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一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

  • 1980年代の梨泰院
  • 梨泰院の歴史
  • 変貌した梨泰院
  • 米軍の街から脱却
  • もう一つの梨泰院

 


 ソウルの「繁華街」と紹介される梨泰院だが、私が最初にソウルで暮らした1980年代前半の梨泰院は、「ミ・パルグン(米8軍)の街」「外人ウェインの街」であり、夜は相当に「ヤバい場所」だった。いまだに、その「ヤバさ」が尾を引いて人々を誘引しているような気もするのだが…

 

  1980年代の梨泰院

 1985年度版の『ブルーガイド 韓国』では、さらっと触れられている。

 

 

 同じ年に出た講談社『世界を食べる旅 韓国』では見開きで紹介されており、ハミルトンホテルの斜め向かいにあったポパイハウスなども紹介されている。

 

 このポパイ・ハウスは、1984年に封切られた映画「鯨とり(고래 사냥コレサニャン)」に出てくる。アン・ソンギとキム・スチョルがアメリカ人の夫婦に金をせびる場面がこの店の前で撮影された。当時の「いかにも梨泰院」という場所の一つだった。多分この店は、ポパイのイラスト使用のローヤルティは払ってなかったと思うが…

 

고래 사냥(1984)

 

 この当時は、昼は革製品、螺鈿家具や真鍮製品、それに骨董品や偽ブランド品などの店が並んでいるのだが、夜になると「米軍の御用達の歓楽街」。そこにちょっとヤンチャな若者たちが集まってくる街になっていた。

 

 その歴史を掘り起こし、今に至るまでの変遷をまとめてみたい。

 

  梨泰院の歴史

 梨泰院は、朝鮮王朝時代の漢陽ハニャン城外の最初の宿場の一つで、東は普済院ポジェウォン、西は弘済院ホンジェウォン、南がこの梨泰院(利泰院)だった。

 

漢陽圖

 

 日露戦争後の1908年から、梨泰院の東側に広がる一帯に日本軍の駐屯地が作られた。20師団の野砲26連隊、歩兵78・79連隊の兵舎や将官宿舎が立ち並んだ。いま、三角地の戦争記念館がある場所は79連隊の兵営で、その南側の師団司令部があった場所がのちに韓国国防部クックパンブとなった。現在は、そこが尹錫悦ユンソギョル大統領の執務室になっている。

 

上:Googleマップ航空写真 下:1921年測量の1万分の1地図

 

 今の梨泰院のメインストリートは、1930年代になってから三角地と新堂町(現新堂洞シンダンドン)をつなぐ「南山周回道路」として建設されたもので、朝鮮人の共同墓地などをつぶして1937年に開通した。

 

 1945年8月、日本の敗戦とともに龍山ヨンサンの日本軍施設はすべて米軍に接収された。

 1948年の大韓民国の建国とともに、これらの施設は米軍政庁から大韓民国政府に順次払い下げられることになった。ところが、1950年に朝鮮戦争が勃発し、国連軍として参戦した米軍はここに残されていた旧日本軍施設を拠点にした。そして、朝鮮戦争休戦後に韓米相互防衛条約が締結されると、それがそのまま駐韓米軍の基地となった。

 

 朝鮮戦争中、韓国には32万の米軍がいた。1957年には7万にまで減少したが、韓国駐留の米軍将兵の多くは龍山の基地内や、南山ナムサンの中腹、漢南洞ハンナムドン東部二村洞トンブイチョンドンなどに建設された「外人ウェイン住宅」に入居した。軍属やその家族などの軍関係者も基地周辺に暮らしていた。
 

 1950年代の終わりから1960年代には、梨泰院のメインストリート沿いに米軍関係者向けのショップや遊興・娯楽施設が軒を連ねた。それにつれて裏路地には怪しげな性風俗の店も増えた。

 

 1960年代後半から1970年代にかけては、泥沼のベトナム戦争の時期。韓国軍もこの戦争に派兵していた。韓国は「ベトナム反戦デモのない世界でも数少ない国」とされていた。梨泰院は、戦場帰りの米軍将兵の歓楽の街としても大いに「繁栄」することになった。
 

