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一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

 奨忠体育館チャンチュンチェユッカン前の交差点の北西側ににある太極堂テグッタンは、ソウルで最も古いパン屋とされている。

 

 

 太極堂のホームページの沿革によれば、植民地時代の「미도리야ミドリヤ」製菓店を引き継ぎ、1946年に申昌根シンチャングンが創業したと記されている。

 太極堂は、創業時には明洞ミョンドンに店があった。住所は「忠武路チュンムロ2ガ107 - 2」。本店は、1973年に現在の奨忠洞チャンチュンドンの場所に建てられたビルに移った。

 

 1920年代後半から30年代にかけての『朝鮮新聞』にこのような広告が出ている。多分、この「みどり家」というのが太極堂の前身とされる「미도리야ミドリヤ」であろう。

 

 この広告から分かるように、1927年には、南山町一丁目に本店、本町二丁目に支店があり、「東京もなか」を商標名やロゴマークに使っていた。

 

 さらに、「東京もなか」の検索で、このような記事が出てきた。

 

 1926年4月25日に大韓帝国最後の皇帝だった純宗が亡くなった。この時に、日本の各皇族が、京城の「みどり家」の「東京もなか」を李王室への「見舞品」として注文したというのである。そこまでの有名店であれば、当然『大京城府大観』や『京城精密地図』、それに『大京城写真帳』などに記載がありそうなのだが…、「みどり家」は見当たらない。

 

 上述のように1973年に太極堂が本店を奨忠洞に移すまで、「忠武路2街107 - 2」に太極堂本店はあった。これは植民地時代の地番表示だと「本町2丁目107番地」。『地番区画入大京城精図』(森田仙堂 1936)だと、このような位置関係になる。

 

 

 本町のメインストリートをはさんだ107番地の向かいの1番地に日之出商行があった。日之出商行は絵葉書の制作・販売をやっており、自分の店を写した絵葉書も出している。ひょっとして… ということで、絵葉書を探してみたら…本町二丁目に「みどり家」を見つけた!

 

国際日本文化研究センター「朝鮮写真絵はがきデータベース」より

 

 本町二丁目の通りを西から東に向かって撮られたこの写真の手前左側が日之出商行、その向かい側に「東京もなか」の看板とロゴマークが見える。右手前に映画「木村長門守」の看板があるが、この映画は1928年5月22日から28日まで喜楽館で上映された帝国キネマの時代劇。したがってこの写真は1928年5月のものということになる。

 

 本町二丁目に「東京もなか」の看板を掲げているほどの店主であれば、『朝鮮功勞者銘鑑』『朝鮮人事興信錄』『朝鮮在住內地人實業家人名士典』などに掲載されるものなのだが…。韓国の国史編纂委員会がそれらの人名録をデータベース化しているが、「みどり家」「みどり屋」「緑家」「東京もなか」などのキーワードで検索してもそれらしい関係人物がヒットしない。

 

 他のデータベースでしつこく検索した結果、『京城日報』のこんな記事が出てきた。

 

 

 「みどり家」のオーナーは女性だった。あの時代の「実業家」「名士」には女性は入れられていなかった。通常は、こうした人名録出版の際には、本人に連絡して協賛金を取って掲載をするのだが、女性はその対象になってなかったということ。そうしたこともあって、太極堂の前身の「みどりや」がどのような店なのか、知られていなかったのだろう。

 

 この『京城日報』の記事を要約すれば以下のようになる。

  • 河部傎佐子は新橋の芸妓出身で、河部誠介と結婚した。
  • 1922年に京城駅新築工事の仕事を請け負った河部誠介と一緒に傎佐子も京城へ。
  • 1924年暮から、傎佐子が東京からもなか職人を呼び寄せて「東京もなか」を製造。
  • 官庁やホテル、料理店に傎佐子自身が売り込みに奔走して販路を広げた。
  • 誠介の仕事が終わりそうなので、東京に帰るかもしれないが、傎佐子はさらなる商品開発も考えている

 河部誠介は、下関で電気・電話工事の請負業をやっており、京城では京城駅の工事の請負とともに南山町1丁目1に河部電気商会の出張所を置いて出張修理業を行なっていた。この南山町1丁目1の場所に「みどり家」の本店が置かれていたのであろう。ちょうど喜楽館の南側に隣接している。

 

 

