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一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

  1934年の石仏「発見」

 青瓦台の「美男石仏」では、さらっと書いてしまったのだが、なぜ慶州から1912年に京城に持ち込まれていた石仏が、20年以上経った1934年になって「発見」されたと騒がれることになったのか。

 

 もう一度、3月28日付『京城日報』の発見部分の記述を見てみよう。

 

時價にしたら五萬圓もするであろう、いや金では買へない慶州南山の美男石佛がいつの間にか逃避行と洒落たので、本府博物館ではその行方を躍起になって探していたが慶州からその足どりを追つてみると倭城台の總督官邸に安置されていることが、27日にわかり、 榧本嘱託が取るものも取り敢ず驅けつけて見たら、警官詰所の裏の堤に大樹を傘とはしてゐるが、風雨にさらされながら、すまして御座るのを發見した。

…(後略)…

 この記事では、朝鮮総督府博物館は「その行方を躍起になって探して」「慶州からその足どりを追」ったとなっている。どうして「躍起」になったのか。そして、なぜ「慶州から」石仏の行方を追うことになったのか。

 

  諸鹿央雄館長の逮捕

 この「発見」の前年の1933年、慶州で博物館館長が「贓物故買」容疑で逮捕されるという事件が起きていた。総督府博物館の分館の館長が、発掘品の横流し販売や盗掘などに関係していたとされるトンデモナイ事件である。

 

 1933年5月3日の『東亜日報』が、慶州博物館館長諸鹿央雄もろがひでおが4月28日に慶州警察に拘束されたことを報じた。慶州博物館館は、正確には「朝鮮総督府博物館慶州分館」である。

 

 さらに、1933年5月9日付の『釜山日報』にも記事が出た。諸鹿央雄は、役人ではなかったが、朝鮮総督府の嘱託(主任)として総督府博物館の慶州分館の館長のポストにあった。『東亜日報』に「俗称慶州王」「慶州を左右する唯一の権力家」と書いているように、慶尚北道の評議員にも選出されていた慶州の有力者であった。

 

 

 その諸鹿央雄が、発掘された埋蔵品の密売に関与し、その一部は権力者への賄賂として渡ったのでは…というのだから、かなりのスキャンダルである。

 

  諸鹿央雄と大坂六村

 上掲の『京城日報』の石仏「発見」の記事には、慶州南山の谷筋にあった石仏が斎藤実総督の在任中に官邸に運び込まれたのではないかとの推測が書かれている。

 

 ところが、その3日後の『京城日報』に、この「発見」された石仏は「慶州内東面道只里移車寺」にあったもので、1913年に朝鮮総督寺内正毅の官邸に送られたものだと報じられた。大坂六村がその情報を提供した。

 

 

 大坂六村は本名大坂金太郎。当時大坂金太郎は慶州の普通学校の校長を務めており、この記事の情報を送った時はたまたま扶余に滞在していたのであろう。諸鹿央雄は、併合前の1909年から慶州に居住して「慶州史談会」「慶州古蹟保存会」のメンバーとして古蹟の探査や遺物の調査を行っていた。大坂金太郎は、1916年に咸鏡北道会寧の学校から慶州の学校に移り、「慶州史談会」「慶州古蹟保存会」に参加した。

 

 移車寺の石仏が寺内正毅のところに送られたことは、1916年に諸鹿央雄自身が出した『新羅寺蹟考』にも具体的に書き残されている。

嘗テ完全ナル石佛坐像一軀嚴存シタルガ去ル大正二年中總督邸ニ移ス其ノ他首ヲ損セル石佛一軀光背ヲ有スル石佛立像一軀及ビ石塔一基(倒壊)等寺趾附近ノ土中ニ埋マリ居レリ

 

 この史料は、2018年に天理大学図書館所蔵の『新羅寺蹟考』のコピーが韓国で公開されて、韓国の新聞に「寺内正毅が私物化しようとした決定的史料」として紹介された。この史料は東京経済大学の櫻井義之文庫にも残っていて、レポジトリーでデジタル画像を見ることができる。

