一松書院のブログ -32ページ目

一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

  • 京城の城壁(東側)
  • 光煕門と新堂里
  • 新堂里売却と「島徳道路」
  • 土幕民の処遇
  • 舞鶴住宅地と朝鮮都市経営会社
  • 梶山季之と朴正煕一家が住んだ街

 ソウルの旧市街、すなわち朝鮮王朝時代の漢城ハンソンを取り巻く城壁は、今も各所で復元作業が進められている。

 解放後、最初に城壁の修復が注目されることになったのは、1968年1月の北朝鮮の武装工作員の侵入事件がきっかけだった。大統領官邸裏手の北岳山プガクサン麓にまで侵入して激しい銃撃戦になったこの事件。この時、政府は国民の国防意識を高めるという目的で、防御線にもなり得る城壁の復元推進を打ち出した。城壁の復元は、文化事業としてだけではなく安全保障の観点からも行われたのである。

 1975年から1982年までに、光煕門クァンヒムン粛靖門スクジョンムンの復元を含む9.8kmの城壁が再整備された。

 その後1997年頃からは、歴史遺産の保存・修復という観点からソウルの城壁復元が注目され始めた。2000年前後からソウル市と各区で城壁復元作業が始まり、その事業は今日も続いている。城壁の復元が困難な市街地では、城壁があったことを示すプレートが埋め込まれている。

 

 ここでは、その城壁の東側、光煕門外に開発された舞鶴住宅地と桜ヶ丘住宅地についてみて行きたい。
 

  京城の城壁(東側)

 日本の植民地支配が始まった初期にはかなりの城壁が残っていた。

 

 1922年の浅川巧の日記に、西大門ソデムンから北岳ブガック山を越えて東大門トンデムン南大門ナムデムンと城壁を一周したことが記されている。

六月四日

(前略)

 北門へ下りて一休し夏蜜柑など食べて白岳山に登つた。僅かの険もあつたが小道は続いてゐた。山頂で休んで又眺めた。朝鮮人の学生等も二、三人ゐた。城外の農家も美しく見えた。東大門に下つて附近の氷屋でビールとサイダーを飲んで昼食をした。それから松の茂つた淋しい道を城壁伝ひに東大門に向つた。東大門の近くは西洋人の土地になつてゐて鉄条網が張つてあつて通れなかつた。それから光煕門を過ぎて南山に登つた。南山の薬水は美味だつた。山頂にはケヤキやエンジユの大樹があつて岱地になつてゐた。氷屋も店を出してゐた。冷しビールの一本を分けて飲んだ。少し下ると朝鮮神社の工事をしてゐた。美しい城壁は壊はされ、壮麗な門は取除けられて、似つきもしない崇敬を強制する様な神社など巨額の金を費して建てたりするの役人等の腹がわからない。

 1918年修正測図の2.5万分の1地図では、東大門(興仁之門フンインジムン)の少し北側から北方向の城壁が残っている。東大門の南側の清渓川チョンゲチョンを越えたところはすでに城壁はなく、光煕門クァンヒの手前から城壁が残っていた。1925年、日本の皇太子成婚記念事業としてこの部分の城壁を撤去して京城運動場(現在の東大門歴史文化公園)が建設された。城壁の石材の一部はスタンドの観客席として利用された。

 

 光煕門から南方向にはずっと城壁が描かれており、南山まで城壁がそのまま残っていた。その先、南山を越えて西側に出ると、この時すでに始まっていた朝鮮神宮の建設工事のため、城壁は破壊されつつあった。

 

  光煕門と新堂里

 東大門の南側にある光煕門は、別名を水口門スグムンという。また、城内の死者はこの門を通って門外の墓地に運び出されたため屍口門シグムンとも呼ばれていた。

 


1921年 1:10,000地図

 

 光煕門を出たところの新堂里には朝鮮人の共同墓地があった。

 浅川巧の日記には、1922年の1月、柳宗悦や、金萬洙キムマンス呉相淳オサンスン廉想渉ヨムサンソプとともにこの墓地に葬られた南宮璧ナムグンビョクの墓参りに訪れたことが記されている。

一月十六日
晴れていゝ日だつた。午前は事務所に出た。
柳、金萬洙、呉、廉諸兄と南宮君の墓参をした。光煕門を出た切り通しの道、土饅頭の雪景色、松林などは静かな淋しい感じを与へた。南宮君の墓は山の頂に近く東面して前に漢江を望んだいゝ場処だつた。

1920年代の新堂里の墓地

 

 もともと朝鮮の人々が埋葬されていたこの一帯は、土地調査事業の際に、所有者が特定できない公有地とされ、共同墓地とその周辺一帯は京城府の府有地とされた。日本人居留民団や京城府は、内地人のための火葬場や共同墓地をここに作った。さらに、二つの共同墓地の間には、京城府衛生局が管理する汚物堆積場も作られた。

 

 こうした「小門」外の土地柄ゆえに、城壁直下の空間や墓地周辺には、地方から京城に流れてきた貧しい人々が「土窟」や「土幕」を作って住みつくことになった。

 

 赤間騎風の『大地を見ろ』(大陸共同出版 1924)に光煕門外の探訪記がある(九 蛇捕りと女乞食 111コマ)。

 

 

 下の写真は、1922年1月15日付『東亜日報』 に掲載された写真で、老婆の変死体が発見された光煕門外の城壁沿いの土幕を撮ったもの。このように、城壁下の空間に城壁を利用して住居が作られていた。

 

  新堂里売却と「島徳道路」

 1925年に馬野精一が京城府尹に就任した。馬野精一は、新堂里の府有地を売却して府の財政を立て直し、さらにはそれを京城府東郊の再開発につなげようと考えた。共同墓地や汚物堆積場、火葬場を移転し、その跡地15万坪を売却することにした。

 

 もともと上述のようにあまり芳しい土地柄ではない。買い手がつかない恐れもあった。そのため、梨泰院からと奨忠壇からの2本の道路建設プランを提示し、朝鮮博覧会の会場候補地としての付加価値も強調した。

 

 それに目をつけたのが、京城府協議会員で土地ブロカーの方奎煥パンギュファンだった。方奎煥は、この話を大阪の証券業者島徳蔵のところに持ち込んだ。島徳蔵は支配人福島福之助を京城府との交渉にあたらせた。

坪三圓五十錢位なら賣つて善からうと云ふことであつた、福島氏は最初二圓五十銭位に見當をつけて居たらしいので、其れは高いと言ふことで折衝を重ねた結果三圓二十錢と云ふ事に折り合ふた、此話が進んだので馬野府尹は府協議員會と學校組合會を招集して懇談した所、經濟難に苦んで居る府の臺所を知つて居る府協議員も善い買手が出たと福の神を迎ふるやうに歡迎し満場一致で賛成し た、直ちに契約書を作成し總金額四十六萬六千八百餘圓の中、內金として十萬圓を受取り残りは昭和四年の三月末と五月末に完納する。

「土地買収にからんだ京城府と島徳蔵との経緯」

(『朝鮮及満州』第257号(昭和四年)

