絵葉書の朝鮮総督府と東本願寺 | 一松書院のブログ

一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

  • 写真の撮影範囲
  • 旧朝鮮総督府庁舎と科学館
  • 南山の東本願寺

 

 国際日本文化研究センター(日文研)の「朝鮮写真絵はがきデータベース」に、景福宮勤政殿前に移転する前の朝鮮総督府庁舎や南山の東本願寺、赤十字朝鮮本部などを南山ナムサン中腹から撮影した写真の絵葉書がある。

 

 この絵葉書をもとに、南山の東本願寺や朝鮮総督府庁舎が今のどのあたりに当たるのか、また今日までどのような変遷をたどってきたのか、わかる範囲で追いかけてみた。

 

 

 

 オモテ面には宛先住所・氏名は書かれておらず「未使用」に分類されている。だが、写真面に「×印ハ弊医院」との書き込みがある。オモテ面の「日ノ出マーク」から、京城本町2丁目の「日之出商行」が制作したものであることがわかる。さらに、下1/3に線が引かれている。1918年2月まではオモテ面の1/3にしか通信文が書けなかったが、3月からは半分まで通信文を書いてよくなった。したがって写真の撮られた時期もこれで絞り込める。

 

  写真の撮影範囲

 絵葉書の写真の左上(E)に写っているのは、南山町3丁目の京城ホテルとその別館。

 

 

 1907年に、日本人倶楽部だった建物を譲り受けてホテルにしたもので、オープン当初から要人・著名人が利用するホテルだった。諏訪尚太郎の『朝鮮漫遊記』(1930)には、このように描写されている。

京城ホテルは洋風の大旅館であるが、我等一行の為に奥の別邸なる純朝鮮式の頗る古雅な一棟を与へてくれた。真中が十五畳、左右六畳、其奥が四畳半、各室共暖房の装置されてある部屋であつて、朝鮮の石佛等面白く配置された優雅なる庭園が此の亭を囲み、朝夕鵲(朝鮮カラス)が遊びに来る等心行くまで朝鮮趣味に浸り得る建物である。此の主人公
は江戸子なそうで女中に至るまで江戸子、料理も江戸料理に歯切れよい東京弁でかいがいしく世話してくれるので東京に居る様な落付いた気分にもなり得る。

 柳宗悦などもこのホテルを使っていた。柳宗悦の「全羅紀行」(『工藝』第82号 1938年3月)は、このような一節で締めくくられている。

京城に止まるること五日間。毎日持ち帰る品物で、京城ホテルの吾々の室は早くも一杯になった。帰る時が来た。私たちはそれらのものを通して多くの知己に逢うために、次の準備を急ごう。

 現在の地下鉄4号線明洞ミョンドン駅の1番出口を出ると韓国電力公社ビルがある。ここが京城ホテルのあった場所である。

 

 絵葉書の写真で京城ホテルと反対側、右端に写っている(F)は、1889年に日本人居留民会が開校した日之出小学校。内地人児童だけでなく、高宗の末娘徳恵翁主トッケオンジュなどもここを卒業している。ただ、徳恵翁主は1921年編入なので、この写真の時にはまだ通ってはいなかったが。

 

 解放後も日新イルシン国民学校として存続していたが、1973年2月に都心の児童数減少で廃校となった。校地は売却され、現在は南山スクエアビル(남산스퀘어빌딩)が建っている。

 

 ということで、1936年の『大京城府大観』でいうと、こんな範囲を1917年以前に撮影した風景ということになる。撮影場所は、京城神社(現在の崇義スンウィ女子大)だとちょっと低すぎる。その後ろの南山公園をかなり上まで上がったところだろう。

 

大京城府大観(1936)

 

 上述のように、この絵葉書には、日之出小学校の左側に×印が付けられ(G)、キャプションの横に「×印ハ弊医院」との書き込みがある。『大京城府大観』は、地図作成に出資した協賛者に番号をつけて地図上に表示し、町内別に協賛者の一覧を掲載している。本町2丁目の「32」は、「京城医院」となっている。場所的に×印の位置と一致する。

 

 京城医院は、1906年に岡山医専を卒業した村上憲祐が開業した病院。1917年に渡米する村上憲祐に代わって岡山医専の同級生鈴木茂が岡山から京城にやってきて京城医院を引き継いだ(『京城府町内之人物と事業案内』京城新聞社 1921年)。この絵葉書の書き込みは、村上憲祐が岡山にいた鈴木茂に京城医院の場所を知らせたもの…あるいは、鈴木茂が引き継ぎの挨拶がわりに使ったもの…かもしれない。絵葉書の制作時期とは矛盾はないのだが、決め手はない。

