1945年8月15日の呂運亨(ヨウニョン) | 一松書院のブログ

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 1945年8月15日の正午、天皇がラジオ放送でポツダム宣言受諾を表明し、日本は太平洋戦争で敗北したことが明らかとなった。。

 

 翌8月16日、建国準備委員会の呂運亨ヨウニョンが演説する映像が残っている。呂運亨の家のすぐ裏手にある徽文フィムン高等普通校の校庭(現在の安国洞アングットン現代ヒョンデ本社ビル東側)に大勢の聴衆が集まった。

 

KBS映像実録(1995放送)動画

(KBS動画ナレーション)

初めて公開されるこの場面は、8月16日に徽文中学校の校庭で演説する夢陽モンヤン呂運亨の姿だ。解放直後、政治の中心は夢陽呂運亨だった。解放直前に日本から行政権を移譲された呂運亨は、すぐに建国準備委員会を結成して、解放直後の政局の真空状態を埋めた。8月の末まで、建準は全国に145ヶ所の支部を設置し、ソウルと地方で治安維持を担当した。

 

 以下、森田芳夫『朝鮮終戦の記録 : 米ソ両軍の進駐と日本人の引揚』(巌南堂書店 1964)の記述などを中心に、この時期の動きを呂運亨に焦点を当ててまとめてみよう。

 

  日本の敗戦前夜

 朝鮮総督府では、警務局が国外の短波放送を傍受して日本がポツダム宣言を受諾することを8月10日には把握した。しかし東京からは何の通知も指示もなかった。

 

 朝鮮の治安維持の責任者だった警務局長西広忠雄は、日本が敗戦となれば、政治犯・経済犯として留置・勾留している朝鮮人を釈放し、朝鮮人の主導によって治安を維持せざるを得なくなると考えた。西広忠雄は、その担い手として呂運亨・安在鴻アンジェホン宋鎮禹ソンジヌなどに目星をつけた。

 

 呂運亨は中道左派、安在鴻・宋鎮禹は右派の民族主義の立場にあった。この3人が、当時朝鮮内に留まっていた朝鮮民族運動の代表的人物であった。

 

 朝鮮総督阿部信行は狭心症で健康がすぐれず、 ナンバー2の政務総監遠藤柳作を中心に敗戦対応の根回しが進められた。8月11日朝、遠藤柳作は総督府農商課長だった崔夏永チェハヨンを呼んで、想定される日本の敗戦について朝鮮人としての感想を求めた。面談の最後で、遠藤は崔夏永に、西広と会って具体的な善後策について話をするよう指示した。

 

 崔夏永は、1932年に東京帝大法学部を卒業して1933年高等文官試験に合格、内務省を経て1937年に朝鮮総督府内務局事務官に登用された。解放後は米軍政庁の農商局顧問官、韓国政府の要職に就いた。1968年8月号の『月刊中央』の「政務総監、韓人課長を呼び出す」という記事で、1945年8月11日のことをこのようにように回顧している。

 (警務局長西広は)昼食をとりながら、「今朝、政務総監が崔課長と重大な話をしたそうだが、先ほど、総監からその具体的な方策を崔課長と相談しろという命を受けた」と切り出した。「ある程度統治権を朝鮮人に移譲するとすれば、誰に移譲するのがよいだろうか。 崔課長にあいだに立ってほしい」と言った。「朴錫胤氏のような方が適当ではないかと思います。この方を推薦しますので、この方を通じて交渉してみてください。 私はこれ以上お話しすることはありません」と答えた。その結果、朴錫胤氏が呂運亨氏を説得し、建国準備委員会が朝鮮の治安権を委譲されることになった。

 崔夏永が名前を挙げた朴錫胤パクソギュンは、崔夏永の東京帝大政治学科の10年先輩で、満州国の官僚になって満州国の駐ポーランド領事なども歴任した人物だった。仲介の依頼を受けると、朴錫胤はすぐに京畿道の奉安ポンアンマウルに出かけていた呂運亨を訪ね、朝鮮総督府が権限を委譲する意向であることを伝えた。