 1930年代半ばまでは「みどり家」の新聞広告があるが、それ以降はデータ検索ではヒットしない。軍国主義日本が戦時体制に移行して、砂糖などの統制が厳しくなっていくことと関連するのかもしれない。もともと本店とされていた南山町一丁目1の土地は、1930年代後半に新たに昭和通(現在の退渓路テゲロ)を通すために立ち退きとなった。「みどり家」は京城本町二丁目を本店として1945年8月まで存続していた。ただ、オーナーの河部傎佐子が、京城の現地でどの程度まで店の経営に関与していたかはわからない。

 

 8月15日の日本の敗戦時前後の「みどり家」の様子は全くわからない。ただ「みどり家」と同じ本町二丁目にあった丸善の1945年夏から秋にかけての引揚げプロセスについては、次のような記録が残されている。

昭和26年版『丸善社史』より

 既に内地とは通信連絡ができず、一方、日本の軍部や総督府からも何らの指示もなく、社員は全く途方に暮れつつあった。そのうち9月8日、米軍が京城市内に進駐してきたため、人心も次第に静まり、不安も薄らいだが、そのような状況の中で、近く在鮮日本人は、全部本国へ送還されるということも確かになったので、送還後の当支店の管理を朝鮮人社員裵渉(京城府立高等普通学校卒業後、昭和12年11月当支店に採用、のち選ばれて社員資格の待遇を受けていた一人で、今一人社員待遇の朝鮮人も居た)に委任することとなり、9月下旬米軍当事者立ち会いの下に店内の諸物品を棚卸しして現物並びに帳簿を整理し、支店と裵渉との間に、管理委任に関する契約書(米軍当事者サイン)を取交わした。

『丸善100年史』第4編第1部第1章3より

 日本人が経営していた企業、商店などでは、この丸善と同じような方式が取られたと考えられる。仏教やキリスト教などの宗教組織でも同じように朝鮮人側に管理を委任・委託しようとしていた。必ずしもうまくいったとは限らないのだが…。

 

 「みどり屋」の場合、申昌根との間で管理委任契約書が取交わされたのではなかろうか。当時、申昌根は数え年で25歳。翌年「みどり家」の旧本町二丁目の本店の場所で「太極堂」を開店した。

 

 解放後に新たに出発した太極堂について検索をかけたが、菓子の話は出てこない。ところが、軟式野球の関連記事が出てきた。1950年5月27日の軟式野球協会主催の第4回春季軟式野球大会決勝で、太極堂が朝鮮運輸を破って優勝している。

 

 太極堂単独で職場チームとして軟式野球大会に出場し、しかも優勝するほどの野球技量の従業員が揃っていたのかという疑問が湧く。1930年代から朝鮮で軟式野球の大会が盛んに行われるようになり、職場対抗や地域対抗戦が行われていた。各チーム、内地人が中心だったが朝鮮人選手も活躍していた。植民地支配から解放された後も盛んに行われた。ただ、職場単独ではなく外部からの助っ人を認めていたのかもしれない。太極堂と申昌根は、その後も軟式野球と深く関わっており、申昌根自身が解放前からの軟式野球プレーヤーであった可能性もある。解放後の大韓軟式野球協会の事務所は太極堂に置かれ、1958年には申昌根は軟式野球協会の理事長に就任している。

 

 上述のように、1950年5月に太極堂は軟式野球大会で優勝するのだが、それから1ヶ月もたたずに朝鮮戦争が勃発した。この戦争で、旧明治町から本町の一帯はほぼ壊滅した。1951年7月に、国連軍から取材許可を得てソウルに入った『朝日新聞』鈴川勇特派員は、次のようにソウルの街の惨状を伝えた。

 

 太極堂として営業していた「みどり家」の家屋も、この時に焼失してしまったのであろう。国連軍がソウルを奪還した後、南大門路2街で仮営業していた太極堂は、1954年に忠武路107番地の西側の108番地の土地も入手し、ここに4階建てのビルを建設した。

 

 

 この太極堂のビルは、中規模の会合が開けるホールを備えていた。上述の軟式野球協会の会合などが開かれたし、1958年には俳優協会の創立3周年記念式典がここで開かれ、当時李承晩イスンマン政権の有力者だった民議院議長李起鵬イギブンと妻の朴瑪利亞パクマリアも出席していた。

 

 

 朴正煕パクチョンヒ大統領の時代になって、1968年11月に太極堂の直営牧場を大統領が自ら視察に訪れた。1972年から始められたセマウル運動に先だって、1968年から稲作以外の商品作物生産や畜産物生産による農家所得源の多様化を図っていたが、そのデモンストレーションでもあった。

