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一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

  • 님の変遷
  • 미스と미스터の消滅
  • 님の新しい使い方

 

 日本語の「誰々さん」の「さん」にあたる韓国語は?と聞かれることがある。だが、日本語の「さん」にあたる広い範囲で無難に使える敬称を韓国語に置き換えるのは難しい。もちろん韓国語の敬称も色々あるのだが、それぞれの説明が大変なのだ。

 

 2008年9月に出版された小学館『日韓辞典』には、「- さん」の使い分けについてこのような説明がある。

- さん  씨, 님, 선생, 선생님
使い分け
씨 (氏)  同等または目下の人に対する敬称。呼びかけの際には、通常김철수씨のようにフルネームに付けて用い、日本語のように苗字に付けて김씨と言うことはしない。親しい間柄では철수씨などのように名前に付けて用いられることもある。また,メディアで犯罪容疑者の名前を報道する際にも、박모씨(朴某氏)のように씨を付ける。
  上司や家族・親戚など目上の人に対する敬称。사장님(社長さん)、 과장님(課長さん)、아보님(お父さん)、고모님(おばさん)のように、肩書きや家族・親戚関係を表す語に付けて用いられる。また、銀行や病院などで人を呼ぶときに姓名に直接付けて用いられることもある。
선생(先生)  同等または目下の人に対する敬称。ほぼ日本語の「さん」に近い。一方,선생님はより格式ばった言い方で、実際に教わっている先生や牧師(목사 선생님)、医者(의사 선생님)などに対して用いられることが多い。

 「〜씨」や「〜선생」は以前からずっと使われていた。「님」も、선생님の例がそうであるように、「肩書きや家族・親戚関係を表す語に付けて」使われていた。ただ、1990年代までとはだいぶ使い方が変わってきているのだ。

 

  ニムの変遷

 この『日韓辞典』の「님」の解説では「姓名に直接付けて用いられることもある」、つまり「金敏俊キムミンジュン님」とか「李知友イジウ님」と使われるということになっている。確かに今の韓国社会ではこの用法を目にしたり耳にする。

 

 だが、1990年代までは、「姓名に直接付けて」ではなく、「姓名もしくは姓+職位」、目上の場合は「姓名もしくは姓+職位+님」のように使われていた。1973年出版の『東亜 新コンサイス国語辞典』には、「人の呼称の下につけて目上に対して使う」とある。つまり、姓名に直接ではなく、役職や肩書きに님をつけていた。

 


동아 신콘사이스 국어사전(1974)

 

 1980年代、韓国に進出した日系企業の韓国人従業員の大きな不満の一つが、なかなか肩書きがつかないことだった。昇進が遅いということではなく、ヒラ社員のままだと肩書きがないので職場での呼び方・呼ばれ方に不便、님をつけて呼ぶこともできない。そこからくる不満だった。

 

 韓国ドラマでは、「金デリ」「李デリ」とデリがやたらと出てくる。韓国の会社の男性社員の場合、入社してしばらくすると代理(デリ)の肩書きが与えられる。すると、「金대리」「李대리」、「대리님」と呼んだり呼ばれたりすることができるようになる。

 

映画「サムジンカンパニー」(2020)

 
 ここでは、チェドンス代理が、書類を見つけてくれたイジャヨンを「선배」と님をつけて呼んだことで課長に小言を言われる。小言を言うときには、「ミス李」ではなく「イジャヨン」とフルネームで呼ぶ。親が子供を叱ったり褒めたりする時も、このフルネーム呼びをよく使う。いってみれば、説教をするとき、そして褒めて育てようとする時には、フルネームで人格を認めているポーズを取るのだ。
  

 ところで、肩書・役職名ではなく、姓名に直接님を付けて使う用法に私が気づいたのは、1990年代に入ってからのパソコン通信上だったと思う。その頃、日本のニフティサーブと韓国の千里眼チョルリアンが接続可能になり、ハングルでのやり取りを目にしたのだが、そこでは「김민준님」とか「이지우님」といった使われ方をしていた。

 

 新聞検索で探すと、1996年9月26日付の『東亜日報』に韓国でのパソコン通信に関する記事があった。その中に、次のように書かれていた。

또 PC통신 안에서 상대방에 대한 예의가 사라지고 있다면서 예절을 지키자는 운동도 벌이고 있다. 케텔은 하이텔의 이전 이름으로 회원들은 92년 5월 이전 부터 PC통신을 해왔던 온라인 초창기 세대들. 현재 회원은 2백50여명이다.

나이에 관계없이 상대방 이름뒤에 「님」자를 붙여 존칭을썼던 것도 케텔시절 에 만들어진 전통이다.

