ソウルのアメリカ大使館 | 一松書院のブログ

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  • 開化期から植民地支配下の外国公館
  • 米軍政から韓国建国後
  • アメリカ大使館の移転問題

 

 ソウルの目抜通り世宗路セジョンノ光化門クァンファムンに向かって左手には世宗文化会館、外交通商部や政府総合庁舎、右手奥には韓国歴史博物館。そしてその手前の高い壁に囲まれて脇の道には警察車両がずらっと並んでいる建物。これが、在韓アメリカ合衆国大使館である。

 

 

 ソウルの「大使館」をGoogleマップで検索すると、このように青丸で表示される。市内中心部にも多いが、梨泰院イテウォンから漢南洞ハンナムドン普光洞ポグァンドン一帯に多い。北側の城北洞ソンブクトン周辺に多いのは主として大使公邸。

 市内中心部に多いといっても、このアメリカ大使館の場所だけは特別のど真ん中。もう一つ、繁華街明洞ミョンドンのど真ん中にある中国大使館も特異な存在だが、それについては別の機会に書くとして、ここではアメリカ大使館の今日までの変遷をたどってみよう。

 

  開化期から植民地支配下の外国公館

 日本が1876年に「日朝修好条規(江華島条約)」を結んだ後、欧米列強の中で最初に条約を締結したのは、1882年5月の「朝米修好通商条約」のアメリカ合衆国。その後、イギリス、ドイツが朝鮮と条約を結んだ。さらに、ロシア(1884)、イタリア(1884)、フランス(1886)がそれに続いた。

 

 アメリカは、1883年に貞洞チョンドンの韓屋を購入し、それを改造して公使館を開設した。

Starbucks KoreaのFacebookより

 

 日本の公使館については、ブログ「京城の日本公使館」を参照されたい。

 

 貞洞には、イギリス(1884)、ロシア(1885)、そしてフランス(1897)が公使館を置いた。

 

 1907年に日韓書房が発行した『実測詳密 最新京城全図』では、貞洞の徳寿宮トクスグン慶運宮キョンウングン)の西側に欧米の領事館が描かれており、当時の位置がよくわかる。

 

 日本は、1905年の「第二次日韓協約」(保護条約)で大韓帝国は日本の「保護」下に置かれたので、海外のそれぞれの国の主権を代表する「公使館」は京城には不要と主張した。その日本の求めに応じて、各国はそれぞれの公館を、自国民の保護業務や査証発給などを行う「領事館」とした。そのため、この1907年の地図では「領事館」の表示になっている。日本による侵略の足跡である。
 ちなみに、山上萬次郎『日本帝國政治地理』第2卷(1909)によれば、韓国併合までに10カ国が京城に領事館を置いていた。

 

 そして、1941年12月、日本がアメリカ・イギリスと開戦すると、連合国の領事館は閉鎖された。

 

  米軍政から韓国建国後

 1945年8月15日、天皇がポツダム宣言の受諾を宣言して太平洋戦争が終わった。9月8日にアメリカ軍が仁川インチョンに上陸し、翌 9 日早朝、京城へ進駐し、北緯38度線の南側で米軍政庁による統治が始まった。

 

 米軍政庁の法令第33号によって、日本の公有又は日本人の私有財産は在朝鮮米軍政庁の帰属財産となった。貞洞の旧アメリカ領事館は、アメリカ大使館の大使公邸ならびに官員宿舎として使用され、帰属財産として接収した旧三井物産京城支店の建物(乙支路ウルチロロッテホテルの向かい側クレベンミュージアム)を大使館とした。

 

 1948年8月15日に大韓民国が建国されると、9月11日に米軍政庁と大韓民国政府の間で「韓米間の財政及び財産に関する最初の協定」が締結された。

 この協定で、米軍政庁が持っていた帰属財産の権利、名義及び利益は韓国に移譲されることとなったが、アメリカが対朝鮮政策の遂行にあたって必要とする財産の所有と借用がアメリカ側に認められた。これによって、貞洞の旧アメリカ領事館一帯の5万8千7百坪余り(現:アメリカ大使公邸)、景福宮キョンボックンの東側の松峴洞ソンヒョンドン司諫洞サガンドンの一帯9千9百坪余り(現:開かれた松峴緑地広場)をアメリカが所有し、各地に散在していた軍用地やアメリカ人家族住宅、旧三井物産ビルなどをアメリカが無償で借用することとなった。