 1980年代、昼間の梨泰院は、衣類や皮革製品、螺鈿、アンティーク家具など、それに輸出用と称する衣料品や偽ブランド品などのショップが並んでいた。「日本への輸出品の横流しだ」と言われて私が買ったジーンズの洗濯タグをよく見てみると、「洗って下ちい」とプリントされていた…。

 暗くなると米兵相手の飲み屋、クラブ、ディスコのネオンが瞬き、異国の基地の街になる。米軍相手の店では支払いはその場でキャッシュ。時折、米軍のMPがパトロールしてはいるのだが、酔っ払いの喧嘩や交通事故は日常茶飯事。ハミルトンホテルの斜め前、消防署の横をあがったところの「テキサス村」は米軍専用の私娼窟として、よく探訪記事に登場した。昼間はまだしも、夜の梨泰院は韓国人でも近寄りがたい「外国軍の街」「不気味な街」だった。

 

「未成年者出入禁止」警告の中でセックス・幻覚剤など、よろめく白や黒の若者の犯罪地帯


 そうした特異性もあってのことであろう。韓国社会で疎外された人々がここに集まり始めた。「チャンミ」や「ボッカチオ」というオネエ系の飲み屋があったのも梨泰院。まだLGBTとかトランスジェンダーなどという呼び方もない時代だった。「ゲイバー」は、「退廃テッペ」の象徴としてしばしば警察の手入れを受けた。見せしめに「彼ら」の写真が新聞紙上に晒しものにされたが、「彼女ら」がそれにめげることはなかった。

 

  変貌した梨泰院

 1980年代に入ると、漢南洞寄りの方にブティックなどが徐々にでき始めた。ファストフードや軽洋食、本格コーヒーが飲める蘭茶廊ナンダランなどもでき、街の雰囲気が少しずつ変わり始めた。

 

 その大きなきっかけとなったのは、1983年の秋に相次いでソウルで開催された二つの大規模国際会議である。9月にASTA (アメリカ旅行業者協会)の総会が開かれ、10月にはIPU(国際議会連盟)総会が開かれた。ASTA総会では世界各国の旅行業者6,500人が、IPU総会では各国の国会議員など約600人が韓国を訪れた。

 

 民主化要求を圧殺して権力を握った全斗煥チョンドゥファン政権は、こうした行事を国際社会での地位向上に利用しようとした。すでにその2年前の1981年に「88夏季ソウル・オリンピック」の開催が決定していた。ところが、ソウル中心部の観光施設や食堂、ショップなどで、この時期に英語対応のできるところは限られていた。そこで目をつけられたのが梨泰院。ここなら英語での対応に慣れているし、昼間なら・・・・大丈夫。当局が目を光らせれば、ぼったくりもある程度は抑えられるだろうということで、商売マナーの改善キャンペーンを新聞紙上でも連日繰り広げ、梨泰院を外国からの訪問者のショッピング街に仕立て上げた。

 


 

 国外からの会議参加者がガイド付きのツアーバスで梨泰院を訪れ、これが一つの転機になった。韓国社会の梨泰院イメージが多少変わり始めたのである。

 

内国人が多くなった「梨泰院商店街」

安い市場が人気 青少年から中年層まで幅広い客層

 

 上述の「鯨とり」の撮影がポパイハウスの前で行われたのもこの1983年の秋のことだった。

 

 こうして、86年のソウルアジア大会、88年のソウルオリンピックに向けて、梨泰院は国際的観光スポットへと変貌し始めた。


 

 1989年3月の大韓ニュースでは、観光客が訪れるソウルの名所8ヶ所の5番目に、梨泰院を紹介している。

1分00秒から 88年のソウルオリンピックの時、多くの外国人観光客が訪れた梨泰院市場もソウルの8大名所一つです。

 

  米軍の街から脱却

 1990年代に入って、梨泰院が多国籍の観光地として次第にクローズアップされ始める一方で、米軍への依存度は急速に減少していった。

 