 結局、坪3円20銭で総額46万6,800円、内金10万円で1928年5月末に仮契約が成立した。

 

 ところが、8月になって島徳蔵本人が現地にやって来てみると、朝鮮博覧会の会場は景福宮に変更となり、建設されるはずだった2本の道路(梨泰院〜新堂里〜往十里と奨忠壇〜新堂里)は財政難で先延ばしという話が出ていた。島徳蔵は「話が違う」と土地購入のキャンセルを匂わせた。馬野精一は、2本の道路の期日までの開通を確約して島徳蔵から残金の支払いの約束を取り付けた。

 ところが、翌年1月に馬野精一は咸鏡南道知事の辞令が出て咸興に赴任した。この間の馬野精一と島徳蔵の内々のやり取りを承知してなかった京城府協議会は、奨忠壇〜新堂里の道路建設だけの予算しか認めなかった。島徳蔵は「それでは残金は払わない」という騒ぎになった。

 そこで問題は逆轉して前府尹の馬野氏に及んだ、馬野氏は府協議員の協贊を経ずして二線道路の假契約書をして居たからこんな問題 が起つたのだと云ふ事になり馬野氏の不法行爲を責むる聲が高まつた、馬野氏は三月の二十一日咸興から京城にやつて來て、府協議員を集め「自分はそんな契約をした覺えは無い」と言つた、そこで府協議員は馬野氏自分で訂正の筆を入れた契約書の原案をつき付けて、「是れは何うでゴザルか」と詰め寄つた、馬野氏は暫く其書類を見詰めて居たが「成る程 是れは自分の筆に間違ない、全く失念して居た誠に相濟まなかつた」と所謂聲淚共に下るの赤誠を面に表はし協議員の協賛を經ずして自分で斯う云ふ契約書を作成したのは失態である旨を陳謝し、此土地問題に關する経過を赤裸々に報告して諒解を求め、且つ此上島德氏が一線説に應じないと云ふ事になれば自分がどこまでも責任を負ふて解決しようと男らしく出たので、府協議員も馬野氏の心事き誠意を諒として何の不平不滿無く寧ろ馬野氏の男らしい態度を稱揚した

「土地買収にからんだ京城府と島徳蔵との経緯」

 すったもんだの末に、結局京城府の経費を捻出して梨泰院〜往十里と奨忠壇〜新堂里の2本の道路が建設されることになった。人々はこの道路を「島徳道路」と呼んだ。

 

 

  土幕民の処遇

 この騒動の最中、光煕門は管理や補修が行き届かず、崩落の危険があるとして積石部分を残して撤去された。

 

 共同墓地や火葬場、汚物堆積場の移転は早々と決まっていたが、問題として残されたのが光煕門周辺や城壁沿いに住みついていた土幕民・土窟民の扱いだった。それにいち早く注目したのは、『東亜日報』だった。

光熙門外墓地移転と三千の土窟民のケアを

来月中旬頃に登記手続を終えると買収側は警察と協力して追い出す方針

救濟講究策は足踏み状態

 10万円の売却契約金の受け渡しがあって、整理中の光熙門外の墓地は後継地に引き継がれ、火葬場は京城市の弘濟內里、埋葬場は東小門外の某所にと内定して、近々すべての工事終了とともに移転することになっている。日本人墓地は来年1月末までには移転を完了し、朝鮮人墓地はこの11月末には目処が立つ。この墓地の新オーナーである大阪の島徳蔵氏も、残りの30万円を支払うと同時に所有権移転をするよう催促しており、京城府では遅くとも10月中旬までには登記手続きを終える見込みである。この墓地の売却によって、行き場がなくなる600余戸、三千人余りの人々のこれからについては何らの解決策もなく、移転費がどうこうという話どころか、移転先の候補地すらない状況である。島徳蔵氏は、最近一層監視を強めて監視人に新しく入ってくる人を取り締まらせている。所有権の移転登記が終われば、警察力を動員して彼らの退去を命令するので、今年の秋には一波乱ありそうで世間の注目を集めている。京城府ではすでに売却してしまったとして見て見ぬふり、総督府でも何らの具体策が講じられないままで、彼らの移転については暗澹たる状況である。

 京城府庁の某当局者は「所有権が移るわけなので、島徳蔵氏は自分の思うようにやるでしょうが、一人二人のことではない社会問題なのだから、京城府において処理するほかに方法がないとは思いますが…」と語っている。

 結局、土幕民・土窟民の救済策が講じられることはなく、『毎日申報』によれば、1929年末の段階でも3000人(戸は誤りか)以上の貧民が行き場のないまま光煕門外のスラムで極寒の冬をむかえた。

 

 

  舞鶴住宅地と朝鮮都市経営会社

 咸鏡南道知事になった馬野精一が京城に戻って島徳蔵との約束について「自分が責任を取る」と啖呵を切ったのが1929年の3月末。その頃には、共同墓地の移転や内地人の火葬場の移設などが行われていた。上述の『毎日申報』の記事から推測すると、1929年の年末にはまだ宅地開発は始まっていなかった。しかし、1930年11月21日付の『京城日報』の記事では、この年の6月には、共同墓地や火葬場のあった新堂里一帯が「舞鶴住宅地」という名前で分譲販売され始めている。1930年に入ってから、土幕民・土窟民を排除し、城壁の撤去なども行いながら宅地造成工事が進められたのであろう。

 

この土地を売出したのは本年6月からであるが、整地された5000坪はドシドシ片づいてゆく、坪当り15円から22円で官吏や銀行員、会社員は安い安いと買ふ。モウ50口計り売れた。中には1人に1千2百坪も買つてゆく人もある、すでに坪30円でないと手放さないなどよい所は約10円方の土地値上りをみせている有様である。火葬場跡だから買い手はあるまいと思つてゐたら大間違えだ、是非火葬場跡を分けて欲しいといふものもある、何んでもそこに寺を建立する計画だそうな、案ずるより生むが易い。

モウ松の木の間を通して木の香新らしい4、5軒の小ぢんまりした新築が出来あがつている、昔は乞食でないと住まないといはれた城壁の下にもモダンな家屋が建てられてゐる。どこもこの辺の変り様は想像以上である。

とある。当時、京城の内地人の住宅難もあって、墓地や火葬場、汚物堆積場、スラム街だったことなどお構いなしに買い手がついた。この一帯の景観はこの時期に激変した。

 

 方奎煥を社長とする舞鶴住宅経営が宅地の開発・販売をやっていたが、1933年になると、世界恐慌の煽りで羽振りの良かった島徳蔵の関係企業が経営不振に陥った。舞鶴住宅経営も銀行からの借入金の返済が滞り、1933年末に東洋拓殖会社の子会社である朝鮮都市経営会社に舞鶴住宅地の経営権が譲渡された。

 

 

 朝鮮都市経営会社は、舞鶴住宅地に隣接する奨忠壇住宅地や桜ヶ丘住宅地をすでに開発しており、新堂里一帯は大きく変貌することになった。

 

