1934年の石仏「発見」
青瓦台の「美男石仏」では、さらっと書いてしまったのだが、なぜ慶州から1912年に京城に持ち込まれていた石仏が、20年以上経った1934年になって「発見」されたと騒がれることになったのか。
もう一度、3月28日付『京城日報』の発見部分の記述を見てみよう。
時價にしたら五萬圓もするであろう、いや金では買へない慶州南山の美男石佛がいつの間にか逃避行と洒落たので、本府博物館ではその行方を躍起になって探していたが慶州からその足どりを追つてみると倭城台の總督官邸に安置されていることが、27日にわかり、 榧本嘱託が取るものも取り敢ず驅けつけて見たら、警官詰所の裏の堤に大樹を傘とはしてゐるが、風雨にさらされながら、すまして御座るのを發見した。
…(後略)…
この記事では、朝鮮総督府博物館は「その行方を躍起になって探して」「慶州からその足どりを追」ったとなっている。どうして「躍起」になったのか。そして、なぜ「慶州から」石仏の行方を追うことになったのか。
諸鹿央雄館長の逮捕
この「発見」の前年の1933年、慶州で博物館館長が「贓物故買」容疑で逮捕されるという事件が起きていた。総督府博物館の分館の館長が、発掘品の横流し販売や盗掘などに関係していたとされるトンデモナイ事件である。
1933年5月3日の『東亜日報』が、慶州博物館館長諸鹿央雄が4月28日に慶州警察に拘束されたことを報じた。慶州博物館館は、正確には「朝鮮総督府博物館慶州分館」である。
さらに、1933年5月9日付の『釜山日報』にも記事が出た。諸鹿央雄は、役人ではなかったが、朝鮮総督府の嘱託(主任)として総督府博物館の慶州分館の館長のポストにあった。『東亜日報』に「俗称慶州王」「慶州を左右する唯一の権力家」と書いているように、慶尚北道の評議員にも選出されていた慶州の有力者であった。
その諸鹿央雄が、発掘された埋蔵品の密売に関与し、その一部は権力者への賄賂として渡ったのでは…というのだから、かなりのスキャンダルである。
諸鹿央雄と大坂六村
上掲の『京城日報』の石仏「発見」の記事には、慶州南山の谷筋にあった石仏が斎藤実総督の在任中に官邸に運び込まれたのではないかとの推測が書かれている。
ところが、その3日後の『京城日報』に、この「発見」された石仏は「慶州内東面道只里移車寺」にあったもので、1913年に朝鮮総督寺内正毅の官邸に送られたものだと報じられた。大坂六村がその情報を提供した。
大坂六村は本名大坂金太郎。当時大坂金太郎は慶州の普通学校の校長を務めており、この記事の情報を送った時はたまたま扶余に滞在していたのであろう。諸鹿央雄は、併合前の1909年から慶州に居住して「慶州史談会」「慶州古蹟保存会」のメンバーとして古蹟の探査や遺物の調査を行っていた。大坂金太郎は、1916年に咸鏡北道会寧の学校から慶州の学校に移り、「慶州史談会」「慶州古蹟保存会」に参加した。
移車寺の石仏が寺内正毅のところに送られたことは、1916年に諸鹿央雄自身が出した『新羅寺蹟考』にも具体的に書き残されている。
嘗テ完全ナル石佛坐像一軀嚴存シタルガ去ル大正二年中總督邸ニ移ス其ノ他首ヲ損セル石佛一軀光背ヲ有スル石佛立像一軀及ビ石塔一基(倒壊)等寺趾附近ノ土中ニ埋マリ居レリ
この史料は、2018年に天理大学図書館所蔵の『新羅寺蹟考』のコピーが韓国で公開されて、韓国の新聞に「寺内正毅が私物化しようとした決定的史料」として紹介された。この史料は東京経済大学の櫻井義之文庫にも残っていて、レポジトリーでデジタル画像を見ることができる。
寺内正毅の慶州巡察
諸鹿央雄が書き残し、大坂金太郎が言及した寺内正毅の慶州巡察は、1912年11月7日から9日にかけてのことであった。この時、寺内正毅は、奉徳寺鐘 — 現在慶州国立博物館の屋外に展示されているエミレ鐘 — や仏国寺、石窟庵、芬皇寺などを見て回った。
当時、慶州に住んでいた諸鹿央雄は「慶州史談会」の有力メンバーとして寺内総督の巡察コース設定や案内・解説にも関係していたであろう。『京城日報』の記事では、慶州金融組合の小平理事が移車寺の石仏を「ガラガラガラっと荷造りし官邸へ急送」となっている。だが、『新羅寺蹟考』にわざわざ「嘗テ完全ナル石佛坐像一軀嚴存シタルガ去ル大正二年中總督邸ニ移ス」と書き加えていることから、諸鹿央雄も送り出しに関わっていたとも考えられる。
寺内正毅はこの慶州巡察ののち、浦項から船で内地に渡って陸軍演習を視察して京城に戻った。ここで慶州から送られた石仏を受け取ったことになる。寺内正毅は、1913年2月に南山の総督府官邸の裏手で慶州から送られた石仏の開眼式を行った。その時の写真が残されている。
斉藤実総督と諸鹿央雄
寺内正毅は1916年10月に離任した。この年7月に「古蹟及遺物保存規則」を制定して、朝鮮で発見された遺物は台帳に登録し、勝手に移動することを禁じた。

総督府令第52号「古蹟及遺物保存規則」『官報』1916年7月4日
そのため、石仏は日本に搬出されることなくそのまま総督官邸に残された。しかし、あらためて台帳に登録されることもなかった。『京城日報』には、「慶州南山の美男石佛がいつの間にか逃避行と洒落た」とあるが、しゃれたわけではなくうやむやにされたわけだ。