 

 また、パソコン通信で相手に対する礼儀が失われているとして、マナーを守る運動も展開している。ケテル(KETEL)はハイテル(HiTEL)の前身で、その会員は92年5月以前からパソコン通信をやってきたオンライン草創期の世代。現在、会員は250人余りだ。
 年齢に関係なく相手の名前の後ろに「님」をつける尊称を使ったのもケテル時代に作られた伝統だ。

 韓国のパソコン通信のケテルがサービスを開始したのが1989年11月、1992年7月にハイテルになった。この記事によれば、ケテル時代に、年齢も肩書や職位も分からないオンライン上でのコミュニケーションで、お互いの姓名に直接「님」をつける使い方が始まったということである。それが、インターネットの時代にも引き継がれ、さらにネット以外の対面の場面でも使われるようになったのであろう。私の記憶ともほぼ一致する。

 

 この「님」の使い方、メールや文字メッセージでは結構活用できた。だが、オフラインの対面となると、やはり相手の年齢や肩書・社会的地位と無関係に님だけを姓名につけて呼ぶのは無理だった。ところが、ここ数年で大きく変わってきた。詳しくは、後述する。

 

  미스と미스터の消滅

 2008年出版の小学館『日韓辞典』の「- さん」の項目には出ていないが、1993年の小学館『朝鮮語辞典』には、 미스と미스터の項目にはこのようにある。「〜さん」や「〜君」の敬称として使われていた。

 

 

 ところが、2018年に小学館『韓日辞典』と書名を変えて刊行された改訂版では、赤線部分の注記が付け加えられている。

 

 

 つまり、1980年代までの職場で使われていた미스や미스터が、2008年の『日韓辞典』の編集作業の時期にはすでに使われなくなっていた。2018年の『韓日辞典』では、過去の用例として①の意味を残して注記を入れたということだ。

 

 確かに、私が1980年代にソウルで勤務していたオフィスには、「ミス金」や「ミス李」それに「ミスター金」と呼ばれていたスタッフがいた。見下されていたわけではないが、職場の序列でいうと下位だったことは事実。

 

 1988年の「男女雇用平等法」の制定を前に、ある保険会社が職場での呼称についてアンケート調査を行った。それによると、男性の63%がフルネームか役職名で呼ばれているのに対し、女性の88%が「미스+姓のみ」で呼ばれており、女性の多くがその呼び方を嫌っているという結果が報じられたことがあった。

 

 

 1995年の会社を舞台にした映画「サムジンカンパニー」(2020)にこんな場面がある。高卒の女性社員チョン・ユナは制服を着て大卒社員のサポートばかり。マーケティング部長は、企画会議に参加している大卒の女性社員は「チョ・ミンジョン」とフルネームで呼ぶ。これは、上述の叱る時と同じように、人格を認めるポーズである。

 しかし、昼食のハンバーガーを配るチョン・ユナには、「ミス・チョン、何かいいアイデアない?」と話しかける。

 

 

 2020年に制作された映画のこの場面は、1990年代の「미스〜」の使われ方を実に上手に描写している。


 男性に対して使われた「미스터」についても同じような使われ方だった。

한국에서는 1990년대까지만 해도 남성 신입사원이나 평사원을 이 호칭을 써서 '미스터 김', '미스터 박'처럼 부르는 경우가 많았다. '굳이 이름을 기억할 필요가 없다', '영어권처럼 세련된 느낌을 준다' 등의 온갖 이유로 윗사람들이 상당히 애용하던 호칭이었으나…

 

韓国では1990年代までは男性新入社員や平社員を「ミスターキム」「ミスターパク」のように呼ぶことが多かった。 「あえて名前を覚える必要はない」、「英語圏のように洗練された感じを与える」といったいろいろの理屈をつけて目上の人がよく使っていた呼称だったのが…(後略)

(나무위키より)

 

 1997年の『東亜日報』にはこんなイラストと記事が出ている。

「ミスチョン、この書類10枚コピーしてくれ」「ミスターキム、私今忙しいんですが!」

 ある職場で年上の部長が「ミス〜」と呼びかけると、気の強い女性社員が「ミスター〜」とそれに応じたので部長が当惑したというエピソードだ。

 この記事では、結論として、部下に対しては「フルネーム+씨」を、上司に対しては「姓+職位님」を使うべきだとしている。미스・미스터はやめるべきだというキャンペーンであった。

 

 これを最初に具体化させたのがソウル市庁だった。1999年7月の「男女差別禁止および救済に関する法律」の施行を前にして、ソウル市長の高建コゴンが、ソウル市庁の幹部会議で미스と미스터を使わないよう指示した。

 

女性職員をミスと呼ばないように
高建市長、男女差別法施行を控え、身内の改革

 「今後、女性職員を”ミス·リー””ミス·キム”と呼ばないように」
 7月1日の「男女差別禁止および救済に関する法律」施行を控え、ソウル市が身内の改革に乗り出した。
 高建市長は、31日の幹部会議で、「”ミス·リー”と呼ぶのは男女差別には当たらないのでは…という主張もあろうが、それは誤った考え」とした。高市長は「私も若い頃にミスター·コと呼ばれると気分がよくなかった」と述べ、「外国人にとってはミスやミスターは尊称だが、韓国では必ずしもそうではない」と指摘し、「今後は女性職員を呼ぶ時は”○○○氏”と名前を呼ぶようにせよ」と指示した。
 この日の幹部会議でのニュースが伝えられると、ソウル市の公務員の間では「女性の部下を呼ぶのが怖い」「社会的流れなので思考を転換するのは当然」といったさまざまの反応があった。
 高市長が身内の改革に乗り出したのは、最近、大気保全課の李チョンソンさん(行政8級)が庁内ネットワークに「どうしても”ミス·リー”にはなりたくない者の抗弁」というタイトルの書き込みをアップし、関心を集めたのがきっかけとなった。

