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一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

  • 光化門クァンファムンの前
  • 解放後の路面電車
  • ジョンソン米大統領の訪韓

 

 2023年3月7日付のソウル新聞サイトに、光化門前の埋蔵文化財発掘現場で、1917年から1966年まで運行されていた路面電車の線路が姿を現したニュースが掲載されている。

https://www.seoul.co.kr/news/newsView.php?id=20230307010013

 ソウル市と文化財庁は、2022年9月から光化門歴史広場造成事業のため、埋蔵文化財の発掘調査を進めているという。

 

  光化門の前

 朝鮮王朝末期のソウルの光化門の前には、議政府や吏曹(人事)・戸曹(戸籍財政)・礼曹(外交)・兵曹(軍事)・刑 (司法)・工曹(土木営造)の六曹など、主要な官庁が立ち並んでいた。

 

首善全圖(1864)

 

 1910年の日本によって大韓帝国が併合されると、日本の歩兵隊や憲兵隊が駐屯し、逓信局や京畿道庁がここに置かれた。

京城府明細新地圖(1914)

 

 1918年修正の京城の地図には、鍾路チョンノから分岐した路面電車の線路が光化門の前まで描かれている。

 

 この路線は、光化門と景福宮キョンボックン勤政殿クンジョンジョンの間に朝鮮総督府庁舎を建設するということで、昌信洞チャンシンドンの採石場から貨物電車で石材を運ぶために路線延長されたもの。昌信洞側でも採石場まで路線延長されている。今、夜景が綺麗なスポットとされて洒落たカフェができているあの昌信洞チャンシンドンである。

 

 その後、路面電車は景福宮の西北側の孝子洞ヒョジャドンまで延長され、南側は南大門ナムデムンまで延長されて既存の路線に繋げられた。

 

 下の写真の右側には、運搬されてきた石材が置かれており、左側の孝子洞までの線路上を走る電車が写っている。

 

 

 光化門の撤去移設工事が始まるのは1926年7月からなので、この写真はそれ以前の撮影であろう。1929年8月に、総督府前・安国洞アングットン間の路線が開通して、光化門があった場所の前でY字に分岐することになった。

 

 日本の植民地支配が終わった1945年には下のような路面電車の路線が光化門の周りに敷設されていた。

 

京城電気沿線御案内 京城電気株式会社(1929)

 

1万分の1地形図(1936)

 

  解放後の路面電車

 日本による植民地支配が終わって米軍政庁の統治が始まり、引き揚げで日本人職員が去った中でも電車は運行されていた。

 

Time LifeのJohn Florea撮影(1947年5月) 旧総督府前を走る電車が写っている
 

 大韓民国が建国されてからも、そして朝鮮戦争中から休戦後も、ソウルの路面電車は、重要な交通手段として利用されていた。

 

 

 1960年4月の李承晩大統領の不正選挙に抗議するデモ隊は、光化門から孝子洞に向かう線路にそって大統領官邸の景武台に迫った。孝子洞の電車の終点で警察とデモ隊の激しい攻防戦が展開された。発砲命令が出され、多数の死傷者が出た。李承晩大統領は退陣を余儀なくされ、ハワイへと脱出した。

 

 1966年、金玄玉キムヒョノクソウル市長のもとで、光化門から南大門方面に向かう世宗路セジョンノと鍾路の交差点である光化門交差点で地下道建設計画が持ち上がった。地上から開削するこの工事のため、孝子洞ー南大門、鍾路ー西大門ソデムンの2路線の路面電車は運休することになった。その後路線の廃止が決定し、線路と枕木の撤去と舗装工事が行われることになった。

 

 

 ところが、5月になって、電車の従業員の受け入れや待遇問題、それに電車の代わりのバスの運行問題などで、ソウル市側と政府側の調整が難航し、線路の撤去工事は保留になった。

 

 

 その後、路面電車の線路の撤去作業は始まったが、10月の初めには、一部の線路を観光用として残してはどうかという話も報じられている(『京郷新聞』1966年10月6日)。徐々に撤去工事が始まっていたようだ。

 

