相次ぎ、重軽傷者が出ていた。

済州循環軌道

事故頻頻発生

運転手重軽傷

済州循環軌道の第一期工事が終わり9月初旬から開始したが、まだ仮営業とはいうものの非常に危険だ。道に線路を敷設したものでちょっとしたものでも脱線転覆する。先日19日にも坂を下るところで転覆し運転手の金宝琪など二人が重軽傷をおった。治療費は会社持ちだが、加療の間の賃金は支払われないという。

 その後も事故が多発し、さらに本営業後も事故が起きている。

 

 特に、11月22日付の『朝鮮日報』は、「開業以来、大事故が7~8回、安心できない鉄道」と手厳しい。

 

 もともと、平壌の手押式軌道もそうであったように、人力軌道は、町外れの鉄道駅と市街地の中心を結ぶという比較的平坦で短距離の移動手段として使われていた。1929年12月の『朝鮮鉄道状況 第20回』には、当時の朝鮮における人力による軌道の状況について、このように書かれている。

手押軌道

 一般運輸を営む手押軌道は、倭館・霊武・生気嶺・江景の各軌道にして、その多くは停車場と邑内を連絡する1マイル内外のものに過ぎざりし…

 「至るところ急勾配を現出し、1/15に達する箇所もある」ところで34.5マイルもの長い距離を運行する済州島の軌道は全く例外的なものであった。手押し軌道の運転経験ありという人でも、済州島の軌道環境での運転操作の経験や技術は決定的に不足していたということであろう。

 

  軌道会社解散

 本営業が始まってほぼ半年経った時点で、『濟州島とその經濟』に書かれた循環軌道の運行状況は、貨客いずれの利用も驚くほど低調だった。

貨物運搬用として遠距離間においてはほとんど未だ利用されておらず、…(略)…、城内における市内線だけは相当に活用されつつあるように見受ける。なお、全線にわたって乗客用台車の利用は確かに寂寥たるもので、多くは定期自動車を利用している

 当時、済州島を一周する道路は、路面整備が不十分な「三等道路」ではあるものの全線通行が可能になっていた。その道路を運行する乗り合い自動車の営業も始まっていた。

 

朝鮮総督府『生活状態調査 其2』1929

 

 荷物の運搬の方は、済州の山地港に寄港する連絡船が島内の各港を周回して運搬しており、遠距離の大量輸送の面では人力軌道は船便に対抗できなかった。

 

 結局、開業から2年経たずして1931年8月に済州循環軌道株式会社は株主総会で解散を議決し、軌道廃止の許可申請を行った。

 

 

 この申請は9月16日に公示され(朝鮮総督府官報1931年9月22日)、同時に済州島循環の未着工の軌道部分の認可も失効した。

 

 


 

 1931年の営業を停止した後、線路は撤去されることなくそのまま放置されたようだ。
 

 1945年の解放前後まで、場所によっては残された線路を貨物運搬用として利用していたという。韓国のWEBサイトにはそのような証言がアップされている。

翰林邑ハルリムウプ挟才里ヒョプチェリの中間地点に当たる「瓮浦里ウンポリ~翰林港(1km程度)」で、お年寄りの口から「トロッコの話」を聞くことができました。
(中略)瓮浦里に製氷工場と缶詰工場があり、翰林港に船が入ってくると、その船に氷を運ぶためにトロッコを使用しました。その「トロッコ車」は木製で床板があり、四隅に立っている40-50cmの棒を取っ手にして押していました。 当時10台以上あって、全羅南道からきた労働者や瓮浦里の住民が「トロッコ車」を押していたとのことです。

 日本の植民地支配下の瓮浦里には、竹中新太郎の缶詰工場があり、愛国印コンビーフを島外に搬出していた(『朝鮮功勞者銘鑑』1935)。その運搬にも使われたのであろう。竹中新太郎は、翰林港の漁港施設拡充計画も主導していたとあるので製氷工場も竹中の工場であった可能性もある。

 

 さらに、このWEBサイトの記事には、

解放前まで日本軍が陣地や港を作る際に土や石を運ぶために使用していたことが記録されています。

ともあるが、これについては、どこに「記録」されていたのかは不明で、確認できない。

 


 いずれにせよ、解放後も軌道の一部は残っていたのであろう。1948年の4・3事件から、その後の開発・振興事業を経る中で、人力による手押し軌道車が走っていた線路は、その痕跡が徐々に消え去っていったのであろう。

  • 京城の城壁(東側)
  • 光煕門と新堂里
  • 新堂里売却と「島徳道路」
  • 土幕民の処遇
  • 舞鶴住宅地と朝鮮都市経営会社
  • 梶山季之と朴正煕一家が住んだ街