 

 

 1973年に、太極堂は本社ビルを奨忠洞に建てて、本拠地を明洞地区から移した。当時の奨忠洞はまだ新羅シルラホテルもなく、アンバサダーホテルから東国大トングッグデ前を通って奨忠壇交差点に通じる道路も開通してなかった。ただ、この時点で、朴正煕は、博文寺の跡地にあった迎賓館の場所に国賓級のゲストが泊まれるホテルを建てるようにサムソンに指示していた。また、ソウル市は現在の東国大前の道路の建設を計画していた。

 

 それらの都市計画と、太極堂の移転につながりがあるかは不明だが…、そんな時代だった。

 

映画「昨日降った雨(어제 내린 비)」(1974) 奨忠洞の太極堂

 

 1973年に奨忠洞に本店を移転させた後、忠武路2街のビルは、家具店やサロンなどに賃借し、4階部分を太極堂の従業員宿舎として使っていた。1977年3月5日の未明、3階のサロンから出火して3・4階部分が焼失し、太極堂の従業員が14名死亡するという火災が起きた。

 

 

 この火災と従業員の惨事によって、明洞地区における太極堂の歴史は幕を閉じた。同時に、植民地時代の「みどり家」の痕跡も消え去った。

 いや、新橋の芸妓が起業した「みどりや」は、ずっと前から痕跡が消されていたのかもしれない。デジタル資料化の時代だからこそここまでわかったが、やはり、河部傎佐子や申昌根など当事者の生の証言が聞けないのが返すがえすも残念だ。

 末期ガンなどで余命宣告を受けた場合、韓国ではこれを「時限付シハンブ(시한부)」と表現する。Netflixのドラマ「39歳」で、末期の膵臓ガンで余命宣告を受けたチャンヨンが、両親にそのことを伝える時、「… 시한부래シハンブレ」という。日本語にすれば「私、もう長くないんだって…」。

 

 

 ガンの診断結果について、日本において「非告知」から「告知」に転換したのは1990年から2000年のことだとされる。1990年前後に15%程度だったガン告知率が上がり始め、2002年には最高裁が「医師は患者家族への告知を検討する義務がある」とする判断を示している。逸見政孝が記者会見でガンであることを自ら公表したのが1993年。かなりの衝撃だった。

 

 韓国でも、1993年にガンを告知しなかったために死亡したとして病院側に賠償を命ずる判決が出ている(1993年9月23日付『毎日経済新聞』)。NAVERの新聞記事検索でも「시한부 삶シハンブサム:時限付きの生)」のヒット数が1990年代から増えるので、ほぼ日本と同じような時期に「非告知」から「告知」への転換があったのだろう。

 

 2001年の韓国映画「선물ソンムル(邦題:ラスト・プレゼント)」は、売れない芸人ヨンギと、「シハンブ」を宣告された妻ジョンヨンの物語。この映画では、医者が第三者のペテン師にジョンヨンの深刻な病状を伝えたりしていて、ガンの告知がシステムとしてはまだ十分に定着していなかったことがわかる。

 

 この映画は「泣かせる映画」の代表作だった。大学の韓国語の授業でこの映画を観せると学生たちが全員泣くというので、どれどれ…とうっかり映画を観てしまって…私も大泣きした😭。
 

 ベトナム語字幕版がyoutubeにアップされている(2023年6月現在)。泣きたい方はどうぞ。ただ韓国語かベトナム語ができないと泣けないかもしれないが…

 

 この「ラスト・プレゼント」では、ペテン師の二人組がジョンヨンの幼なじみを探し出したり、幼少時の回想が描かれている。

 

 一方、その20年後、2022年のドラマ「39歳」では、チャンヨンの親友ミジョのアイデアで、チャンヨンの友人・知人、家族に声をかけてお別れのパーティを開く場面がある。

 

 

 このような集まりを開くといったことは、2001年段階では発想すらもなかったように思う。

 2022年9月に韓国で公開され、日本でもこの秋公開予定の映画「人生は、美しい(原題:인생은インセウン 아름다워アルムダウォ)」も、妻が末期ガンで余命宣告を受けた夫婦の物語、すなわち「シハンブ」ものだ。ややネタバレになるが、この映画でもお別れパーティーが開かれる。

 

 

