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一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

  • 日本の「こどもの日」
  • 韓国の「オリニナル」
  • 天道教少年会
  • こどもの日とオリニナルの共存
  • オリニナルの中断と復活

 

 5月5日は「こどもの日」、韓国でも「オリニナル(子供の日)」。同じ端午の節句だから…と思っている人も少なくない。しかし、韓国では、陰暦の5月5日の「端午節タノジョル」をそうそう簡単に陽暦に読み替えるというようなことはしないはず…。

 

 では、なぜ韓国では5月5日が「オリニナル(子供の日)」となっているのだろうか。

 

  日本の「こどもの日」

 日本の「こどもの日」の制定は、1948年7月20日に公布された法律第178号による。これは「国民の祝日」を定めたもので、この法令で、元日・成人の日・ 天皇誕生日・憲法記念日・こどもの日・秋分の日・文化の日・勤労感謝の日が休日とされた。

 

 5月5日がこどもの日になったのは「端午の節句」に由来する。1872年に太陰暦から太陽暦へと転換した日本では、さっさと陽暦の3月3日を「雛祭り」、陽暦の5月5日を「端午の節句」とした。1876年には、すでに都市部では陽暦5月5日に合わせて鯉のぼりを立てていたことが新聞報道から確認できる。ただ、1949年5月5日に「こどもの日」として祝日となるまで、5月5日は休日にはなっていなかった。

 

  韓国の「オリニナル」

 韓国で5月5日が「オリニナル」として祝日に定められたのは、1975年になってからのこと。この時に、陰暦の4月8日の「釈迦生誕日(プチョニミ オシンナル)」も一緒に祝日となった。その一方で、当時は「旧正(クジョン)」と呼ばれていた陰暦の1月1日を祝日にするのは見送られた。陽暦の1月1日がすでに祝日であり、「二重の年越し(二重過歲イジュングァセ)」の弊害が取り沙汰されていたからだ。

 

 

 「オリニナル」が祝日となった契機は、前年の1974年の5月5日に「セサックフェ(新芽の会)」が総務処長官に祝日化を請願したことで、それを『朝鮮日報』がこう報じている。

「オリニナル」を祝日に
新芽の会、総務処長官に請願

家族みんなで楽しめるように 父親が職場に行ったのでは家でお留守番
4日、新芽の会(会長尹石重ユンソッチュン)は、5月5日の「オリニナル」を法定の祝日にして、父親をはじめ家族全員が一緒に楽しめる日にすることを総務処長官に請願した。
 2年前に「オボイナル(父母の日)」を提唱して制定を実現した新芽の会は、大切な「オリニナル」に、大人は働きに行って子供だけが休むというのでは、家で留守番をする日になってしまい本末転倒だとし、「以前の子供の日は社会運動の性格を帯びていたが、今は社会運動から脱皮して、家庭を中心に子供が楽しむ日にすべきである」と主張している。
オリニナルは、1923年5月1日、方正煥パンジョンファン先生などの先覚者が制定して、すでに半世紀の歴史を有するものであり、1954年の第9回国連総会で、加盟国はその国の風俗に合った適切な日を子どもの日と制定するよう全会一致で決議し、1956年から多くの加盟国が「こどもの日」を祝日と定めて今日に至っている。
 韓国でオリニナルが定められるまでは、陰暦4月5日に、親たちが子供の数だけ竿を作って屋根の下に吊るし、その下に敷物を敷いて、餅と豆をついて一日中子供たちに与える習慣があった。
 日本の侵略下の「オリニナル」は、社会運動の性格を帯びていたが、解放後は家庭行事として定着しており、今や新しい歳時風俗となっている。しかし、祝われる子供たちだけが休みになって、祝う側の大人が職場に出なければならないため、事実上オリニナルの意味と価値は名ばかりのものになっており、ここ数年、オリニナルを祝日にすべきだという声が高まっていた。

