3・1独立運動の絵葉書を検証してみた | 一松書院のブログ

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  • 昌徳宮チャンドックン前の群衆
  • 撮影場所は?
  • 敦化門トナムン前のデモ
  • 写真に写っているのは?
  • 山田写真館写真通信会
  • 3・1運動の取材と報道
  • 絵葉書はなぜ世に出なかったのか

  昌徳宮前の群衆

 毎日新聞編集委員の鈴木琢磨記者から1枚の絵葉書写真が添付されたメールが来た。絵葉書のキャプションには「朝鮮ノ騒擾京城昌徳宮前ノ群衆(大正八年三月二日)」とある。だとすると、これは1919年の3・1独立運動の2日目の一場面ということになるのだが、果たしてそうなのだろうか。本物なのだろうか。

 

鈴木琢磨氏提供

 

 これまで、3・1運動の初期のデモの写真は、カナダ人のスコフィールド(Frank William Schofield)が撮ったとされている写真(『Korea Independence Movement』)や、『大阪朝日新聞』1919年3月5日夕刊の2面に掲載された「一日の京城 鮮人女学生万歳を絶叫しながら電車道を行進す」のキャプションのついた写真などしか残っていない。

 

 

 3月3日に予定されていた高宗コジョン(李太王)の国葬のため、朝鮮内外から多くの人々が京城に集まってきていた。その中で、3月1日に独立宣言が出されて、朝鮮の人々が「万歳マンセ」を叫んで街頭でデモを行った。鈴木琢磨記者が送ってきた絵葉書の写真は、キャプション通りだとすれば、翌2日のデモの場面を撮ったものかもしれない。しかし、追悼と見物のために昌徳宮前に集まっていた群衆である可能性もある。

 簡単には断定できない。それに、なぜこれまで100年以上も誰もこの絵葉書の存在に気づかなかったのか。それも解明する必要がある。

 

 鈴木琢磨記者は、2023年2月27日付夕刊の紙面に「発掘!〈3・1独立運動〉絵葉書の謎を追う」という記事を書いた。その取材に協力する過程で分かってきた事実などを中心に、この絵葉書について検証してみた。

 

  撮影場所は?

 絵葉書のキャプションには「昌徳宮前ノ群衆」とある。1925年の朝鮮総督府『京城市街図』で見ると昌徳宮の敦化門前は確かに広場になっている。
 

 

1920年11月6日消印のある使用済み絵葉書(日之出商行発行)

 

 問題の絵葉書の背後に写っている山並みは南山ナムサンである。撮影のアングルから判断すると、敦化門前広場の北側の高い位置からシャッターを切ったものと思われる。

 

右は敦化門西側の北村の奥から遠望した南山(2022年)

 

 実は、敦化門は2層構造になっていて、門の裏手の左右の階段を使って昇降ができる。2階部分には開閉できる窓がついていて、ここから撮影すれば、絵葉書のアングルで写真が撮れる。

 

 

敦化門2階部分内部(문화재청 국가문화유산포털より)

 

 敦化門の2階部分からだったらこのアングルの写真撮影が可能なことは確認できた。ただ、敦化門は純宗スンジョン(李王)の住まいの昌徳宮の正門であり、この門は純宗の出入りにのみ使用されるもの。臣下や来訪者は、北西側にある金虎門クムホムンを使うことになっていた。そのような敦化門の2階に入り込んで写真を撮ることが果してできたのであろうか。疑問は残る。

 

 ちなみに、「李太王」「李王」というのは、大韓帝国を併合した日本が、大韓帝国皇帝を王に格下げして、純宗皇帝を「李王」、その先代の高宗皇帝を「李太王」としたもの。敬称も、皇帝に対して用いる「陛下ペハ」から一ランク下の「殿下チョナ」を用いるものとした。ただ、朝鮮を懐柔する目的から、朝鮮の「王族」は、日本の「皇族」と同様に扱うとされていた。

 

  敦化門前のデモ

 3・1運動のデモについては、国史編纂委員会が「3・1運動データーベース(삼일운동 데이터베이스)」を公開している。この「삼일운동 GIS(地理情報システム)」で、いつ、どのあたりでデモがあったのかがわかる。

 

 

