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一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

 清水宏が1940年に朝鮮総督府鉄道局の依頼で作製した文化映画「京城」(24分・35mm・白黒)。監督は清水宏、撮影厚田雄治(春)、音楽伊藤冝二、製作は大日本文化映画製作所。この動画は、韓国映像資料館の韓国映画博物館がオンラインで公開している。


動画はこちらから

 

 23分40秒の動画を観ていて気づいたのは、朝鮮の人々とその暮らしぶりが多く描かれていること。日本の支配下の京城の街なのに…。映画の冒頭の朝の場面は、白いパジやチマ、それにチゲ(背負子)、韓服の制服姿で総督府の前の大通りを学校に向かう朝鮮児童の姿が映し出される。

 もちろん、京城郵便局や三越百貨店、朝鮮銀行、京城府庁、朝鮮総督府などの日本が建てた建造物、それに第一高等女学校や京城中学、京城帝大といった日本人中心の教育機関も出てくる。しかし、その一方で、朝鮮児童の登校風景や運動場でバレーボールをやっている場面がある。また、軍人の訓練の場面は朝鮮志願兵の訓練所で撮影したもの。さらに、朝鮮人街の家並みや市場、将棋に興じるハラボジ、伝統工芸、洗濯風景などが映し出される。ところが、日本人の住居や生活ぶりを感じさせる場面はほとんど出てこない。路面電車の乗降場面や車内の様子は朝鮮人利用客の多い東大門から鍾路の路線で撮影されている。

 京城郵便局横の本町入口から二丁目にかけての街並み。ここは日本人の繁華街なのだが、ここを大勢のチマチョゴリの朝鮮女性が行き交っているところが映し出される。さらに、三越百貨店の売り場でショッピングしているのは朝鮮の若い女性である。

 

 清水宏の「京城」に描かれているのは、日本人の「京城」ではなく、1940年の朝鮮人の街「京城」なのだ。

 

 清水宏の文化映画「京城」の意図はどこにあったのだろうか。この映画の製作過程などを掘り起こして考えてみたい。

 

  「文化映画」製作依頼とその時代

 1939年10月末に満州からの帰りに京城に立ち寄った清水宏は、朝鮮総督府鉄道局と広報用の文化映画の製作について協議を行った。これについて、『朝鮮日報』は次のように報じている。

朝鮮文化映画
鉄道局で製作

 先月30日、満州からの帰途にソウルに立ち寄った松竹撮影所の監督清水宏氏は、31日と1日の2日間、朝鮮鉄道の大和田営業課長と加藤旅客係長を訪問し、朝鮮鉄道で松竹文化映画部に委嘱した朝鮮を紹介する文化映画の製作について種々の協議を行った。その内容は、約1万ウォンの予算で朝鮮産業の躍進ぶりを描く文化映画とし、清水監督が撮影所の手が空き次第、12月初めから撮影を開始するため再び朝鮮に来るというもの。脚本は11月中に完成する予定になっている。劇映画の権威である清水監督が、朝鮮鉄道と提携して製作にあたることで注目を集めている。ファンの熱望する田中絹代、上原謙もスタッフとして参加するものと期待される。

 この記事では、清水宏が依頼されたのは「朝鮮産業の躍進ぶりを描く文化映画」で、人気俳優が出演する劇映画仕立ての「文化映画」が期待されていたように報じられている。

 

 「文化映画」は、1930年代に入って盛んに製作され、軍部の台頭とともに国民を戦争に駆り立てる記録映画や教材映画が増えていった。1939年に制定された「映画法」で「文化映画」とは「国民精神ノ涵養又ハ国民智能ノ啓培ニ資スルモノニシテ劇映画ニ非ザルモノ」と定められ、朝鮮でも「朝鮮映画令」で「文化映画」の上映が義務づけられた。

 

 朝鮮における戦意高揚と戦争動員体制構築がはかられる中、朝鮮総督府鉄道局が「文化映画」で清水宏監督に描いてもらいたかったのは、単なる「躍進ぶり」ではなかっただろう。ただ、当時劇映画の売れっ子だった清水宏には、「文化映画」に対する自分なりの考えがあり、そこで朝鮮をどう描くかについては鉄道局とは異なるイメージがあったであろう。

 

