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一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

 日本語のキーボード入力はアルファベット入力が主流で、漢字変換をしながら入力する。それに対し、韓国語の場合は、キーに配列されたハングルの子音キー・母音キーをたたいて入力し、漢字変換はしない。韓国語の入力でも、ローマ字入力とか漢字変換もやろうと思えばできるのだが、ほとんどやらない。ハングルは、24文字(近代半ばまでは25)の母音字と子音字の組み合わせなので、キーボードのキーに無理なくおさまる。

ㄱㄴㄷㄹㅁㅂㅅㅇㅈㅊㅋㅌㅍㅎ ㅏㅑㅓㅕㅗㅛㅜㅠㅡㅣ(・)

 

 今の韓国語入力は、文字の切れ目を意識することなく子音や母音を連打していく2ボル式が主流で、自動的に文字を整形してくれる。例えば,「ㅇㅏㄴㄴㅕㅇ」と打てば「안녕」と表示される。

ハングルシールを貼った私のiMacのキーボード
 

 スマホでも、タッチパネルから子音と母音を入れる。母音は「天・」「地 _ 」「人|」の三要素からできているので、「人|」+「天・」で「ㅏ」、「天・」+「人|」で「ㅓ」、「天・」+「地 _ 」で「ㅗ」といった原理に基づいて入力する「天地人方式」。これだと3つのキーだけで母音を全て入力することができる。

 

 日本語は、かなだけでも46個の字形があり、漢字かな混じり文でなければ実用にならない。だから、機械式のタイプライターで日本語の文章を打つことは不可能だった。コンピューター時代になり、漢字変換がある程度スムーズにできるようになって、はじめてキーボードからの日本語入力が一般化した。

 

 一方、韓国語・朝鮮語では早くから機械式タイプライターでの入力の試みがなされてきていた。

 ここでは、1934年に宋基柱ソンギジュが開発したハングル打字機タジャギを中心に、ハングルタイプライターの開発史とその意味するところ、時代背景について考えてみたい。

 

  初期のハングル打字機

 宋基柱ソンギジュが、自らが開発したハングル打字機を引っさげてアメリカから帰国したのは1934年。その打字機については後述するが、その時、朝鮮語の新聞や雑誌でこの話題が大きく取り上げられた。

 その中の一つ、朝鮮中央日報社の雑誌『中央』1934年4月号の記事「ハングルタイプライターの完成」が、それまでの打字機の開発略史に触れている。

 

ハングル打字機は、今から20年あまり前に、在米韓国人李元益イウォンイク氏が考案してニューヨークのレミントン社で製作したものが嚆矢だった。しかし、このタイプライターは、キーが88個もあって使い勝手が悪かったうえ値段が高かったので広く使われることがなかった。その後、今から15年前には、延禧ヨニ專門學校の H.H.アンダーウッド氏が、彼の伯父が経営するニューヨークのアンダーウッド・タイプライター工場で巨額の費用を投じて開発にあたったが、なかなかうまくいかず実用化されることなく終わり、それ以来十数年間はハングル打字機を完成させるのは不可能といわれていた。

 李元益が製作したとされるハングル打字機については、李昇和イスンファの『模範ハングル打字』(教学図書、1973)に、1914年に製作された機械と当時の宣伝文が紹介されている。

朝鮮の進歩の様相に□□□□
すべての前進する韓人は、諺文で文字を書く機械が出来上がったこと、そして最新式のスミス・プレミア10号の文字を書く機械が買えることを知れば、さぞ喜ぶことであろう。
とても使い勝手が良くて非常に堅固なことで有名なこの機械に新しい改良が全て備わっており、今日の朝鮮は、これを機会に、進歩と安寧に多くの助けを受けている世界の国々とも肩を並べた。
この広告文は、スミス・プレミアの諺文機械で書いたものを転写したものだ。
スミス・プレミアの諺文と英書の機械の値段や、更に詳しいことが知りたければ、下に記載した所にお尋ねいただきたい。


Smith Premier No.10


 1913年にスミス・プレミア社はレミントン社の傘下に入ったため、上掲の記事では「ニューヨークのレミントン社で製作」となっている。

 

 広告文は縦書きになっているが、タイプライターのハングル活字を90度回転させたものを下図のように横向きに打字する構造になっていた。

 ただ、上掲の記事にもあるように、李元益の打字機は広く普及するまでには至らなかった。確かに、これはキーが多すぎる…。

 

 雑誌『中央』には、「延禧專門學校のH.H.アンダーウッド氏が、彼の伯父が経営するニューヨークのアンダーウッド・タイプライター工場で巨額の費用を投じて開発にあたった」ともあった。

 

 H.H.アンダーウッド(Horace Horton Underwood)は、延禧專門學校(現在の延世ヨンセ大学の前身)を創設したH.G.アンダーウッド(Horace Grant Underwood)の息子で、のちに延禧專門學校の校長になっている。父 H.G.アンダーウッドの兄 J.T.アンダーウッドは、ニューヨークでアンダーウッド・タイプライター社を経営していた。1916年10月に H.G.アンダーウッドが死去すると、J.T.アンダーウッドは延禧專門學校に巨額の寄付をした。延禧専門学校はその資金で高陽コヤン延禧ヨニ面に土地を取得し(現在の延世大新村シンチョンキャンパス)、1918年に新たな校舎が完成した。

 

 この校舎新築の頃に、H.H.アンダーウッドは叔父のJ.T.アンダーウッドの会社に依頼してハングルタイプライターを開発しようとしていた。後年、1933年のハングル打字機の需要調査の際、H.H.アンダーウッドは自身のハングルタイプライター開発に言及している。

 

『中央』1934年4月号

朝鮮社会の特徴は無知と貧窮だ。ハングル打字機は、私も以前考案したことがあったが、社会が必要性を感じず、また感じたとしても購買力がない。

(同上。延專副校長 H.H.アンダーウッド氏の意見を聴取したもの )

 当時の朝鮮社会の実情では、巨額の開発費を投じて商品化しても普及させるのは無理と判断したのであろう。

 