 これがきっかけとなって、市長以外の各職場でも、미스と미스터を付けて部下や同僚・後輩を呼ぶことが急激に減少し、韓日辞典の改訂版では、「差別的なニュアンスがあるので最近はあまり用いられない」という注記が入れられることになった。

 

  님の新しい使い方

 2016年6月27日に、サムソンが人事制度の改革案を公表した。その中で、従業員間の呼称についても新しい呼び方が示された。


삼성은 수평적인 조직 문화를 위해 직급 단계를 단순화하겠다고 밝혔다. 그러면서 임직원간 호칭을 ‘님’으로 통일하고 부서별로 업무 성격에 따라 ‘프로’, ‘선후배님’ 또는 ‘영어 이름’  등 자율적으로 호칭을 사용할 수 있게 했다.

サムソンは、水平的な組織文化造成のために役職名・肩書を簡素化すると明らかにした。それとともに社員間の呼称を「ニム」に統一し、部署別に業務性格に応じて「プロ」、「先輩後輩」または「英語名」などの呼称を使用するものとした。

国民日報

 つまり、「姓名+님」を使うことで、社内の上下関係のあり方を変えようとするものである。ただ、当時からこれに対してやや懐疑的なコメントもあった。

 

今回サムソンで平社員から部長までの基本的な呼び方を姓名の後に「님」とつけることにした、その理由は水平的な組織文化、つまり柔軟な組織文化を作って革新的な企業にしようというものですよね。ただ、一方では、呼び方だけを変えて新しい企業文化ができるのか、昨日までチョン部長님と呼んでたのを突然チョン・チャンベ님、チョン・チャンベ先輩님と呼べるだろうか、呼び方だけ変えて組織文化が変わるのかという声もあります。私個人の考えでは、呼び方を変えてしばらくすればマインドが変わってくることもあります。サムソン以外の大企業でもすでに呼び方を変えている企業も多いので、その企業文化を見守る必要があるでしょう。

 このコメンテーターの発言にあるように、当時サムソン以外の大企業でもこのような「水平的呼称」の導入が行われた。ただ、年上か年下か、あるいは役職・肩書の上下で言葉遣い(チョンデンマルかパンマルでもよいのか)が違う韓国人の社会生活で、「姓名+님」に移行するのは容易ではない。事実、サムソンと同じく2018年から社内の呼び方を「姓名+님」に統一するとしたLGユープラスで、今年(2023)4月に、「님を積極的に活用している」「使いたくても님を使えない」の二択で社員の匿名投票を行ったところ、「姓名+님」呼称を使っている社員が127人(61.6%)、使えないとする社員が79人(38.4%)という結果が出たという。役職や肩書を使わずに呼ぶのには5年経ってもまだ抵抗感が強いということだろう。

 

アジア経済新聞より

 

 大企業の「水平的呼称」が話題になると、この動きは教育界にも波及した。2019年にソウル市教育庁は、庁内職員間ではニム프로プロセムを使い、児童・生徒は教師に対して선생님ソンセンニムのかわりに「姓名+님」を使うという提案をした。しかし、これに対しては、教師としての権威をないがしろにするもの、あるいは「쌤」は標準語ではないといった反対論が出され、結局、教育庁の案は保留になった。

 

 「セム」は、2000年代になって선생님ソンセンニムを縮めた言い方として携帯電話の文字ムンチャメッセージなどで使われるようになった。2013年には、TVバラエティ番組「島の先生(섬마을ソムマウル セム)」でタイトルにも使われ、2019年のドラマ「ブラックドッグ」では教師同士の会話の中で「쌤」が自然に使われている。

 

 

 2021年6月、全国教職員労働組合(全教組チョンギョジョ)が「教師は児童・生徒をOO님と呼ぶべき」という指針を出した。一部教師からは「児童・生徒はお客なのか?」という反発も出たが、学校で子供たちを님で呼ぶ教師も出てきた。また、児童同士も님で呼ぶように義務付けている学校もある。さらに、子供同士の会話でも、丁寧な言い方をするよう推奨する学校も出てきている。

 

 

 とはいえ、今のところ、まだ韓国語学習者が「姓名+님」の呼称を実際に使うという状況にはないようだ。だが、님の使い方の変化は、新しい韓国語の流れとして押さえておくべきであろう。

 1960年5月、日本の敗戦で朝鮮の植民地統治が終わってから初めて韓国政府が日本の記者15人に取材ビザを出した。韓国政府は、5月3日、「韓・日間の理解増進」のため一定数の日本の特派員の入国を認めることを表明した。

 

 

 当時は、まだ日本と韓国の間に国交がなく大使館はなかった。だが、東京には韓国代表部が置かれており、日本の全国紙・地方紙・通信社・放送局の13社15名の記者が取材ビザを代表部に申請した。韓国政府や韓国のマスコミは、日本側の反応を強い関心を持って見守っていた。

 

 韓国の主要各紙は、5月11日に、AP通信が東京発で配信した日本人記者15名の名簿を掲載した。この15名に3ヶ月の取材ビザが発給された。

 

