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一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

  • 日本陸軍官舎の「発見」
  • なぜここに日本軍の官舎が…
  • 陸軍官舎なのかなぁ…
  • 鉄道官舎の可能性も…

 

 京義中央線キョンウィチュアンソンで下っていくとデジタルメディアシティの次の駅が水色スセック。水色駅前の道路を西に進み、跨線橋を渡ると、右手に上岩サンアムワールドカップパーク10団地が見える。その高層アパート群の手前にフクロウ近隣公園があり、その一番南端に2棟の古い木造住宅がある。これが2010年に移築・復元された「旧日本軍軍人官舎」である。

 

 

 2棟の家屋は、もとは現在のフクロウ近隣公園の北側、上岩洞728番地と762番地に建っていたもので、それを110〜130m南に移動させて復元・改修したものだ。

 

元位置の家屋配置再現ジオラマ

移築前の家屋(ハンギョレ新聞 2007-04-18 記事より)

 

 

  日本陸軍官舎の「発見」

 2002年の日韓共催サッカーワールドカップのメインスタジアムが上岩洞サンアムドンの南東側の城山洞ソンサンドンに建設された。ワールドカップの終了後、周辺地区の開発が急速に進んだ。

 

 現在フクロウ近隣公園になっている一帯は、ワールドカップ当時は開発を制限するグリーンベルトに指定されていたが、2004年12月になって上岩第2地区の宅地開発予定地区に指定された。開発に先立ってソウル市の文化財調査が行われた。その時に、林の中に残っていた22棟の木造住宅が確認され、2005年11月に文化財評価報告書が提出された。

 

 その報告書では、この建物群は「1937年に建設された日本陸軍官舎の建物と推定」され、「近代に造成された建築文化財として価値が認められる」とされた。審査の結果、2006年12月に、22棟のうち状態が良好な2棟のみを移築・改修して保存する計画が固まった。そして、2008年3月から2010年10月まで移設・改修工事が行われた。

 

 対象の施設が、日本の植民地支配時代の陸軍官舎と推定されていたこともあって、保存措置に対する批判は当初から多く寄せられていた。しかし、2000年代に入って、「ネガティブ文化財」に対する韓国社会の流れが「廃棄」「清算」から「保存」「活用」へと変わっていた。植民地時代のものをあえて残すことで、ネガティブな自国史を可視化しようとする動きである。韓国の経済発展と社会の成熟に裏打ちされた自信の現われでもあろう。決して過去の日本の行いを「許した」わけでも「忘れた」わけでもない。

 

 728番地の家屋はほぼ原型通りに復元された。一方、762番地の家屋は、コンクリート構造の地下室を新規に構築し、その上に元の家屋の外観を原型に沿って復元した。地下室は備品等の収納庫、建物の内部空間は、展示・講習会機能を備えた施設に改修された。教育的活用を可能にする機能を付加したものになっている。屋外には防空壕も移設・復元された。1938年から京城の一般市民に防空壕の設置が呼び掛けられているので、当時としては特別な設備というわけではない。

 

 

  なぜここに日本軍の官舎が…

 日本植民地統治下で、釜山から京城を経て、平壌、新義州に向かう京義鉄道は、当初は龍山ヨンサンからすぐ西にカーブして水色スセック方面に向かう経路で運行されていた。しかし、京城中心部に近い南大門駅(京城駅:現ソウル駅)を通らないのは不便ということで、1910年代に京城駅を通って新村シンチョンから水色スセックにつながる新たな線路が敷設された。この路線が整備されたことで、京城駅は名実ともに内地から朝鮮を経て満洲までを連結するキーステーションになった。

 

 

 1937年、盧溝橋事件で日中戦争に突入すると、中国大陸での侵略戦争の兵站基地として朝鮮の鉄道輸送力の増強が図られた。この時、注目されたのが水色スセックで、ここに操車場の建設が進められた。

 

 