 

 呂運亨氏は当時60才、南京の金陵大学出身で、第一次世界大戦後には上海を中心に活動し、大韓民国臨時政府の要職にも就いた。その一方で、1919年12月、当時の首相原敬に招かれて東京に行き、田中義一大将はじめ日本の要人と面談し、また帝国ホテルで講演もしている。1923年にモスクワで開催された極東被圧迫民族大会に出席して上海で日本の官憲に拘束された。その後朝鮮に戻り、1933年には朝鮮語で出されていた『朝鮮中央日報』の社長に就任した。ソ連・中国・インド・日本に知人が多く、8か国語を駆使する語学力と流暢な弁舌で、青年層に特に人気が高かった。

 

 朴錫胤から権限移譲の打診を受けた呂運亨は、急遽奉安マウルから京城に戻り、親しかった鄭栢チョンベクに依頼して右派の金性洙キムソンスや宋鎭禹との連携を模索した。8月12日と13日、鄭栢が金性洙や宋鎭禹側近の金俊淵キムジュニョン(元東亜日報編集局長)と接触したが、独立国家の建国を宣言すべきだとする鄭栢に対し、金性洙や金俊淵は、重慶の大韓臨時政府を継承すべきだと主張して両者の連携は実現しなかった。

 

 8月14日の夜の23時過ぎ、翌日正午に放送予定のポツダム宣言受諾に関する天皇の読み上げ原稿全文が同盟通信社京城支局に電話送稿で東京から届いた。この情報はすぐに西広警務局長と朝鮮軍管区軍参謀長の井原潤次郞に伝えられた。西広は直ちに政務総監遠藤柳作にこれを報告した。遠藤は、京城保護観察所長長崎祐三に連絡して、翌朝午前6時に呂運亨とともに政務総監官邸に来るよう指示した。呂運亨は思想犯として保護観察下に置かれていたため、遠藤は長崎保護観察所長に指示をしたのである。さらに、高等法院検事長水野重功と朝鮮憲兵隊司令官高地茂都を呼んで、朝鮮人の政治犯・経済犯の即時釈放についても指示が出された。8月15日の午前3時であった。

 

 8月15日朝6時半、呂運亨は、長崎祐三と白允和ペギュンファ検事とともに大和町の総監官邸(現:コリアハウス)に到着した。呂運亨は日本語はできたが、完璧ではなかったため白允和が通訳として同行したのである。

 

 遠藤柳作は、呂運亨を第二面会室に通してこのように切り出した。

今日12時、ポツダム宣言受諾の詔勅が下る。すくなくとも17日の午後2時ごろまでにはソ連軍が京城に入るであろう。ソ連軍はまず日本軍の武装解除をする。そして刑務所にいる政治犯を釈放するであろう。そのときに、朝鮮民衆が付和雷同して暴動を起こし、両民族が衝突するおそれがある。このような不祥事を防止するため、あらかじめ刑務所の思想犯や政治犯を釈放したい。連合国軍が入ってくるまで、治安の維持は総督府があたるが、側面から協力をお願いしたい。

 呂運亨は、「期待にそうよう努力する」と答えた。呂運亨は桂洞の自宅に戻るとすぐに治安維持のための活動を開始すると同時に、植民地支配が終わった後の国家樹立のために動き始めた。

 