赤い線の道路がいわゆる「島徳道路」。それに挟まれた舞鶴住宅地、島徳道路を隔てて桜ヶ丘住宅地。衛生課分室は汚物堆積場の跡地に置かれていたもの。

奨忠壇公園の下にある「博文寺」のところは現在の新羅ホテル。右の丸い部分は現在の奨忠壇チャンチュンダン体育館で奨忠壇からの「島徳道路」を挟んで朝鮮土地経営会社が開発した奨忠壇住宅地があった。解放後、三星サムソン李秉喆イビョンチョル元会長がここに住んでおり、現在三星グループがこの一帯を所有している。

 

  梶山季之と朴正煕が住んだ街

 

 1960年代の日本で産業スパイ小説や推理小説、時代小説、風俗小説などで流行作家となった梶山季之。彼は 1979年に韓国で映画化された『族譜』や『李朝残影』などの朝鮮を舞台とする作品も残している。京城育ちの梶山は、南山小学校に通っていた1938年に「京城府城東区新堂町349」に引っ越した。上掲の地図のAの場所、桜ヶ丘住宅地の一角である。

 ここから京城中学(現在ソウル歴史博物館がある場所にあった)に通ったが、3年生の時に日本が敗戦。日本に引き揚げた。

 人気作家となってから、大宅壮一と一緒に1963年11月25日から12月2日まで韓国を訪問している。まだ、日韓の国交が回復する前の時期である。その時、以前住んでいた家を見に行っている。

「ソウル市の西南」は「東南」の誤り

すでにこの住宅はない

 

 梶山季之と朝鮮の関わりについては、『李朝残影 : 梶山季之朝鮮小説集』(インパクト出版会, 2002)の川村湊「梶山季之〈朝鮮小説〉の世界」に詳しい。

 

B

 もう一人、この旧桜ヶ丘住宅のBに今も残る日本家屋に住むことになった人物がいる。朴正煕パクチョンヒ元大統領とその一家である。新堂洞シンダンドン62-43。

 朴正煕は、第7師団長となった後、1958年5月から新堂洞の官舎に住んだ。1945年8月の日本の敗戦で空き家になった日本人の住宅が米軍政下で「敵産」として接収され、それを韓国に払い下げた家屋であろう。1930年代の「文化住宅」といわれた日本家屋がそうであったように、和洋折衷の様式。それを韓国式に改造したものに、さらに陸英修ユクヨンス夫人が手を加えたといわれている。1961年5月のクーデターで国家再建最高会議の議長となって、議長公館に引っ越した8月までこの家に朴正煕一家は暮らした。

 その後、朴正煕は大統領となり、一家は青瓦台の大統領官邸に移った。

 

 1979年10月26日、朴正煕大統領は中央情報部長の金載圭キムジェギュに銃撃されて殺害された。陸英修夫人が1974年8月の文世光ムンセグァン事件で死去してからは、長女の朴槿恵パククネがファーストレディの役割を担ってきた。11月3日の国葬を終えたのち、朴槿恵は、妹の朴槿令パククルリョンとともに青瓦台からこの新堂洞の私邸に移り、しばらくここで暮らした。

 

 その後、朴槿恵も朴槿令もこの家を出たが、家屋は陸英修女史記念事業会が引き継ぎ、2008年10月に国家文化財として登録された。その後、ソウル市が住宅の修復工事を行ない、1958-1961年当時の姿に復元して2014年に公開している。

 

 こうした数奇な運命をたどった桜ヶ丘住宅地の「文化住宅」は、1930年代の宅地開発当時の原型を残す数少ない建物として今日に伝えられている。

 

2022年7月KakaoMap ストリートビューより

 

 


 

 光煕門は1975年に復元された。

 

 

 光煕門から南へ120mほどは城壁が復元されている。しかし、そこから650mほど城壁が途切れ、新羅ホテルの敷地の東北端からまた城壁が始まる。

 

 

 ただ、この途切れている部分でも、住宅の基礎部分や切り通しなどに城壁の痕跡が残されている。舞鶴住宅地の造成・分譲の時に、城壁部分でも宅地化できるものはそのまま宅地にしたのであろう。城壁を壊した後の石材を流用したりしたと思われる痕跡もある。

 

 光煕門と新堂洞。見どころ満載の一角である。

 

 

 8月12日日本公開の韓国映画「キングメーカー 大統領を作った男」。

 


 

 そのモデルになったのは厳昌録オムチャンノク。彼のことは『東亜日報』に連載された「南山の部長たち」の中に詳細に描かれている。金忠植キムチュンシク記者が執筆し、1990年8月から1992年10月まで週末版に掲載された。その連載の33〜35回に厳昌録が登場する。
 この連載は1992年11月に単行本として出版され、50万部を超えるベストセラーとなった。1994年には日本で『実録KCIA-南山と呼ばれた男たち』(講談社 1994)として翻訳出版されたが、上下2冊本の韓国語原本を日本語版では1冊本としたため、残念ながら厳昌録の部分は日本語版には入ってない。

 

 以下、この『東亜日報』の3回の記事を翻訳掲載する。

  • 南山の部長たち(33)「選挙懐柔工作」
  • 南山の部長たち(34)背反と義理の分かれ道
  • 南山の部長たち(35)金大中・厳昌録分断の特命

  南山の部長たち(33)「選挙懐柔工作」

東亜日報|1991.03.29記事(企画/連載)

「選挙の鬼才」厳昌録懐柔工作

金桂元が信任回復のために金大中の選挙参謀を誘惑

1971年の大統領選挙で野党撹乱の切り込み隊長を任せる

中傷宣伝の書き込みなど「神出鬼没」

KCIA、戦術を集め本にして青瓦台にも

 

「南山ゴル先生」叱責

 1970年秋、金大中キムデジュンが野党新民党の大統領候補に決まると、大統領朴正煕パクチョンヒは情報部長を交代させる決心を固めた。情報の元締めとして強大な権限と組織を持っていながら、右腕の役割を果たせてない金桂元キムゲウォンをそのままにはできなかった。しかも、手強い相手の金大中との大一番が控えていたのである。

 金大中との戦いで、朴正煕は手痛い敗北を喫していた。3年前の1967年の6・8国会議員選挙で、金大中を落選させるために朴正煕は木浦モッポを「政策地区」に指定してあらゆる手立てを使った。

 朴正煕は、鄭求瑛チョングヨンにこう言った。

鄭求瑛:大韓弁護士協会会長で、1961年の軍事クーデター後に作られた共和党の初代総裁。のちに3選改憲に反対して脱党。

 6・8選挙で、野党の何人かの当選を阻止するために、共和党候補を特別支援した。だが、金大中の「マタドール」の中傷宣伝には勝てなかった。(鄭求瑛回顧録174ページ)

※マタドール(마타도어(Matador)):選挙戦で根拠のない事実を捏造して相手を中傷したり、相手陣営の内部を撹乱させる中傷宣伝を行うこと。

 大統領自ら木浦に乗り込んで閣議を開き、選挙公約を派手に打ち上げ、共和党候補の金炳三キムビョンサムに莫大な資金をつぎ込んだ。しかし、金大中を破ることができなかった。官権・金権攻勢をかけたにもかかわらず、そこで生き残った金大中は、朴正煕にとって明らかに不愉快な相手だった。

