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一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

 『東亜日報』の1924年6月28日付に掲載されている「洞・町内の名物」は、嘉会洞カフェドン翠雲亭チュィウンジョン(취운정)。場所的には、韓国人ばかりでなく外国人にも大人気の「北村ブッチョン」に位置する。

 

◇風が水音なのか、水音が風なのか。嘉会洞の深い山間に松風が涼しげに湧き水の音がする。ここが翠雲亭なのです。今は未熟な子供たちが駆け回り、詩人墨客の遊び場になっていますが、昔を思い起こせば古きを懐かしむ思いが湧いてきます。
◇今から約7~80年前、娘が昌徳宮殿下(後の純宗)と結婚した閔杓庭公(閔台鎬)が権勢を振るっていた時分に、翠雲亭と四角亭 白鹿洞の亭子あずまやを建てて、花咲く春と月の明るい秋に、暇を持て余した人々とともに酔って楽しみ興じたところです。世の中は移ろいやすいもの、一人だけの楽しみがいつまでも続きましょうか。その後、大院君の側室であった白鹿洞のお方様がここで何年間か暮らし、亡くなった後は一時李王殿下の御料所になり、その後、漢城倶楽部となりました。日韓併合で国が滅びた時に、貴族たちが弓を射たり遊ぶ場所となりましたが、また時代はめぐって朝鮮貴族会の所有となり、最近は市民の所有地となって何日か前からは同盟休校の学生たちの会議場所になっています。歳月の移り変わりとともに主人も変わりましたが、翠雲亭の亭子あずまやは変わることなく昔を物語っているようで、青麟洞天の岩の下に流れる薬水だけがサラサラと…

 

 この翠雲亭はどこにあったのか。そして、どのようなものだったのか。

 

  翠雲亭の位置

 マウルバスが走っている北村のメインストリートを北に上がっていくと監査院カムサウォンの前に出る。監査院の建物の前の歩道に、ソウル市が設置した「翠雲亭跡」のプレートがある(下掲地図B)。

 


 

 このプレートには、1870年代の中盤に閔台鎬ミンテホが翠雲亭を建てたとある。『東亜日報』の「洞・町内の名物」の記事に「7~80年前」とあるのは明らかに誤りで、「(閔台鎬)の娘が王世子(後の純宗)と結婚して権勢を振るった」とあり、結婚が決まった1878年前後に翠雲亭が建てられたということだろう。

 

 しかし、1972年3月29日付の『朝鮮日報』の「洞里散策 翠雲亭」では、別の場所にあったと記されている。この記事には次のようにある。

鍾路区嘉会洞1-5、李庭林イジョンニム(大韓船舶代表)氏の家は、昔の翠雲亭跡だ。周りには松の木が茂り、水が澄んで王が行幸する時はここで休むのが常だった。

 

 翠雲亭があったとされる「嘉会洞1-5」は、現在「北村ブッチョンヒルス」が建っている場所である(上掲地図参照)。

 

 『朝鮮日報』のこの記事によれば、植民地統治下の1930年代に全用淳チョンヨンスンがここを買い入れ、亭子あずまやを撤去して2階建ての洋館1棟と韓屋2棟を建てたという。全用淳は、植民地統治下で金剛製薬会社を設立した実業家で、解放後は経済界だけでなく政界でも名を馳せた人物。

 

 ただ、全用淳がここを買う前の1928年に、当時ここを所有していた朝鮮貴族会が売りに出し、東京の日本人富豪が翠雲亭を買い取ったとも報じられている。この契約が反故になったのか、あるいは全用淳が日本人から買い戻したのか…。はっきりしない。

 

 

 解放後、1960年になって全用淳からここを買い取ったのが李庭林。李庭林は、国産セメントを製造する大韓洋灰テハンヤンフェ会社で成功を収め、1990年に死去するまでここに住んだ。彼の死後、相続税が当時の最高額ということで話題になった。そのために遺族がここを手離すことになったのだろう。

 

 1972年の『朝鮮日報』の記事は、嘉会洞の古老の話などもあって場所的にはそれなりの信憑性がある。ソウル市の「翠雲亭跡」のプレートは、そこから200メートルほど離れた場所に設置されている。ただ、後述するように、翠雲亭と呼ばれたのは、亭子あずまやだけでなく、居住が可能な韓屋を含めた建造物にも使われており、かなり広範囲の建物の呼称であった可能性がある。監査院前の「翠雲亭跡」のプレートが必ずしも誤りというわけではなさそうだ。