 実は、1980年代半ば以降、「反米のない韓国」は大きく変貌していた。きっかけは1980年5月の光州クァンジュ事件である。光州事件当時、韓国軍の作戦統制権は韓米合同参謀本部にあった。光州のデモ鎮圧に韓国戒厳軍を投入するにはアメリカ側の了解が必須だった。だから、光州での市民虐殺にはアメリカも大きな責任を負っているというのだ。1982年の釜山プサンアメリカ文化院放火事件、1985年のソウルのアメリカ文化院(現在のグレバンミュージアム:旧三井物産京城支店)占拠事件など、韓国社会の反米感情が徐々に表面化し始めていた。1988年になると、梨泰院でも大学生による反米ゲリラデモが行われ、10月には、酔った米兵がタクシーの運転手を殴ったことをきっかけに、米軍兵士と韓国人の乱闘騒ぎが起きた。この時、梨泰院の街頭では米兵40数名と韓国人100名余りが睨み合って一触即発の事態にまで至った。梨泰院での「在韓米軍」と「韓国」との関係が、それまでとは全く違ってきたことを示す出来事でもあった。

 


 2002年に、米軍の装甲車が女子中学生を轢き殺す事件を起こし、市庁前広場での大規模な反米ローソクデモに発展した。しかし、梨泰院ではそれ以前から米軍離れが確実に進行していたのである。

 

 

  観光特区と「異国情緒」

 1996年、ソウル市は梨泰院を観光特区に指定した。もはや米軍に依存する歓楽街ではなくなり、一般の観光客や韓国人の街になったことを象徴するものでもあった。

 


 2001年3月、地下鉄6号線の梨泰院駅が開業した。アクセスは格段によくなった。

 

 この頃には、実際にはもう「基地の街」という面影はほとんど残っていなかった。

 南山外人アパートナムサンウェインアパトゥは1994年に爆破解体されていた。「外人住宅ウェインジュテク」「外人アパートウェインアパトゥ」もすでに死語になりつつあった。龍山の米軍基地は、韓国側への返還プロセスが進み、龍山基地の軍人・スタッフは京畿道キョンギド平沢ピョンテク市のハンフリーズ基地に順次移動した。

 最終的に、2017年7月にアメリカ第8軍司令部が転出し、2018年6月に在韓米軍司令部が龍山から出て行った。多少の米軍施設は残ってはいるが、すでに以前の米軍基地ではない。

 

 しかし、今でも何かにつけて梨泰院は米軍基地と関連づけて語られることが多い。それがあたかも梨泰院のセールスポイントの一つでもあるかのように……。

 

 米軍相手の飲食店が多かった梨泰院のメインストリート北側には、様々な食文化や新しいコンセプトの飲食物を売りにする店が競って進出した。こうして、ハミルトンホテルの裏手の通りには、ベトナム料理、中東料理、ブラジル料理、中央アジアやアフリカの料理などいろいろな国のレストランが立ち並び、ここが「世界飲食文化通り」と称されるホット・スポットとなった。

 

  もう一つの梨泰院

 梨泰院にはもう一つの顔がある。メインストリートの喧騒とは全く対照的に、梨泰院の北側の一画には高級住宅街が広がっている。


 ハミルトンホテルの横から南山の中腹に向かって急峻な坂道を上っていくとハイアットホテルに出る。ホテルの前には1968年に開通した南山循環道路(素月路ソウォルロ)が南山中腹に横に走っている。この北側には以前は高層の南山外人アパートが2棟立っており、ハイアットホテルはその向かいに1979年にオープンした。このホテル建設の計画が持ち上がった時、いち早くその建設予定地の直下に土地を確保したのがサムソン財閥の創始者李秉喆イビョンチョル会長だった。1987年に会長が亡くなった後、その宅地跡にはリウム美術館が建てられ、それに隣接して李健煕イゴニ会長の邸宅があった。新世界シンセゲ李明熙イミョンヒ会長、農心ノンシン辛春浩シンチュウホ会長なども邸宅を構えていた。また、ノルウェー、デンマーク、ブルガリア、ベラルーシなどの大使館や大使公邸がここにある。同じ梨泰院といっても、南山側に坂を上ってこの一画に足を踏み入れると、梨泰院のメインストリート沿いの歓楽街とは全く別世界が広がっている。