 1970年11月のある日、朴正煕はKCIAの保安次長補の姜昌成カンチャンソンを呼んだ。

 「野党の連中が金桂元部長を南山ゴル先生と呼んでるんだって?」

 しばしば政治工作に失敗し、野党新民党の老獪な重鎮たちに翻弄されてきた金桂元への苛立ちだった。朴正煕は、大統領選挙を乗り切るために駐日大使を務めていた李厚洛イフラクを呼び戻す決心を固めたようだった。

 しかし金桂元は、朴正煕から見放されながらも、最後まで信任を回復しようとあがいた。

 金大中の組織参謀厳昌録オムチャンノクに対する懐柔工作もその一つであった。

 厳昌録。1986年に56歳でこの世を去った彼の名前は、KCIA幹部や野党重鎮の間に神話のように語り継がれている。

 

1960年代に金大中議員の組織参謀だった厳昌録氏。「組織の名手」「選挙の鬼才」と呼ばれた彼は、1971年の大統領選挙戦でKCIAに懐柔されてされて金大中候補陣営の撹乱に加担した。

 

 厳昌録は、世間での知名度は低いものの、韓国の選挙史上には必ず名前が出てくる人物である。神出鬼没の彼の組織宣伝戦術は、KCIAの手で一冊にまとめられ、その本は共和党と青瓦台に密かに配布された。

 厳昌録は1961年の江原道カンウォンド麟蹄イムジェの補欠選挙で金大中の初当選を手助けして以来、1970年に野党の大統領候補に選出されるまで、金大中を国会議員に3回当選させていた。朴正煕が不満を募らせた6・8総選挙で金大中を助けたのがまさに厳昌録だった。厳昌録は、想像を絶するネガティブキャンペーンや、官権・金権攻勢を逆手にとった選挙戦術で、自ら「選挙ゲリラ」を名乗った。金大中の政治カラーのうち、否定的な色合いのうちの相当部分は厳昌録に起因するものだった。

 そんな厳昌録は、金大中と手を組んでちょうど10年目の1971年に金大中を裏切ることになった。金大中に背を向けて、KCIAと手を組んだ1971年の4・27大統領選挙戦で、金大中陣営を逆に撹乱する「ブーメラン」を放った。

 

86年56歳で死去

 小説より数奇な運命だった。厳昌録は死ぬ日まで東橋洞トンギョドンに現れなかった。1986年、厳昌録の遺体安置所に金大中は李龍煕イヨンヒ(9・10・12代国会議員)を送って弔意を表した。

※金大中の自宅は東橋洞にあった。現在、金大中図書館の東側に自宅が残っている。

 厳昌録は、咸鏡南道ハムギョンナムド元山ウォンサンの出身で、元山師範学校を中退したという(他に、金日成キムイルソン大学を出たと本人が言ったのを聞いた者もいる)。厳昌録は、北朝鮮で左翼組職を経験してから転向したと語っていた。KCIAで対共問題を扱った李龍澤イヨンテク前議員も、徹底した「転向者」だと証言していた。

 権魯甲クォンノガップ議員の証言。

 厳昌録氏が金大中総裁に会ったのは偶然だった。彼は補欠選挙の時、我々を支援していた地元のシン社長の下で働いていた。組織化を学んだとかで、非常に緻密で、声が低く、人前に出ずにバックヤードで働くスタイルだった。ひどい肺結核を患って手術をしたことがあり病弱だった。

 厳昌録が1961年の金大中陣営で説いた内容をまとめるとこうだ。

 韓国の政権与党の選挙運動は、先頭に立って法を犯す犯罪そのものだ。1960年の3・15不正選挙のような公務員動員、現金入り封筒の配布、投開票操作まで勝手にやるといった権力の犯罪的選挙方式を打ち破らなければならない。執権党の選挙のやり方は当分は根絶やしにはできない。「柔をもって剛を制す」の戦術を開発して、官権・金権に対抗しなければ、野党は政治的に生き残ることができない。

 厳昌録はいくつかの戦術を発案した。
 

1.野党運動員が外国タバコをくわえて、与党候補の支持を勧める。有権者には安いタバコを差し出す。与党候補に対する反感を誘発する。

2.野党運動員がごく少額(今なら1000ウォン)を封筒に入れ、与党候補の名前で夜中に渡して回る。

3.野党運動員が与党候補の名前でゴム靴のようなプレゼントを配った後、翌日一斉に「他の家に配るはずのを間違って渡した」と回収する。徹底的に与党候補に対する反感を誘発する。


 今や、当たり前の「選挙小細工」になっているこうした手段のほとんどは、厳昌録によって発案されたものだった。

 

「柔をもって剛を制す」対応

4.金持ちの候補の食事招待・マッコリ接待に対して、無一文の野党候補が対抗する方法もある。例えば、野党運動員が与党候補の名前で数百人の有権者を飲食店に招待し、無駄足を踏ませて有権者の激憤を誘発する方法もある。
 

 組織管理の方法も独特だった。

 立候補者は、選挙運動員が選挙資金を使ってちゃんと有権者に接触したかを気にしている。例えば、10人の運動員にそれぞれ10人ずつの有権者への接触を指示する。その時に、必ず幽霊有権者を1人〜2人入れておく。ちゃんと活動した運動員は、幽霊有権者がいたことを報告するが、遊んで帰ってきた運動員は10人に会うために大汗をかいたと嘘の報告をする。

 こうした逸話が厳昌録を「組織の鬼才」と呼ばせたのである。

 

ゲリラを彷彿させる

 共和党政権で厳昌録を最初に目をつけた人物は、愼鏞南シンヨンナム(7代議員)だった。KCIAも彼を通じて厳昌録に秘密裏にアプローチを始めたということだ。

 1967年の総選挙で不正選挙と名指しされ、翌年野党候補の金相欽キムサンフムと再選挙を行った愼鏞南の証言がある。

 高敞コチャン再選挙の時、野党組織の責任者として厳昌録という人物がやってきた。噂では、選挙の鬼才で神秘的な人物だということだったので、木浦で戦った金炳三氏に会って尋ねてみた。しかし、厳昌録など知らないという。金炳三氏は何も知らずに、何度もやられたのかもしれなかった。国会の金大中議員の関係記録にも、厳昌録氏は「補佐官」「西大門在住」程度しか出ていなかった。おまけに、写真も一枚もなく、実に神秘的な人物だと感じた。その後、1965年のソウル西大門ソデムン補欠選挙で、金相賢キムサンヒョン候補が任興淳イムスンフン候補(2・3代議員)に勝った時、厳昌録が選挙参謀を務めたことが分かった。その時に厳昌録の組織宣伝教育を受けた氏に会った。聞いてみると、組織を指揮する方法はまるでインチキ教主のようで、遠隔操縦で行政官権を無力化させる術策はまさに遊撃戦方式だった。

 

  南山の部長たち(34)背反と義理の分かれ道

東亜日報|1991.04.04記事(企画/連載)

KCIA首脳からDJ連結の「遮断工作」

全国区の要求に新民党難色

組織OX、自傷劇などの選挙に驚き

「6·29」後、民正党から訪ねて諮問を求める

 