  宋基柱の横打ち横書き打字機

 ちょうど H.H.アンダーウッドがハングル打字機の開発を試みていた頃、宋基柱ソンギジュという学生が延禧專門學校の農科に在学していた。卒業後、しばらく元山ウォンサン保光ポグァン学校で教師をしたのち1925年にアメリカに留学。シカゴ大学で地理学、テキサス州立大学で生物学を学んだ。延禧專門學校で英文タイプライターに触れたことのあった宋基柱は、渡米後、ハングル打字機の開発に取り組んだ。

 

 最初は、重母音も終声も横並びで打つハングルの「横書打字法」を考案して、ハングル打字機を製作した。1929年1月17日付の『東亜日報』にこの打字機の記事がある。

朝鮮文橫書打字機發明
在米宋基柱氏の発明
今から五年前に延禧専門学校を卒業して米国に渡り、ヒューストン大学を卒業し、現在シカゴ大学で研究中の平安南道江西生まれの宋基柱氏は、長年問題だった朝鮮文横書法とタイブライター印刷機械を開発して米国政府特許局に申請した。字体がうまくできていてこれを普及させるためアメリカ在住の同胞で朝鮮打字機販売会社、朝鮮文改良協会を組織して宣伝に努力している。打字機の価格は事務室用115円、ポータブルが97円50銭程度である。

 ただ「横書」といっても、今のように整形されたハングルが横に並ぶのではなく、子音/母音をそのまま横並びに打っていくものであった。

 

『中央』1934年4月号

ㅇㅣㄴㅅㅑㅎㅏㄱㅓㅣ ㄷㅗㅣㅁㄴㅣㄷㅏ

ㅎㅏㅅㅣㅁㄴㅣㄲㅏ?

 初声の下に母音を打ったり、終声の位置に子音を打つことをせずに、全てを横に並べた。今だったらこのようにキーを叩けばコンピューターが整形して表示してくれるのだが、この時代のこの方式では、人間が頭の中で「인샤하게됨니다」「하심니까?」と整形して読む必要があった。結局この方式は人々に受け入れられなかった。

 

 宋基柱は、1935年1月号の『新東亜』でこの打字機についてこのように回顧している。

最初は先走ってしまって、英文のアルファベットのようにハングルを横書き式に打っていく打字機を作ったが、結局は時期尚早で実際の使用には向いておらず、多くの努力と時間、それに多くの経費を浪費しただけで失敗しました。

 

  横打ち縦書き打字機

 宋基柱は、横書打字機の失敗から、横向きにしたハングル活字を横向きに打字して、縦書きとする方式を考案した。原理的には李元益の打字機と同じだが、シフトキー(웃글자)を使うことでキーの数が42個の文字キーと2個の移動キーと少なくなっており、漢数字と句点も割り付けられていた。

 

 

 1933年にこの打字機を完成させ、ニューヨークのアンダーウッド・タイプライター社で生産することになった。1934年1月24日付の『東亜日報』は、このハングル打字機で打った縦書きのハングル文とともに開発者宋基柱(記事中の宋基周は誤記)と打字機の紹介記事を掲載している。

 

 宋基柱は2月27日に、アンダーウッド・タイプライター社で製作した打字機を携えて帰国した。3月1日には、ポータブルの打字機を携えて朝鮮日報社を訪問している。そこで打ったと思われる鄭圃隱チョンポウンの詩が掲載された記事が出ている。

 

 

 注目されるのは、3月20日に敦義洞トニドン明月館ミョンウォルグァンで開かれた「朝鮮文打字機完成祝賀会」である。その発起人には、東亜日報社の創立者金性洙キムソンジュ、社長宋鎮禹ソンジヌ、毎日申報の理事李相協イサンヒョップ、朝鮮中央日報の社長呂運亨ヨウニョンなど言論界の重鎮、それに尹致昊ユンチホ李光洙イグァンスなど著名な文化人が名を連ねていた。

 

 

 その後、5月12日付の『東亜日報』には、鍾路二丁目91番地の宋一ソンイル商会の朝鮮文字打字機の宣伝が掲載された。

 

 さらに、西大門町の三洋サミャン社がアメリカから輸入した大小のハングル打字機を10月15日から21日まで鍾路の和信百貨店で展示している。和信百貨店といえば、三越・丁子屋・三中井という内地資本の百貨店と肩を並べる朝鮮人資本の百貨店であった。

 

 

 翌年10月には、金秉㻐キムビョンジュンが239円で販売されていた宋基柱のハングル打字機を朝鮮語学会に寄贈している。金秉㻐は、宋基柱と同じ平安南道江西の出身で、明治大学を出て京城で大同テドン興行の専務だった人物。当時の239円は現在の価格では約50万円というところだろうか。

 

 

 1936年の『東亜日報』の年頭の特集の一つ「最近の発明界の面々」でも、この宋基柱とハングル打字機が取りあげられている。

 

  受難のハングル打字機

 ところが、これ以降ハングル打字機についての記事はなくなっていく。1936年7月14日の『東亜日報』に、「以前貴紙でハングル打字機の発明についての記事があったが、これはどこで製造販売しているのか」という読者からの問い合わせがあり、それに対して「発明者と特約しているアメリカのとある会社で製造している」というそっけない回答しかしていない。それまで熱心にハングル打字機について報じていた『東亜日報』なのに、宋基柱の名前も、アンダーウッド・タイプライター社の名前も出していない。ひょっとすると、朝鮮での販売が難しくなっていたのかもしれない。

 解放後の1949年の『東亜日報』は、宋基柱の打字機は、30台が輸入されたが、「当時は敵治下(日本による植民地統治下)だったため発展させられなかった」と伝えている(1949年4月24日付)。

 

 1930年代になると、朝鮮総督府は「国語」の普及に力を入れ始めた。すなわち、朝鮮語の使用を抑制して日本語を使用させる動きを加速していた。そんな時期に完成した宋基柱のハングル打字機に朝鮮人の言論人や文化人が強い関心を示し、歓迎したのは、そうした流れに危機感を強めていたことも一因だったのかもしれない。