 この記事にあるように、韓国のオリニナルは端午節とは無関係で、日本による植民地統治下の1923年5月1日(実際には1922年5月1日)に、社会運動として始まったものとされている。

 

  天道教少年会

 この記事に出てくる方正煥は、京城の善隣商業学校在学中に天道教チョンドギョに入信した。天道教とは、1860年に崔済愚チェジェウが儒教・仏教・民間信仰などを融合しして創始した「東学トンハク」がその源流。日本史や世界史の「日清戦争」の項目で、昔の教科書では「東学党の乱」、その後の教科書では「東学農民戦争」などと書かれていた、あの「東学」である。「東学」は日清戦争時の日本軍による「掃討」作戦などで大きなダメージを受けた。その「東学」を「天道教」として建て直したのが孫秉煕ソンビョンヒである。方正煥は、孫秉煕の娘と結婚し、普成ポソン専門学校(現在の高麗コリョ大学校)に通った。

 

 1919年の3・1独立運動で、孫秉煕の天道教は主導的な役割を果たした。方正煥は、この独立運動で謄写版刷りの『独立新聞』を配布して逮捕された。その後、東京の東洋大学の哲学科で児童文学と児童心理学を学んだ。帰国後、1921年に 金起田キムギジョン李正鎬イジョンホなどとともに「天道教少年会」を組織し、本格的に 子供のための社会運動を行なった。

 1922年5月1日に天道教少年会の主催で、少年保護運動が大々的に行なわれ、京城の目抜通り各所でビラを配布しパレードを行う情宣活動を展開した。そして、この日を「オリニナル」と名付けた。

 

 方正煥は、1923年3月には韓国初の純粋児童雑誌 『子ども』を創刊し、セットン会(子供会)を結成するなど、子供の保護育成、啓蒙活動を推進した。

 

  こどもの日とオリニナルの共存

 1927年の『京城日報』を見てみると、5月1日の紙面で朝鮮人の子供団体が参加して行われる「オリンイデー」の行事を紹介している。一方、5月5日の紙面では、「こども慰安日」として週末に行われる音楽会のプログラムが紹介され、鯉のぼりがデザインされ「お節句の祝いの酒は…」という赤玉ポートワインの広告が掲載されている。

 

左側が5月1日のオリニナルの記事、右側が5月5日のこどもの日の記事

 

  オリニナルの中断と復活

 しかし、1930年代に入り、日本が戦争への道を進み始めると「オリニナル」の行事への風当たりも強くなった。1937年には仁川などでパレードの許可が下りずに中止された。日中戦争開戦後の1938年の「オリニナル」には、街頭でのパレードは一律禁止となり、「オリニナル」の行事は中断された。

 

 今年は時局の関係で街をパレードしてこの日を祝うことはしないことになりましたが、この日が私たちの楽しい祭日であることに変わりはないので、私たちは心の中でパレードをして慎みつつこの日を祝いましょう。

 1945年8月、日本の植民地から解放された朝鮮では、早速「オリニナル」が復活し、翌1946年5月5日に様々な行事が開催された。この時以来、「オリニナル」は5月1日ではなく、5月5日になって今日に至っている。

 

 


 

 ソウルの地下鉄3号線の安国アングク駅5番出口を上がって、そのまままっすぐ行くと右手に天道教の古い中央大教堂チュンアンデキョダンがある。その入り口のところに「子どもの権利宣言跡」の石碑があり、その少し先には「世界子供運動発祥の地記念碑」が立っている。

 

 これも、韓国の「オリニナル」が天道教と深い関わりを持っていたという歴史を物語るものである。

 

  • 「セト民」という呼び方
  • 「帰順」から「脱北」へ
  • 黄長燁の越境
  • 脱北後にも「境界」が

 

 映画「不思議の国の数学者」が日本でも封切られた。北朝鮮から韓国へ越境してきた人々について、その処遇や呼び方には大きな変遷があった。

 

