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一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

 「韓国の家ハングゲジップ」は、韓国の伝統料理体験や伝統芸能公演の観覧の場所として、また伝統的な結婚式の会場としても使われている施設。

 ツアー観光が全盛期だった80年代〜90年代には、ここで韓式の夕食を食べて、劇場でプチェチュム(扇の舞)や プックチュム(太鼓の舞)などの舞台を観るというのが定番のコースの一つだった。

『世界を食べる旅 韓国』講談社(1985)

 

 この場所は、朝鮮王朝の世祖セジョの時に端宗タンジョンの復位を企てたとして処刑された「死六臣サユクシン」の一人朴彭年パクペンニョンの屋敷があったところだとされ、プレートが入り口の門の横に立てられている。

 

 

 ここでは、今日の「韓国の家」ができるまでの近現代史上の変遷を辿ってみたい。

 

  政務総監官邸

 現在の筆洞から芸場洞イェジャンドン一帯は、日本による朝鮮侵略の中枢機関が置かれていた場所だった。

 

 1910年の韓国併合時の朝鮮総督府庁舎は、倭城台に建てられた統監府庁舎を引き継いだもので、1926年に景福宮前に総督府庁舎を新築・移転するまでここにあった。その東側には朝鮮総督の官邸があったが、1939年に景福宮裏の景武台(現 青瓦台チョンワデ)に移転した。その東側、現在韓屋マウルハノンマウルになっている場所が日本軍憲兵隊の司令部だった。そのすぐ北側に隣接してあったのが朝鮮総督府のナンバー2の政務総監の官邸。この政務総監官邸の跡地が、現在の「韓国の家」がある場所である。

 

朝鮮総督府『京城市街図』1925年発行より

 

 政務総監官邸は、1910年に建設され始め、1911年に増築された和洋折衷の建物であった。

 

政務総監官邸平面図(日帝時期建築図面コンテンツより)
上掲の『京城市街図』に合わせるため180°回転させてある

1911年の増築部分設計図(同上)

 

  解放後の用途

 1945年8月15日正午、天皇によるポツダム宣言受諾のラジオ放送が流れた。その4時間前、政務総監遠藤柳作は呂運亨ヨウニョンをこの官邸に招いた。遠藤柳作は、正午に日本の戦争敗北が公表されることを呂運亨に伝え、その後の朝鮮における治安維持に当たるよう要請した。呂運亨は、西大門刑務所の独立運動家の即時釈放などの条件で受諾し、建国準備委員会を立ち上げた。

 

 日本の敗戦を最初に公式に伝えられた朝鮮人は呂運亨で、その場所は今の「韓国の家」のところだった。

 

 

 だが、9月6日に京城に入って来たアメリカ軍は、呂運亨らによる「朝鮮人民共和国」建国を認めず、軍政を敷いた。12月に開かれた米・英・ソによる三カ国モスクワ外相会議では、アメリカとソ連による米ソ共同委員会の設置と、3ヵ年にわたる朝鮮の信託統治が決定された。米軍政庁は、旧政務総監官邸を接収して、米ソ共同委員会のアメリカ側代表ブラウン少将(Albert E. Brown)の官邸とした。

 

 1947年5月に、第2次米ソ共同委員会がソウルで開催されることになると、ソウルに到着したソ連代表団の歓迎レセプションが、5月24日にブラウン少将の官邸で開かれた。

 

 

 この場には、南朝鮮側から李承晩イスンマン金九キムグ金性洙キムソンス安在鴻アンジェホ・呂運亨・張徳秀チャンドクス元世勲ウォンセフン許憲ホホン呂運弘ヨウンホン金順愛キムスンエなど歴史書に必ず登場する左右両勢力の有力者が集った。

 

 しかしこの米ソ共同委員会は9月に決裂した。これによって朝鮮は分断国家への道を歩くことになった。

 

 旧政務総監官邸の建物は、その後は在韓米陸軍副司令官でもあったブラウンの官邸として使われ、ブラウンが1948年3月に離任すると、その後は米軍政庁の訪問者招待所として使用されていた。

 

 1948年8月15日に北緯38度線の南側に大韓民国が建国されると、米軍政庁の施設は順次韓国側に引き継がれることになっていたが、それが進まないうちに朝鮮戦争が勃発した。

 

  迎賓館から「韓国の家」へ

 開戦直後に朝鮮人民軍に占領されたソウルは、仁川上陸作戦でアメリカ軍が奪還した。しかし、1951年1月、再びソウルは朝鮮人民軍に占領され、3月になって韓国側が再奪還した。その後、アメリカ第8軍の司令官となったフリート中将(James Alward Van Fleet)が旧政務総監官邸を第8軍司令官官邸として使用した。

