洞・町内の名物(17) 斎洞の白松 | 一松書院のブログ

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  • 統理衙門トンニアムン済衆院チェジュンウォン
  • 女学校の設置と解放後の変遷
  • 憲法裁判所

 

 『東亜日報』の1924年7月1日付に掲載されている「洞・町内の名物」は、齊洞チェドンの「白松(재동백송」。場所的には、「北村プッチョン」の入り口にあたる。

 

◇我が斎洞には長安でも有名な白松があります。白松と言うのは文字通り白い松の木という意味です。白い松というと葉まで白いかと思いがちですが、葉っぱは他の松と同じく一年中緑色で、木の幹が普通の松とは違って白いのです。
◇この白松は、今は京城女子高等普通学校斎洞第二寄宿舎の中にありますが、何百年も前からここに白い姿で頑張っているのです。そして、この白松の故郷は中国なのです。多分李朝時代のことでしょう。恥ずかしながら我が国は、清国に朝貢を捧げるため使臣が行き来していました。
◇この白松は、清国に行ったある使臣が、あまりにも珍しい木なので、小さな白松を持ち帰って植えたものが今の斎洞の白松なのです。歳月は流れ世の中は変わり、官吏の格好をしたお大臣たちがぶらついていた松の下では、今は黒い服を着た日本人女学生たちが、この頃のように暑い日には日陰を探して白松の下にきて、本を読んでいるということです。世の中が変わったことを知らぬかのようです。

 この松の木は、今も斎洞の憲法裁判所の構内にあって、天然記念物第8号に指定されている。

 

 

  統理衙門と済衆院

 現在、憲法裁判所になっているこの場所には、1882年(高宗19)12月4日に、統理交渉通商事務衙門(統理衙門)が置かれた。それまで、華夷的な対外関係を司っていたのは礼曹だったが、国際法的な外交通商事務を管轄する必要から新設された官庁がこの統理衙門である。閔泳翊ミニョンイクの旧宅があった斎洞のこの場所が提供された。その横には洪英植ホンヨンシクの住居があった。

 

 1884年12月、金玉均キモキュン朴泳孝パギョンヒョ徐載弼ソジェピル・洪英植ら急進開化派が甲申カプシン政変を起こしたが失敗。金玉均・朴泳孝・徐載弼らは、日本公使竹添進一郎や日本守備隊とともに、翠雲亭チィウンジョン(現在の北村にあった)から統理衙門の前を通って慶雲洞キョンウンドン(現在の楽園商街ナゴンサンガの北側)の日本公使館に敗走した。

時に夜色暗澹として咫尺しせきを辨せず、一行之れを機とし、即ち宮闕の北門を出づ、樋口・上野の両陸軍語学生、其間道を知るの故を以て斥候兵に先だち之れが嚮導たり。経路峻嶮を極め、一歩一跌漸くにして翠雲亭に出づ、此に至りて我が公使館を僅に煙焔の間に見るを得たり。一同是に於てか勇を鼓し、進んで斎洞に出て統理衙門の前路を過ぐ、此時韓民左右より挟んで瓦礫を乱投し、甚しきは銃を放つものあり、先鋒の面高中尉之れに中って倒る、部下の兵士之れを扶助し、進んで十字街に出づれば公使館は僅に二町を出でざる距離にあり。

信夫淳平『韓半島』(276コマ)

 この時、洪英植は日本公使館には向かわず、北廟に向かった高宗コジョンに扈従し、その後殺害された。甲申政変に加担した者は全て「逆賊」とされ、国内に残っていた家族は死罪に処せられた。洪英植の家族も処刑された。

 

 甲申政変の発端となった郵政局での開化派の襲撃によって、閔泳翊は重傷を負った。この時、医師で宣教師のアレン(Horace. N. Allen)が閔泳翊の治療に当たった。それ以前からも西洋式病院の設立の動きはあったが、この事件を契機に医療機関設置が具体化することになった。アレンの提案もあって、1885年4月10日に西洋式の病院が開設され、済衆院チェジュンウォンと名付けられた。場所は、統理衙門の横。「逆賊」として家人が処刑されて誰もいなくなった洪英植の旧宅が改修されて済衆院の施設に当てられた。

 

洪英植旧宅に開設された済衆院

 