 

  甲申政変と翠雲亭

 1884年12月4日、金玉均キモッキュン朴泳孝パギョンヒョなどの急進開化派がクーデターを起こし、クーデター勢力が確保した国王高宗コジョンの身辺警護に日本の公使竹添進一郎が日本軍を率いて赴いた。しかし12月6日の午後、呉兆有・袁世凱が率いる清軍が昌慶宮チャンギョングン側から昌徳宮チャンドックンに迫ってきたため、高宗を秘苑ピウォン北側に避難させた。

 高宗は北門から王宮を出て北廟プンミョ(現在の明倫1街のソウル国際高校)に脱出しようとした。竹添進一郎と急進開化派メンバーは、これ以上高宗を奉じてクーデターを続けることは無理と判断して高宗を北廟に送り出し、竹添進一郎や日本軍は日本公使館に戻ることにした。金玉均・朴泳孝・徐光範ソグァンボム徐載弼ソジェピルなどがこちらに同行した。

 この時の日本公使館は、現在の天道敎中央大敎堂のすぐ南側、慶雲洞キョンウンドン75にあった。

 

 竹添公使以下の日本公使館員と日本軍そして急進開化派メンバーが、清軍に追われるようにして暗闇の中を秘苑北側の山道を伝って出たところが翠雲亭であった。

 

 信夫淳平の『韓半島』(276コマ)にはこのようにある。

時に夜色暗澹として咫尺を辨せず、一行之れを機とし、即ち宮闕の北門を出づ、樋口・上野の両陸軍語学生、其間道を知るの故を以て斥候兵に先だち之れが嚮導たり。経路峻嶮を極め、一歩一跌漸くにして翠雲亭に出づ、此に至りて我が公使館を僅に煙焔の間に見るを得たり。一同是に於てか勇を鼓し、進んで斎洞に出て統理衙門の前路を過ぐ、此時韓民左右より挟んで瓦礫を乱投し、甚しきは銃を放つものあり、先鋒の面高中尉之れに中って倒る、部下の兵士之れを扶助し、進んで十字街に出づれば公使館は僅に二町を出でざる距離にあり。

 今では、建物が邪魔をして北村ヒルスあたりから安国駅方面を見通すことはできないが、この当時は日本公使館は見えたはずだ。統理衙門トンニアムンは、現在の憲法裁判所の場所に設置されていた。

 

 その後の状況について、当時の関係者の証言が『京城府史』(314コマ)にこう書かれている。

公使館守備の人々は王宮に赴いた日軍は敗戦の結果全滅したと云う噂を聞き不安の念に襲われつゝある時(午後7時30分頃)支那朝鮮の兵が前後三回も公使館に来襲し剣を振って門内に乱入した。大庭永成等漸くこれを打ち退けた頃、公使の一行が公使館指して帰りつゝあるを見、敵兵再び来襲すると誤認し、予て公使館敷地内の南方に領事館建築のため準備してあった松の丸太材に拠り盛に一行を射撃した。先頭の語学生上野茂一郎・下士飯田須太郎・卒一名の三人は、無残にも味方の弾丸に当たって不帰の客となり金玉均・朴泳孝の両名も負傷した。暫くしてラッパの吹奏を聞き始めて相方共味方になることを知り射撃を中止し、午後八時一行は漸く公使館に入る事を得た。

 多分、金玉均や朴泳孝は翠雲亭あたりの道を熟知していて、グループの前方で道案内をしていたため、公使館直前の同士討ちで負傷したものと思われる。

 

 甲申政変と翠雲亭の関係については、上掲の1972年3月の『朝鮮日報』の記事でも触れられており、さらにこのように言及されている。

40年前、洋館・韓屋が建設されて徐々に変貌し始めた翠雲亭周辺の地域には、今や豪華な邸宅が立ち並んでいる。日本が甲申政変を背後で操っていたのだが、皮肉なことに、その日本の大使公邸が翠雲亭の跡地の南側に塀を接して建っている。

 1965年に韓国と国交を結んだ日本は、当初、大使館を半島ホテルに置いた。大使館は1970年に中学洞に新築され、大使公邸は、李庭林の邸宅、すなわち翠雲亭跡地の南側にあり、1972年に現在地の城北洞に移った。嘉会洞の公邸はサウジアラビアに売却され、現在はサウジアラビア大使公邸になっている。

