「韓国の家」は、韓国の伝統料理体験や伝統芸能公演の観覧の場所として、また伝統的な結婚式の会場としても使われている施設。
ツアー観光が全盛期だった80年代〜90年代には、ここで韓式の夕食を食べて、劇場でプチェチュム(扇の舞)や プックチュム(太鼓の舞)などの舞台を観るというのが定番のコースの一つだった。
『世界を食べる旅 韓国』講談社(1985)
この場所は、朝鮮王朝の世祖の時に端宗の復位を企てたとして処刑された「死六臣」の一人朴彭年の屋敷があったところだとされ、プレートが入り口の門の横に立てられている。
ここでは、今日の「韓国の家」ができるまでの近現代史上の変遷を辿ってみたい。
政務総監官邸
現在の筆洞から芸場洞一帯は、日本による朝鮮侵略の中枢機関が置かれていた場所だった。
1910年の韓国併合時の朝鮮総督府庁舎は、倭城台に建てられた統監府庁舎を引き継いだもので、1926年に景福宮前に総督府庁舎を新築・移転するまでここにあった。その東側には朝鮮総督の官邸があったが、1939年に景福宮裏の景武台(現 青瓦台)に移転した。その東側、現在韓屋マウルになっている場所が日本軍憲兵隊の司令部だった。そのすぐ北側に隣接してあったのが朝鮮総督府のナンバー2の政務総監の官邸。この政務総監官邸の跡地が、現在の「韓国の家」がある場所である。
朝鮮総督府『京城市街図』1925年発行より
政務総監官邸は、1910年に建設され始め、1911年に増築された和洋折衷の建物であった。
政務総監官邸平面図(日帝時期建築図面コンテンツより)
上掲の『京城市街図』に合わせるため180°回転させてある
1911年の増築部分設計図(同上)
解放後の用途
1945年8月15日正午、天皇によるポツダム宣言受諾のラジオ放送が流れた。その4時間前、政務総監遠藤柳作は呂運亨をこの官邸に招いた。遠藤柳作は、正午に日本の戦争敗北が公表されることを呂運亨に伝え、その後の朝鮮における治安維持に当たるよう要請した。呂運亨は、西大門刑務所の独立運動家の即時釈放などの条件で受諾し、建国準備委員会を立ち上げた。
日本の敗戦を最初に公式に伝えられた朝鮮人は呂運亨で、その場所は今の「韓国の家」のところだった。
だが、9月6日に京城に入って来たアメリカ軍は、呂運亨らによる「朝鮮人民共和国」建国を認めず、軍政を敷いた。12月に開かれた米・英・ソによる三カ国モスクワ外相会議では、アメリカとソ連による米ソ共同委員会の設置と、3ヵ年にわたる朝鮮の信託統治が決定された。米軍政庁は、旧政務総監官邸を接収して、米ソ共同委員会のアメリカ側代表ブラウン少将(Albert E. Brown)の官邸とした。
1947年5月に、第2次米ソ共同委員会がソウルで開催されることになると、ソウルに到着したソ連代表団の歓迎レセプションが、5月24日にブラウン少将の官邸で開かれた。
この場には、南朝鮮側から李承晩・金九・金性洙・安在鴻・呂運亨・張徳秀・元世勲・許憲・呂運弘・金順愛など歴史書に必ず登場する左右両勢力の有力者が集った。
しかしこの米ソ共同委員会は9月に決裂した。これによって朝鮮は分断国家への道を歩くことになった。
旧政務総監官邸の建物は、その後は在韓米陸軍副司令官でもあったブラウンの官邸として使われ、ブラウンが1948年3月に離任すると、その後は米軍政庁の訪問者招待所として使用されていた。
1948年8月15日に北緯38度線の南側に大韓民国が建国されると、米軍政庁の施設は順次韓国側に引き継がれることになっていたが、それが進まないうちに朝鮮戦争が勃発した。
迎賓館から「韓国の家」へ
開戦直後に朝鮮人民軍に占領されたソウルは、仁川上陸作戦でアメリカ軍が奪還した。しかし、1951年1月、再びソウルは朝鮮人民軍に占領され、3月になって韓国側が再奪還した。その後、アメリカ第8軍の司令官となったフリート中将(James Alward Van Fleet)が旧政務総監官邸を第8軍司令官官邸として使用した。
「北進統一」を望んでいた李承晩は休戦に強く反対していたが、1953年7月27日に国連軍と朝鮮人民軍・中国義勇軍の三者が休戦協定に署名すると、韓国も条件付きながら休戦遵守を表明した。8月、李承晩は臨時首都としていた釜山からソウルに戻った。
