上岩洞の旧日本軍官舎… | 一松書院のブログ

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  • 日本陸軍官舎の「発見」
  • なぜここに日本軍の官舎が…
  • 陸軍官舎なのかなぁ…
  • 鉄道官舎の可能性も…

 

 京義中央線キョンウィチュアンソンで下っていくとデジタルメディアシティの次の駅が水色スセック。水色駅前の道路を西に進み、跨線橋を渡ると、右手に上岩サンアムワールドカップパーク10団地が見える。その高層アパート群の手前にフクロウ近隣公園があり、その一番南端に2棟の古い木造住宅がある。これが2010年に移築・復元された「旧日本軍軍人官舎」である。

 

 

 2棟の家屋は、もとは現在のフクロウ近隣公園の北側、上岩洞728番地と762番地に建っていたもので、それを110〜130m南に移動させて復元・改修したものだ。

 

元位置の家屋配置再現ジオラマ

移築前の家屋(ハンギョレ新聞 2007-04-18 記事より)

 

 

  日本陸軍官舎の「発見」

 2002年の日韓共催サッカーワールドカップのメインスタジアムが上岩洞サンアムドンの南東側の城山洞ソンサンドンに建設された。ワールドカップの終了後、周辺地区の開発が急速に進んだ。

 

 現在フクロウ近隣公園になっている一帯は、ワールドカップ当時は開発を制限するグリーンベルトに指定されていたが、2004年12月になって上岩第2地区の宅地開発予定地区に指定された。開発に先立ってソウル市の文化財調査が行われた。その時に、林の中に残っていた22棟の木造住宅が確認され、2005年11月に文化財評価報告書が提出された。

 

 その報告書では、この建物群は「1937年に建設された日本陸軍官舎の建物と推定」され、「近代に造成された建築文化財として価値が認められる」とされた。審査の結果、2006年12月に、22棟のうち状態が良好な2棟のみを移築・改修して保存する計画が固まった。そして、2008年3月から2010年10月まで移設・改修工事が行われた。

 

 対象の施設が、日本の植民地支配時代の陸軍官舎と推定されていたこともあって、保存措置に対する批判は当初から多く寄せられていた。しかし、2000年代に入って、「ネガティブ文化財」に対する韓国社会の流れが「廃棄」「清算」から「保存」「活用」へと変わっていた。植民地時代のものをあえて残すことで、ネガティブな自国史を可視化しようとする動きである。韓国の経済発展と社会の成熟に裏打ちされた自信の現われでもあろう。決して過去の日本の行いを「許した」わけでも「忘れた」わけでもない。

 

 728番地の家屋はほぼ原型通りに復元された。一方、762番地の家屋は、コンクリート構造の地下室を新規に構築し、その上に元の家屋の外観を原型に沿って復元した。地下室は備品等の収納庫、建物の内部空間は、展示・講習会機能を備えた施設に改修された。教育的活用を可能にする機能を付加したものになっている。屋外には防空壕も移設・復元された。1938年から京城の一般市民に防空壕の設置が呼び掛けられているので、当時としては特別な設備というわけではない。

 

 

  なぜここに日本軍の官舎が…

 日本植民地統治下で、釜山から京城を経て、平壌、新義州に向かう京義鉄道は、当初は龍山ヨンサンからすぐ西にカーブして水色スセック方面に向かう経路で運行されていた。しかし、京城中心部に近い南大門駅(京城駅:現ソウル駅)を通らないのは不便ということで、1910年代に京城駅を通って新村シンチョンから水色スセックにつながる新たな線路が敷設された。この路線が整備されたことで、京城駅は名実ともに内地から朝鮮を経て満洲までを連結するキーステーションになった。

 

 

 1937年、盧溝橋事件で日中戦争に突入すると、中国大陸での侵略戦争の兵站基地として朝鮮の鉄道輸送力の増強が図られた。この時、注目されたのが水色スセックで、ここに操車場の建設が進められた。

 

 

  陸軍官舎なのかなぁ…

 当時、朝鮮には、第19師団と第20師団が置かれていた。第19師団は、朝鮮半島北部の咸鏡北道羅南を拠点に北方を管轄し、第20師団が朝鮮半島南部から京城・平壌一帯を管轄していた。第20師団の司令部は龍山にあり、歩兵78・79連隊、野砲26連隊、騎馬28連隊の兵営が龍山にあった(朝鮮戦争後アメリカ軍基地になったエリア)。


 1937年7月の盧溝橋事件で、第20師団は華北戦線に動員された。だが、水色になんらかの軍事施設を作ったという記録は見当たらない。ソウル市の研究調査報告では、「1930年代、日本が大陸進出のために水色地区を基盤として騎兵部隊を新しく構築して造られた施設群の官舎と推測される」となっている。騎兵部隊は、もともとは機動力を生かした偵察任務などを目的としたものだったが、1930年代に入ると機甲化が図られて、多くは捜索連隊へと改組された。騎兵第28連隊は、1940年7月に捜索20連隊に改編されている。しかし、龍山から水色に移ったとする資料は出てこない。しかも、22戸もの将官用の官舎があるということは、それに見合う規模の兵卒用の兵舎が隣接してあるはずなのだが、その形跡も見当たらない。唯一確認できるのは、日本の敗戦時に水色に陸軍倉庫があったことのみである(『岐阜県従軍回顧錄』第4巻)。

 

