年齢の数え方—日本と韓国— | 一松書院のブログ

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  • 日本での数え年と満年齢
  • 大韓帝国・併合下での年齢
  • 解放後の韓国では…

 

 2022年12月8日に、韓国での「年齢の数え方」が変わるという報道があり、すぐに日本の一部でもこの話題で盛り上がった。

 

「満年齢への統一法」法制司法委通過、来年6月から施行
 来年6月から民間の私法関係と行政分野で「満年齢」を使うことになる。生まれた時に1歳という韓国式の数え方が消えることになった。
 国会の法制司法委員会は7日、年齢計算の際には出生日からの年数で計算する満年齢を使うとした民法および行政基本法の改正案を可決した。ただし、出生後1年未満の場合は月数で表示する。
 現行の民法でも「満年齢」の使用を原則としてはいるが、日常生活では出生時に1歳、年を越すごとに1歳ずつ増えていく「数え年」を使い、そのために福祉や医療行政サービスなどに混乱や紛糾を来たしていた。中国・日本など東アジア諸国でだけ使われる年齢の数え方で、国際基準に合っていないという指摘もあった。

 日本で話題になったのは、韓国がらみの話の中で「韓国式の年齢」というのが何かにつけて出てくるものだから。しかし、この記事の後段にもあるように、韓国での年齢計算(数え年)は韓国独自のものというわけではなく、東アジア地域で広く使われていた年齢の数え方である。

 

 生まれた時に1歳、その後、太陰暦で年を越すたびに年齢が1歳づつ増えていく。つまり、太陰暦の大晦日(12月30日)を越えると1歳加わるもので、誕生日は「生日センイル」「生辰センシン」として祝うことはあっても歳は増えない。

 

 これは、前近代の中華文明圏での時間の流れの数え方で、中華文明圏の端っこに位置していた日本でも、幕末維新期まで、太陰暦を使って年齢は「数え年」で数えていた。

 

  日本での数え年と満年齢

 日本では、1872年に太陰暦から太陽暦へと転換し、太陰暦の明治5年12月3日が太陽暦の明治6年1月1日となった。太陽暦となったこの年の2月5日に、「太政官布告第36号(年齡計算方ヲ定ム)」が出され、年齢については「満年齢」を使用するものとされた(下図左側)。ただ、旧暦での年齢計算に関しては「数え年」を使用した。しかし、1902年の「法律第50号(年齢計算ニ関スル法律)」(下図右側)で、年齢は全て「出生の日よりこれを起算」することとなった。つまり「満年齢」に一本化されたということである。

 

 

 ただし、太政官布告の時はまだ「満」という用語はなかった。1880年に出版された『保険要書』には「満年齢」という用語が登場している。つまり、この時期あたりに「満○歳」という言い方ができ、逆に、従来からの年齢の数え方に「数え年」という造語が与えられたのであろう。「数え年」については、1896年出版の教科書『普通算数学:中等教育 上巻』に、

明治十年ニ生レシ人ハ、明治廿八年ニ於テ、かぞへ年何歳ナルカ.

という問題が出ている。また、1905年の『尋常小学算術書:児童用 第4学年』にはこのような練習問題がある。

 このように、1905年には、小学校4年生の段階で、「数え年」と「満年齢」の換算の練習をやらせていた。  

 

 「満年齢」を使うという法律ができても、それは「官」の世界でのことで、「民」は日常生活では「数え年」でやっており、子供でも両方を使い分けることが必要だったのだ。

 

 この小学4年生レベルの問題は、「数え年」の存在を忘れた現代日本社会の人々には解答不能だろう。韓国人だとこの手の問題に簡単に解答できそうだが…。


 戦前から戦後にかけて、日本社会では「満年齢」と「数え年」が併用されていた。戦時中、1942年7月に翼賛会が年齢を「満年齢」に統一する国民運動をやろうとした。ところが、これを政府がやめさせている。国民の生活に根付いている「従来よりの古き慣習」の「数え年」を戦時体制下でやめさせるのは得策でないと判断したのであろう。

 


 敗戦後、1949年に「年齢のとなえ方に関する法律」が制定された。1950年1月1日に施行されたこの法律では、「満年齢で言い表すのを常とするよう心がけねばならない」となった。当時の新聞をみると、今回2022年の韓国の年齢の数え方の変更と似たような反応——若返るとか還暦や厄年が2回来るとか——が書かれている。

 

 敗戦国日本は、この指示に粛々と従って「古き慣習」を捨てた。1960年代の後半には「満年齢」が普通になっていたと思う。

 

 ただ、面白いことに、今でも履歴書のフォーマットの年齢欄には、「満○歳」という記載が残っている。

 

 「数え年」で自分の年齢を書こうとしても書ける人が皆無といってもいいような時代になったにもかかわらず…😁である。
 

  大韓帝国・併合下での年齢

 朝鮮王朝は、1895年に太陰暦から太陽暦への転換を決定し、この年の太陰暦11月17日を太陽暦の建陽元年1月1日とした。しかし、年齢の数え方に関しては、特段の変更があったという形跡は見出せない。

 

 朝鮮王朝が大韓帝国となったのち、1905年4月に、大韓帝国の教育制度改編に関わっていた日本人の幣原坦しではらたいらが「韓国教育改良案」を作成した。その作成にあたって、学部大臣李完用イワニョンと協議をしたのだが、そのやり取りについて幣原は次のように回想している。