 この名簿は、アルファベット表記された日本人記者名を韓国の合同通信が一部を漢字化したのであろう。名字に誤りがあったり、漢字化できてないものがある。このときにビザが出たのは以下の15名である。

 

朝日新聞  矢野俊一
読売新聞  浜淵修三
毎日新聞  新井宝雄
産経新聞  菅栄一
日本経済新聞  長谷部成美
東京新聞  鎌田光登
西日本新聞  向井正人
共同通信  長与道夫
時事通信  小田武次郎
NHK  背黒忠勝
NHK  斉藤 三次
ラジオ東京  高橋武郎太
ラジオ東京  尾崎義一
NTV  萩原一成
フジテレビ  松下昭三

 

 これらの人たちがソウルからどのような報道をしたのか気になるところだが、今わかるのは一部の全国紙の記事のみ。特にテレビ、ラジオ関係は残念ながら映像や音声が探せない。

 

 その前に、解放後の日本のプレスの韓国取材の前史を見ておく必要があろう。

 

  朝鮮戦争時の取材

 実は、日本人記者が解放後の朝鮮半島で取材をするのは、これが初めてではなかった。1951年6月、前年に勃発した朝鮮戦争が膠着状態に陥ると、7月10日から開城ケソンで休戦会談が始まった。休戦会談開始に先立って、国連軍司令部は日本人記者の現地取材を許可することにした。韓国国内での取材ではあったが、あくまでも国連軍の従軍記者としての活動という建前であった。李承晩イスンマン政権は日本人記者にビザを出さなかった。

 

 7月11日、羽田空港から米軍軍用機で16社18人の記者が金浦キムポ空港に向かった。

鈴川勇(朝日新聞)、小平利勝(読売新聞)、今村得之(毎日新聞)、安藤利男(産経新聞)、木原健男(日本経済新聞)、染川洋二郎(日本タイムズ)、内藤男(時事新報)、笠井真男(東京新聞)、小屋修一(西日本新聞)、三浦英男(中部日本新聞)、吉富正甫(大阪新聞)、石坂欣二(北海道新聞)、藤田一雄・渡辺忠恕・源関正寿(共同通信)、千田図南男(時事通信)、江越壽雄(サン通信)、中村重尚(NHK)

 ソウルに到着した翌日の7月12日、各社の記者による第一報が報じられた。第一報では、「日本統治下の京城」、ソウルの街が廃墟になっているという感傷的な書きぶりも目についた。

 

 この時期は、李承晩は「リショウバン」、金日成は「キンニッセイ」だし、まだ韓国の首都の呼び方も「京城」と「ソウル」が混在していて、まだ「京城」の呼称の方が多かった。

 

 その後、日本の主要報道各社は、記者を交代させながら国連軍の従軍記者の資格で韓国内での取材を続けた。1953年7月27日、国連軍と朝鮮人民軍・中国義勇軍の司令官が休戦協定に署名し、朝鮮戦争は休戦となった。「北進統一」に固執する韓国の李承晩は休戦協定に署名しなかったが、休戦は受け入れた。休戦となった後も日本の記者は韓国内に留まって取材をしていた。例えば、1954年12月3日の『朝日新聞』は、11月の「四捨五入改憲」(李承晩の長期執権を可能にする改憲)と韓国内の政治情勢についての「京城矢野特派員」による記事を載せており、国連軍従軍記者でありながら実際には韓国駐在の特派員の役割を果たしていた。

 

 ところが1956年11月、韓国政府は、日本人記者の韓国入国については国連軍司令部の証明だけでは認められないとして、共同通信・朝日新聞・毎日新聞の記者に退去命令を出した。

 

 

 これを受けて、朝日・毎日と読売の各新聞社、それに共同通信が東京の韓国代表部に改めて取材ビザを申請しようとしたが、韓国側はこれを受理しなかった。これ以降、日本人記者は韓国に取材のために足を踏み入れることができなくなっていた。

 

  1960年5月ビザ発給の背景は…

 1960年、3・15大統領選挙での不正に抗議する学生デモが市民や中高生も巻き込んで次第に拡大し、4月19日には警察隊が大統領官邸の景武台キョンムデを目指したデモ隊に向けて発砲して多数の死傷者が出た(4・19学生革命)。これによって李承晩退陣要求のデモはさらに全国規模に広がり、ついに李承晩は4月26日にラジオを通じて大統領辞任を発表するに至った。この結果、4月28日に許政ホジョンを首班とする暫定政府が発足した。

 

 日本人記者の受け入れ表明は5月3日なので、暫定政府成立後すぐに突然日本人記者への対応が変わったように見える。だが、それ以前からの韓国を取り巻く状況を見ると、李承晩政権時から日本人記者の受け入れについてはすでに検討されていたものと思われる。

 