 

  亭子あずまやと韓屋

 この甲申政変で公使館への撤退ルートにあった翠雲亭は、下の写真にあるような亭子あずまやだった。

 

 ところが、「洞・町内の名物」の記事には、

大院君の側室であった白鹿洞のお方様がここで何年間か暮らし

とあり、それなりの身分の人が暮らすことができる「翠雲亭」と呼ばれた建物がこの亭子あずまやのそばにあったことが窺える。そればかりではない。甲申政変の時にアメリカに留学していて1885年に帰国した兪吉濬ユギルチュンが、帰国後に急進開化派とのつながりを疑われて1892年まで幽閉されたのが翠雲亭だった。ここで兪吉濬は『西遊見聞』を執筆した。その翠雲亭は、亭子あずまやではなく、居住が可能な建物だったということになる。

 

  尹益善の京城図書館

 それを示すもう一つの事例がある。

 1920年11月27日に尹益善ユンイクソンが「京城図書館」を設立したと『毎日申報』に報じられた。その図書館が置かれたのが翠雲亭であった。

 

 

 普成ポソン専門學校の校長だった尹益善は、3・1運動を国の内外に伝える新聞を印刷・配布したとして刑務所に入れられ、出所したのちに朝鮮の青年を啓蒙するために「京城図書館」を開設した。

 この図書館については、『大阪朝日新聞』の朝鮮版が写真入りで報じている。

 

 

 この写真の建物が、居住が可能な「翠雲亭」ということになる。

 

 尹益善の京城図書館は、その後李範昇イボムスンがパゴダ公園(現タプコル公園)西側の旧大韓帝国軍楽隊の施設に開設した「京城図書館」に引き継がれたが、1923年7月28日に李範昇の「京城図書館」新館が完成するとともに、翠雲亭の京城図書館は閉館となった。

 

 「洞・町内の名物」の翠雲亭の記事は、尹益善が翠雲亭に設立した京城図書館が閉鎖された翌年に書かれたものだが、図書館については全く言及がない。ただ、

最近は市民の所有地となって何日か前からは同盟休校の学生たちの会議場所になっています。

というのが、その名残りなのだろう。まだ、図書館という施設に対する関心がさして高くなかったことを示すものかもしれない。

 

 この「翠雲亭」がどのようになったのか、はっきりしない。

 


 

 現在、嘉会洞31番地に翠雲亭という高級ゲストハウスがある(上図のA:いまは休業中の模様)。ソウル市長を退任した李明博イミョンバクが、2006年6月から2008年1月までこの韓屋に住んでいた。韓屋の所有者は仁寺洞で韓定食の「ドゥレ」を経営してきたイ・スクヒ。李明博がちょくちょく「ドゥレ」に食事に来ていたことで住居を提供することになったという。李明博の大統領在任中の2011年に、この韓屋の建物の内装を大々的に改装してゲストハウス「翠雲亭」としてオープンした。ゲストハウスとはいっても、「1泊159万5000ウォン、ピョルダンチェ(離れ)は132万ウォン、サランチェは99万ウォン(2人基準で夕食・朝食を含む価格)」という値段だったという(『新東亜』2012年9月号)。

 

 ここの建物が、兪吉濬が『西遊見聞』を執筆したり尹益善が「京城図書館」を置いた「翠雲亭」の建物であったのかどうか… ネット上にはそれらしい言及は見当たらない。残念ながら私もまだ確認できずにいる。

 

  • 日本での数え年と満年齢
  • 大韓帝国・併合下での年齢
  • 解放後の韓国では…

 

 2022年12月8日に、韓国での「年齢の数え方」が変わるという報道があり、すぐに日本の一部でもこの話題で盛り上がった。

 

「満年齢への統一法」法制司法委通過、来年6月から施行
 来年6月から民間の私法関係と行政分野で「満年齢」を使うことになる。生まれた時に1歳という韓国式の数え方が消えることになった。
 国会の法制司法委員会は7日、年齢計算の際には出生日からの年数で計算する満年齢を使うとした民法および行政基本法の改正案を可決した。ただし、出生後1年未満の場合は月数で表示する。
 現行の民法でも「満年齢」の使用を原則としてはいるが、日常生活では出生時に1歳、年を越すごとに1歳ずつ増えていく「数え年」を使い、そのために福祉や医療行政サービスなどに混乱や紛糾を来たしていた。中国・日本など東アジア諸国でだけ使われる年齢の数え方で、国際基準に合っていないという指摘もあった。

