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一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

  • アルトゥル飛行場の位置
  • アルトゥル飛行場の建設と中国爆撃
  • 戦争末期のアルトゥル飛行場
  • 残存施設(北側)
  • 残存施設(南側)

 済州島は、火山島で、溶岩洞窟や釣鐘状の溶岩ドーム、それに海に注ぐ瀑布など自然景観に恵まれた観光の島である。その一方で、1948年の4・3事件で多くの島民が虐殺され、消滅した集落跡が点在する悲劇の島でもある。4・3事件は左翼による騒乱として、1990年代まで、その犠牲者の慰霊すら許されなかった。1998年に就任した金大中大統領のもとで4・3事件真相究明特別法が制定され、2006年に盧武鉉大統領が犠牲者慰霊祭に出席して正式に謝罪した。今では、済州平和記念館をはじめ、各地に慰霊碑が建ち、焼き討ちで失われた集落の保存・整備も進んでいる。

 そのような済州島には植民地統治下の日本軍の軍事施設が残されている。「日帝残滓」がいまだ点在する島でもある。

 

 ここでは、済州島の南西部に作られていたアルトゥル飛行場とその周辺の残存施設を、日本軍が残した地図を参照しながらみていきたい。

 

  アルトゥル飛行場の位置

 陸軍省が1945年7月10日に作成した「上奏用 朝鮮軍兵力配備図」の中に、済州島の「第58軍配備概見図」が残されていて、防衛研究所所蔵資料をアジア歴史資料センターがデジタル公開している。

 上掲地図で島の左下の部分、慕瑟峯モスルボンから慕瑟浦モスルポ上慕里サンモリ、そして松岳山ソンアクサンの海岸にかけての地域にアルトゥル飛行場とそれに関連した日本軍の軍施設が残っている。

 

左図は一部地名を補正上書き

 

  アルトゥル飛行場の建設と中国爆撃

 日本による植民地統治下の済州島は、軍事的には海軍佐世保鎮守府の出先である鎮海要港部の管轄下に置かれていた。

 

 柳条湖事件の半年前の1931年3月、済州島南西部の慕瑟浦モスルポ平野で済州島航空基地の建設工事が始まった。約5年間かけて1,400m×70mの滑走路を有するアルトゥル飛行場とその付帯施設が完成した。

 

 1937年7月7日の盧溝橋事件をきっかけに日中戦争を仕掛けた日本軍は、8月15日から中華民国の首都南京への渡洋爆撃を開始し、大村海軍航空部隊の九六式陸上攻撃機がこの済州島航空基地から中国本土への空爆を繰り返し行った。

 

 日本軍が11月に上海付近の飛行場を確保すると、中国本土爆撃の拠点はアルトゥル飛行場からそちらに移り、済州島航空基地には大村海軍航空隊の練習航空隊が配備された。

 

  戦争末期のアルトゥル飛行場

 1941年12月に太平洋戦争が始まったが、開戦当初は済州島の部隊配置には大きな変化はなかった。しかし、1944年になって日本の敗色が濃くなってくると、「本土決戦」が叫ばれて済州島全体の軍施設の地下化が図られるようになった。アルトゥル飛行場の済州島航空基地でも、10月上旬から拡張工事が始まった。この工事には多くの朝鮮人が強制的に動員され、飛行場周辺だけでも少なくとも1,500人程度が働かされたと推定されている。

 

 戦争最末期のアルトゥル飛行場とその周辺施設の様子は、「済州島基地施設位置図 縮尺五千分之一(以下「基地位置図」とする)」に描かれている。防衛省防衛研究所所蔵の「鎮海警備府 引渡目録」に収録されていて、これをアジア歴史資料センターがデジタル公開している。敗戦後、アメリカ軍に引き渡すために日本側で作成したものと思われる。

 

 

  残存施設(北側)

 上掲の「基地位置図」と現在残されている建造物とを比較してみよう。

 

 まず、「基地位置図」の上部、すなわちアルトゥル飛行場の北側、現在の上慕里サンモリ伊橋洞イギョドンに残されている日本軍施設をみてみる。

 

 