 ソウルの旧市街、すなわち朝鮮王朝時代の漢城ハンソンを取り巻く城壁は、今も各所で復元作業が進められている。

 解放後、最初に城壁の修復が注目されることになったのは、1968年1月の北朝鮮の武装工作員の侵入事件がきっかけだった。大統領官邸裏手の北岳山プガクサン麓にまで侵入して激しい銃撃戦になったこの事件。この時、政府は国民の国防意識を高めるという目的で、防御線にもなり得る城壁の復元推進を打ち出した。城壁の復元は、文化事業としてだけではなく安全保障の観点からも行われたのである。

 1975年から1982年までに、光煕門クァンヒムン粛靖門スクジョンムンの復元を含む9.8kmの城壁が再整備された。

 その後1997年頃からは、歴史遺産の保存・修復という観点からソウルの城壁復元が注目され始めた。2000年前後からソウル市と各区で城壁復元作業が始まり、その事業は今日も続いている。城壁の復元が困難な市街地では、城壁があったことを示すプレートが埋め込まれている。

 

 ここでは、その城壁の東側、光煕門外に開発された舞鶴住宅地と桜ヶ丘住宅地についてみて行きたい。
 

  京城の城壁(東側)

 日本の植民地支配が始まった初期にはかなりの城壁が残っていた。

 

 1922年の浅川巧の日記に、西大門ソデムンから北岳ブガック山を越えて東大門トンデムン南大門ナムデムンと城壁を一周したことが記されている。

六月四日

(前略)

 北門へ下りて一休し夏蜜柑など食べて白岳山に登つた。僅かの険もあつたが小道は続いてゐた。山頂で休んで又眺めた。朝鮮人の学生等も二、三人ゐた。城外の農家も美しく見えた。東大門に下つて附近の氷屋でビールとサイダーを飲んで昼食をした。それから松の茂つた淋しい道を城壁伝ひに東大門に向つた。東大門の近くは西洋人の土地になつてゐて鉄条網が張つてあつて通れなかつた。それから光煕門を過ぎて南山に登つた。南山の薬水は美味だつた。山頂にはケヤキやエンジユの大樹があつて岱地になつてゐた。氷屋も店を出してゐた。冷しビールの一本を分けて飲んだ。少し下ると朝鮮神社の工事をしてゐた。美しい城壁は壊はされ、壮麗な門は取除けられて、似つきもしない崇敬を強制する様な神社など巨額の金を費して建てたりするの役人等の腹がわからない。

 1918年修正測図の2.5万分の1地図では、東大門(興仁之門フンインジムン)の少し北側から北方向の城壁が残っている。東大門の南側の清渓川チョンゲチョンを越えたところはすでに城壁はなく、光煕門クァンヒの手前から城壁が残っていた。1925年、日本の皇太子成婚記念事業としてこの部分の城壁を撤去して京城運動場(現在の東大門歴史文化公園)が建設された。城壁の石材の一部はスタンドの観客席として利用された。

 

 光煕門から南方向にはずっと城壁が描かれており、南山まで城壁がそのまま残っていた。その先、南山を越えて西側に出ると、この時すでに始まっていた朝鮮神宮の建設工事のため、城壁は破壊されつつあった。

 

  光煕門と新堂里

 東大門の南側にある光煕門は、別名を水口門スグムンという。また、城内の死者はこの門を通って門外の墓地に運び出されたため屍口門シグムンとも呼ばれていた。

 


1921年 1:10,000地図

 

 光煕門を出たところの新堂里には朝鮮人の共同墓地があった。

 浅川巧の日記には、1922年の1月、柳宗悦や、金萬洙キムマンス呉相淳オサンスン廉想渉ヨムサンソプとともにこの墓地に葬られた南宮璧ナムグンビョクの墓参りに訪れたことが記されている。

一月十六日
晴れていゝ日だつた。午前は事務所に出た。
柳、金萬洙、呉、廉諸兄と南宮君の墓参をした。光煕門を出た切り通しの道、土饅頭の雪景色、松林などは静かな淋しい感じを与へた。南宮君の墓は山の頂に近く東面して前に漢江を望んだいゝ場処だつた。

1920年代の新堂里の墓地

 

 もともと朝鮮の人々が埋葬されていたこの一帯は、土地調査事業の際に、所有者が特定できない公有地とされ、共同墓地とその周辺一帯は京城府の府有地とされた。日本人居留民団や京城府は、内地人のための火葬場や共同墓地をここに作った。さらに、二つの共同墓地の間には、京城府衛生局が管理する汚物堆積場も作られた。

