映画「不思議の国の数学者」と脱北者 | 一松書院のブログ

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  • 「セト民」という呼び方
  • 「帰順」から「脱北」へ
  • 黄長燁の越境
  • 脱北後にも「境界」が

 

 映画「不思議の国の数学者」が日本でも封切られた。北朝鮮から韓国へ越境してきた人々について、その処遇や呼び方には大きな変遷があった。

 

 

  「セト民」という呼び方

 2005年に「セトミン(새터민)」という韓国語が登場した。

 

国立国語院のチェ・ヨンギ学芸研究官は、「脱北者」は否定的な感じを与えるため、自由を求めて北朝鮮を離れて韓国で新しい生活を送っているという意味で、「新しい生活者(새살민セサルミン)」(「새삶인」の変異型)、「セト民(새터민)」(新しい生活拠点を求めてきた人)、「離郷民イヒャンミン(이향민)」のような呼び方を考えるべきだと語った。

 「脱北者」という呼び方に否定的なイメージがあるとして、政府の肝煎りで国立国語院で考案したのが「セト民」。新しい「セ」と場所の「ト」に「「民」を組み合わせた造語。

 

韓国言論振興財団のデータベースによる主要日刊紙の使用頻度

 

 セト民という造語は、当初はなかなか使われなかったが、2〜3年で公的な場では使用されるようになった。

 

 映画「不思議の国の数学者」でも、脱北者を支援する組織「セト民支援本部」が出てくる。とはいえ、日本語ではそうした造語はないし、使い分けができないので、字幕では「脱北者支援本部」となっている。

 

  「帰順」から「脱北」へ

 1990年代の初めまでは、北朝鮮から韓国に越境して来た人は「帰順勇士クィスンヨンサ」「帰順義士クィスンウィサ」と呼ばれた。1970年代まで、韓国と北朝鮮との経済水準では、必ずしも韓国が優っているわけではなかった。韓国は、豊かな部分と貧困とが混在する極端な格差社会だった。

 

 そんな韓国に「自由」を求め、「主体思想チュチェササン」の北朝鮮を見限って越境してきた人は、「越南ウォルナム帰順勇士特別褒賞法」の規定で報償金や年金が与えられ、社会生活面でも厚遇された。ただ、「偽装帰順」もあったため、情報機関での厳しい取り調べをクリアする必要があった。

 

 1983年にミグ戦闘機に乗って韓国に「帰順」した北朝鮮空軍の李雄平イウンピョン中尉は、13億ウォンの報償金を手にした。1987年に日本海を渡って日本に漂着し、その後韓国に入った金満鉄キムマンチョル一家にも報奨金と種々の社会的便宜が提供された。

 

 1985年に離散家族や芸術団の南北相互交流が実現したとき、韓国のMBCの「カメラ出動」が平壌で突撃インタビューを敢行した。北朝鮮の子供がカメラの前で「南朝鮮はアメリカの奴らのせいで子供達が空き缶をぶら下げて道をさまよって食べ物を漁っています」と答える場面が韓国で放送された。当時、ものすごい衝撃だった。

 

 

 一方、韓国では、子供の頃に反共ポスターで北朝鮮人の頭にツノを描くと褒められたという人もいる。

 双方で、こうしたプロパガンダが浸透した情報閉塞の中にいると、人は動こうとはしない。

 

 ところが、1988年にソウルオリンピックが開かれ、中国やソ連、東ヨーロッパの国々が参加した。北朝鮮は対抗して、翌年世界青年学生祭典を開催した。これには韓国から学生の林秀卿イムスギョン文奎鉉ムンギュヒョン神父が参加した。1989年にはベルリンの壁が崩壊した。このニュースは朝鮮半島でも南北を問わず非常に大きな関心を呼び、情報が徐々に拡散し始めた。

 

 この時期、1980年代の北朝鮮の農業政策の失敗により北朝鮮の食糧不足が深刻になっていった。そのため、北朝鮮から韓国へという人の流れが増加し始めた。韓国が「優遇」することができないくらいのレベルで増加した。そのため、1992年には「帰順者」としての扱いを停止せざるを得なくなった。

 

帰順勇士の年金廃止

定着金・住宅支援も縮小

 さらに、1994年になると、外貨獲得のためロシアなどに送られていた北朝鮮の出稼ぎ労働者の韓国亡命が相次いだ。また、豆満江トゥマンガン鴨緑江アムノッカンを渡って中国領に入り、迂回して韓国を目指す人々も目に見えて多くなった。一度動き出した流れは次第に大きくなる。韓国政府は、一般の越境者については最低限の定着支援金を給付して職業訓練などを行なうことにした。そして、困窮した北朝鮮を見限って脱出してきた人々という意味で、越境してきた人々の呼び方も「帰順者」から「脱北者」へと変わった。1995年以前、報道媒体では「脱北者」という言葉は使われていなかった。

 

「脱北者」の使用頻度

韓国言論振興財団のデータベースによる主要日刊紙の使用頻度

 

  黄長燁の越境

 1997年2月、朝鮮労働党の幹部であり、金日成総合大学の総長などを歴任した黄長燁ファンジャンヨプが北京の韓国大使館に亡命申請し、4月に韓国に入国した。

 