 前年の1959年に、日本政府は在日朝鮮人の北朝鮮帰国(「北送」)を容認し、8月にインドのコルカタで日本赤十字社と朝鮮赤十字会の間で「在日朝鮮人の帰還に関する協定」が結ばれた。韓国政府や在日の韓国居留民団(民団)はこれに強く反発して「北送」阻止の運動を展開したが、12月14日に第1次帰国船が新潟港を出港した。この第1陣の帰国に合わせて、朝日新聞の入江徳郎・岡光真一、読売新聞の秋元秀雄・嶋元謙郎、毎日新聞の清水一郎、産経新聞の坂本郁夫、共同通信の村岡博人の5社7人の記者が香港・中国を経由して朝鮮民用航空機で1959年12月19日に平壌ピョンヤンに入った。19日間の滞在中、北朝鮮に帰国した在日朝鮮人の歓迎ぶりや北朝鮮の生活が各紙紙面に報じられ、翌年4月には、この時の取材記事をまとめた『訪朝記者団の報告 北朝鮮の記録』も出版された。ただ、この本には、なぜか入江徳郎と岡光真一の二人の朝日新聞記者の記事は収録されていない。二人が訪朝取材団に入っていたことは本の中で言及されてはいるのだが…

 


 

 さらに、実際には実現しなかったが、1960年1月には第4次帰還船で日本と北朝鮮の報道関係者16名ずつが相互に取材訪問をするという動きもあり、韓国側では強い関心をもって注視していた。韓国政府は、在日朝鮮人の北朝鮮への帰国には激しく反発しつつも、北朝鮮との対抗上、日本のマスコミ関係者に韓国を直接取材させる必要性を感じていたと思われる。

 

 もう一つの要因は、この1960年の1月から取り沙汰されるようになったアメリカ大統領アイゼンハワーの東アジア歴訪である。フィリピン、台湾、沖縄、日本、韓国を6月にも訪問すると報じられていた。アイゼンハワー大統領の新聞係秘書ハガティ(ハガチー)は、4月17日に韓国を訪問し、アイゼンハワー訪韓時の日本取材陣の韓国入国について「日本人記者の入国を李承晩政権は許容するであろう」と述べていた。つまり、李承晩政権下で、すでに日本人記者への取材ビザの発給は内々決まっていたとみられる。

 

 

 ただ、この時点では、李承晩が大統領を辞任する事態になろうとは思われてなかった。さらに、日本で日米安全保障条約改定の反対運動が激化しアイゼンハワー訪日が中止されることになるとは、全くの想定外だった。

 

  記者の渡航と取材

 冒頭のリストにある15名中、14名の特派員は5月17日に羽田から午前11時発のCivil Air Transport(CAT:台湾の民航空運公司)便で金浦空港に向かった。


 

 ところが、朝日新聞の矢野俊一だけは、その前日の16日、立川の米軍基地から米軍輸送機でソウルに向かい、夜0時3分(現地時間:この当時日本と韓国との間には30分の時差があった)に金浦空港に到着した。

 

 

 矢野俊一は、1954年から1955年にかけて国連軍の従軍記者として1年間ソウルに滞在して取材した経験があった。その時のコネクションを使ってアメリカ第8軍広報部に話をつけて「抜け駆け的先乗り」をしたものらしい。矢野は、出迎えた米軍広報部の車で通行禁止の中をソウル市内に入り、光化門クァンファムン交差点にあった国際電話局に直行すると、真夜中に翌日の朝刊用の記事を送った。5月17日の『朝日新聞』朝刊には「日本人記者として京城に一番乗り」という記事が掲載さた。午前11時のCAT便に搭乗して羽田から金浦に向かった14人の日本人記者は、出発当日の朝、『朝日新聞』のこの記事を目にすることになった。

 

 

 矢野俊一に遅れること半日、金浦空港に到着した14人の日本人記者には、韓国側の60人以上の記者が取材攻勢をかけた。翌日の『京郷新聞』には、ムービーカメラを抱えてタラップを降りるフジテレビの松下昭三やその後ろでカメラを構える記者、日韓の取材合戦の様子の写真などとともに、日本人記者の到着を詳しく伝える記事が掲載された。




 この時、金浦空港には朝日新聞の矢野俊一も取材に来ていた。矢野の単独渡航に対しては、他社の日本人記者から、記者団としての結束に水をさすものとして批判の声もあがったという。

 この17日の日本人記者14名の金浦空港到着時には、韓国の学生たちが「北送反対」「日本の容共政策反対」といった内容の英文プラカードを掲げていた。これは、矢野俊一が写真入りで記事を書いている。

 

 

 その日本人記者のソウル到着の翌々日5月19日、日本では岸信介政権が衆議院特別委員会で新日米安保条約案を強行採決させ、翌20日に衆議院本会議を無理やり通過させた。6月19日に予定されていたアイゼンハワーの日本訪問に間に合うように新安保条約を自然成立させるためであった。

 

 韓国では、5月29日に李承晩夫妻が韓国を出国してハワイに亡命した。これを日本の各紙はソウルの特派員発の記事として掲載した。

 

 そして、6月10日。アイゼンハワーの訪日準備で羽田に着いたハガティ新聞係秘書が、弁天橋でデモ隊に取り巻かれ、米軍ヘリで脱出せざるを得なくなった(ハガチー事件)。

 

 結局、アメリカ大統領アイゼンハワーの日本訪問は中止となった。

 

 6月19日、アイゼンハワーは、アメリカの軍政下にあった沖縄から韓国に向かった。アメリカ大統領の韓国訪問についても、日本の報道各社はソウル特派員発として報じることになった。

 

 

