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一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

  • 「セト民」という呼び方
  • 「帰順」から「脱北」へ
  • 黄長燁の越境
  • 脱北後にも「境界」が

 

 映画「不思議の国の数学者」が日本でも封切られた。北朝鮮から韓国へ越境してきた人々について、その処遇や呼び方には大きな変遷があった。

 

 

  「セト民」という呼び方

 2005年に「セトミン(새터민)」という韓国語が登場した。

 

国立国語院のチェ・ヨンギ学芸研究官は、「脱北者」は否定的な感じを与えるため、自由を求めて北朝鮮を離れて韓国で新しい生活を送っているという意味で、「新しい生活者(새살민セサルミン)」(「새삶인」の変異型)、「セト民(새터민)」(新しい生活拠点を求めてきた人)、「離郷民イヒャンミン(이향민)」のような呼び方を考えるべきだと語った。

 「脱北者」という呼び方に否定的なイメージがあるとして、政府の肝煎りで国立国語院で考案したのが「セト民」。新しい「セ」と場所の「ト」に「「民」を組み合わせた造語。

 

韓国言論振興財団のデータベースによる主要日刊紙の使用頻度

 

 セト民という造語は、当初はなかなか使われなかったが、2〜3年で公的な場では使用されるようになった。

 

 映画「不思議の国の数学者」でも、脱北者を支援する組織「セト民支援本部」が出てくる。とはいえ、日本語ではそうした造語はないし、使い分けができないので、字幕では「脱北者支援本部」となっている。

 

  「帰順」から「脱北」へ

 1990年代の初めまでは、北朝鮮から韓国に越境して来た人は「帰順勇士クィスンヨンサ」「帰順義士クィスンウィサ」と呼ばれた。1970年代まで、韓国と北朝鮮との経済水準では、必ずしも韓国が優っているわけではなかった。韓国は、豊かな部分と貧困とが混在する極端な格差社会だった。

 

 そんな韓国に「自由」を求め、「主体思想チュチェササン」の北朝鮮を見限って越境してきた人は、「越南ウォルナム帰順勇士特別褒賞法」の規定で報償金や年金が与えられ、社会生活面でも厚遇された。ただ、「偽装帰順」もあったため、情報機関での厳しい取り調べをクリアする必要があった。

 

 1983年にミグ戦闘機に乗って韓国に「帰順」した北朝鮮空軍の李雄平イウンピョン中尉は、13億ウォンの報償金を手にした。1987年に日本海を渡って日本に漂着し、その後韓国に入った金満鉄キムマンチョル一家にも報奨金と種々の社会的便宜が提供された。

 

 1985年に離散家族や芸術団の南北相互交流が実現したとき、韓国のMBCの「カメラ出動」が平壌で突撃インタビューを敢行した。北朝鮮の子供がカメラの前で「南朝鮮はアメリカの奴らのせいで子供達が空き缶をぶら下げて道をさまよって食べ物を漁っています」と答える場面が韓国で放送された。当時、ものすごい衝撃だった。

 

 

 一方、韓国では、子供の頃に反共ポスターで北朝鮮人の頭にツノを描くと褒められたという人もいる。

 双方で、こうしたプロパガンダが浸透した情報閉塞の中にいると、人は動こうとはしない。

 

 ところが、1988年にソウルオリンピックが開かれ、中国やソ連、東ヨーロッパの国々が参加した。北朝鮮は対抗して、翌年世界青年学生祭典を開催した。これには韓国から学生の林秀卿イムスギョン文奎鉉ムンギュヒョン神父が参加した。1989年にはベルリンの壁が崩壊した。このニュースは朝鮮半島でも南北を問わず非常に大きな関心を呼び、情報が徐々に拡散し始めた。

 

 この時期、1980年代の北朝鮮の農業政策の失敗により北朝鮮の食糧不足が深刻になっていった。そのため、北朝鮮から韓国へという人の流れが増加し始めた。韓国が「優遇」することができないくらいのレベルで増加した。そのため、1992年には「帰順者」としての扱いを停止せざるを得なくなった。

 