 日本で話題になったのは、韓国がらみの話の中で「韓国式の年齢」というのが何かにつけて出てくるものだから。しかし、この記事の後段にもあるように、韓国での年齢計算(数え年)は韓国独自のものというわけではなく、東アジア地域で広く使われていた年齢の数え方である。

 

 生まれた時に1歳、その後、太陰暦で年を越すたびに年齢が1歳づつ増えていく。つまり、太陰暦の大晦日(12月30日)を越えると1歳加わるもので、誕生日は「生日センイル」「生辰センシン」として祝うことはあっても歳は増えない。

 

 これは、前近代の中華文明圏での時間の流れの数え方で、中華文明圏の端っこに位置していた日本でも、幕末維新期まで、太陰暦を使って年齢は「数え年」で数えていた。

 

  日本での数え年と満年齢

 日本では、1872年に太陰暦から太陽暦へと転換し、太陰暦の明治5年12月3日が太陽暦の明治6年1月1日となった。太陽暦となったこの年の2月5日に、「太政官布告第36号(年齡計算方ヲ定ム)」が出され、年齢については「満年齢」を使用するものとされた(下図左側)。ただ、旧暦での年齢計算に関しては「数え年」を使用した。しかし、1902年の「法律第50号(年齢計算ニ関スル法律)」(下図右側)で、年齢は全て「出生の日よりこれを起算」することとなった。つまり「満年齢」に一本化されたということである。

 

 

 ただし、太政官布告の時はまだ「満」という用語はなかった。1880年に出版された『保険要書』には「満年齢」という用語が登場している。つまり、この時期あたりに「満○歳」という言い方ができ、逆に、従来からの年齢の数え方に「数え年」という造語が与えられたのであろう。「数え年」については、1896年出版の教科書『普通算数学:中等教育 上巻』に、

明治十年ニ生レシ人ハ、明治廿八年ニ於テ、かぞへ年何歳ナルカ.

という問題が出ている。また、1905年の『尋常小学算術書:児童用 第4学年』にはこのような練習問題がある。

 このように、1905年には、小学校4年生の段階で、「数え年」と「満年齢」の換算の練習をやらせていた。  

 

 「満年齢」を使うという法律ができても、それは「官」の世界でのことで、「民」は日常生活では「数え年」でやっており、子供でも両方を使い分けることが必要だったのだ。

 

 この小学4年生レベルの問題は、「数え年」の存在を忘れた現代日本社会の人々には解答不能だろう。韓国人だとこの手の問題に簡単に解答できそうだが…。


 戦前から戦後にかけて、日本社会では「満年齢」と「数え年」が併用されていた。戦時中、1942年7月に翼賛会が年齢を「満年齢」に統一する国民運動をやろうとした。ところが、これを政府がやめさせている。国民の生活に根付いている「従来よりの古き慣習」の「数え年」を戦時体制下でやめさせるのは得策でないと判断したのであろう。

 


 敗戦後、1949年に「年齢のとなえ方に関する法律」が制定された。1950年1月1日に施行されたこの法律では、「満年齢で言い表すのを常とするよう心がけねばならない」となった。当時の新聞をみると、今回2022年の韓国の年齢の数え方の変更と似たような反応——若返るとか還暦や厄年が2回来るとか——が書かれている。

 

 敗戦国日本は、この指示に粛々と従って「古き慣習」を捨てた。1960年代の後半には「満年齢」が普通になっていたと思う。

 

 ただ、面白いことに、今でも履歴書のフォーマットの年齢欄には、「満○歳」という記載が残っている。

 

 「数え年」で自分の年齢を書こうとしても書ける人が皆無といってもいいような時代になったにもかかわらず…😁である。
 

  大韓帝国・併合下での年齢

 朝鮮王朝は、1895年に太陰暦から太陽暦への転換を決定し、この年の太陰暦11月17日を太陽暦の建陽元年1月1日とした。しかし、年齢の数え方に関しては、特段の変更があったという形跡は見出せない。

 

 朝鮮王朝が大韓帝国となったのち、1905年4月に、大韓帝国の教育制度改編に関わっていた日本人の幣原坦しではらたいらが「韓国教育改良案」を作成した。その作成にあたって、学部大臣李完用イワニョンと協議をしたのだが、そのやり取りについて幣原は次のように回想している。

