映画「モガディシュ」—その時代背景— | 一松書院のブログ

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 映画「モガディシュ」の公開を機に、1991年のあの時代と、1990年代に至るまでの南北朝鮮の関係について整理しておこう。

 10年が「ひと昔」なら、もう「み昔」ということになる。

 

  1991年1月

 1991年1月、盧泰愚ノテウ大統領は年初の記者会見で単独での国連加盟申請も辞さないと言明した。

 

 1991年1月17日、アメリカ・イギリスをはじめとする多国籍軍がイラクを空爆して湾岸戦争が始まった。

 

 1991年1月 30日、日朝国交正常化のための第1回目の本交渉が平壌で開かれた。前年9月に北朝鮮を訪問した自民・社会両党代表団(金丸・田辺訪朝団)に北朝鮮の国家主席金日成キムイルソンが国交正常化交渉の開始を提案して始まったものだった。

金丸信・金日成・田辺誠(1990年9月 妙香山招待所にて)

 


 そんな1991年の1月。ソマリアの首都モガディシュでは、内戦の混乱の中から南北朝鮮の外交官や居留民が、ソマリアからの国外脱出を試みていた。

 

 1月13日、韓国大使館関係者と在留韓国人6名、そして北朝鮮の大使館員とその家族13名が、同じイタリア軍用機に搭乗して隣国ケニアへの脱出に成功した。

 

 映画「モガディシュ」は、その実話をもとに製作された。

 

韓国映画『モガディシュ 脱出までの14日間』日本版予告編

 

  南北朝鮮と国連

 1948年12月12日の国連総会決議第195号(III)で、韓国は「朝鮮臨時委員会が観察・協議できたところの北緯38度線以南における・・・・・・・・・・・唯一合法政府」とされた。

 

 

 朝鮮戦争が1950年6月25日に勃発すると、7月7日の国連安全保障理事会で「安保理決議84」が可決された。この時、ソ連は中国代表権問題で欠席したため拒否権を使えなかった。韓国を支援する国連加盟国の軍はアメリカ軍の指揮下に置かれ、国連の旗を使用することになった。すなわち、「国連軍」が朝鮮戦争の当事者になった。

 1953年、国連軍と北朝鮮人民軍・中国義勇軍との間で休戦協定が成立した。

 

 その後、韓国も北朝鮮もそれぞれ国連加盟を画策した。しかし、国際情勢の変化や南北双方の思惑もあって、国連加盟は実現しなかった。


 1973年、韓国の朴正煕パクチョンヒ大統領は、南北朝鮮の同時加盟に反対しない意向を示した。韓国だけが朝鮮半島での「唯一合法国家」という主張を棚上げして、南北二つの国家がそれぞれ国連に加盟することを容認する方針を打ち出した。

 

ヘッドラインは「南北朝鮮の国連同時加盟に反対しない」

 

 ところが、北朝鮮の金日成は、南北別々ではなく、「高麗コリョ連邦」という一つの国家として国連に加盟することを逆提案した。



 南北それぞれを支持する加盟国数が拮抗していた1975年の国連総会では、韓国が単独で加盟申請をした案が否決された。これ以降、南北ともに加盟申請を棚上げせざるを得なくなった。


 この当時、北朝鮮は非同盟諸国会議のメンバー国として、アフリカなど発展途上国と緊密な外交関係を築いていた。一方、韓国は西側先進国との関係を優先していたため、「第三世界」の途上国の国々との外交関係においては北朝鮮に大きく遅れを取っていた。

 

  ソウル五輪と第三世界諸国外交

 1982年、バーデンバーデンのIOC総会で88年夏季オリンピックのソウル開催が決まった。

 


 1983年時点で、南北朝鮮のそれぞれと外交関係を有する国家数は、韓国が120カ国、北朝鮮が104カ国。ただ、アフリカ諸国に限ってみると、北朝鮮の40カ国に対し、韓国は28カ国、さらに韓国と国交のあるアフリカの国々の大半は北朝鮮とも外交関係を持っていた。

大:大使館設置 外:外交関係のみ 領:領事館のみ
1983年11月現在(在韓国日本大使館)

 

 オリンピック開催が決まった韓国は、アフリカの国々と強い結び付きがあった北朝鮮に対して外交攻勢をかけた。アフリカや東南アジアの発展途上国へ積極的な外交攻勢に打って出たのである。

 

 そうした中で起きたのが、1983年にミャンマーを訪問した全斗煥チョンドゥファン大統領の暗殺を狙ったアウンサン廟爆弾事件である。この事件は北朝鮮工作員による犯行とされ、ミャンマーは北朝鮮と国交を断絶し、南北朝鮮の関係は極度の緊張状態に陥った。

 

 