  陸軍官舎なのかなぁ…

 当時、朝鮮には、第19師団と第20師団が置かれていた。第19師団は、朝鮮半島北部の咸鏡北道羅南を拠点に北方を管轄し、第20師団が朝鮮半島南部から京城・平壌一帯を管轄していた。第20師団の司令部は龍山にあり、歩兵78・79連隊、野砲26連隊、騎馬28連隊の兵営が龍山にあった(朝鮮戦争後アメリカ軍基地になったエリア)。


 1937年7月の盧溝橋事件で、第20師団は華北戦線に動員された。だが、水色になんらかの軍事施設を作ったという記録は見当たらない。ソウル市の研究調査報告では、「1930年代、日本が大陸進出のために水色地区を基盤として騎兵部隊を新しく構築して造られた施設群の官舎と推測される」となっている。騎兵部隊は、もともとは機動力を生かした偵察任務などを目的としたものだったが、1930年代に入ると機甲化が図られて、多くは捜索連隊へと改組された。騎兵第28連隊は、1940年7月に捜索20連隊に改編されている。しかし、龍山から水色に移ったとする資料は出てこない。しかも、22戸もの将官用の官舎があるということは、それに見合う規模の兵卒用の兵舎が隣接してあるはずなのだが、その形跡も見当たらない。唯一確認できるのは、日本の敗戦時に水色に陸軍倉庫があったことのみである(『岐阜県従軍回顧錄』第4巻)。

 

 文化財委員会の「2012年度第3次会議録」には「沿革」として次のように記載されている。

1945年解放後、韓国軍官舎として使用(約11年間使用)

1949年 ソウル市に編入

1956年 個人に払い下げられて民間所有となる

1970年代初 近隣地域がグリーンベルト(開発制限区域)に指定

2004年12月3日 上岩2地区 宅地開発予定地区に指定

 解放後に「韓国軍官舎として約11年間使用」とあるが、実際には1945年9月に米軍政庁による統治が始まって、日本の施設はアメリカ軍によって接収された。この段階では「韓国軍」はまだ存在しなかった。アメリカ軍は12月5日に西大門区冷泉洞に軍事英語学校を開設し(現在の監理教メソジスト神学大学の場所)、日本軍や満州軍で経験を積んだ幹部級の軍人を入学させて「国防警備隊」の創設要員として育成した。翌年1月に、旧日本軍の朝鮮人志願兵訓練所があった泰陵テヌン(現在の韓国陸軍士官学校の場所)に「国防警備隊」第1連隊が創設された。

 

 1980年代末の盧泰愚ノテウ政権の時に国務総理になった姜英勳カンヨンフンは、満洲の建国大学在学中に学徒兵として徴集され、日本陸軍見習い士官で敗戦を迎えた。帰国後、この軍事英語学校の1期生となり、その後国防警備隊から韓国陸軍将校としてキャリアを積むが、姜英勳がこの水色の官舎に住んだとされる(ハンギョレ新聞 2007-04-18)。

 

 また、『大韓民国史年表』には、

1948年5月5日 
京畿道水色で航空基地部隊(後に陸軍航空司と改称)を創設(韓国空軍の第一歩)


1948年7月27日 
航空部隊を航空基地部隊と改称し司令部を水色から金浦キムポに移す

と、1948年8月の大韓民国建国直前に、短期間であったが水色に軍部隊が存在したとの記述がある。

 

 さらに、朝鮮戦争後の1955年に設立された国防クックパン大学がこのすぐ近くにあった。国防大学は、1957年に国防研究院、1961年に国防大学院になり、2017年に論山ノンサンに移転した。

 

 

 こうした解放後の韓国の軍事・国防施設との関係性を窺わせる事実から、日本軍の軍事関連施設がもともと水色スセックにあって、それを韓国軍が接収して引き継いだようにも見える。しかし、実際は米軍政庁が接収し、アメリカ軍の主導のもとで韓国軍の前身の国防警備隊が創設されているのだから、日本軍の軍関係施設が韓国軍関連施設として引き継がれたということにはならない。この2004年に「発見」された官舎を韓国の軍関係者が使用していたからといって、この住宅群が日本軍の官舎であったということにはならない。