次は修業年限であるが、これは当時日本でも四箇年であつたから、その通りにしよう。但し義務教育は,とても最初から励行出来ないが、せめては入学の年齢だけでも定めるがよいというと、大臣も賛成し、「日本の例は」と聞くので,満六才であることを告げると、大臣いう、我が国では、とてもそれは無理です。書房などでも見られる如く、五六才の者も居るけれでも、二十才位のもいます。私いう、然らば八才と定めては如何。大臣いう、それでも揃わないでしょう。私は文献備考を取り出し、「八才入学古之制也」とある処を示すと、大臣驚き且つ感謝し、あなたは私の国の事をよく知っていますネー。ありがとう。早速それに決めましょう。実は八才といつても、数え年であるから、結局満六才に定めるのと、大差がないようなものである。

幣原坦『文化の建設:幣原坦六十年回想記』

 李完用が言った年齢は「数え年」であり、幣原坦はそれを「満年齢」に換算しているというわけである。

 大韓帝国側の学部大臣は「数え年」を使っていたのだが、1906年8月27日に実際に公布された「普通学校令」では、「満八歳」という日本式の「満年齢」での記載になっている。

 

 また、日露戦争最中の1904年9月27日の大韓帝国官報には、大韓帝国陸軍の現役軍人の年齢について「満年齢」で記述した記事が出ている。

 

 

 教育制度や軍隊の制度については、この当時はすでに日本の干渉下に置かれていた。従って、「満」という用語は、年齢の数え方とともに日本から持ち込まれたものと考えられる。

 

 その後、1910年に大韓帝国が日本によって併合されるが、植民地統治下の朝鮮でも、日本の内地と同様に、「官」では「満年齢」で、「民」では「数え年」で年齢を数えることになっていたようだ。

 

 ただし、内地と違うのは、朝鮮においては「官」が使う「満年齢」というのは、「朝鮮を侵略した日本が持ち込んだ年齢の数え方」ととられていたということだ。それだけに、抑圧する側が持ち込んだものに対して、「数え年」こそが「我々のもの」という感覚が日本内地より強かったとも思われる。

 

  解放後の韓国では…

 植民地支配から解放された朝鮮半島南部には、1948年に大韓民国が建国された。韓国でも、「官」では「満年齢」、「民」では「数え年」というのが踏襲されていたようだ。ただ、後述するように、当時は「官」でも「数え年」が使われていた。

 

 1960年の4・19学生革命で李承晩イスンマン政権が倒されたのち、翌年5月に軍部によるクーデターが起こり、国家再建最高会議議長に就任した朴正煕パクチョンヒが実権を握った。1962年年初から、李承晩時代に使われていた「檀紀タンギ」をやめて「西紀ソギ」を公用の年号とすることが公表された。この時に、『朝鮮日報』が年齢の数え方の問題について取り上げて、年齢計算法の法制化を求めた記事がある。

普通に21歳という青年でも、法的問題が起きたりすると、満で計算して成年・未成年を区別しなければならないし、子供のいる家庭では、小学校の入学については年齢を満で計算しなおさなければならないといったことが起きている。
(中略)

官公庁や公共団体の各種文書の年齢記載方式では、「満何歳」とか「当何歳」があって、統一されていない。年齢の計算法さえ法制化されれば、このような弊害もすぐになくなるものと期待される。

 この記事にあるように、それまでは、公的な書類でも「満年齢」「数え年(当年齢タンヨルリョン)」が混在していた。また、裁判では、被告の年齢を「数え年(当年齢)」で表記するといったケースもあった。

 

 

 この年も押しつまった12月28日、朴正煕が主導する政府は、全国の各機関に翌1962年の年明けから「満年齢」に一本化するよう指示を出した。これによって、公的な部門では、「満年齢」の使用が義務付けられることになった。

 

 

 しかし、日常生活では依然として「数え年」が使われ続けた。

 

 朴正煕政権が独裁を強めた維新体制下で、日常生活でも「満年齢」を使うように仕向けようとして「主婦クラブ連合会」を使って、「満年齢キャンペーン」をやったことがあった。

 

 

 しかし、「満年齢」の使用は韓国社会では広がらなかった。むしろ、朴正煕政権から全斗煥チョンドゥファン政権にかけての独裁統治のもとでは、「国際的基準」に合わせて「合理化」するということで行おうとした政策が失敗していた。

 

