梨泰院(イテウォン) | 一松書院のブログ

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  • 1980年代の梨泰院
  • 梨泰院の歴史
  • 変貌した梨泰院
  • 米軍の街から脱却
  • もう一つの梨泰院

 


 ソウルの「繁華街」と紹介される梨泰院だが、私が最初にソウルで暮らした1980年代前半の梨泰院は、「ミ・パルグン(米8軍)の街」「外人ウェインの街」であり、夜は相当に「ヤバい場所」だった。いまだに、その「ヤバさ」が尾を引いて人々を誘引しているような気もするのだが…

 

  1980年代の梨泰院

 1985年度版の『ブルーガイド 韓国』では、さらっと触れられている。

 

 

 同じ年に出た講談社『世界を食べる旅 韓国』では見開きで紹介されており、ハミルトンホテルの斜め向かいにあったポパイハウスなども紹介されている。

 

 このポパイ・ハウスは、1984年に封切られた映画「鯨とり(고래 사냥コレサニャン)」に出てくる。アン・ソンギとキム・スチョルがアメリカ人の夫婦に金をせびる場面がこの店の前で撮影された。当時の「いかにも梨泰院」という場所の一つだった。多分この店は、ポパイのイラスト使用のローヤルティは払ってなかったと思うが…

 

고래 사냥(1984)

 

 この当時は、昼は革製品、螺鈿家具や真鍮製品、それに骨董品や偽ブランド品などの店が並んでいるのだが、夜になると「米軍の御用達の歓楽街」。そこにちょっとヤンチャな若者たちが集まってくる街になっていた。

 

 その歴史を掘り起こし、今に至るまでの変遷をまとめてみたい。

 

  梨泰院の歴史

 梨泰院は、朝鮮王朝時代の漢陽ハニャン城外の最初の宿場の一つで、東は普済院ポジェウォン、西は弘済院ホンジェウォン、南がこの梨泰院(利泰院)だった。

 

漢陽圖

 

 日露戦争後の1908年から、梨泰院の東側に広がる一帯に日本軍の駐屯地が作られた。20師団の野砲26連隊、歩兵78・79連隊の兵舎や将官宿舎が立ち並んだ。いま、三角地の戦争記念館がある場所は79連隊の兵営で、その南側の師団司令部があった場所がのちに韓国国防部クックパンブとなった。現在は、そこが尹錫悦ユンソギョル大統領の執務室になっている。

 

上:Googleマップ航空写真 下:1921年測量の1万分の1地図

 

 今の梨泰院のメインストリートは、1930年代になってから三角地と新堂町(現新堂洞シンダンドン)をつなぐ「南山周回道路」として建設されたもので、朝鮮人の共同墓地などをつぶして1937年に開通した。

 

 1945年8月、日本の敗戦とともに龍山ヨンサンの日本軍施設はすべて米軍に接収された。

 1948年の大韓民国の建国とともに、これらの施設は米軍政庁から大韓民国政府に順次払い下げられることになった。ところが、1950年に朝鮮戦争が勃発し、国連軍として参戦した米軍はここに残されていた旧日本軍施設を拠点にした。そして、朝鮮戦争休戦後に韓米相互防衛条約が締結されると、それがそのまま駐韓米軍の基地となった。

 

 朝鮮戦争中、韓国には32万の米軍がいた。1957年には7万にまで減少したが、韓国駐留の米軍将兵の多くは龍山の基地内や、南山ナムサンの中腹、漢南洞ハンナムドン東部二村洞トンブイチョンドンなどに建設された「外人ウェイン住宅」に入居した。軍属やその家族などの軍関係者も基地周辺に暮らしていた。
 

 1950年代の終わりから1960年代には、梨泰院のメインストリート沿いに米軍関係者向けのショップや遊興・娯楽施設が軒を連ねた。それにつれて裏路地には怪しげな性風俗の店も増えた。

 

 1960年代後半から1970年代にかけては、泥沼のベトナム戦争の時期。韓国軍もこの戦争に派兵していた。韓国は「ベトナム反戦デモのない世界でも数少ない国」とされていた。梨泰院は、戦場帰りの米軍将兵の歓楽の街としても大いに「繁栄」することになった。
 