 済衆院は、1886年に銅峴ドンヒョン(現乙支路ウルチロ2街)に移転した。また、統理交渉通商事務衙門は甲午改革の1894年7月20日に外務衙門ウェムアムンに改変され、大韓帝国になってからは外部ウェブとして光化門クァンファムン前の官庁街に移った。

 

  女学校の設置と解放後の変遷

 大韓帝国時代の1908年に、漢城府ハンソンブ西部ソブ工曹コンジョ(現鍾路区チョンノグ都染洞トヨムドン)の建物を借りて、官立漢城高等女学校が設立された。

 

 

 官立漢城高女は、1910年に、統理交渉通商事務衙門や済衆院があった斎洞の跡地に木造2階建ての校舎を新築して移転した。日本による韓国併合以後、1911年に公布された朝鮮教育令により官立漢城高等女学校は官立京城女子高等普通学校と改称された。校舎は、南側の慶雲洞キョンウンドン(現ソウル老人福祉センター敷地)に移転し、斎洞の校地には寄宿舎が残った。

 

 

 1919年の3月1日、独立宣言が頒布されて「独立万歳」を叫ぶデモが京城の中心部で行われた。報道規制が解かれた3月5日の『大阪朝日新聞』の夕刊が「鮮人女学生万歳を絶叫しながら電車道を行進す」というキャプションをつけた写真を掲載した。

 

 これは、数少ない3・1運動の写真としていろいろな書籍やサイトに掲載されているものだが、この黒い服の女性たちは京城女子高等普通学校の女子生徒ではないかといわれている。髪型は、当時の内地の女学生の間でも流行していた「庇然と前へのめるほどに突き出したる形」という「廂髪(ひさしがみ)」。土曜日の午前の授業後にパゴダ公園(現在のタプコル公園)の北側にあった学校から鍾路に出て「独立万歳」を叫んだのだろうか…。

 

 1922年になって、斎洞の敷地(現:憲法裁判所)に新しい校舎を建築してここに移転し、京城公立女子高等普通学校となった。

 

学校建築記録物サイトより

『日本地理風俗大系』第16巻 新光社(1930)

 

 京城公立女子高等普通学校は、1938年の第3次朝鮮教育令の公布で、京畿公立高等女学校と改称された。そして、1945年に日本の植民地支配が終わると、10月15日に、内地人中心の教育機関だった貞洞チョンドンの第一高等女学校の校舎に学校を移した。その後、京畿キョンギ女子高校となる。京畿女子高校は1988年に江南カンナム開浦洞ケポドンに学校を移転し、貞洞の学校跡地は長く空き地になっていた。現在は、発掘調査がほぼ終わって璿源殿ソンウォンジョンなどが復元される計画が進行中である。

 

 一方、斎洞の京畿公立高等女学校の校舎には、1941年4月に新堂洞シンダンドンに開校していた第三高等女學校が、1949年7月に移転してきて、昌徳チャンドク女子高校となった。昌徳女子高校は、1989年2月に蚕室チャムシルのオリンピック施設の南側の芳荑洞パンイドンへ移転した。

 

 ちなみに、三坂みさか通(現:厚岩洞フアムドン)にあった第二高等女学校は、そのままの校舎を使って首都スド女子高校となった。首都女子高校は、2000年7月に新大方洞シンデバンドンへ移転した。

 

 

  憲法裁判所

 1987年の民主化宣言後、憲法裁判所法が1988年9月1日に発効した。憲法裁判所は、昌徳女子高校の移転跡地に建設されることになり、1993年6月に斎洞新庁舎が完成した。

 

 

 2004年、盧武鉉ノムヒョン大統領が行おうとした新行政首都の建設と首都移転について、憲法裁判所は憲法違反という決定をくだし、 盧武鉉政権にとって大きな打撃となった。また、国会で弾劾訴追された二人の大統領についての審判を行ったが、2004年の盧武鉉大統領については棄却、2017年の朴槿恵パックネ大統領については罷免の判決を下した。

 


 

 朝鮮王朝の激動の開化期から大韓帝国にかけて、日本による植民地支配を経て解放後の様々な変化まで、この白松は眺めてきた。『東亜日報』が斎洞の名物としてこの白松を取り上げてほぼ100年が経とうとしている。白松は、この100年間の変化にもさぞかし驚いていることだろう。