 例えば、全斗煥政権下で、当時多くの人々が祝っていた太陰暦の正月(旧正クジョン)から、太陽暦の正月(新正シンジョン)に比重を移そうとして、1981年に「旧正」の休日扱いをやめた。ところが、韓国社会の多くの人々は「旧正」に仕事を休み、帰省し、これが「我々の正月」であるとアピールを続けた。その結果、1985年になって全斗煥政権は「旧正」を「民俗の日ミンソゲナル」として休日を復活させざるを得なくなった。さらに、後継の盧泰愚政権は、1989年には「旧正」を「ソルラル(固有語の正月)」として連休にすることとした。太陰暦の正月こそが「我々の正月」だとする大衆の声が、独裁者の「国際化」「合理主義」に勝利したわけである。

 

 こうした中で、韓国の「数え年」——解放後、「햇수셈ヘッスセム」「세는나이セヌンナイ」「当年齢」などと呼ばれるようになっていた——が、「韓国式の年齢」として今日まで「我々の年齢の数え方」として定着してきた。しかし、いつ正月を祝うかという自社会内部だけのイベントとは異なり、年齢は自社会外部との関係においても重要な意味を持つ数値である。

 

 今回、「官」だけでなく「民」の場でも「満年齢」を使うということになったのは、そうした外部世界との関係の広がりも一因であろう。これまでも、出生登録に始まり、学校の入学や徴兵をはじめとする公的な届け出では「満年齢」が使われてきており、「数え年」と「満年齢」の換算も難しいわけではない。年齢換算のスマホのアプリもある。とはいえ、死ぬまで「我々の年齢の数え方」でやるんだという人々が、韓国社会には少なからずいるような気もするのだが…。

  • アルトゥル飛行場の位置
  • アルトゥル飛行場の建設と中国爆撃
  • 戦争末期のアルトゥル飛行場
  • 残存施設(北側)
  • 残存施設(南側)

 済州島は、火山島で、溶岩洞窟や釣鐘状の溶岩ドーム、それに海に注ぐ瀑布など自然景観に恵まれた観光の島である。その一方で、1948年の4・3事件で多くの島民が虐殺され、消滅した集落跡が点在する悲劇の島でもある。4・3事件は左翼による騒乱として、1990年代まで、その犠牲者の慰霊すら許されなかった。1998年に就任した金大中大統領のもとで4・3事件真相究明特別法が制定され、2006年に盧武鉉大統領が犠牲者慰霊祭に出席して正式に謝罪した。今では、済州平和記念館をはじめ、各地に慰霊碑が建ち、焼き討ちで失われた集落の保存・整備も進んでいる。

 そのような済州島には植民地統治下の日本軍の軍事施設が残されている。「日帝残滓」がいまだ点在する島でもある。

 

 ここでは、済州島の南西部に作られていたアルトゥル飛行場とその周辺の残存施設を、日本軍が残した地図を参照しながらみていきたい。

 

  アルトゥル飛行場の位置

 陸軍省が1945年7月10日に作成した「上奏用 朝鮮軍兵力配備図」の中に、済州島の「第58軍配備概見図」が残されていて、防衛研究所所蔵資料をアジア歴史資料センターがデジタル公開している。

 上掲地図で島の左下の部分、慕瑟峯モスルボンから慕瑟浦モスルポ上慕里サンモリ、そして松岳山ソンアクサンの海岸にかけての地域にアルトゥル飛行場とそれに関連した日本軍の軍施設が残っている。

 

左図は一部地名を補正上書き

 

  アルトゥル飛行場の建設と中国爆撃

 日本による植民地統治下の済州島は、軍事的には海軍佐世保鎮守府の出先である鎮海要港部の管轄下に置かれていた。

 

 柳条湖事件の半年前の1931年3月、済州島南西部の慕瑟浦モスルポ平野で済州島航空基地の建設工事が始まった。約5年間かけて1,400m×70mの滑走路を有するアルトゥル飛行場とその付帯施設が完成した。

 

 1937年7月7日の盧溝橋事件をきっかけに日中戦争を仕掛けた日本軍は、8月15日から中華民国の首都南京への渡洋爆撃を開始し、大村海軍航空部隊の九六式陸上攻撃機がこの済州島航空基地から中国本土への空爆を繰り返し行った。

 

 日本軍が11月に上海付近の飛行場を確保すると、中国本土爆撃の拠点はアルトゥル飛行場からそちらに移り、済州島航空基地には大村海軍航空隊の練習航空隊が配備された。

 