 しかし、1936年年末からは、大々的に「国語常用」のキャンペーンが始まり、朝鮮語を排斥して日本語だけを使わせる方向に向かった。

 

 

 これ以降、ハングル打字機への表立った販売や、開発・改良の試みは難しくなったものと思われる。

 

  植民地支配の終焉とハングル打字機

 日本の敗戦によって植民地支配が終わると、再びハングル打字機の使用と開発が一気に始まった。      

 米軍政下の文教部ではアメリカのレミントンランドのハングル用新打字機8台が稼働しており、200台以上をアメリカに発注したという記事が1948年3月の『工業新聞』に出ている。

 

 

 商務部でもハングル打字機の図面が作成されて、新しい機械が考案されようとしていた。

 

 

 一方、1930年代に実用化されたハングル打字機を考案した宋基柱も、印字間隔などを修正し、1分間に160字打てる改良型の新機種を開発し1949年にアンダーウッド・タイプライター社に製造を委託した。

 

 

 このようにハングル打字機が急速に関心を集め、競って開発も行われるようになったのだが、印字方法やキーの配列などは、それぞれの開発者によって異なっていた。

 そうした状況を憂慮したためであろう。1949年3月に、朝鮮発明奨励会の主催で、ハングル打字機の懸賞募集が行われることになった。審査員は、文教部・逓信部・商工部・交通部・語学会・工科大学・記者会・商工会議所・タイピスト協会から推薦されるという大掛かりなものであった。

 

 

 この懸賞募集では、ハングル打字機4機種が選ばれたのだが、その中に眼科医の公炳禹コンビョンウが開発したものがあった。

 

 

 この打字機は、整形されたハングル文字を横書きで打っていくという方式で、朝鮮戦争開戦前の1950年に、韓米援助協定の資金を得て、アメリカのアンダーウッド・タイプライター社に大量発注された。


 

 1953年7月に朝鮮戦争の休戦協定が結ばれた時、その韓国語の部分は公炳禹のハングル打字機で打たれたものだ。終声(パッチム)がないものは上寄せになり、行の下のラインが凸凹になる。

 

 

 ちなみに、1930年代に、最初に普及型のハングル打字機を開発した宋基柱は、朝鮮戦争の最中に北朝鮮の人民軍によって北朝鮮に連行され、その後の消息はわかっていない。

 

  その後

 日本の植民地支配が終わって4〜5年で、横書きで横配列のハングル文字を印字できるタイプライター(打字機)が開発され、広く普及するようになった。しかし、入力方式やキーボード配列については紆余曲折があった。

 

 公炳禹の打字機は、初声の子音と母音、それに終声(パッチム)がある場合には下に子音を打つ3ボル式であった。

 しかし、1969年の政府のキーボード統一案では、4ボル式が採用された。4ボル式は初声の子音・終声のない場合の母音・終声のある場合の母音・終声の子音のキーが配置されている。

 

 

終声の有無で母音の長さが変わるため、3ボル式よりも行の凸凹感がやや少なくなる。

 

 そして、1984年には、電動式タイプライターからコンピューター入力の時代へと移行していく中で2ボル式の子音と母音だけのキーボードが統一のキー配列とされた。しかし、まだ機械式の打字機も多かったこともあり、さまざまな論争が巻き起こった。

 

 

 それらについては、また別の機会に…

  • 閔忠正公
  • 忠正路の命名
  • 閔泳煥の銅像
  • 銅像の移転
  • 奠都600年と銅像移転計画
  • 閔泳煥像の再移転
  • 閔泳煥像、忠正路へ

 2022年8月30日、ソウル西大門ソデムン忠正路チュンジョンノ鍾根堂チョングンダンビルの向かいの緑地で、閔泳煥ミニョンファンの銅像の移転式が行われた。韓国の報道でもしばしば触れられているように、閔泳煥の銅像は、紆余曲折を経て忠正路に移されたものである。その経緯を振り返りながら、韓国の近現代史の一端を見てみよう。

 

中央日報より https://www.joongang.co.kr/article/25098189

 

  閔忠正公

 1905年11月17日、「第二次日韓協約(乙巳いつみ保護条約)」が締結されると、閔泳煥は条約締結に関わった5大臣の弾劾を上奏して高宗コジョン皇帝に協約の廃棄を求めた。しかし、それが却下されると11月30日に抗議の服毒自決をした。謚号は忠正、閔忠正公ミンチュンジョンゴンとも呼ばれる。

 

 閔泳煥は自分の名刺に遺書を書き残した。

 自決の翌日、12月1日付の『大韓毎日申報』は、閔泳煥の書き残した遺書を紙面に掲載した。

 

警して韓国人民に告ぐる遺書

嗚呼、国の恥と民の辱は乃ちここに至り、我が人民は行きて將に生存競争の中に殄滅せんとす。それ生きんとする者必ず死し、死を期せる者は生きるを得。諸公、豈に諒せざるか。ただ、泳煥いたずらに一死をもって皇恩に仰報し、以て我が二千万同胞兄弟に謝す。泳煥の死は死にあらず。九泉の下において諸君を助くるを期す。幸にも我が同胞兄弟千万倍奮勵を加え、志気を堅め、その学問を勉し、心を結びて復た我が自由独立に戮力すれば、則ち死者はまさに冥冥之中にも喜笑すべし。鳴呼、少しも失望するなかれ。我が大韓帝国二千万同胞に訣告するものなり。

各館館寄書
…略…

 英国人アーネスト・ベッセルと梁起鐸ヤンギテクによって創刊された『大韓毎日申報』は、ベッセルが社長だったこの時期には日本の朝鮮侵略を批判する記事をまだ掲載できていた。しかし、日本は1908年にベッセルを上海に追放して『大韓毎日申報』に弾圧を加え、併合後は『毎日申報』と改題して総督府の朝鮮語機関紙にしてしまった。

 