 

  鉄道官舎の可能性も…

 上述のように、1930年代末には水色スセックに大規模操車場が作られており、その規模からいって新たな鉄道官舎が造成されたはずである。


 朝鮮の鉄道官舎については、李喆永「韓国の住居近代化に与えた日式住居建築の影響」(『大手前大学社会文化学部論集』4(2004-03))に次のような記載がある。

5等の鉄道官舎は、北側の中央に玄関があり、その右側に8畳の接客間の座敷と次の間、家族の生活空間の茶の間を連接配置した続き間の型となっている。座敷には床の間と違い棚、長押などが設けられている。次の間には押入れが、両室間の問は襖になっている。玄関の右側には4.5畳の女中部屋とトイレ、その前方は浴室と台所となっている。浴室には鉄釜の浴槽があり、台所には前庭へ出入りができるドアがある。5等の官舎の居住対象は地方鉄道局の課長(書記官級)や駅長である。

 728番地の家屋の平面図はと内部の様子は下のようになっている。

 

 

2018年9月4日撮影

 

 家屋の構造だけでなく、官舎の配置やロケーションからいっても、むしろ鉄道官舎の方がしっくりくるのだが…。少なくとも、外観や内装、配置や場所だけからは、これが鉄道官舎ではなく、軍人官舎であったとする根拠は見出せない。

 


 

 このブログを書くにあたって、日本軍の官舎である根拠の断片でも見つからないかとだいぶ検索を繰り返したのだが、出てこない。

 

 それに、「田畑・池袋を凌ぐ朝鮮一の大操車場」を新たに作ったのなら、鉄道官舎が新設されていたはずである。現在の水色駅の向かい側には大規模な高層マンション群ができているが、その西側の一角に操車場ができる前からの鉄道官舎がほんの少しだけ残っている。大規模な操車場であるだけに、大規模な鉄道官舎も必要だったはずだ。

 

 かなり皮肉な見方だが、「ネガティブ文化財」である以上、鉄道官舎よりも軍人官舎の方がネガティブ度が高くて復元・保存する価値が認められたのかもしれない。

 

 ちなみに、龍山の第20師団の主力部隊歩兵78・79連隊、野砲26連隊は、1942年12月28日未明に龍山駅から列車に乗車、釜山からニューギニア戦線に向かった。ニューギニア東部で連合軍の猛攻で退路を絶たれ、1944年1月、3000m級のフィニステール山脈の稜線を縦走する逃避行で多くが「戦死」した。投入された25,000名の兵力のうち、生還できたのは僅か1,700名あまりだった。

 捜索第20連隊は、1944年6月に沖縄の第32軍に編入されて宮古島、西表島、石垣島に展開、そのまま敗戦を迎えた。こちらも、水色から部隊が移動した形跡は、今のところ見つけられずにいる。

  • 開化期から植民地支配下の外国公館
  • 米軍政から韓国建国後
  • アメリカ大使館の移転問題

 

 ソウルの目抜通り世宗路セジョンノ光化門クァンファムンに向かって左手には世宗文化会館、外交通商部や政府総合庁舎、右手奥には韓国歴史博物館。そしてその手前の高い壁に囲まれて脇の道には警察車両がずらっと並んでいる建物。これが、在韓アメリカ合衆国大使館である。

 

 

 ソウルの「大使館」をGoogleマップで検索すると、このように青丸で表示される。市内中心部にも多いが、梨泰院イテウォンから漢南洞ハンナムドン普光洞ポグァンドン一帯に多い。北側の城北洞ソンブクトン周辺に多いのは主として大使公邸。

 市内中心部に多いといっても、このアメリカ大使館の場所だけは特別のど真ん中。もう一つ、繁華街明洞ミョンドンのど真ん中にある中国大使館も特異な存在だが、それについては別の機会に書くとして、ここではアメリカ大使館の今日までの変遷をたどってみよう。