 このシステムで「敦化門」で検索すると、以下の情報が出てくる。

3月24日、敦化門一帯で数十人が独立万歳を叫んだ

また、それ以外にも、3月1日のデモの1グループが鍾路チョンノから敦化門前を通って安国洞アングットン方面に行進したとの記載がある。しかし、3月2日に昌徳宮の敦化門前でデモがあったとする記述はヒットしない。

 

 この国史編纂委員会データベースの3月2日の「詳細情報」の項にはこのように記述されている。

3月2日0時20分、鍾路交差点で約400人の群衆が万歳を叫びながら鐘路警察署前に向かった。 多くは労働者で学生も含まれていた。警察が彼らを制止し、首謀者20人を逮捕した。群衆は散らばったが、デモを続けようとする気配が濃厚だった。昼には京城光化門クァンファムン付近に学生や市民など数百人が集まり、「朝鮮独立万歳」を叫びながらフランス領事館まで万歳デモをした。
(中略)
参加者数の推定 400名
この項目では、3月2日の午前0時直後のデモからその日午後のデモまで、数ヵ所のデモを一つにまとめている。午前0時直後のデモの400人以外の人員に関する正確な情報はなく、概観と一覧表で合わせて400と整理されているので、一応400と表示しておく。

 このデータベースでは、鍾路でデモがあったのを、夜中の「午前0時直後」としているが、陸軍大臣宛の朝鮮軍司令官の電報では、鍾路十字路に群衆が集まったのは「午後0時半」となっている。

 

 

 すなわち、実際にデモがあったのは3月2日の昼の正午過ぎで、鍾路の十字路(現:鍾閣の交差点)に集まった人々が鍾路警察(現:YMCA会館西隣)に向かってデモを行おうとした。

 

鍾路交差点から鍾路警察方向(撮影年未詳 1920年代か)

 

 このデモは解散させられたが、国史編纂委員会のデーターベースでは、再び光化門付近に集まり、西のフランス領事館に向かったと記録されている。その一部が光化門前から東に向かったとすれば、昌徳宮の敦化門前のこの場所に行き着くことになる。

 

 国史編纂委員会の「3・1運動データーベース」は、逮捕者の取調べ調書や裁判記録から、デモが行われた場所と日時を特定しているものが多い。逮捕者が出なければデモがあったことが記録されないことにもなる。すなわち、データベースでヒットしないからといってデモがなかったということにはならない。

 

  写真に写っているのは?

 もう一度絵葉書の写真を検証をしてみよう。

 

 

 左手に延びている人影の長さから推測すると、3月初の午後の時間帯で13時から14時くらいであろう。国葬の前日なので、純宗の居所である昌徳宮に集まった弔問や見物の人々と考えられなくもない。ただ、人々は、昌徳宮の正門の敦化門方向とは反対側を向いている。そして、敦化門とは広場を挟んで反対側の右側と左側にそれぞれ人だかりができている。

 

 7年後の1926年の純宗逝去の際、この敦化門前で日本人が刺殺される事件が起きた。朝鮮総督斎藤実を襲撃しようとした宋学先ソンハクソンが、斎藤と誤認した日本人二人を殺傷した事件である(金虎門事件)。宋学先はその場で逮捕されて鍾路警察署で取り調べを受けたが、その際の取り調べ調書に敦化門前広場の現場見取り図が残されている。

 

 

 この見取り図によれば、敦化門前の広場の向かい側右手に昌徳宮警察署の署長官舎があり、左手の鍾路に向かう道路沿いには臥龍洞ワリョンドン派出所が存在していた。つまり、絵葉書の写真で左右にできている人だかりは、それぞれ警察関係施設の前にできていたということになる。

 

 昌徳宮警察署は、大韓帝国時代の1908年に昌徳宮内に皇宮警察署として設置されたもので、日本による韓国併合後、総督府警務総監の直属機関に改編され、王族の身辺警護と王宮の警備を担当していた。昌徳宮だけでなく、昌慶苑や徳寿宮も管轄しており、高宗の国葬の時には、純宗も徳寿宮で喪に服しており、昌徳宮警察署は徳寿宮の警護にかかりきりだったであっただろう。

 

  山田写真館写真通信会

 この絵葉書の宛名面を見てみよう。そこには、「東京麻布山田写真館内写真通信会発行」の表示がある。

 