 

 1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発した。ソウルは2度にわたって北朝鮮の人民軍に占領されたが、国連軍と韓国軍が奪還した。

 

 1953年5月に、「米合衆国及び大韓民国政府間の韓国ソウル所在の半島バンドホテル及び三井ビルの移譲に関する協定」が結ばれた。

 

 この協定で、アメリカが戦時体制の中で占有していた半島バンドホテルの建物・敷地を韓国側にすべて譲渡し、韓国側は、旧三井物産京城支店のビル・敷地をアメリカに譲渡することになった。それまで「無償での借用」だった旧三井物産ビルのアメリカ大使館は、正式にアメリカの「所有」となった。

 

 1959年、国際協力処(ICA)の援助資金を使って、新しい韓国政府庁舎の建設が計画された。駐韓アメリカ経済協助処(USOM)と韓国政府とが出資して、アメリカの建設会社「ヴィンネル」が韓国政府所有の敷地に2棟のビルを建設することになった。

 

1958地番入ソウル特別市街地図

 

 建設前のUSOMと経済企画院との間の合意では、建設される2棟の建物の所有権は韓国にあるが、うち1棟は韓米相互協定が存続する間は、アメリカ側の経済援助機関が無料かつ無期限に使用できるものとされていた。

 こうしたアメリカ側施設に対する韓国政府の特恵的な提供は、韓米援助協定3条3項にその法的根拠があった。

韓国政府は、米国援助機関の代表がその責任を履行するため、すべての実行可能な援助を提供し…(中略)…適切な対価でこれを実施し、施設と用役を得る権限を付与し…

 

 2棟のビルは、1961年から62年にかけて完成した。

 

 上の写真の手前のビルが経済企画院として使われ、その後、文化公報部となり、行政府改編で文化体育部となった建物。盧武鉉ノムヒョン大統領の時代に歴史博物館への転用が決まったが、2008年に李明博イミョンバク大統領が就任すると、現代史の歴史評価をめぐって異論が出されて開館が遅れた。2012年12月に「大韓民国歴史博物館」として開館したが、この時に建物が大規模に改修されて隣のアメリカ大使館とは全く趣の異なる建物になった。

 

 奥の建物は、建設前の合意メモと韓米相互協定とに基づいて、USOMに無償貸与されてアメリカの経済援助機関USAID(U.S. Agency for International Development)が使用していた。こちらも改修されてはいるが、原型が残っている。

 

 ところが、その後、アメリカの対韓経済援助は次第に縮小し、ニクソン・ドクトリン以降は援助の減少はさらに顕著になった。1968年から70年にかけて、アメリカ大使館は、領事部だけを乙支路の旧三井物産ビルに残し、USAIDが使用していたビル(現在のアメリカ大使館)に移転した。アメリカ大使館側は、USAIDは元来大使館の下部組織で大使館の経済担当参事官が所長を務めており、大使館とUSAIDは「駐韓アメリカ使節団」という名前で統合されているとして、この移転を正当化した。

 

 通告を受けた韓国政府は、これは不適切な解釈だと不満を示しながらも、アメリカとの友好関係維持のために敢えて問題視することはなかった。これ以降、アメリカ大使館は、賃貸料を支払うことなくこの建物を大使館として使用することになった。

 

  アメリカ大使館の移転問題 

 1984年1月、アメリカ大使館が京畿キョンギ女子高校の校地を買い取って大使館を移転させる計画が報じられた。

 

 

 京畿女子高校の前身は、植民地時代の朝鮮女子の教育機関「京城女子高等普通学校」で今の斎洞チェドンの憲法裁判所のところにあった。1945年の解放直後、内地人女子の教育機関だった「京城第一高等女学校」の校舎に学校を移した。

 

 

 京畿女子高は、アメリカ大使公邸にも近く、幹線道路から一本内側の道沿いで、景観的にも警備上も妥当な場所と思われた。

 