帰順勇士の年金廃止

定着金・住宅支援も縮小

 さらに、1994年になると、外貨獲得のためロシアなどに送られていた北朝鮮の出稼ぎ労働者の韓国亡命が相次いだ。また、豆満江トゥマンガン鴨緑江アムノッカンを渡って中国領に入り、迂回して韓国を目指す人々も目に見えて多くなった。一度動き出した流れは次第に大きくなる。韓国政府は、一般の越境者については最低限の定着支援金を給付して職業訓練などを行なうことにした。そして、困窮した北朝鮮を見限って脱出してきた人々という意味で、越境してきた人々の呼び方も「帰順者」から「脱北者」へと変わった。1995年以前、報道媒体では「脱北者」という言葉は使われていなかった。

 

「脱北者」の使用頻度

韓国言論振興財団のデータベースによる主要日刊紙の使用頻度

 

  黄長燁の越境

 1997年2月、朝鮮労働党の幹部であり、金日成総合大学の総長などを歴任した黄長燁ファンジャンヨプが北京の韓国大使館に亡命申請し、4月に韓国に入国した。

 

 黄長燁は「主体思想」の体系化にも貢献した金日成キミルソンの側近だった超大物。さすがにこのレベルの人物には「脱北者」という呼び方は相応しくないということで、この当時の報道では「脱北」という表現はほとんど使われていない。韓国社会に、対北優越意識と、北朝鮮から逃れてくる人々をも見下す意識とが芽生え始め、それが「脱北」という言葉に込められいたが故に、黄長燁を「脱北者」とすることが憚られたのであろう。

 

 その後、北朝鮮から韓国への越境が急激に増加してくると、普通の人であろうと大物であろうと、すべてが「脱北者」としてくくられるようになっていった。

 

  脱北後の「境界」

 北朝鮮からの流入民が出始めた最初の頃は、脱北者に対して、悲惨な暮らしを強いられた可哀想な同胞という同情も多く寄せられた。しかし、脱北者が急激に増加するにつれ、お荷物扱い、邪魔者視する風潮が韓国社会の一部で露骨になっていった。脱北者の中には、北朝鮮の本場の味を売り物に食堂を始めたり、事業を起こして手広く商売をやったり、北朝鮮では通えなかった大学や大学院に通う人たちもいた。

 

 2002年から板門店の休戦会談場ツアーに参入した板門店トラベルセンターは、2003年からツアーバスに脱北者を乗せて案内や質疑応答をするサービスを始めた。もちろん脱北者は休戦会談場までは入れず、一般の韓国人が行くことができる臨津閣イムジンガクでバスを降りる。

 

 2006年に「国境の南側(邦題:約束)」という映画が制作された。平壌ピョンヤンの芸術団のホルン奏者とその婚約者の女性が一緒に脱北しようとする。しかし、女性は脱北に失敗して離ればなれになる。その後、長い困難を乗り越えて婚約者だった女性も韓国にやってくるのだが……という悲劇のストーリー。この映画では、演出部のスタッフに脱北者がいて、中・朝の国境を越える際の案内員役として映画にも出演した。彼は韓国で大学に入り演劇関係の学科を卒業している。

 

「国境の南側」メーキング動画冒頭部分

映画「国境の南側」は 愛する女性を北に残して国境を越えた一人の男の物語だ。世界で唯一の分断国家である韓国ならではの悲しいラブストーリーだ。実際、「国境の南側」のスタッフには主人公のソヌと同じ境遇の人がいた。北に妻と娘を残して国境を越えてきた演出部のキム・チョロンさんだ。キムさんは映画の中でソヌの家族が脱出する場面で案内員を演じた。「国境の南側」でソヌは家族と共に豆満江を越えたが、キムさんは一人でこの川を越えた。演技ではあったが、脱北した当時の恐怖感や寂しさが押し寄せてきた。

 2008年には、脱北を描いた「クロッシング」が封切られた。数多くの脱北者たちのインタビューやドキュメンタリー映像などをもとに企画・制作されたもので、リアリティを追求した映画だった。しかし、それだけに悲惨な場面が繰り返し描かれることになった。おまけに著作権侵害の訴えが起こされたりして、観客動員数は伸び悩んだ。その一方で、アメリカのアカデミー賞の外国映画部門への出品作に選出されたり、年末のネットの映画評では3位になっている。

 

 

 2011年に、私は日本人の大学生グループと二人の脱北者の大学生の交流会に立ち会ったことがある。普通に話をしていると、どこにでもいる韓国の大学生と全く変わらない。ただ、韓国での違和感や疎外感は言葉の端々に感じられた。