 韓国の新聞を検索してみると、2018年8月の『朝鮮日報』に「ある末期癌患者の生前葬儀」という記事があった。

黒い喪服ではない普段着の知人たちと歌って会話を交わし

「死んでから葬式をしたってどうしようもない、生きている時にお別れしないと」

…略…

 5月に病状が悪化したキムさんは、自分が副会長をやっている老人団体「老年ユニオン」のコ·ヒョンジョン事務局長に連絡した。キムさんが「私が死んだら葬式をせずに火葬して遺骨を撒いてほしい」と頼むと、コさんから「だったら生きている間に葬儀をするのはどうか」と提案があった。 日本ではこのような生前の葬儀がすでに行われているという。

…略…

 「日本ではこのような生前葬がすでに行われている」とあるが、日本で1990年代から行われていた「生前葬」は、余命宣告された人のお別れの会ではなく、自分の人生やキャリアに区切りをつけるというものだった。話題になったのは1993年の水の江瀧子の生前葬。


 永六輔がプロデュースして森繁久弥が葬儀委員長をやって、水の江瀧子の78歳の誕生日前日にホテルに500人の招待客を集めて行われた。1984年から世間を騒がせた甥の三浦和義の「ロス疑惑」などでいろいろ取り沙汰されたことをリセットしたかったのかも…とも言われた。深刻な病いに侵されていたわけでもなく、結局2009年に94歳で老衰で亡くなった。この水の江瀧子の生前葬以降、自分の人生に区切りをつけるとか、「厄払い」という名目で有名人の「生前葬」イベントはちょっとした流行りになった。

 2017年秋に末期の胆嚢ガンと診断された建設重機会社コマツの安崎暁元社長が「感謝の会」を自ら開いて話題になった。

 

 これは、韓国の『中央日報』でも取り上げられ、『日本経済新聞』に掲載された「感謝の会」案内広告の写真入りで報じられた。

 また、翌年には『ヘラルド経済』が、生きているうちに知人・友人と「生前センジョンパーティ」「離別イビョルパーティ」をしたいとの回答が韓国の社会人の70%にのぼると伝えている。この記事にも、安崎暁の生前の「感謝の会」への言及がある。

 

生前のお別れパーティー···社会人の70%が「生前葬儀に肯定的」
2018-09-22
キャリアアンケート···「悲しまない雰囲気で多くの人との別れを」

 「死ぬのはすごいことだと思う。 人生を十分楽しんだし、寿命にも限界がある。 直接感謝の気持ちを伝えることができて満足している」
 日本のある企業家が自分の生前葬儀を開き注目されている。安崎暁小松製作所前社長が日本経済新聞に出した広告で、癌宣告を受けたとして生前葬儀である「感謝の集い」を開くと案内した。会の名前からは一見平凡に見えるが、この会は末期癌宣告を受けた小松氏が生の終わりで自ら直接主催する葬儀だ。彼は「健康な状態で多くの方々に感謝の気持ちを伝えたくて集まりを準備した」という。
…略…

 

 『朝鮮日報』で報じられた「老年ユニオン」のキム副会長の「生前葬儀」の記事で「日本ではこのような生前葬儀がすでに行われている」というのは、安崎暁の「感謝の会」のことが念頭にあってのことであろう。

 

 また、韓国では、2016年に終末期患者の自己決定を尊重して患者の尊厳を保障する「ホスピス緩和医療及び臨終過程にある患者の延命医療の決定に関する法」、一名「ウェルダイイング法」が制定されている。余命宣告を受けた人が穏やかに死を迎えることができるようにする社会的環境ができつつあったことも影響しているのかも知れない。

 

 日本であれば、「穏やかに死を迎える」というと「そっとしておいてあげよう」となりがちだが、人間関係が濃密な韓国社会だと、多分ほっといてはくれない。韓国社会で余命宣告を受けたシハンブの人を囲んで集まるというのは、日本社会よりも違和感なく受け入れられるのかも知れない。

 

 「39歳ソルンアホップ」や「人生は、美しい(인생은インセウン 아름다워アルムダウォ)」を見ながら、そんなことを考えた。

  • 解放後の横書き推進
  • 1980年代初頭の転換点
  • 新聞の横書き化

  解放後の横書き推進

 1946年10月22日付の『東亜日報トンアイルボ』に、当時アメリカ軍政庁の文部編修局長だった崔鉉培チェヒョンベの「ハングル横書きの提言」が掲載されている。

 

 