後任の長谷川好道は、1919年の3・1独立運動が起きるとその年の8月に離任し、斎藤実がその後を受けて朝鮮総督になった。
斎藤実も古美術に非常に関心を持っていた。1920年11月に初めて慶州を訪問し、その後しばしば慶州に足を運んだ。慶州訪問の際には柴田旅館に宿泊していた。この柴田旅館については、2019年の『民団新聞』に掲載された荒木潤「慶州西慶寺のこと」の中に、慶州の古老から聞いた話としてこのように書かれている。
柴田旅館の前には栗原という骨董品屋があった。日本人旅行客が土産物を物色しに、店に入ってくると、店主はその客の身なりや風采を観察し、その客が「上客」の雰囲気を醸していると、そっと近づき、「もっと値打ちのある骨董品をお求めでしたら、この裏にある柴田旅館の主を紹介しますよ」と耳元でささやいた。客が話に乗ってくると店主は柴田旅館に連れて行き、文化財収集家だった柴田団九郎に引き合わせた。
柴田はその客がさらに高価な骨董品を求めていることを察知すると、やはり近所にあった慶州博物館の館長・諸鹿央雄へ引き合わせた。諸鹿は慶州の歴史と遺跡を解説する卓越した話術と処世術で博物館長まで出世した人物だ。掲載日 : 2019-12-30
諸鹿央雄が取り立てられるようになったのはこの頃からである。1923年に朝鮮総督府学務局の嘱託となり、慶州古蹟保存事務を担当することになった。その後、毎年官報に嘱託として記載されている。
1926年に、「慶州古蹟保存会」が管理していた金冠塚出土品の収蔵庫・展示館を朝鮮総督博物館の慶州分館とすることになり、この時に諸鹿央雄が慶州博物分館の主任、すなわち館長に任命された。
総督府博物館慶州分館の絵葉書と館内案内図
慶州府尹官衙(現在の慶州文化院)が旧博物分館
諸鹿央雄は、斎藤実が慶州を訪問する時には自ら案内をしていた。また、濱田耕作や関野貞といった学者や、東京帝大建築学教室の若手研究者とも親交があった。上掲の『民団新聞』記事に「諸鹿は慶州の歴史と遺跡を解説する卓越した話術と処世術で博物館長まで出世した」とあるように、そうした人脈やコネで博物館長になったとみなされてもいたようだ。
1929年5月の慶州面議員選挙では4位で当選しており、翌年4月1日付で慶尚北道評議会員にも任命された。
その慶州の名士であった諸鹿央雄が、1933年4月28日に慶州警察に拘束されたのである。
当時、慶州にいた「朝鮮古蹟保存会」の有光教一は、長年総督府で文化財関係業務にあたり京城帝大教授になっていた藤田亮策に連絡した。しかし、斎藤実はすでに総督を退任しており、藤田亮策も警察・検察の取り調べを傍観するしかなかった。
諸鹿央雄の裁判
諸鹿央雄は6月末に一旦保釈され、その年夏から裁判が始まった。大邱の地方法院の一審で有罪となり、控訴した覆審法院(高等裁判所)でも、懲役1年執行猶予4年罰金200円の有罪判決が下された。
当時、斎藤実は1932年から総理大臣となっていた。裁判にあたって斎藤実は諸鹿央雄を慰労する私信を送り、それが公判の時に裁判長に提出された。しかし、多少の情状酌量はあったかもしれないが、有罪の判決が覆ることはなかった。
諸鹿央雄は大法院(最高裁判所)に上告したが12月18日に棄却された。
石仏の追跡
『京城日報』に総督官邸で「美男石仏」が見つかった話が報じられたのは、大法院で諸鹿央雄の有罪判決が確定した3ヶ月後の3月29日である。
朝鮮総督府博物館の榧本亀次郎は、総督官邸の石仏について、『京城日報』の記事で
何うして総督官邸に安置されたか、まだわかりませんが、多分第一回の斎藤総督時代だろうと思ひます、そしてこれは現在博物館のホールに陳列してある薬師如来と慶州の同じ谷に安置されてゐたものです
と推測していた。
斎藤実は、1919年8月から1927年12月まで朝鮮総督として在任し、その後再び1929年8月から1931年6月まで朝鮮総督を務めた。そして、榧本亀次郎は1930年から総督府博物館に勤務していた。寺内正毅が総督だった1912年に総督官邸に持ち込まれた「美男石仏」については、台帳にも登録されておらず、何も把握していなかった。
慶州博物分館の前館長諸鹿央雄の事件が発覚してから、出土品や遺跡・遺物などについて追跡調査が行われた。慶州から流出して「古蹟及遺物保存規則」で定められた台帳に記載がないまま所在不明になっていた移車寺の石仏についても「慶州からその足どりを追」って「その行方を躍起になって探し」たのであろう。
こうして、総督官邸の裏庭に置かれていた「美男石仏」は「発見」されることになった。これが日本の植民地支配下での朝鮮の文化財・遺跡・遺物保存の扱い方を如実に示すものといえよう。
『釜山日報』が「某々大官へも贈与か」と書いたのは、諸鹿央雄が総督府の嘱託になって館長にまで登り詰めた斎藤実総督時代のことが念頭にあってのことかもしれない。また、榧本亀次郎が「多分第一回の斎藤総督時代だろう」と『京城日報』の取材に答えたのも、慶州における斎藤実と諸鹿央雄との親密な関係を知っての憶測かもしれない。
ちなみに、諸鹿央雄は、有罪が確定した後は慶州を離れ、遺跡・遺物とは無縁の実業界に身を転じ、協和海運の代表となった。

