 

  開化期から植民地支配下の外国公館

 日本が1876年に「日朝修好条規(江華島条約)」を結んだ後、欧米列強の中で最初に条約を締結したのは、1882年5月の「朝米修好通商条約」のアメリカ合衆国。その後、イギリス、ドイツが朝鮮と条約を結んだ。さらに、ロシア(1884)、イタリア(1884)、フランス(1886)がそれに続いた。

 

 アメリカは、1883年に貞洞チョンドンの韓屋を購入し、それを改造して公使館を開設した。

Starbucks KoreaのFacebookより

 

 日本の公使館については、ブログ「京城の日本公使館」を参照されたい。

 

 貞洞には、イギリス(1884)、ロシア(1885)、そしてフランス(1897)が公使館を置いた。

 

 1907年に日韓書房が発行した『実測詳密 最新京城全図』では、貞洞の徳寿宮トクスグン慶運宮キョンウングン)の西側に欧米の領事館が描かれており、当時の位置がよくわかる。

 

 日本は、1905年の「第二次日韓協約」(保護条約)で大韓帝国は日本の「保護」下に置かれたので、海外のそれぞれの国の主権を代表する「公使館」は京城には不要と主張した。その日本の求めに応じて、各国はそれぞれの公館を、自国民の保護業務や査証発給などを行う「領事館」とした。そのため、この1907年の地図では「領事館」の表示になっている。日本による侵略の足跡である。
 ちなみに、山上萬次郎『日本帝國政治地理』第2卷(1909)によれば、韓国併合までに10カ国が京城に領事館を置いていた。

 

 そして、1941年12月、日本がアメリカ・イギリスと開戦すると、連合国の領事館は閉鎖された。

 

  米軍政から韓国建国後

 1945年8月15日、天皇がポツダム宣言の受諾を宣言して太平洋戦争が終わった。9月8日にアメリカ軍が仁川インチョンに上陸し、翌 9 日早朝、京城へ進駐し、北緯38度線の南側で米軍政庁による統治が始まった。

 

 米軍政庁の法令第33号によって、日本の公有又は日本人の私有財産は在朝鮮米軍政庁の帰属財産となった。貞洞の旧アメリカ領事館は、アメリカ大使館の大使公邸ならびに官員宿舎として使用され、帰属財産として接収した旧三井物産京城支店の建物(乙支路ウルチロロッテホテルの向かい側クレベンミュージアム)を大使館とした。

 

 1948年8月15日に大韓民国が建国されると、9月11日に米軍政庁と大韓民国政府の間で「韓米間の財政及び財産に関する最初の協定」が締結された。

 この協定で、米軍政庁が持っていた帰属財産の権利、名義及び利益は韓国に移譲されることとなったが、アメリカが対朝鮮政策の遂行にあたって必要とする財産の所有と借用がアメリカ側に認められた。これによって、貞洞の旧アメリカ領事館一帯の5万8千7百坪余り(現:アメリカ大使公邸)、景福宮キョンボックンの東側の松峴洞ソンヒョンドン司諫洞サガンドンの一帯9千9百坪余り(現:開かれた松峴緑地広場)をアメリカが所有し、各地に散在していた軍用地やアメリカ人家族住宅、旧三井物産ビルなどをアメリカが無償で借用することとなった。

 

 1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発した。ソウルは2度にわたって北朝鮮の人民軍に占領されたが、国連軍と韓国軍が奪還した。

 

 1953年5月に、「米合衆国及び大韓民国政府間の韓国ソウル所在の半島バンドホテル及び三井ビルの移譲に関する協定」が結ばれた。

 

 この協定で、アメリカが戦時体制の中で占有していた半島バンドホテルの建物・敷地を韓国側にすべて譲渡し、韓国側は、旧三井物産京城支店のビル・敷地をアメリカに譲渡することになった。それまで「無償での借用」だった旧三井物産ビルのアメリカ大使館は、正式にアメリカの「所有」となった。