 この当時、韓国軍の平時作戦統制権は韓米連合司令部にあり、司令官はアメリカ軍側から任命されていた。韓国軍はアメリカ軍の了解なしには部隊移動などの作戦行動はできなかった。1980年の光州クァンジュ事件で、韓国軍の戒厳部隊が光州のデモ鎮圧に投入され、多数の死傷者を出す「作戦行動」を行った。これはアメリカ軍側の了解があったからであり、アメリカ政府に責任があるとして、次第に学生・市民の間に反米感情が高まりつつあった。

 

 そうしたことも移転案の背景にはあったと思われる。ただ、アメリカ大使館の土地と建物は韓国政府の所有であり、アメリカはそれを賃貸料なしで借りていたに過ぎない。従って、大使館を新築・移転させるとなるとアメリカ側は多額の出費を要することになる。アメリカ側は、韓国側からの特恵的な措置を要求するなどして、移転交渉は簡単には進まなかった。

 

 1986年に、京畿女子高校は江南カンナム開浦洞ケポドンに移転することが決定し、1988年の新学期から新しい校舎に移った。

 

 

 当時、アメリカ文化院として使用していた旧大使館と敷地(旧三井物産京城支店)はアメリカの所有だった。1990年7月3日に、このアメリカ文化院の土地・建物プラス330万ドルと、京畿女子高校跡地とを交換する協定が結ばれ、アメリカ大使館が京畿女子高校跡地の所有権を得た。

 

 

 ところが、ソウル市が京畿女子高校の校舎を取り壊して発掘調査を行ったところ、この場所から璿源殿ソンウォンジョンなど重要な建物の礎石などが出てきた。そのため、アメリカ大使館の移転は一旦保留ということになった。

 

 その後、龍山ヨンサンの米軍基地の韓国側への返還と、そこへのアメリカ大使館移転が韓国側とアメリカ大使館側とで非公式に模索され始めた。
 

 松峴洞にアメリカ大使館が所有していた大使館館員宿舎の土地は、1997年に、1400億ウォンでサムソン文化財団に売却されたが、それは龍山への大使館移転が念頭にあってのことであった。


 

 2001年頃から龍山のアメリカ軍基地の移転計画が具体化して、龍山のアメリカ軍基地は韓国側に順次返還されることになった。キャンプコイナー(Camp Coiner)は厚岩洞フアムドンの龍山高等学校の西側に位置し、アメリカ軍に出向する韓国軍支援団(KATUSA:Korean Augmentation To the United States Army)などの営舎があり、早い段階で韓国側に返還されることになっていた。

 

 2004年に、返還されたキャンプコイナーの土地と、アメリカ大使館側の京畿女子高校跡地を交換するとの報道が出た。翌2005年に、「駐韓アメリカ大使館庁舎移転に関する了解覚書」と「敷地交換合意書」が取り交わされて、旧京畿女子高校の跡地とキャンプコイナーの敷地を交換してアメリカ大使館を龍山に移転することが決定した。

 

 

 

 

 しかし、その後大使館の移転問題は龍山の米軍基地の平沢ピョンテク移転終了後に協議することになり、具体的な進展がなかった。

 

 2017年になって再びアメリカ大使館の移転問題が動き出した。2021年6月23日、ソウル市は都市建築共同委員会で、龍山区ヨンサング龍山洞ヨンサンドン1ガ1-5の在韓アメリカ大使館の建設計画案を可決した。

 

在韓アメリカ大使館庁舎の鳥瞰図(ソウル市提供)

 

 アメリカ大使館の建設は、建築許可など手続を経て、今年あたりには着工が可能とも報じられており、早ければ2026年にも完成するとの予想もある。

 


 

 昨年、尹錫悦ユンソギョル大統領が執務室を龍山の旧国防部ビルに移した。アメリカ軍基地の返還と整備が進み、アメリカの大使館もここに移ってくるとなると、ソウルの都市景観にも大きな地殻変動が起きることになる。

 

 楽しみではあるが、今までの景観もしっかり記録と記憶に残しておかなければ…と思っている。