- 解放後の横書き推進
- 1980年代初頭の転換点
- 新聞の横書き化
解放後の横書き推進
1946年10月22日付の『東亜日報』に、当時アメリカ軍政庁の文部編修局長だった崔鉉培の「ハングル横書きの提言」が掲載されている。
崔鉉培は、日本の植民地統治下の末期、1940年に訓民正音の理論的問題と歴史的問題について論述した『ハングルガル(正音学)』を刊行し、ハングルの普及に尽力した。1942年の朝鮮語学会事件で逮捕され、咸興刑務所で服役中に日本の敗戦を迎えた。
『ハングルガル(正音學)』
この崔鉉培がハングルの横書き推進の急先鋒で、米軍政庁の朝鮮教育審議会で教科書と公文書の「ハングル専用」と「横書き」を提案し、これが採択された(崔鉉培「ハングル 解放10年の歩み(上)」『東亜日報』1955年8月15日付)。
朝鮮語は伝統的に縦書きであったし、日本の統治下でも縦書きの漢字・ハングルまじり文が使われた。それに馴染んできた人々からは、ハングルの横書きに対して多くの反対論も出されたが、小中高の教科書は、漢字を用いないハングルだけで横書きにする形式が採用された。
1950年代の国民学校4年国語の教科書
1950年代の高校幾何の教科書
一方、公文書も横書きが主流になっていった。
特に、1950年代以降、機械式のハングルタイプライター(打字機)が急速に普及し、多くの公文書や企業・組織の文書が3ボル式のタイプライターで作成された。当然漢字は使われず、横書きのハングルだけを使った文書であった。
他方、文芸書や人文系の学術書籍、新聞・雑誌などでは、旧来からの縦書きが主流だった。
1970年代までの韓国社会は、縦書きと横書きが共存する文字環境にあった。
雑誌『思想界』
高承済『韓国移民史研究』(1973)
崔仁浩『바보들의 행진(邦訳:ソウルの華麗な憂鬱)』
ただ、1950年代から70年代に学校教育を受けた世代は、ハングルだけで書かれた横書きの文章に馴染んでおり、縦書きのものを読むのが苦手。漢字はそこそこ読めはするが書けない。彼らは「ハングル世代」と呼ばれた。一方、同じ時代に韓国社会の中心にいたその上の世代は、ハングルだけの横書きより、漢字まじりの縦書きの文章により慣れ親しんでいた。
やがて「ハングル世代」が韓国社会の中心に進出するにつれ、ハングルだけで横書きされた文章の比重が次第に大きくなっていった。
1980年代初頭の転換点
1982年12月7日付の『東亜日報』に、「定着する横書き時代」という記事が掲載されている。
東亜日報1982.12.07記事(ニュース)
定着する横書き時代
解放以後の世代の要請にそっぽを向けず
「現代文学」なども雑誌の体裁を変更
読み・書き、機械化などの様々な側面で望ましい
多くの出版物が横書きを採用している中で、これまで縦書きに固執してきた伝統ある文芸雑誌までもが横書きに変わってきており、韓国の文字生活が新しい転換点に差し掛かっている。横書きは文字生活の機械化の促進のためにも必要という主張があったことからも、伝統ある雑誌の横書き採択は望ましいことであろう。
創刊28年目の『現代文学』が12月号を横書きで発行し、『文学思想』も新年1月号を「横書き」で製作、『韓国文学』も近々横書きに転換する予定だ。
学校で横書きに馴染んできた解放以降の世代の要求を、これ以上無視することができず、横書きに踏み切ったという『現代文学』編集者の金潤成(キム·ユンソン)氏(57)は、「これまで縦書きにこだわってきたのは特に理由があってのことではなく、単なる慣習に過ぎなかったが、今や機械化など制作の能率面から横書きに変えざるを得ないのが実情」と語った。
文字生活の合理化のためにも、今のような縦書き・横書きの二元体制は避けるべきだと言う金氏は、「初版を縦書きで、その後、横書きに組み替えて出すとよく売れるという例もあるほど縦書き・横書きに対する読者の反応は敏感だ」と付け加えた。
…(中略)…
読書行動開発社のパク·ムンファ氏(37)は、「今のほとんどの読者は、約20年間学校で教科書や参考書などの横書きの本を読んできたため、社会に出て縦書きのものを読むのに抵抗感を感じている」と語る。 学生たちに直接速読法を教えているパク氏は、学生たちは一般に横書き1000字を読む同じ時間で縦書き文字なら800字程度しか読めないと言う。