  ジョンソン米大統領の訪韓

 この頃、ベトナム戦争に積極介入を始めていたアメリカのジョンソン大統領の韓国訪問が現実味をおびてきていた。韓国は1964年9月に、医療部隊とテコンドの指導者を送り込んだのを皮切りに、ベトナム戦争に多くの戦闘部隊を送り込んだ。

 

 ジョンソン訪韓日程は11月1日から3日になった。朴正煕パクチョンヒ政権は、大々的な歓迎行事を準備した。そのハイライトの一つが、ソウル市庁シチョン前の歓迎行事から、中央庁チュアンチョン(旧朝鮮総督府)までの世宗路パレードだった。

 

ハイライトは、中央庁前のパレード
市庁前の市民歓迎大会が終わった後、市庁前から中央庁正門まではブロードウェイ式の紙吹雪パレードが行われる。これはこの日の歓迎のハイライトになる。
陸・海・空三軍の軍楽隊を先頭に、貴賓車両だけが参加するこのパレードは わずか1キロの距離を25分かけて行うもので、数十万の紙吹雪に風船、そして鳩が舞う。中央庁の正門では、300人の女学生がローソクをかざして迎える。

 このため、中央庁前で進められていた枕木と線路の撤去作業は中断されて、急遽線路や枕木を残したまま舗装されることになった。

 

 今回の発掘作業を報じたソウル新聞の写真で、Y字側の接続部分を拡大すると、安国洞に向かう線路は枕木しか残っていないし、孝子洞に向かう側でも枕木しか残ってない部分と線路まで残っている部分がはっきりわかる。

 

 「大韓ニュース第595号」には、この時のジョンソン大統領歓迎パレードの様子が残っている(音声なし。世宗路のパレードは6分2秒から)。

 

 この動画の6分31秒から現在のアメリカ大使館の建物が背後に写っている。この当時は、この建物はUSOM(米韓経済協力委員会)が使っており、アメリカ大使館は旧三井物産京城支店(後のアメリカ文化院、現 クレベンミュージアム 그레뱅뮤지엄)にあった。

 

 そうした経緯があってのことであろう。ジョンソン米大統領の帰国直後の韓国の国会の監査委員会で、この埋め戻しを野党が「1,000万ウォン相当の線路と枕木を死蔵させた」と問題視している。

 

 


 

 今回、2022年からの発掘調査でひょっこり顔を出した路面電車の線路。この線路は、近代の日本による侵略の歴史を物語るだけではなく、現代韓国の歴史を物語る貴重な証言者なのだ。

 

(2023年3月15日14:15 総督府前ー安国洞間の電車線路の記述を修正しました)

 「韓国の家ハングゲジップ」は、韓国の伝統料理体験や伝統芸能公演の観覧の場所として、また伝統的な結婚式の会場としても使われている施設。

 ツアー観光が全盛期だった80年代〜90年代には、ここで韓式の夕食を食べて、劇場でプチェチュム(扇の舞)や プックチュム(太鼓の舞)などの舞台を観るというのが定番のコースの一つだった。

『世界を食べる旅 韓国』講談社(1985)

 

 この場所は、朝鮮王朝の世祖セジョの時に端宗タンジョンの復位を企てたとして処刑された「死六臣サユクシン」の一人朴彭年パクペンニョンの屋敷があったところだとされ、プレートが入り口の門の横に立てられている。

 

 

 ここでは、今日の「韓国の家」ができるまでの近現代史上の変遷を辿ってみたい。

 

  政務総監官邸

 現在の筆洞から芸場洞イェジャンドン一帯は、日本による朝鮮侵略の中枢機関が置かれていた場所だった。

 

 1910年の韓国併合時の朝鮮総督府庁舎は、倭城台に建てられた統監府庁舎を引き継いだもので、1926年に景福宮前に総督府庁舎を新築・移転するまでここにあった。その東側には朝鮮総督の官邸があったが、1939年に景福宮裏の景武台(現 青瓦台チョンワデ)に移転した。その東側、現在韓屋マウルハノンマウルになっている場所が日本軍憲兵隊の司令部だった。そのすぐ北側に隣接してあったのが朝鮮総督府のナンバー2の政務総監の官邸。この政務総監官邸の跡地が、現在の「韓国の家」がある場所である。