 

  「セト民」という呼び方

 2005年に「セトミン(새터민)」という韓国語が登場した。

 

国立国語院のチェ・ヨンギ学芸研究官は、「脱北者」は否定的な感じを与えるため、自由を求めて北朝鮮を離れて韓国で新しい生活を送っているという意味で、「新しい生活者(새살민セサルミン)」(「새삶인」の変異型)、「セト民(새터민)」(新しい生活拠点を求めてきた人)、「離郷民イヒャンミン(이향민)」のような呼び方を考えるべきだと語った。

 「脱北者」という呼び方に否定的なイメージがあるとして、政府の肝煎りで国立国語院で考案したのが「セト民」。新しい「セ」と場所の「ト」に「「民」を組み合わせた造語。

 

韓国言論振興財団のデータベースによる主要日刊紙の使用頻度

 

 セト民という造語は、当初はなかなか使われなかったが、2〜3年で公的な場では使用されるようになった。

 

 映画「不思議の国の数学者」でも、脱北者を支援する組織「セト民支援本部」が出てくる。とはいえ、日本語ではそうした造語はないし、使い分けができないので、字幕では「脱北者支援本部」となっている。

 

  「帰順」から「脱北」へ

 1990年代の初めまでは、北朝鮮から韓国に越境して来た人は「帰順勇士クィスンヨンサ」「帰順義士クィスンウィサ」と呼ばれた。1970年代まで、韓国と北朝鮮との経済水準では、必ずしも韓国が優っているわけではなかった。韓国は、豊かな部分と貧困とが混在する極端な格差社会だった。

 

 そんな韓国に「自由」を求め、「主体思想チュチェササン」の北朝鮮を見限って越境してきた人は、「越南ウォルナム帰順勇士特別褒賞法」の規定で報償金や年金が与えられ、社会生活面でも厚遇された。ただ、「偽装帰順」もあったため、情報機関での厳しい取り調べをクリアする必要があった。

 

 1983年にミグ戦闘機に乗って韓国に「帰順」した北朝鮮空軍の李雄平イウンピョン中尉は、13億ウォンの報償金を手にした。1987年に日本海を渡って日本に漂着し、その後韓国に入った金満鉄キムマンチョル一家にも報奨金と種々の社会的便宜が提供された。

 

 1985年に離散家族や芸術団の南北相互交流が実現したとき、韓国のMBCの「カメラ出動」が平壌で突撃インタビューを敢行した。北朝鮮の子供がカメラの前で「南朝鮮はアメリカの奴らのせいで子供達が空き缶をぶら下げて道をさまよって食べ物を漁っています」と答える場面が韓国で放送された。当時、ものすごい衝撃だった。

 

 

 一方、韓国では、子供の頃に反共ポスターで北朝鮮人の頭にツノを描くと褒められたという人もいる。

 双方で、こうしたプロパガンダが浸透した情報閉塞の中にいると、人は動こうとはしない。

 

 ところが、1988年にソウルオリンピックが開かれ、中国やソ連、東ヨーロッパの国々が参加した。北朝鮮は対抗して、翌年世界青年学生祭典を開催した。これには韓国から学生の林秀卿イムスギョン文奎鉉ムンギュヒョン神父が参加した。1989年にはベルリンの壁が崩壊した。このニュースは朝鮮半島でも南北を問わず非常に大きな関心を呼び、情報が徐々に拡散し始めた。

 

 この時期、1980年代の北朝鮮の農業政策の失敗により北朝鮮の食糧不足が深刻になっていった。そのため、北朝鮮から韓国へという人の流れが増加し始めた。韓国が「優遇」することができないくらいのレベルで増加した。そのため、1992年には「帰順者」としての扱いを停止せざるを得なくなった。

 