 


 

 梨泰院の歴史を辿れば、侵略と戦争、そしてその後の紆余曲折に翻弄されてきたこの街が見えてくる。日本でも話題になったドラマ「梨泰院クラス」にも、その歴史の一端が反映されている。

 「繁華街」と呼ばれるようになった今でも、こうした成り立ちの梨泰院は、普通の人が日常的に足を向ける場所とはなっていない。外国人旅行者にとっても、そして多くの韓国人にとっても、いまだに怪しげな感じが付きまとい、それゆえ特別な日にかこつけて行ってみたくなる場所なのであろう。

  ハロウィーン行事のはじまり

 韓国でハロウィーンの行事が一般に広まったのは、2010年あたりからのようだ。最初は、英語幼稚園の外国人講師たちが園児向けのハロウィーン行事を始め、それがソウル市内の幼稚園全体に広まったという(2012年11月4日SBS NEWS)。

 

 韓国言論振興財団のデータベース(BIGkinds)で「핼러윈ハロウィン」「핼러윈ハロウィン & 이태원イテウォン」を検索してみると、ヒット数は以下のようになる。

 

 韓国のハロウィーンに関する記事以外もあるのだが、傾向としては2012年から報道記事数が増加する。「ハロウィーンと梨泰院イテウォン」の検索結果のうち、2004年と2006年は関連性がなく、梨泰院におけるハロウィーンの記事としては2012年が初出である。

 

  日本のハロウィーン

 日本では1980年代後半から90年代にかけて町おこしイベントや子供向けの仮装パレード行事などが徐々に各地で行われるようになった。1992年10月に、ルイジアナ州に留学していた日本人高校生がハロウィーン・パーティーに行く途中で家を間違って射殺されるという事件が起きた。この時、このニュース報道では、ハロウィーンとはどのような行事なのかという解説がまだ必要だった。

 「日本最大規模のハロウィンイベント」を自認していた「カワサキ ハロウィン」のホームページには、「日本でまだハロウィンが珍しかった1997年」に始められたと書かれている。

 2000年代に入って、ハロウィーンはカボチャと仮装の行事として日本社会での認知度は高まっていった。

 

 そんな中で、渋谷でハロウィーン「騒動」が起きたのが2014年。

 上述の「カワサキ ハロウィン」は、「2015年頃からは、過熱化したハロウィンブームに警鐘を鳴らすネガティブな報道」が多くなったなどとして、2020年に開催の終了を宣言した。

 

  梨泰院のハロウィーン

 韓国のハロウィーンは、日本とは少し違う流れで広まっていった。

 

 2011年、アメリカのビールMiller Genuine Draftを販売する韓国ミラーが、ハロウィーンに合わせて、梨泰院や弘大ホンデなどのバーやラウンジ、クラブなどを巡ってまわるイベント「Shine in the Dark」を始めた。2013年には、当時若者たちのホットスポットだったラボ・グリル5タコ・イグアナ・123ラウンジなどの店とタイアップして20代の若者をターゲットにしてイベントを盛り上げた。

 

 

 2013年には、酒類販売のアヨンFBCが新しいワインのお披露目をかねたハロウィーンイベント「サンテロ モンスター ナイトパーティー」を梨泰院のラウンジ、クラブで開催した(와인21미디어 2013.10.25)。また、フィアットがコンパクトカーのチンクエチェント宣伝のハロウィーン・ロードパーティを行った(아시아경제 2013.11.01)。

 

 この頃には、梨泰院や弘大の居酒屋やクラブを中心に多くの店でハロウィン・パーティーが開催されるようになった。

 

 2014年には、流通業界の「ハロウィーン・マーケティング」や酒類業界の「お祭マーケティング」が話題になっている。さらに、いくつかのマスコミがハロウィーンには梨泰院へ…という記事を掲載している。

 

ハロウィーンの由来と風習に韓国もノリノリ~「梨泰院に集まれ!」

 しかし、この2014年の梨泰院のハロウィーンは、無秩序な多数の人々の行動を問題視する最初の報道となった。

 