名声は1980年代まで

 金大中キムデジュンの組織参謀だった1960年代の「選挙の鬼才」厳昌録オムチャンノクの名声は、1980年代にまで響き渡っていた。

 厳昌録が東橋洞トンギョドンから姿を消し、政治の一線に姿を現すことがなくなって16年の歳月が経った1987年。6・29宣言で大統領直選制を渋々受け入れた民正党政権の幹部が、ソウル市内の瑞草洞ソチョドンSアパートの家のドアを叩いた(厳昌録は1988年1月に死去。前回の「86年死亡」は誤り)。

 盧泰愚ノテウ候補を当選させるための方策で頭を悩ます中で、伝説的な人物のことが浮上したという。

 厳昌録の妻(54)の証言。

 1987年の秋、安企部幹部がやって来た。その幹部はあらかじめ人を介して訪問の了解を取り付け、直接やってきた。私が夫(厳昌録)とお客との間を行き来しながら小耳に挟んだ話の内容で、夫がこう言ったのを覚えている。「金大中と金泳三キムヨンサムの両方が出馬することになったのでもう結末は見えている。それなのに私に何を聞こうというのか。あなたのところの当選は確か。あなたたちは政権を手放すようなこともないわけだし…」と夫が言ったことをはっきり覚えている

 この証言からも、情報機関が野党よりも常に一歩先んじていたことがわかる。安企部の幹部が厳昌録に会った直後、金大中陣営の李龍煕イヨンヒが知恵を借りるために久しぶりに訪ねて行ったのだから。

※安企部:韓国中央情報部 (KCIA) は1980年末に国家安全企画部 (NSP:安企部) と改称した。

 再び愼鏞南シンヨンナム元議員の1967年の厳昌録についての回顧談を見てみよう。

 厳昌録の野党スタッフへ教育の中で、変わっていたのは有権者への接近方法だった。たとえば、初めて立ち寄る家では、顔を洗うふりをしながら高級石鹸を置いて帰る。置いていった石鹸をその家で使うようになった頃、その家に石鹸を取りに行って距離感を縮める。次に、家族構成を詳細に把握して、野党候補名義の手紙を出す。手紙の内容は、例えば「今度大学を卒業するお宅のお子さんの就職は私が責任を持ちます。他の人には絶対に内密に…」というようなもの。それをもらった有権者は熱烈な運動員になる。同じ町内にそのような手紙を何通か送れば、不思議なほど効力を発揮する。組織というものを選挙に活用した最初の人物だった。

 厳昌録の組織管理は、厳しくて徹底してものだった。彼は休む間もなく組織が順調に稼動しているかを点検するスタイルだったと李龍煕前議員は振り返った。

 いわゆる「OXマルバツ組織点検」というのが厳昌録の独創的な一面を示している。

 選挙のたびに、立候補者は与党・野党の二股をかけて金を巻き上げる二重スパイのために苦労する。ところが、厳昌録は、独特のやり方でこれを排除してしまった。

 Aが共和・新民両党の候補を行き来しながら金をせびる場合、夜のうちにAの家の門に大きいXというマークを描いておく。そして間接的に「共和党の方で役に立たない二重スパイたちにXをつけて金を渡さないようにしている」と耳打ちする。怒ったAは、二度と共和党候補になびく

ことなく新民党候補だけを応援するようになる。

 

鼈主簿伝の知恵比喩

 厳昌録は自分の知恵を、竜宮から逃げる鼈主簿伝ビョルジュブジョンのウサギの知恵に常に例えた。「韓国の執権党の犯罪的な選挙にあってはケネディも李舜臣イスンシン将軍も落選してしまう」と自らを合理化した。

※朝鮮王朝時代の寓話。南海の竜王の病気の治療薬とされる兎の生き肝を求めて、忠臣のスッポン(鼈) が兎を騙して竜宮まで連れてくる。しかし、事情を知った兎は肝を陸地に置いてきたと言って窮地を脱する。

 彼は、1967年に、愼鏞南シンヨンナム候補を倒すために選挙の終盤で自傷劇までも演出したという。

 愼鏞南氏の証言がある。

 厳昌録が遊説場で流血作戦を使いそうだという情報があり、こちらの共和党員で広く共有した。その情報は的中した。不良っぽい酔った野党青年がやってきて、遊説場で言いがかりをつけて文句を言うふりをして、自分で頭を柱にぶつけて血を流した。共和党員に殴られたという噂を広めることが目的だった。

 すぐにこちらから警察に通報してその青年を捕まえ、脚本通りの演技だったという自供を得た。私が、選挙応援にきた厳昌録に一撃を与えた唯一の人間だったかも知れない。

 大統領の朴正煕パクチョンヒに「太刀打ちできない」と言わしめた厳昌録の選挙手法は、今日も野党の一部に受け継がれている。この組織宣伝戦術を厳昌録が新民党で講義したことがあった。

 その「受講生」の中に、太完善テワンソン(88年没後、元企画院長官、2・5代維新会議員)もいた。野党時代、乙支路ウルチロ派の一員として金永善キムヨンソン金洗栄キムセヨンとともに活動した太完善は非常に几帳面な性格だった。彼は厳昌録の講義をこまめにノートを取った。

 後日、KCIA第3局の局長になったC氏は、入手した太完善のノートを南山ナムサンのKCIA幹部だけが読める「部内書籍」として発刊した。この本はたいそう評判になって、青瓦台チョンワデや共和党でも広く読まれるようになり、絶賛された。

 

太完善の受講

 C氏の回顧談がある。

 厳昌録のアイデアの中で、有権者の自尊心を生かして接近せよという内容が印象深かった。たとえば、大田テジョンに寄る前には、必ず顕忠碑に立ち寄るようにといった具合だ。直接会ってみると、とても冷徹でクリーンに見えたが、どうしてかなりの人物だった。

 保安次長補を務めたK氏は、組織論を読んだ読書感想として次のようにいう。

最初のページを開いたらあんぐりと口が開いた。「選挙とは有権者を如何に操作するかの技術」というのが題目だった。

 KCIAが厳昌録に注目し始めたのは、金炯旭キムヒョヌック部長時代の末期からだったという。続いて部長となった金桂元キムゲウォン氏は、厳昌録の名が何度も報告で上がってきて、今でも鮮明に記憶している。金桂元部長は、金大中が大統領候補として浮上してきたため、厳昌録を東橋洞から隔離すべきだという幹部の建議を受け入れざるを得なかった。

 その頃(1970年11月)、陸軍参謀本部の情報参謀副次長を務め、KCIA保安次長補に移ってきた姜昌成カンチャンソン(当時所長)は、この隔離工作の報告を受けていた。

 

裏工作論争

 姜昌成氏はこのように証言している。

 南山では、厳昌録を懐柔したというが、赴任直後の私には、逆に情報部が騙されているようにもみえた。彼は頭がよく、弱々しくみえたが、最後までDJ(金大中)側についていたようだった。紆余曲折の末、結局DJとは決別したのだが…