 

 「北進統一」を望んでいた李承晩は休戦に強く反対していたが、1953年7月27日に国連軍と朝鮮人民軍・中国義勇軍の三者が休戦協定に署名すると、韓国も条件付きながら休戦遵守を表明した。8月、李承晩は臨時首都としていた釜山プサンからソウルに戻った。

 

 1953年8月4日にアメリカのダレス国務長官の訪韓を報じる記事では、宿所は「筆洞ピルドンの迎賓館」となっている(『京郷新聞』8月4日、『朝鮮日報』8月5日)。その半年前の3月に、旧政務総監官邸北側の旧日本軍憲兵隊司令部の場所に、韓国軍憲兵隊総司令部が設置されていた(『東亜日報』1954年3月23日付「憲兵総司令部創設1周年記念式」)。フリート第8軍司令官は1953年2月11日に離任している。多分、この時期に、筆洞の旧日本関係施設がアメリカ軍から韓国側に引き渡され、第8軍司令官官邸は、大韓民国の迎賓館として利用されることになったのであろう。

 

 しかし、それから4年ほどで、この迎賓館は在韓外国人に韓国の文化や風俗などを紹介する「韓国の家」に改修された。「韓国の家」の開館式は、1957年6月24日に行われた。

 

公報室は、6月24日、李起鵬イギボン民議院議長、各部の長官、駐韓各国の大使・公使をはじめとする内外の貴賓と文化界の人々が参席する中で「韓国の家」の開館式を盛大に行いました。ソウル市内の筆洞に位置する「韓国の家(Korea House)」は、韓国に駐在する外国人との交流をはかり、韓国の文化や風俗に接してもらい、韓国への理解を一層深めてもらおうという外国人のための施設です。公報室が運営するこの「韓国の家」は、今後広く外国人に開放され、韓国理解をすすめて、ソウルをはじめとする観光旅行も案内することになります。

 当時、まだ外国人観光客がほとんどいない中で、「韓国への理解を一層深めてもらおうという外国人」とは、主に、アメリカ軍の将兵、それにトルコ軍やタイ軍の将兵、各国の連絡将校団などであった。

 

 

22日、休暇で前線からソウルにやって来た外国軍の軍人が街をめぐっていて見つけたのが"韓国の家"だった。 7月に韓国戦線に配置されたというトルコ軍のチェペン少尉、アッケル少尉、ケスキン大尉は広々とした板の間に花のござを敷いて座り、ゲームに熱中、フラッシュに気付くと「風俗が似ていて、このようにあぐらをかいて座っています」と語った。
昨年6月にオープンしたこの「韓国の家」(コリアハウス)は、これまで約16,000人外国軍の軍人が訪れたという。日本の植民地時代には、総督府の政務総監の官邸で、解放後はアメリカの貴賓館、朝鮮戦争時は米陸軍第8軍司令官フォン・フリート将軍の宿舎として使われた。ここには、寂しさを紛らわすために訪れる外国軍人のための卓球台・ビリヤード・図書室・音楽室・将棋囲碁等が準備されていると館長の金元鎬氏は説明した。

 こうして「韓国の家」はスタートしたが、それによって新たに迎賓館が必要となった。李承晩政権は、1957年に迎賓館新築予算案を民議院に提出した。

 

 

 民議院の予算委員会は、この予算案をめぐって紛糾した。政権側は、これまで迎賓館として利用してきた建物は「倭色が濃厚」で「随行員をすべて宿泊させることができない」として新築の必要性を強調した。

 

 「韓国の家」の正門の写真では、設計図の門とは違って、韓国風の建物に建て替わっていた。しかし、上掲の動画に写っている建物は、和洋折衷の政務総監官邸の建物のままだった。

 

 

 そのため、新しい伝統韓屋スタイルを加味した迎賓館を厚岩洞フアムドンに建てる予算案が立てられた。

 

 

 しかし、新築のための予算は民議院で承認されなかった。その後、迎賓館の建設予定地は、厚岩洞から奨忠壇チャンチュンダンの旧博文寺の跡地が候補地になったが、結局1967年まで迎賓館は完成しないままになった。
 ※迎賓館については博文寺跡の迎賓館を参照

 

  韓国の家の改修工事

 1978年、文化公報部は、「韓国の家」の建物を韓国の伝統家屋様式のものに改修する工事を始めた。全面建て替えて「国楽堂クガクダン」にする案も出されたが、資金不足から旧政務総監官邸をリノベーションする改修工事となった。