 現在、大静高等学校の正門の向かい側に地下施設が残っている。

 

 

 位置から推測すると、病舎の東側の地下に建設された「避病舎」ではないかと思われる。そうだとすると大静高校の位置に「病舎」があったことになる。

 

 大静高校の南側は、現在は韓国軍海兵隊91大隊の駐屯地になっている。

 

 「基地位置図」では、この一帯に日本軍の兵舎などが並び、実習地が描かれている。実習地の南東側に「耐弾式受信所」とあるが、この施設が残っている。

 

 

 朝鮮戦争時には、日本軍の兵舎や実習地のあったところに韓国軍第一訓練所があり、この「耐弾式受信所」を弾薬庫として使用していたという。

 

  残存施設(南側)

 上掲の「基地位置図」の下側部分にも松岳山にかけて関連施設が残っている。

 

  • 飛行指揮所

 西側の滑走路(飛行場)に面して「指揮所」の鉄筋コンクリートの支柱部分と階段、上部の床面が残っている。上部床面には、円型の構造物の痕跡がある。「基地位置図」では、「指揮所」北側に「耐弾式飛行指揮所」、東側に「防弾指揮所」が描かれており、これらは1944年秋の改修工事で建設されたと考えられるが、それらしい痕跡は見当たらなかった。

 

 

  • 有蓋掩体(飛行機格納庫)

 飛行機を空爆から防護するための「有蓋掩体」の建設は1944年11月から始まり、その年の年末までに20棟の「有蓋掩体」が完成した。現在、そのうち19棟が畑の中に点在している。

 


2010年8月

  • 発電所

 「飛行指揮所」の南東側に地下施設が残っている。

 

 

 「基地位置図」には「弾薬庫」からの道の延長線上に「発電所」が描かれており、現在残っているこの地下施設が耐弾式の発電所であろう。

 

  • 弾薬庫

 「基地位置図」に「弾薬庫」と記された場所は今は巨大な窪地になっていて、雨水が溜まっている。その周辺には鉄筋コンクリートの塊が散乱している。

 

 

 日本の敗戦でアメリカ軍がここを接収した後、残っていた爆弾や砲弾を弾薬庫ごと爆破処理したとされる。

 

 この場所は、旧日本軍の施設跡地であると同時に、4・3事件の虐殺現場でもある。
 済州島では、1948年に、北緯38度線以南だけの単独選挙に反対する運動が起きた。それを武力で押さえ込もうとする警察や軍、右翼青年団との衝突から、反対派は4月3日に武装蜂起した。山に立てこもったパルチザンに同調すると見なされた一般島民までが拘束・殺害され、何ヶ所もの集落が政府軍・警察の手で焼き払われた。1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発すると、韓国の内務部は、4・3事件に関連する「要注意人物」や「不穏分子」を拘束するよう命じた。そして、7月から8月にかけて、拘束されていた島民がこの弾薬庫跡で「処刑」され、埋められた。

 この虐殺事件で虐殺された島民犠牲者を追悼する「名誉回復鎮魂碑」が建てられたのは、57年後の2007年のことであった。

 

 

 この慰霊碑の日本語の説明版にはこのように書かれている。

摹瑟浦警察署管内でも344人を予備検束し、監視していた。そして、慕瑟浦駐屯の政府軍は同年7月16日頃に20人、8月20日に193人など210人以上を法的手続きもなしに集団虐殺・埋葬し、遺族に遺体を引き渡さずに民間人の出入りを統制していたが、1956年の春にようやく遺骸発掘が許された、凄まじい歴史の現場である。

 

 1957年に発掘された132体の遺骨を共同墓地域に改葬したが、遺体の身元確認ができなかったため「百祖一孫之地」と名付けて犠牲者の名前を刻んだ慰霊碑を建てた。ところが、1961年、朴正煕パクチョンヒらによる5・16軍事クーデターが起きるとこの碑は「反共政策にそぐわない」として破壊された。その後1987年の民主化宣言を経て、1993年になって慰霊碑は再び建てられた。

 