 1980年代、昼間の梨泰院は、衣類や皮革製品、螺鈿、アンティーク家具など、それに輸出用と称する衣料品や偽ブランド品などのショップが並んでいた。「日本への輸出品の横流しだ」と言われて私が買ったジーンズの洗濯タグをよく見てみると、「洗って下ちい」とプリントされていた…。

 暗くなると米兵相手の飲み屋、クラブ、ディスコのネオンが瞬き、異国の基地の街になる。米軍相手の店では支払いはその場でキャッシュ。時折、米軍のMPがパトロールしてはいるのだが、酔っ払いの喧嘩や交通事故は日常茶飯事。ハミルトンホテルの斜め前、消防署の横をあがったところの「テキサス村」は米軍専用の私娼窟として、よく探訪記事に登場した。昼間はまだしも、夜の梨泰院は韓国人でも近寄りがたい「外国軍の街」「不気味な街」だった。

 

「未成年者出入禁止」警告の中でセックス・幻覚剤など、よろめく白や黒の若者の犯罪地帯


 そうした特異性もあってのことであろう。韓国社会で疎外された人々がここに集まり始めた。「チャンミ」や「ボッカチオ」というオネエ系の飲み屋があったのも梨泰院。まだLGBTとかトランスジェンダーなどという呼び方もない時代だった。「ゲイバー」は、「退廃テッペ」の象徴としてしばしば警察の手入れを受けた。見せしめに「彼ら」の写真が新聞紙上に晒しものにされたが、「彼女ら」がそれにめげることはなかった。

 

  変貌した梨泰院

 1980年代に入ると、漢南洞寄りの方にブティックなどが徐々にでき始めた。ファストフードや軽洋食、本格コーヒーが飲める蘭茶廊ナンダランなどもでき、街の雰囲気が少しずつ変わり始めた。

 

 その大きなきっかけとなったのは、1983年の秋に相次いでソウルで開催された二つの大規模国際会議である。9月にASTA (アメリカ旅行業者協会)の総会が開かれ、10月にはIPU(国際議会連盟)総会が開かれた。ASTA総会では世界各国の旅行業者6,500人が、IPU総会では各国の国会議員など約600人が韓国を訪れた。

 

 民主化要求を圧殺して権力を握った全斗煥チョンドゥファン政権は、こうした行事を国際社会での地位向上に利用しようとした。すでにその2年前の1981年に「88夏季ソウル・オリンピック」の開催が決定していた。ところが、ソウル中心部の観光施設や食堂、ショップなどで、この時期に英語対応のできるところは限られていた。そこで目をつけられたのが梨泰院。ここなら英語での対応に慣れているし、昼間なら・・・・大丈夫。当局が目を光らせれば、ぼったくりもある程度は抑えられるだろうということで、商売マナーの改善キャンペーンを新聞紙上でも連日繰り広げ、梨泰院を外国からの訪問者のショッピング街に仕立て上げた。

 


 

 国外からの会議参加者がガイド付きのツアーバスで梨泰院を訪れ、これが一つの転機になった。韓国社会の梨泰院イメージが多少変わり始めたのである。

 

内国人が多くなった「梨泰院商店街」

安い市場が人気 青少年から中年層まで幅広い客層

 

 上述の「鯨とり」の撮影がポパイハウスの前で行われたのもこの1983年の秋のことだった。

 

 こうして、86年のソウルアジア大会、88年のソウルオリンピックに向けて、梨泰院は国際的観光スポットへと変貌し始めた。


 

 1989年3月の大韓ニュースでは、観光客が訪れるソウルの名所8ヶ所の5番目に、梨泰院を紹介している。

1分00秒から 88年のソウルオリンピックの時、多くの外国人観光客が訪れた梨泰院市場もソウルの8大名所一つです。

 

  米軍の街から脱却

 1990年代に入って、梨泰院が多国籍の観光地として次第にクローズアップされ始める一方で、米軍への依存度は急速に減少していった。

 