 

 1959年、国際協力処(ICA)の援助資金を使って、新しい韓国政府庁舎の建設が計画された。駐韓アメリカ経済協助処(USOM)と韓国政府とが出資して、アメリカの建設会社「ヴィンネル」が韓国政府所有の敷地に2棟のビルを建設することになった。

 

1958地番入ソウル特別市街地図

 

 建設前のUSOMと経済企画院との間の合意では、建設される2棟の建物の所有権は韓国にあるが、うち1棟は韓米相互協定が存続する間は、アメリカ側の経済援助機関が無料かつ無期限に使用できるものとされていた。

 こうしたアメリカ側施設に対する韓国政府の特恵的な提供は、韓米援助協定3条3項にその法的根拠があった。

韓国政府は、米国援助機関の代表がその責任を履行するため、すべての実行可能な援助を提供し…(中略)…適切な対価でこれを実施し、施設と用役を得る権限を付与し…

 

 2棟のビルは、1961年から62年にかけて完成した。

 

 上の写真の手前のビルが経済企画院として使われ、その後、文化公報部となり、行政府改編で文化体育部となった建物。盧武鉉ノムヒョン大統領の時代に歴史博物館への転用が決まったが、2008年に李明博イミョンバク大統領が就任すると、現代史の歴史評価をめぐって異論が出されて開館が遅れた。2012年12月に「大韓民国歴史博物館」として開館したが、この時に建物が大規模に改修されて隣のアメリカ大使館とは全く趣の異なる建物になった。

 

 奥の建物は、建設前の合意メモと韓米相互協定とに基づいて、USOMに無償貸与されてアメリカの経済援助機関USAID(U.S. Agency for International Development)が使用していた。こちらも改修されてはいるが、原型が残っている。

 

 ところが、その後、アメリカの対韓経済援助は次第に縮小し、ニクソン・ドクトリン以降は援助の減少はさらに顕著になった。1968年から70年にかけて、アメリカ大使館は、領事部だけを乙支路の旧三井物産ビルに残し、USAIDが使用していたビル(現在のアメリカ大使館)に移転した。アメリカ大使館側は、USAIDは元来大使館の下部組織で大使館の経済担当参事官が所長を務めており、大使館とUSAIDは「駐韓アメリカ使節団」という名前で統合されているとして、この移転を正当化した。

 

 通告を受けた韓国政府は、これは不適切な解釈だと不満を示しながらも、アメリカとの友好関係維持のために敢えて問題視することはなかった。これ以降、アメリカ大使館は、賃貸料を支払うことなくこの建物を大使館として使用することになった。

 

  アメリカ大使館の移転問題 

 1984年1月、アメリカ大使館が京畿キョンギ女子高校の校地を買い取って大使館を移転させる計画が報じられた。

 

 

 京畿女子高校の前身は、植民地時代の朝鮮女子の教育機関「京城女子高等普通学校」で今の斎洞チェドンの憲法裁判所のところにあった。1945年の解放直後、内地人女子の教育機関だった「京城第一高等女学校」の校舎に学校を移した。

 

 

 京畿女子高は、アメリカ大使公邸にも近く、幹線道路から一本内側の道沿いで、景観的にも警備上も妥当な場所と思われた。

 

 この当時、韓国軍の平時作戦統制権は韓米連合司令部にあり、司令官はアメリカ軍側から任命されていた。韓国軍はアメリカ軍の了解なしには部隊移動などの作戦行動はできなかった。1980年の光州クァンジュ事件で、韓国軍の戒厳部隊が光州のデモ鎮圧に投入され、多数の死傷者を出す「作戦行動」を行った。これはアメリカ軍側の了解があったからであり、アメリカ政府に責任があるとして、次第に学生・市民の間に反米感情が高まりつつあった。

 