 

 

大韓ニュース 第1322号(1981年3月5日製作)

 

 上述したように、旧政務総監官邸に隣接していた旧日本軍憲兵司令部は、1953年に韓国軍憲兵総司令部になった。その後、朴正煕のクーデター後の1961年に首都防衛司令部(首防司スバンサ)に改編された。

 

 1991年に首都防衛司令部のソウル市南部への移転が決まり、その跡地利用として南山ナムサンゴル韓屋マウルの開設が決まり、伝統的な両班屋敷の移設工事などが行われた。南山ゴル韓屋マウルは1998年4月18日にオープンした。

 

 

 この韓屋マウルができたことで、この一帯の雰囲気はガラッと一変した。館内の補修やリモデリングが行われ、宮中料理体験や宮廷料理活用プログラムなどで、外国人ばかりではなく韓国人の伝統文化への理解を深める場所ともなってきている。

 


 

 私が最後に「韓国の家」に行ったのは1999年3月だったと思う。日本の大学生訪韓団と一緒に韓食ビュッフェで食事をして、韓国の伝統芸能の舞台を観た。その後は行く機会もなかったのだが、YouTubeのりうめいさんの動画を見て最近の様子がよくわかったので、ご参考までに。

 

 昨年5月10日、汝矣島ヨイドの国会議事堂前で尹錫悦ユンソギョル大統領の就任式が行われた。その夜、大統領就任式に出席した外国からの賓客を招いての晩餐会がホテル新羅シルラの迎賓館で催された。

 

 それまでの就任祝賀晩餐会は、青瓦台チョンワデの迎賓館で催されていた。しかし、大統領府を龍山ヨンサンに移すと公約していた尹錫悦候補は、大統領就任晩餐会の会場を青瓦台以外の場所に求め、ホテル新羅の迎賓館を会場にした。青瓦台は国民に開放したので、観覧希望者の青瓦台入場を規制してまで晩餐会をやるわけにはいかない…というのが新大統領側の説明だった。
 

2022年5月10日  MBCの迎賓館前からの中継場面

 

 このホテル新羅の迎賓館の施設は、もともとは大韓民国の迎賓館だった。外国からの賓客や随員が宿泊でき、中規模の答礼宴会場も備えた施設である。さらに歴史を植民地時代まで遡れば、ここは博文寺が建てられていた場所だった。


 ここでは、やや複雑な「迎賓館」の来歴についてまとめてみたい。

 

  博文寺の建立

 1929年に朝鮮総督府の政務総監となった児玉秀雄は、伊藤博文を追悼する寺院の造営計画を推し進めた。1932年10月26日、京城府が開設した奨忠壇公園の一部だったここに博文寺が完成し、入仏式が行われた。

 

 

 曹洞宗春畝山博文寺と称し、本堂は鉄筋コンクリート2階建、正門は慶熙宮キョンヒグン興化門フンファムンが移築された。

 

 

 1939年10月、上海の朝鮮人実業家視察団の一員として安俊生アンジュンセンが朝鮮を訪れた。安俊生は安重根アンジュングンの次男で、京城で博文寺に参拝し、伊藤博文の息子伊藤文吉と会って「和解」したと大々的に報じられたこともあった。

 

 

  解放直後の博文寺

 日本の敗戦で植民地支配が破綻すると、内地人関連の資産を売却、譲渡、管理委任などで朝鮮側が引き継ぎ、「敵産」としてアメリカ軍政庁に没収されるのを回避しようとする動きが起きた。

 日本仏教系の寺院についても、京城帝大の仏教学教授佐藤泰舜らが中心となって、曹洞宗大本山別院(曹渓寺)、博文寺、高野山別院、浄土宗別院、西本願寺、東本願寺などを朝鮮人仏教関係者へ引き継ぐ道を模索した。朝鮮仏教界では、解放の直後から、新興の僧侶グループによる既存体制の刷新の動きが始まり、博文寺は仏教系の惠化専門学校(のちの東国大学校)の学生たちが寮として自主管理を始めていた。ただ、米軍政庁は学生の自主管理を認めず、学生たちは退去した。

 そうした中で、佐藤泰舜らが管理委任をする相手として選択したのは、刷新の動きに伴い10月8日に奉恩寺ポンウンサの住持を辞任していた洪泰旭ホンテウクであった。洪泰旭は、解放前は創氏改名した德山道平として日本系仏教人とも交友関係があり、8月末には佐藤泰舜に会って曹渓寺や博文寺の引き継ぎを申し出ていた。11月15日に佐藤泰舜と洪泰旭の間で管理委任の書類を作成し、20日に軍政庁に提出した(森田芳夫『朝鮮終戦の記録 資料編第2巻』)。