 この「写真通信会」は、1920年6月22日の『官報』に宣伝を出している。7・8月の官報に計5回同じ広告の掲載がある。

大正元年創刊

時々ノ出来事ヤ風俗、風景等ヲ絵葉書トナシ一ケ月十枚宛毎月会員ニ配布ス
会員希望者ハ会費ヲ添ヘテ申込マレタシ
会費一ケ月十五銭 三ケ月四十銭 六ケ月八十銭

一ケ年一円五十銭(地方ハ他ニ送料一カ月要二銭)

但郵券代用一割増
東京麻布新龍土町十二山田写真館内
写真通信会

 「写真通信会」は、その時々の話題や時事ニュースの写真をセットにして会員に頒布していた。

オークションサイトより

 

 「写真通信会」は、1916年には『東京ガイド』を出版しており、その奥付けから山田市次郎が山田写真館の主人であり、写真通信会を運営していたと思われる。

 

 山田写真館の所在地の新龍土町12番地(現:六本木7丁目)は、歩兵第一連隊と歩兵第三連隊の兵営の間にある広いエリアだった。

 

 山田写真館に関しては、日本絵葉書会の会報『ヱハカキ』59号(2016冬)に、畑中正美氏が「東京山田写真館の絵葉書」を書いている。それによると、山田写真館の写真通信会の絵葉書は、東京の風俗や世相、乗り物やスポーツ、それに災害の写真などが中心だったという。この記事には、朝鮮関連の絵葉書についての言及はない。つまり、この「朝鮮ノ騒擾」の絵葉書は、写真通信会としては異例のものだったといえそうだ。

 

  3・1運動の取材と報道

 朝鮮で3・1運動が起こると、朝鮮総督府はすぐにその報道を禁じた。『京城日報』は、3月6日の夕刊で、5日に記事掲載の禁止が解除されたことを伝えると同時に、「独立万歳」を叫ぶデモがあったことを初めて報じた。

一日京城を始め各地に亘りて朝鮮独立の示威運動行はれ騒擾を惹起したるが此騒擾は数日に亘りて行はれたり該事件突発の当時恰も李太王殿下の国葬を目睫の間に控へ居ることとて該事件は一切新聞紙上に掲載を禁じられ居たるが五日総督府より掲載解禁の命ありたるに付事件の概要を左に掲ぐべし

 

 『毎日申報』は3月7日の紙面で初めて3月1日からのデモについて報じ、『大阪朝日新聞』は1919年3月5日夕刊に「一日の京城 鮮人女学生万歳を絶叫しながら電車道を行進す」とのキャプションの写真を掲載した。

 

 『大阪毎日新聞』は、報道がまだ禁止されていた3月3日夕刊に「李太王国葬儀を機会として突発せる京城の大騒擾」という記事を掲載していた。しかし、これは「発売頒布禁止」になった(斎藤昌三編『現代筆禍文献大年表』粋古堂書店 1932 p.231)。

 

 この「発売頒布禁止」となった紙面の左下にはこのような記事があった。

投石を受けたる特派員及び特派員夫人
危険中に通信事務を継続せり

群衆が総督府及び総督府官邸に向はんとする際本社京城通信部にては名村特派員が二階より写真を撮影すべくレンズを向けしに彼等は盛んに投石し名村特派員及び山口特派員夫人は身に数石を受け礫は通信部事務室に落下し来りて危険言ふ許りなかりしも通信任務を続けたり

 大阪毎日新聞の京城支局は、「南大門通2ノ101」にあった(京畿道『治安状況』1934年)。場所は、丁子屋(現在のロッテヤングプラザ)の南隣。当時は、山口諫男(ペンネーム山口皐天)が常駐特派員で、名村寅雄は高宗(李太王)の国葬の取材応援で京城滞在中だった。大阪朝日新聞の京城支局もそのすぐそばにあった。3月1日のデモは、朝鮮銀行前で「独立万歳」を叫び、本町を通って南山南麓の倭城台(現:芸場洞イェジャンドン)の朝鮮総督府に向かおうとしたとあるので、その時に南大門通方向にも人々が来たのであろう。

 

 

 デモの人々に不用意に、それも日本人がカメラを向けることは、かなりの危険を伴うものだったことは上掲の記事からも想像に難くない。デモの現場でカメラを構えることは難しかったということが、写真が少ない理由の一つなのかもしれない。