  • 高角砲

 対空砲火用の重火器を、陸軍では「高射砲」と呼ぶが、海軍では「高角砲」と呼ぶ。弾薬庫の背後の高台ソダルオルム(섯알오름)とセダルオルム(셋알오름)に、1942年に高角砲4門と高射機関砲6門が据え付けられた。現在セダルオルム上の「十二糎高角砲」の砲台部分がオルレキル※上に残っている。

※オルレとは済州方言で道から家までの路地を意味し、2007年から済州島を周回するコースとしてオルレキルが整備されている


グアム島の十二糎高角砲(wikiwandより)

 

 1944年6月16日に中国成都基地から北九州方面の爆撃に向かったアメリカ軍B29に対して、済州島から対空火器の攻撃があったとの記録がある。また、8月20日の八幡空襲の時にはB29に対して済州島南岸から重対空砲火が撃たれたとあり、このアルトゥル飛行場周辺の高角砲による砲撃だったとみられる。

 

  • 地下施設

 高角砲の砲台のあるセダルオルムの地下部分に地下壕がある。2013年頃は出入り口に鍵がかけられていたが、2015年には中に入れた。鉄骨で補強され、上部には落石防止用のスレート板が設置されていた。

 

 

  • 隧道(震洋格納用)

 松岳山の麓の海岸には、奥行き20m弱のトンネルが10本、40m弱のが4本、それらと少し離れてさらに大きいものが2本確認されている。当初は高さ2.5m、幅3mだったとされているが、崩壊が進んでおり今はかなり狭くなっている。6〜7年前から、断崖上部が崩落する危険があるとして付近への立ち入りが禁止されている。

 

 このトンネルは、日本海軍が特攻船艇の発進基地として1945年2月から建設を始めたものである。自爆攻撃用の「震洋」が格納された。「震洋」は長さ5m、幅1.6mで一人乗り、前部に250キロ爆弾を積んだ。軍の命中率の見込みは1/10程度だったという。

 

Japanese Shinyo Suicide boat. US Navy photograph, 1945

 

 この時に、松岳山だけでなく、北村里プクチョンニ犀牛峰ソウボン高山里コサンニ水月峰スウォルボン西帰浦ソギュポ三梅峰サムメボン、そして城山里ソンサンニ日出峰イルチュルボンの全5カ所で、海岸に自爆攻撃用船艇の格納用隧道が掘られた。

 

高山里水月峰(りうめいさん提供)

 

西帰浦三梅峰(りうめいさん提供)

 

城山日出峰遠景

 


 済州島には、これ以外にも「本土決戦」のために掘られた洞窟陣地が残っている。

 漢拏山ハルラサンの北西側の中腹には、御乗生岳オスンセンアクの洞窟陣地がある。

 また、父親が工事に強制動員された李英根イヨングン氏が建てた済州平和博物館があり、カマオルム洞窟陣地を整備して一般公開していた。

 

2010年8月

 2012年に運営難から売却の話が出て、紆余曲折の末、済州道が買収することになったが、現在もまだ洞窟陣地は非公開のままになっている。

 


本ブログ中の写真は、一部を除き2015年と2016年に撮影したもの

 

参考文献

塚崎昌之「済州島における日本軍の「本土決戦」準備--済州島と巨大軍事地下施設」韓国文化研究振興財団編『青丘学術論集』22, 2003-03

神谷丹路『韓国—近い昔の旅』2001, 凱風社

  • 1980年代の梨泰院
  • 梨泰院の歴史
  • 変貌した梨泰院
  • 米軍の街から脱却
  • もう一つの梨泰院

 


 ソウルの「繁華街」と紹介される梨泰院だが、私が最初にソウルで暮らした1980年代前半の梨泰院は、「ミ・パルグン(米8軍)の街」「外人ウェインの街」であり、夜は相当に「ヤバい場所」だった。いまだに、その「ヤバさ」が尾を引いて人々を誘引しているような気もするのだが…

 

  1980年代の梨泰院

 1985年度版の『ブルーガイド 韓国』では、さらっと触れられている。

 

 

 同じ年に出た講談社『世界を食べる旅 韓国』では見開きで紹介されており、ハミルトンホテルの斜め向かいにあったポパイハウスなども紹介されている。

 