帰順勇士の年金廃止

定着金・住宅支援も縮小

 さらに、1994年になると、外貨獲得のためロシアなどに送られていた北朝鮮の出稼ぎ労働者の韓国亡命が相次いだ。また、豆満江トゥマンガン鴨緑江アムノッカンを渡って中国領に入り、迂回して韓国を目指す人々も目に見えて多くなった。一度動き出した流れは次第に大きくなる。韓国政府は、一般の越境者については最低限の定着支援金を給付して職業訓練などを行なうことにした。そして、困窮した北朝鮮を見限って脱出してきた人々という意味で、越境してきた人々の呼び方も「帰順者」から「脱北者」へと変わった。1995年以前、報道媒体では「脱北者」という言葉は使われていなかった。

 

「脱北者」の使用頻度

韓国言論振興財団のデータベースによる主要日刊紙の使用頻度

 

  黄長燁の越境

 1997年2月、朝鮮労働党の幹部であり、金日成総合大学の総長などを歴任した黄長燁ファンジャンヨプが北京の韓国大使館に亡命申請し、4月に韓国に入国した。

 

 黄長燁は「主体思想」の体系化にも貢献した金日成キミルソンの側近だった超大物。さすがにこのレベルの人物には「脱北者」という呼び方は相応しくないということで、この当時の報道では「脱北」という表現はほとんど使われていない。韓国社会に、対北優越意識と、北朝鮮から逃れてくる人々をも見下す意識とが芽生え始め、それが「脱北」という言葉に込められいたが故に、黄長燁を「脱北者」とすることが憚られたのであろう。

 

 その後、北朝鮮から韓国への越境が急激に増加してくると、普通の人であろうと大物であろうと、すべてが「脱北者」としてくくられるようになっていった。

 

  脱北後の「境界」

 北朝鮮からの流入民が出始めた最初の頃は、脱北者に対して、悲惨な暮らしを強いられた可哀想な同胞という同情も多く寄せられた。しかし、脱北者が急激に増加するにつれ、お荷物扱い、邪魔者視する風潮が韓国社会の一部で露骨になっていった。脱北者の中には、北朝鮮の本場の味を売り物に食堂を始めたり、事業を起こして手広く商売をやったり、北朝鮮では通えなかった大学や大学院に通う人たちもいた。

 

 2002年から板門店の休戦会談場ツアーに参入した板門店トラベルセンターは、2003年からツアーバスに脱北者を乗せて案内や質疑応答をするサービスを始めた。もちろん脱北者は休戦会談場までは入れず、一般の韓国人が行くことができる臨津閣イムジンガクでバスを降りる。

 

 2006年に「国境の南側(邦題:約束)」という映画が制作された。平壌ピョンヤンの芸術団のホルン奏者とその婚約者の女性が一緒に脱北しようとする。しかし、女性は脱北に失敗して離ればなれになる。その後、長い困難を乗り越えて婚約者だった女性も韓国にやってくるのだが……という悲劇のストーリー。この映画では、演出部のスタッフに脱北者がいて、中・朝の国境を越える際の案内員役として映画にも出演した。彼は韓国で大学に入り演劇関係の学科を卒業している。

 

「国境の南側」メーキング動画冒頭部分

映画「国境の南側」は 愛する女性を北に残して国境を越えた一人の男の物語だ。世界で唯一の分断国家である韓国ならではの悲しいラブストーリーだ。実際、「国境の南側」のスタッフには主人公のソヌと同じ境遇の人がいた。北に妻と娘を残して国境を越えてきた演出部のキム・チョロンさんだ。キムさんは映画の中でソヌの家族が脱出する場面で案内員を演じた。「国境の南側」でソヌは家族と共に豆満江を越えたが、キムさんは一人でこの川を越えた。演技ではあったが、脱北した当時の恐怖感や寂しさが押し寄せてきた。