 

 こうした「小門」外の土地柄ゆえに、城壁直下の空間や墓地周辺には、地方から京城に流れてきた貧しい人々が「土窟」や「土幕」を作って住みつくことになった。

 

 赤間騎風の『大地を見ろ』(大陸共同出版 1924)に光煕門外の探訪記がある(九 蛇捕りと女乞食 111コマ)。

 

 

 下の写真は、1922年1月15日付『東亜日報』 に掲載された写真で、老婆の変死体が発見された光煕門外の城壁沿いの土幕を撮ったもの。このように、城壁下の空間に城壁を利用して住居が作られていた。

 

  新堂里売却と「島徳道路」

 1925年に馬野精一が京城府尹に就任した。馬野精一は、新堂里の府有地を売却して府の財政を立て直し、さらにはそれを京城府東郊の再開発につなげようと考えた。共同墓地や汚物堆積場、火葬場を移転し、その跡地15万坪を売却することにした。

 

 もともと上述のようにあまり芳しい土地柄ではない。買い手がつかない恐れもあった。そのため、梨泰院からと奨忠壇からの2本の道路建設プランを提示し、朝鮮博覧会の会場候補地としての付加価値も強調した。

 

 それに目をつけたのが、京城府協議会員で土地ブロカーの方奎煥パンギュファンだった。方奎煥は、この話を大阪の証券業者島徳蔵のところに持ち込んだ。島徳蔵は支配人福島福之助を京城府との交渉にあたらせた。

坪三圓五十錢位なら賣つて善からうと云ふことであつた、福島氏は最初二圓五十銭位に見當をつけて居たらしいので、其れは高いと言ふことで折衝を重ねた結果三圓二十錢と云ふ事に折り合ふた、此話が進んだので馬野府尹は府協議員會と學校組合會を招集して懇談した所、經濟難に苦んで居る府の臺所を知つて居る府協議員も善い買手が出たと福の神を迎ふるやうに歡迎し満場一致で賛成し た、直ちに契約書を作成し總金額四十六萬六千八百餘圓の中、內金として十萬圓を受取り残りは昭和四年の三月末と五月末に完納する。

「土地買収にからんだ京城府と島徳蔵との経緯」

(『朝鮮及満州』第257号(昭和四年)

 結局、坪3円20銭で総額46万6,800円、内金10万円で1928年5月末に仮契約が成立した。

 

 ところが、8月になって島徳蔵本人が現地にやって来てみると、朝鮮博覧会の会場は景福宮に変更となり、建設されるはずだった2本の道路(梨泰院〜新堂里〜往十里と奨忠壇〜新堂里)は財政難で先延ばしという話が出ていた。島徳蔵は「話が違う」と土地購入のキャンセルを匂わせた。馬野精一は、2本の道路の期日までの開通を確約して島徳蔵から残金の支払いの約束を取り付けた。

 ところが、翌年1月に馬野精一は咸鏡南道知事の辞令が出て咸興に赴任した。この間の馬野精一と島徳蔵の内々のやり取りを承知してなかった京城府協議会は、奨忠壇〜新堂里の道路建設だけの予算しか認めなかった。島徳蔵は「それでは残金は払わない」という騒ぎになった。

 そこで問題は逆轉して前府尹の馬野氏に及んだ、馬野氏は府協議員の協贊を経ずして二線道路の假契約書をして居たからこんな問題 が起つたのだと云ふ事になり馬野氏の不法行爲を責むる聲が高まつた、馬野氏は三月の二十一日咸興から京城にやつて來て、府協議員を集め「自分はそんな契約をした覺えは無い」と言つた、そこで府協議員は馬野氏自分で訂正の筆を入れた契約書の原案をつき付けて、「是れは何うでゴザルか」と詰め寄つた、馬野氏は暫く其書類を見詰めて居たが「成る程 是れは自分の筆に間違ない、全く失念して居た誠に相濟まなかつた」と所謂聲淚共に下るの赤誠を面に表はし協議員の協賛を經ずして自分で斯う云ふ契約書を作成したのは失態である旨を陳謝し、此土地問題に關する経過を赤裸々に報告して諒解を求め、且つ此上島德氏が一線説に應じないと云ふ事になれば自分がどこまでも責任を負ふて解決しようと男らしく出たので、府協議員も馬野氏の心事き誠意を諒として何の不平不滿無く寧ろ馬野氏の男らしい態度を稱揚した