 この時期、朝鮮では朝鮮人を戦争に動員するための「皇民化政策」「内鮮一体化」が推し進められていた。1936年からの「国語常用運動」で職場や学校での日本語の強制が進み、1938年の第3次朝鮮教育令で朝鮮人児童の通う「普通学校」が「尋常小学校」に改編され、朝鮮語が必須科目から外されて校内での朝鮮語の使用が禁じられた。

 1938年には国家総動員法が施行され、朝鮮では朝鮮人を兵卒にするための「陸軍特別志願兵制度」が始まり、朝鮮総督府の陸軍兵志願者訓練所が開設された。

 さらに、1939年11月改訂の「朝鮮民事令」で「創氏改名」が定められ、翌年2月から実施に移された。血族集団の「姓」を日本風の「苗字(氏)」に変えるというだけでなく、朝鮮の親族構造自体を揺るがすものであった。

 

  「文化映画」の撮影・製作

 そんな中、1940年1月22日に清水宏は再び京城にやって来た。1月23日付の『京城日報』はこう報じている。

生きた朝鮮を

観光映画製作に清水さん来る

鮮鉄営業課の委嘱をうけた松竹監督清水宏氏は半島の観光映画製作のため、22日午後1時45分京城駅着“あかつき”で入城、直ちに朝鮮ホテルに入った。従来製作されてきた観光、文化映画はややもすればお座なり的なものが多く、風光エハガキの継ぎ合わせに属していたものだが、初めて文化映画を手がける清水監督は「私は朝鮮の風俗が大好きです」と冒頭して、左のごとく抱負を語った。(写真=入城した清水さん) 

私は朝鮮に三度来たが、朝鮮の風俗は良いネ、私の作る文化映画は大体二本だが、まだ全然プランは立っていない。京城を主題としたもの、全鮮的殊に北鮮を主題としたもの2本を作ることとなろうが、いずれにせよ動いている生きている京城なり朝鮮なりを描きたいと念願している。将来は朝鮮を舞台に劇映画も製作してみたい。今の私の製作態度は全然白紙だ。映画監督も四十を過ぎ、人間が練れてこないと、本当に立派な映画は作れないのではないか—と最近つくづく考え出した。

(現代かな遣いに改めた 以下同じ)

 

 清水宏と鉄道局の協議の結果、「生きた朝鮮」と「朝鮮の子供達」の二つのテーマで2本製作することになり、1月の下旬から2月にかけて京城を中心にロケハンを行った。2月初旬に日本内地に戻った清水宏は、4月になって本格的な撮影のためスタッフを引き連れて朝鮮にやってきた。この時、『朝鮮新聞』が釜山でコメントを取って記事にしている。

『朝鮮新聞』1940年4月12日付

 

 一方、『京城日報』は、映画製作の進捗状況と京城到着後の清水宏監督のコメントを記事にしている。

世界的水準へ

半島郷土映画仕上げに

清水監督一行入城

大松竹の貫禄賭けてお馴染みの大船撮影所清水宏監督が作る朝鮮総督府鉄道局委嘱の文化映画「生きた朝鮮」「朝鮮の子供達」は既に製作も第一、第二部共に七分通り完了したので、残る三分はいよいよ近日中に一挙に纏め上げるため清水監督は11日午後1時45分「あかつき」で助監督斎藤虎四郎、カメラ原田雄春、森田俊保両技師ら製作スタッフ九名を同伴、鮮鉄関係者及び在城文化団体多数の出迎えをうけて入城、朝鮮ホテルに入った。
清水氏はこの仕事を機に貧弱な現在の日本文化映画を世界水準にまで引上げようと涙ぐましいまでに燃ゆるような製作慾をこんどの作品に傾注しているので、第一部作—京城の巻「生きた京城」の完成の暁は文字通り現下大陸文化日本を率直に現す好個の歴史的映画で各方面から注目の的となっている。
当の演出者たる清水監督は製作態度の一端を次のように語った。
鮮鉄当局の方と最後の打ち合わせをして、すべて新しい観点と理解をもって横からの京城、縦からの京城、動く京城、動かない京城を思う存分カメラの眼に収めたいと思っている、これからは幸い天候もよし仕事がどんどんかたづいていくので愉快だ、子供の部についてもよいところわるいところの区別なく終始正直に映して見たい。【写真=入城した清水監督一行】