 2008年には、脱北を描いた「クロッシング」が封切られた。数多くの脱北者たちのインタビューやドキュメンタリー映像などをもとに企画・制作されたもので、リアリティを追求した映画だった。しかし、それだけに悲惨な場面が繰り返し描かれることになった。おまけに著作権侵害の訴えが起こされたりして、観客動員数は伸び悩んだ。その一方で、アメリカのアカデミー賞の外国映画部門への出品作に選出されたり、年末のネットの映画評では3位になっている。

 

 

 2011年に、私は日本人の大学生グループと二人の脱北者の大学生の交流会に立ち会ったことがある。普通に話をしていると、どこにでもいる韓国の大学生と全く変わらない。ただ、韓国での違和感や疎外感は言葉の端々に感じられた。

 

 彼らは、それなりに韓国の中で居場所を見出せた脱北者なのだろう。しかし、韓国の商習慣や社会システムに慣れていないことからくる失敗も少なくなかった。定着支援金詐欺にあった脱北者が一文無しになってしまう事件なども起きた。北朝鮮での経験や資格・実績が韓国では認められず、落ち込むケースもあった。「境界」を越えてきたはずなのに、韓国での生活のさまざまな局面にも大きな「境界」が存在していた。そんな中で、すでに2000年前後から、脱北者の中から北朝鮮へのUターンを試みる者まで出始めた。そうした中で作られた「脱北者」に代わる呼び方が「セト民」だった。

 


 16年前の映画「国境の南側」では脱北者の「脱北」の苦しみや悲しみが描き出された。その2年後の「クロッシング」では、さらにリアルな北朝鮮の悲惨さと「脱北者」の絶望的な状況が描かれた。韓国の人々が、関心を持ち続けていると言いながらも、目を背けてしまうようなリアルさが…  

 「不思議の国の数学者」では、北朝鮮での実績を封印して韓国社会の片隅でひっそりと暮らす脱北者が描かれる。そして、南北の「境界」を越えてきた数学者の目に写った韓国社会の受験競争の中の「境界」をめぐるストーリーが展開される。

 

 北から南に境界を越えてきた人々は、呼び方も変わってきたし、韓国での待遇や生き方も変わった。そして描かれ方も大きく変わった。ただ、30年前までの「帰順者」から「脱北者」へと変わり、脱北者への差別や偏見が深刻化していったことが「セト民」という新しい呼び方を生み出す契機になった。そして、韓国社会の「北朝鮮」や「脱北者」を見る目も大きく変わってきている。

 

 北から「境界」を越えてきた人々が韓国で居場所を見つけるのは容易ではない。そして、韓国社会の中に存在する様々な「境界」もまた、簡単には無くなりそうにない。

  • 写真の撮影範囲
  • 旧朝鮮総督府庁舎と科学館
  • 南山の東本願寺

 

 国際日本文化研究センター(日文研)の「朝鮮写真絵はがきデータベース」に、景福宮勤政殿前に移転する前の朝鮮総督府庁舎や南山の東本願寺、赤十字朝鮮本部などを南山ナムサン中腹から撮影した写真の絵葉書がある。

 

 この絵葉書をもとに、南山の東本願寺や朝鮮総督府庁舎が今のどのあたりに当たるのか、また今日までどのような変遷をたどってきたのか、わかる範囲で追いかけてみた。

 

 

 

 オモテ面には宛先住所・氏名は書かれておらず「未使用」に分類されている。だが、写真面に「×印ハ弊医院」との書き込みがある。オモテ面の「日ノ出マーク」から、京城本町2丁目の「日之出商行」が制作したものであることがわかる。さらに、下1/3に線が引かれている。1918年2月まではオモテ面の1/3にしか通信文が書けなかったが、3月からは半分まで通信文を書いてよくなった。したがって写真の撮られた時期もこれで絞り込める。

 

  写真の撮影範囲

 絵葉書の写真の左上(E)に写っているのは、南山町3丁目の京城ホテルとその別館。

 

 