 

 写真中央の赤十字社(D)は、日本赤十字社朝鮮本部だったところ。現在もここに大韓赤十字社テハンチョクシプチャサがある。

 解放後の1959年に、この絵葉書の写真と同じようなアングルで撮られた映像がある。この年の5月23日に行われた安重根アンジュングンの銅像の除幕式の映像である。この時には、すでに朝鮮総督府の建物(A)(B)と東本願寺の建物(C)は、なくなっている。

 

大韓ニュース第215号

  旧朝鮮総督府庁舎と科学館

 絵葉書のキャプションで「朝鮮総督府」とされている(A)(B)の建物は、1936年の『大京城府大観』では「科学館」と表記されている。(A)は、1907年に統監府庁舎として建築され、1910年8月の韓国併合後は朝鮮総督府庁舎として使用された。(B)はその後に1913年に増築された庁舎。1915年冬からは、景福宮の光化門と勤政殿の間に総督府庁舎を新築する工事が始まり、この新庁舎は1926年1月に完成し、朝鮮総督府は移転した。

 

 総督府移転後の南山の旧庁舎は、科学館・商品陳列館として利用されることとなり、改修工事や内装、展示備品の準備などを経て、1927年5月10日に科学館がオープンした。

 

 

 1945年の日本の敗戦後、米軍政庁の統治下で「科学館クァハッカン」は1946年2月に再開している。

 

 

 ところが、朝鮮戦争の最中に(A)(B)の建物はいずれも燃失してしまった。1953年の朝鮮戦争停戦後、唯一焼け残った旧科学館の倉庫に「科学館」の看板を掛け、事務機能だけがかろうじて存続していた。1954年末に韓米財団の支援で「科学館」の展示部門の再建が報じられたが、結局実現しなかった。

 

この建物は絵葉書の(A)の左下に写っている
1959年の安重根の銅像の右側にも半分見えている

 

 1956年に、旧朝鮮総督府(A)の跡地にはKBSラジオの「南山演奏所ナムサンヨンジュソ」が建てられた。1976年までこの場所でラジオ放送が制作され、放送が流れた。安重根の銅像の右側後方に大きく見える建物がKBS局舎である。

 

KBS, 남산 라디오 방송국의 시설과 구조より

 

 1976年にKBSが汝矣島ヨイドに建設された新社屋に移ると、この旧社屋は国土統一院クットトンイルウォンの庁舎として使用された。1986年から国家安全企画部(安企部アンギブ)に移管されたが、1995年の安企部の内谷洞ネゴクドン新庁舎移転に伴ってソウル市の施設となり、1999年にここをソウルアニメセンターとしてオープンした。現在、アニメセンターの建て替え工事が進められており、旧KBS社屋はすでに撤去された。

 

  南山の東本願寺

 真宗大谷派(東本願寺)は早くから釜山で布教を始めた。1890年に京城に布教所を置き、1895年にはこれを真宗大谷派京城別院とした。絵葉書に写っている建物は、1906年11月に完成した本堂で、高宗皇帝から大韓阿弥陀本願寺の扁額を下賜された(『本願寺誌要』1911年)。

 

 日本の敗戦後、南山の東本願寺の建物は、1947年10月から国民大学館クンミンデハッカンの校舎として使われた。国民大学館(現在の国民大学校)は、大韓臨時政府の申翼煕シンイクヒが朝鮮に帰国した後、解放後の朝鮮に大学を設立しようとしたものの米軍政庁から大学としての認可が下りず、「大学館」として開学したものだった。朝鮮仏教中央総務院の総務部長で海印寺の住持だった崔凡述チェボムスルが国民大学館の運営に参画したこともあって、東本願寺の使用が実現したのであろう。しかし、ソウル市は、旧東本願寺を「国際社交場にする」という理由で国民大学館に立ち退きを求めた。学生や教職員の強い反発で、1948年2月には過渡立法議院でも取り上げられるほどの大騒ぎになった。結局、国民大学館は、昌成洞チャンソンドンの旧逓信要員養成学校の跡地(現在の政府ソウル庁舎昌成洞別館)に移転することで決着し、その夏には大学としての認可を得ることになる。