 また、朝鮮総督府の朝鮮語機関紙の『毎日新報』もこのような記事を書いている。

松竹撮影隊

今日京城駅に到着

鉄道局の招聘で、桜花爛漫の春の朝鮮を撮影しようと清水宏監督以下のカメラマンなど松竹撮影隊一行は11日の朝釜山に上陸して一路「あかつき」で京城駅に到着し次のように語った。

約3週間の予定で京城に滞在し、近代文化が強まる中で独特の半島文化で上昇する都市京城の風光を撮影して内地に紹介しようと思う。

 さらに『東亜日報』も、清水宏監督の文化映画のクランクインを伝えている。この記事では、映画のタイトルを「大京城」としている。

 

 「朝鮮の風俗が大好き」という清水宏が「近代文化」と対置させて描こうとしたものを「半島文化」と表現している。日本の持ち込んだものと対比させて「朝鮮」「朝鮮人」を描こうとする意図が込められていたとも考えられる。

 

  「ともだち」と「京城」

 清水宏とそのスタッフによる京城での撮影は5月2日に終了し、翌3日に帰路についた。5月7日付の『朝鮮新聞』の記事では、撮影の終わった2本の映画について、「動く京城」「子供の朝鮮」と書いている。これが今日残っている「京城」と「ともだち」というタイトルのものである。

“放送局”は”鉄道局”の誤り ”光観”は”観光”の誤植 どうなっているのか…

 

 このうち「ともだち」については、5月23日付の『京城日報』がその完成を伝えている。

 また、5月29日付の『東亜日報』は、タイトルを朝鮮語で「동무들」と紹介し、「この映画は東京で軍の試写でセンセーションを巻き起こし、朝鮮鉄道局映画の最近の傑作だという」と紹介している。

 さらに6月末には、「京城」も完成し、文化映画「京城」「ともだち(동무)」の鉄道局出入りの記者団と関係者へのお披露目試写会が6月28日に龍山の局友会館で開かれた。

 

 ちなみに、「ともだち」については、東京国立近代美術館フィルムセンターのサイトにこのような解説がある。

ともだち(13分・35mm・無声・白黒)
   文化映画『京城』を当時の植民地・朝鮮で撮影中に、速成で撮影された短篇。現存プリントは音声が欠落しているが、作品の魅力は十二分に伝わり、その印象は残されたシナリオからも裏付けられる。内地から朝鮮に転校してきた少年(横山)が、民族服を着た現地の少年(李)と心を通い合わせる様子を描く。文化映画の申請がされたが却下され、劇映画として公開された。
    '40(大日本文化映画製作所)(監)(脚)清水宏(撮)厚田雄治(音)伊藤冝二(出)横山準、李聖春、南里金春

 「ともだち」も、映画館での劇映画上映に先立って上映する「文化映画」として製作されたため、13分と短い。朝鮮児童の「国語(日本語)常用」の実績と「内鮮一体」の進捗を描くことで、「国民精神ノ涵養」に資するものとして申請したのだろう。

 

 ところが、「ともだち」は「文化映画」として認定されなかった。ストーリー性を重視した清水宏の試みが裏目に出たのかもしれない。1940年8月27日付の『朝鮮新聞』にこのような記事が出ている。

 

 この直後、9月8日付『京城日報』には、陸軍兵志願者訓練所の朝鮮人志願兵を描いた「勝利の庭」が「文化映画」の認定を受けたと報じている。

同映画全七巻は構成上劇的要素を導入しているが、これは文化映画の演出手法としてかなり野心的な試みであったにも拘らず、これが本府認定を獲得している…

とあるように、「ともだち」はストーリー性のある文化映画への転換の直前に不承認となったのであろう。

 

 結局、「ともだち」は、ニュースと抱き合わせで短編劇映画として上映された。

 

 他方、「京城」は「文化映画」の認定を受けた。したがって、朝鮮のみならず内地の映画館などで本編上映前の「文化映画」として上映されたのだろう。「ともだち」のように不承認とはならなかったが故に、「京城」の上映が新聞の記事として取り上げられることはなかった。

 