 そうしたことも移転案の背景にはあったと思われる。ただ、アメリカ大使館の土地と建物は韓国政府の所有であり、アメリカはそれを賃貸料なしで借りていたに過ぎない。従って、大使館を新築・移転させるとなるとアメリカ側は多額の出費を要することになる。アメリカ側は、韓国側からの特恵的な措置を要求するなどして、移転交渉は簡単には進まなかった。

 

 1986年に、京畿女子高校は江南カンナム開浦洞ケポドンに移転することが決定し、1988年の新学期から新しい校舎に移った。

 

 

 当時、アメリカ文化院として使用していた旧大使館と敷地(旧三井物産京城支店)はアメリカの所有だった。1990年7月3日に、このアメリカ文化院の土地・建物プラス330万ドルと、京畿女子高校跡地とを交換する協定が結ばれ、アメリカ大使館が京畿女子高校跡地の所有権を得た。

 

 

 ところが、ソウル市が京畿女子高校の校舎を取り壊して発掘調査を行ったところ、この場所から璿源殿ソンウォンジョンなど重要な建物の礎石などが出てきた。そのため、アメリカ大使館の移転は一旦保留ということになった。

 

 その後、龍山ヨンサンの米軍基地の韓国側への返還と、そこへのアメリカ大使館移転が韓国側とアメリカ大使館側とで非公式に模索され始めた。
 

 松峴洞にアメリカ大使館が所有していた大使館館員宿舎の土地は、1997年に、1400億ウォンでサムソン文化財団に売却されたが、それは龍山への大使館移転が念頭にあってのことであった。


 

 2001年頃から龍山のアメリカ軍基地の移転計画が具体化して、龍山のアメリカ軍基地は韓国側に順次返還されることになった。キャンプコイナー(Camp Coiner)は厚岩洞フアムドンの龍山高等学校の西側に位置し、アメリカ軍に出向する韓国軍支援団(KATUSA:Korean Augmentation To the United States Army)などの営舎があり、早い段階で韓国側に返還されることになっていた。

 

 2004年に、返還されたキャンプコイナーの土地と、アメリカ大使館側の京畿女子高校跡地を交換するとの報道が出た。翌2005年に、「駐韓アメリカ大使館庁舎移転に関する了解覚書」と「敷地交換合意書」が取り交わされて、旧京畿女子高校の跡地とキャンプコイナーの敷地を交換してアメリカ大使館を龍山に移転することが決定した。

 

 

 

 

 しかし、その後大使館の移転問題は龍山の米軍基地の平沢ピョンテク移転終了後に協議することになり、具体的な進展がなかった。

 

 2017年になって再びアメリカ大使館の移転問題が動き出した。2021年6月23日、ソウル市は都市建築共同委員会で、龍山区ヨンサング龍山洞ヨンサンドン1ガ1-5の在韓アメリカ大使館の建設計画案を可決した。

 

在韓アメリカ大使館庁舎の鳥瞰図(ソウル市提供)

 

 アメリカ大使館の建設は、建築許可など手続を経て、今年あたりには着工が可能とも報じられており、早ければ2026年にも完成するとの予想もある。

 


 

 昨年、尹錫悦ユンソギョル大統領が執務室を龍山の旧国防部ビルに移した。アメリカ軍基地の返還と整備が進み、アメリカの大使館もここに移ってくるとなると、ソウルの都市景観にも大きな地殻変動が起きることになる。

 

 楽しみではあるが、今までの景観もしっかり記録と記憶に残しておかなければ…と思っている。

 

  • 統理衙門トンニアムン済衆院チェジュンウォン
  • 女学校の設置と解放後の変遷
  • 憲法裁判所

 

 『東亜日報』の1924年7月1日付に掲載されている「洞・町内の名物」は、齊洞チェドンの「白松(재동백송」。場所的には、「北村プッチョン」の入り口にあたる。

 

