『東亜日報』の1924年6月28日付に掲載されている「洞・町内の名物」は、嘉会洞の翠雲亭(취운정)。場所的には、韓国人ばかりでなく外国人にも大人気の「北村」に位置する。
◇風が水音なのか、水音が風なのか。嘉会洞の深い山間に松風が涼しげに湧き水の音がする。ここが翠雲亭なのです。今は未熟な子供たちが駆け回り、詩人墨客の遊び場になっていますが、昔を思い起こせば古きを懐かしむ思いが湧いてきます。
◇今から約7~80年前、娘が昌徳宮殿下(後の純宗)と結婚した閔杓庭公(閔台鎬)が権勢を振るっていた時分に、翠雲亭と四角亭 白鹿洞の亭子を建てて、花咲く春と月の明るい秋に、暇を持て余した人々とともに酔って楽しみ興じたところです。世の中は移ろいやすいもの、一人だけの楽しみがいつまでも続きましょうか。その後、大院君の側室であった白鹿洞のお方様がここで何年間か暮らし、亡くなった後は一時李王殿下の御料所になり、その後、漢城倶楽部となりました。日韓併合で国が滅びた時に、貴族たちが弓を射たり遊ぶ場所となりましたが、また時代はめぐって朝鮮貴族会の所有となり、最近は市民の所有地となって何日か前からは同盟休校の学生たちの会議場所になっています。歳月の移り変わりとともに主人も変わりましたが、翠雲亭の亭子は変わることなく昔を物語っているようで、青麟洞天の岩の下に流れる薬水だけがサラサラと…
この翠雲亭はどこにあったのか。そして、どのようなものだったのか。
翠雲亭の位置
マウルバスが走っている北村のメインストリートを北に上がっていくと監査院の前に出る。監査院の建物の前の歩道に、ソウル市が設置した「翠雲亭跡」のプレートがある(下掲地図B)。
このプレートには、1870年代の中盤に閔台鎬が翠雲亭を建てたとある。『東亜日報』の「洞・町内の名物」の記事に「7~80年前」とあるのは明らかに誤りで、「(閔台鎬)の娘が王世子(後の純宗)と結婚して権勢を振るった」とあり、結婚が決まった1878年前後に翠雲亭が建てられたということだろう。
しかし、1972年3月29日付の『朝鮮日報』の「洞里散策 翠雲亭」では、別の場所にあったと記されている。この記事には次のようにある。
鍾路区嘉会洞1-5、李庭林(大韓船舶代表)氏の家は、昔の翠雲亭跡だ。周りには松の木が茂り、水が澄んで王が行幸する時はここで休むのが常だった。
翠雲亭があったとされる「嘉会洞1-5」は、現在「北村ヒルス」が建っている場所である(上掲地図参照)。
『朝鮮日報』のこの記事によれば、植民地統治下の1930年代に全用淳がここを買い入れ、亭子を撤去して2階建ての洋館1棟と韓屋2棟を建てたという。全用淳は、植民地統治下で金剛製薬会社を設立した実業家で、解放後は経済界だけでなく政界でも名を馳せた人物。
ただ、全用淳がここを買う前の1928年に、当時ここを所有していた朝鮮貴族会が売りに出し、東京の日本人富豪が翠雲亭を買い取ったとも報じられている。この契約が反故になったのか、あるいは全用淳が日本人から買い戻したのか…。はっきりしない。
解放後、1960年になって全用淳からここを買い取ったのが李庭林。李庭林は、国産セメントを製造する大韓洋灰会社で成功を収め、1990年に死去するまでここに住んだ。彼の死後、相続税が当時の最高額ということで話題になった。そのために遺族がここを手離すことになったのだろう。
1972年の『朝鮮日報』の記事は、嘉会洞の古老の話などもあって場所的にはそれなりの信憑性がある。ソウル市の「翠雲亭跡」のプレートは、そこから200メートルほど離れた場所に設置されている。ただ、後述するように、翠雲亭と呼ばれたのは、亭子だけでなく、居住が可能な韓屋を含めた建造物にも使われており、かなり広範囲の建物の呼称であった可能性がある。監査院前の「翠雲亭跡」のプレートが必ずしも誤りというわけではなさそうだ。
甲申政変と翠雲亭
1884年12月4日、金玉均や朴泳孝などの急進開化派がクーデターを起こし、クーデター勢力が確保した国王高宗の身辺警護に日本の公使竹添進一郎が日本軍を率いて赴いた。しかし12月6日の午後、呉兆有・袁世凱が率いる清軍が昌慶宮側から昌徳宮に迫ってきたため、高宗を秘苑北側に避難させた。
高宗は北門から王宮を出て北廟(現在の明倫1街のソウル国際高校)に脱出しようとした。竹添進一郎と急進開化派メンバーは、これ以上高宗を奉じてクーデターを続けることは無理と判断して高宗を北廟に送り出し、竹添進一郎や日本軍は日本公使館に戻ることにした。金玉均・朴泳孝・徐光範・徐載弼などがこちらに同行した。
この時の日本公使館は、現在の天道敎中央大敎堂のすぐ南側、慶雲洞75にあった。
竹添公使以下の日本公使館員と日本軍そして急進開化派メンバーが、清軍に追われるようにして暗闇の中を秘苑北側の山道を伝って出たところが翠雲亭であった。
時に夜色暗澹として咫尺を辨せず、一行之れを機とし、即ち宮闕の北門を出づ、樋口・上野の両陸軍語学生、其間道を知るの故を以て斥候兵に先だち之れが嚮導たり。経路峻嶮を極め、一歩一跌漸くにして翠雲亭に出づ、此に至りて我が公使館を僅に煙焔の間に見るを得たり。一同是に於てか勇を鼓し、進んで斎洞に出て統理衙門の前路を過ぐ、此時韓民左右より挟んで瓦礫を乱投し、甚しきは銃を放つものあり、先鋒の面高中尉之れに中って倒る、部下の兵士之れを扶助し、進んで十字街に出づれば公使館は僅に二町を出でざる距離にあり。