 映画「京城」に描かれているのは、1940年の朝鮮人の街「京城」である。朝鮮にフォーカスした映画が、なぜ「国民精神ノ涵養又ハ国民智能ノ啓培ニ資スルモノ」と認められたかといえば、「日本による支配」と「日本の手による近代化」のもとで「発展した朝鮮」と「それを謳歌する朝鮮の人々」を描き出したものという支配者側の身勝手な解釈・・・・・・・・・・・評価・・があったからであろうか。皮肉なことに、「戦意高揚」で煽られた人々の目には、「皇民化」「内鮮一体」の結実の如く見えたのかもしれない。

 

 この5年後の1945年8月、日本が太平洋戦争に敗北すると、朝鮮に居住する日本人は「この朝鮮は自分たちがいるべき場所ではない」ことを改めて悟ることになった。それまで、多くの在朝日本人は気づかないふりをして暮らしていた。敗戦によってそれが白日の下に晒されると、そそくさと朝鮮から立ち去っていった。

 

 ここに写っている朝鮮の人々は、「いるべき場所にいる人々」であり、決して日本の支配に屈服し、日本の持ち込んだ「近代化」を享受している人々ではない。清水宏の残した映像から、朝鮮の人々の大らかさとたくましさを読み取ることができる。

 

※映画「京城」の場面解説は次のブログで → こちら

 映画「ハント」は、フィクションではあるが、1970年末から1983年までのいくつかの実際の出来事を下敷きにしている。この時期の韓国現代史が分かると、より一層映画が興味深く見られる。また、韓国社会での自国の現代史の評価の一端を知る手掛かりにもなるだろう。

 

 

  でっち上げられたスパイ、本物のスパイ

 1990年代初までの韓国では、パスポートを取るためには「素養ソヤン教育」という事前講習を受けなければならなかった。そこでは、韓国を一歩出ると北朝鮮のスパイがウヨウヨいて、特に日本には「朝総連チョチョンニョン」という「恐ろしい組織」があって、北朝鮮の工作員を日本経由で送り込んでいると教えられた。日本の在日コリアン社会に、韓国と対峙する北朝鮮を支持する「在日本朝鮮人総聯合会(総連)」があり、反韓国の活動をしていたのは事実だ。だが、韓国系の「在日本大韓民国民団(民団)」の中にも、韓国の軍事独裁政権に反対して、民主化を要求する「韓民統」などの組織があり、韓国の政権に反対する運動を繰り広げていた。また、アメリカに在住する韓国人社会にも、韓国の独裁体制に反対するグループが存在していた。

 

 

 当時の「南山ナムサン」(安全企画部アンギブ)、「西氷庫ソビンゴ」(保安司令部ポアンサ)、それに「南営洞ナミョンドン」(治安本部対共分室テゴンブンシル)は、民主化を要求する反政府・反体制運動を弾圧するために「南北の対立構図」を利用した。在日韓国人の「スパイ事件」を捏造し、韓国国内の反政府運動や民主化要求の動きを封じるために「北朝鮮とのつながり」をでっち上げた。

 

 安全企画部には、KCIAの時から、「南山」と呼ばれた南山北麓の庁舎(現ソウルユースホステル)以外に、「里門洞イムンドン」と呼ばれる庁舎があった。現在は韓国芸術総合学校石串洞ソックァンドンキャンパスの美術院になっている。

左が旧南山庁舎本館、右が旧里門洞庁舎本館

 

 「南山」が韓国国内の情報収集と分析、それに「反国家」団体の捜査・殲滅が任務であったのに対し、「里門洞」は海外の情報収集・分析、抱き込み工作などが主な任務であった。

 ちなみに、四方田犬彦がソウルの大学で日本語を教えていた1979年に日本語の試験官に指名されて出向いたのも、この「里門洞」だった(『戒厳』講談社 2022)。

 「南山」が、韓国国内の反政府運動や学生デモを潰したり、派手に「スパイ事件摘発」を打ち上げて権力者の目に留まりやすかったのに対し、「里門洞」は冷飯を食わされている感があり、同じ組織内でも「南山」と「里門洞」との間で対抗意識が強かったといわれる。

 

 その後の「民主化宣言」以降の名誉回復訴訟などで、「南山」が摘発した多くの「北によるスパイ事件」が、当局によって捏造されたものだったことが明らかとなった。

 