 このポパイ・ハウスは、1984年に封切られた映画「鯨とり(고래 사냥コレサニャン)」に出てくる。アン・ソンギとキム・スチョルがアメリカ人の夫婦に金をせびる場面がこの店の前で撮影された。当時の「いかにも梨泰院」という場所の一つだった。多分この店は、ポパイのイラスト使用のローヤルティは払ってなかったと思うが…

 

고래 사냥(1984)

 

 この当時は、昼は革製品、螺鈿家具や真鍮製品、それに骨董品や偽ブランド品などの店が並んでいるのだが、夜になると「米軍の御用達の歓楽街」。そこにちょっとヤンチャな若者たちが集まってくる街になっていた。

 

 その歴史を掘り起こし、今に至るまでの変遷をまとめてみたい。

 

  梨泰院の歴史

 梨泰院は、朝鮮王朝時代の漢陽ハニャン城外の最初の宿場の一つで、東は普済院ポジェウォン、西は弘済院ホンジェウォン、南がこの梨泰院(利泰院)だった。

 

漢陽圖

 

 日露戦争後の1908年から、梨泰院の東側に広がる一帯に日本軍の駐屯地が作られた。20師団の野砲26連隊、歩兵78・79連隊の兵舎や将官宿舎が立ち並んだ。いま、三角地の戦争記念館がある場所は79連隊の兵営で、その南側の師団司令部があった場所がのちに韓国国防部クックパンブとなった。現在は、そこが尹錫悦ユンソギョル大統領の執務室になっている。

 

上:Googleマップ航空写真 下:1921年測量の1万分の1地図

 

 今の梨泰院のメインストリートは、1930年代になってから三角地と新堂町(現新堂洞シンダンドン)をつなぐ「南山周回道路」として建設されたもので、朝鮮人の共同墓地などをつぶして1937年に開通した。

 

 1945年8月、日本の敗戦とともに龍山ヨンサンの日本軍施設はすべて米軍に接収された。

 1948年の大韓民国の建国とともに、これらの施設は米軍政庁から大韓民国政府に順次払い下げられることになった。ところが、1950年に朝鮮戦争が勃発し、国連軍として参戦した米軍はここに残されていた旧日本軍施設を拠点にした。そして、朝鮮戦争休戦後に韓米相互防衛条約が締結されると、それがそのまま駐韓米軍の基地となった。

 

 朝鮮戦争中、韓国には32万の米軍がいた。1957年には7万にまで減少したが、韓国駐留の米軍将兵の多くは龍山の基地内や、南山ナムサンの中腹、漢南洞ハンナムドン東部二村洞トンブイチョンドンなどに建設された「外人ウェイン住宅」に入居した。軍属やその家族などの軍関係者も基地周辺に暮らしていた。
 

 1950年代の終わりから1960年代には、梨泰院のメインストリート沿いに米軍関係者向けのショップや遊興・娯楽施設が軒を連ねた。それにつれて裏路地には怪しげな性風俗の店も増えた。

 

 1960年代後半から1970年代にかけては、泥沼のベトナム戦争の時期。韓国軍もこの戦争に派兵していた。韓国は「ベトナム反戦デモのない世界でも数少ない国」とされていた。梨泰院は、戦場帰りの米軍将兵の歓楽の街としても大いに「繁栄」することになった。
 

 1980年代、昼間の梨泰院は、衣類や皮革製品、螺鈿、アンティーク家具など、それに輸出用と称する衣料品や偽ブランド品などのショップが並んでいた。「日本への輸出品の横流しだ」と言われて私が買ったジーンズの洗濯タグをよく見てみると、「洗って下ちい」とプリントされていた…。

 暗くなると米兵相手の飲み屋、クラブ、ディスコのネオンが瞬き、異国の基地の街になる。米軍相手の店では支払いはその場でキャッシュ。時折、米軍のMPがパトロールしてはいるのだが、酔っ払いの喧嘩や交通事故は日常茶飯事。ハミルトンホテルの斜め前、消防署の横をあがったところの「テキサス村」は米軍専用の私娼窟として、よく探訪記事に登場した。昼間はまだしも、夜の梨泰院は韓国人でも近寄りがたい「外国軍の街」「不気味な街」だった。