「ハロウィーン」の群衆が夜の街を占領…無秩序に事故まで
KBS 2014/11/01

 

 奇しくも、日本でも韓国でも、ハロウィーンの「過熱化」が問題となったのが2014年だった。

 韓国ミラーは2016年でハロウィーン・イベントから撤退している。

 


 

 6回の「過熱化」したハロウィーンの後、コロナウィルスの蔓延によっていったんは「冷却」されることになった。

 しかし、韓国では「冷却」期間が終わった2022年の10月末は、異常なまでに人々が梨泰院に押し寄せた。梨泰院にあまり土地勘のない多くの人が、ネット上でホットプレースとされる場所に集中したことも一因ではなかろうか…

 

 亡くなった方のご冥福をお祈りする。

 日本語のキーボード入力はアルファベット入力が主流で、漢字変換をしながら入力する。それに対し、韓国語の場合は、キーに配列されたハングルの子音キー・母音キーをたたいて入力し、漢字変換はしない。韓国語の入力でも、ローマ字入力とか漢字変換もやろうと思えばできるのだが、ほとんどやらない。ハングルは、24文字(近代半ばまでは25)の母音字と子音字の組み合わせなので、キーボードのキーに無理なくおさまる。

ㄱㄴㄷㄹㅁㅂㅅㅇㅈㅊㅋㅌㅍㅎ ㅏㅑㅓㅕㅗㅛㅜㅠㅡㅣ(・)

 

 今の韓国語入力は、文字の切れ目を意識することなく子音や母音を連打していく2ボル式が主流で、自動的に文字を整形してくれる。例えば,「ㅇㅏㄴㄴㅕㅇ」と打てば「안녕」と表示される。

ハングルシールを貼った私のiMacのキーボード
 

 スマホでも、タッチパネルから子音と母音を入れる。母音は「天・」「地 _ 」「人|」の三要素からできているので、「人|」+「天・」で「ㅏ」、「天・」+「人|」で「ㅓ」、「天・」+「地 _ 」で「ㅗ」といった原理に基づいて入力する「天地人方式」。これだと3つのキーだけで母音を全て入力することができる。

 

 日本語は、かなだけでも46個の字形があり、漢字かな混じり文でなければ実用にならない。だから、機械式のタイプライターで日本語の文章を打つことは不可能だった。コンピューター時代になり、漢字変換がある程度スムーズにできるようになって、はじめてキーボードからの日本語入力が一般化した。

 

 一方、韓国語・朝鮮語では早くから機械式タイプライターでの入力の試みがなされてきていた。

 ここでは、1934年に宋基柱ソンギジュが開発したハングル打字機タジャギを中心に、ハングルタイプライターの開発史とその意味するところ、時代背景について考えてみたい。

 

  初期のハングル打字機

 宋基柱ソンギジュが、自らが開発したハングル打字機を引っさげてアメリカから帰国したのは1934年。その打字機については後述するが、その時、朝鮮語の新聞や雑誌でこの話題が大きく取り上げられた。

 その中の一つ、朝鮮中央日報社の雑誌『中央』1934年4月号の記事「ハングルタイプライターの完成」が、それまでの打字機の開発略史に触れている。

 

ハングル打字機は、今から20年あまり前に、在米韓国人李元益イウォンイク氏が考案してニューヨークのレミントン社で製作したものが嚆矢だった。しかし、このタイプライターは、キーが88個もあって使い勝手が悪かったうえ値段が高かったので広く使われることがなかった。その後、今から15年前には、延禧ヨニ專門學校の H.H.アンダーウッド氏が、彼の伯父が経営するニューヨークのアンダーウッド・タイプライター工場で巨額の費用を投じて開発にあたったが、なかなかうまくいかず実用化されることなく終わり、それ以来十数年間はハングル打字機を完成させるのは不可能といわれていた。

 李元益が製作したとされるハングル打字機については、李昇和イスンファの『模範ハングル打字』(教学図書、1973)に、1914年に製作された機械と当時の宣伝文が紹介されている。