 

 彼らは、それなりに韓国の中で居場所を見出せた脱北者なのだろう。しかし、韓国の商習慣や社会システムに慣れていないことからくる失敗も少なくなかった。定着支援金詐欺にあった脱北者が一文無しになってしまう事件なども起きた。北朝鮮での経験や資格・実績が韓国では認められず、落ち込むケースもあった。「境界」を越えてきたはずなのに、韓国での生活のさまざまな局面にも大きな「境界」が存在していた。そんな中で、すでに2000年前後から、脱北者の中から北朝鮮へのUターンを試みる者まで出始めた。そうした中で作られた「脱北者」に代わる呼び方が「セト民」だった。

 


 16年前の映画「国境の南側」では脱北者の「脱北」の苦しみや悲しみが描き出された。その2年後の「クロッシング」では、さらにリアルな北朝鮮の悲惨さと「脱北者」の絶望的な状況が描かれた。韓国の人々が、関心を持ち続けていると言いながらも、目を背けてしまうようなリアルさが…  

 「不思議の国の数学者」では、北朝鮮での実績を封印して韓国社会の片隅でひっそりと暮らす脱北者が描かれる。そして、南北の「境界」を越えてきた数学者の目に写った韓国社会の受験競争の中の「境界」をめぐるストーリーが展開される。

 

 北から南に境界を越えてきた人々は、呼び方も変わってきたし、韓国での待遇や生き方も変わった。そして描かれ方も大きく変わった。ただ、30年前までの「帰順者」から「脱北者」へと変わり、脱北者への差別や偏見が深刻化していったことが「セト民」という新しい呼び方を生み出す契機になった。そして、韓国社会の「北朝鮮」や「脱北者」を見る目も大きく変わってきている。

 

 北から「境界」を越えてきた人々が韓国で居場所を見つけるのは容易ではない。そして、韓国社会の中に存在する様々な「境界」もまた、簡単には無くなりそうにない。

  • 写真の撮影範囲
  • 旧朝鮮総督府庁舎と科学館
  • 南山の東本願寺

 

 国際日本文化研究センター(日文研)の「朝鮮写真絵はがきデータベース」に、景福宮勤政殿前に移転する前の朝鮮総督府庁舎や南山の東本願寺、赤十字朝鮮本部などを南山ナムサン中腹から撮影した写真の絵葉書がある。

 

 この絵葉書をもとに、南山の東本願寺や朝鮮総督府庁舎が今のどのあたりに当たるのか、また今日までどのような変遷をたどってきたのか、わかる範囲で追いかけてみた。

 

 

 

 オモテ面には宛先住所・氏名は書かれておらず「未使用」に分類されている。だが、写真面に「×印ハ弊医院」との書き込みがある。オモテ面の「日ノ出マーク」から、京城本町2丁目の「日之出商行」が制作したものであることがわかる。さらに、下1/3に線が引かれている。1918年2月まではオモテ面の1/3にしか通信文が書けなかったが、3月からは半分まで通信文を書いてよくなった。したがって写真の撮られた時期もこれで絞り込める。

 

  写真の撮影範囲

 絵葉書の写真の左上(E)に写っているのは、南山町3丁目の京城ホテルとその別館。

 

 

 1907年に、日本人倶楽部だった建物を譲り受けてホテルにしたもので、オープン当初から要人・著名人が利用するホテルだった。諏訪尚太郎の『朝鮮漫遊記』(1930)には、このように描写されている。

京城ホテルは洋風の大旅館であるが、我等一行の為に奥の別邸なる純朝鮮式の頗る古雅な一棟を与へてくれた。真中が十五畳、左右六畳、其奥が四畳半、各室共暖房の装置されてある部屋であつて、朝鮮の石佛等面白く配置された優雅なる庭園が此の亭を囲み、朝夕鵲(朝鮮カラス)が遊びに来る等心行くまで朝鮮趣味に浸り得る建物である。此の主人公
は江戸子なそうで女中に至るまで江戸子、料理も江戸料理に歯切れよい東京弁でかいがいしく世話してくれるので東京に居る様な落付いた気分にもなり得る。