 

「未成年者出入禁止」警告の中でセックス・幻覚剤など、よろめく白や黒の若者の犯罪地帯


 そうした特異性もあってのことであろう。韓国社会で疎外された人々がここに集まり始めた。「チャンミ」や「ボッカチオ」というオネエ系の飲み屋があったのも梨泰院。まだLGBTとかトランスジェンダーなどという呼び方もない時代だった。「ゲイバー」は、「退廃テッペ」の象徴としてしばしば警察の手入れを受けた。見せしめに「彼ら」の写真が新聞紙上に晒しものにされたが、「彼女ら」がそれにめげることはなかった。

 

  変貌した梨泰院

 1980年代に入ると、漢南洞寄りの方にブティックなどが徐々にでき始めた。ファストフードや軽洋食、本格コーヒーが飲める蘭茶廊ナンダランなどもでき、街の雰囲気が少しずつ変わり始めた。

 

 その大きなきっかけとなったのは、1983年の秋に相次いでソウルで開催された二つの大規模国際会議である。9月にASTA (アメリカ旅行業者協会)の総会が開かれ、10月にはIPU(国際議会連盟)総会が開かれた。ASTA総会では世界各国の旅行業者6,500人が、IPU総会では各国の国会議員など約600人が韓国を訪れた。

 

 民主化要求を圧殺して権力を握った全斗煥チョンドゥファン政権は、こうした行事を国際社会での地位向上に利用しようとした。すでにその2年前の1981年に「88夏季ソウル・オリンピック」の開催が決定していた。ところが、ソウル中心部の観光施設や食堂、ショップなどで、この時期に英語対応のできるところは限られていた。そこで目をつけられたのが梨泰院。ここなら英語での対応に慣れているし、昼間なら・・・・大丈夫。当局が目を光らせれば、ぼったくりもある程度は抑えられるだろうということで、商売マナーの改善キャンペーンを新聞紙上でも連日繰り広げ、梨泰院を外国からの訪問者のショッピング街に仕立て上げた。

 


 

 国外からの会議参加者がガイド付きのツアーバスで梨泰院を訪れ、これが一つの転機になった。韓国社会の梨泰院イメージが多少変わり始めたのである。

 

内国人が多くなった「梨泰院商店街」

安い市場が人気 青少年から中年層まで幅広い客層

 

 上述の「鯨とり」の撮影がポパイハウスの前で行われたのもこの1983年の秋のことだった。

 

 こうして、86年のソウルアジア大会、88年のソウルオリンピックに向けて、梨泰院は国際的観光スポットへと変貌し始めた。


 

 1989年3月の大韓ニュースでは、観光客が訪れるソウルの名所8ヶ所の5番目に、梨泰院を紹介している。

1分00秒から 88年のソウルオリンピックの時、多くの外国人観光客が訪れた梨泰院市場もソウルの8大名所一つです。

 

  米軍の街から脱却

 1990年代に入って、梨泰院が多国籍の観光地として次第にクローズアップされ始める一方で、米軍への依存度は急速に減少していった。

 

 実は、1980年代半ば以降、「反米のない韓国」は大きく変貌していた。きっかけは1980年5月の光州クァンジュ事件である。光州事件当時、韓国軍の作戦統制権は韓米合同参謀本部にあった。光州のデモ鎮圧に韓国戒厳軍を投入するにはアメリカ側の了解が必須だった。だから、光州での市民虐殺にはアメリカも大きな責任を負っているというのだ。1982年の釜山プサンアメリカ文化院放火事件、1985年のソウルのアメリカ文化院(現在のグレバンミュージアム:旧三井物産京城支店)占拠事件など、韓国社会の反米感情が徐々に表面化し始めていた。1988年になると、梨泰院でも大学生による反米ゲリラデモが行われ、10月には、酔った米兵がタクシーの運転手を殴ったことをきっかけに、米軍兵士と韓国人の乱闘騒ぎが起きた。この時、梨泰院の街頭では米兵40数名と韓国人100名余りが睨み合って一触即発の事態にまで至った。梨泰院での「在韓米軍」と「韓国」との関係が、それまでとは全く違ってきたことを示す出来事でもあった。

