- アルトゥル飛行場の位置
- アルトゥル飛行場の建設と中国爆撃
- 戦争末期のアルトゥル飛行場
- 残存施設(北側)
- 残存施設(南側)
済州島は、火山島で、溶岩洞窟や釣鐘状の溶岩ドーム、それに海に注ぐ瀑布など自然景観に恵まれた観光の島である。その一方で、1948年の4・3事件で多くの島民が虐殺され、消滅した集落跡が点在する悲劇の島でもある。4・3事件は左翼による騒乱として、1990年代まで、その犠牲者の慰霊すら許されなかった。1998年に就任した金大中大統領のもとで4・3事件真相究明特別法が制定され、2006年に盧武鉉大統領が犠牲者慰霊祭に出席して正式に謝罪した。今では、済州平和記念館をはじめ、各地に慰霊碑が建ち、焼き討ちで失われた集落の保存・整備も進んでいる。
そのような済州島には植民地統治下の日本軍の軍事施設が残されている。「日帝残滓」がいまだ点在する島でもある。
ここでは、済州島の南西部に作られていたアルトゥル飛行場とその周辺の残存施設を、日本軍が残した地図を参照しながらみていきたい。
アルトゥル飛行場の位置
陸軍省が1945年7月10日に作成した「上奏用 朝鮮軍兵力配備図」の中に、済州島の「第58軍配備概見図」が残されていて、防衛研究所所蔵資料をアジア歴史資料センターがデジタル公開している。
上掲地図で島の左下の部分、慕瑟峯から慕瑟浦、上慕里、そして松岳山の海岸にかけての地域にアルトゥル飛行場とそれに関連した日本軍の軍施設が残っている。
左図は一部地名を補正上書き
アルトゥル飛行場の建設と中国爆撃
日本による植民地統治下の済州島は、軍事的には海軍佐世保鎮守府の出先である鎮海要港部の管轄下に置かれていた。
柳条湖事件の半年前の1931年3月、済州島南西部の慕瑟浦平野で済州島航空基地の建設工事が始まった。約5年間かけて1,400m×70mの滑走路を有するアルトゥル飛行場とその付帯施設が完成した。
1937年7月7日の盧溝橋事件をきっかけに日中戦争を仕掛けた日本軍は、8月15日から中華民国の首都南京への渡洋爆撃を開始し、大村海軍航空部隊の九六式陸上攻撃機がこの済州島航空基地から中国本土への空爆を繰り返し行った。
日本軍が11月に上海付近の飛行場を確保すると、中国本土爆撃の拠点はアルトゥル飛行場からそちらに移り、済州島航空基地には大村海軍航空隊の練習航空隊が配備された。
戦争末期のアルトゥル飛行場
1941年12月に太平洋戦争が始まったが、開戦当初は済州島の部隊配置には大きな変化はなかった。しかし、1944年になって日本の敗色が濃くなってくると、「本土決戦」が叫ばれて済州島全体の軍施設の地下化が図られるようになった。アルトゥル飛行場の済州島航空基地でも、10月上旬から拡張工事が始まった。この工事には多くの朝鮮人が強制的に動員され、飛行場周辺だけでも少なくとも1,500人程度が働かされたと推定されている。
戦争最末期のアルトゥル飛行場とその周辺施設の様子は、「済州島基地施設位置図 縮尺五千分之一(以下「基地位置図」とする)」に描かれている。防衛省防衛研究所所蔵の「鎮海警備府 引渡目録」に収録されていて、これをアジア歴史資料センターがデジタル公開している。敗戦後、アメリカ軍に引き渡すために日本側で作成したものと思われる。
残存施設(北側)
上掲の「基地位置図」と現在残されている建造物とを比較してみよう。
まず、「基地位置図」の上部、すなわちアルトゥル飛行場の北側、現在の上慕里・伊橋洞に残されている日本軍施設をみてみる。
現在、大静高等学校の正門の向かい側に地下施設が残っている。
位置から推測すると、病舎の東側の地下に建設された「避病舎」ではないかと思われる。そうだとすると大静高校の位置に「病舎」があったことになる。
大静高校の南側は、現在は韓国軍海兵隊91大隊の駐屯地になっている。
「基地位置図」では、この一帯に日本軍の兵舎などが並び、実習地が描かれている。実習地の南東側に「耐弾式受信所」とあるが、この施設が残っている。
朝鮮戦争時には、日本軍の兵舎や実習地のあったところに韓国軍第一訓練所があり、この「耐弾式受信所」を弾薬庫として使用していたという。
残存施設(南側)
上掲の「基地位置図」の下側部分にも松岳山にかけて関連施設が残っている。
- 飛行指揮所
西側の滑走路(飛行場)に面して「指揮所」の鉄筋コンクリートの支柱部分と階段、上部の床面が残っている。上部床面には、円型の構造物の痕跡がある。「基地位置図」では、「指揮所」北側に「耐弾式飛行指揮所」、東側に「防弾指揮所」が描かれており、これらは1944年秋の改修工事で建設されたと考えられるが、それらしい痕跡は見当たらなかった。
- 有蓋掩体(飛行機格納庫)
飛行機を空爆から防護するための「有蓋掩体」の建設は1944年11月から始まり、その年の年末までに20棟の「有蓋掩体」が完成した。現在、そのうち19棟が畑の中に点在している。
2010年8月
- 発電所
「飛行指揮所」の南東側に地下施設が残っている。
「基地位置図」には「弾薬庫」からの道の延長線上に「発電所」が描かれており、現在残っているこの地下施設が耐弾式の発電所であろう。