 1907年に、日本人倶楽部だった建物を譲り受けてホテルにしたもので、オープン当初から要人・著名人が利用するホテルだった。諏訪尚太郎の『朝鮮漫遊記』(1930)には、このように描写されている。

京城ホテルは洋風の大旅館であるが、我等一行の為に奥の別邸なる純朝鮮式の頗る古雅な一棟を与へてくれた。真中が十五畳、左右六畳、其奥が四畳半、各室共暖房の装置されてある部屋であつて、朝鮮の石佛等面白く配置された優雅なる庭園が此の亭を囲み、朝夕鵲(朝鮮カラス)が遊びに来る等心行くまで朝鮮趣味に浸り得る建物である。此の主人公
は江戸子なそうで女中に至るまで江戸子、料理も江戸料理に歯切れよい東京弁でかいがいしく世話してくれるので東京に居る様な落付いた気分にもなり得る。

 柳宗悦などもこのホテルを使っていた。柳宗悦の「全羅紀行」(『工藝』第82号 1938年3月)は、このような一節で締めくくられている。

京城に止まるること五日間。毎日持ち帰る品物で、京城ホテルの吾々の室は早くも一杯になった。帰る時が来た。私たちはそれらのものを通して多くの知己に逢うために、次の準備を急ごう。

 現在の地下鉄4号線明洞ミョンドン駅の1番出口を出ると韓国電力公社ビルがある。ここが京城ホテルのあった場所である。

 

 絵葉書の写真で京城ホテルと反対側、右端に写っている(F)は、1889年に日本人居留民会が開校した日之出小学校。内地人児童だけでなく、高宗の末娘徳恵翁主トッケオンジュなどもここを卒業している。ただ、徳恵翁主は1921年編入なので、この写真の時にはまだ通ってはいなかったが。

 

 解放後も日新イルシン国民学校として存続していたが、1973年2月に都心の児童数減少で廃校となった。校地は売却され、現在は南山スクエアビル(남산스퀘어빌딩)が建っている。

 

 ということで、1936年の『大京城府大観』でいうと、こんな範囲を1917年以前に撮影した風景ということになる。撮影場所は、京城神社(現在の崇義スンウィ女子大)だとちょっと低すぎる。その後ろの南山公園をかなり上まで上がったところだろう。

 

大京城府大観(1936)

 

 上述のように、この絵葉書には、日之出小学校の左側に×印が付けられ(G)、キャプションの横に「×印ハ弊医院」との書き込みがある。『大京城府大観』は、地図作成に出資した協賛者に番号をつけて地図上に表示し、町内別に協賛者の一覧を掲載している。本町2丁目の「32」は、「京城医院」となっている。場所的に×印の位置と一致する。

 

 京城医院は、1906年に岡山医専を卒業した村上憲祐が開業した病院。1917年に渡米する村上憲祐に代わって岡山医専の同級生鈴木茂が岡山から京城にやってきて京城医院を引き継いだ(『京城府町内之人物と事業案内』京城新聞社 1921年)。この絵葉書の書き込みは、村上憲祐が岡山にいた鈴木茂に京城医院の場所を知らせたもの…あるいは、鈴木茂が引き継ぎの挨拶がわりに使ったもの…かもしれない。絵葉書の制作時期とは矛盾はないのだが、決め手はない。

 

 写真中央の赤十字社(D)は、日本赤十字社朝鮮本部だったところ。現在もここに大韓赤十字社テハンチョクシプチャサがある。

 解放後の1959年に、この絵葉書の写真と同じようなアングルで撮られた映像がある。この年の5月23日に行われた安重根アンジュングンの銅像の除幕式の映像である。この時には、すでに朝鮮総督府の建物(A)(B)と東本願寺の建物(C)は、なくなっている。

 