 

  寺内正毅の慶州巡察

 諸鹿央雄が書き残し、大坂金太郎が言及した寺内正毅の慶州巡察は、1912年11月7日から9日にかけてのことであった。この時、寺内正毅は、奉徳寺鐘 — 現在慶州国立博物館の屋外に展示されているエミレ鐘 — や仏国寺、石窟庵、芬皇寺などを見て回った。

 


現在は慶州国立博物館入口右手にあるエミレ鐘

 

 当時、慶州に住んでいた諸鹿央雄は「慶州史談会」の有力メンバーとして寺内総督の巡察コース設定や案内・解説にも関係していたであろう。『京城日報』の記事では、慶州金融組合の小平理事が移車寺の石仏を「ガラガラガラっと荷造りし官邸へ急送」となっている。だが、『新羅寺蹟考』にわざわざ「嘗テ完全ナル石佛坐像一軀嚴存シタルガ去ル大正二年中總督邸ニ移ス」と書き加えていることから、諸鹿央雄も送り出しに関わっていたとも考えられる。

 

 寺内正毅はこの慶州巡察ののち、浦項から船で内地に渡って陸軍演習を視察して京城に戻った。ここで慶州から送られた石仏を受け取ったことになる。寺内正毅は、1913年2月に南山の総督府官邸の裏手で慶州から送られた石仏の開眼式を行った。その時の写真が残されている。

 

ハンギョレ新聞 2017-12-03登録記事より

 

  斉藤実総督と諸鹿央雄

 寺内正毅は1916年10月に離任した。この年7月に「古蹟及遺物保存規則」を制定して、朝鮮で発見された遺物は台帳に登録し、勝手に移動することを禁じた。



総督府令第52号「古蹟及遺物保存規則」『官報』1916年7月4日

 

 そのため、石仏は日本に搬出されることなくそのまま総督官邸に残された。しかし、あらためて台帳に登録されることもなかった。『京城日報』には、「慶州南山の美男石佛がいつの間にか逃避行と洒落た」とあるが、しゃれたわけではなくうやむやにされたわけだ。

 

 後任の長谷川好道は、1919年の3・1独立運動が起きるとその年の8月に離任し、斎藤実がその後を受けて朝鮮総督になった。

 斎藤実も古美術に非常に関心を持っていた。1920年11月に初めて慶州を訪問し、その後しばしば慶州に足を運んだ。慶州訪問の際には柴田旅館に宿泊していた。この柴田旅館については、2019年の『民団新聞』に掲載された荒木潤「慶州西慶寺のこと」の中に、慶州の古老から聞いた話としてこのように書かれている。

 柴田旅館の前には栗原という骨董品屋があった。日本人旅行客が土産物を物色しに、店に入ってくると、店主はその客の身なりや風采を観察し、その客が「上客」の雰囲気を醸していると、そっと近づき、「もっと値打ちのある骨董品をお求めでしたら、この裏にある柴田旅館の主を紹介しますよ」と耳元でささやいた。客が話に乗ってくると店主は柴田旅館に連れて行き、文化財収集家だった柴田団九郎に引き合わせた。
 柴田はその客がさらに高価な骨董品を求めていることを察知すると、やはり近所にあった慶州博物館の館長・諸鹿央雄へ引き合わせた。諸鹿は慶州の歴史と遺跡を解説する卓越した話術と処世術で博物館長まで出世した人物だ。

掲載日 : 2019-12-30

 

 諸鹿央雄が取り立てられるようになったのはこの頃からである。1923年に朝鮮総督府学務局の嘱託となり、慶州古蹟保存事務を担当することになった。その後、毎年官報に嘱託として記載されている。
 

 

 1926年に、「慶州古蹟保存会」が管理していた金冠塚出土品の収蔵庫・展示館を朝鮮総督博物館の慶州分館とすることになり、この時に諸鹿央雄が慶州博物分館の主任、すなわち館長に任命された。

 

総督府博物館慶州分館の絵葉書と館内案内図

慶州府尹官衙(現在の慶州文化院)が旧博物分館

 