次は修業年限であるが、これは当時日本でも四箇年であつたから、その通りにしよう。但し義務教育は,とても最初から励行出来ないが、せめては入学の年齢だけでも定めるがよいというと、大臣も賛成し、「日本の例は」と聞くので,満六才であることを告げると、大臣いう、我が国では、とてもそれは無理です。書房などでも見られる如く、五六才の者も居るけれでも、二十才位のもいます。私いう、然らば八才と定めては如何。大臣いう、それでも揃わないでしょう。私は文献備考を取り出し、「八才入学古之制也」とある処を示すと、大臣驚き且つ感謝し、あなたは私の国の事をよく知っていますネー。ありがとう。早速それに決めましょう。実は八才といつても、数え年であるから、結局満六才に定めるのと、大差がないようなものである。

幣原坦『文化の建設:幣原坦六十年回想記』

 李完用が言った年齢は「数え年」であり、幣原坦はそれを「満年齢」に換算しているというわけである。

 大韓帝国側の学部大臣は「数え年」を使っていたのだが、1906年8月27日に実際に公布された「普通学校令」では、「満八歳」という日本式の「満年齢」での記載になっている。

 

 また、日露戦争最中の1904年9月27日の大韓帝国官報には、大韓帝国陸軍の現役軍人の年齢について「満年齢」で記述した記事が出ている。

 

 

 教育制度や軍隊の制度については、この当時はすでに日本の干渉下に置かれていた。従って、「満」という用語は、年齢の数え方とともに日本から持ち込まれたものと考えられる。

 

 その後、1910年に大韓帝国が日本によって併合されるが、植民地統治下の朝鮮でも、日本の内地と同様に、「官」では「満年齢」で、「民」では「数え年」で年齢を数えることになっていたようだ。

 

 ただし、内地と違うのは、朝鮮においては「官」が使う「満年齢」というのは、「朝鮮を侵略した日本が持ち込んだ年齢の数え方」ととられていたということだ。それだけに、抑圧する側が持ち込んだものに対して、「数え年」こそが「我々のもの」という感覚が日本内地より強かったとも思われる。

 

  解放後の韓国では…

 植民地支配から解放された朝鮮半島南部には、1948年に大韓民国が建国された。韓国でも、「官」では「満年齢」、「民」では「数え年」というのが踏襲されていたようだ。ただ、後述するように、当時は「官」でも「数え年」が使われていた。

 

 1960年の4・19学生革命で李承晩イスンマン政権が倒されたのち、翌年5月に軍部によるクーデターが起こり、国家再建最高会議議長に就任した朴正煕パクチョンヒが実権を握った。1962年年初から、李承晩時代に使われていた「檀紀タンギ」をやめて「西紀ソギ」を公用の年号とすることが公表された。この時に、『朝鮮日報』が年齢の数え方の問題について取り上げて、年齢計算法の法制化を求めた記事がある。

普通に21歳という青年でも、法的問題が起きたりすると、満で計算して成年・未成年を区別しなければならないし、子供のいる家庭では、小学校の入学については年齢を満で計算しなおさなければならないといったことが起きている。
(中略)

官公庁や公共団体の各種文書の年齢記載方式では、「満何歳」とか「当何歳」があって、統一されていない。年齢の計算法さえ法制化されれば、このような弊害もすぐになくなるものと期待される。

 この記事にあるように、それまでは、公的な書類でも「満年齢」「数え年(当年齢タンヨルリョン)」が混在していた。また、裁判では、被告の年齢を「数え年(当年齢)」で表記するといったケースもあった。

 

 

 この年も押しつまった12月28日、朴正煕が主導する政府は、全国の各機関に翌1962年の年明けから「満年齢」に一本化するよう指示を出した。これによって、公的な部門では、「満年齢」の使用が義務付けられることになった。

 

 

 しかし、日常生活では依然として「数え年」が使われ続けた。

 

 朴正煕政権が独裁を強めた維新体制下で、日常生活でも「満年齢」を使うように仕向けようとして「主婦クラブ連合会」を使って、「満年齢キャンペーン」をやったことがあった。

 

 

 しかし、「満年齢」の使用は韓国社会では広がらなかった。むしろ、朴正煕政権から全斗煥チョンドゥファン政権にかけての独裁統治のもとでは、「国際的基準」に合わせて「合理化」するということで行おうとした政策が失敗していた。

 

 例えば、全斗煥政権下で、当時多くの人々が祝っていた太陰暦の正月(旧正クジョン)から、太陽暦の正月(新正シンジョン)に比重を移そうとして、1981年に「旧正」の休日扱いをやめた。ところが、韓国社会の多くの人々は「旧正」に仕事を休み、帰省し、これが「我々の正月」であるとアピールを続けた。その結果、1985年になって全斗煥政権は「旧正」を「民俗の日ミンソゲナル」として休日を復活させざるを得なくなった。さらに、後継の盧泰愚政権は、1989年には「旧正」を「ソルラル(固有語の正月)」として連休にすることとした。太陰暦の正月こそが「我々の正月」だとする大衆の声が、独裁者の「国際化」「合理主義」に勝利したわけである。

 

 こうした中で、韓国の「数え年」——解放後、「햇수셈ヘッスセム」「세는나이セヌンナイ」「当年齢」などと呼ばれるようになっていた——が、「韓国式の年齢」として今日まで「我々の年齢の数え方」として定着してきた。しかし、いつ正月を祝うかという自社会内部だけのイベントとは異なり、年齢は自社会外部との関係においても重要な意味を持つ数値である。

 

 今回、「官」だけでなく「民」の場でも「満年齢」を使うということになったのは、そうした外部世界との関係の広がりも一因であろう。これまでも、出生登録に始まり、学校の入学や徴兵をはじめとする公的な届け出では「満年齢」が使われてきており、「数え年」と「満年齢」の換算も難しいわけではない。年齢換算のスマホのアプリもある。とはいえ、死ぬまで「我々の年齢の数え方」でやるんだという人々が、韓国社会には少なからずいるような気もするのだが…。