 

朝鮮総督府『京城市街図』1925年発行より

 

 政務総監官邸は、1910年に建設され始め、1911年に増築された和洋折衷の建物であった。

 

政務総監官邸平面図(日帝時期建築図面コンテンツより)
上掲の『京城市街図』に合わせるため180°回転させてある

1911年の増築部分設計図(同上)

 

  解放後の用途

 1945年8月15日正午、天皇によるポツダム宣言受諾のラジオ放送が流れた。その4時間前、政務総監遠藤柳作は呂運亨ヨウニョンをこの官邸に招いた。遠藤柳作は、正午に日本の戦争敗北が公表されることを呂運亨に伝え、その後の朝鮮における治安維持に当たるよう要請した。呂運亨は、西大門刑務所の独立運動家の即時釈放などの条件で受諾し、建国準備委員会を立ち上げた。

 

 日本の敗戦を最初に公式に伝えられた朝鮮人は呂運亨で、その場所は今の「韓国の家」のところだった。

 

 

 だが、9月6日に京城に入って来たアメリカ軍は、呂運亨らによる「朝鮮人民共和国」建国を認めず、軍政を敷いた。12月に開かれた米・英・ソによる三カ国モスクワ外相会議では、アメリカとソ連による米ソ共同委員会の設置と、3ヵ年にわたる朝鮮の信託統治が決定された。米軍政庁は、旧政務総監官邸を接収して、米ソ共同委員会のアメリカ側代表ブラウン少将(Albert E. Brown)の官邸とした。

 

 1947年5月に、第2次米ソ共同委員会がソウルで開催されることになると、ソウルに到着したソ連代表団の歓迎レセプションが、5月24日にブラウン少将の官邸で開かれた。

 

 

 この場には、南朝鮮側から李承晩イスンマン金九キムグ金性洙キムソンス安在鴻アンジェホ・呂運亨・張徳秀チャンドクス元世勲ウォンセフン許憲ホホン呂運弘ヨウンホン金順愛キムスンエなど歴史書に必ず登場する左右両勢力の有力者が集った。

 

 しかしこの米ソ共同委員会は9月に決裂した。これによって朝鮮は分断国家への道を歩くことになった。

 

 旧政務総監官邸の建物は、その後は在韓米陸軍副司令官でもあったブラウンの官邸として使われ、ブラウンが1948年3月に離任すると、その後は米軍政庁の訪問者招待所として使用されていた。

 

 1948年8月15日に北緯38度線の南側に大韓民国が建国されると、米軍政庁の施設は順次韓国側に引き継がれることになっていたが、それが進まないうちに朝鮮戦争が勃発した。

 

  迎賓館から「韓国の家」へ

 開戦直後に朝鮮人民軍に占領されたソウルは、仁川上陸作戦でアメリカ軍が奪還した。しかし、1951年1月、再びソウルは朝鮮人民軍に占領され、3月になって韓国側が再奪還した。その後、アメリカ第8軍の司令官となったフリート中将(James Alward Van Fleet)が旧政務総監官邸を第8軍司令官官邸として使用した。

 

 「北進統一」を望んでいた李承晩は休戦に強く反対していたが、1953年7月27日に国連軍と朝鮮人民軍・中国義勇軍の三者が休戦協定に署名すると、韓国も条件付きながら休戦遵守を表明した。8月、李承晩は臨時首都としていた釜山プサンからソウルに戻った。

 

 1953年8月4日にアメリカのダレス国務長官の訪韓を報じる記事では、宿所は「筆洞ピルドンの迎賓館」となっている(『京郷新聞』8月4日、『朝鮮日報』8月5日)。その半年前の3月に、旧政務総監官邸北側の旧日本軍憲兵隊司令部の場所に、韓国軍憲兵隊総司令部が設置されていた(『東亜日報』1954年3月23日付「憲兵総司令部創設1周年記念式」)。フリート第8軍司令官は1953年2月11日に離任している。多分、この時期に、筆洞の旧日本関係施設がアメリカ軍から韓国側に引き渡され、第8軍司令官官邸は、大韓民国の迎賓館として利用されることになったのであろう。