 諸鹿央雄は、斎藤実が慶州を訪問する時には自ら案内をしていた。また、濱田耕作や関野貞といった学者や、東京帝大建築学教室の若手研究者とも親交があった。上掲の『民団新聞』記事に「諸鹿は慶州の歴史と遺跡を解説する卓越した話術と処世術で博物館長まで出世した」とあるように、そうした人脈やコネで博物館長になったとみなされてもいたようだ。
 1929年5月の慶州面議員選挙では4位で当選しており、翌年4月1日付で慶尚北道評議会員にも任命された。

 

 その慶州の名士であった諸鹿央雄が、1933年4月28日に慶州警察に拘束されたのである。

 当時、慶州にいた「朝鮮古蹟保存会」の有光教一は、長年総督府で文化財関係業務にあたり京城帝大教授になっていた藤田亮策に連絡した。しかし、斎藤実はすでに総督を退任しており、藤田亮策も警察・検察の取り調べを傍観するしかなかった。

 

  諸鹿央雄の裁判

 諸鹿央雄は6月末に一旦保釈され、その年夏から裁判が始まった。大邱の地方法院の一審で有罪となり、控訴した覆審法院(高等裁判所)でも、懲役1年執行猶予4年罰金200円の有罪判決が下された。

 

 

 当時、斎藤実は1932年から総理大臣となっていた。裁判にあたって斎藤実は諸鹿央雄を慰労する私信を送り、それが公判の時に裁判長に提出された。しかし、多少の情状酌量はあったかもしれないが、有罪の判決が覆ることはなかった。
 諸鹿央雄は大法院(最高裁判所)に上告したが12月18日に棄却された。

 

 

  石仏の追跡

 『京城日報』に総督官邸で「美男石仏」が見つかった話が報じられたのは、大法院で諸鹿央雄の有罪判決が確定した3ヶ月後の3月29日である。

 朝鮮総督府博物館の榧本カヤモト亀次郎は、総督官邸の石仏について、『京城日報』の記事で

何うして総督官邸に安置されたか、まだわかりませんが、多分第一回の斎藤総督時代だろうと思ひます、そしてこれは現在博物館のホールに陳列してある薬師如来と慶州の同じ谷に安置されてゐたものです

と推測していた。

 

 斎藤実は、1919年8月から1927年12月まで朝鮮総督として在任し、その後再び1929年8月から1931年6月まで朝鮮総督を務めた。そして、榧本亀次郎は1930年から総督府博物館に勤務していた。寺内正毅が総督だった1912年に総督官邸に持ち込まれた「美男石仏」については、台帳にも登録されておらず、何も把握していなかった。

 

 慶州博物分館の前館長諸鹿央雄の事件が発覚してから、出土品や遺跡・遺物などについて追跡調査が行われた。慶州から流出して「古蹟及遺物保存規則」で定められた台帳に記載がないまま所在不明になっていた移車寺の石仏についても「慶州からその足どりを追」って「その行方を躍起になって探し」たのであろう。

 

 こうして、総督官邸の裏庭に置かれていた「美男石仏」は「発見」されることになった。これが日本の植民地支配下での朝鮮の文化財・遺跡・遺物保存の扱い方を如実に示すものといえよう。

 

 『釜山日報』が「某々大官へも贈与か」と書いたのは、諸鹿央雄が総督府の嘱託になって館長にまで登り詰めた斎藤実総督時代のことが念頭にあってのことかもしれない。また、榧本亀次郎が「多分第一回の斎藤総督時代だろう」と『京城日報』の取材に答えたのも、慶州における斎藤実と諸鹿央雄との親密な関係を知っての憶測かもしれない。

 

 ちなみに、諸鹿央雄は、有罪が確定した後は慶州を離れ、遺跡・遺物とは無縁の実業界に身を転じ、協和海運の代表となった。

 

映画「モガディシュ」—その時代背景— から続く…

 

  モガディシュからの脱出

 ソマリア駐在の韓国と北朝鮮の大使館員が協力してケニアに脱出したのは、韓国時間の1991年1月13日未明のことだった。

 