 

 国民大学館が退去した後の旧東本願寺には、ソウル市の生活改善硏究舘が置かれ、1950年3月にはソウル市立美術硏究院が開設された。ここで朝鮮戦争が勃発した。各地で多くの孤児が出る中で、大韓テハン児童院アドンウォン白仁哲ペギンチョルが運営する孤児院が、旧東本願寺の建物を使って開設された。運営資金は、アメリカ軍の第10防空戦闘連隊の将兵が提供した。

 

 ところが朝鮮戦争が停戦になると、孤児院は次第に資金不足となった。そうした中で、1955年9月、白仁哲が沈義赫シムウィヒョックに孤児院を奪われたと訴え出たという報道記事が出た。

 

孤皃院奪われたと白仁哲氏が提訴

朝鮮日報1955.09.10記事

「以前CACの通訳を務めていた沈義赫という三愛サメ保育園園長が、私が経営していた孤児院を奪ったので取り戻してほしい」という訴訟を、現大韓児童園復旧対策委員会長の白仁哲氏が提起し、話題になっている。すなわち、白氏が提起した訴訟内容では、ソウル市内南山洞にある現在の三愛保育園は、元々大韓児童園という看板を掲げて白仁哲氏が経営していたもので、以前CACで通訳を務めていた沈義赫がCACにいるアメリカ人や米軍の力で不法に奪ったものなので、取り戻してほしいということだ。この孤児院が白仁哲氏のものだった事実は、ソウル市の当局者や社会事業連合会でも認めており、強奪の当時、米軍を利用していた事実から、過去の通訳の時の所業が明らかになったのではと当局の捜査結果が注目されている。

※CAC=韓国民事援助司令部

 

 現在、以前東本願寺のあった場所の北東部分には、漢陽ハニャン教会の教会堂が建っている。

 

漢陽教会の沿革に、このような記載がある。

1945年10月10日 全仁善チョニンソン牧師が南倉洞ナムチャンドンにあった日本人組合教会を引き継いで「ソウル教会」を創立、その後「倉洞チャンドン教会」に改称。

1953年8月12日 金致善キムチソン牧師を臨時牧師として招聘、会賢洞フェヒョンドン3街に敷地を購入。

1955年9月 現在の南山洞ナムサンドン3街の位置に賃貸借契約。教会を移転し「漢陽ハニャン教会」に改称。

1956年 原因不明の火災で建物が全焼。天幕で臨時礼拝所を設置。

 (中略)

1967年12月30日 南山洞の教会敷地に現在の教会堂竣工。

 1955年の9月に、倉洞教会が旧東本願寺の賃貸借契約を結んだことと、白仁哲が沈義赫を乗っ取りだと訴えたのとが時期的に重なっているのは単なる偶然ではなかろう。白仁哲の訴訟の成り行きはわからないが、この時点で旧東本願寺の建物は「漢陽教会」として使われることになったと思われる。ところが、翌年に旧東本願寺の建物は原因不明の火災で消失してしまった。

 

 そして、1967年12月30日に漢陽教会の今の教会堂が完成するのだが、その位置は旧東本願寺の本堂の場所ではなく、敷地の北東寄りの一角である。元々東本願寺本堂があった場所はソウル市の公有地で、その南側一帯には、すでに1961年にKBSのテレビ放送用局舎が建てられていた。漢陽教会は、1955年の賃借契約を根拠に教会堂を建設したのであろうか。

 

 1976年に汝矣島にKBS放送局社が建設されると、KBSラジオ局とともにこのテレビ局も汝矣島の新社屋に移った。KBSのテレビ局舎には、韓国映画振興公社ヨンファジヌンコンサが入り、文化公報部ムナコンボブ傘下の公団として映画資料の収集・展示を行なっていた。

 

 

 1989年に土地と建物が売却され、その後は、ケーブルテレビ局が使っていたが、現在はどうなっているのか把握していない。建物はそのまま残っている。

 


 

 ここまで、1910年代の絵葉書の風景から、2023年の今日までの「歴史散歩」をしてみた。

 

 

 絵葉書当時からのもので今日残っているのは、東本願寺の石垣と旧KBSテレビ庁舎駐車場に残る小さな石柱くらいだろう(りうめいさんの教示による)。それでも、こうしてトレースしてみると日本による侵略の時代の街並みをイメージすることができる。