子供の日とオリニナル | 一松書院のブログ

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ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

  • 日本の「こどもの日」
  • 韓国の「オリニナル」
  • 天道教少年会
  • こどもの日とオリニナルの共存
  • オリニナルの中断と復活

 

 5月5日は「こどもの日」、韓国でも「オリニナル(子供の日)」。同じ端午の節句だから…と思っている人も少なくない。しかし、韓国では、陰暦の5月5日の「端午節タノジョル」をそうそう簡単に陽暦に読み替えるというようなことはしないはず…。

 

 では、なぜ韓国では5月5日が「オリニナル(子供の日)」となっているのだろうか。

 

  日本の「こどもの日」

 日本の「こどもの日」の制定は、1948年7月20日に公布された法律第178号による。これは「国民の祝日」を定めたもので、この法令で、元日・成人の日・ 天皇誕生日・憲法記念日・こどもの日・秋分の日・文化の日・勤労感謝の日が休日とされた。

 

 5月5日がこどもの日になったのは「端午の節句」に由来する。1872年に太陰暦から太陽暦へと転換した日本では、さっさと陽暦の3月3日を「雛祭り」、陽暦の5月5日を「端午の節句」とした。1876年には、すでに都市部では陽暦5月5日に合わせて鯉のぼりを立てていたことが新聞報道から確認できる。ただ、1949年5月5日に「こどもの日」として祝日となるまで、5月5日は休日にはなっていなかった。

 

  韓国の「オリニナル」

 韓国で5月5日が「オリニナル」として祝日に定められたのは、1975年になってからのこと。この時に、陰暦の4月8日の「釈迦生誕日(プチョニミ オシンナル)」も一緒に祝日となった。その一方で、当時は「旧正(クジョン)」と呼ばれていた陰暦の1月1日を祝日にするのは見送られた。陽暦の1月1日がすでに祝日であり、「二重の年越し(二重過歲イジュングァセ)」の弊害が取り沙汰されていたからだ。

 

 

 「オリニナル」が祝日となった契機は、前年の1974年の5月5日に「セサックフェ(新芽の会)」が総務処長官に祝日化を請願したことで、それを『朝鮮日報』がこう報じている。

「オリニナル」を祝日に
新芽の会、総務処長官に請願

家族みんなで楽しめるように 父親が職場に行ったのでは家でお留守番
4日、新芽の会(会長尹石重ユンソッチュン)は、5月5日の「オリニナル」を法定の祝日にして、父親をはじめ家族全員が一緒に楽しめる日にすることを総務処長官に請願した。
 2年前に「オボイナル(父母の日)」を提唱して制定を実現した新芽の会は、大切な「オリニナル」に、大人は働きに行って子供だけが休むというのでは、家で留守番をする日になってしまい本末転倒だとし、「以前の子供の日は社会運動の性格を帯びていたが、今は社会運動から脱皮して、家庭を中心に子供が楽しむ日にすべきである」と主張している。
オリニナルは、1923年5月1日、方正煥パンジョンファン先生などの先覚者が制定して、すでに半世紀の歴史を有するものであり、1954年の第9回国連総会で、加盟国はその国の風俗に合った適切な日を子どもの日と制定するよう全会一致で決議し、1956年から多くの加盟国が「こどもの日」を祝日と定めて今日に至っている。
 韓国でオリニナルが定められるまでは、陰暦4月5日に、親たちが子供の数だけ竿を作って屋根の下に吊るし、その下に敷物を敷いて、餅と豆をついて一日中子供たちに与える習慣があった。
 日本の侵略下の「オリニナル」は、社会運動の性格を帯びていたが、解放後は家庭行事として定着しており、今や新しい歳時風俗となっている。しかし、祝われる子供たちだけが休みになって、祝う側の大人が職場に出なければならないため、事実上オリニナルの意味と価値は名ばかりのものになっており、ここ数年、オリニナルを祝日にすべきだという声が高まっていた。

 この記事にあるように、韓国のオリニナルは端午節とは無関係で、日本による植民地統治下の1923年5月1日(実際には1922年5月1日)に、社会運動として始まったものとされている。

 

  天道教少年会

 この記事に出てくる方正煥は、京城の善隣商業学校在学中に天道教チョンドギョに入信した。天道教とは、1860年に崔済愚チェジェウが儒教・仏教・民間信仰などを融合しして創始した「東学トンハク」がその源流。日本史や世界史の「日清戦争」の項目で、昔の教科書では「東学党の乱」、その後の教科書では「東学農民戦争」などと書かれていた、あの「東学」である。「東学」は日清戦争時の日本軍による「掃討」作戦などで大きなダメージを受けた。その「東学」を「天道教」として建て直したのが孫秉煕ソンビョンヒである。方正煥は、孫秉煕の娘と結婚し、普成ポソン専門学校(現在の高麗コリョ大学校)に通った。

 

 1919年の3・1独立運動で、孫秉煕の天道教は主導的な役割を果たした。方正煥は、この独立運動で謄写版刷りの『独立新聞』を配布して逮捕された。その後、東京の東洋大学の哲学科で児童文学と児童心理学を学んだ。帰国後、1921年に 金起田キムギジョン李正鎬イジョンホなどとともに「天道教少年会」を組織し、本格的に 子供のための社会運動を行なった。

 1922年5月1日に天道教少年会の主催で、少年保護運動が大々的に行なわれ、京城の目抜通り各所でビラを配布しパレードを行う情宣活動を展開した。そして、この日を「オリニナル」と名付けた。

 

 方正煥は、1923年3月には韓国初の純粋児童雑誌 『子ども』を創刊し、セットン会(子供会)を結成するなど、子供の保護育成、啓蒙活動を推進した。

 

  こどもの日とオリニナルの共存

 1927年の『京城日報』を見てみると、5月1日の紙面で朝鮮人の子供団体が参加して行われる「オリンイデー」の行事を紹介している。一方、5月5日の紙面では、「こども慰安日」として週末に行われる音楽会のプログラムが紹介され、鯉のぼりがデザインされ「お節句の祝いの酒は…」という赤玉ポートワインの広告が掲載されている。

 

左側が5月1日のオリニナルの記事、右側が5月5日のこどもの日の記事

 

  オリニナルの中断と復活

 しかし、1930年代に入り、日本が戦争への道を進み始めると「オリニナル」の行事への風当たりも強くなった。1937年には仁川などでパレードの許可が下りずに中止された。日中戦争開戦後の1938年の「オリニナル」には、街頭でのパレードは一律禁止となり、「オリニナル」の行事は中断された。

 

 今年は時局の関係で街をパレードしてこの日を祝うことはしないことになりましたが、この日が私たちの楽しい祭日であることに変わりはないので、私たちは心の中でパレードをして慎みつつこの日を祝いましょう。

 1945年8月、日本の植民地から解放された朝鮮では、早速「オリニナル」が復活し、翌1946年5月5日に様々な行事が開催された。この時以来、「オリニナル」は5月1日ではなく、5月5日になって今日に至っている。

 

 


 

 ソウルの地下鉄3号線の安国アングク駅5番出口を上がって、そのまままっすぐ行くと右手に天道教の古い中央大教堂チュンアンデキョダンがある。その入り口のところに「子どもの権利宣言跡」の石碑があり、その少し先には「世界子供運動発祥の地記念碑」が立っている。

 

 これも、韓国の「オリニナル」が天道教と深い関わりを持っていたという歴史を物語るものである。