- 弾薬庫
「基地位置図」に「弾薬庫」と記された場所は今は巨大な窪地になっていて、雨水が溜まっている。その周辺には鉄筋コンクリートの塊が散乱している。
日本の敗戦でアメリカ軍がここを接収した後、残っていた爆弾や砲弾を弾薬庫ごと爆破処理したとされる。
この場所は、旧日本軍の施設跡地であると同時に、4・3事件の虐殺現場でもある。
済州島では、1948年に、北緯38度線以南だけの単独選挙に反対する運動が起きた。それを武力で押さえ込もうとする警察や軍、右翼青年団との衝突から、反対派は4月3日に武装蜂起した。山に立てこもったパルチザンに同調すると見なされた一般島民までが拘束・殺害され、何ヶ所もの集落が政府軍・警察の手で焼き払われた。1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発すると、韓国の内務部は、4・3事件に関連する「要注意人物」や「不穏分子」を拘束するよう命じた。そして、7月から8月にかけて、拘束されていた島民がこの弾薬庫跡で「処刑」され、埋められた。
この虐殺事件で虐殺された島民犠牲者を追悼する「名誉回復鎮魂碑」が建てられたのは、57年後の2007年のことであった。
この慰霊碑の日本語の説明版にはこのように書かれている。
摹瑟浦警察署管内でも344人を予備検束し、監視していた。そして、慕瑟浦駐屯の政府軍は同年7月16日頃に20人、8月20日に193人など210人以上を法的手続きもなしに集団虐殺・埋葬し、遺族に遺体を引き渡さずに民間人の出入りを統制していたが、1956年の春にようやく遺骸発掘が許された、凄まじい歴史の現場である。
1957年に発掘された132体の遺骨を共同墓地域に改葬したが、遺体の身元確認ができなかったため「百祖一孫之地」と名付けて犠牲者の名前を刻んだ慰霊碑を建てた。ところが、1961年、朴正煕らによる5・16軍事クーデターが起きるとこの碑は「反共政策にそぐわない」として破壊された。その後1987年の民主化宣言を経て、1993年になって慰霊碑は再び建てられた。
- 高角砲
対空砲火用の重火器を、陸軍では「高射砲」と呼ぶが、海軍では「高角砲」と呼ぶ。弾薬庫の背後の高台ソダルオルム(섯알오름)とセダルオルム(셋알오름)に、1942年に高角砲4門と高射機関砲6門が据え付けられた。現在セダルオルム上の「十二糎高角砲」の砲台部分がオルレキル※上に残っている。
※オルレとは済州方言で道から家までの路地を意味し、2007年から済州島を周回するコースとしてオルレキルが整備されている
1944年6月16日に中国成都基地から北九州方面の爆撃に向かったアメリカ軍B29に対して、済州島から対空火器の攻撃があったとの記録がある。また、8月20日の八幡空襲の時にはB29に対して済州島南岸から重対空砲火が撃たれたとあり、このアルトゥル飛行場周辺の高角砲による砲撃だったとみられる。
- 地下施設
高角砲の砲台のあるセダルオルムの地下部分に地下壕がある。2013年頃は出入り口に鍵がかけられていたが、2015年には中に入れた。鉄骨で補強され、上部には落石防止用のスレート板が設置されていた。
- 隧道(震洋格納用)
松岳山の麓の海岸には、奥行き20m弱のトンネルが10本、40m弱のが4本、それらと少し離れてさらに大きいものが2本確認されている。当初は高さ2.5m、幅3mだったとされているが、崩壊が進んでおり今はかなり狭くなっている。6〜7年前から、断崖上部が崩落する危険があるとして付近への立ち入りが禁止されている。
このトンネルは、日本海軍が特攻船艇の発進基地として1945年2月から建設を始めたものである。自爆攻撃用の「震洋」が格納された。「震洋」は長さ5m、幅1.6mで一人乗り、前部に250キロ爆弾を積んだ。軍の命中率の見込みは1/10程度だったという。
Japanese Shinyo Suicide boat. US Navy photograph, 1945
この時に、松岳山だけでなく、北村里犀牛峰、高山里水月峰、西帰浦三梅峰、そして城山里日出峰の全5カ所で、海岸に自爆攻撃用船艇の格納用隧道が掘られた。
高山里水月峰(りうめいさん提供)
西帰浦三梅峰(りうめいさん提供)
城山日出峰遠景
済州島には、これ以外にも「本土決戦」のために掘られた洞窟陣地が残っている。
漢拏山の北西側の中腹には、御乗生岳の洞窟陣地がある。
また、父親が工事に強制動員された李英根氏が建てた済州平和博物館があり、カマオルム洞窟陣地を整備して一般公開していた。
2010年8月
2012年に運営難から売却の話が出て、紆余曲折の末、済州道が買収することになったが、現在もまだ洞窟陣地は非公開のままになっている。
本ブログ中の写真は、一部を除き2015年と2016年に撮影したもの
参考文献
塚崎昌之「済州島における日本軍の「本土決戦」準備--済州島と巨大軍事地下施設」韓国文化研究振興財団編『青丘学術論集』22, 2003-03
神谷丹路『韓国—近い昔の旅』2001, 凱風社