 柳宗悦などもこのホテルを使っていた。柳宗悦の「全羅紀行」(『工藝』第82号 1938年3月)は、このような一節で締めくくられている。

京城に止まるること五日間。毎日持ち帰る品物で、京城ホテルの吾々の室は早くも一杯になった。帰る時が来た。私たちはそれらのものを通して多くの知己に逢うために、次の準備を急ごう。

 現在の地下鉄4号線明洞ミョンドン駅の1番出口を出ると韓国電力公社ビルがある。ここが京城ホテルのあった場所である。

 

 絵葉書の写真で京城ホテルと反対側、右端に写っている(F)は、1889年に日本人居留民会が開校した日之出小学校。内地人児童だけでなく、高宗の末娘徳恵翁主トッケオンジュなどもここを卒業している。ただ、徳恵翁主は1921年編入なので、この写真の時にはまだ通ってはいなかったが。

 

 解放後も日新イルシン国民学校として存続していたが、1973年2月に都心の児童数減少で廃校となった。校地は売却され、現在は南山スクエアビル(남산스퀘어빌딩)が建っている。

 

 ということで、1936年の『大京城府大観』でいうと、こんな範囲を1917年以前に撮影した風景ということになる。撮影場所は、京城神社(現在の崇義スンウィ女子大)だとちょっと低すぎる。その後ろの南山公園をかなり上まで上がったところだろう。

 

大京城府大観(1936)

 

 上述のように、この絵葉書には、日之出小学校の左側に×印が付けられ(G)、キャプションの横に「×印ハ弊医院」との書き込みがある。『大京城府大観』は、地図作成に出資した協賛者に番号をつけて地図上に表示し、町内別に協賛者の一覧を掲載している。本町2丁目の「32」は、「京城医院」となっている。場所的に×印の位置と一致する。

 

 京城医院は、1906年に岡山医専を卒業した村上憲祐が開業した病院。1917年に渡米する村上憲祐に代わって岡山医専の同級生鈴木茂が岡山から京城にやってきて京城医院を引き継いだ(『京城府町内之人物と事業案内』京城新聞社 1921年)。この絵葉書の書き込みは、村上憲祐が岡山にいた鈴木茂に京城医院の場所を知らせたもの…あるいは、鈴木茂が引き継ぎの挨拶がわりに使ったもの…かもしれない。絵葉書の制作時期とは矛盾はないのだが、決め手はない。

 

 写真中央の赤十字社(D)は、日本赤十字社朝鮮本部だったところ。現在もここに大韓赤十字社テハンチョクシプチャサがある。

 解放後の1959年に、この絵葉書の写真と同じようなアングルで撮られた映像がある。この年の5月23日に行われた安重根アンジュングンの銅像の除幕式の映像である。この時には、すでに朝鮮総督府の建物(A)(B)と東本願寺の建物(C)は、なくなっている。

 

大韓ニュース第215号

  旧朝鮮総督府庁舎と科学館

 絵葉書のキャプションで「朝鮮総督府」とされている(A)(B)の建物は、1936年の『大京城府大観』では「科学館」と表記されている。(A)は、1907年に統監府庁舎として建築され、1910年8月の韓国併合後は朝鮮総督府庁舎として使用された。(B)はその後に1913年に増築された庁舎。1915年冬からは、景福宮の光化門と勤政殿の間に総督府庁舎を新築する工事が始まり、この新庁舎は1926年1月に完成し、朝鮮総督府は移転した。

 

 総督府移転後の南山の旧庁舎は、科学館・商品陳列館として利用されることとなり、改修工事や内装、展示備品の準備などを経て、1927年5月10日に科学館がオープンした。

 

 

 1945年の日本の敗戦後、米軍政庁の統治下で「科学館クァハッカン」は1946年2月に再開している。

 

 

 ところが、朝鮮戦争の最中に(A)(B)の建物はいずれも燃失してしまった。1953年の朝鮮戦争停戦後、唯一焼け残った旧科学館の倉庫に「科学館」の看板を掛け、事務機能だけがかろうじて存続していた。1954年末に韓米財団の支援で「科学館」の展示部門の再建が報じられたが、結局実現しなかった。

 

この建物は絵葉書の(A)の左下に写っている
1959年の安重根の銅像の右側にも半分見えている

 

 1956年に、旧朝鮮総督府(A)の跡地にはKBSラジオの「南山演奏所ナムサンヨンジュソ」が建てられた。1976年までこの場所でラジオ放送が制作され、放送が流れた。安重根の銅像の右側後方に大きく見える建物がKBS局舎である。