 

 ところが、11月23日未明に博文寺は火災で全焼した。

 

 

 『朝鮮日報』のこの記事によれば、博文寺の火災と同時刻に、旧国民総力朝鮮連盟の建物、京城駅裏手のマルボシ(朝鮮運送)の倉庫でも火災が発生している。記事では、金九の帰国と関連づけて植民地支配下の日本の国策関連施設への連続放火の可能性を匂わせている。

 この火災については、当時まだ発行され続けられていた『京城日報』でも報じられていた。しかし、11月末に京城を離れた佐藤泰舜の記録(1946年1月執筆)にはこの11月23日の博文寺の火災についての言及はない。

 

 

 さらに、12月30日に洪泰旭が複数の男たちに誘い出されて行方不明になり、1月8日に遺体で発見された。警察発表では、奉恩寺の元住持姜性仁カンソンインが日本系寺院を引き継いだ洪泰旭から朝鮮仏教界再編の主導権を奪おうとして殺害させた事件だったとされている。

 

 

 こうしたことで、日本系仏教施設の朝鮮側への引き継ぎは頓挫し、博文寺が朝鮮仏教系の寺院として引き継がれることにはならなかったようだ。

 

  国立公園化の動き

 同じ頃に、「奨忠壇チャンチュンダン再建期成会」が組織され、伊藤博文を暗殺した安重根の銅像を博文寺の跡地に建てようという運動が始められた。

 

 

 その後、「先烈奉安祠奉建発起会」が奨忠壇の国立記念公園化案を提示した。米軍政庁は米軍のベル大佐、延禧ヨンヒ大学校のアンダーウッド博士、仏教中央総務委員の金法麟キムボムニンで委員会を作り、奨忠壇帰属財産管理案を検討するよう求めた。委員会は、「先烈奉安祠奉建発起会」の奨忠壇の国立公園化案を支持したが、米軍政庁は決定を回避して、1947年2月末に、金奎植キムギュシクをトップに据えた南朝鮮過渡立法議院に検討を委任した。

 

 

 結局、博文寺の跡地を奨忠壇公園に属する官有地とすることは決定されたが、博文寺一帯の用途決定は先送りされた。安重根の銅像の建立も保留された。

 

 その後、1948年3月、博文寺跡地は、韓国軍の軍楽学校の敷地となった。

 

 

 こうして、伊藤博文を狙撃した安重根の銅像を伊藤博文が祀られた博文寺跡に建てる案は実現しないまま、1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発した。

 

  朝鮮戦争後の動き

 朝鮮戦争の停戦後、「大韓愛国先烈記念事業協会」が奨忠壇公園に安重根の銅像を建てることを表明した。

 

 6月には奨忠壇公園内で基礎工事まで始めたが、その後資金難で工事が中断した。  

 

 翌1957年、今度は「安重根義士記念事業協会」が銅像建立計画に名乗りをあげた。

 


 関係当局で銅像の設置場所について協議が行われ、8月になって、安重根の銅像は奨忠壇公園ではなく、ソウル駅前広場に設置するという決定がなされた。

 

 

 ところが、ソウル駅前の設置場所も1958年の年初に取り消されてしまった。「大韓愛国先烈記念事業協会」と「安重根義士記念事業協会」が互いに譲らず、文教部が仲介に入ったが調整に失敗したためだとされた。「安重根義士記念事業協会」側は、当局から「伊藤博文の侵略の総本山だった倭城台趾付近が適切ではないか」との示唆があったと明らかにしている。とはいっても、旧倭城台(現在の芸場洞イェジャンドン)付近には適当な空間はなく、結局、崇義スンウィ女子大の裏手の斜面というなんとも寂しい場所に1959年4月に安重根の銅像が建てられることになった。

 

 博文寺の跡地に安重根の銅像を建てる案は、何度か出されたが、結局実現しなかった。当時の朝鮮の人々にとって、博文寺は伊藤博文ゆかりの寺であると同時に、解放の数年前に安重根の次男安俊生が参拝した寺でもあった。博文寺は、その舞台とされた場所だった。 安俊生の博文寺参拝や「和解」が安重根の銅像の設置場所に影響したとする資料は今のところ見当たらない。しかし、大韓臨時政府主席の金九キムグは、帰国途上の上海で中国官憲に安俊生の処罰を依頼している。博文寺の跡地を銅像の設置場所とすることに違和感を感じる人々が、国内にも相当いたであろうことは想像に難くない。