 

 ただ、敦化門の上部でカメラを構えたのであれば、気付かれにくかっただろうし、王宮の門に向かって投石はしない。そうした幸運からあの写真は撮られたのかもしれない。

 

  絵葉書はなぜ世に出なかったのか

 高宗(李太王)は、1919年1月21日に逝去した。日本政府は、朝鮮の人々を懐柔する下心もあって、1月27日には勅令で国葬を行うことを決めた。1月末には国葬日は3月3日と報じられ、2月14日に正式の日程が公示された。韓国併合後、初めての朝鮮での国葬ということで、朝鮮だけではなく日本内地でも早くから関心を呼んだ。

 

 3月3日の国葬の様子を伝える『京城日報』の記事の中にこのような記事がある。

 

 国葬当日、相当数の「一般写真師」が、京城日報者前(徳寿宮の斜め前)などの指定された場所で写真撮影をしたと伝えている。朝鮮各地から、そして内地からも写真師がかなりの人数来ていたことをうかがわせる。

 

 山田写真館の「写真通信会」もこの高宗(李太王)の国葬の絵葉書の頒布を企画したのではなかろうか。「朝鮮ノ騒擾京城昌徳宮前ノ群衆」の絵葉書と同じスタイルのキャプションが入った「東京麻布山田写真館内写真通信会発行」の国葬の葬列の写真が残っている。

 

 これは、オークファンのサイトで2022年10月3日に落札された絵葉書としてネット上に公開されている。朝鮮李王殿下国葬儀霊柩(大正八年三月三日)

 

 もう一枚、高宗(李太王)の葬列の写真で、鞍を載せた「竹鞍馬」と鞍のない「竹散馬」の写真の絵葉書もある。こちらは個人の所蔵で、ネット上に公開されていないので画像は掲載しないが、絵葉書の写真面のキャプションは、

朝鮮李王殿下国葬列ノ一部 (大正八年三月三日)

となっている。宛名面には、両方とも「東京麻布山田写真館内写真通信会発行」の印字がある。

 

 ところが、この写真通信会発行の国葬絵葉書のキャプションは、「李太王」とすべきところを「李王」とするという決定的な過ちを犯しているのである。大正8年3月3日の国葬は、「李太王」すなわち高宗の国葬であって、「李王」すなわち純宗の国葬ではない。これは、単なる誤植では済まされない。「李王」は日本の「皇族」に準じる扱いを受けることになっていた「王族」である。生存する「王族」を死んだことにしてしまっては、「不敬罪」にも問われかねない。

 

 山田写真館がどの時点でこのキャプションの誤りに気付いたのかはわからない。ただ、この絵葉書は配布できないものだったことは明らかだ。この高宗の国葬の一連セットは配布されないままボツになったのであろう。その結果、「朝鮮ノ騒擾京城昌徳宮前ノ群衆(大正八年三月二日)」の絵葉書も配布されることなくお蔵入りになった。そう考えるのが一番筋が通る。

 

 この3月2日のこの写真は、高宗の国葬の撮影のために京城に滞在していた山田市次郎が、国葬前日に昌徳宮を訪れた際に、たまたまデモ隊が敦化門前の広場に集まって独立万歳を叫ぶ現場に出くわして、敦化門の上から撮影したもの。京城の内情に詳しい内地人が案内していれば、金虎門から李王職の役所までは入れたし、敦化門前で騒ぎが起きれば、門の裏手の警備が手薄になった階段から2階に上がることもできたであろう。

 そして、李太王国葬の写真を撮って日本に持ち帰り、絵葉書にするときに国葬の絵葉書のキャプションで「李太王」とすべきところを「李王」とする重大なミスを犯してしまった。「写真通信会」は、「李太王の国葬」の絵葉書セットの頒布を中止し、1919年3月2日午後の敦化門前でのデモの写真も、長く人目に触れることなく埋もれたままになっていた。

 

 これが本稿の検証の結論である。

 

 1919年の時点で、朝鮮にさして関わりのない日本内地の一般人の朝鮮認識では、「李太王」と「李王」を取り違えるというのは十分にあり得ることだっただろう。

 


 

 検証して改めて絵葉書の写真を見なおしてみると、「独立トンニップ万歳マンセ!」という声が、私には聞こえてきたのだが…。