 

 しかし、それから4年ほどで、この迎賓館は在韓外国人に韓国の文化や風俗などを紹介する「韓国の家」に改修された。「韓国の家」の開館式は、1957年6月24日に行われた。

 

公報室は、6月24日、李起鵬イギボン民議院議長、各部の長官、駐韓各国の大使・公使をはじめとする内外の貴賓と文化界の人々が参席する中で「韓国の家」の開館式を盛大に行いました。ソウル市内の筆洞に位置する「韓国の家(Korea House)」は、韓国に駐在する外国人との交流をはかり、韓国の文化や風俗に接してもらい、韓国への理解を一層深めてもらおうという外国人のための施設です。公報室が運営するこの「韓国の家」は、今後広く外国人に開放され、韓国理解をすすめて、ソウルをはじめとする観光旅行も案内することになります。

 当時、まだ外国人観光客がほとんどいない中で、「韓国への理解を一層深めてもらおうという外国人」とは、主に、アメリカ軍の将兵、それにトルコ軍やタイ軍の将兵、各国の連絡将校団などであった。

 

 

22日、休暇で前線からソウルにやって来た外国軍の軍人が街をめぐっていて見つけたのが"韓国の家"だった。 7月に韓国戦線に配置されたというトルコ軍のチェペン少尉、アッケル少尉、ケスキン大尉は広々とした板の間に花のござを敷いて座り、ゲームに熱中、フラッシュに気付くと「風俗が似ていて、このようにあぐらをかいて座っています」と語った。
昨年6月にオープンしたこの「韓国の家」(コリアハウス)は、これまで約16,000人外国軍の軍人が訪れたという。日本の植民地時代には、総督府の政務総監の官邸で、解放後はアメリカの貴賓館、朝鮮戦争時は米陸軍第8軍司令官フォン・フリート将軍の宿舎として使われた。ここには、寂しさを紛らわすために訪れる外国軍人のための卓球台・ビリヤード・図書室・音楽室・将棋囲碁等が準備されていると館長の金元鎬氏は説明した。

 こうして「韓国の家」はスタートしたが、それによって新たに迎賓館が必要となった。李承晩政権は、1957年に迎賓館新築予算案を民議院に提出した。

 

 

 民議院の予算委員会は、この予算案をめぐって紛糾した。政権側は、これまで迎賓館として利用してきた建物は「倭色が濃厚」で「随行員をすべて宿泊させることができない」として新築の必要性を強調した。

 

 「韓国の家」の正門の写真では、設計図の門とは違って、韓国風の建物に建て替わっていた。しかし、上掲の動画に写っている建物は、和洋折衷の政務総監官邸の建物のままだった。

 

 

 そのため、新しい伝統韓屋スタイルを加味した迎賓館を厚岩洞フアムドンに建てる予算案が立てられた。

 

 

 しかし、新築のための予算は民議院で承認されなかった。その後、迎賓館の建設予定地は、厚岩洞から奨忠壇チャンチュンダンの旧博文寺の跡地が候補地になったが、結局1967年まで迎賓館は完成しないままになった。
 ※迎賓館については博文寺跡の迎賓館を参照

 

  韓国の家の改修工事

 1978年、文化公報部は、「韓国の家」の建物を韓国の伝統家屋様式のものに改修する工事を始めた。全面建て替えて「国楽堂クガクダン」にする案も出されたが、資金不足から旧政務総監官邸をリノベーションする改修工事となった。

 

 

大韓ニュース 第1322号(1981年3月5日製作)

 

 上述したように、旧政務総監官邸に隣接していた旧日本軍憲兵司令部は、1953年に韓国軍憲兵総司令部になった。その後、朴正煕のクーデター後の1961年に首都防衛司令部(首防司スバンサ)に改編された。

 