  ソウル支局

 その後、朝日新聞、毎日新聞、読売新聞、産経新聞の全国紙4社と共同、時事の通信社2社、それにNHKがソウルに常駐の支局を置くことになった。半島バンドホテル(現在のロッテホテル旧館のところにあった)の6・7・8階の部屋に各社がソウル支局をおいて、ここを事務所兼住居とした。読売新聞は1961〜2年頃に中学洞の韓国日報社に支局を移した。読売新聞社主正力松太郎と韓国日報社主張基栄チャンギヨンとの間で取材協力について合意されたという。この二人はいずれも日韓国交正常化交渉に絡んでいた。さらに1963年には、地方紙の西日本新聞が半島ホテルに支局を置いた。李承晩ラインの漁業問題などで購読者の関心が高かったためであろう。

 

 

 朝日新聞の矢野俊一は、1960年11月に真崎光晴に交代した。

 

 実は、朝日新聞は、1960年元旦の正月特集企画の中で「李承晩さん、この人ご存じ」という記事を掲載していた。植民地統治下で鎌倉保育園という孤児院を運営していて、解放後資金集めのため日本に帰国して韓国への再渡航を熱望しながら果たせないでいた曽田嘉伊智のことを取り上げた記事だった。曽田嘉伊智は、併合前の大韓帝国時代に漢城YMCAで李承晩と接点があったからである。記事を書いたのは社会部の記者疋田桂一郎である。

 

 この記事がきっかけとなり、鎌倉保育園の跡地で永楽ヨンナク保隣園を運営していた韓景職ハンギョンジク牧師や兵庫の韓国居留民団などが曽田嘉伊智の韓国渡航実現に向けて動き始めた。ところが、4・19学生革命で李承晩政権が崩壊し、全ての動きが中断した。しかし、許政暫定政権を引き継いだ張勉チャンミョン政権は、1961年3月に曽田嘉伊智の韓国渡航を認めた。5月6日、明石の施設にいた曽田嘉伊智は、朝日新聞が提供した社有機で大阪から金浦に飛んだ。もう一機の朝日新聞社有機には東京都知事や朝日新聞社長から尹潽善ユンボソン大統領に宛てたメッセージや記念品が積み込まれていた。朝日新聞は、真崎光晴特派員発で、曽田嘉伊智のソウル到着を大々的に報じた。

 

 朝日新聞の1960年に入ってからの動きを見ると、韓国への特派員派遣を狙って積極的な働きかけを行なっていたように思われる。

 

 真崎光晴の後任で、1962年8月にソウル特派員となった西村敏夫は、日本統治下の京城育ちで、南大門小学校から京城中学、1942年に京城帝大予科に入学し、京城帝大在学中に終戦で内地に引き揚げたという経歴。1964年8月までソウルに駐在し、帰国後『私は見た韓国の内幕』(朝日新聞社 1965)を出版した。

 

 読売新聞の浜淵修三の後任は日野啓三、1960年10月にソウルに赴任した。日野啓三は、商業銀行密陽支店の行員だった父のもとで小学校に通い、京城に移って龍山中学4年生の時に引き揚げた。1961年4月までのソウル在勤中に知り合った韓国女性と帰国後に再婚している。1975年に小説「あの夕陽」で芥川賞を受賞した。ソウル特派員時代を下敷きにした「野の果て」では、半島ホテルの一室に駐在し、原稿は英文タイプでローマ字で打ち、それを国際電話局から日本に送稿していたことがわかる。また、「無人地帯」には、今も非武装地帯の中に残る唯一の韓国側の村落「台成洞テソンドン」に取材に行った話が出てきて、当時の取材のやり方の一端が分かる。

 

 日野啓三の後任は、嶋元謙郎で1961年4月15日にソウルに到着した。嶋元謙郎の父嶋元勧は京城日報の編集局長で、嶋元謙郎は三坂小学校から龍山中学に入学し、1945年11月に引き揚げで日本に戻った。日韓国交正常化交渉では、裏面工作にも深く関わっていたとされ、1981年まで断続的にソウル特派員を勤めた。

 

 毎日新聞は、新井宝雄の後任がわからない。柳原義次がソウル特派員だった1963年に、朝鮮日報と提携しており、この提携を日本と韓国双方で社告として出している。


 

 読売新聞と韓国日報、朝日新聞と東亜日報も協力関係にあったが、このような社告は出していない。

 1964年には吉岡忠雄がソウル特派員になった。吉岡忠雄は、新聞記者を退職した後1982年に延世大学の語学堂で韓国語を学習し、『ソウル・ラプソディ』『韓国有情-釜山のアルバム』などの本を出した。
 

 ちなみに、1960年5月にソウルに行った記者の一人、東京新聞の鎌田光登が、1986年に朴景利の大河小説『土地』の一部を翻訳しており、李埰畛の『中国朝鮮族の敎育文化史』(1988)、金学俊の『朝鮮戦争』(1991)を翻訳出版している。後になって韓国語を学習したものと思われる。