 

  奨忠壇林野の売却問題

 時代はやや下るが、1964年にそれまでの帰属財産のいい加減な払い下げの実態が国会で取り上げられた。その際、財務部が示した乱脈ぶりの実例の中に奨忠壇公園林野の払い下げ問題が挙げられている。

 

 

 この新聞記事で取り上げられている場所を、1968年の「地番入最新ソウル特別市街図」で比定すると、中央公務員訓練院→公務員教育院、傷痍勇士会館→在郷軍人会、反共センター→アジア反共連盟自由センター となる。犬訓練センターは見当たらない。旧博文寺のところがそうであった可能性もなくはないのだが…。

 

 

 注目されるのは後段の部分である。

57年7月15日に既に売却されたものを、後になって迎賓館を建設しようという李博士の指示で、その土地を再び国有化し、訴訟になったが政府側が勝訴した。

 この記事だけでは、1957年の売却先や、奨忠壇公園内のどの部分なのか、いつ国有地に戻されたのかなどはわからない。ただ、これに関連するのではないかと思われる「奨忠壇林野事件」が、翌1958年4月に報じられている。

 

管財職員3名に令状
市有地払い下げで収賄容疑で申請

ソウル市警ではソウル市管財局処分課長金徳厚キムドクフほか3名の職員を業務上背任・収賄容疑でソウル地裁に拘束令状を申請したという。彼らは奨忠壇公園内の私有地31,100坪、日本統治時代の博文寺(日本人の所有)を帰属財産とみなし、国民大学に2,200ウォンで払い下げた。彼らは、払い下げ時に16〜7着の背広と現金を受け取ったとされるが、博文寺の土地は解放後から市有地として市で管理してきたものとされている。

 すなわち、「奨忠壇林野事件」とは、博文寺跡地をソウル市の職員が賄賂をもらって不当な安値で国民大学クンミンデハックに売却したというもの。1964年4月の『東亜日報』の記事内容を合わせ考えると、1957年7月15日に国民大学に売却された後、李承晩イスンマン大統領が博文寺跡地に迎賓館を建てることを指示した。12月末の予算審議では厚岩洞が予定地とされていたので、指示は1958年になって下されたのだろう。そのために、「博文寺跡地は払い下げの対象とはならない市有地で、ソウル市の処分課長らが賄賂をもらってそれを売却した」ということにして、国民大学への売却を取り消して国有地化した、そんな構図が見えてくる。

 

 国民大学は、申翼熙シンイクヒが解放後に設立した大学である。申翼熙は、1956年の大統領選挙で李承晩の最大の対抗馬として立候補したが、選挙運動中に急死した。死後であったにもかかわらず、大統領選挙では185万票あまりを獲得した。いわば李承晩の独裁を脅かす政敵であった。そうした因縁も当然この事件には関係していたのであろう。

 

  迎賓館の建設

 李承晩政権の3期目の途中までは、朝鮮総督府の政務総監の官邸だった建物を迎賓館として使っていた。「筆洞ピルドンの迎賓館」というのがこれである。現在、韓屋マウルハノンマウルへ行く道の左手にある「韓国の家(コリアハウス)」の場所にあった。1957年にここを「韓国の家(コリアハウス)」に改修して、朝鮮戦争後も駐留していたトルコやフィリピンなどの外国軍や在韓アメリカ軍の将兵に韓国を紹介する施設とした。

 

 そのため新たな迎賓館が必要だとして、この年の秋に多額の迎賓館新築予算を計上した。だが、議会の財経委員会ではこれめぐって紛糾した。

 

 

 国務院は、迎賓館の建設場所は雰囲気のよいところということで厚岩洞を予定したとしていた。

 

 

 ところが予算案が通らなかったため、新たな建設場所として旧博文寺跡が李承晩から出されたのかもしれない。あるいは、国民大学問題が発端となって迎賓館をここに建てる案が浮上したのかもしれない。

 

 結局、李承晩政権のもとでは、迎賓館の新築は実現しないまま1960年に政権が崩壊した。

 

 朴正煕政権時代になっても、迎賓館の必要性については再三指摘されながらも、国家財政の逼迫などで多額の建設費のかかる迎賓館建設は実現しなかった。

 

 1966年になって、やっと迎賓館の建設が実現することになり、建設工事の競争入札が行われた。ところが、入札不落が何度も続き、結局6月になって建設工事が始まった。そして、翌年2月28日に落成式が行われた。