  戦争末期のアルトゥル飛行場

 1941年12月に太平洋戦争が始まったが、開戦当初は済州島の部隊配置には大きな変化はなかった。しかし、1944年になって日本の敗色が濃くなってくると、「本土決戦」が叫ばれて済州島全体の軍施設の地下化が図られるようになった。アルトゥル飛行場の済州島航空基地でも、10月上旬から拡張工事が始まった。この工事には多くの朝鮮人が強制的に動員され、飛行場周辺だけでも少なくとも1,500人程度が働かされたと推定されている。

 

 戦争最末期のアルトゥル飛行場とその周辺施設の様子は、「済州島基地施設位置図 縮尺五千分之一(以下「基地位置図」とする)」に描かれている。防衛省防衛研究所所蔵の「鎮海警備府 引渡目録」に収録されていて、これをアジア歴史資料センターがデジタル公開している。敗戦後、アメリカ軍に引き渡すために日本側で作成したものと思われる。

 

 

  残存施設(北側)

 上掲の「基地位置図」と現在残されている建造物とを比較してみよう。

 

 まず、「基地位置図」の上部、すなわちアルトゥル飛行場の北側、現在の上慕里サンモリ伊橋洞イギョドンに残されている日本軍施設をみてみる。

 

 

 現在、大静高等学校の正門の向かい側に地下施設が残っている。

 

 

 位置から推測すると、病舎の東側の地下に建設された「避病舎」ではないかと思われる。そうだとすると大静高校の位置に「病舎」があったことになる。

 

 大静高校の南側は、現在は韓国軍海兵隊91大隊の駐屯地になっている。

 

 「基地位置図」では、この一帯に日本軍の兵舎などが並び、実習地が描かれている。実習地の南東側に「耐弾式受信所」とあるが、この施設が残っている。

 

 

 朝鮮戦争時には、日本軍の兵舎や実習地のあったところに韓国軍第一訓練所があり、この「耐弾式受信所」を弾薬庫として使用していたという。

 

  残存施設(南側)

 上掲の「基地位置図」の下側部分にも松岳山にかけて関連施設が残っている。

 

  • 飛行指揮所

 西側の滑走路(飛行場)に面して「指揮所」の鉄筋コンクリートの支柱部分と階段、上部の床面が残っている。上部床面には、円型の構造物の痕跡がある。「基地位置図」では、「指揮所」北側に「耐弾式飛行指揮所」、東側に「防弾指揮所」が描かれており、これらは1944年秋の改修工事で建設されたと考えられるが、それらしい痕跡は見当たらなかった。

 

 

  • 有蓋掩体(飛行機格納庫)

 飛行機を空爆から防護するための「有蓋掩体」の建設は1944年11月から始まり、その年の年末までに20棟の「有蓋掩体」が完成した。現在、そのうち19棟が畑の中に点在している。

 


2010年8月

  • 発電所

 「飛行指揮所」の南東側に地下施設が残っている。

 

 

 「基地位置図」には「弾薬庫」からの道の延長線上に「発電所」が描かれており、現在残っているこの地下施設が耐弾式の発電所であろう。

 

  • 弾薬庫

 「基地位置図」に「弾薬庫」と記された場所は今は巨大な窪地になっていて、雨水が溜まっている。その周辺には鉄筋コンクリートの塊が散乱している。

 

 

 日本の敗戦でアメリカ軍がここを接収した後、残っていた爆弾や砲弾を弾薬庫ごと爆破処理したとされる。

 

 この場所は、旧日本軍の施設跡地であると同時に、4・3事件の虐殺現場でもある。
 済州島では、1948年に、北緯38度線以南だけの単独選挙に反対する運動が起きた。それを武力で押さえ込もうとする警察や軍、右翼青年団との衝突から、反対派は4月3日に武装蜂起した。山に立てこもったパルチザンに同調すると見なされた一般島民までが拘束・殺害され、何ヶ所もの集落が政府軍・警察の手で焼き払われた。1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発すると、韓国の内務部は、4・3事件に関連する「要注意人物」や「不穏分子」を拘束するよう命じた。そして、7月から8月にかけて、拘束されていた島民がこの弾薬庫跡で「処刑」され、埋められた。

 この虐殺事件で虐殺された島民犠牲者を追悼する「名誉回復鎮魂碑」が建てられたのは、57年後の2007年のことであった。

 