 1960年代から70年代にかけての特派員は、その当時は韓国語はできなかったし、社内の語学研修の制度もまだなかった。

 1960年代前半のこの時期、外務省アジア局北東アジア課課長は、京城中学を卒業し、京城帝大予科から法文学部を卒業して外務省に入った前田利一だった。日本は、日韓国交正常化までソウルに常設の代表部を置いていなかったため、前田利一をはじめ外務省の関係職員が出張で半島ホテルに滞在した。1960年9月、外務大臣小坂善太郎の訪韓に前田は随行し、その際『東亜日報』に「韓国語解得」と紹介されている。1958年3月に天理大学朝鮮学科を卒業して外務省に入った町田貢も、1960年秋に公務でソウル出張をして、半島ホテルに泊まっている。外務省でも朝鮮語ができる職員はまだ数えるほどしかいなかった。

 

 1965年に国交正常化が実現すると、半島ホテルの5階に日本大使館を開設した。

半島ホテルの5階に「日本大使館」の看板をかける前田利一

 

 1968年の1月に中学洞の韓国日報社の社屋が全焼する火災が発生した。韓国日報内の読売新聞ソウル支局も焼失した。この火災の見舞いで韓国日報を訪れた日本大使館関係者が、韓国日報社敷地の南側に隣接する極東ククトン海運の南宮録ナムグンノクが所有する土地が売りに出ていることを知った。日本大使館は購入の交渉に入って契約を結び、韓国内務部もこれを承認した。

 

 日本大使館は、1970年1月に中学洞チュンハクドンの韓国日報社南側に大使館が完成し、半島ホテルからここに移転した。

 

 韓国日報は、消失した社屋の新築工事に着手し、金寿根キムスグンの設計による地下3階地上13階の新社屋を1969年6月に完成させた。読売新聞は、この新社屋に支局を置いたが、NHKや西日本新聞も半島ホテルを出て、韓国日報新社屋に支局を移した。

 

 1970年に、朴正煕大統領がロッテの辛格浩シンキョッホ(重光武雄)を呼んで、観光公社が運営していた半島バンドホテルに変わる国際級のホテル建設を命じたとされる。

 

 植民地支配が終わり、朝鮮戦争を経て日韓の国交が正常化する時期を経てこの1970年までが、韓国における日本人記者たちの活動の黎明期から初期の時代ということになるのだろう。

 

 ソウル駅の西側、万里洞マルリドンに1932年に建てられた古い和洋折衷の建物がある。今は「The House 1932」というカフェになっているが、元々は朝鮮印刷会社の社長小杉謹八の邸宅として建てられた建物。

 

 

 The House 1932のホームページによれば、2018年のリモデリング工事の際に、天井裏から「御神札おふだ」が発見されたという。「御神札」とは、建物を建てるときに天照大神に捧げるもので、棟上げの時に奉斎したもの。

 

左がリモデリング前、右がリモデリング中。屋根裏に御神札があった。

 

 この「御神札」によって、この建物が1932年に小杉謹八が発注して建てられたことが明らかとなった。

 

  小杉謹八と朝鮮印刷会社

 小杉謹八については、 1939年の『事業と鄕人 第1輯』(実業タイムス社 大陸硏究社)に次のように記載されている。

茨城県古河の人で明治十年五月の生まれ、四高を卒業して明治三十八年の日露戦役当時に陸軍軍属として来鮮し、宮内府次官の小宮氏に人物を見込まれて朝鮮に腰を据えることゝなり一二の会社に勤めたが後に小杉組を起して土木建築請負業となりトントン拍子で成功した。

 「宮内府次官の小宮氏」とは、大審院検事から大韓帝国の宮内府次官となり、韓国併合後は李王職の次官となった小宮三保松。小杉謹八は、この小宮の紹介で藤田謙一の日韓図書印刷会社と藤田合名会社の理事となった。ここから印刷業との関わりが始まる。日韓図書印刷の藤田謙一も元々は印刷業とは無縁の大蔵省専売局の役人だった。天狗タバコの製造・販売で「東洋煙草大王」の異名をとった岩谷松平に見込まれ、大韓帝国の煙草業の視察に行った際、たまたま韓国の教科書の独占出版権を手に入れた。そのために設立したのが日韓図書印刷会社だった。


 日韓図書印刷の印刷工場は、設立当初は明治町2丁目54番地、すなわち、現在の明洞ミョンドンの国立劇場明洞芸術劇場の場所にあった。1908年に朝鮮王朝の平理院ピョンニウォンがあった西小門内ソソムンネ、現在のソウル市立美術館西小門本館(旧大法院テボブォン)の北側に印刷工場を新築した。平理院は1908年に公平洞コンピョンドンに新築・移転し、その跡地の払い下げを受けたのであろう。本社と編纂部などは明治町2丁目に残った。現在明洞に残っている劇場は、この印刷事務所の跡地に明治座として1936年に建てられたものである。

 

 

 その後、日韓印刷会社と社名を変更し、一時期は明石桐一が経営を引き継いだ(『朝鮮新聞』1930年4月20日付記事)。1919年になって小杉謹八が日韓印刷の資産を引き継ぐかたちで新たに朝鮮印刷株式会社を設立した。小杉謹八は、日韓図書印刷の時代から関わっていたが、その一方で土木建築請負業や造林製材業の会社を起こして京城の実業界で頭角を表わしていた。

 

 