朝鮮の進歩の様相に□□□□
すべての前進する韓人は、諺文で文字を書く機械が出来上がったこと、そして最新式のスミス・プレミア10号の文字を書く機械が買えることを知れば、さぞ喜ぶことであろう。
とても使い勝手が良くて非常に堅固なことで有名なこの機械に新しい改良が全て備わっており、今日の朝鮮は、これを機会に、進歩と安寧に多くの助けを受けている世界の国々とも肩を並べた。
この広告文は、スミス・プレミアの諺文機械で書いたものを転写したものだ。
スミス・プレミアの諺文と英書の機械の値段や、更に詳しいことが知りたければ、下に記載した所にお尋ねいただきたい。


Smith Premier No.10


 1913年にスミス・プレミア社はレミントン社の傘下に入ったため、上掲の記事では「ニューヨークのレミントン社で製作」となっている。

 

 広告文は縦書きになっているが、タイプライターのハングル活字を90度回転させたものを下図のように横向きに打字する構造になっていた。

 ただ、上掲の記事にもあるように、李元益の打字機は広く普及するまでには至らなかった。確かに、これはキーが多すぎる…。

 

 雑誌『中央』には、「延禧專門學校のH.H.アンダーウッド氏が、彼の伯父が経営するニューヨークのアンダーウッド・タイプライター工場で巨額の費用を投じて開発にあたった」ともあった。

 

 H.H.アンダーウッド(Horace Horton Underwood)は、延禧專門學校(現在の延世ヨンセ大学の前身)を創設したH.G.アンダーウッド(Horace Grant Underwood)の息子で、のちに延禧專門學校の校長になっている。父 H.G.アンダーウッドの兄 J.T.アンダーウッドは、ニューヨークでアンダーウッド・タイプライター社を経営していた。1916年10月に H.G.アンダーウッドが死去すると、J.T.アンダーウッドは延禧專門學校に巨額の寄付をした。延禧専門学校はその資金で高陽コヤン延禧ヨニ面に土地を取得し(現在の延世大新村シンチョンキャンパス)、1918年に新たな校舎が完成した。

 

 この校舎新築の頃に、H.H.アンダーウッドは叔父のJ.T.アンダーウッドの会社に依頼してハングルタイプライターを開発しようとしていた。後年、1933年のハングル打字機の需要調査の際、H.H.アンダーウッドは自身のハングルタイプライター開発に言及している。

 

『中央』1934年4月号

朝鮮社会の特徴は無知と貧窮だ。ハングル打字機は、私も以前考案したことがあったが、社会が必要性を感じず、また感じたとしても購買力がない。

(同上。延專副校長 H.H.アンダーウッド氏の意見を聴取したもの )

 当時の朝鮮社会の実情では、巨額の開発費を投じて商品化しても普及させるのは無理と判断したのであろう。

 

  宋基柱の横打ち横書き打字機

 ちょうど H.H.アンダーウッドがハングル打字機の開発を試みていた頃、宋基柱ソンギジュという学生が延禧專門學校の農科に在学していた。卒業後、しばらく元山ウォンサン保光ポグァン学校で教師をしたのち1925年にアメリカに留学。シカゴ大学で地理学、テキサス州立大学で生物学を学んだ。延禧專門學校で英文タイプライターに触れたことのあった宋基柱は、渡米後、ハングル打字機の開発に取り組んだ。

 

 最初は、重母音も終声も横並びで打つハングルの「横書打字法」を考案して、ハングル打字機を製作した。1929年1月17日付の『東亜日報』にこの打字機の記事がある。

朝鮮文橫書打字機發明
在米宋基柱氏の発明
今から五年前に延禧専門学校を卒業して米国に渡り、ヒューストン大学を卒業し、現在シカゴ大学で研究中の平安南道江西生まれの宋基柱氏は、長年問題だった朝鮮文横書法とタイブライター印刷機械を開発して米国政府特許局に申請した。字体がうまくできていてこれを普及させるためアメリカ在住の同胞で朝鮮打字機販売会社、朝鮮文改良協会を組織して宣伝に努力している。打字機の価格は事務室用115円、ポータブルが97円50銭程度である。

 ただ「横書」といっても、今のように整形されたハングルが横に並ぶのではなく、子音/母音をそのまま横並びに打っていくものであった。

 

『中央』1934年4月号

ㅇㅣㄴㅅㅑㅎㅏㄱㅓㅣ ㄷㅗㅣㅁㄴㅣㄷㅏ

ㅎㅏㅅㅣㅁㄴㅣㄲㅏ?