 金大中が大統領候補になった後、新民党内では厳昌録の問題でいくつか議論があった。

 第一に、厳昌録の組織方式は、効果的ではあるが莫大な経費がかかり、全国規模の大統領選挙には合わないという批判が出ていた。国会議員の選挙区の大きさであれば、表の組織(A選)より裏工作(B選)が威力を発揮するが、全国規模ではその力を発揮できないという批判だった。

 第二に、厳昌録が全国区議員のイスを要求したが、金大中は様々な条件を勘案してその要求を受け入れなかった。金大中の側近は、厳昌録が金大中から離れるための口実として全国区議員を要求したものと見ていた。

 いずれにせよ、1970年の秋以降、厳昌録が、懐柔と義理の分かれ道でさまよっていたことは確かだった。厳昌録夫人によると、ソウル本洞の家の前には無線を付けた車が貼り付いていて、警察官・防犯隊員がいつもいたという。

 そんな中、厳昌録の運命を変える事件が起こった。1971年1月27日、金大中候補宅での爆発物事件だ。

 

左側から厳昌録、金玉斗氏などの当時の金大中新民党候補の側近。国会の特別調査委に出席、東橋洞金大中候補自宅爆発物事件についての証言をするために宣誓をしている

 

  南山の部長たち(35)金大中・厳昌録分断の特命

東亜日報|1991.04.12記事(企画/連載)

李厚洛部長「必要な予算いくらでも出す」

粘り強い懐柔、11日前に抱き込み

「選挙の鬼才 意外と役立たなかった」KCIA失望

東橋洞爆発事件、いまだに謎

 

党政会議の初会合

 1971年1月に発生した大統領候補の金大中キムデジュン自宅爆発物事件。4月27日の選挙の4ヵ月前に起きたこの事件は今でも謎に包まれている。

 機関によるテロか、金大中候補側の自作自演か。20年の歳月が流れた今でも双方の主張は平行線だ。当時、KCIA幹部らは「政治的注目を集めるための計略」と主張した。金大中陣営は「事件捜査を口実に金大中候補の組織資金関係などを把握しようとした機関の陰謀」(権魯甲クォンノガップ議員)と反論した。

 当時、大統領選挙を控え、最近の「関係機関対策会議」の原型といえる「党政要人会議」が初めて組織された。李厚洛イフラク情報部長・内務部長官・検察総長(7代KCIA部長)・共和党議長代理・検察総長・財政委員長・大統領秘書室長・KCIA次長補などがその主要メンバーだった。1970年12月、李厚洛が情報部長として着任して、「大統領選挙必勝」を誓って作ったこの会議体は、李厚洛部長自らが主宰し、その結果は秘書室長から朴正煕パクチョンヒ大統領に報告される形で進められた。

 この会議で、東橋洞トンギョドン爆発物事件も取り上げられた。李厚洛が内務長官朴景遠パクギョンウォンに「一体誰がやったんですか。警察がやったんじゃないんですか」と問い詰めた。しかし、朴景遠は「どうして警察がそんなことをするんですか。やるとすれば情報部しか……」と受け流した。

 当時の会議参加者の一人は、「そんなやり取りから見て、機関の仕業ではなかったようだ」と語った。「警察やKCIAが、そのような事件を起こして世間の耳目を集めたところで何ら得るものはなかった」と反駁する。つまりは、金大中候補側の自作自演だという主張だ。

 しかし、金大中陣営は大きく動いた。当時、情報機関が14歳だった金大中の甥弘準ホンジュン清雲チョンウン中2年、現在保険会社勤務)を犯人扱いして拷問まで行い、事件を捏造しようとしたと主張した。

 当時、弘準君に対する拘束令状をめぐって裁判所と検察の駆け引きがあった。奇妙な巡り合わせで、今は安企部部長となった徐東権ソドングォン検事と屈指の人権弁護士となった趙準煕チョジュンヒ判事が、なんと5時間46分も令状を「出せ」「出せない」と攻防戦を繰り広げたのもこの時だった。

 いずれにせよ爆発物事件を契機に、調査を受けた金大中陣営の組織員らは51人に達した。特に、KCIAが目をつけていた組織担当補佐官厳昌録オムチャンノクは、彼自身だけでなく妻のチャン氏、家政婦の金春子キムチュンジャ氏まで呼ばれて取り調べを受けた。

 

1971年1月に爆発物が炸裂した東橋洞の金大中新民党大統領候補の家で現場検証をする捜査官。玄関前のX印のところが爆発した場所。

 

 厳昌録に対するKCIAの本格的な懐柔工作が始まったのはこの時からだった。李厚洛イフラクは第6局局長の金聖柱キムソンジュ(治安本部長・9代国会議員)チームに、金大中と厳昌録とを離反させるよう厳命した。「予算」は必要なだけ使えたと当時のある幹部は証言した。

 厳昌録は、1971年2〜3月、KCIAの懐柔工作に翻弄されていたが金大中候補側に立っていた。しかし、4・27選挙を10日後に控えた4月16日の参謀会議には現われなかった。

 厳昌録が金大中を裏切って消えた直後、大邱テグ釜山プサンで奇妙なことが起き始めた。

 権魯甲クォンノガップ議員の証言がある。

 

4大敗因の中の一つ

 大邱で、選挙の終盤になって「湖南ホナム人よ団結せよ」「百済ペクチェ圏大同団結」といった印刷物が、全羅道チョルラド郷友会名義で出回った。さらに、ラッキー歯磨き粉不買といった地方色丸出しの印刷物が、地元の有権者の家にところかまわず配られた。釜山でも、「湖南候補に票を入れよう」「湖南人よ団結せよ」というスローガンが電柱に出たとの報告があった。現地の世論は、一夜にして沸き立ったが、時間がなくて何らの手も打つ暇がなかった。これが姿を消した厳昌録の仕業だと断定せざるを得なかった。

※湖南:全羅道の別称。

※ラッキー歯磨き粉:慶尚南道晋州出身の具仁会のラッキー化学(後のLGグループ)の製品

 当時、KCIA幹部たちは粘り強い工作で厳昌録を引き入れたが、意外と活用度が低くて、「実務の面で1〜2つのアイデアを得た程度だ」という声もあった。

 しかし、金相賢キムサンヒョンなど金大中陣営の参謀たちは、厳昌録を奪われたことを、「金鍾必キムジョンピルの遊説加担」「朴正煕パクチョンヒの最後の出馬公約」「新民党要人たちの怠惰」とともに、4大敗因の一つに挙げている。

 厳昌録がソウルに姿を現したのは、選挙から1ヵ月が過ぎた6月ごろだった。彼は俗離山ソンニサンに「拉致」されていてそこから帰ってきたという。そして、日本に渡って朝鮮総連の人々を韓国側の居留民団に転向させるとも述べた。しかし、「KCIAに懐柔されて協力したことはない」と断言した。

 厳昌録の妻は、最近になって、「夫は選挙直前に政治を辞めた後、一緒に働いた組織参謀たちに「すまない」とよく言っていた。夫は買収されたのではなく、組職内部の葛藤で辞めたのだ。夫は88年1月3日に死去する直前まで、第13代大統領選挙の結果、金大中候補がどうなったのかを気にかけていた。酸素吸入器のため話せなかったので筆談で尋ねていた」と語っている。