 日本の植民地支配下では、閔泳煥の抗議の自決が朝鮮の公の場で言及されることはほとんどなかった。しかし、多くの朝鮮の人々の記憶に鮮明に残り、それは語り継がれていた。

 

 日本による朝鮮植民地支配の終焉とともに、閔泳煥は、日本の侵略に抗した「殉国の先賢忠烈」として真っ先に取り上げられた人物の一人となった。

 

 

  忠正路の命名

 日本の敗戦後、朝鮮で米軍政庁による統治が始まると、それまでの日本式の「〜通り」は「〜路」、「〜丁目」は「〜ガ」、「〜町」は「〜ドン」に改められた。同時に日本風の町名は、旧来の呼称や、朝鮮の偉人の名前にちなんだ新たな名称に置き換えられた。1946年10月1日に公示された地名変更では、旭町は会賢洞フェヒョンドン、大和町は筆洞ピルドン、倭城台町は芸場洞イェジャンドンなどと変えられた。そして、本町は李舜臣イスンシンにちなんだ忠武路チュンムロとなり、黄金町は高句麗の英雄乙支文徳ウルチムンドクの名をとって乙支路ウルチロとなった。朝鮮軍司令官の長谷川好道にちなんだ長谷川町は小公洞ソゴンドンとなり、1882年から1885年まで在朝鮮日本公使だった竹添進一郎から名前をとった竹添町は、閔泳煥の諡号忠正をとった忠正路チュンジョンノと改められた。

 


『地番入新洞名入ソウル案内(신동명입 서울안내)』 赤字が旧地名
ソウル歴史博物館 

 

 朝鮮王朝の首都に花房義質よしもとが最初の日本公使館を置いたのは1880年12月。西大門外の京畿監営(現在の赤十字病院)の向かい側、西池ソジ(現在の金華クマ初等学校)を見下ろす高台(現在の東明トンミン女子中学校)に公使館を置いた。1882年の壬午イモ軍乱でこの公使館は焼かれた。花房義質の後任として赴任した竹添進一郎は、現在の楽園ナゴン商街の北西側、朴泳孝パギョニョが所有していた屋敷の敷地を日本公使館とした。しかし、竹添公使が深く関与した甲申カプシン政変でこの公使館も焼失した。京城に舞い戻った竹添公使は、西大門外に拠点を確保して朝鮮政府と交渉し、南山北麓の泥峴ニヒョン(チンコゲ:現在の芸場洞)に公使館の場所を確保することに成功した。こうした経緯を踏まえて、西大門外の一帯が竹添町と名付けられたのであろう。

 ブログ「日本の公使館」参照

 

 日本が朝鮮の内政に横槍を入れ始めた時にその先頭に立った竹添進一郎の「竹添」がこの一帯の町名に使われ、解放後は、死をもって侵略に抵抗せんとした閔泳煥の諡号「忠正」が冠せられることになった。この場所が、閔泳煥とつながりのある場所だったから「忠正路」と名付けられたわけではなかった。

 

  閔泳煥の銅像

 日本の侵略に抵抗した人々を顕彰しようとする動きは植民地支配からの解放の直後から始まっていた。閔泳煥の銅像の建設の話は、安重根アンジュングンの銅像などとともに早い時期から出ていた。

 

 

 さらに、大韓民国建国後の1948年11月30日には、「閔忠正公追念大会」が開かれることになり、その顧問に李承晩イスンマン李始栄イシヨン金九キムグ金奎植キムギュシクという錚々たる面々が顔をそろえた。

 

 

 大統領李承晩は、閔泳煥とはただならぬ因縁があった。李承晩は、1899年1月に朴泳孝らの高宗皇帝廃位陰謀に加担したという嫌疑で逮捕され、漢城監獄で5年9ヶ月服役した。1904年に出獄した後、李承晩は閔泳煥の斡旋でアメリカに渡った。アメリカではルーズベルト大統領に会って大韓帝国の独立擁護を請願しようとしたがうまくいかなかった。1905年8月9日付で李承晩が閔泳煥に送った手紙が残っている。閔泳煥は、李承晩にとって特別な存在であった。

 

 しかし、銅像の建設が具体化する前に、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の建国、さらに朝鮮戦争の勃発といった激動の中で、抵抗運動や独立闘争の顕彰事業は先延ばしを余儀なくされた。

 

 閔泳煥の銅像建立が実現したのは1957年。閔泳煥の邸宅があったとされる竪志洞キョンジドンからほど近い安国アングックロータリーの北側(旧朝鮮生命保険ビルの前)の緑地帯に立てられた。閔泳煥の誕生日8月30日に盛大な除幕式が行われた。

 

 

  銅像の移転

 1971年、ソウルで地下鉄1号線の工事が始まり、それを機に交通体系の整備と道路の拡張が進められることになった。安国ロータリーも拡張されることになり、閔泳煥の銅像は敦化門トナムン前に移転された。

 

 写真は、安国ロータリーの旧朝鮮生命保険ビル前の閔泳煥銅像

 

 10月から11月にかけて移転工事が行われ、もとの場所から600mあまり東側の敦化門斜め前に移された。

 

 

 都心の市庁前シチョンアプから南大門ナムデムンにかけての太平路テッピョンノ分離帯緑地の北端と南端に立てられていた金庾信キムユシン柳寛順ユグァンスンの銅像が、それぞれ南山白凡ペクポム広場西側と南山2号トンネル入口に移転されたのも、ちょうどこの時期のことであった。

 

 

  奠都600年と銅像移転計画

 朝鮮王朝が開かれたのは1392年、1394年に開城ケソンから漢陽ハニャンに都を移した。都を移すことを「遷都」あるいは「奠都てんと」という。ソウルは、1994年が「奠都チョンド600年」ということでさまざまな事業が計画された。

 

 上述したように、植民地支配から解放されたのち、地名呼称を旧来のものに復元したり、歴史上の偉人・英雄の名前を地名に冠した。その後、銅像が立てられていったが、銅像の位置と銅像の主の名前が冠せられた場所との相関性は考慮されなかった。その不一致を解消しようというプランがソウル市の「奠都600年」事業の一環として打ち出された。