 初声の下に母音を打ったり、終声の位置に子音を打つことをせずに、全てを横に並べた。今だったらこのようにキーを叩けばコンピューターが整形して表示してくれるのだが、この時代のこの方式では、人間が頭の中で「인샤하게됨니다」「하심니까?」と整形して読む必要があった。結局この方式は人々に受け入れられなかった。

 

 宋基柱は、1935年1月号の『新東亜』でこの打字機についてこのように回顧している。

最初は先走ってしまって、英文のアルファベットのようにハングルを横書き式に打っていく打字機を作ったが、結局は時期尚早で実際の使用には向いておらず、多くの努力と時間、それに多くの経費を浪費しただけで失敗しました。

 

  横打ち縦書き打字機

 宋基柱は、横書打字機の失敗から、横向きにしたハングル活字を横向きに打字して、縦書きとする方式を考案した。原理的には李元益の打字機と同じだが、シフトキー(웃글자)を使うことでキーの数が42個の文字キーと2個の移動キーと少なくなっており、漢数字と句点も割り付けられていた。

 

 

 1933年にこの打字機を完成させ、ニューヨークのアンダーウッド・タイプライター社で生産することになった。1934年1月24日付の『東亜日報』は、このハングル打字機で打った縦書きのハングル文とともに開発者宋基柱(記事中の宋基周は誤記)と打字機の紹介記事を掲載している。

 

 宋基柱は2月27日に、アンダーウッド・タイプライター社で製作した打字機を携えて帰国した。3月1日には、ポータブルの打字機を携えて朝鮮日報社を訪問している。そこで打ったと思われる鄭圃隱チョンポウンの詩が掲載された記事が出ている。

 

 

 注目されるのは、3月20日に敦義洞トニドン明月館ミョンウォルグァンで開かれた「朝鮮文打字機完成祝賀会」である。その発起人には、東亜日報社の創立者金性洙キムソンジュ、社長宋鎮禹ソンジヌ、毎日申報の理事李相協イサンヒョップ、朝鮮中央日報の社長呂運亨ヨウニョンなど言論界の重鎮、それに尹致昊ユンチホ李光洙イグァンスなど著名な文化人が名を連ねていた。

 

 

 その後、5月12日付の『東亜日報』には、鍾路二丁目91番地の宋一ソンイル商会の朝鮮文字打字機の宣伝が掲載された。

 

 さらに、西大門町の三洋サミャン社がアメリカから輸入した大小のハングル打字機を10月15日から21日まで鍾路の和信百貨店で展示している。和信百貨店といえば、三越・丁子屋・三中井という内地資本の百貨店と肩を並べる朝鮮人資本の百貨店であった。

 

 

 翌年10月には、金秉㻐キムビョンジュンが239円で販売されていた宋基柱のハングル打字機を朝鮮語学会に寄贈している。金秉㻐は、宋基柱と同じ平安南道江西の出身で、明治大学を出て京城で大同テドン興行の専務だった人物。当時の239円は現在の価格では約50万円というところだろうか。

 

 

 1936年の『東亜日報』の年頭の特集の一つ「最近の発明界の面々」でも、この宋基柱とハングル打字機が取りあげられている。

 

  受難のハングル打字機

 ところが、これ以降ハングル打字機についての記事はなくなっていく。1936年7月14日の『東亜日報』に、「以前貴紙でハングル打字機の発明についての記事があったが、これはどこで製造販売しているのか」という読者からの問い合わせがあり、それに対して「発明者と特約しているアメリカのとある会社で製造している」というそっけない回答しかしていない。それまで熱心にハングル打字機について報じていた『東亜日報』なのに、宋基柱の名前も、アンダーウッド・タイプライター社の名前も出していない。ひょっとすると、朝鮮での販売が難しくなっていたのかもしれない。