 


 2002年に、米軍の装甲車が女子中学生を轢き殺す事件を起こし、市庁前広場での大規模な反米ローソクデモに発展した。しかし、梨泰院ではそれ以前から米軍離れが確実に進行していたのである。

 

 

  観光特区と「異国情緒」

 1996年、ソウル市は梨泰院を観光特区に指定した。もはや米軍に依存する歓楽街ではなくなり、一般の観光客や韓国人の街になったことを象徴するものでもあった。

 


 2001年3月、地下鉄6号線の梨泰院駅が開業した。アクセスは格段によくなった。

 

 この頃には、実際にはもう「基地の街」という面影はほとんど残っていなかった。

 南山外人アパートナムサンウェインアパトゥは1994年に爆破解体されていた。「外人住宅ウェインジュテク」「外人アパートウェインアパトゥ」もすでに死語になりつつあった。龍山の米軍基地は、韓国側への返還プロセスが進み、龍山基地の軍人・スタッフは京畿道キョンギド平沢ピョンテク市のハンフリーズ基地に順次移動した。

 最終的に、2017年7月にアメリカ第8軍司令部が転出し、2018年6月に在韓米軍司令部が龍山から出て行った。多少の米軍施設は残ってはいるが、すでに以前の米軍基地ではない。

 

 しかし、今でも何かにつけて梨泰院は米軍基地と関連づけて語られることが多い。それがあたかも梨泰院のセールスポイントの一つでもあるかのように……。

 

 米軍相手の飲食店が多かった梨泰院のメインストリート北側には、様々な食文化や新しいコンセプトの飲食物を売りにする店が競って進出した。こうして、ハミルトンホテルの裏手の通りには、ベトナム料理、中東料理、ブラジル料理、中央アジアやアフリカの料理などいろいろな国のレストランが立ち並び、ここが「世界飲食文化通り」と称されるホット・スポットとなった。

 

  もう一つの梨泰院

 梨泰院にはもう一つの顔がある。メインストリートの喧騒とは全く対照的に、梨泰院の北側の一画には高級住宅街が広がっている。


 ハミルトンホテルの横から南山の中腹に向かって急峻な坂道を上っていくとハイアットホテルに出る。ホテルの前には1968年に開通した南山循環道路(素月路ソウォルロ)が南山中腹に横に走っている。この北側には以前は高層の南山外人アパートが2棟立っており、ハイアットホテルはその向かいに1979年にオープンした。このホテル建設の計画が持ち上がった時、いち早くその建設予定地の直下に土地を確保したのがサムソン財閥の創始者李秉喆イビョンチョル会長だった。1987年に会長が亡くなった後、その宅地跡にはリウム美術館が建てられ、それに隣接して李健煕イゴニ会長の邸宅があった。新世界シンセゲ李明熙イミョンヒ会長、農心ノンシン辛春浩シンチュウホ会長なども邸宅を構えていた。また、ノルウェー、デンマーク、ブルガリア、ベラルーシなどの大使館や大使公邸がここにある。同じ梨泰院といっても、南山側に坂を上ってこの一画に足を踏み入れると、梨泰院のメインストリート沿いの歓楽街とは全く別世界が広がっている。

 


 

 梨泰院の歴史を辿れば、侵略と戦争、そしてその後の紆余曲折に翻弄されてきたこの街が見えてくる。日本でも話題になったドラマ「梨泰院クラス」にも、その歴史の一端が反映されている。

 「繁華街」と呼ばれるようになった今でも、こうした成り立ちの梨泰院は、普通の人が日常的に足を向ける場所とはなっていない。外国人旅行者にとっても、そして多くの韓国人にとっても、いまだに怪しげな感じが付きまとい、それゆえ特別な日にかこつけて行ってみたくなる場所なのであろう。

