昨年5月10日、汝矣島ヨイド の国会議事堂前で尹錫悦ユンソギョル 大統領の就任式が行われた。その夜、大統領就任式に出席した外国からの賓客を招いての晩餐会がホテル新羅シルラ の迎賓館で催された。
それまでの就任祝賀晩餐会は、青瓦台チョンワデ の迎賓館で催されていた。しかし、大統領府を龍山ヨンサン に移すと公約していた尹錫悦候補は、大統領就任晩餐会の会場を青瓦台以外の場所に求め、ホテル新羅の迎賓館を会場にした。青瓦台は国民に開放したので、観覧希望者の青瓦台入場を規制してまで晩餐会をやるわけにはいかない…というのが新大統領側の説明だった。
2022年5月10日 MBCの迎賓館前からの中継場面
このホテル新羅の迎賓館の施設は、もともとは大韓民国の迎賓館だった。外国からの賓客や随員が宿泊でき、中規模の答礼宴会場も備えた施設である。さらに歴史を植民地時代まで遡れば、ここは博文寺が建てられていた場所だった。
ここでは、やや複雑な「迎賓館」の来歴についてまとめてみたい。
博文寺の建立
1929年に朝鮮総督府の政務総監となった児玉秀雄は、伊藤博文を追悼する寺院の造営計画を推し進めた。1932年10月26日、京城府が開設した奨忠壇公園の一部だったここに博文寺が完成し、入仏式が行われた。
曹洞宗春畝山博文寺と称し、本堂は鉄筋コンクリート2階建、正門は慶熙宮キョンヒグン の興化門フンファムン が移築された。
1939年10月、上海の朝鮮人実業家視察団の一員として安俊生アンジュンセン が朝鮮を訪れた。安俊生は安重根アンジュングン の次男で、京城で博文寺に参拝し、伊藤博文の息子伊藤文吉と会って「和解」したと大々的に報じられたこともあった。
解放直後の博文寺
日本の敗戦で植民地支配が破綻すると、内地人関連の資産を売却、譲渡、管理委任などで朝鮮側が引き継ぎ、「敵産」としてアメリカ軍政庁に没収されるのを回避しようとする動きが起きた。
日本仏教系の寺院についても、京城帝大の仏教学教授佐藤泰舜らが中心となって、曹洞宗大本山別院(曹渓寺)、博文寺、高野山別院、浄土宗別院、西本願寺、東本願寺などを朝鮮人仏教関係者へ引き継ぐ道を模索した。朝鮮仏教界では、解放の直後から、新興の僧侶グループによる既存体制の刷新の動きが始まり、博文寺は仏教系の惠化専門学校(のちの東国大学校)の学生たちが寮として自主管理を始めていた。ただ、米軍政庁は学生の自主管理を認めず、学生たちは退去した。
そうした中で、佐藤泰舜らが管理委任をする相手として選択したのは、刷新の動きに伴い10月8日に奉恩寺ポンウンサ の住持を辞任していた洪泰旭ホンテウク であった。洪泰旭は、解放前は創氏改名した德山道平として日本系仏教人とも交友関係があり、8月末には佐藤泰舜に会って曹渓寺や博文寺の引き継ぎを申し出ていた。11月15日に佐藤泰舜と洪泰旭の間で管理委任の書類を作成し、20日に軍政庁に提出した(森田芳夫『朝鮮終戦の記録 資料編第2巻』)。
ところが、11月23日未明に博文寺は火災で全焼した。
『朝鮮日報』のこの記事によれば、博文寺の火災と同時刻に、旧国民総力朝鮮連盟の建物、京城駅裏手のマルボシ(朝鮮運送)の倉庫でも火災が発生している。記事では、金九の帰国と関連づけて植民地支配下の日本の国策関連施設への連続放火の可能性を匂わせている。
この火災については、当時まだ発行され続けられていた『京城日報』でも報じられていた。しかし、11月末に京城を離れた佐藤泰舜の記録(1946年1月執筆)にはこの11月23日の博文寺の火災についての言及はない。
さらに、12月30日に洪泰旭が複数の男たちに誘い出されて行方不明になり、1月8日に遺体で発見された。警察発表では、奉恩寺の元住持姜性仁カンソンイン が日本系寺院を引き継いだ洪泰旭から朝鮮仏教界再編の主導権を奪おうとして殺害させた事件だったとされている。
こうしたことで、日本系仏教施設の朝鮮側への引き継ぎは頓挫し、博文寺が朝鮮仏教系の寺院として引き継がれることにはならなかったようだ。
国立公園化の動き
同じ頃に、「奨忠壇チャンチュンダン 再建期成会」が組織され、伊藤博文を暗殺した安重根の銅像を博文寺の跡地に建てようという運動が始められた。
その後、「先烈奉安祠奉建発起会」が奨忠壇の国立記念公園化案を提示した。米軍政庁は米軍のベル大佐、延禧ヨンヒ 大学校のアンダーウッド博士、仏教中央総務委員の金法麟キムボムニン で委員会を作り、奨忠壇帰属財産管理案を検討するよう求めた。委員会は、「先烈奉安祠奉建発起会」の奨忠壇の国立公園化案を支持したが、米軍政庁は決定を回避して、1947年2月末に、金奎植キムギュシク をトップに据えた南朝鮮過渡立法議院に検討を委任した。