 しかし、李龍煕イヨンヒ前議員や金元植キムウォンシック氏ら厳昌録の元同僚たちは、一様に「健康と生活が苦しく懐柔工作に屈してしまったのであり、政治的には金大中候補に対する完全な裏切りだ」と言い切った。

 金桂元キムゲウォン情報部長の時に始まった厳昌録への懐柔工作は、李厚洛イフラク部長の時に終わった。それを「仕事に対する執念と腕の違いだ」と言うKCIA幹部たちもいる。

 金桂元部長は部下のために苦労した。

 就任後間もない金桂元部長を大統領が青瓦台チョンワデに呼んだ。「KCIA次長の李炳斗イビョンドゥが豪華な住宅に住んで日本人の庭師を使っているというが、本当か」と尋ねた。朴正煕大統領は、保安司令部や大統領警護室といった情報チャンネルからの報告で知ったようだった。

 金桂元部長は南山に戻り、李炳斗次長を呼んで詰問した。意外にも李炳斗は、「そう言えば、そういうことにもなりますね」と素直に認め、辞表を出すと言った。

 後任の次長は、金致烈キムチヨル(後に法務内務長官を歴任)であった。金桂元が、法曹出身の前次長李炳斗から推薦された金致烈カードを大統領に上げたらあっさり受け入れられた。

 金桂元部長は監察室長として金海栄キムヘヨン(予備役大佐)という同郷の友人を座らせた。

 

利権ゲームのトラブル

 金桂元部長自身が情報部をよく知らなかったため、大学の同窓でもある金海栄を起用した。

 ところが金海栄が問題だった。監察室長の職位を利用して利権に無理やり介入し、幹部たちの間で確執が生じた。

 金海栄は、自分の友人が持っている時価10億ウォン程度の不動産を信託銀行傘下の防衛会社であるハンシン不動産に買い取るよう圧力をかけた。ハンシン不動産側がこれに応じなかったところ、監察室長の職位を利用して暴力を振るった。結局、ハンシン側はこれに屈して買い取ることになったが、これが国税庁の税務監査で摘発された。

 摘発時の情報部長は李厚洛で、国税庁長は呉定根オジョングン。金桂元は駐中華民国大使として赴任した後のことだった。

 窮地に陥った金海栄は、金桂元と軍に差益金5億ウォンの一部を上納したと言い逃れようとした。このため金桂元は困り果ててしまった

 金桂元は、この事件の後、何度か訪ねてきた金海栄には決して会おうとしなかった。そして、「今もJP(金鍾泌)に会うたびにこの事件のためにとんでもない迷惑をかけて申し訳なく思う」と語った。

※金桂元は情報部長の時代に共和党からの攻撃を牽制するために、当時外遊中だった金鍾泌を返り咲きさせたりした。

<金忠植記者>

  解放後の石仏

 景福宮北側の景武台に1939年10月に完成した朝鮮総督官邸には、南山倭城台の総督官邸にあった石仏が移設された。そして植民地支配は終わり総督官邸の主は去ったが、石仏はそのまま置かれていた。

 

 1945年9月、アメリカ軍政庁が設置され、旧朝鮮総督官邸は軍政長官ホッジ中将(John Reed Hodge)の官邸となった。1948年8月15日に大韓民国が建国されると、今度は大統領李承晩イスンマンの官邸・執務室として使われた。

 

 1960年4月に李承晩政権が倒れ(4・19革命)、尹潽善ユンボソンが大統領になった。4月の一定期間、お花見のために景武台キョンムデを一般市民に開放する「賞春祭サンチュンジェ」は、李承晩時代の1957年から始まったが、景武台が李承晩大統領辞任要求デモに取り囲まれた1960年には中止された。尹潽善が大統領になると、それまで「景武台」と呼ばれていた大統領官邸の呼称が、「青瓦台チョンワデ」に変えられた。そして1961年には、4月の青瓦台一般解放が復活した。

 

 

 1961年5月16日に朴正煕パクチョンヒが軍事クーデターを起こし、尹潽善は1962年3月に大統領を辞任した。1963年10月には朴正煕が3人目の大統領に就任した。この間も、春のお花見シーズンの賞春祭の青瓦台開放は毎年続けられた。青瓦台の石仏も多くの人々が目にした。1963年の朴正煕がまだ大統領権限代行だった時期の賞春祭の映像が残されている。この13秒から17秒に石仏が映っている。

大韓ニュース第414号-お花見(1963年4月27日制作)

 

 4年後、国会議員選挙を前にした1967年4月の賞春祭の様子について、『朝鮮日報』がこのような記事を書いている。

 

 普段は関心がもたれることないものが選挙の時になると政治的に利用されることがよくあった。今回は青瓦台の湧水(ヤクスト)の横の石仏が物議を醸すことになった。

 この石仏は無学大師がソウルを李王朝の首都に定めた時に造ったものだが、李承晩や尹普善の大統領在任中にもそのままあったもので、去る19日に青瓦台を解放して以来押し寄せた45万人の花見客たちにも人気だったもの。

 ところが選挙シーズンだからか、朴正煕大統領とこの石仏を結びつけて、大統領は仏教と近いだの、だからキリスト教を嫌ってるだのといった噂が飛び交うもので大統領秘書室は非常に緊張。

 ある秘書官は「子供の花見客には毎年贈っていた鉛筆1本とノート1冊も、今年は選挙の年だからやめているんだが、石仏を政治的に関連づけるのは度を越している」と愚痴。

(下線は筆者)

 青瓦台の石仏はそのまま残されていたのだが、解放から建国・朝鮮戦争の混乱の中で、1934年に「発見」されて搬入経緯などが明らかになっていたはずの石仏は、再びその由来や出自がわからなくなっていた。この記事では、1394年に無学ムハック大師が漢陽ハニャン(ソウル)を都と定めた時に造ったものとされている。

 

 李承晩と尹潽善は、プロテスタント系のクリスチャンだった。朴正煕は無宗教だったが、陸英修ユギョンス夫人が熱心な仏教徒であった。そうした背景もあって、1967年6月の国会議員選挙を前にした青瓦台の一般開放では、この石仏が仏教とキリスト教との対立の火種になっているというのが上掲の記事である。

 

  非公開、そして部分公開へ

 1968年1月、青瓦台を襲撃しようと北岳山麓まで接近した北朝鮮の武装工作員と韓国側の軍警との間で激しい銃撃戦が起きた。
 

 

 この事件以降、青瓦台周辺一帯は通行が厳しく規制されるようになり、青瓦台後方の北岳山ブガクサンは入山禁止になった。春のお花見シーズンの青瓦台の一般開放もなくなり、その後30年近く大統領官邸周辺への一般の人々の接近が遮断されることになる。

 

 その間、この青瓦台の石仏は1974年1月にソウル市有形文化財24号として登録された。旧総督府博物館の資料などから、この石仏についても、その来歴がある程度わかってきたのであろう。しかし、一般の人々がその有形文化財の石仏を実際に目にすることはできなかった。