◇我が斎洞には長安でも有名な白松があります。白松と言うのは文字通り白い松の木という意味です。白い松というと葉まで白いかと思いがちですが、葉っぱは他の松と同じく一年中緑色で、木の幹が普通の松とは違って白いのです。
◇この白松は、今は京城女子高等普通学校斎洞第二寄宿舎の中にありますが、何百年も前からここに白い姿で頑張っているのです。そして、この白松の故郷は中国なのです。多分李朝時代のことでしょう。恥ずかしながら我が国は、清国に朝貢を捧げるため使臣が行き来していました。
◇この白松は、清国に行ったある使臣が、あまりにも珍しい木なので、小さな白松を持ち帰って植えたものが今の斎洞の白松なのです。歳月は流れ世の中は変わり、官吏の格好をしたお大臣たちがぶらついていた松の下では、今は黒い服を着た日本人女学生たちが、この頃のように暑い日には日陰を探して白松の下にきて、本を読んでいるということです。世の中が変わったことを知らぬかのようです。

 この松の木は、今も斎洞の憲法裁判所の構内にあって、天然記念物第8号に指定されている。

 

 

  統理衙門と済衆院

 現在、憲法裁判所になっているこの場所には、1882年(高宗19)12月4日に、統理交渉通商事務衙門(統理衙門)が置かれた。それまで、華夷的な対外関係を司っていたのは礼曹だったが、国際法的な外交通商事務を管轄する必要から新設された官庁がこの統理衙門である。閔泳翊ミニョンイクの旧宅があった斎洞のこの場所が提供された。その横には洪英植ホンヨンシクの住居があった。

 

 1884年12月、金玉均キモキュン朴泳孝パギョンヒョ徐載弼ソジェピル・洪英植ら急進開化派が甲申カプシン政変を起こしたが失敗。金玉均・朴泳孝・徐載弼らは、日本公使竹添進一郎や日本守備隊とともに、翠雲亭チィウンジョン(現在の北村にあった)から統理衙門の前を通って慶雲洞キョンウンドン(現在の楽園商街ナゴンサンガの北側)の日本公使館に敗走した。

時に夜色暗澹として咫尺しせきを辨せず、一行之れを機とし、即ち宮闕の北門を出づ、樋口・上野の両陸軍語学生、其間道を知るの故を以て斥候兵に先だち之れが嚮導たり。経路峻嶮を極め、一歩一跌漸くにして翠雲亭に出づ、此に至りて我が公使館を僅に煙焔の間に見るを得たり。一同是に於てか勇を鼓し、進んで斎洞に出て統理衙門の前路を過ぐ、此時韓民左右より挟んで瓦礫を乱投し、甚しきは銃を放つものあり、先鋒の面高中尉之れに中って倒る、部下の兵士之れを扶助し、進んで十字街に出づれば公使館は僅に二町を出でざる距離にあり。

信夫淳平『韓半島』(276コマ)

 この時、洪英植は日本公使館には向かわず、北廟に向かった高宗コジョンに扈従し、その後殺害された。甲申政変に加担した者は全て「逆賊」とされ、国内に残っていた家族は死罪に処せられた。洪英植の家族も処刑された。

 

 甲申政変の発端となった郵政局での開化派の襲撃によって、閔泳翊は重傷を負った。この時、医師で宣教師のアレン(Horace. N. Allen)が閔泳翊の治療に当たった。それ以前からも西洋式病院の設立の動きはあったが、この事件を契機に医療機関設置が具体化することになった。アレンの提案もあって、1885年4月10日に西洋式の病院が開設され、済衆院チェジュンウォンと名付けられた。場所は、統理衙門の横。「逆賊」として家人が処刑されて誰もいなくなった洪英植の旧宅が改修されて済衆院の施設に当てられた。

 

洪英植旧宅に開設された済衆院

 

 済衆院は、1886年に銅峴ドンヒョン(現乙支路ウルチロ2街)に移転した。また、統理交渉通商事務衙門は甲午改革の1894年7月20日に外務衙門ウェムアムンに改変され、大韓帝国になってからは外部ウェブとして光化門クァンファムン前の官庁街に移った。

 