 脱出前に、イタリア発のロイター通信が「コリアの外交官がモガディシュのイタリア大使館内で死亡」と流し、ナイロビ発のAFP通信が11日に北朝鮮外交官1名が死亡したことを報じている。

 

 アフリカの東端の国で、内乱の中を韓国と北朝鮮の外交官らが命からがら隣国に逃れた事件だったが、当時の韓国社会はその脱出劇にあまり関心を示さなかった。韓国の新聞は、ソマリアからの脱出について、外務部当局者の話をべた記事で報じただけだった。有力紙『東亜日報』『朝鮮日報』は、べた記事にすらしなかった。

 

『京郷新聞』

『ハンギョレ新聞』

ソマリア大使、ケニアに撤収

 ソマリアの事態が悪化したため、13日未明(韓国時間)、駐ソマリア姜信盛カンシンソン大使を始めとする公館員と在留韓国人6名が、イタリア政府が手配した航空機で全員無事に隣国ケニアに撤収したと外務部が14日明らかにした。

 またソマリアにいた北朝鮮公館員とその家族等13名も、同じ航空機で撤収したと外務部当局者は語った。

 

  『中央日報』の姜信盛大使インタビュー

 ただ、『中央日報』だけは、韓国に帰国した姜信盛カンシンソン大使に取材して、そのインタビュー記事を1991年1月24日付の紙面に掲載した。

 

 