 文化財委員会の「2012年度第3次会議録」には「沿革」として次のように記載されている。

1945年解放後、韓国軍官舎として使用(約11年間使用)

1949年 ソウル市に編入

1956年 個人に払い下げられて民間所有となる

1970年代初 近隣地域がグリーンベルト(開発制限区域)に指定

2004年12月3日 上岩2地区 宅地開発予定地区に指定

 解放後に「韓国軍官舎として約11年間使用」とあるが、実際には1945年9月に米軍政庁による統治が始まって、日本の施設はアメリカ軍によって接収された。この段階では「韓国軍」はまだ存在しなかった。アメリカ軍は12月5日に西大門区冷泉洞に軍事英語学校を開設し(現在の監理教メソジスト神学大学の場所)、日本軍や満州軍で経験を積んだ幹部級の軍人を入学させて「国防警備隊」の創設要員として育成した。翌年1月に、旧日本軍の朝鮮人志願兵訓練所があった泰陵テヌン(現在の韓国陸軍士官学校の場所)に「国防警備隊」第1連隊が創設された。

 

 1980年代末の盧泰愚ノテウ政権の時に国務総理になった姜英勳カンヨンフンは、満洲の建国大学在学中に学徒兵として徴集され、日本陸軍見習い士官で敗戦を迎えた。帰国後、この軍事英語学校の1期生となり、その後国防警備隊から韓国陸軍将校としてキャリアを積むが、姜英勳がこの水色の官舎に住んだとされる(ハンギョレ新聞 2007-04-18)。

 

 また、『大韓民国史年表』には、

1948年5月5日 
京畿道水色で航空基地部隊(後に陸軍航空司と改称)を創設(韓国空軍の第一歩)


1948年7月27日 
航空部隊を航空基地部隊と改称し司令部を水色から金浦キムポに移す

と、1948年8月の大韓民国建国直前に、短期間であったが水色に軍部隊が存在したとの記述がある。

 

 さらに、朝鮮戦争後の1955年に設立された国防クックパン大学がこのすぐ近くにあった。国防大学は、1957年に国防研究院、1961年に国防大学院になり、2017年に論山ノンサンに移転した。

 

 

 こうした解放後の韓国の軍事・国防施設との関係性を窺わせる事実から、日本軍の軍事関連施設がもともと水色スセックにあって、それを韓国軍が接収して引き継いだようにも見える。しかし、実際は米軍政庁が接収し、アメリカ軍の主導のもとで韓国軍の前身の国防警備隊が創設されているのだから、日本軍の軍関係施設が韓国軍関連施設として引き継がれたということにはならない。この2004年に「発見」された官舎を韓国の軍関係者が使用していたからといって、この住宅群が日本軍の官舎であったということにはならない。

 

  鉄道官舎の可能性も…

 上述のように、1930年代末には水色スセックに大規模操車場が作られており、その規模からいって新たな鉄道官舎が造成されたはずである。


 朝鮮の鉄道官舎については、李喆永「韓国の住居近代化に与えた日式住居建築の影響」(『大手前大学社会文化学部論集』4(2004-03))に次のような記載がある。

5等の鉄道官舎は、北側の中央に玄関があり、その右側に8畳の接客間の座敷と次の間、家族の生活空間の茶の間を連接配置した続き間の型となっている。座敷には床の間と違い棚、長押などが設けられている。次の間には押入れが、両室間の問は襖になっている。玄関の右側には4.5畳の女中部屋とトイレ、その前方は浴室と台所となっている。浴室には鉄釜の浴槽があり、台所には前庭へ出入りができるドアがある。5等の官舎の居住対象は地方鉄道局の課長(書記官級)や駅長である。

 728番地の家屋の平面図はと内部の様子は下のようになっている。

 

 

2018年9月4日撮影

 

 家屋の構造だけでなく、官舎の配置やロケーションからいっても、むしろ鉄道官舎の方がしっくりくるのだが…。少なくとも、外観や内装、配置や場所だけからは、これが鉄道官舎ではなく、軍人官舎であったとする根拠は見出せない。

 


 

 このブログを書くにあたって、日本軍の官舎である根拠の断片でも見つからないかとだいぶ検索を繰り返したのだが、出てこない。

 

 それに、「田畑・池袋を凌ぐ朝鮮一の大操車場」を新たに作ったのなら、鉄道官舎が新設されていたはずである。現在の水色駅の向かい側には大規模な高層マンション群ができているが、その西側の一角に操車場ができる前からの鉄道官舎がほんの少しだけ残っている。大規模な操車場であるだけに、大規模な鉄道官舎も必要だったはずだ。

 

 かなり皮肉な見方だが、「ネガティブ文化財」である以上、鉄道官舎よりも軍人官舎の方がネガティブ度が高くて復元・保存する価値が認められたのかもしれない。

 

 ちなみに、龍山の第20師団の主力部隊歩兵78・79連隊、野砲26連隊は、1942年12月28日未明に龍山駅から列車に乗車、釜山からニューギニア戦線に向かった。ニューギニア東部で連合軍の猛攻で退路を絶たれ、1944年1月、3000m級のフィニステール山脈の稜線を縦走する逃避行で多くが「戦死」した。投入された25,000名の兵力のうち、生還できたのは僅か1,700名あまりだった。

 捜索第20連隊は、1944年6月に沖縄の第32軍に編入されて宮古島、西表島、石垣島に展開、そのまま敗戦を迎えた。こちらも、水色から部隊が移動した形跡は、今のところ見つけられずにいる。