 1991年に首都防衛司令部のソウル市南部への移転が決まり、その跡地利用として南山ナムサンゴル韓屋マウルの開設が決まり、伝統的な両班屋敷の移設工事などが行われた。南山ゴル韓屋マウルは1998年4月18日にオープンした。

 

 

 この韓屋マウルができたことで、この一帯の雰囲気はガラッと一変した。館内の補修やリモデリングが行われ、宮中料理体験や宮廷料理活用プログラムなどで、外国人ばかりではなく韓国人の伝統文化への理解を深める場所ともなってきている。

 


 

 私が最後に「韓国の家」に行ったのは1999年3月だったと思う。日本の大学生訪韓団と一緒に韓食ビュッフェで食事をして、韓国の伝統芸能の舞台を観た。その後は行く機会もなかったのだが、YouTubeのりうめいさんの動画を見て最近の様子がよくわかったので、ご参考までに。

 

 昨年5月10日、汝矣島ヨイドの国会議事堂前で尹錫悦ユンソギョル大統領の就任式が行われた。その夜、大統領就任式に出席した外国からの賓客を招いての晩餐会がホテル新羅シルラの迎賓館で催された。

 

 それまでの就任祝賀晩餐会は、青瓦台チョンワデの迎賓館で催されていた。しかし、大統領府を龍山ヨンサンに移すと公約していた尹錫悦候補は、大統領就任晩餐会の会場を青瓦台以外の場所に求め、ホテル新羅の迎賓館を会場にした。青瓦台は国民に開放したので、観覧希望者の青瓦台入場を規制してまで晩餐会をやるわけにはいかない…というのが新大統領側の説明だった。
 

2022年5月10日  MBCの迎賓館前からの中継場面

 

 このホテル新羅の迎賓館の施設は、もともとは大韓民国の迎賓館だった。外国からの賓客や随員が宿泊でき、中規模の答礼宴会場も備えた施設である。さらに歴史を植民地時代まで遡れば、ここは博文寺が建てられていた場所だった。


 ここでは、やや複雑な「迎賓館」の来歴についてまとめてみたい。

 

  博文寺の建立

 1929年に朝鮮総督府の政務総監となった児玉秀雄は、伊藤博文を追悼する寺院の造営計画を推し進めた。1932年10月26日、京城府が開設した奨忠壇公園の一部だったここに博文寺が完成し、入仏式が行われた。

 

 

 曹洞宗春畝山博文寺と称し、本堂は鉄筋コンクリート2階建、正門は慶熙宮キョンヒグン興化門フンファムンが移築された。

 

 

 1939年10月、上海の朝鮮人実業家視察団の一員として安俊生アンジュンセンが朝鮮を訪れた。安俊生は安重根アンジュングンの次男で、京城で博文寺に参拝し、伊藤博文の息子伊藤文吉と会って「和解」したと大々的に報じられたこともあった。

 

 

  解放直後の博文寺

 日本の敗戦で植民地支配が破綻すると、内地人関連の資産を売却、譲渡、管理委任などで朝鮮側が引き継ぎ、「敵産」としてアメリカ軍政庁に没収されるのを回避しようとする動きが起きた。

 日本仏教系の寺院についても、京城帝大の仏教学教授佐藤泰舜らが中心となって、曹洞宗大本山別院(曹渓寺)、博文寺、高野山別院、浄土宗別院、西本願寺、東本願寺などを朝鮮人仏教関係者へ引き継ぐ道を模索した。朝鮮仏教界では、解放の直後から、新興の僧侶グループによる既存体制の刷新の動きが始まり、博文寺は仏教系の惠化専門学校(のちの東国大学校)の学生たちが寮として自主管理を始めていた。ただ、米軍政庁は学生の自主管理を認めず、学生たちは退去した。

 そうした中で、佐藤泰舜らが管理委任をする相手として選択したのは、刷新の動きに伴い10月8日に奉恩寺ポンウンサの住持を辞任していた洪泰旭ホンテウクであった。洪泰旭は、解放前は創氏改名した德山道平として日本系仏教人とも交友関係があり、8月末には佐藤泰舜に会って曹渓寺や博文寺の引き継ぎを申し出ていた。11月15日に佐藤泰舜と洪泰旭の間で管理委任の書類を作成し、20日に軍政庁に提出した(森田芳夫『朝鮮終戦の記録 資料編第2巻』)。