「土地買収にからんだ京城府と島徳蔵との経緯」

 すったもんだの末に、結局京城府の経費を捻出して梨泰院〜往十里と奨忠壇〜新堂里の2本の道路が建設されることになった。人々はこの道路を「島徳道路」と呼んだ。

 

 

  土幕民の処遇

 この騒動の最中、光煕門は管理や補修が行き届かず、崩落の危険があるとして積石部分を残して撤去された。

 

 共同墓地や火葬場、汚物堆積場の移転は早々と決まっていたが、問題として残されたのが光煕門周辺や城壁沿いに住みついていた土幕民・土窟民の扱いだった。それにいち早く注目したのは、『東亜日報』だった。

光熙門外墓地移転と三千の土窟民のケアを

来月中旬頃に登記手続を終えると買収側は警察と協力して追い出す方針

救濟講究策は足踏み状態

 10万円の売却契約金の受け渡しがあって、整理中の光熙門外の墓地は後継地に引き継がれ、火葬場は京城市の弘濟內里、埋葬場は東小門外の某所にと内定して、近々すべての工事終了とともに移転することになっている。日本人墓地は来年1月末までには移転を完了し、朝鮮人墓地はこの11月末には目処が立つ。この墓地の新オーナーである大阪の島徳蔵氏も、残りの30万円を支払うと同時に所有権移転をするよう催促しており、京城府では遅くとも10月中旬までには登記手続きを終える見込みである。この墓地の売却によって、行き場がなくなる600余戸、三千人余りの人々のこれからについては何らの解決策もなく、移転費がどうこうという話どころか、移転先の候補地すらない状況である。島徳蔵氏は、最近一層監視を強めて監視人に新しく入ってくる人を取り締まらせている。所有権の移転登記が終われば、警察力を動員して彼らの退去を命令するので、今年の秋には一波乱ありそうで世間の注目を集めている。京城府ではすでに売却してしまったとして見て見ぬふり、総督府でも何らの具体策が講じられないままで、彼らの移転については暗澹たる状況である。

 京城府庁の某当局者は「所有権が移るわけなので、島徳蔵氏は自分の思うようにやるでしょうが、一人二人のことではない社会問題なのだから、京城府において処理するほかに方法がないとは思いますが…」と語っている。

 結局、土幕民・土窟民の救済策が講じられることはなく、『毎日申報』によれば、1929年末の段階でも3000人(戸は誤りか)以上の貧民が行き場のないまま光煕門外のスラムで極寒の冬をむかえた。

 

 

  舞鶴住宅地と朝鮮都市経営会社

 咸鏡南道知事になった馬野精一が京城に戻って島徳蔵との約束について「自分が責任を取る」と啖呵を切ったのが1929年の3月末。その頃には、共同墓地の移転や内地人の火葬場の移設などが行われていた。上述の『毎日申報』の記事から推測すると、1929年の年末にはまだ宅地開発は始まっていなかった。しかし、1930年11月21日付の『京城日報』の記事では、この年の6月には、共同墓地や火葬場のあった新堂里一帯が「舞鶴住宅地」という名前で分譲販売され始めている。1930年に入ってから、土幕民・土窟民を排除し、城壁の撤去なども行いながら宅地造成工事が進められたのであろう。

 

この土地を売出したのは本年6月からであるが、整地された5000坪はドシドシ片づいてゆく、坪当り15円から22円で官吏や銀行員、会社員は安い安いと買ふ。モウ50口計り売れた。中には1人に1千2百坪も買つてゆく人もある、すでに坪30円でないと手放さないなどよい所は約10円方の土地値上りをみせている有様である。火葬場跡だから買い手はあるまいと思つてゐたら大間違えだ、是非火葬場跡を分けて欲しいといふものもある、何んでもそこに寺を建立する計画だそうな、案ずるより生むが易い。

モウ松の木の間を通して木の香新らしい4、5軒の小ぢんまりした新築が出来あがつている、昔は乞食でないと住まないといはれた城壁の下にもモダンな家屋が建てられてゐる。どこもこの辺の変り様は想像以上である。

とある。当時、京城の内地人の住宅難もあって、墓地や火葬場、汚物堆積場、スラム街だったことなどお構いなしに買い手がついた。この一帯の景観はこの時期に激変した。

 

 方奎煥を社長とする舞鶴住宅経営が宅地の開発・販売をやっていたが、1933年になると、世界恐慌の煽りで羽振りの良かった島徳蔵の関係企業が経営不振に陥った。舞鶴住宅経営も銀行からの借入金の返済が滞り、1933年末に東洋拓殖会社の子会社である朝鮮都市経営会社に舞鶴住宅地の経営権が譲渡された。