大韓ニュース第215号

  旧朝鮮総督府庁舎と科学館

 絵葉書のキャプションで「朝鮮総督府」とされている(A)(B)の建物は、1936年の『大京城府大観』では「科学館」と表記されている。(A)は、1907年に統監府庁舎として建築され、1910年8月の韓国併合後は朝鮮総督府庁舎として使用された。(B)はその後に1913年に増築された庁舎。1915年冬からは、景福宮の光化門と勤政殿の間に総督府庁舎を新築する工事が始まり、この新庁舎は1926年1月に完成し、朝鮮総督府は移転した。

 

 総督府移転後の南山の旧庁舎は、科学館・商品陳列館として利用されることとなり、改修工事や内装、展示備品の準備などを経て、1927年5月10日に科学館がオープンした。

 

 

 1945年の日本の敗戦後、米軍政庁の統治下で「科学館クァハッカン」は1946年2月に再開している。

 

 

 ところが、朝鮮戦争の最中に(A)(B)の建物はいずれも燃失してしまった。1953年の朝鮮戦争停戦後、唯一焼け残った旧科学館の倉庫に「科学館」の看板を掛け、事務機能だけがかろうじて存続していた。1954年末に韓米財団の支援で「科学館」の展示部門の再建が報じられたが、結局実現しなかった。

 

この建物は絵葉書の(A)の左下に写っている
1959年の安重根の銅像の右側にも半分見えている

 

 1956年に、旧朝鮮総督府(A)の跡地にはKBSラジオの「南山演奏所ナムサンヨンジュソ」が建てられた。1976年までこの場所でラジオ放送が制作され、放送が流れた。安重根の銅像の右側後方に大きく見える建物がKBS局舎である。

 

KBS, 남산 라디오 방송국의 시설과 구조より

 

 1976年にKBSが汝矣島ヨイドに建設された新社屋に移ると、この旧社屋は国土統一院クットトンイルウォンの庁舎として使用された。1986年から国家安全企画部(安企部アンギブ)に移管されたが、1995年の安企部の内谷洞ネゴクドン新庁舎移転に伴ってソウル市の施設となり、1999年にここをソウルアニメセンターとしてオープンした。現在、アニメセンターの建て替え工事が進められており、旧KBS社屋はすでに撤去された。

 

  南山の東本願寺

 真宗大谷派(東本願寺)は早くから釜山で布教を始めた。1890年に京城に布教所を置き、1895年にはこれを真宗大谷派京城別院とした。絵葉書に写っている建物は、1906年11月に完成した本堂で、高宗皇帝から大韓阿弥陀本願寺の扁額を下賜された(『本願寺誌要』1911年)。

 

 日本の敗戦後、南山の東本願寺の建物は、1947年10月から国民大学館クンミンデハッカンの校舎として使われた。国民大学館(現在の国民大学校)は、大韓臨時政府の申翼煕シンイクヒが朝鮮に帰国した後、解放後の朝鮮に大学を設立しようとしたものの米軍政庁から大学としての認可が下りず、「大学館」として開学したものだった。朝鮮仏教中央総務院の総務部長で海印寺の住持だった崔凡述チェボムスルが国民大学館の運営に参画したこともあって、東本願寺の使用が実現したのであろう。しかし、ソウル市は、旧東本願寺を「国際社交場にする」という理由で国民大学館に立ち退きを求めた。学生や教職員の強い反発で、1948年2月には過渡立法議院でも取り上げられるほどの大騒ぎになった。結局、国民大学館は、昌成洞チャンソンドンの旧逓信要員養成学校の跡地(現在の政府ソウル庁舎昌成洞別館)に移転することで決着し、その夏には大学としての認可を得ることになる。

 

 国民大学館が退去した後の旧東本願寺には、ソウル市の生活改善硏究舘が置かれ、1950年3月にはソウル市立美術硏究院が開設された。ここで朝鮮戦争が勃発した。各地で多くの孤児が出る中で、大韓テハン児童院アドンウォン白仁哲ペギンチョルが運営する孤児院が、旧東本願寺の建物を使って開設された。運営資金は、アメリカ軍の第10防空戦闘連隊の将兵が提供した。