 実は、1980年代半ば以降、「反米のない韓国」は大きく変貌していた。きっかけは1980年5月の光州クァンジュ事件である。光州事件当時、韓国軍の作戦統制権は韓米合同参謀本部にあった。光州のデモ鎮圧に韓国戒厳軍を投入するにはアメリカ側の了解が必須だった。だから、光州での市民虐殺にはアメリカも大きな責任を負っているというのだ。1982年の釜山プサンアメリカ文化院放火事件、1985年のソウルのアメリカ文化院(現在のグレバンミュージアム:旧三井物産京城支店)占拠事件など、韓国社会の反米感情が徐々に表面化し始めていた。1988年になると、梨泰院でも大学生による反米ゲリラデモが行われ、10月には、酔った米兵がタクシーの運転手を殴ったことをきっかけに、米軍兵士と韓国人の乱闘騒ぎが起きた。この時、梨泰院の街頭では米兵40数名と韓国人100名余りが睨み合って一触即発の事態にまで至った。梨泰院での「在韓米軍」と「韓国」との関係が、それまでとは全く違ってきたことを示す出来事でもあった。

 


 2002年に、米軍の装甲車が女子中学生を轢き殺す事件を起こし、市庁前広場での大規模な反米ローソクデモに発展した。しかし、梨泰院ではそれ以前から米軍離れが確実に進行していたのである。

 

 

  観光特区と「異国情緒」

 1996年、ソウル市は梨泰院を観光特区に指定した。もはや米軍に依存する歓楽街ではなくなり、一般の観光客や韓国人の街になったことを象徴するものでもあった。

 


 2001年3月、地下鉄6号線の梨泰院駅が開業した。アクセスは格段によくなった。

 

 この頃には、実際にはもう「基地の街」という面影はほとんど残っていなかった。

 南山外人アパートナムサンウェインアパトゥは1994年に爆破解体されていた。「外人住宅ウェインジュテク」「外人アパートウェインアパトゥ」もすでに死語になりつつあった。龍山の米軍基地は、韓国側への返還プロセスが進み、龍山基地の軍人・スタッフは京畿道キョンギド平沢ピョンテク市のハンフリーズ基地に順次移動した。

 最終的に、2017年7月にアメリカ第8軍司令部が転出し、2018年6月に在韓米軍司令部が龍山から出て行った。多少の米軍施設は残ってはいるが、すでに以前の米軍基地ではない。

 

 しかし、今でも何かにつけて梨泰院は米軍基地と関連づけて語られることが多い。それがあたかも梨泰院のセールスポイントの一つでもあるかのように……。

 

 米軍相手の飲食店が多かった梨泰院のメインストリート北側には、様々な食文化や新しいコンセプトの飲食物を売りにする店が競って進出した。こうして、ハミルトンホテルの裏手の通りには、ベトナム料理、中東料理、ブラジル料理、中央アジアやアフリカの料理などいろいろな国のレストランが立ち並び、ここが「世界飲食文化通り」と称されるホット・スポットとなった。

 

  もう一つの梨泰院

 梨泰院にはもう一つの顔がある。メインストリートの喧騒とは全く対照的に、梨泰院の北側の一画には高級住宅街が広がっている。


 ハミルトンホテルの横から南山の中腹に向かって急峻な坂道を上っていくとハイアットホテルに出る。ホテルの前には1968年に開通した南山循環道路(素月路ソウォルロ)が南山中腹に横に走っている。この北側には以前は高層の南山外人アパートが2棟立っており、ハイアットホテルはその向かいに1979年にオープンした。このホテル建設の計画が持ち上がった時、いち早くその建設予定地の直下に土地を確保したのがサムソン財閥の創始者李秉喆イビョンチョル会長だった。1987年に会長が亡くなった後、その宅地跡にはリウム美術館が建てられ、それに隣接して李健煕イゴニ会長の邸宅があった。新世界シンセゲ李明熙イミョンヒ会長、農心ノンシン辛春浩シンチュウホ会長なども邸宅を構えていた。また、ノルウェー、デンマーク、ブルガリア、ベラルーシなどの大使館や大使公邸がここにある。同じ梨泰院といっても、南山側に坂を上ってこの一画に足を踏み入れると、梨泰院のメインストリート沿いの歓楽街とは全く別世界が広がっている。

 


 

 梨泰院の歴史を辿れば、侵略と戦争、そしてその後の紆余曲折に翻弄されてきたこの街が見えてくる。日本でも話題になったドラマ「梨泰院クラス」にも、その歴史の一端が反映されている。

 「繁華街」と呼ばれるようになった今でも、こうした成り立ちの梨泰院は、普通の人が日常的に足を向ける場所とはなっていない。外国人旅行者にとっても、そして多くの韓国人にとっても、いまだに怪しげな感じが付きまとい、それゆえ特別な日にかこつけて行ってみたくなる場所なのであろう。