 崔鉉培は、日本の植民地統治下の末期、1940年に訓民正音の理論的問題と歴史的問題について論述した『ハングルガル(正音学)』を刊行し、ハングルの普及に尽力した。1942年の朝鮮語学会事件で逮捕され、咸興ハムン刑務所で服役中に日本の敗戦を迎えた。

『ハングルガル(正音學)』

 

 この崔鉉培がハングルの横書き推進の急先鋒で、米軍政庁の朝鮮教育審議会で教科書と公文書の「ハングル専用」と「横書き」を提案し、これが採択された(崔鉉培「ハングル 解放10年の歩み(上)」『東亜日報』1955年8月15日付)。

 

 朝鮮語は伝統的に縦書きであったし、日本の統治下でも縦書きの漢字・ハングルまじり文が使われた。それに馴染んできた人々からは、ハングルの横書きに対して多くの反対論も出されたが、小中高の教科書は、漢字を用いないハングルだけで横書きにする形式が採用された。

 

1950年代の国民学校4年国語の教科書

 

1950年代の高校幾何の教科書

 

 一方、公文書も横書きが主流になっていった。 

 

 特に、1950年代以降、機械式のハングルタイプライター(打字機タジャギ)が急速に普及し、多くの公文書や企業・組織の文書が3ボル式のタイプライターで作成された。当然漢字は使われず、横書きのハングルだけを使った文書であった。

 

 

 他方、文芸書や人文系の学術書籍、新聞・雑誌などでは、旧来からの縦書きが主流だった。

 1970年代までの韓国社会は、縦書きと横書きが共存する文字環境にあった。

 

雑誌『思想界ササンゲ

高承済コスンジェ『韓国移民史研究』(1973)

 

崔仁浩チェイノ바보들의 행진パボドゥレヘンジン(邦訳:ソウルの華麗な憂鬱)』

 

 ただ、1950年代から70年代に学校教育を受けた世代は、ハングルだけで書かれた横書きの文章に馴染んでおり、縦書きのものを読むのが苦手。漢字はそこそこ読めはするが書けない。彼らは「ハングル世代」と呼ばれた。一方、同じ時代に韓国社会の中心にいたその上の世代は、ハングルだけの横書きより、漢字まじりの縦書きの文章により慣れ親しんでいた。

 

 やがて「ハングル世代」が韓国社会の中心に進出するにつれ、ハングルだけで横書きされた文章の比重が次第に大きくなっていった。

 

  1980年代初頭の転換点

 1982年12月7日付の『東亜日報』に、「定着する横書き時代」という記事が掲載されている。

東亜日報1982.12.07記事(ニュース)

定着する横書き時代

解放以後の世代の要請にそっぽを向けず

「現代文学」なども雑誌の体裁を変更

読み・書き、機械化などの様々な側面で望ましい

 多くの出版物が横書きを採用している中で、これまで縦書きに固執してきた伝統ある文芸雑誌までもが横書きに変わってきており、韓国の文字生活が新しい転換点に差し掛かっている。横書きは文字生活の機械化の促進のためにも必要という主張があったことからも、伝統ある雑誌の横書き採択は望ましいことであろう。

 創刊28年目の『現代文学ヒョンデムナク』が12月号を横書きで発行し、『文学思想ムナクササン』も新年1月号を「横書き」で製作、『韓国文学ハングンムナク』も近々横書きに転換する予定だ。

 学校で横書きに馴染んできた解放以降の世代の要求を、これ以上無視することができず、横書きに踏み切ったという『現代文学』編集者の金潤成(キム·ユンソン)氏(57)は、「これまで縦書きにこだわってきたのは特に理由があってのことではなく、単なる慣習に過ぎなかったが、今や機械化など制作の能率面から横書きに変えざるを得ないのが実情」と語った。

 文字生活の合理化のためにも、今のような縦書き・横書きの二元体制は避けるべきだと言う金氏は、「初版を縦書きで、その後、横書きに組み替えて出すとよく売れるという例もあるほど縦書き・横書きに対する読者の反応は敏感だ」と付け加えた。

…(中略)…

 読書行動開発社のパク·ムンファ氏(37)は、「今のほとんどの読者は、約20年間学校で教科書や参考書などの横書きの本を読んできたため、社会に出て縦書きのものを読むのに抵抗感を感じている」と語る。 学生たちに直接速読法を教えているパク氏は、学生たちは一般に横書き1000字を読む同じ時間で縦書き文字なら800字程度しか読めないと言う。