 

 ところが、11月23日未明に博文寺は火災で全焼した。

 

 

 『朝鮮日報』のこの記事によれば、博文寺の火災と同時刻に、旧国民総力朝鮮連盟の建物、京城駅裏手のマルボシ(朝鮮運送)の倉庫でも火災が発生している。記事では、金九の帰国と関連づけて植民地支配下の日本の国策関連施設への連続放火の可能性を匂わせている。

 この火災については、当時まだ発行され続けられていた『京城日報』でも報じられていた。しかし、11月末に京城を離れた佐藤泰舜の記録(1946年1月執筆)にはこの11月23日の博文寺の火災についての言及はない。

 

 

 さらに、12月30日に洪泰旭が複数の男たちに誘い出されて行方不明になり、1月8日に遺体で発見された。警察発表では、奉恩寺の元住持姜性仁カンソンインが日本系寺院を引き継いだ洪泰旭から朝鮮仏教界再編の主導権を奪おうとして殺害させた事件だったとされている。

 

 

 こうしたことで、日本系仏教施設の朝鮮側への引き継ぎは頓挫し、博文寺が朝鮮仏教系の寺院として引き継がれることにはならなかったようだ。

 

  国立公園化の動き

 同じ頃に、「奨忠壇チャンチュンダン再建期成会」が組織され、伊藤博文を暗殺した安重根の銅像を博文寺の跡地に建てようという運動が始められた。

 

 

 その後、「先烈奉安祠奉建発起会」が奨忠壇の国立記念公園化案を提示した。米軍政庁は米軍のベル大佐、延禧ヨンヒ大学校のアンダーウッド博士、仏教中央総務委員の金法麟キムボムニンで委員会を作り、奨忠壇帰属財産管理案を検討するよう求めた。委員会は、「先烈奉安祠奉建発起会」の奨忠壇の国立公園化案を支持したが、米軍政庁は決定を回避して、1947年2月末に、金奎植キムギュシクをトップに据えた南朝鮮過渡立法議院に検討を委任した。

 

 

 結局、博文寺の跡地を奨忠壇公園に属する官有地とすることは決定されたが、博文寺一帯の用途決定は先送りされた。安重根の銅像の建立も保留された。

 

 その後、1948年3月、博文寺跡地は、韓国軍の軍楽学校の敷地となった。

 

 

 こうして、伊藤博文を狙撃した安重根の銅像を伊藤博文が祀られた博文寺跡に建てる案は実現しないまま、1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発した。

 

  朝鮮戦争後の動き

 朝鮮戦争の停戦後、「大韓愛国先烈記念事業協会」が奨忠壇公園に安重根の銅像を建てることを表明した。

 

 6月には奨忠壇公園内で基礎工事まで始めたが、その後資金難で工事が中断した。  

 

 翌1957年、今度は「安重根義士記念事業協会」が銅像建立計画に名乗りをあげた。

 


 関係当局で銅像の設置場所について協議が行われ、8月になって、安重根の銅像は奨忠壇公園ではなく、ソウル駅前広場に設置するという決定がなされた。

 

 

 ところが、ソウル駅前の設置場所も1958年の年初に取り消されてしまった。「大韓愛国先烈記念事業協会」と「安重根義士記念事業協会」が互いに譲らず、文教部が仲介に入ったが調整に失敗したためだとされた。「安重根義士記念事業協会」側は、当局から「伊藤博文の侵略の総本山だった倭城台趾付近が適切ではないか」との示唆があったと明らかにしている。とはいっても、旧倭城台(現在の芸場洞イェジャンドン)付近には適当な空間はなく、結局、崇義スンウィ女子大の裏手の斜面というなんとも寂しい場所に1959年4月に安重根の銅像が建てられることになった。

 