 

KBS, 남산 라디오 방송국의 시설과 구조より

 

 1976年にKBSが汝矣島ヨイドに建設された新社屋に移ると、この旧社屋は国土統一院クットトンイルウォンの庁舎として使用された。1986年から国家安全企画部(安企部アンギブ)に移管されたが、1995年の安企部の内谷洞ネゴクドン新庁舎移転に伴ってソウル市の施設となり、1999年にここをソウルアニメセンターとしてオープンした。現在、アニメセンターの建て替え工事が進められており、旧KBS社屋はすでに撤去された。

 

  南山の東本願寺

 真宗大谷派(東本願寺)は早くから釜山で布教を始めた。1890年に京城に布教所を置き、1895年にはこれを真宗大谷派京城別院とした。絵葉書に写っている建物は、1906年11月に完成した本堂で、高宗皇帝から大韓阿弥陀本願寺の扁額を下賜された(『本願寺誌要』1911年)。

 

 日本の敗戦後、南山の東本願寺の建物は、1947年10月から国民大学館クンミンデハッカンの校舎として使われた。国民大学館(現在の国民大学校)は、大韓臨時政府の申翼煕シンイクヒが朝鮮に帰国した後、解放後の朝鮮に大学を設立しようとしたものの米軍政庁から大学としての認可が下りず、「大学館」として開学したものだった。朝鮮仏教中央総務院の総務部長で海印寺の住持だった崔凡述チェボムスルが国民大学館の運営に参画したこともあって、東本願寺の使用が実現したのであろう。しかし、ソウル市は、旧東本願寺を「国際社交場にする」という理由で国民大学館に立ち退きを求めた。学生や教職員の強い反発で、1948年2月には過渡立法議院でも取り上げられるほどの大騒ぎになった。結局、国民大学館は、昌成洞チャンソンドンの旧逓信要員養成学校の跡地(現在の政府ソウル庁舎昌成洞別館)に移転することで決着し、その夏には大学としての認可を得ることになる。

 

 国民大学館が退去した後の旧東本願寺には、ソウル市の生活改善硏究舘が置かれ、1950年3月にはソウル市立美術硏究院が開設された。ここで朝鮮戦争が勃発した。各地で多くの孤児が出る中で、大韓テハン児童院アドンウォン白仁哲ペギンチョルが運営する孤児院が、旧東本願寺の建物を使って開設された。運営資金は、アメリカ軍の第10防空戦闘連隊の将兵が提供した。

 

 ところが朝鮮戦争が停戦になると、孤児院は次第に資金不足となった。そうした中で、1955年9月、白仁哲が沈義赫シムウィヒョックに孤児院を奪われたと訴え出たという報道記事が出た。

 

孤皃院奪われたと白仁哲氏が提訴

朝鮮日報1955.09.10記事

「以前CACの通訳を務めていた沈義赫という三愛サメ保育園園長が、私が経営していた孤児院を奪ったので取り戻してほしい」という訴訟を、現大韓児童園復旧対策委員会長の白仁哲氏が提起し、話題になっている。すなわち、白氏が提起した訴訟内容では、ソウル市内南山洞にある現在の三愛保育園は、元々大韓児童園という看板を掲げて白仁哲氏が経営していたもので、以前CACで通訳を務めていた沈義赫がCACにいるアメリカ人や米軍の力で不法に奪ったものなので、取り戻してほしいということだ。この孤児院が白仁哲氏のものだった事実は、ソウル市の当局者や社会事業連合会でも認めており、強奪の当時、米軍を利用していた事実から、過去の通訳の時の所業が明らかになったのではと当局の捜査結果が注目されている。

※CAC=韓国民事援助司令部

 

 現在、以前東本願寺のあった場所の北東部分には、漢陽ハニャン教会の教会堂が建っている。

 

漢陽教会の沿革に、このような記載がある。

1945年10月10日 全仁善チョニンソン牧師が南倉洞ナムチャンドンにあった日本人組合教会を引き継いで「ソウル教会」を創立、その後「倉洞チャンドン教会」に改称。

1953年8月12日 金致善キムチソン牧師を臨時牧師として招聘、会賢洞フェヒョンドン3街に敷地を購入。

1955年9月 現在の南山洞ナムサンドン3街の位置に賃貸借契約。教会を移転し「漢陽ハニャン教会」に改称。

1956年 原因不明の火災で建物が全焼。天幕で臨時礼拝所を設置。

 (中略)