 そして、冒頭の動画にあるように、呂運亨はその翌16日に、徽文高等普通校の校庭で演説をしたのである。その演説内容は以下のようなものだったという。

 朝鮮民族の解放の日がやってきました。昨日15日、遠藤が私を呼んで、「過去に二つの民族を一つにしたことが朝鮮にとって誤りだったかについては言うまい。今は別れることになったのだから、互いにすっきり別れる方がよい。誤解によって血を流したり、不祥事を起こさないよう民衆を指導してほしい」と言いました。私は5つの条件を出しました。そして、総督府から治安権と行政権を移譲されました。
 今、我が民族は新しい歴史の一歩を踏み出しました。我が民族解放の第一歩を踏み出すにあたって、我々が過去の痛みをこの場で全て忘れ、この地に合理的で理想的な楽園を建設しなければなりません。今は、個人的な英雄主義をなくし、最後までまとまって一糸乱れぬ団結で進みましょう。しばらくすると連合軍の軍隊が入城するはずです。彼らが来れば、我が民族のありのままの姿を見ることになります。我々は、少しでも恥じるような態度をとってはなりません。世界各国は我々を注視しています。そして、白旗を掲げた日本の心情を察してやりましょう。もちろん、我々は痛快な気持ちを禁じ得ません。しかし、彼らに対して我々の度量の広さを見せてやりましょう。世界文化の建設に、白頭山の下で育った我が民族の力を捧げましょう。すでに専門学校、大学生、中学生の警備隊員が配置されています。もうしばらくすれば、世界各地から立派な指導者たちが戻ってきます。彼らが帰ってくるまで、我々の力は小さなものではありますが、互いに協力し合わなければなりません。

(1945年8月16日 徽文中学校運動場での演説)

  暗殺と葬儀

 1945年9月6日、建国準備委員会は「朝鮮人民共和国」の樹立を宣言した。しかし、連合軍側は北緯38度線で米ソによる朝鮮分割占領を決めており、9月7日に仁川に上陸して9月11日に南朝鮮で軍政を開始したアメリカ軍は、朝鮮人民共和国の建国を認めなかった。

 

 北緯38度線以南の朝鮮での国家建設をめぐっては、朝鮮内外での独立運動における左右両派が対立し、それにアメリカ軍政府の思惑が絡んで混沌としていた。

 

 そのような中で、呂運亨は左右両派の合作を目指して積極的に活動していた。右翼のテロ勢力から何度も襲撃されていた。

 1947年7月19日、昼過ぎに車で恵化洞ヘファドンロータリーに差し掛かった呂運亨は、右翼白衣社の韓智根ハンジグンによって銃撃され、死亡した。

 

当時日本で発行されていた『ウリ新聞』も写真入りで報じた

 

 葬儀は8月3日に行われた。遺体が安置されていた光化門の勤労人民党(勤民党クンミンダン)の党舎前から、人民葬が行われるソウル運動場(現:東大門歴史文化公園)まで棺が運ばれ、沿道では多くの人々が見送った。当時ソウルの人口は120万人だったとされるが、沿道とソウル運動場に数十万人が追悼のために集まったという。

 

 

 当時はまだ決裂していなかった米ソ共同委員会のアメリカ側代表のホッジ中将(John Reed Hodge)と、ソ連側の代表スチコフ中将(Terenti Fomitch Stykov)が弔辞を述べたのも、この時点での呂運亨の存在の大きさを物語っている。

 

 しかし、呂運亨の暗殺で、左右勢力合作の動きは急激に衰退し、米ソ共同委員会の決裂、北緯38度線以南の地域での単独選挙の方向へと動いていった。

 

  呂運亨の住居

 冒頭の地図にあるように、呂運亨の住居は徽文高等普通校のすぐ近く、桂洞ケドン140番地にあった。

 

 

 この呂運亨の家の南側の140番地は、もともとは、朝鮮王朝第22代国王正祖チョンジョの生母綏嬪朴氏スビンパクシを祀った景祐宮キョンウグンがあったところで、近代に入って景祐宮を景福宮キョンボックンの西側に移して「侍衛砲兵第一大隊」を駐屯させた。日本の侵略で大韓帝国の軍隊が解散させられたのち、ここには京城府の「衛生実行部」が置かれた。ゴミと糞尿の集積場である。集積場は1924年に新堂洞シンダンドンに移されたが、桂洞のこの場所は依然として京城府の衛生部の管轄の府有地であった。解放後、ソウル市が引き継いだが、1970年代の終わりに現代ヒョンデグループがこの場所の払い下げを受け、隣接する徽文高等学校の跡地(1978年に大峙洞テチドンに移転)を入手して、1983年に現代グループの本社ビルを建設した。その時に、呂運亨が住んでいた家も半分以上が取り壊された。