 黄長燁は「主体思想」の体系化にも貢献した金日成キミルソンの側近だった超大物。さすがにこのレベルの人物には「脱北者」という呼び方は相応しくないということで、この当時の報道では「脱北」という表現はほとんど使われていない。韓国社会に、対北優越意識と、北朝鮮から逃れてくる人々をも見下す意識とが芽生え始め、それが「脱北」という言葉に込められいたが故に、黄長燁を「脱北者」とすることが憚られたのであろう。

 

 その後、北朝鮮から韓国への越境が急激に増加してくると、普通の人であろうと大物であろうと、すべてが「脱北者」としてくくられるようになっていった。

 

  脱北後の「境界」

 北朝鮮からの流入民が出始めた最初の頃は、脱北者に対して、悲惨な暮らしを強いられた可哀想な同胞という同情も多く寄せられた。しかし、脱北者が急激に増加するにつれ、お荷物扱い、邪魔者視する風潮が韓国社会の一部で露骨になっていった。脱北者の中には、北朝鮮の本場の味を売り物に食堂を始めたり、事業を起こして手広く商売をやったり、北朝鮮では通えなかった大学や大学院に通う人たちもいた。

 

 2002年から板門店の休戦会談場ツアーに参入した板門店トラベルセンターは、2003年からツアーバスに脱北者を乗せて案内や質疑応答をするサービスを始めた。もちろん脱北者は休戦会談場までは入れず、一般の韓国人が行くことができる臨津閣イムジンガクでバスを降りる。

 

 2006年に「国境の南側(邦題:約束)」という映画が制作された。平壌ピョンヤンの芸術団のホルン奏者とその婚約者の女性が一緒に脱北しようとする。しかし、女性は脱北に失敗して離ればなれになる。その後、長い困難を乗り越えて婚約者だった女性も韓国にやってくるのだが……という悲劇のストーリー。この映画では、演出部のスタッフに脱北者がいて、中・朝の国境を越える際の案内員役として映画にも出演した。彼は韓国で大学に入り演劇関係の学科を卒業している。

 

「国境の南側」メーキング動画冒頭部分

映画「国境の南側」は 愛する女性を北に残して国境を越えた一人の男の物語だ。世界で唯一の分断国家である韓国ならではの悲しいラブストーリーだ。実際、「国境の南側」のスタッフには主人公のソヌと同じ境遇の人がいた。北に妻と娘を残して国境を越えてきた演出部のキム・チョロンさんだ。キムさんは映画の中でソヌの家族が脱出する場面で案内員を演じた。「国境の南側」でソヌは家族と共に豆満江を越えたが、キムさんは一人でこの川を越えた。演技ではあったが、脱北した当時の恐怖感や寂しさが押し寄せてきた。

 2008年には、脱北を描いた「クロッシング」が封切られた。数多くの脱北者たちのインタビューやドキュメンタリー映像などをもとに企画・制作されたもので、リアリティを追求した映画だった。しかし、それだけに悲惨な場面が繰り返し描かれることになった。おまけに著作権侵害の訴えが起こされたりして、観客動員数は伸び悩んだ。その一方で、アメリカのアカデミー賞の外国映画部門への出品作に選出されたり、年末のネットの映画評では3位になっている。

 

 

 2011年に、私は日本人の大学生グループと二人の脱北者の大学生の交流会に立ち会ったことがある。普通に話をしていると、どこにでもいる韓国の大学生と全く変わらない。ただ、韓国での違和感や疎外感は言葉の端々に感じられた。

 

 彼らは、それなりに韓国の中で居場所を見出せた脱北者なのだろう。しかし、韓国の商習慣や社会システムに慣れていないことからくる失敗も少なくなかった。定着支援金詐欺にあった脱北者が一文無しになってしまう事件なども起きた。北朝鮮での経験や資格・実績が韓国では認められず、落ち込むケースもあった。「境界」を越えてきたはずなのに、韓国での生活のさまざまな局面にも大きな「境界」が存在していた。そんな中で、すでに2000年前後から、脱北者の中から北朝鮮へのUターンを試みる者まで出始めた。そうした中で作られた「脱北者」に代わる呼び方が「セト民」だった。

 


 16年前の映画「国境の南側」では脱北者の「脱北」の苦しみや悲しみが描き出された。その2年後の「クロッシング」では、さらにリアルな北朝鮮の悲惨さと「脱北者」の絶望的な状況が描かれた。韓国の人々が、関心を持ち続けていると言いながらも、目を背けてしまうようなリアルさが…  

 「不思議の国の数学者」では、北朝鮮での実績を封印して韓国社会の片隅でひっそりと暮らす脱北者が描かれる。そして、南北の「境界」を越えてきた数学者の目に写った韓国社会の受験競争の中の「境界」をめぐるストーリーが展開される。

 

 北から南に境界を越えてきた人々は、呼び方も変わってきたし、韓国での待遇や生き方も変わった。そして描かれ方も大きく変わった。ただ、30年前までの「帰順者」から「脱北者」へと変わり、脱北者への差別や偏見が深刻化していったことが「セト民」という新しい呼び方を生み出す契機になった。そして、韓国社会の「北朝鮮」や「脱北者」を見る目も大きく変わってきている。

 

 北から「境界」を越えてきた人々が韓国で居場所を見つけるのは容易ではない。そして、韓国社会の中に存在する様々な「境界」もまた、簡単には無くなりそうにない。