 

歴史的人物 銅像の位置 移転予定先
世宗大王 徳寿宮 →宗文化会館前
柳寛順 南山2号トンネル入口 →西大門独立公園
乙支文徳 オリニ大公園 →乙支路緑地帯
丁若鏞(茶山) 南山図書館南下 →茶山路
李滉(退渓) 南山図書館南東下 →退渓路緑地帯
元暁大師 孝昌公園 →元暁路
閔泳煥[忠正] 敦化門横 →忠正路緑地帯
李珥(栗谷) 社稷公園 →閔泳煥銅像跡地
 (栗谷路)

(  )内は号 [  ]内は諡号

 

 しかし、関係団体などから「ソウル市内の通りの名前は民族のプライドを高める意味で付けられたもので、歴史的人物とは無関係」、「銅像の位置は設置時にそれなりの検討を加えたもので、その移転は予算の無駄遣い」といった批判が出された(『한겨레』 1993年4月18日付)。

 

 その結果、この8つの移転案は全て白紙化され、移転は実現しなかった。

 

  閔泳煥像の再移転

 1971年に安国ロータリーの閔泳煥の銅像が移された先の敦化門横の敷地は、文化財庁が所有する国有地で、昌徳宮チャンドックン管理事務所がそこを管理していた。その国有地にソウル市の鍾路区チョンノグが所有・管理する閔泳煥の銅像が移された。その前の道路は朝鮮王朝時代の儒学者李珥イイの号をとって栗谷路ユルゴンノと名付けられていた。李珥の銅像は社稷サジック公園に設置されていた。

 

 2000年になって、この国有地を管理する昌徳宮事務所は、鍾路区に対して銅像の移転と国有地の返還を要求した。昌徳宮事務所側はその後も引き続き国有財産の返還を強く求め、2002年には返還訴訟も辞さないとした。しかし、鍾路区は代替地がすぐには用意できないとして国有地の無償使用の継続を要望した。

 それまで閔泳煥の銅像は30年近く敦化門横の国有地に立っていて、1994年には閔泳煥の銅像を忠正路に移してその跡に李珥(栗谷)の銅像を移してくるプランをソウル市が出したりもしていた。それが、突如として国とソウル市鍾路区との間で対立が起きた。これには1995年の地方自治制度改革が関係しているようだ。それまで政府による任命だったソウル市長は、1995年以降は選挙で選出される民選市長に変わった。これを境に、それまで黙認されてきた「国有地の上に設置されているソウル市の鍾路区が管理する銅像」が問題視されるようになったのであろう。

 

 2002年7月に李明博イミョンバクがソウル市長に就任した。李明博市長時代に閔泳煥の銅像を敦化門横の国有地から撤去して、曹渓寺チョゲサの前に移転することが決定された。移転は2003年3月1日に完了した。

2003年4月9日付『東亜日報』

[首都圏]閔泳煥先生の銅像、またも移転
 ソウル市鍾路区臥龍洞の昌徳宮前に立っていた閔泳煥先生の銅像は、 3月1日に鍾路区堅志洞の郵政総局市民広場の敷地に移されたが、子孫たちは、世宗路の「光化門開かれた広場」に移転することを求めている。
 閔泳煥先生の子孫たちの麗興閔氏ヨフンミンシ宗親会は、鍾路区庁に銅像を近くの世宗路の「光化門クァンファムン開かれた広場」に移転することを求めている。
 宗親会側は「銅像が設置された市民広場(約200坪)は狭い上に、中央に噴水台があって銅像が隅に追いやられている」とし、「民族のために命を捧げた人物にふさわしいとは言い難く移転を建議する」と述べた。これに対して鍾路区は、「広場が狭いのは事実だが、現実的には代替地がない」と移転には難色を示した。さらに鍾路区は、「長期的には周辺の私有地を一部買い入れて公園の拡張を検討している」とし、「光化門開かれた広場はソウル市の所有なのでソウル市がこの建議を受け入れれば移転が可能かもしれない」と語った。
だが、ソウル市は消極的である。ソウル市関係者は、「関連会議で議論はするが、光化門の開かれた広場は朝鮮時代の役所の六曹ユクチョの通りの復元なので、閔泳煥先生の銅像はそれにはふさわしくない」と語っている。

 この時に移転先となった場所は、1884年12月に甲申政変の舞台となった郵政総局の北西側で、閔泳煥の邸宅があったとされる場所の近くだった。しかし、手狭で大通りからは見通せない空間だった。

 

  閔泳煥像、忠正路へ

 2009年、世宗文化会館セジョンムナフェグァン前の光化門広場に新たに世宗大王の像が出現した。1992年に計画された銅像の移転プランの中に徳寿宮トクスグンの世宗大王像の世宗路移転があった。しかし、光化門広場の世宗大王像は徳寿宮の世宗大王像を移転したのではなく、この新設時に新たに製作されたものである。

 徳寿宮にあった世宗大王像は、2012年になって徳寿宮を復元するとして文化財庁が徳寿宮から清涼里チョンニャンニの世宗大王記念事業会に移転させた。

 

左は1977年に徳寿宮にて撮影。

 

 この間、閔泳煥の銅像の周囲の環境はいちだんと悪化していた。

 2018年11月に『週刊東亜』のクォン・ジェヒョン記者はこのように書いている。

 11月30日に113回忌を迎えた忠正公の銅像はどこにあるのだろうか。 ソウル鍾路区堅志洞の郵政総局の建物(史跡第213号)、その後ろにある小さな公園の奥まった場所にある。 多分、全国で唯一のものだが、曹溪寺を訪れる信徒ですら忠正公の銅像がここにあるのを知らない。
 11月14日の午前、記者が訪ねた時には銅像のまわりには大勢のホームレスが集まっていた。酒のにおいもしていた。 銅像の後ろには彼らが使っているのであろう寝具が置かれていた。すえた匂いがするのは、銅像の後ろの塀が彼らの公衆便所として使われていたからだ。