 博文寺の跡地に安重根の銅像を建てる案は、何度か出されたが、結局実現しなかった。当時の朝鮮の人々にとって、博文寺は伊藤博文ゆかりの寺であると同時に、解放の数年前に安重根の次男安俊生が参拝した寺でもあった。博文寺は、その舞台とされた場所だった。 安俊生の博文寺参拝や「和解」が安重根の銅像の設置場所に影響したとする資料は今のところ見当たらない。しかし、大韓臨時政府主席の金九キムグは、帰国途上の上海で中国官憲に安俊生の処罰を依頼している。博文寺の跡地を銅像の設置場所とすることに違和感を感じる人々が、国内にも相当いたであろうことは想像に難くない。

 

  奨忠壇林野の売却問題

 時代はやや下るが、1964年にそれまでの帰属財産のいい加減な払い下げの実態が国会で取り上げられた。その際、財務部が示した乱脈ぶりの実例の中に奨忠壇公園林野の払い下げ問題が挙げられている。

 

 

 この新聞記事で取り上げられている場所を、1968年の「地番入最新ソウル特別市街図」で比定すると、中央公務員訓練院→公務員教育院、傷痍勇士会館→在郷軍人会、反共センター→アジア反共連盟自由センター となる。犬訓練センターは見当たらない。旧博文寺のところがそうであった可能性もなくはないのだが…。

 

 

 注目されるのは後段の部分である。

57年7月15日に既に売却されたものを、後になって迎賓館を建設しようという李博士の指示で、その土地を再び国有化し、訴訟になったが政府側が勝訴した。

 この記事だけでは、1957年の売却先や、奨忠壇公園内のどの部分なのか、いつ国有地に戻されたのかなどはわからない。ただ、これに関連するのではないかと思われる「奨忠壇林野事件」が、翌1958年4月に報じられている。

 

管財職員3名に令状
市有地払い下げで収賄容疑で申請

ソウル市警ではソウル市管財局処分課長金徳厚キムドクフほか3名の職員を業務上背任・収賄容疑でソウル地裁に拘束令状を申請したという。彼らは奨忠壇公園内の私有地31,100坪、日本統治時代の博文寺(日本人の所有)を帰属財産とみなし、国民大学に2,200ウォンで払い下げた。彼らは、払い下げ時に16〜7着の背広と現金を受け取ったとされるが、博文寺の土地は解放後から市有地として市で管理してきたものとされている。

 すなわち、「奨忠壇林野事件」とは、博文寺跡地をソウル市の職員が賄賂をもらって不当な安値で国民大学クンミンデハックに売却したというもの。1964年4月の『東亜日報』の記事内容を合わせ考えると、1957年7月15日に国民大学に売却された後、李承晩イスンマン大統領が博文寺跡地に迎賓館を建てることを指示した。12月末の予算審議では厚岩洞が予定地とされていたので、指示は1958年になって下されたのだろう。そのために、「博文寺跡地は払い下げの対象とはならない市有地で、ソウル市の処分課長らが賄賂をもらってそれを売却した」ということにして、国民大学への売却を取り消して国有地化した、そんな構図が見えてくる。

 

 国民大学は、申翼熙シンイクヒが解放後に設立した大学である。申翼熙は、1956年の大統領選挙で李承晩の最大の対抗馬として立候補したが、選挙運動中に急死した。死後であったにもかかわらず、大統領選挙では185万票あまりを獲得した。いわば李承晩の独裁を脅かす政敵であった。そうした因縁も当然この事件には関係していたのであろう。

 

  迎賓館の建設

 李承晩政権の3期目の途中までは、朝鮮総督府の政務総監の官邸だった建物を迎賓館として使っていた。「筆洞ピルドンの迎賓館」というのがこれである。現在、韓屋マウルハノンマウルへ行く道の左手にある「韓国の家(コリアハウス)」の場所にあった。1957年にここを「韓国の家(コリアハウス)」に改修して、朝鮮戦争後も駐留していたトルコやフィリピンなどの外国軍や在韓アメリカ軍の将兵に韓国を紹介する施設とした。

 

 そのため新たな迎賓館が必要だとして、この年の秋に多額の迎賓館新築予算を計上した。だが、議会の財経委員会ではこれめぐって紛糾した。

 

 