  洪水支援からの南北交流

 その翌年、1984年の9月の集中豪雨で漢江が増水し、ソウル市内を流れる中浪川チュンナンチョン城内川ソンネチョンが氾濫して市内各所が水没する水害が起きた。この時、北朝鮮の赤十字から支援物資の提供の申し出があった。韓国側は当然「いらない」と断るものと思われたが、全斗煥政権は意外にもこれを受け入れた。この南北間の想定外の接触が契機となり、翌1985年には、朝鮮戦争によって離ればなれになっていた「離散家族」の南北相互訪問と再会が実現した。北朝鮮の人々の姿や平壌の街並みが韓国のテレビにも映し出された。

 

 

 その後の1986年のソウルアジア競技大会、1988年のソウルオリンピックでも、南北の共催や合同チームの実現などに大きな期待がかかったが、結局実現には至らなかった。

 

  ソマリア脱出

 ソマリアは、北朝鮮とは1960年の独立当初から外交関係があった。韓国は、1987年になって経済援助などを条件にして国交樹立に持ち込んだ。12月、首都モガディッシュに初代大使の姜信盛カンシンソンが着任して大使館が開設された。

 


姜信盛大使の外交官証(SBS [꼬리에 꼬리를 무는 그날 이야기] より)


 世界各地に置かれていた韓国の在外公館では、トップの大使や総領事には外交部の外交官が任用されたが、No.2のポストには、情報機関である安全企画部(旧中央情報部)の要員が就くのが通例であった。

 ソマリアの韓国大使館でも、No.2の参事官は安企部の李昌雨イチャンウ(映画では、チョ・インソンが演じている)、そしてチョ・マンシク扮する書記官は外務部のノンキャリ外交官という設定である。


 1988年に大統領に就任した盧泰愚ノテウは、北朝鮮と密接な関係にあった「第三世界」諸国に食い込むと同時に、東側陣営の国々との外交関係構築を模索する「北方外交」を積極的に展開した。時あたかもソ連ではゴルバチョフのペレストロイカ(改革・開放)が始動し、ベルリンの壁が崩壊して東欧の国々が体制変動の最中にあった。南北朝鮮を取り巻く国際環境も新たな段階に移ろうとしていた。

 1990年6月の盧泰愚・ゴルバチョフ会談で国交樹立に原則合意がなされ、9月30日には韓国とソ連の国交が樹立された。これを機に、韓国は国連加盟申請に向けて動きを加速させた。国連総会での票を確保するため、特にアフリカなど第三世界の国々への働きかけを強めていた。

 

 盧泰愚大統領が1991年1月の年初の記者会見で、単独での国連加盟申請も辞さないと明言したのにはこのような背景があった。
 

 ちょうどその頃、アフリカ大陸の東端に位置するソマリアでは、反政府武装勢力の統一ソマリ会議(USC)が首都モガディシュを制圧し、1980年に就任して統治を続けてきたバーレ大統領は国外に逃亡した。
 

 1991年1月7日に、ソマリア在留外国人脱出のための休戦が成立したが、この休戦期間中に韓国と北朝鮮の大使館関係者や在留韓国人は脱出できなかった。

 

 

 モガディシュの混乱のまっただ中に取り残されてしまった韓国と北朝鮮の関係者は、互いに助け合って窮地を脱することになった。

 

 冷戦が終焉を迎えつつあった1990年代初頭、南北間の接触や交流は1980年代半ばに始まってはいたものの、南北双方の相互不信は根強く、疑心暗鬼の中にあった。北朝鮮から韓国側に「転向」した人は「帰順クィスン者」と呼ばれ、多額の報奨金が与えられた。しかし「帰順」するものは多くはなかった。韓国の情報機関は、「帰順」させれば自分たちの手柄になった。ちなみに、北朝鮮から韓国に逃れてくる人々を今は「脱北タルブック者」と呼ぶが、「脱北」という言葉が使われるのは1994年以降のことである。
 

 当時、北朝鮮の友好国だったエジプトには北朝鮮の大使館はあったが、韓国は居留民保護のための領事館があっただけだった。一方、ケニアのナイロビには韓国大使館はあったが、北朝鮮は大使館を置いていなかった。ソマリアの旧宗主国イタリアは、韓国とは国交があったが、北朝鮮とは外交関係がなかった。イタリアが北朝鮮と国交を樹立するのは2000年1月のことである。

 

 そうした中、1月13日未明(韓国時間)、韓国大使館関係者と在留韓国人6名が航空機でケニアに脱出し、同じ飛行機で北朝鮮の公館員とその家族13名も脱出した。日本の新聞も小さくではあるが、ソマリアからの外国人の脱出を報じた。

 

 

映画「モガディシュ」—脱出その後— に続く…