1967年12月30日 南山洞の教会敷地に現在の教会堂竣工。

 1955年の9月に、倉洞教会が旧東本願寺の賃貸借契約を結んだことと、白仁哲が沈義赫を乗っ取りだと訴えたのとが時期的に重なっているのは単なる偶然ではなかろう。白仁哲の訴訟の成り行きはわからないが、この時点で旧東本願寺の建物は「漢陽教会」として使われることになったと思われる。ところが、翌年に旧東本願寺の建物は原因不明の火災で消失してしまった。

 

 そして、1967年12月30日に漢陽教会の今の教会堂が完成するのだが、その位置は旧東本願寺の本堂の場所ではなく、敷地の北東寄りの一角である。元々東本願寺本堂があった場所はソウル市の公有地で、その南側一帯には、すでに1961年にKBSのテレビ放送用局舎が建てられていた。漢陽教会は、1955年の賃借契約を根拠に教会堂を建設したのであろうか。

 

 1976年に汝矣島にKBS放送局社が建設されると、KBSラジオ局とともにこのテレビ局も汝矣島の新社屋に移った。KBSのテレビ局舎には、韓国映画振興公社ヨンファジヌンコンサが入り、文化公報部ムナコンボブ傘下の公団として映画資料の収集・展示を行なっていた。

 

 

 1989年に土地と建物が売却され、その後は、ケーブルテレビ局が使っていたが、現在はどうなっているのか把握していない。建物はそのまま残っている。

 


 

 ここまで、1910年代の絵葉書の風景から、2023年の今日までの「歴史散歩」をしてみた。

 

 

 絵葉書当時からのもので今日残っているのは、東本願寺の石垣と旧KBSテレビ庁舎駐車場に残る小さな石柱くらいだろう(りうめいさんの教示による)。それでも、こうしてトレースしてみると日本による侵略の時代の街並みをイメージすることができる。

 

  • 日本陸軍官舎の「発見」
  • なぜここに日本軍の官舎が…
  • 陸軍官舎なのかなぁ…
  • 鉄道官舎の可能性も…

 

 京義中央線キョンウィチュアンソンで下っていくとデジタルメディアシティの次の駅が水色スセック。水色駅前の道路を西に進み、跨線橋を渡ると、右手に上岩サンアムワールドカップパーク10団地が見える。その高層アパート群の手前にフクロウ近隣公園があり、その一番南端に2棟の古い木造住宅がある。これが2010年に移築・復元された「旧日本軍軍人官舎」である。

 

 

 2棟の家屋は、もとは現在のフクロウ近隣公園の北側、上岩洞728番地と762番地に建っていたもので、それを110〜130m南に移動させて復元・改修したものだ。

 

元位置の家屋配置再現ジオラマ

移築前の家屋(ハンギョレ新聞 2007-04-18 記事より)

 

 

  日本陸軍官舎の「発見」

 2002年の日韓共催サッカーワールドカップのメインスタジアムが上岩洞サンアムドンの南東側の城山洞ソンサンドンに建設された。ワールドカップの終了後、周辺地区の開発が急速に進んだ。

 

 現在フクロウ近隣公園になっている一帯は、ワールドカップ当時は開発を制限するグリーンベルトに指定されていたが、2004年12月になって上岩第2地区の宅地開発予定地区に指定された。開発に先立ってソウル市の文化財調査が行われた。その時に、林の中に残っていた22棟の木造住宅が確認され、2005年11月に文化財評価報告書が提出された。

 

 その報告書では、この建物群は「1937年に建設された日本陸軍官舎の建物と推定」され、「近代に造成された建築文化財として価値が認められる」とされた。審査の結果、2006年12月に、22棟のうち状態が良好な2棟のみを移築・改修して保存する計画が固まった。そして、2008年3月から2010年10月まで移設・改修工事が行われた。

 