「無駄死はしない」と手を取り合った南北

姜信盛大使が明かしたソマリア脱出記

銃撃をくぐり抜け一緒に安全地帯に
ケニアでの別れ、「統一後また隣人になろう」

 血は水より濃かった。
 アフリカの奥地ソマリアの首都モガディシュで内戦に巻き込まれて脱出路が閉ざされた中で、南北双方の大使と大使館職員が繰り広げた合同脱出作戦は、体制と理念を超越した純粋な同胞愛から実行された。
 モガディシュは、昨年末以降続いた政府軍と反政府軍の市街戦で、銃弾が降り注ぎ、政府機関や通信施設はほぼ破壊され、住宅街や外国公館などには銃を持った強盗が押し入り、婦女子の恐喝、金品の強奪などが日常的に起こる無政府状態でした。
 17日に帰国したソマリア駐在の姜信盛大使(54)は、まだ半月間の悪夢が消えないかのように緊張した面持ちで当時の危機状況を振り返った。
 ソマリアの内戦が激化したのは昨年の12月30日。
米国、ソ連、中国など主要国の公館が撤収したことを受け、韓国大使館も撤収することを決め、7日から李昌雨イチャンウ参事官をモガディシュ国際空港に待機させ、航空便での非常脱出を試みたがうまくいかなかった。
 李参事官とともに脱出路を探すため、9日朝早く空港に行った姜大使は、待合室で金龍洙キムリョンス大使(55)ら北朝鮮公館員とその家族14人を見つけた。「全滅するかも知れない危機の中では南も北もないでしょう。同じ民族同士で力を合わせて脱出作戦をやりましょう。』
 姜大使は、韓国公館の置かれている状況も難しいが、空港で孤立している北朝鮮側を何とかしなければならないと考えた。
 北朝鮮の金大使はやや当惑した表情を浮かべ、「何か良い方法でもありますか」と前向きな態度を見せた。
 この時、空港関係者からケニアのナイロビの韓国大使館が手配した2機のイタリア軍用機がまもなく到着するので、搭乗者名簿を知らせてほしいという連絡があった。姜大使の指示によって、李参事官は、韓国側搭乗者6人(在米韓国人1人は残留希望)と北朝鮮大使館側14人、そしてあとから合流したソマリア駐在ルーマニア代理大使など21人のリストを空港側に通報した。
 軍用機は予定通り飛んできた。ところが、管制塔との交信ミスで、別の軍事基地に着陸してしまい、民間空港で待機中だった公館職員たちはこの救助機を逃してしまった。救助機は他の難民を乗せて出発してしまった。
 韓国と北朝鮮の大使は、「何か別の方法を探そう」と励まし合って、銃撃戦の続く市内をくぐり抜けて、比較的安全な韓国公館に戻り夜を明かした。韓国公館の通信が途絶えた中で、北朝鮮の金大使は夜が明けると、北朝鮮と国交があったエジプト大使館を訪れ、カイロにある北朝鮮大使館に安否を知らせる電報の打電を依頼し、在カイロ韓国総領事館にも韓国公館員たちの無事を知らせる電文を送ってくれるよう依頼した。この電文は、韓国政府側に到着していたことが後日確認された。
 一方、姜大使も同日朝、現地の警備警察官2人を同行させ、6キロほど離れたイタリア大使館を訪れ、救助機を再び要請した。
 イタリア大使のマリオシカ氏(45)は、12日の午後に軍用機が来る予定だが、事情により韓国側の公館員7-8人程度しか乗せないと返答した。北朝鮮とは外交関係がないことを意識したようだった。
 姜大使は、「互いに体制と理念は異なるが、同じ民族なのに、北の大使館員らを置いて韓国側だけが脱出することはできないとマリオシカ大使を4時間説得し、南北両方の搭乗の確約とともに、安全な場所がない南北公館の職員が、飛行機が飛来するまでイタリア大使館に避難できるよう約束を取り付けた。
 姜大使は、直ちにこのことを金大使に通報したが、金大使は最初はイタリアが未修好国であることを意識したためか難色を示した。しかし、武装した強盗集団から館員家族を保護する手立てがないという状況判断から、最終的に韓国側の提案を受け入れた。
 南北双方は、10日午後3時55分ごろ、太極旗を掲げた6台の乗用車に分乗して、イタリア大使館に向かった。
 車両がイタリア政府軍が配備された大使館の裏門に接近したところで、70-80メートル前方から集中放火が浴びせかけられた。前方を走っていた数台は、急ハンドルを切って銃撃を免れたが、後方の車を運転していた北朝鮮公館の通信官の韓相烈ハンサンヨル氏(36)が左胸に銃弾を受けた。
 韓氏は、銃で撃たれながらも胸を押さえながら約1分間超人的な意志と使命感で運転を続け、300メートル走らせて安全地帯の大使館裏門にすべり込んだ。それ以外の犠牲者は出なかった。
 韓国公館職員たちは応急処置をしたが、韓氏は銃撃から約20分後に死亡、同日午後10時、双方の公館職員たちによってイタリア大使館の構内に埋葬された。
 双方の公館員と家族、ルーマニア代理大使など22人は、10日と11日夜をイタリア大使公館の応接室などで一緒に過ごした。
 韓国側は姜大使、李参事官、朴ヨンウォン雇用員夫婦、在米韓国人の李ギュウ氏(45)夫婦と息子の7人、北朝鮮側は金大使夫婦と孫(5)、参事官夫婦、一等書記官夫婦と息子(4)、韓相烈通信官の夫人と息子(7)、もう1人の通信官夫婦と娘(3)の計13人。
 双方の公館職員と家族は、この期間には体制や理念の問題など互いの自尊心と感情に触れる言動を慎み、韓国側はコチュジャンを、北朝鮮側はチョンガクキムチなど持ち寄って分け合うなど、親しい隣人として過ごした。
 12日午後、ついに国際赤十字社のマークをつけたイタリア軍用機2機が到着、南北双方の19人とルーマニア代理大使など20人はイタリア大使館を出発、厳重な警戒の中を空港に向かい、午後5時頃ソマリア難民300人余りとともにイタリア軍用機に搭乗、2時間30分後の午後7時30分にケニアの海辺都市モンバサに無事到着した。
 姜大使は、北朝鮮側の女性や子供たちが韓氏の死を目の当たりにして恐怖感に怯えていることを勘案し、空港に行くまでの間、彼らをイタリア大使が乗った防弾車に乗せた。
 艱難辛苦の末に戦場を脱出した両国の公館職員と家族は、モンバサ空港で互いに抱き合い、「この間本当にありがとう」「統一できたら隣人としてともに暮らそう」などと別れの挨拶を交わしながら、この間の熱い同胞愛に思いを馳せた。
<金局厚記者>