 

 

 この迎賓館は、平面図を見ると、外国からの賓客とその随行員のための宿泊施設としての機能がメインで、規模の大きな晩餐会や答礼宴向きにはできていない。

 

 最初の利用者は、落成の翌月に韓国を公式訪問をした西ドイツのハインリヒ・リュプケ大統領であった。

 

 

 施設の運営は、国際観光公社に委ねられたが、宿泊客は国外からの賓客に限られるため、毎年多額の赤字を出すことになった。

 

  ホテル新羅の建設

 1970年に、朴正煕大統領がロッテの辛格浩シンキョッホ(重光武雄)を呼んで、国際観光公社が運営していて業績の上がらない半島バンドホテルにかわる国際級ホテルの建設を命じたとされる。同じく国際観光公社が運営していて多額の赤字を出している迎賓館についても、サムソンに経営の改善策を講じるように命じた。1973年7月に、サムソングループが迎賓館の敷地に「ホテル・インペアリアル」が建設されることが報じられた。国賓級の賓客も受け入れ可能な最高級ホテルが想定されていたのであろう。

 

 ホテルの名称は年末には「ホテル新羅」に変わっていた。朴正煕は慶州の観光開発を熱心に進めており、ちょうどこのホテル建設が発表された時期に、古墳から金冠が発掘されて大きな話題になっていた。それもあって「新羅」が冠せられたと思われる。

 

 1979年3月、ホテル新羅がオープンした。迎賓館はそのままホテル新羅の施設の一部となった。博文寺の設計段階での平面図と重ね合わせてみると、博文寺の本殿の真上に迎賓館が建てられ、ホテル新羅の建物はその西側に建てられている。

 

 

 博文寺の石段は、2019年まではホテル新羅の正面ゲート(興化門のレプリカ)を入ってすぐの駐車場奥にそのまま残っていた。この階段を上がっていったところが、迎賓館の玄関だった。しかし、2020年春からの工事で階段は撤去され、今はない。

 

 

  青瓦台の迎賓館

 ホテル新羅オープン前年の1978年末に、青瓦台に迎賓館が完成した。21本の石柱で支えられた2階建構造で、完成当時の新聞で「ルイ14世様式と韓国様式の折衷」と紹介された建物である。この年の12月27日に、維新憲法下で第9代大統領に就任した朴正煕が、完成したばかりの青瓦台迎賓館で就任披露パーティーを行なったのが最初の行事だった。

 

 


 

 昨年5月の尹錫悦大統領就任以降、公式行事では青瓦台の施設は使われなかった。自分の就任披露パーティーは、ホテル新羅の迎賓館で開いたし、韓国を公式訪問で訪れたバイデン米大統領との夕食会は国立中央博物館で行われた。国防部のコンベンションセンターや戦争記念館が公式行事で使われたこともあった。

 しかし、昨年12月5日に国賓として訪韓したベトナム国家主席グエン・スアン・フックの晩餐会は青瓦台迎賓館で開かれた。それ以降、青瓦台の利用が増加しつつあるという。

 

 韓国の迎賓館は、近現代史の中で想定以上に多くの紆余曲折を経てきていた。今後、韓国はどのように先進国家としての格式を発信しようとするのか、興味深いところである。

 新型コロナの感染拡大で渡航が制限されていたが、昨年9月に久しぶりに韓国に行くことができた。

 孔徳コンドクのあたりを拠点にしようと思って宿泊施設を調べていたら、3月に新しいホテルがオープンしていた。日系のホテルで、ダイワハウスグループの「ロイネットホテル(로이넷 호텔)」。コロナ前から、ソウル市内でも日系のホテルが結構目につくようになっていたが、長らく日系ホテルのないソウルに馴染んでいた私には、日系ホテルが増えてきたというのがちょっとした驚きだった。

 ここでは、ソウルにおける日系ホテルの歴史を振り返ってみたい。

 

  最初の日系ホテル「東急ホテル」

 1965年の日韓国交正常化の6年後、1971年10月にオープンした「東急ホテル」がソウル初の日系ホテルだった。当初、国際火災保険会社の子会社の二和振興イファジヌンが、アメリカ資本のエンパイアホテルの入居・営業を前提に、1968年6月にビル建設を始めた。しかし、途中でこの入居契約が白紙化され、1970年になって東急ホテルがホテル経営に参入することになった。当時、東急の社長五島昇は「汎太平洋ホテルチェーン構想」で、前年11月にグアム東急ホテルをオープンさせたばかりで、1970年6月に自ら韓国に出向いて契約をまとめた。