 対象の施設が、日本の植民地支配時代の陸軍官舎と推定されていたこともあって、保存措置に対する批判は当初から多く寄せられていた。しかし、2000年代に入って、「ネガティブ文化財」に対する韓国社会の流れが「廃棄」「清算」から「保存」「活用」へと変わっていた。植民地時代のものをあえて残すことで、ネガティブな自国史を可視化しようとする動きである。韓国の経済発展と社会の成熟に裏打ちされた自信の現われでもあろう。決して過去の日本の行いを「許した」わけでも「忘れた」わけでもない。

 

 728番地の家屋はほぼ原型通りに復元された。一方、762番地の家屋は、コンクリート構造の地下室を新規に構築し、その上に元の家屋の外観を原型に沿って復元した。地下室は備品等の収納庫、建物の内部空間は、展示・講習会機能を備えた施設に改修された。教育的活用を可能にする機能を付加したものになっている。屋外には防空壕も移設・復元された。1938年から京城の一般市民に防空壕の設置が呼び掛けられているので、当時としては特別な設備というわけではない。

 

 

  なぜここに日本軍の官舎が…

 日本植民地統治下で、釜山から京城を経て、平壌、新義州に向かう京義鉄道は、当初は龍山ヨンサンからすぐ西にカーブして水色スセック方面に向かう経路で運行されていた。しかし、京城中心部に近い南大門駅(京城駅:現ソウル駅)を通らないのは不便ということで、1910年代に京城駅を通って新村シンチョンから水色スセックにつながる新たな線路が敷設された。この路線が整備されたことで、京城駅は名実ともに内地から朝鮮を経て満洲までを連結するキーステーションになった。

 

 

 1937年、盧溝橋事件で日中戦争に突入すると、中国大陸での侵略戦争の兵站基地として朝鮮の鉄道輸送力の増強が図られた。この時、注目されたのが水色スセックで、ここに操車場の建設が進められた。

 

 

  陸軍官舎なのかなぁ…

 当時、朝鮮には、第19師団と第20師団が置かれていた。第19師団は、朝鮮半島北部の咸鏡北道羅南を拠点に北方を管轄し、第20師団が朝鮮半島南部から京城・平壌一帯を管轄していた。第20師団の司令部は龍山にあり、歩兵78・79連隊、野砲26連隊、騎馬28連隊の兵営が龍山にあった(朝鮮戦争後アメリカ軍基地になったエリア)。


 1937年7月の盧溝橋事件で、第20師団は華北戦線に動員された。だが、水色になんらかの軍事施設を作ったという記録は見当たらない。ソウル市の研究調査報告では、「1930年代、日本が大陸進出のために水色地区を基盤として騎兵部隊を新しく構築して造られた施設群の官舎と推測される」となっている。騎兵部隊は、もともとは機動力を生かした偵察任務などを目的としたものだったが、1930年代に入ると機甲化が図られて、多くは捜索連隊へと改組された。騎兵第28連隊は、1940年7月に捜索20連隊に改編されている。しかし、龍山から水色に移ったとする資料は出てこない。しかも、22戸もの将官用の官舎があるということは、それに見合う規模の兵卒用の兵舎が隣接してあるはずなのだが、その形跡も見当たらない。唯一確認できるのは、日本の敗戦時に水色に陸軍倉庫があったことのみである(『岐阜県従軍回顧錄』第4巻)。

 

 文化財委員会の「2012年度第3次会議録」には「沿革」として次のように記載されている。

1945年解放後、韓国軍官舎として使用(約11年間使用)

1949年 ソウル市に編入

1956年 個人に払い下げられて民間所有となる

1970年代初 近隣地域がグリーンベルト(開発制限区域)に指定

2004年12月3日 上岩2地区 宅地開発予定地区に指定

 解放後に「韓国軍官舎として約11年間使用」とあるが、実際には1945年9月に米軍政庁による統治が始まって、日本の施設はアメリカ軍によって接収された。この段階では「韓国軍」はまだ存在しなかった。アメリカ軍は12月5日に西大門区冷泉洞に軍事英語学校を開設し(現在の監理教メソジスト神学大学の場所)、日本軍や満州軍で経験を積んだ幹部級の軍人を入学させて「国防警備隊」の創設要員として育成した。翌年1月に、旧日本軍の朝鮮人志願兵訓練所があった泰陵テヌン(現在の韓国陸軍士官学校の場所)に「国防警備隊」第1連隊が創設された。

 