  ハロウィーン行事のはじまり

 韓国でハロウィーンの行事が一般に広まったのは、2010年あたりからのようだ。最初は、英語幼稚園の外国人講師たちが園児向けのハロウィーン行事を始め、それがソウル市内の幼稚園全体に広まったという(2012年11月4日SBS NEWS)。

 

 韓国言論振興財団のデータベース(BIGkinds)で「핼러윈ハロウィン」「핼러윈ハロウィン & 이태원イテウォン」を検索してみると、ヒット数は以下のようになる。

 

 韓国のハロウィーンに関する記事以外もあるのだが、傾向としては2012年から報道記事数が増加する。「ハロウィーンと梨泰院イテウォン」の検索結果のうち、2004年と2006年は関連性がなく、梨泰院におけるハロウィーンの記事としては2012年が初出である。

 

  日本のハロウィーン

 日本では1980年代後半から90年代にかけて町おこしイベントや子供向けの仮装パレード行事などが徐々に各地で行われるようになった。1992年10月に、ルイジアナ州に留学していた日本人高校生がハロウィーン・パーティーに行く途中で家を間違って射殺されるという事件が起きた。この時、このニュース報道では、ハロウィーンとはどのような行事なのかという解説がまだ必要だった。

 「日本最大規模のハロウィンイベント」を自認していた「カワサキ ハロウィン」のホームページには、「日本でまだハロウィンが珍しかった1997年」に始められたと書かれている。

 2000年代に入って、ハロウィーンはカボチャと仮装の行事として日本社会での認知度は高まっていった。

 

 そんな中で、渋谷でハロウィーン「騒動」が起きたのが2014年。

 上述の「カワサキ ハロウィン」は、「2015年頃からは、過熱化したハロウィンブームに警鐘を鳴らすネガティブな報道」が多くなったなどとして、2020年に開催の終了を宣言した。

 

  梨泰院のハロウィーン

 韓国のハロウィーンは、日本とは少し違う流れで広まっていった。

 

 2011年、アメリカのビールMiller Genuine Draftを販売する韓国ミラーが、ハロウィーンに合わせて、梨泰院や弘大ホンデなどのバーやラウンジ、クラブなどを巡ってまわるイベント「Shine in the Dark」を始めた。2013年には、当時若者たちのホットスポットだったラボ・グリル5タコ・イグアナ・123ラウンジなどの店とタイアップして20代の若者をターゲットにしてイベントを盛り上げた。

 

 

 2013年には、酒類販売のアヨンFBCが新しいワインのお披露目をかねたハロウィーンイベント「サンテロ モンスター ナイトパーティー」を梨泰院のラウンジ、クラブで開催した(와인21미디어 2013.10.25)。また、フィアットがコンパクトカーのチンクエチェント宣伝のハロウィーン・ロードパーティを行った(아시아경제 2013.11.01)。

 

 この頃には、梨泰院や弘大の居酒屋やクラブを中心に多くの店でハロウィン・パーティーが開催されるようになった。

 

 2014年には、流通業界の「ハロウィーン・マーケティング」や酒類業界の「お祭マーケティング」が話題になっている。さらに、いくつかのマスコミがハロウィーンには梨泰院へ…という記事を掲載している。

 

ハロウィーンの由来と風習に韓国もノリノリ~「梨泰院に集まれ!」

 しかし、この2014年の梨泰院のハロウィーンは、無秩序な多数の人々の行動を問題視する最初の報道となった。

 

「ハロウィーン」の群衆が夜の街を占領…無秩序に事故まで
KBS 2014/11/01

 

 奇しくも、日本でも韓国でも、ハロウィーンの「過熱化」が問題となったのが2014年だった。

 韓国ミラーは2016年でハロウィーン・イベントから撤退している。

 


 

 6回の「過熱化」したハロウィーンの後、コロナウィルスの蔓延によっていったんは「冷却」されることになった。

 しかし、韓国では「冷却」期間が終わった2022年の10月末は、異常なまでに人々が梨泰院に押し寄せた。梨泰院にあまり土地勘のない多くの人が、ネット上でホットプレースとされる場所に集中したことも一因ではなかろうか…

 

 亡くなった方のご冥福をお祈りする。