…(中略)…

 また「読み」「書き」において、横書きの能率が縦書きよりはるかに高い場合、これが機械化されればその能率性の差ははるかに大きくなるというのがハングル機械化推進論者の主張だ。

 ハングルタイプライターを考案するなどハングル機械化を研究してきた元老医師のコン·ビョンウさん(76)は、ニューヨークで韓国語新聞を発行しているスタッフに、横書きと縦書きのどちらが早く写植できるかを最近尋ねたところ、横書きが2倍以上早く写植できるとのことだったとして、文字生活の速度はまさにその国の文明を左右するものでもあり、国家的な面からも研究しなければならないと語った。

…(後略)…

 この記事に登場する公炳禹コンビョンウは、眼科医でありながらハングルタイプライターを開発し、その機種が1949年3月に行われたハングルタイプライター懸賞募集で優秀機種に選ばれた人物。コンビョンウ打字機は、朝鮮戦争後の韓国のハングルタイプライターの標準機になった。このようなハングル表記の機械化が、横書きによる学校教育を受けた世代の社会進出と相まって、漢字を使わずハングルだけでの横書き文体の広がりをもたらしたといえる。さらに、1980年初頭から電動タイプライターが開発され、より簡便な2ボル式の入力(現在のコンピューターキーボードからの入力と同じ方式)が可能になったことも、横書きの拡大に拍車をかけた。

 

 横書き拡大の象徴的な出来事の一つは、1984年から封書の住所・宛名書きが横書きを原則とするという逓信部チェシンブの規則改定であろう。

 

 

 1987年6月の「民主化宣言」ののち、民主化闘争を闘ってきた言論人を中心に刊行の準備が進められてきた『ハンギョレ新聞』は、1988年5月15日に創刊号を発刊した。紙面は韓国初の全面横書きで組まれていた。

 

  新聞の横書き化

 1980年代に各活字媒体で「横書き化」が急速に進んだが、新聞業界では、後発の『ハンギョレ新聞』以外は依然として縦書きだった。縦書きについては、1988年1月に制定されたハングル正書法(한글맞춤법ハングルマッチュムポプ)でも、縦書きの文章符号について次のように定めている。

句読点は、横書きの場合には [ 반점パンジョム(,) 온점オンジョム(.) ] を用い、縦書きの場合は [ 모점モジョム(、) 고리점コリジョム(。) ] を用いる

 縦書きで書く際の規則もちゃんと定められていたわけで、縦書き・横書きの併存状況は続いていた。

 

 『ハンギョレ新聞』以前から刊行されていた新聞の横書き化が進んだのは、 1990年代の中頃から後半にかけてで、新聞各紙がさみだれ式に横書きに移行していった。

 

1988年5月18日

1997年4月8日

1999年12月15日

 

 主要日刊紙の紙面が全面横書きになった時期は以下の通り。

  • 中央日報チュアンイルボ  1995年10月9日
  • ソウル新聞シンムン 1996年10月1日
  • 京郷新聞キョンヒャンシンムン  1997年4月8日 
  • 東亜日報  1998年1月1日 
  • 韓国日報ハングギルボ  1998年3月16日
  • 朝鮮日報チョソンイルボ  1999年3月2日 

 各新聞社の横書きへの移行が他の活字媒体に比べてかなり遅くなり、各社で相当のばらつきがあるのは、それぞれの社の編集方針や読者世代の違いといった側面もあったであろう。ただ、そればかりではなく、輪転機や編集機材、版組システム・ソフトなどの技術的な問題や設備投資の問題もあったといわれる。

 ともあれ、各新聞社が横書きに移行していくのとほぼ並行して、インターネット上でのニュース配信や市民参加型のニュースウェブサイトの台頭などがあり、ニュースは横書きで提供されるかたちが1990年代末までに定着した。

 


 韓国の主要ワープロソフトであるアレアハングルでは、今でも縦書きのハングル文書を作成することもできる。

 

 

 ただ、2017年3月28日に改訂・施行されたハングル正書法(한글맞춤법)では、縦書きの [ 모점(、) 고리점(。) ] についての規定がなくなっている。縦書きの需要がなくなっていると判断されたということであろう。

 

 ハングルの縦書き文書の作成ができなくなったわけではないが、「ハングルは横書き」がほぼ「常識化」「常態化」している。今や、縦書きにすると珍しくて人目を惹くといった時代になりつつある。