 1980年代末の盧泰愚ノテウ政権の時に国務総理になった姜英勳カンヨンフンは、満洲の建国大学在学中に学徒兵として徴集され、日本陸軍見習い士官で敗戦を迎えた。帰国後、この軍事英語学校の1期生となり、その後国防警備隊から韓国陸軍将校としてキャリアを積むが、姜英勳がこの水色の官舎に住んだとされる(ハンギョレ新聞 2007-04-18)。

 

 また、『大韓民国史年表』には、

1948年5月5日 
京畿道水色で航空基地部隊(後に陸軍航空司と改称)を創設(韓国空軍の第一歩)


1948年7月27日 
航空部隊を航空基地部隊と改称し司令部を水色から金浦キムポに移す

と、1948年8月の大韓民国建国直前に、短期間であったが水色に軍部隊が存在したとの記述がある。

 

 さらに、朝鮮戦争後の1955年に設立された国防クックパン大学がこのすぐ近くにあった。国防大学は、1957年に国防研究院、1961年に国防大学院になり、2017年に論山ノンサンに移転した。

 

 

 こうした解放後の韓国の軍事・国防施設との関係性を窺わせる事実から、日本軍の軍事関連施設がもともと水色スセックにあって、それを韓国軍が接収して引き継いだようにも見える。しかし、実際は米軍政庁が接収し、アメリカ軍の主導のもとで韓国軍の前身の国防警備隊が創設されているのだから、日本軍の軍関係施設が韓国軍関連施設として引き継がれたということにはならない。この2004年に「発見」された官舎を韓国の軍関係者が使用していたからといって、この住宅群が日本軍の官舎であったということにはならない。

 

  鉄道官舎の可能性も…

 上述のように、1930年代末には水色スセックに大規模操車場が作られており、その規模からいって新たな鉄道官舎が造成されたはずである。


 朝鮮の鉄道官舎については、李喆永「韓国の住居近代化に与えた日式住居建築の影響」(『大手前大学社会文化学部論集』4(2004-03))に次のような記載がある。

5等の鉄道官舎は、北側の中央に玄関があり、その右側に8畳の接客間の座敷と次の間、家族の生活空間の茶の間を連接配置した続き間の型となっている。座敷には床の間と違い棚、長押などが設けられている。次の間には押入れが、両室間の問は襖になっている。玄関の右側には4.5畳の女中部屋とトイレ、その前方は浴室と台所となっている。浴室には鉄釜の浴槽があり、台所には前庭へ出入りができるドアがある。5等の官舎の居住対象は地方鉄道局の課長(書記官級)や駅長である。

 728番地の家屋の平面図はと内部の様子は下のようになっている。

 

 

2018年9月4日撮影

 

 家屋の構造だけでなく、官舎の配置やロケーションからいっても、むしろ鉄道官舎の方がしっくりくるのだが…。少なくとも、外観や内装、配置や場所だけからは、これが鉄道官舎ではなく、軍人官舎であったとする根拠は見出せない。

 


 

 このブログを書くにあたって、日本軍の官舎である根拠の断片でも見つからないかとだいぶ検索を繰り返したのだが、出てこない。

 

 それに、「田畑・池袋を凌ぐ朝鮮一の大操車場」を新たに作ったのなら、鉄道官舎が新設されていたはずである。現在の水色駅の向かい側には大規模な高層マンション群ができているが、その西側の一角に操車場ができる前からの鉄道官舎がほんの少しだけ残っている。大規模な操車場であるだけに、大規模な鉄道官舎も必要だったはずだ。

 

 かなり皮肉な見方だが、「ネガティブ文化財」である以上、鉄道官舎よりも軍人官舎の方がネガティブ度が高くて復元・保存する価値が認められたのかもしれない。

 

 ちなみに、龍山の第20師団の主力部隊歩兵78・79連隊、野砲26連隊は、1942年12月28日未明に龍山駅から列車に乗車、釜山からニューギニア戦線に向かった。ニューギニア東部で連合軍の猛攻で退路を絶たれ、1944年1月、3000m級のフィニステール山脈の稜線を縦走する逃避行で多くが「戦死」した。投入された25,000名の兵力のうち、生還できたのは僅か1,700名あまりだった。

 捜索第20連隊は、1944年6月に沖縄の第32軍に編入されて宮古島、西表島、石垣島に展開、そのまま敗戦を迎えた。こちらも、水色から部隊が移動した形跡は、今のところ見つけられずにいる。