結局、博文寺の跡地を奨忠壇公園に属する官有地とすることは決定されたが、博文寺一帯の用途決定は先送りされた。安重根の銅像の建立も保留された。
その後、1948年3月、博文寺跡地は、韓国軍の軍楽学校の敷地となった。
こうして、伊藤博文を狙撃した安重根の銅像を伊藤博文が祀られた博文寺跡に建てる案は実現しないまま、1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発した。
朝鮮戦争後の動き
朝鮮戦争の停戦後、「大韓愛国先烈記念事業協会」が奨忠壇公園に安重根の銅像を建てることを表明した。
6月には奨忠壇公園内で基礎工事まで始めたが、その後資金難で工事が中断した。
翌1957年、今度は「安重根義士記念事業協会」が銅像建立計画に名乗りをあげた。
関係当局で銅像の設置場所について協議が行われ、8月になって、安重根の銅像は奨忠壇公園ではなく、ソウル駅前広場に設置するという決定がなされた。
ところが、ソウル駅前の設置場所も1958年の年初に取り消されてしまった。「大韓愛国先烈記念事業協会」と「安重根義士記念事業協会」が互いに譲らず、文教部が仲介に入ったが調整に失敗したためだとされた。「安重根義士記念事業協会」側は、当局から「伊藤博文の侵略の総本山だった倭城台趾付近が適切ではないか」との示唆があったと明らかにしている。とはいっても、旧倭城台(現在の芸場洞イェジャンドン )付近には適当な空間はなく、結局、崇義スンウィ 女子大の裏手の斜面というなんとも寂しい場所に1959年4月に安重根の銅像が建てられることになった。
博文寺の跡地に安重根の銅像を建てる案は、何度か出されたが、結局実現しなかった。当時の朝鮮の人々にとって、博文寺は伊藤博文ゆかりの寺であると同時に、解放の数年前に安重根の次男安俊生が参拝した寺でもあった。博文寺は、その舞台とされた場所だった。 安俊生の博文寺参拝や「和解」が安重根の銅像の設置場所に影響したとする資料は今のところ見当たらない。しかし、大韓臨時政府主席の金九キムグ は、帰国途上の上海で中国官憲に安俊生の処罰を依頼している。博文寺の跡地を銅像の設置場所とすることに違和感を感じる人々が、国内にも相当いたであろうことは想像に難くない。
奨忠壇林野の売却問題
時代はやや下るが、1964年にそれまでの帰属財産のいい加減な払い下げの実態が国会で取り上げられた。その際、財務部が示した乱脈ぶりの実例の中に奨忠壇公園林野の払い下げ問題が挙げられている。
この新聞記事で取り上げられている場所を、1968年の「地番入最新ソウル特別市街図」で比定すると、中央公務員訓練院→公務員教育院、傷痍勇士会館→在郷軍人会、反共センター→アジア反共連盟自由センター となる。犬訓練センターは見当たらない。旧博文寺のところがそうであった可能性もなくはないのだが…。
注目されるのは後段の部分である。
57年7月15日に既に売却されたものを、後になって迎賓館を建設しようという李博士の指示で、その土地を再び国有化し、訴訟になったが政府側が勝訴した。
この記事だけでは、1957年の売却先や、奨忠壇公園内のどの部分なのか、いつ国有地に戻されたのかなどはわからない。ただ、これに関連するのではないかと思われる「奨忠壇林野事件」が、翌1958年4月に報じられている。
管財職員3名に令状
市有地払い下げで収賄容疑で申請
ソウル市警ではソウル市管財局処分課長金徳厚キムドクフ ほか3名の職員を業務上背任・収賄容疑でソウル地裁に拘束令状を申請したという。彼らは奨忠壇公園内の私有地31,100坪、日本統治時代の博文寺(日本人の所有)を帰属財産とみなし、国民大学に2,200ウォンで払い下げた。彼らは、払い下げ時に16〜7着の背広と現金を受け取ったとされるが、博文寺の土地は解放後から市有地として市で管理してきたものとされている。
すなわち、「奨忠壇林野事件」とは、博文寺跡地をソウル市の職員が賄賂をもらって不当な安値で国民大学クンミンデハック に売却したというもの。1964年4月の『東亜日報』の記事内容を合わせ考えると、1957年7月15日に国民大学に売却された後、李承晩イスンマン 大統領が博文寺跡地に迎賓館を建てることを指示した。12月末の予算審議では厚岩洞が予定地とされていたので、指示は1958年になって下されたのだろう。そのために、「博文寺跡地は払い下げの対象とはならない市有地で、ソウル市の処分課長らが賄賂をもらってそれを売却した」ということにして、国民大学への売却を取り消して国有地化した、そんな構図が見えてくる。