 

 

 ソウル東急ホテルは、ビルの15階以上を賃借りして、210室規模のホテルとして1971年10月にオープンした。

開業直後のソウル東急ホテル(東急100年史より)

 

 しかし、まだ植民地支配が終わって26年、国交ができてから6年ということで、初めての日系ホテルへの風当たりは強かった。

 

国宝1号(南大門ナムデムン)の横に溢れる「倭色ウェセク

日本の鉄道財閥東急が旧朝鮮神宮の入り口に上陸

名前まで東急(トウキュウ)というのはあんまりだと大きな非難

 場所は、南大門の横から南山ナムサン循環道路に上がっていく道路の右手。上の記事にもあるように、日本統治時代には朝鮮神宮に向かう参道沿いだった場所である。ビル自体は、今も南大門のすぐ横に立っているが、2018年に全面改装されてモダンな外観のビルに変身している。

 

建築家金重業キムジュンオプが設計したビルで、現在はトナム・ビルというオフィスビルになっている。

 

 宿泊客のターゲットは日本からの観光客だったが、オープンした1971年頃は、韓国旅行といえば「キーセン観光」という時代。いろいろな意味で目をつけられていた東急ホテルは、開業10日目にして、日本人総支配人が買春に加担したとして立件されたりもした。

 

 

 1973年12月に韓国や日本で、「キーセン観光」に対して反対行動が起きた。

 ソウルの東急ホテルを含むホテル6社(朝鮮チョソン・コリアナ・ロイヤル・世宗セジョン・プレジデント)は、「キーセン同宿お断り」の決議を出した。そうせざるを得ないほど目にあまるものだった。

 

 とはいっても、この時期の韓国ツアーは「キーセン観光」なしには成り立たないのが実情だった。ムクゲ5つの特急ホテルですら、ホテルとしての格式と客や旅行社からの無体な要求との板挟みで苦慮していた。

 

 1974年8月15日、在日韓国人文世光ムンセグァンが大阪府警の派出所から盗み出した拳銃で光復節のセレモニーで演説する朴正煕パクチョンヒ大統領を銃撃する事件が起こり、壇上の大統領夫人陸英修ユギョンス女史が死亡した(文世光事件)。

 この事件の発生直後、ソウルに滞在していた日本人は出国停止となり24時間以上足止めされた。その後も、事件の責任問題と収拾策をめぐって日韓関係は極度に悪化し、「キーセン観光」が目的だったツアー客が激減した。日本人宿泊客がメインだった東急ホテルは経営難に陥り、一時は大韓航空テハナンゴン韓進ハンジングループに身売りするのでは…という話まで報じられた。

 

 

 しかし、その後も東急ホテルとして営業を続けていたのだが、ついに1982年8月31日を最後に営業を停止することになった。

朴前大統領夫人の暗殺など一連の事件で宿泊客が減少したうえ、新設の大型ホテルが相次いで競合が激しくなったのが主な要因。加えて、二度にわたるオイルショックでエネルギーコストが急上昇したにもかかわらず、建物が古いため有効な手が打てないこともはっきりした。「これ以上営業を続けるのは営業上無理」と判断したという。

韓国への観光客は基調としては上向きながら大きな政治的な事件が起きる度に減少するというパターンをたどっているが、同ホテルの客足も「朴大統領夫人の暗殺、朴大統領暗殺、光州事件と大きな事件があった年は激減、なかなか客足が回復しなかった」という。加えて、ここ数年、ソウルではホテルロッテ、ホテル新羅、ハイアットなど大型ホテルが続々と誕生。客室数二百十室のソウル東急ホテルでは規模が小さく、集客に有効な手が打てなかったことも大きい。

 『日経産業新聞』1982/08/27

 

 「東急ホテル」の閉館とともに、ソウルから日系のホテルはなくなった。

 

  日系ホテルではないが…ロッテと新羅

・ロッテホテル

 1970年に、朴正煕大統領がロッテの辛格浩シンキョッホ(重光武雄)を呼んで、半島バンドホテルと国立中央図書館を払い下げるから国際級のホテルを建てるように命じたとされる。具体的な建設についての動きが報じられたのは1974年から。辛格浩は、日本の帝国ホテルをモデルにした構想を練った時期もあったが、結局、実際に完成したロッテホテルのイメージは京王プラザホテルに倣ったものになった。

 1978年12月22日に一部開館、翌年3月10日に1020室のロッテホテルが全館開館した。

 

 