1953年8月4日にアメリカのダレス国務長官の訪韓を報じる記事では、宿所は「筆洞の迎賓館」となっている(『京郷新聞』8月4日、『朝鮮日報』8月5日)。その半年前の3月に、旧政務総監官邸北側の旧日本軍憲兵隊司令部の場所に、韓国軍憲兵隊総司令部が設置されていた(『東亜日報』1954年3月23日付「憲兵総司令部創設1周年記念式」)。フリート第8軍司令官は1953年2月11日に離任している。多分、この時期に、筆洞の旧日本関係施設がアメリカ軍から韓国側に引き渡され、第8軍司令官官邸は、大韓民国の迎賓館として利用されることになったのであろう。
しかし、それから4年ほどで、この迎賓館は在韓外国人に韓国の文化や風俗などを紹介する「韓国の家」に改修された。「韓国の家」の開館式は、1957年6月24日に行われた。
公報室は、6月24日、李起鵬民議院議長、各部の長官、駐韓各国の大使・公使をはじめとする内外の貴賓と文化界の人々が参席する中で「韓国の家」の開館式を盛大に行いました。ソウル市内の筆洞に位置する「韓国の家(Korea House)」は、韓国に駐在する外国人との交流をはかり、韓国の文化や風俗に接してもらい、韓国への理解を一層深めてもらおうという外国人のための施設です。公報室が運営するこの「韓国の家」は、今後広く外国人に開放され、韓国理解をすすめて、ソウルをはじめとする観光旅行も案内することになります。
当時、まだ外国人観光客がほとんどいない中で、「韓国への理解を一層深めてもらおうという外国人」とは、主に、アメリカ軍の将兵、それにトルコ軍やタイ軍の将兵、各国の連絡将校団などであった。
22日、休暇で前線からソウルにやって来た外国軍の軍人が街をめぐっていて見つけたのが"韓国の家"だった。 7月に韓国戦線に配置されたというトルコ軍のチェペン少尉、アッケル少尉、ケスキン大尉は広々とした板の間に花のござを敷いて座り、ゲームに熱中、フラッシュに気付くと「風俗が似ていて、このようにあぐらをかいて座っています」と語った。
昨年6月にオープンしたこの「韓国の家」(コリアハウス)は、これまで約16,000人外国軍の軍人が訪れたという。日本の植民地時代には、総督府の政務総監の官邸で、解放後はアメリカの貴賓館、朝鮮戦争時は米陸軍第8軍司令官フォン・フリート将軍の宿舎として使われた。ここには、寂しさを紛らわすために訪れる外国軍人のための卓球台・ビリヤード・図書室・音楽室・将棋囲碁等が準備されていると館長の金元鎬氏は説明した。
こうして「韓国の家」はスタートしたが、それによって新たに迎賓館が必要となった。李承晩政権は、1957年に迎賓館新築予算案を民議院に提出した。
民議院の予算委員会は、この予算案をめぐって紛糾した。政権側は、これまで迎賓館として利用してきた建物は「倭色が濃厚」で「随行員をすべて宿泊させることができない」として新築の必要性を強調した。
「韓国の家」の正門の写真では、設計図の門とは違って、韓国風の建物に建て替わっていた。しかし、上掲の動画に写っている建物は、和洋折衷の政務総監官邸の建物のままだった。
そのため、新しい伝統韓屋スタイルを加味した迎賓館を厚岩洞に建てる予算案が立てられた。
しかし、新築のための予算は民議院で承認されなかった。その後、迎賓館の建設予定地は、厚岩洞から奨忠壇の旧博文寺の跡地が候補地になったが、結局1967年まで迎賓館は完成しないままになった。
※迎賓館については博文寺跡の迎賓館を参照
韓国の家の改修工事
1978年、文化公報部は、「韓国の家」の建物を韓国の伝統家屋様式のものに改修する工事を始めた。全面建て替えて「国楽堂」にする案も出されたが、資金不足から旧政務総監官邸をリノベーションする改修工事となった。
大韓ニュース 第1322号(1981年3月5日製作)
上述したように、旧政務総監官邸に隣接していた旧日本軍憲兵司令部は、1953年に韓国軍憲兵総司令部になった。その後、朴正煕のクーデター後の1961年に首都防衛司令部(首防司)に改編された。
1991年に首都防衛司令部のソウル市南部への移転が決まり、その跡地利用として南山ゴル韓屋マウルの開設が決まり、伝統的な両班屋敷の移設工事などが行われた。南山ゴル韓屋マウルは1998年4月18日にオープンした。
この韓屋マウルができたことで、この一帯の雰囲気はガラッと一変した。館内の補修やリモデリングが行われ、宮中料理体験や宮廷料理活用プログラムなどで、外国人ばかりではなく韓国人の伝統文化への理解を深める場所ともなってきている。
私が最後に「韓国の家」に行ったのは1999年3月だったと思う。日本の大学生訪韓団と一緒に韓食ビュッフェで食事をして、韓国の伝統芸能の舞台を観た。その後は行く機会もなかったのだが、YouTubeのりうめいさんの動画を見て最近の様子がよくわかったので、ご参考までに。

