 

 この慰霊碑の日本語の説明版にはこのように書かれている。

摹瑟浦警察署管内でも344人を予備検束し、監視していた。そして、慕瑟浦駐屯の政府軍は同年7月16日頃に20人、8月20日に193人など210人以上を法的手続きもなしに集団虐殺・埋葬し、遺族に遺体を引き渡さずに民間人の出入りを統制していたが、1956年の春にようやく遺骸発掘が許された、凄まじい歴史の現場である。

 

 1957年に発掘された132体の遺骨を共同墓地域に改葬したが、遺体の身元確認ができなかったため「百祖一孫之地」と名付けて犠牲者の名前を刻んだ慰霊碑を建てた。ところが、1961年、朴正煕パクチョンヒらによる5・16軍事クーデターが起きるとこの碑は「反共政策にそぐわない」として破壊された。その後1987年の民主化宣言を経て、1993年になって慰霊碑は再び建てられた。

 

  • 高角砲

 対空砲火用の重火器を、陸軍では「高射砲」と呼ぶが、海軍では「高角砲」と呼ぶ。弾薬庫の背後の高台ソダルオルム(섯알오름)とセダルオルム(셋알오름)に、1942年に高角砲4門と高射機関砲6門が据え付けられた。現在セダルオルム上の「十二糎高角砲」の砲台部分がオルレキル※上に残っている。

※オルレとは済州方言で道から家までの路地を意味し、2007年から済州島を周回するコースとしてオルレキルが整備されている


グアム島の十二糎高角砲(wikiwandより)

 

 1944年6月16日に中国成都基地から北九州方面の爆撃に向かったアメリカ軍B29に対して、済州島から対空火器の攻撃があったとの記録がある。また、8月20日の八幡空襲の時にはB29に対して済州島南岸から重対空砲火が撃たれたとあり、このアルトゥル飛行場周辺の高角砲による砲撃だったとみられる。

 

  • 地下施設

 高角砲の砲台のあるセダルオルムの地下部分に地下壕がある。2013年頃は出入り口に鍵がかけられていたが、2015年には中に入れた。鉄骨で補強され、上部には落石防止用のスレート板が設置されていた。

 

 

  • 隧道(震洋格納用)

 松岳山の麓の海岸には、奥行き20m弱のトンネルが10本、40m弱のが4本、それらと少し離れてさらに大きいものが2本確認されている。当初は高さ2.5m、幅3mだったとされているが、崩壊が進んでおり今はかなり狭くなっている。6〜7年前から、断崖上部が崩落する危険があるとして付近への立ち入りが禁止されている。

 

 このトンネルは、日本海軍が特攻船艇の発進基地として1945年2月から建設を始めたものである。自爆攻撃用の「震洋」が格納された。「震洋」は長さ5m、幅1.6mで一人乗り、前部に250キロ爆弾を積んだ。軍の命中率の見込みは1/10程度だったという。

 

Japanese Shinyo Suicide boat. US Navy photograph, 1945

 

 この時に、松岳山だけでなく、北村里プクチョンニ犀牛峰ソウボン高山里コサンニ水月峰スウォルボン西帰浦ソギュポ三梅峰サムメボン、そして城山里ソンサンニ日出峰イルチュルボンの全5カ所で、海岸に自爆攻撃用船艇の格納用隧道が掘られた。

 

高山里水月峰(りうめいさん提供)

 

西帰浦三梅峰(りうめいさん提供)

 

城山日出峰遠景

 


 済州島には、これ以外にも「本土決戦」のために掘られた洞窟陣地が残っている。

 漢拏山ハルラサンの北西側の中腹には、御乗生岳オスンセンアクの洞窟陣地がある。

 また、父親が工事に強制動員された李英根イヨングン氏が建てた済州平和博物館があり、カマオルム洞窟陣地を整備して一般公開していた。

 

2010年8月

 2012年に運営難から売却の話が出て、紆余曲折の末、済州道が買収することになったが、現在もまだ洞窟陣地は非公開のままになっている。

 


本ブログ中の写真は、一部を除き2015年と2016年に撮影したもの

 

参考文献

塚崎昌之「済州島における日本軍の「本土決戦」準備--済州島と巨大軍事地下施設」韓国文化研究振興財団編『青丘学術論集』22, 2003-03

神谷丹路『韓国—近い昔の旅』2001, 凱風社