今では、建物が邪魔をして北村ヒルスあたりから安国駅方面を見通すことはできないが、この当時は日本公使館は見えたはずだ。統理衙門は、現在の憲法裁判所の場所に設置されていた。
その後の状況について、当時の関係者の証言が『京城府史』(314コマ)にこう書かれている。
公使館守備の人々は王宮に赴いた日軍は敗戦の結果全滅したと云う噂を聞き不安の念に襲われつゝある時(午後7時30分頃)支那朝鮮の兵が前後三回も公使館に来襲し剣を振って門内に乱入した。大庭永成等漸くこれを打ち退けた頃、公使の一行が公使館指して帰りつゝあるを見、敵兵再び来襲すると誤認し、予て公使館敷地内の南方に領事館建築のため準備してあった松の丸太材に拠り盛に一行を射撃した。先頭の語学生上野茂一郎・下士飯田須太郎・卒一名の三人は、無残にも味方の弾丸に当たって不帰の客となり金玉均・朴泳孝の両名も負傷した。暫くしてラッパの吹奏を聞き始めて相方共味方になることを知り射撃を中止し、午後八時一行は漸く公使館に入る事を得た。
多分、金玉均や朴泳孝は翠雲亭あたりの道を熟知していて、グループの前方で道案内をしていたため、公使館直前の同士討ちで負傷したものと思われる。
甲申政変と翠雲亭の関係については、上掲の1972年3月の『朝鮮日報』の記事でも触れられており、さらにこのように言及されている。
40年前、洋館・韓屋が建設されて徐々に変貌し始めた翠雲亭周辺の地域には、今や豪華な邸宅が立ち並んでいる。日本が甲申政変を背後で操っていたのだが、皮肉なことに、その日本の大使公邸が翠雲亭の跡地の南側に塀を接して建っている。
1965年に韓国と国交を結んだ日本は、当初、大使館を半島ホテルに置いた。大使館は1970年に中学洞に新築され、大使公邸は、李庭林の邸宅、すなわち翠雲亭跡地の南側にあり、1972年に現在地の城北洞に移った。嘉会洞の公邸はサウジアラビアに売却され、現在はサウジアラビア大使公邸になっている。
亭子と韓屋
この甲申政変で公使館への撤退ルートにあった翠雲亭は、下の写真にあるような亭子だった。
ところが、「洞・町内の名物」の記事には、
大院君の側室であった白鹿洞のお方様がここで何年間か暮らし
とあり、それなりの身分の人が暮らすことができる「翠雲亭」と呼ばれた建物がこの亭子のそばにあったことが窺える。そればかりではない。甲申政変の時にアメリカに留学していて1885年に帰国した兪吉濬が、帰国後に急進開化派とのつながりを疑われて1892年まで幽閉されたのが翠雲亭だった。ここで兪吉濬は『西遊見聞』を執筆した。その翠雲亭は、亭子ではなく、居住が可能な建物だったということになる。
尹益善の京城図書館
それを示すもう一つの事例がある。
1920年11月27日に尹益善が「京城図書館」を設立したと『毎日申報』に報じられた。その図書館が置かれたのが翠雲亭であった。
普成専門學校の校長だった尹益善は、3・1運動を国の内外に伝える新聞を印刷・配布したとして刑務所に入れられ、出所したのちに朝鮮の青年を啓蒙するために「京城図書館」を開設した。
この図書館については、『大阪朝日新聞』の朝鮮版が写真入りで報じている。
この写真の建物が、居住が可能な「翠雲亭」ということになる。
尹益善の京城図書館は、その後李範昇がパゴダ公園(現タプコル公園)西側の旧大韓帝国軍楽隊の施設に開設した「京城図書館」に引き継がれたが、1923年7月28日に李範昇の「京城図書館」新館が完成するとともに、翠雲亭の京城図書館は閉館となった。
「洞・町内の名物」の翠雲亭の記事は、尹益善が翠雲亭に設立した京城図書館が閉鎖された翌年に書かれたものだが、図書館については全く言及がない。ただ、
最近は市民の所有地となって何日か前からは同盟休校の学生たちの会議場所になっています。
というのが、その名残りなのだろう。まだ、図書館という施設に対する関心がさして高くなかったことを示すものかもしれない。
この「翠雲亭」がどのようになったのか、はっきりしない。
現在、嘉会洞31番地に翠雲亭という高級ゲストハウスがある(上図のA:いまは休業中の模様)。ソウル市長を退任した李明博が、2006年6月から2008年1月までこの韓屋に住んでいた。韓屋の所有者は仁寺洞で韓定食の「ドゥレ」を経営してきたイ・スクヒ。李明博がちょくちょく「ドゥレ」に食事に来ていたことで住居を提供することになったという。李明博の大統領在任中の2011年に、この韓屋の建物の内装を大々的に改装してゲストハウス「翠雲亭」としてオープンした。ゲストハウスとはいっても、「1泊159万5000ウォン、ピョルダンチェ(離れ)は132万ウォン、サランチェは99万ウォン(2人基準で夕食・朝食を含む価格)」という値段だったという(『新東亜』2012年9月号)。
ここの建物が、兪吉濬が『西遊見聞』を執筆したり尹益善が「京城図書館」を置いた「翠雲亭」の建物であったのかどうか… ネット上にはそれらしい言及は見当たらない。残念ながら私もまだ確認できずにいる。