 

 盧武鉉ノムヒョン政権の2005年、韓国政府はそれまで対象から外していた左派や社会主義系の独立運動家も叙勲授与の対象とすることとした。呂運亨も再び注目されたが、この時にはすでに呂運亨の住居は改造されてカルククスの店になっていた。

 

2005年当時

 

 この時、MBCの「ニュースデスク」がこの家を取材している。

 

ChatGPTによるMBC音声の要約

 解放から60年を迎え、政府は左派や社会主義系の独立運動家も叙勲授与の推薦をした。夢陽呂運亨先生もその一人である。しかし、彼のゆかりの場所は、今ではほとんど残っていない。故人の住居は今はカルグクス屋となっている。
 夢陽呂運亨は臨時政府の外務部次長として、また建国同盟を率いて独立運動と左右合作を推進した。社会主義者という理由で陰に追いやられていた彼が、叙勲推薦をきっかけに再評価されることになった。しかし、夢陽が1930年代から解放を経て暗殺されるまで過ごしたソウル桂洞の旧宅は、今では主人が変わってカルグクスの店になっている。
 この韓屋は、レンガ造りの家であったが、現在では内装も変わってしまっている。修理しても雨漏りが止まず、最終的にはテントで屋根を覆ってしまったという。
 カルグクス店のオーナーのキム・ボクテさんによると、「改修の話はこれまでも出ているが、修理は難しい」とのことである。また、夢陽呂運亨先生の子孫が北朝鮮に行ったため、夢陽の住居が放置されて荒れてしまった。1980年代初めには、「現代」の社屋が建設され、その影響で道路が変更され、夢陽の旧宅の半分近くが取り壊されることになった。
 さらに、建国準備委員会の看板を掲げていた事務所も去年取り壊され、工事が進められている。一方で、親日行為があったとされる人々の家は保存されているのに、夢陽の住居は 忘れ去られており、叙勲だけでなく、標示石を建てる必要などがあると文化遺産政策研究所のファン・ピョンウ所長は指摘する。

 

 ところが、このカルククスの店も2013年11月に火事で焼けてしまった。現在は、建て直された建物で「アンドン カルククス」の店が営業しており、道を挟んだ向かい側に呂運亨の家があったことを示す石標が設置されているだけである。

 

 


 

 1945年の8月15日の京城の日の出は午前5時47分。この日の午前6時には京城はまだ曇っていた。

 

 そんな中を、迎えにきた長崎祐三と白允和が乗った車に同乗して呂運亨は日の出直後の道を政務総監官邸に向かったのだろう。何を思っていたのだろうか…。

 

 


余談:

 このブログを書きながら、1947年8月3日に行われた呂運亨の葬儀の動画を見ていたら、葬列の背後に「京城製パン」という看板を掲げたビルが写っていることに気づいた(上掲動画の14分38秒から)。


 京城製パンの本社は京城長沙町8番地にあった。もしその場所にこの看板が残っていたのなら、葬列は鍾路を東に進んで鍾路3街で右折して乙支路からソウル運動場に向かったということになろう。

 日本の敗戦時に京城製パンの取締役の一人だった金昌植(朝鮮総督府官報1940年8月17日付)が引き継いだのかもしれない。
 それにしても、1947年の夏にまだ日本語の看板が残っていたのはちょっとした発見。日本の侵略の痕跡を始末するのは、なかなか容易ではなかったことがわかる。