  女学校の設置と解放後の変遷

 大韓帝国時代の1908年に、漢城府ハンソンブ西部ソブ工曹コンジョ(現鍾路区チョンノグ都染洞トヨムドン)の建物を借りて、官立漢城高等女学校が設立された。

 

 

 官立漢城高女は、1910年に、統理交渉通商事務衙門や済衆院があった斎洞の跡地に木造2階建ての校舎を新築して移転した。日本による韓国併合以後、1911年に公布された朝鮮教育令により官立漢城高等女学校は官立京城女子高等普通学校と改称された。校舎は、南側の慶雲洞キョンウンドン(現ソウル老人福祉センター敷地)に移転し、斎洞の校地には寄宿舎が残った。

 

 

 1919年の3月1日、独立宣言が頒布されて「独立万歳」を叫ぶデモが京城の中心部で行われた。報道規制が解かれた3月5日の『大阪朝日新聞』の夕刊が「鮮人女学生万歳を絶叫しながら電車道を行進す」というキャプションをつけた写真を掲載した。

 

 これは、数少ない3・1運動の写真としていろいろな書籍やサイトに掲載されているものだが、この黒い服の女性たちは京城女子高等普通学校の女子生徒ではないかといわれている。髪型は、当時の内地の女学生の間でも流行していた「庇然と前へのめるほどに突き出したる形」という「廂髪(ひさしがみ)」。土曜日の午前の授業後にパゴダ公園(現在のタプコル公園)の北側にあった学校から鍾路に出て「独立万歳」を叫んだのだろうか…。

 

 1922年になって、斎洞の敷地(現:憲法裁判所)に新しい校舎を建築してここに移転し、京城公立女子高等普通学校となった。

 

学校建築記録物サイトより

『日本地理風俗大系』第16巻 新光社(1930)

 

 京城公立女子高等普通学校は、1938年の第3次朝鮮教育令の公布で、京畿公立高等女学校と改称された。そして、1945年に日本の植民地支配が終わると、10月15日に、内地人中心の教育機関だった貞洞チョンドンの第一高等女学校の校舎に学校を移した。その後、京畿キョンギ女子高校となる。京畿女子高校は1988年に江南カンナム開浦洞ケポドンに学校を移転し、貞洞の学校跡地は長く空き地になっていた。現在は、発掘調査がほぼ終わって璿源殿ソンウォンジョンなどが復元される計画が進行中である。

 

 一方、斎洞の京畿公立高等女学校の校舎には、1941年4月に新堂洞シンダンドンに開校していた第三高等女學校が、1949年7月に移転してきて、昌徳チャンドク女子高校となった。昌徳女子高校は、1989年2月に蚕室チャムシルのオリンピック施設の南側の芳荑洞パンイドンへ移転した。

 

 ちなみに、三坂みさか通(現:厚岩洞フアムドン)にあった第二高等女学校は、そのままの校舎を使って首都スド女子高校となった。首都女子高校は、2000年7月に新大方洞シンデバンドンへ移転した。

 

 

  憲法裁判所

 1987年の民主化宣言後、憲法裁判所法が1988年9月1日に発効した。憲法裁判所は、昌徳女子高校の移転跡地に建設されることになり、1993年6月に斎洞新庁舎が完成した。

 

 

 2004年、盧武鉉ノムヒョン大統領が行おうとした新行政首都の建設と首都移転について、憲法裁判所は憲法違反という決定をくだし、 盧武鉉政権にとって大きな打撃となった。また、国会で弾劾訴追された二人の大統領についての審判を行ったが、2004年の盧武鉉大統領については棄却、2017年の朴槿恵パックネ大統領については罷免の判決を下した。

 


 

 朝鮮王朝の激動の開化期から大韓帝国にかけて、日本による植民地支配を経て解放後の様々な変化まで、この白松は眺めてきた。『東亜日報』が斎洞の名物としてこの白松を取り上げてほぼ100年が経とうとしている。白松は、この100年間の変化にもさぞかし驚いていることだろう。