 

  エピローグ

 ソマリアの首都モガディシュに置かれた韓国と北朝鮮の大使館の最大の使命は、前述のように南北朝鮮の国連加盟問題をめぐっての総会での票の確保であった。

 

 韓国と北朝鮮の両国が国連に同時加盟したのは、1991年9月17日のこと。モガディシュからの脱出劇の8ヶ月後であった。

 

27年前の今日、国連は大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の同時加盟を承認しました。
[サメット·サハディ/第46回国連総会議長]
「満場一致で南北の国連加盟が決まりました」
待機席で待っていた韓国代表団は直ちに総会議場に席を移動し、大韓民国の英文名が書かれた名札が置かれました。
1949年に国連から朝鮮半島の南側に建てられた唯一の合法政府として認められた韓国は42年ぶりに国連の161番目の加盟国になったのです。英文の国名が韓国より前になる北朝鮮は160番目の加盟国になりました。
[ニュースデスク(1991年9月18日)]
いまだ国際法上、休戦状態にある朝鮮半島に平和を定着させる大きな一歩となりました」
国連本部の前には太極旗と人民共和国旗が並んで掲げられ、韓国と北朝鮮の代表はそれぞれに朝鮮半島の統一と世界平和を強調しました。
[イ·サンオク/韓国外相(1991年9月18日)]
「韓半島での平和定着と究極的な統一を促進しなければなりません」
[カン·ソクジュ/北朝鮮外交部副部長(1991年9月18日)]
「いつか南北は単一議席で国連活動に参加する日が来ることを…」
南北の国連同時加盟は、朝鮮半島の平和体制構築に向けた第一歩であり、東アジアの冷戦時代の終息を知らせる記念碑的な出来事として記録されています。


 2006年、外交官を引退した姜信盛元大使は、1991年のモガディシュ脱出劇を題材にした小説を書いて文壇デビューを果たした。

 

姜信盛『脱出』ハンガン、2006年4月

 

 『脱出』が刊行されるまでの15年間に、南北首脳会談が実現し、金大中と談笑する金正日の姿が韓国のテレビで流れ、南北朝鮮の関係も大きく変化していた。


 そして、さらにそれから15年。この事件は映画化され、2021年7月28日に韓国で封切られた。

 

 韓国では360万人以上の観客を集め、7月からは日本でも公開された。

 

 

 ただ、現実の南北関係を見ると、モンバサ空港の飛行機の中で挨拶を交わした人々が再会を果たすことができるのはまだまだ難しそうな状況である。


 あれから、すでに30年の歳月が過ぎ去った。

 映画「モガディシュ」の公開を機に、1991年のあの時代と、1990年代に至るまでの南北朝鮮の関係について整理しておこう。

 10年が「ひと昔」なら、もう「み昔」ということになる。

 

  1991年1月

 1991年1月、盧泰愚ノテウ大統領は年初の記者会見で単独での国連加盟申請も辞さないと言明した。

 

 1991年1月17日、アメリカ・イギリスをはじめとする多国籍軍がイラクを空爆して湾岸戦争が始まった。

 

 1991年1月 30日、日朝国交正常化のための第1回目の本交渉が平壌で開かれた。前年9月に北朝鮮を訪問した自民・社会両党代表団(金丸・田辺訪朝団)に北朝鮮の国家主席金日成キムイルソンが国交正常化交渉の開始を提案して始まったものだった。

金丸信・金日成・田辺誠(1990年9月 妙香山招待所にて)

 


 そんな1991年の1月。ソマリアの首都モガディシュでは、内戦の混乱の中から南北朝鮮の外交官や居留民が、ソマリアからの国外脱出を試みていた。

 

 1月13日、韓国大使館関係者と在留韓国人6名、そして北朝鮮の大使館員とその家族13名が、同じイタリア軍用機に搭乗して隣国ケニアへの脱出に成功した。

 