有形文化財指定から20年経った1994年、この石仏が突然マスコミに公開された。1987年の「民主化宣言」以降の初の「文民政権」を売り物にした金泳三キミョンサム政権の時代である。だが、民主化が公開につながったのではなく、この部分公開は宗教的な風聞がきっかけとなったものだった。

 

青瓦台、構内の仏像公開
「連続する事故は仏像除去のせい」の噂に対処
統一新羅時代の石造り… 慶州から移動
『朝鮮日報』1994年10月28日

 青瓦台は、27日午後、青瓦台担当記者に構内の官邸の裏山にある石造如来坐像を公開した。この仏像に関するとんでもない噂のためだった。
 韓国国内で、このところ「最近の相次ぐ事件・事故がキリスト教信者の大統領が、青瓦台の仏像を片付けてしまったため」という噂が流れた。26日には、香港のフィナンシャル・レビューが、ソウル発の記事で「金泳三大統領は、昨年2月の就任直後に仏像を片付けたが、聖水大橋事故や忠州湖遊覧船事故が仏の怒りによるものだというので、仏像を元の位置に戻すよう指示した」というとんでもない記事を掲載した。大統領府は同紙と記者に抗議している。

 高さ1m10cmほどの8世紀統一新羅時代の石仏は、日本の植民地支配下で寺内正毅総督が慶州南山にあったのを青瓦台に移したもの。

 この石仏は、その後青瓦台の裏山の中腹にあったが、1989年、盧泰愚大統領が官邸を新築したときに50mほど北に上がった現位置、官邸をすぐ見下ろす場所に移された。この仏像は、ソウル市有形文化財24号として建物も建てられている。

 一方、大統領府の関係者は、キリスト教界でも大統領に関して流れているうわさに頭を悩ませている。例えば「金大統領が最近、各公共機関別のキリスト教信者会(信友会など)をすべて解体するよう指示した」とか、最近事件・事故が続いているのは、金大統領が大統領府に入って信仰生活が乱れたためだというような「事実と異なる噂」が出ているという。

 

 盧泰愚ノテウ大統領時代の1990年10月に、旧官邸の西側に新しく新官邸が建てられ、その北側に石仏は移されていた。現在の石仏の位置である。上掲の記事の写真は、移転後のものである。

 

 1992年2月に就任した金泳三大統領は、李承晩、尹潽善以来のプロテスタント系キリスト教徒の大統領であった。それもあって、以前青瓦台で石仏を目にした仏教信者などから、仏像に何かあったのでは…という声があがり、それが記者団への公開ということになったのだという。さらに、キリスト教会の方からも良からぬ噂が出ているという。

 

 さらに、1996年には、今度は曹渓チョゲ寺の僧侶たちに公開された。

 

噂の大統領府の石仏を電撃公開
毀損の説が絶えず... 曹渓宗が確認
『ハンギョレ新聞』1996年9月7日

 キリスト教会の長老でもある金泳三大統領の就任後、仏教界の一部から「仏像毀損」の噂が出ていた大統領府の官邸裏の石仏が、6日、電撃的に公開された。
 大韓仏教曹渓宗の僧侶8人が、金泳三大統領が中南米歴訪で大統領府を留守にしていたこの日、大統領府側の招請に応じて、午後2時間余り石仏の周辺を視察した。
 この石仏は、日帝時代に慶州のとある寺院にあったものが移され、盧泰愚政権の時まで祀られてきた。しかし、金泳三政権になってから片づけられ、仏教界の不満が高まったため元に戻したのではないかという噂があった。
 引率責任者の鄭休僧侶(仏教新聞社社長)は、「両耳と左指、右腕の肘の部分が少し破損していた」としながらも、「これは総督府時代に移動させた際に生じたり自然風化によって生じたとする大統領府側の説明に納得した」と語った。
 しかし、僧侶の中には「仏像を壊して再び祀ったわけではなさそう」としながらも、どこか釈然としない様子も見られた。
 曹渓宗側によると、同日の電撃的な仏像公開は、大統領秘書室の仏教信者が、最近、朴世逸大統領社会福祉首席秘書を中心に信者の集まりである清仏会を作ったのがきっかけとなったという。
 清仏会が、近いうちに曹渓寺で創立法会を開くことになり、曹渓宗の総務院長などと法会出席を協議する過程で、直接実際に見て確かめて噂の真相を明らかにしようという曹渓宗側の提案を青瓦台が受け入れて実現したという。
 これと同時に、金泳三大統領が大統領府に牧師を呼んで家族礼拝をしていることなどをめぐって、仏教界の不満が少なくなかったことから、大統領選挙などを控えて、わだかまりを解消するための与党側のジェスチャーの一つと解釈する向きもある。

 こうした韓国の宗教と統治の関わりは、統治者や政治家と宗教の関わりにほとんど関心を示さない日本社会とはかなり異なっている。

 

  青瓦台の全面公開まで

 金泳三の次の大統領金大中キムデジュンはカトリック信者だった。金泳三政権の時代に青瓦台周辺の通行規制などが緩和され、金大中政権は青瓦台の見学ツアーを本格的に始めた。このツアーはその後の大統領の政権下にも引き継がれ、青瓦台周辺の厳しい通行制限や統制は徐々に緩和されていった。

 

 しかし、大統領の居住スペースである大統領府の官邸エリアはこのツアーのコースには含まれていなかった。セキュリティやプライバシーの観点から外されていたのであろう。そのため官邸の北側の石仏も見ることができなかった。

 

 2018年、青瓦台の石仏は「慶州方形台座石造如来座像」として国家指定文化財宝1977号に指定された。文在寅ムンジェイン大統領が石仏の再調査を指示したことが発端だという。その結果、この石仏がもともとあったとされる慶州キョンジュ移車寺イゴサについても多くの関心が寄せられるようになった。朝鮮総督の寺内正毅が絡んでいて、慶州から運び込まれたことが知られるようになると、慶州の元の位置に戻すべきだとする議論も起こった。ただ、移車寺は廃寺になって久しく、その土地は私有地になっており、慶州の元の場所に戻すのは困難とされている。

 

 

 今年(2022)年5月に就任した尹錫悦ユンソギョル大統領は、大統領府として青瓦台を使用しないことを決定した。大統領府ではなくなった青瓦台は、観覧を希望する国民に抽選で公開され、官邸のエリアやこの仏像についても、多くの人々の目に触れることになった。

 

 青瓦台の公開当日の5月11日、この石仏の前で器物破損事件が起きた。

 この石仏の前に置かれていた仏前函や香炉などが、キリスト教徒を自称する50代の女性によって破損されたのである。その女性は、見学者が石仏に向かって拝礼する姿を見て腹が立って衝動的に石仏の前の器物を投げ捨てたという。

 

 

 

 「美男石仏」とほめそやされ、現在は「慶州方形台座石造如来座像」として国家指定の文化財宝にも指定されたこの石仏は、日本の植民地統治下から今日に至るまで、1世紀以上の多事多難な時代を見てきた。

 

 この石仏をめぐる解放後の紆余曲折をとっても、政治・統治と宗教との関係が韓国と日本とでは違いが大きいことが感じられるのではなかろうか。