…(中略)…
また「読み」「書き」において、横書きの能率が縦書きよりはるかに高い場合、これが機械化されればその能率性の差ははるかに大きくなるというのがハングル機械化推進論者の主張だ。
ハングルタイプライターを考案するなどハングル機械化を研究してきた元老医師のコン·ビョンウさん(76)は、ニューヨークで韓国語新聞を発行しているスタッフに、横書きと縦書きのどちらが早く写植できるかを最近尋ねたところ、横書きが2倍以上早く写植できるとのことだったとして、文字生活の速度はまさにその国の文明を左右するものでもあり、国家的な面からも研究しなければならないと語った。
…(後略)…
この記事に登場する公炳禹は、眼科医でありながらハングルタイプライターを開発し、その機種が1949年3月に行われたハングルタイプライター懸賞募集で優秀機種に選ばれた人物。コンビョンウ打字機は、朝鮮戦争後の韓国のハングルタイプライターの標準機になった。このようなハングル表記の機械化が、横書きによる学校教育を受けた世代の社会進出と相まって、漢字を使わずハングルだけでの横書き文体の広がりをもたらしたといえる。さらに、1980年初頭から電動タイプライターが開発され、より簡便な2ボル式の入力(現在のコンピューターキーボードからの入力と同じ方式)が可能になったことも、横書きの拡大に拍車をかけた。
横書き拡大の象徴的な出来事の一つは、1984年から封書の住所・宛名書きが横書きを原則とするという逓信部の規則改定であろう。
1987年6月の「民主化宣言」ののち、民主化闘争を闘ってきた言論人を中心に刊行の準備が進められてきた『ハンギョレ新聞』は、1988年5月15日に創刊号を発刊した。紙面は韓国初の全面横書きで組まれていた。
新聞の横書き化
1980年代に各活字媒体で「横書き化」が急速に進んだが、新聞業界では、後発の『ハンギョレ新聞』以外は依然として縦書きだった。縦書きについては、1988年1月に制定されたハングル正書法(한글맞춤법)でも、縦書きの文章符号について次のように定めている。
句読点は、横書きの場合には [ 반점(,) 온점(.) ] を用い、縦書きの場合は [ 모점(、) 고리점(。) ] を用いる
縦書きで書く際の規則もちゃんと定められていたわけで、縦書き・横書きの併存状況は続いていた。
『ハンギョレ新聞』以前から刊行されていた新聞の横書き化が進んだのは、 1990年代の中頃から後半にかけてで、新聞各紙がさみだれ式に横書きに移行していった。
1988年5月18日
1997年4月8日
1999年12月15日
主要日刊紙の紙面が全面横書きになった時期は以下の通り。
- 中央日報 1995年10月9日
- ソウル新聞 1996年10月1日
- 京郷新聞 1997年4月8日
- 東亜日報 1998年1月1日
- 韓国日報 1998年3月16日
- 朝鮮日報 1999年3月2日
各新聞社の横書きへの移行が他の活字媒体に比べてかなり遅くなり、各社で相当のばらつきがあるのは、それぞれの社の編集方針や読者世代の違いといった側面もあったであろう。ただ、そればかりではなく、輪転機や編集機材、版組システム・ソフトなどの技術的な問題や設備投資の問題もあったといわれる。
ともあれ、各新聞社が横書きに移行していくのとほぼ並行して、インターネット上でのニュース配信や市民参加型のニュースウェブサイトの台頭などがあり、ニュースは横書きで提供されるかたちが1990年代末までに定着した。
韓国の主要ワープロソフトであるアレアハングルでは、今でも縦書きのハングル文書を作成することもできる。
ただ、2017年3月28日に改訂・施行されたハングル正書法(한글맞춤법)では、縦書きの [ 모점(、) 고리점(。) ] についての規定がなくなっている。縦書きの需要がなくなっていると判断されたということであろう。
ハングルの縦書き文書の作成ができなくなったわけではないが、「ハングルは横書き」がほぼ「常識化」「常態化」している。今や、縦書きにすると珍しくて人目を惹くといった時代になりつつある。