 映画「モガディシュ」は、その実話をもとに製作された。

 

韓国映画『モガディシュ 脱出までの14日間』日本版予告編

 

  南北朝鮮と国連

 1948年12月12日の国連総会決議第195号(III)で、韓国は「朝鮮臨時委員会が観察・協議できたところの北緯38度線以南における・・・・・・・・・・・唯一合法政府」とされた。

 

 

 朝鮮戦争が1950年6月25日に勃発すると、7月7日の国連安全保障理事会で「安保理決議84」が可決された。この時、ソ連は中国代表権問題で欠席したため拒否権を使えなかった。韓国を支援する国連加盟国の軍はアメリカ軍の指揮下に置かれ、国連の旗を使用することになった。すなわち、「国連軍」が朝鮮戦争の当事者になった。

 1953年、国連軍と北朝鮮人民軍・中国義勇軍との間で休戦協定が成立した。

 

 その後、韓国も北朝鮮もそれぞれ国連加盟を画策した。しかし、国際情勢の変化や南北双方の思惑もあって、国連加盟は実現しなかった。


 1973年、韓国の朴正煕パクチョンヒ大統領は、南北朝鮮の同時加盟に反対しない意向を示した。韓国だけが朝鮮半島での「唯一合法国家」という主張を棚上げして、南北二つの国家がそれぞれ国連に加盟することを容認する方針を打ち出した。

 

ヘッドラインは「南北朝鮮の国連同時加盟に反対しない」

 

 ところが、北朝鮮の金日成は、南北別々ではなく、「高麗コリョ連邦」という一つの国家として国連に加盟することを逆提案した。



 南北それぞれを支持する加盟国数が拮抗していた1975年の国連総会では、韓国が単独で加盟申請をした案が否決された。これ以降、南北ともに加盟申請を棚上げせざるを得なくなった。


 この当時、北朝鮮は非同盟諸国会議のメンバー国として、アフリカなど発展途上国と緊密な外交関係を築いていた。一方、韓国は西側先進国との関係を優先していたため、「第三世界」の途上国の国々との外交関係においては北朝鮮に大きく遅れを取っていた。

 

  ソウル五輪と第三世界諸国外交

 1982年、バーデンバーデンのIOC総会で88年夏季オリンピックのソウル開催が決まった。

 


 1983年時点で、南北朝鮮のそれぞれと外交関係を有する国家数は、韓国が120カ国、北朝鮮が104カ国。ただ、アフリカ諸国に限ってみると、北朝鮮の40カ国に対し、韓国は28カ国、さらに韓国と国交のあるアフリカの国々の大半は北朝鮮とも外交関係を持っていた。

大:大使館設置 外:外交関係のみ 領:領事館のみ
1983年11月現在(在韓国日本大使館)

 

 オリンピック開催が決まった韓国は、アフリカの国々と強い結び付きがあった北朝鮮に対して外交攻勢をかけた。アフリカや東南アジアの発展途上国へ積極的な外交攻勢に打って出たのである。

 

 そうした中で起きたのが、1983年にミャンマーを訪問した全斗煥チョンドゥファン大統領の暗殺を狙ったアウンサン廟爆弾事件である。この事件は北朝鮮工作員による犯行とされ、ミャンマーは北朝鮮と国交を断絶し、南北朝鮮の関係は極度の緊張状態に陥った。

 

 

  洪水支援からの南北交流

 その翌年、1984年の9月の集中豪雨で漢江が増水し、ソウル市内を流れる中浪川チュンナンチョン城内川ソンネチョンが氾濫して市内各所が水没する水害が起きた。この時、北朝鮮の赤十字から支援物資の提供の申し出があった。韓国側は当然「いらない」と断るものと思われたが、全斗煥政権は意外にもこれを受け入れた。この南北間の想定外の接触が契機となり、翌1985年には、朝鮮戦争によって離ればなれになっていた「離散家族」の南北相互訪問と再会が実現した。北朝鮮の人々の姿や平壌の街並みが韓国のテレビにも映し出された。

 

 