 ロッテの経営陣は、常務理事井坂敏次を総支配人としてホテル運営の責任者とし、現場にも日本人支配人を配置した。日系ホテルではないのだが、日本人宿泊客にとっては日本のホテルと同様の接客が期待できるホテルとして受け止められていた。

 

・ホテル新羅

 ホテル新羅が建てられている場所は、日本統治時代に伊藤博文を祀った博文寺があったところである。解放後、ここには韓国政府の迎賓館が建てられていたのだが、1973年7月に三星グループがホテル建設を進めていることが報じられた。

 

迎賓館をホテルに

三星グループが迎賓館の場所に建てる予定の「ホテルインペリアル」の建設規模が明らかとなった。

総資本金規模は48億ウォン、東邦生命の22億をはじめ三星系で24億、日本の大成建設など5財閥が24億を出資する。

 迎賓館はホテルの一部となり、博文寺の建設時に移設された慶煕宮キョンヒグン興化門フナムンがそのまま正門として使用された(興化門はその後慶煕宮に戻され、現在の新羅ホテルの門はレプリカ)。新羅ホテルの開業はロッテホテルの全館開業と同じ1979年3月だったが、ロッテホテルよりも2日早い3月8日にオープンした。

 

 

 ホテル新羅は、運営面ではホテルオークラと提携しており、オークラから副総支配人と料理長が出向しており、ロッテホテルと同様、日本のホテル運営のノウハウが生かされたホテルであった。1983年に日本の総理大臣としては初めて韓国を公式訪問した中曽根康弘はこの新羅ホテルに宿泊した。その後も、国賓や多くの外国の要人・賓客がこのホテルを利用し、最も格式の高いホテルの一つとされている。

 

  再び登場した日系ホテル

 「東急ホテル」の撤退後、韓国には長く日系ホテルが進出することがなかった。

 

 2008年4月、釜山プサン中央洞チュアンドンに「東横INN」がオープンした。続いて12月に釜山駅店がオープン。再び韓国に日系ホテルができたとかなりの話題になった。

 

 

 ソウルでは、2009年8月に東大門トンデムンに「東横INN」がオープンした。韓国では手薄だったビジネスホテルの需要を見込んでの進出だった。現在「東横INN」は、ソウルでは江南カンナム永登浦ヨンドゥンポ・東大門2号店を展開している。

 

 2013年5月、共立メンテナンスが運営する「ドーミーイン・ホテル(도미인 호텔)」が江南にオープンした。

 2015年1月、地下鉄4号線の明洞ミョンドン駅5・6番出入口に直結している旧ミリオレに日本ソラレホテルグループの「ロワジールホテル 明洞(르와지르 호텔)」がオープンした。ただ、2020年1月末でソラレホテルグループから離脱し、今は「ミリオレホテル」になっている。

 この年9月には、西鉄グループが運営する「ソラリア西鉄ホテル(솔라리아 니시테츠 호텔)」が明洞にオープンした。

 

 2018年になると、2月に相鉄グループが運営する「ザ・スプラジール・ソウル明洞ホテル(더 스프라지르 서울명동)」が韓国銀行の裏手にオープンした。このホテルは、フランス系のゴールデン・チューリップ・M・ソウルホテルの経営を引き継いだものだったが、相鉄はその後、「相鉄フレッサイン ソウル明洞」「ザ・スプラジール ソウル東大門」を相次いでオープンさせた。

 この年5月には、くれたけホテルチェーンの「呉竹荘ホテル(쿠레타케소 호텔)」が仁寺洞で営業を開始した。「日本のサービスを韓国でも」というのが開店チラシのキャッチフレーズだった。

呉竹荘ホテルの開店チラシ

 

 この年には藤田観光が運営する「ホテル・グレイスリー(호텔 그레이스리)」も南大門そばにオープンした。

 

 さらに、新型コロナで観光客が激減した最中の2021年8月、明洞に「変なホテル(헨나호텔)」が明洞にオープンして、ロボット接客で話題になった。

 

 そして、2022年3月に孔徳駅そばにオープンしたのが、大和グループの「ロイネットホテル」である。

 


 

 東急ホテルが日系ホテルとして初めてソウルにオープンした1970年代から50年以上が経った。2008年の「東急INN」の進出以降、日系ホテルが徐々に増えていったが、それらがいつオープンしたのか、新聞検索で調べてもなかなか記事がヒットしない。1970年前後とは大きく様変わりして、日系ホテルのオープンがほとんど話題にならない時代になったということだろう。

 それも現代史における日韓関係の変化を示すもの。2023年初旬の段階での記録として、このブログに残しておこう。