 国務院は、迎賓館の建設場所は雰囲気のよいところということで厚岩洞を予定したとしていた。

 

 

 ところが予算案が通らなかったため、新たな建設場所として旧博文寺跡が李承晩から出されたのかもしれない。あるいは、国民大学問題が発端となって迎賓館をここに建てる案が浮上したのかもしれない。

 

 結局、李承晩政権のもとでは、迎賓館の新築は実現しないまま1960年に政権が崩壊した。

 

 朴正煕政権時代になっても、迎賓館の必要性については再三指摘されながらも、国家財政の逼迫などで多額の建設費のかかる迎賓館建設は実現しなかった。

 

 1966年になって、やっと迎賓館の建設が実現することになり、建設工事の競争入札が行われた。ところが、入札不落が何度も続き、結局6月になって建設工事が始まった。そして、翌年2月28日に落成式が行われた。

 

 

 この迎賓館は、平面図を見ると、外国からの賓客とその随行員のための宿泊施設としての機能がメインで、規模の大きな晩餐会や答礼宴向きにはできていない。

 

 最初の利用者は、落成の翌月に韓国を公式訪問をした西ドイツのハインリヒ・リュプケ大統領であった。

 

 

 施設の運営は、国際観光公社に委ねられたが、宿泊客は国外からの賓客に限られるため、毎年多額の赤字を出すことになった。

 

  ホテル新羅の建設

 1970年に、朴正煕大統領がロッテの辛格浩シンキョッホ(重光武雄)を呼んで、国際観光公社が運営していて業績の上がらない半島バンドホテルにかわる国際級ホテルの建設を命じたとされる。同じく国際観光公社が運営していて多額の赤字を出している迎賓館についても、サムソンに経営の改善策を講じるように命じた。1973年7月に、サムソングループが迎賓館の敷地に「ホテル・インペアリアル」が建設されることが報じられた。国賓級の賓客も受け入れ可能な最高級ホテルが想定されていたのであろう。

 

 ホテルの名称は年末には「ホテル新羅」に変わっていた。朴正煕は慶州の観光開発を熱心に進めており、ちょうどこのホテル建設が発表された時期に、古墳から金冠が発掘されて大きな話題になっていた。それもあって「新羅」が冠せられたと思われる。

 

 1979年3月、ホテル新羅がオープンした。迎賓館はそのままホテル新羅の施設の一部となった。博文寺の設計段階での平面図と重ね合わせてみると、博文寺の本殿の真上に迎賓館が建てられ、ホテル新羅の建物はその西側に建てられている。

 

 

 博文寺の石段は、2019年まではホテル新羅の正面ゲート(興化門のレプリカ)を入ってすぐの駐車場奥にそのまま残っていた。この階段を上がっていったところが、迎賓館の玄関だった。しかし、2020年春からの工事で階段は撤去され、今はない。

 

 

  青瓦台の迎賓館

 ホテル新羅オープン前年の1978年末に、青瓦台に迎賓館が完成した。21本の石柱で支えられた2階建構造で、完成当時の新聞で「ルイ14世様式と韓国様式の折衷」と紹介された建物である。この年の12月27日に、維新憲法下で第9代大統領に就任した朴正煕が、完成したばかりの青瓦台迎賓館で就任披露パーティーを行なったのが最初の行事だった。

 

 


 

 昨年5月の尹錫悦大統領就任以降、公式行事では青瓦台の施設は使われなかった。自分の就任披露パーティーは、ホテル新羅の迎賓館で開いたし、韓国を公式訪問で訪れたバイデン米大統領との夕食会は国立中央博物館で行われた。国防部のコンベンションセンターや戦争記念館が公式行事で使われたこともあった。

 しかし、昨年12月5日に国賓として訪韓したベトナム国家主席グエン・スアン・フックの晩餐会は青瓦台迎賓館で開かれた。それ以降、青瓦台の利用が増加しつつあるという。

 

 韓国の迎賓館は、近現代史の中で想定以上に多くの紆余曲折を経てきていた。今後、韓国はどのように先進国家としての格式を発信しようとするのか、興味深いところである。