 解放後の1949年の『東亜日報』は、宋基柱の打字機は、30台が輸入されたが、「当時は敵治下(日本による植民地統治下)だったため発展させられなかった」と伝えている(1949年4月24日付)。

 

 1930年代になると、朝鮮総督府は「国語」の普及に力を入れ始めた。すなわち、朝鮮語の使用を抑制して日本語を使用させる動きを加速していた。そんな時期に完成した宋基柱のハングル打字機に朝鮮人の言論人や文化人が強い関心を示し、歓迎したのは、そうした流れに危機感を強めていたことも一因だったのかもしれない。

 しかし、1936年年末からは、大々的に「国語常用」のキャンペーンが始まり、朝鮮語を排斥して日本語だけを使わせる方向に向かった。

 

 

 これ以降、ハングル打字機への表立った販売や、開発・改良の試みは難しくなったものと思われる。

 

  植民地支配の終焉とハングル打字機

 日本の敗戦によって植民地支配が終わると、再びハングル打字機の使用と開発が一気に始まった。      

 米軍政下の文教部ではアメリカのレミントンランドのハングル用新打字機8台が稼働しており、200台以上をアメリカに発注したという記事が1948年3月の『工業新聞』に出ている。

 

 

 商務部でもハングル打字機の図面が作成されて、新しい機械が考案されようとしていた。

 

 

 一方、1930年代に実用化されたハングル打字機を考案した宋基柱も、印字間隔などを修正し、1分間に160字打てる改良型の新機種を開発し1949年にアンダーウッド・タイプライター社に製造を委託した。

 

 

 このようにハングル打字機が急速に関心を集め、競って開発も行われるようになったのだが、印字方法やキーの配列などは、それぞれの開発者によって異なっていた。

 そうした状況を憂慮したためであろう。1949年3月に、朝鮮発明奨励会の主催で、ハングル打字機の懸賞募集が行われることになった。審査員は、文教部・逓信部・商工部・交通部・語学会・工科大学・記者会・商工会議所・タイピスト協会から推薦されるという大掛かりなものであった。

 

 

 この懸賞募集では、ハングル打字機4機種が選ばれたのだが、その中に眼科医の公炳禹コンビョンウが開発したものがあった。

 

 

 この打字機は、整形されたハングル文字を横書きで打っていくという方式で、朝鮮戦争開戦前の1950年に、韓米援助協定の資金を得て、アメリカのアンダーウッド・タイプライター社に大量発注された。


 

 1953年7月に朝鮮戦争の休戦協定が結ばれた時、その韓国語の部分は公炳禹のハングル打字機で打たれたものだ。終声(パッチム)がないものは上寄せになり、行の下のラインが凸凹になる。

 

 

 ちなみに、1930年代に、最初に普及型のハングル打字機を開発した宋基柱は、朝鮮戦争の最中に北朝鮮の人民軍によって北朝鮮に連行され、その後の消息はわかっていない。

 

  その後

 日本の植民地支配が終わって4〜5年で、横書きで横配列のハングル文字を印字できるタイプライター(打字機)が開発され、広く普及するようになった。しかし、入力方式やキーボード配列については紆余曲折があった。

 

 公炳禹の打字機は、初声の子音と母音、それに終声(パッチム)がある場合には下に子音を打つ3ボル式であった。

 しかし、1969年の政府のキーボード統一案では、4ボル式が採用された。4ボル式は初声の子音・終声のない場合の母音・終声のある場合の母音・終声の子音のキーが配置されている。

 

 

終声の有無で母音の長さが変わるため、3ボル式よりも行の凸凹感がやや少なくなる。

 

 そして、1984年には、電動式タイプライターからコンピューター入力の時代へと移行していく中で2ボル式の子音と母音だけのキーボードが統一のキー配列とされた。しかし、まだ機械式の打字機も多かったこともあり、さまざまな論争が巻き起こった。

 

 

 それらについては、また別の機会に…