 

 

 朝鮮都市経営会社は、舞鶴住宅地に隣接する奨忠壇住宅地や桜ヶ丘住宅地をすでに開発しており、新堂里一帯は大きく変貌することになった。

 

赤い線の道路がいわゆる「島徳道路」。それに挟まれた舞鶴住宅地、島徳道路を隔てて桜ヶ丘住宅地。衛生課分室は汚物堆積場の跡地に置かれていたもの。

奨忠壇公園の下にある「博文寺」のところは現在の新羅ホテル。右の丸い部分は現在の奨忠壇チャンチュンダン体育館で奨忠壇からの「島徳道路」を挟んで朝鮮土地経営会社が開発した奨忠壇住宅地があった。解放後、三星サムソン李秉喆イビョンチョル元会長がここに住んでおり、現在三星グループがこの一帯を所有している。

 

  梶山季之と朴正煕が住んだ街

 

 1960年代の日本で産業スパイ小説や推理小説、時代小説、風俗小説などで流行作家となった梶山季之。彼は 1979年に韓国で映画化された『族譜』や『李朝残影』などの朝鮮を舞台とする作品も残している。京城育ちの梶山は、南山小学校に通っていた1938年に「京城府城東区新堂町349」に引っ越した。上掲の地図のAの場所、桜ヶ丘住宅地の一角である。

 ここから京城中学(現在ソウル歴史博物館がある場所にあった)に通ったが、3年生の時に日本が敗戦。日本に引き揚げた。

 人気作家となってから、大宅壮一と一緒に1963年11月25日から12月2日まで韓国を訪問している。まだ、日韓の国交が回復する前の時期である。その時、以前住んでいた家を見に行っている。

「ソウル市の西南」は「東南」の誤り

すでにこの住宅はない

 

 梶山季之と朝鮮の関わりについては、『李朝残影 : 梶山季之朝鮮小説集』(インパクト出版会, 2002)の川村湊「梶山季之〈朝鮮小説〉の世界」に詳しい。

 

B

 もう一人、この旧桜ヶ丘住宅のBに今も残る日本家屋に住むことになった人物がいる。朴正煕パクチョンヒ元大統領とその一家である。新堂洞シンダンドン62-43。

 朴正煕は、第7師団長となった後、1958年5月から新堂洞の官舎に住んだ。1945年8月の日本の敗戦で空き家になった日本人の住宅が米軍政下で「敵産」として接収され、それを韓国に払い下げた家屋であろう。1930年代の「文化住宅」といわれた日本家屋がそうであったように、和洋折衷の様式。それを韓国式に改造したものに、さらに陸英修ユクヨンス夫人が手を加えたといわれている。1961年5月のクーデターで国家再建最高会議の議長となって、議長公館に引っ越した8月までこの家に朴正煕一家は暮らした。

 その後、朴正煕は大統領となり、一家は青瓦台の大統領官邸に移った。

 

 1979年10月26日、朴正煕大統領は中央情報部長の金載圭キムジェギュに銃撃されて殺害された。陸英修夫人が1974年8月の文世光ムンセグァン事件で死去してからは、長女の朴槿恵パククネがファーストレディの役割を担ってきた。11月3日の国葬を終えたのち、朴槿恵は、妹の朴槿令パククルリョンとともに青瓦台からこの新堂洞の私邸に移り、しばらくここで暮らした。

 

 その後、朴槿恵も朴槿令もこの家を出たが、家屋は陸英修女史記念事業会が引き継ぎ、2008年10月に国家文化財として登録された。その後、ソウル市が住宅の修復工事を行ない、1958-1961年当時の姿に復元して2014年に公開している。

 

 こうした数奇な運命をたどった桜ヶ丘住宅地の「文化住宅」は、1930年代の宅地開発当時の原型を残す数少ない建物として今日に伝えられている。

 

2022年7月KakaoMap ストリートビューより

 

 


 

 光煕門は1975年に復元された。

 

 

 光煕門から南へ120mほどは城壁が復元されている。しかし、そこから650mほど城壁が途切れ、新羅ホテルの敷地の東北端からまた城壁が始まる。

 

 

 ただ、この途切れている部分でも、住宅の基礎部分や切り通しなどに城壁の痕跡が残されている。舞鶴住宅地の造成・分譲の時に、城壁部分でも宅地化できるものはそのまま宅地にしたのであろう。城壁を壊した後の石材を流用したりしたと思われる痕跡もある。

 

 光煕門と新堂洞。見どころ満載の一角である。