 

 ところが朝鮮戦争が停戦になると、孤児院は次第に資金不足となった。そうした中で、1955年9月、白仁哲が沈義赫シムウィヒョックに孤児院を奪われたと訴え出たという報道記事が出た。

 

孤皃院奪われたと白仁哲氏が提訴

朝鮮日報1955.09.10記事

「以前CACの通訳を務めていた沈義赫という三愛サメ保育園園長が、私が経営していた孤児院を奪ったので取り戻してほしい」という訴訟を、現大韓児童園復旧対策委員会長の白仁哲氏が提起し、話題になっている。すなわち、白氏が提起した訴訟内容では、ソウル市内南山洞にある現在の三愛保育園は、元々大韓児童園という看板を掲げて白仁哲氏が経営していたもので、以前CACで通訳を務めていた沈義赫がCACにいるアメリカ人や米軍の力で不法に奪ったものなので、取り戻してほしいということだ。この孤児院が白仁哲氏のものだった事実は、ソウル市の当局者や社会事業連合会でも認めており、強奪の当時、米軍を利用していた事実から、過去の通訳の時の所業が明らかになったのではと当局の捜査結果が注目されている。

※CAC=韓国民事援助司令部

 

 現在、以前東本願寺のあった場所の北東部分には、漢陽ハニャン教会の教会堂が建っている。

 

漢陽教会の沿革に、このような記載がある。

1945年10月10日 全仁善チョニンソン牧師が南倉洞ナムチャンドンにあった日本人組合教会を引き継いで「ソウル教会」を創立、その後「倉洞チャンドン教会」に改称。

1953年8月12日 金致善キムチソン牧師を臨時牧師として招聘、会賢洞フェヒョンドン3街に敷地を購入。

1955年9月 現在の南山洞ナムサンドン3街の位置に賃貸借契約。教会を移転し「漢陽ハニャン教会」に改称。

1956年 原因不明の火災で建物が全焼。天幕で臨時礼拝所を設置。

 (中略)

1967年12月30日 南山洞の教会敷地に現在の教会堂竣工。

 1955年の9月に、倉洞教会が旧東本願寺の賃貸借契約を結んだことと、白仁哲が沈義赫を乗っ取りだと訴えたのとが時期的に重なっているのは単なる偶然ではなかろう。白仁哲の訴訟の成り行きはわからないが、この時点で旧東本願寺の建物は「漢陽教会」として使われることになったと思われる。ところが、翌年に旧東本願寺の建物は原因不明の火災で消失してしまった。

 

 そして、1967年12月30日に漢陽教会の今の教会堂が完成するのだが、その位置は旧東本願寺の本堂の場所ではなく、敷地の北東寄りの一角である。元々東本願寺本堂があった場所はソウル市の公有地で、その南側一帯には、すでに1961年にKBSのテレビ放送用局舎が建てられていた。漢陽教会は、1955年の賃借契約を根拠に教会堂を建設したのであろうか。

 

 1976年に汝矣島にKBS放送局社が建設されると、KBSラジオ局とともにこのテレビ局も汝矣島の新社屋に移った。KBSのテレビ局舎には、韓国映画振興公社ヨンファジヌンコンサが入り、文化公報部ムナコンボブ傘下の公団として映画資料の収集・展示を行なっていた。

 

 

 1989年に土地と建物が売却され、その後は、ケーブルテレビ局が使っていたが、現在はどうなっているのか把握していない。建物はそのまま残っている。

 


 

 ここまで、1910年代の絵葉書の風景から、2023年の今日までの「歴史散歩」をしてみた。

 

 

 絵葉書当時からのもので今日残っているのは、東本願寺の石垣と旧KBSテレビ庁舎駐車場に残る小さな石柱くらいだろう(りうめいさんの教示による)。それでも、こうしてトレースしてみると日本による侵略の時代の街並みをイメージすることができる。