 この取材のきっかけになったのは、韓国学中央研究院の鄭允在チョンユンジェ教授からの情報提供だった。鄭允在は2015年に高宗時代の政治指導者に関する研究プロジェクトを進める中で、閔泳煥の銅像が冷遇されていることを知ったという。

https://www.donga.com/news/article/all/20181118/92916760/1

 

 

 また、2018年11月7日の『文化日報』には、閔泳煥の4代孫の作家閔明基ミンミョンギが、銅像が劣悪な場所に置かれていることを訴えた 「放置された閔泳煥の銅像… 忠正公のような過酷な運命」という記事が掲載された。

 ブログの探訪記事などでも閔泳煥の銅像が劣悪な環境に置かれていることが取り上げられた。

 

 2022年3月になって、西大門区ソデムングが閔泳煥の銅像を忠正路3街の緑地帯に移転させると発表した。鍾路区から区をまたいでの移転なので、ソウル市も関与したのであろう。計画では、銅像の向かい側に、高麗コリョ大学校が所有する閔泳煥関係資料などもディスプレイされることになった。

 

 

 8月30日、閔泳煥の銅像移転の記念式典が開かれた。展示資料には、『大韓毎日申報』が伝えた遺書の元資料、遺書が手書きされた名刺なども含まれている。


中央日報より https://www.joongang.co.kr/article/25098189

 

閔泳煥の遺書 上掲『大韓毎日申報』記事参照
でもこれ、配置が逆じゃないかな…

 


 

 銅像と地名を一致させようとするソウル市の30年前の銅像移転のプランは、歴史的人物の名前を冠したソウル市内の地名は必ずしもその人物と関係したものではないという声なども強く、結局白紙化され実現しなかった。解放直後の地名変更の経緯—必ずしも人物との連関性から地名が付けられたわけではない—がまだ意識されていたのであろう。

 

 しかし、今回の銅像の移転については、「忠正公閔泳煥の銅像が忠正路に設置されるのは順当な場所への移設」という受け止めであった。

 閔泳煥の銅像の従前の設置場所があまりにも環境が悪かったということもあろうが、忠正路という地名が30年間でソウルの地名として定着したことも一因だと考えられる。その意味では、乙支路ウルチロ茶山路タサンノ退渓路テゲロ元暁路ウォニョロ栗谷路ユルゴンノなど人名を冠した地名それぞれへの銅像の移設も出てきてもおかしくはないのだが、今のところその動きはみられない。今後はどうなるだろうか…。

  • 済州循環軌道
  • 軌道敷設申請と会社設立
  • 敷設工事と仮営業開始
  • 頻発した事故
  • 軌道会社解散

 

 日本の植民地時代の済州島チェジュドで、線路を走る手押し式の乗り物が運行されたことがあった。

 

 済州循環軌道株式会社が1929年9月6日に営業運行を開始したが、1931年8月には会社の解散が決まり、9月16日付で軌道の運営権も抹消された。わずか2年弱で手押し式軌道は営業運転を終えた。

 

 どのようなものだったのか、その設立の経緯や運行の実態などについて調べてみた。

 

  済州循環軌道

 釜山商工會議所が1930年に出版した『濟州島とその經濟』の地図には、済州チェジュ山地サンジを挟んで西の挟才ヒョプチェ、東の金寧キムニョンに延びる手押し軌道の路線が描かれている。

 

 

 さらに、この本の「5.交通の状態ー陸上交通」の項目に、発行当時運行中だった「人力循環軌道車」についての記述がある。1930年4月頃の取材に基づく記事内容である。長くなるが、現代文風に書き起こしておこう。

 

 次に北済州一円に運転されている人力循環軌道車について研究を進める。
 循環軌道は、一周道路に沿って本島を楕円形に一周し、貨客の積み下ろしにおいて山地一港集中を実現するものである。軌道は資本金50万円(払い込み4分の1)の済州循環軌道株式会社(社長山本政敏、専務大島宗三郎)の経営にかかり、朝鮮軽便鉄道令によりて軽便軌条を敷設し旅客貨物の運輸をなすをもって目的とする。
 島を一周する全線路120マイルに対する測量は既に了っているが、現在北済州を縦走する金寧、挟才里間35マイルの軌条を敷設し了ったばかりで、残余85マイルにわたる工事は未着手のままに放置されている。財界不況の折から、残余工事の着手期並びにその完成期などはいずれになるやら見当がつかぬとのことである。
 既設路線たる金寧、済州間15マイル、済州、挟才里間20マイルは一周道路上に敷設せられており、軌条は幅員2フィート、120ポンドのものを用い単線である。故に建設費としてレールには金は大して要していないが、想像以上に金のかかったのは架橋工事であったという。けだし線路の沿線に散在する河川の河床が岩盤であるがために橋脚も堅固に作らねばならず、また、軌道令に準拠するが故に木橋架設が許されず、全部を鉄橋としたからである。
 例の河川付近におけるV字型の地形は至るところ急勾配を現出し、1/15に達する箇所もある。ゆえに動力としてエンジンは使用することができない。もっとも現在の路線を約1里半ほど山手に変更すればエンジン動力を使用し得るそうであるが、この付近には部落が存在していないから問題にならず。どうしても現状にあっては手押人力によらなければならぬとのことである。
 既設路線が営業を開始したのは昭和4年8月6日である。停留所の数25カ所、所有台車110台手押人夫60名である。
 台車は乗客用のものは1台の定員4名、貨物用のものは1台400キロを限度とする。運転については、定期車は全部乗客用であり、貨物運搬のためには申し込みを受ければ即時に配車をするという不定期式である。乗客用の定期車は毎日午前8時、午後2時の2回にわたって同時に金寧⇄済州城内⇄挟才里というふうに単車運転を開始する。貨物車の運転は前述のごとく不定期であるが、大部分の台車が常に城内の車庫に集中されており、また、主要停留場には2〜3台の台車が準備されてあるから配車の需に応ずることは容易である。なお、台車の最大スピードは1時間6キロ内外である。
 台車の貸切運賃率を示せば左のごとくである。