 日韓印刷会社は、総督府関係の出版物の印刷を行っており、それを朝鮮印刷会社が全て引き継いだ。

  朝鮮印刷の工場火事

 1924年4月28日午後10時半、西小門内の朝鮮印刷工場から出火して、当時貞洞にあった官庁の多くが焼失する大火事となった。

昨夜、京城未曾有の大火

朝鮮印刷時会社より出火、法務局・専売局・鉄道部・土木部・土地調査局・各全焼

原因目下調査中、損害額約百万円

28日午後10時半西小門町朝鮮印刷株式会社奥2階宿直部屋横の辺より吹き出した火は忽ち300坪の同社全部を焼き落し一旦衰へたる火勢は更に11時半隣接せる土木部工事課に延焼して再び猛烈なる火の手を揚げ見る間に建て続きの土木部、本館、鉄道部、法務局、土地調査局、専売局をひと舐めにして、午前1時半漸く鎮火し貞洞の一角に巍然として聳えて居た所謂貞洞総督府各部局は僅かに高等法院と中枢院の2棟を残したのみで全く灰燼に帰した。

…後略…

 

 この当時、朝鮮総督府の本庁舎はまだ南山北麓の倭城台にあり、景福宮の光化門の後ろに建てられる総督府新庁舎はまだ工事中であった。この時点で、一部の官庁は貞洞の庁舎に移っていたのだが、それが焼失した。

 

 朝鮮印刷は、焼けた工場跡地に仮設の工場を建てて、明治町の最初の工場も稼働させて印刷業務を再開した。

 

  蓬莱町移転と小杉邸の建築

 火災後の工場の暫定的再稼働と同時に、蓬莱町3丁目に土地を確保して新工場の建設に着手した。2年後の1926年にこの新工場が完成した。当時朝鮮印刷会社が印刷を担当していた朝鮮総督府の雑誌『朝鮮』の8月号にこのような自社広告を掲載している。

 

 もともと朝鮮印刷の工場があった西小門町の跡地には、1928年に高等法院と京城地方法院、覆審法院の合同庁舎(現ソウル市美術館西小門本館の前面部分が当時のもの)が完成している。

 

『京城精密地図』三重出版社京城支店 1933 

 

 こうした経緯から考えると、西小門の朝鮮印刷工場用地と蓬莱町3丁目の新工場用地とが、交換されたとも考えられる。そして、1933年の『京城精密地図』に「小杉組」と書き込まれているところに、小杉謹八の邸宅が1932年に完成したのであろう。さらに、朝鮮印刷本社があった明治町2丁目54には、1936年に明治座が完成している。つまり、小杉謹八が蓬莱町3丁目の新工場裏に邸宅を建設し始める頃に、本社があった明治町2丁目の売却も俎上に上ったものと思われる。

 

  解放後の変遷 

 1945年の日本の敗戦で、朝鮮半島は米軍政庁の統治下に入った。朝鮮にあった内地の施設や内地人の個人資産は、連合軍によって「敵産」として接収された。内地人の高位官僚や資産家の豪邸は軍政庁幹部の宿舎として使用された。


 「The House 1932」のホームページによれば、小杉謹八の邸宅だった建物は、1947年10月に米軍政庁司令官ホッジ中将の代理として在韓軍司令官に任命されたディーン(William F. Dean)少将の住居として利用されたとある。1948年8月15日に大韓民国が成立したのち、ディーン少将は韓国を離れた。その後、朝鮮戦争が勃発すると第24歩兵師団長として戦闘に加わったが、北朝鮮人民軍の捕虜となって休戦成立まで北朝鮮に抑留された。

 朝鮮戦争休戦後、建物は、国会議員の成得煥ソンドゥクファンの所有になったとされている。


 

 一方、朝鮮印刷会社の工場は、朝鮮人従業員を中心に操業が続けられ、1948年8月の大韓民国樹立後、1949年2月に、政府関係の出版物を印刷する大韓印刷公社と改称された。

 

 

 朝鮮戦争休戦後、大韓印刷公社は政府刊行物会社となった。1962年5月、李学洙イハクスが朝鮮戦争中に釜山で起業した光明印刷所が、この政府刊行物会社を買収した。李学洙は、1961年の5・16軍事クーデターの際、朴正煕らクーデター主導勢力の依頼で「革命公約」を極秘裏に印刷したことで軍事政権と繋がりができた。政府刊行物会社の施設を手に入れると共に、文教部の初等国定教科書や政府・軍関係印刷物などの刊行物の印刷と出版を受注することになった。

 

 しかし、1976年に李学洙は自身が経営していた高麗遠洋漁業会社の脱税容疑などで逮捕され、光明印刷などの経営が行き詰まった。1989年12月に李学洙が死亡すると、万里洞マルリドンの工場と敷地は売却されることになった。現在は、ソウル駅The O VilleとKCCパークタウンのビル群が工場の跡地に立っている。

 

 小杉謹八の住宅は、2007年から2017年までTubicomtecという会社の事務所として使用され、その後、現在の所有者成得煥の孫がリモデリングしてカフェ「The House 1932」を運営している。

 

上の赤枠が旧小杉謹八邸と光明印刷工場。2004年にはThe O Villeビルとマンションが建っている。