国民大学は、申翼熙シンイクヒ が解放後に設立した大学である。申翼熙は、1956年の大統領選挙で李承晩の最大の対抗馬として立候補したが、選挙運動中に急死した。死後であったにもかかわらず、大統領選挙では185万票あまりを獲得した。いわば李承晩の独裁を脅かす政敵であった。そうした因縁も当然この事件には関係していたのであろう。
迎賓館の建設
李承晩政権の3期目の途中までは、朝鮮総督府の政務総監の官邸だった建物を迎賓館として使っていた。「筆洞ピルドン の迎賓館」というのがこれである。現在、韓屋マウルハノンマウル へ行く道の左手にある「韓国の家(コリアハウス)」の場所にあった。1957年にここを「韓国の家(コリアハウス)」に改修して、朝鮮戦争後も駐留していたトルコやフィリピンなどの外国軍や在韓アメリカ軍の将兵に韓国を紹介する施設とした。
そのため新たな迎賓館が必要だとして、この年の秋に多額の迎賓館新築予算を計上した。だが、議会の財経委員会ではこれめぐって紛糾した。
国務院は、迎賓館の建設場所は雰囲気のよいところということで厚岩洞を予定したとしていた。
ところが予算案が通らなかったため、新たな建設場所として旧博文寺跡が李承晩から出されたのかもしれない。あるいは、国民大学問題が発端となって迎賓館をここに建てる案が浮上したのかもしれない。
結局、李承晩政権のもとでは、迎賓館の新築は実現しないまま1960年に政権が崩壊した。
朴正煕政権時代になっても、迎賓館の必要性については再三指摘されながらも、国家財政の逼迫などで多額の建設費のかかる迎賓館建設は実現しなかった。
1966年になって、やっと迎賓館の建設が実現することになり、建設工事の競争入札が行われた。ところが、入札不落が何度も続き、結局6月になって建設工事が始まった。そして、翌年2月28日に落成式が行われた。
この迎賓館は、平面図を見ると、外国からの賓客とその随行員のための宿泊施設としての機能がメインで、規模の大きな晩餐会や答礼宴向きにはできていない。
最初の利用者は、落成の翌月に韓国を公式訪問をした西ドイツのハインリヒ・リュプケ大統領であった。
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施設の運営は、国際観光公社に委ねられたが、宿泊客は国外からの賓客に限られるため、毎年多額の赤字を出すことになった。
ホテル新羅の建設
1970年に、朴正煕大統領がロッテの辛格浩シンキョッホ (重光武雄)を呼んで、国際観光公社が運営していて業績の上がらない半島バンド ホテルにかわる国際級ホテルの建設を命じたとされる。同じく国際観光公社が運営していて多額の赤字を出している迎賓館についても、サムソンに経営の改善策を講じるように命じた。1973年7月に、サムソングループが迎賓館の敷地に「ホテル・インペアリアル」が建設されることが報じられた。国賓級の賓客も受け入れ可能な最高級ホテルが想定されていたのであろう。
ホテルの名称は年末には「ホテル新羅」に変わっていた。朴正煕は慶州の観光開発を熱心に進めており、ちょうどこのホテル建設が発表された時期に、古墳から金冠が発掘されて大きな話題になっていた。それもあって「新羅」が冠せられたと思われる。
1979年3月、ホテル新羅がオープンした。迎賓館はそのままホテル新羅の施設の一部となった。博文寺の設計段階での平面図と重ね合わせてみると、博文寺の本殿の真上に迎賓館が建てられ、ホテル新羅の建物はその西側に建てられている。
博文寺の石段は、2019年まではホテル新羅の正面ゲート(興化門のレプリカ)を入ってすぐの駐車場奥にそのまま残っていた。この階段を上がっていったところが、迎賓館の玄関だった。しかし、2020年春からの工事で階段は撤去され、今はない。
青瓦台の迎賓館
ホテル新羅オープン前年の1978年末に、青瓦台に迎賓館が完成した。21本の石柱で支えられた2階建構造で、完成当時の新聞で「ルイ14世様式と韓国様式の折衷」と紹介された建物である。この年の12月27日に、維新憲法下で第9代大統領に就任した朴正煕が、完成したばかりの青瓦台迎賓館で就任披露パーティーを行なったのが最初の行事だった。
昨年5月の尹錫悦大統領就任以降、公式行事では青瓦台の施設は使われなかった。自分の就任披露パーティーは、ホテル新羅の迎賓館で開いたし、韓国を公式訪問で訪れたバイデン米大統領との夕食会は国立中央博物館で行われた。国防部のコンベンションセンターや戦争記念館が公式行事で使われたこともあった。
しかし、昨年12月5日に国賓として訪韓したベトナム国家主席グエン・スアン・フックの晩餐会は青瓦台迎賓館で開かれた。それ以降、青瓦台の利用が増加しつつあるという。
韓国の迎賓館は、近現代史の中で想定以上に多くの紆余曲折を経てきていた。今後、韓国はどのように先進国家としての格式を発信しようとするのか、興味深いところである。