 循環軌道は営業開始後わずかに8ヶ月を経過した今日であり、なお、路線は半身不随的に金寧、挟才里間を連絡したに過ぎず、現在儲かっているのか、損をしているのか当局者でさえも見当がつかないという。しかし手押夫60名の約半数は北韓方面から招致した経験人夫であり、相当作業能率を挙げ得るものと推断して大過なかるべく、将来島民が時間的に目覚めてくれば相当に利用されるに至ると思う。筆者の目撃したところによれば、貨物運搬用として遠距離間においてはほとんど未だ利用されておらず、無論これが原因は沿線の主要部落に汽船の出入りすることが影響して、その利用を見ざる次第であるが、城内における市内線だけは相当に活用されつつあるように見受ける。なお、全線にわたって乗客用台車の利用は確かに寂寥たるもので、多くは定期自動車を利用しているという状況である。
 循環軌道計画が台湾における手押軽便軌道の施設実績に鑑み、これを本島に応用したものであることは本計画の趣意書中にも明記されているが、はたして目論見のごとく全島の貨客が将来山地の1港に集中積み下ろしされ得るであろうか。
 現在本島に就航しつつある定期船についてみるに、汽船は本島において最初まず山地に入港し、東廻りまたは西廻りのコースによって島を1周して再び山地に寄港し、次いで島を去るのであるが、その島1周に要する時間は24時間内外である。しかも島を1周するにあたり、各港に寄港して大量的に貨客の積み下ろしをなすこと言うまでもない。この汽船の周航に対抗して輸送力の少ない人力軌道車が、果たしてよく全島の貨客を1港に集中し得るであろうか。仮に輸送技術上これを実現するとしても、競争のためには極度の運賃引き下げをも意としない汽船に対抗をして、陸上の運輸機関がこれに挑戦対抗し得るであろうか。もっとも時間的に見れば全線開通時における全島120マイルにわたる貨客は二分されて、東廻り線または西廻り線を迂回して山地に集中さるるであろうが、最遠距離60マイルの地点より山地に達する場合を想像しても、フルスピードを出せばおよそ10時間内外で到達し得るから、汽船の1周24時間に比べれば確かに時間の短縮はできる勘定になる。しかし島と陸地との経済関係がわずかな時間を争うほどにスピード化さるることは、本島においては永久に望まれないと思われる。けだし如何ほど島内における陸上運輸機関をスピード化しても、一歩島外に出ると時化と濃霧とに悩まされる汽船の航行は避難また避難で、全くスピードを度外視してしまうからである。
 これを要するに、循環軌道は大規模の輸送機関でないがゆえに、定期船が島の一周を廃止せざる限り、全島の貨客一港集中を実現し得るものではない。むしろ 短距離の運転において地区的に貨客の集中積み下ろしに任ずべき性質のものであると思う。特殊の場合を除きその距離遠距離にわたる輸送は一般的に行われるものでないと思われる。

 

  軌道敷設申請と会社設立

 この人力軌道について報じられ始めたのは、1927年5月から8月にかけのことだった。5月に山本政敏などが済州島庁に線路敷設の願い書を出したとある。

 

 

 さらに、8月19日の『東亜日報』はこのように報じている。

 

…(略)…
元上海日日新聞編集長中山栄造氏を中心にこの敷設について鉄道局に正式申請し、資本金250万円の合資組織として済州邑内を起点に城山浦を過ぎて海岸に沿って全島を循環する軽便鉄道の建設をするもの。延長126マイルで、この島は海産物が豊富であり、農産・畜産も盛んで、この計画は一般の注目を集めており鉄道局も近々認可指令を発するという。朝鮮郵船会社でもこの鉄道との連結を要望し、近く具体的協定を結ぶとみられる。

 

 済州循環軌道の敷設申請者で、のちに社長になる山本政敏は、1926年に『裸一貫生活法 : 生活戦話』という本を出版している。中山栄造が編集長だった「上海日日新聞」に連載していたものをまとめたもので、小資本で起業するには…といった小商売の手引き書といった内容である。どうも上海つながりだったようで、朝鮮に関する言及は全くない。

 

 その山本政敏が済州島で軽便鉄道の会社を立ち上げることになったのである。

 

記事中に「山下」とあるのは「山本」の誤り

 

 済州島は火山島で、河川は短く急峻で海に注ぐ河口付近でも両側が切り立った崖になっているところが多い。そのため「河川付近におけるV字型の地形は至るところ急勾配を現出し、1/15に達する箇所もある」ことになる。当時の非力なエンジンでは急傾斜の登りは無理ということで、台湾で実際に運行されている軌道上を人力で台車を動かす方式を採用することとした。

 循環軌道計画が台湾における手押軽便軌道の施設実績に鑑み、これを本島に応用したものであることは本計画の趣意書中にも明記されている

 

 ちなみに台湾での手押しの人力軌道の運行については写真や動画が残っている。

 

山崎鋆一郎『台湾の風光』1934


 

  敷設工事と仮営業開始

 線路の敷設工事は1928年11月に山地港から始まった。

 今は、山地川にかかる龍津橋ヨンジンギョのたもとに「トロッコ(軌道)車」の記念碑が建てられている。

 

1917年測図 1918年製版 1:50,000地図

 

 済州から挟才までの19.7マイル、済州から金寧までの14.8マイルの線路の敷設は8月後半に完了し、9月6日から仮営業を開始した。

 

 

 ところで、『濟州島とその經濟』には、

手押夫60名の約半数は北韓方面から招致した経験人夫であり、相当作業能率を挙げ得るものと推断

とある。

 朝鮮の北部では平壌ピョンヤンで手押し軌道が運行されていた。『平壌全誌』(1927)の第15編第3章交通に次のような記載がある。

平壌の地形は南北に頗る長く殊に唯一の停車場たる平壌駅は市の南端に位せるより之れと市の繁栄中心地との連絡輸送機関は市勢の進展に連れて必要を加へたる為、斉藤久太郎、坂倉益太郎、内田録雄、松井民治郎、百瀬廣之助、上杉松太郎、林文太郎氏等有力なる内地人の犠牲的投資の下に資本金1万8千円を以て明治38年9月、平壌市街鉄道株式会社を起こし…(略)…区間は大和町平壌駅前間複線1マイル17チェイン(軌間2フィート)手押式4人乗客車20台を有し随時乗客の要求によりて運転する制度にて賃銀片道10銭すなわち人力車の半額にも及ばざるを以て一部には頗る重宝視されたるもIカ年の乗客8~9万人、賃金8~9千万円にして収支償はず大正5年廃業せり