 その後の1986年のソウルアジア競技大会、1988年のソウルオリンピックでも、南北の共催や合同チームの実現などに大きな期待がかかったが、結局実現には至らなかった。

 

  ソマリア脱出

 ソマリアは、北朝鮮とは1960年の独立当初から外交関係があった。韓国は、1987年になって経済援助などを条件にして国交樹立に持ち込んだ。12月、首都モガディッシュに初代大使の姜信盛カンシンソンが着任して大使館が開設された。

 


姜信盛大使の外交官証(SBS [꼬리에 꼬리를 무는 그날 이야기] より)


 世界各地に置かれていた韓国の在外公館では、トップの大使や総領事には外交部の外交官が任用されたが、No.2のポストには、情報機関である安全企画部(旧中央情報部)の要員が就くのが通例であった。

 ソマリアの韓国大使館でも、No.2の参事官は安企部の李昌雨イチャンウ(映画では、チョ・インソンが演じている)、そしてチョ・マンシク扮する書記官は外務部のノンキャリ外交官という設定である。


 1988年に大統領に就任した盧泰愚ノテウは、北朝鮮と密接な関係にあった「第三世界」諸国に食い込むと同時に、東側陣営の国々との外交関係構築を模索する「北方外交」を積極的に展開した。時あたかもソ連ではゴルバチョフのペレストロイカ(改革・開放)が始動し、ベルリンの壁が崩壊して東欧の国々が体制変動の最中にあった。南北朝鮮を取り巻く国際環境も新たな段階に移ろうとしていた。

 1990年6月の盧泰愚・ゴルバチョフ会談で国交樹立に原則合意がなされ、9月30日には韓国とソ連の国交が樹立された。これを機に、韓国は国連加盟申請に向けて動きを加速させた。国連総会での票を確保するため、特にアフリカなど第三世界の国々への働きかけを強めていた。

 

 盧泰愚大統領が1991年1月の年初の記者会見で、単独での国連加盟申請も辞さないと明言したのにはこのような背景があった。
 

 ちょうどその頃、アフリカ大陸の東端に位置するソマリアでは、反政府武装勢力の統一ソマリ会議(USC)が首都モガディシュを制圧し、1980年に就任して統治を続けてきたバーレ大統領は国外に逃亡した。
 

 1991年1月7日に、ソマリア在留外国人脱出のための休戦が成立したが、この休戦期間中に韓国と北朝鮮の大使館関係者や在留韓国人は脱出できなかった。

 

 

 モガディシュの混乱のまっただ中に取り残されてしまった韓国と北朝鮮の関係者は、互いに助け合って窮地を脱することになった。

 

 冷戦が終焉を迎えつつあった1990年代初頭、南北間の接触や交流は1980年代半ばに始まってはいたものの、南北双方の相互不信は根強く、疑心暗鬼の中にあった。北朝鮮から韓国側に「転向」した人は「帰順クィスン者」と呼ばれ、多額の報奨金が与えられた。しかし「帰順」するものは多くはなかった。韓国の情報機関は、「帰順」させれば自分たちの手柄になった。ちなみに、北朝鮮から韓国に逃れてくる人々を今は「脱北タルブック者」と呼ぶが、「脱北」という言葉が使われるのは1994年以降のことである。
 

 当時、北朝鮮の友好国だったエジプトには北朝鮮の大使館はあったが、韓国は居留民保護のための領事館があっただけだった。一方、ケニアのナイロビには韓国大使館はあったが、北朝鮮は大使館を置いていなかった。ソマリアの旧宗主国イタリアは、韓国とは国交があったが、北朝鮮とは外交関係がなかった。イタリアが北朝鮮と国交を樹立するのは2000年1月のことである。

 

 そうした中、1月13日未明(韓国時間)、韓国大使館関係者と在留韓国人6名が航空機でケニアに脱出し、同じ飛行機で北朝鮮の公館員とその家族13名も脱出した。日本の新聞も小さくではあるが、ソマリアからの外国人の脱出を報じた。

 

 

映画「モガディシュ」—脱出その後— に続く…