 

 平壌駅前と大和町(現在の金日成広場南側)間といえば起伏もほとんどないところ。1916年廃業となっているが、『毎日申報』の記事(1917年9月12日付)では1917年11月まで、手押し軌道車が平壌で運行されていたことになっている。

 

 平壌以外でも、規模は小さいが北部朝鮮の咸鏡北道ハムギョンプクト生気嶺センギリョン咸鏡南道ハムギョンナムド霊武ヨンム、それに江景カンギョン(忠清南道チュンチョンナムド)や金堤キムジェ(全羅北道チョルラプクド)でも手押し軌道車が運行されていた。そして、それらは1928年から30年にかけてほとんどが営業運行を停止している(『朝鮮鉄道状況 第25回』1934年)。

 

 こうしたところの「経験人夫」を済州島に呼び寄せたとも考えられる。

 

  頻発した事故

 済州島の手押し軌道は、1929年の9月7日から仮営業を始めて、全ての監査が完了して11月5日から本営業となった。

 

 ところが、仮営業の当初から、脱線や転覆する事故が相次ぎ、重軽傷者が出ていた。

済州循環軌道

事故頻頻発生

運転手重軽傷

済州循環軌道の第一期工事が終わり9月初旬から開始したが、まだ仮営業とはいうものの非常に危険だ。道に線路を敷設したものでちょっとしたものでも脱線転覆する。先日19日にも坂を下るところで転覆し運転手の金宝琪など二人が重軽傷をおった。治療費は会社持ちだが、加療の間の賃金は支払われないという。

 その後も事故が多発し、さらに本営業後も事故が起きている。

 

 特に、11月22日付の『朝鮮日報』は、「開業以来、大事故が7~8回、安心できない鉄道」と手厳しい。

 

 もともと、平壌の手押式軌道もそうであったように、人力軌道は、町外れの鉄道駅と市街地の中心を結ぶという比較的平坦で短距離の移動手段として使われていた。1929年12月の『朝鮮鉄道状況 第20回』には、当時の朝鮮における人力による軌道の状況について、このように書かれている。

手押軌道

 一般運輸を営む手押軌道は、倭館・霊武・生気嶺・江景の各軌道にして、その多くは停車場と邑内を連絡する1マイル内外のものに過ぎざりし…

 「至るところ急勾配を現出し、1/15に達する箇所もある」ところで34.5マイルもの長い距離を運行する済州島の軌道は全く例外的なものであった。手押し軌道の運転経験ありという人でも、済州島の軌道環境での運転操作の経験や技術は決定的に不足していたということであろう。

 

  軌道会社解散

 本営業が始まってほぼ半年経った時点で、『濟州島とその經濟』に書かれた循環軌道の運行状況は、貨客いずれの利用も驚くほど低調だった。

貨物運搬用として遠距離間においてはほとんど未だ利用されておらず、…(略)…、城内における市内線だけは相当に活用されつつあるように見受ける。なお、全線にわたって乗客用台車の利用は確かに寂寥たるもので、多くは定期自動車を利用している

 当時、済州島を一周する道路は、路面整備が不十分な「三等道路」ではあるものの全線通行が可能になっていた。その道路を運行する乗り合い自動車の営業も始まっていた。

 

朝鮮総督府『生活状態調査 其2』1929

 

 荷物の運搬の方は、済州の山地港に寄港する連絡船が島内の各港を周回して運搬しており、遠距離の大量輸送の面では人力軌道は船便に対抗できなかった。

 

 結局、開業から2年経たずして1931年8月に済州循環軌道株式会社は株主総会で解散を議決し、軌道廃止の許可申請を行った。

 

 

 この申請は9月16日に公示され(朝鮮総督府官報1931年9月22日)、同時に済州島循環の未着工の軌道部分の認可も失効した。

 

 


 

 1931年の営業を停止した後、線路は撤去されることなくそのまま放置されたようだ。
 

 1945年の解放前後まで、場所によっては残された線路を貨物運搬用として利用していたという。韓国のWEBサイトにはそのような証言がアップされている。

翰林邑ハルリムウプ挟才里ヒョプチェリの中間地点に当たる「瓮浦里ウンポリ~翰林港(1km程度)」で、お年寄りの口から「トロッコの話」を聞くことができました。
(中略)瓮浦里に製氷工場と缶詰工場があり、翰林港に船が入ってくると、その船に氷を運ぶためにトロッコを使用しました。その「トロッコ車」は木製で床板があり、四隅に立っている40-50cmの棒を取っ手にして押していました。 当時10台以上あって、全羅南道からきた労働者や瓮浦里の住民が「トロッコ車」を押していたとのことです。

 日本の植民地支配下の瓮浦里には、竹中新太郎の缶詰工場があり、愛国印コンビーフを島外に搬出していた(『朝鮮功勞者銘鑑』1935)。その運搬にも使われたのであろう。竹中新太郎は、翰林港の漁港施設拡充計画も主導していたとあるので製氷工場も竹中の工場であった可能性もある。

 

 さらに、このWEBサイトの記事には、

解放前まで日本軍が陣地や港を作る際に土や石を運ぶために使用していたことが記録されています。

ともあるが、これについては、どこに「記録」されていたのかは不明で、確認できない。

 


 いずれにせよ、解放後も軌道の一部は残っていたのであろう。1948年の4・3事件から、その後の開発・振興事業を経る中で、人力による手押し軌道車が走っていた線路は、その痕跡が徐々に消え去っていったのであろう。