 ただ、本物のスパイや工作員が暗躍していたことも事実である。映画「シュリ」や「二重スパイ」は全く架空の作り話ではない。工作員の送り込みは、北から南へという一方向のものではなく、この「ハント」に出てくる「417部隊」のように、南から北へも送り込まれていた。映画「工作 黒金星と呼ばれた男」も1990年代の実話に基づいている。

 

 韓国で極秘とされていた「北派工作員」の存在が初めて公然と報じられたのは1999年になってから。その後、元工作員たちが名誉回復を求めて記者会見やデモを行った。

 

 忘れられがちだが、朝鮮戦争はいまだ終戦していない休戦状態なのである。

 

 

  光州民主化闘争

 1979年10月26日、朴正煕パクチョンヒ大統領が部下の中央情報部部長金載圭キムジェギュに射殺された。1961年の軍事クーデターで実権を握り、その後大統領となった朴正煕の独裁政治はここで幕を閉じた。しかし、今度は、朴正煕大統領銃撃事件の捜査を指揮した保安司令部の司令官全斗煥チョンドゥファン少将が権力を掌握し、全国に戒厳令を敷いて民主化要求を圧殺した。特に、大規模な抗議運動が起こった全羅南道光州クァンジュには戒厳軍を投入し、激しい暴行や銃撃で一般市民や学生に数千人の死傷者を出した。

 

 1995年に放送された「KBS映像実録」には、その当時の政治状況や光州における市民・学生の弾圧の生々しい場面が収録されている。しかし、1980年の事件当時には、厳しい報道管制が敷かれてこうしたニュース映像がテレビで放送されることはなく、一般市民は、その後も長くこの光州での出来事を撮影した動画・映像を目にする機会を奪われていた。

 

7分26秒から17分11秒

 

 そもそも、警察と軍隊とは役割が違う。警察は、主権国家内の社会秩序を守り、治安の維持に当たる。一方、軍隊は、国家の主権を脅かす外敵から国民を守るとされる組織である。従って、本来は軍隊が自国民に銃を向けることはあり得ないのだが、政治体制や統治者を守ることを「国を守ることだ」との詭弁を使って、独裁者が自国民弾圧のために軍隊を動員することは珍しくない。

 

 一方、光州に動員された軍人の中には、自国民を弾圧・殺戮した悪夢にさいなまれる人々も少なからずいた。映画「「ペパーミント・キャンディ」はそうした軍人のその後を描いたものだ。また、軍の中に、弾圧と虐殺を命じた指導者を倒そうとする秘密結社ができたこともうなずける。

 

 さらに、当時、平時の作戦統制権は米軍将校を司令官とする米韓連合司令部にあった。そのため、戒厳軍の光州での作戦行動は米国の了解のもとで行われたとも囁かれた。アメリカが裏で糸を引いている…。これによって、それまで反米デモのない珍しい国の一つといわれていた韓国でも急速に反米感情が高まっていった。

 

  全斗煥大統領と李順子女史

 光州事件の後、全斗煥は国家保衛非常対策委員会を組織して実権を握った。朴正煕暗殺後に大統領職にあった崔圭夏チェギュハが8月に大統領職を辞任したことで、「維新憲法」の規定によって大統領を間接選挙で選出する「統一主体国民会議」が開かれ、中将で退役した全斗煥が大統領に選出された。

 全斗煥政権がスタートすると、すぐにマスコミの統廃合を行い、いくつかの放送局が潰され新聞が廃刊とされた。また、姜万吉カンマンギル高麗大コリョデ教授など、進歩派と目された大学教授が教授職を強制剥奪されて大学を追われた。

 

20分45秒から21分22秒

 

 大統領本人だけでなく、夫人の李順子イスンジャ女史も毎日のニュースで動静が伝えられるなどして話題になった。

学士ハクサより碩士ソクサ(修士)、碩士より博士パクサ、博士より陸士ユクサ(陸軍士官学校)、陸士より保安司ポアンサ、保安司より女史ヨサ

というジョークが流行った。1974年に暗殺された朴正煕大統領夫人陸英修ユギョンス女史は「良妻賢母」イメージのファーストレディに仕立てられていたのに対し、李順子女史は「出過ぎたファーストレディ」という印象が強まっていった。

 

 

  越境してきた飛行機

 1983年2月25日の午前11時前、北朝鮮空軍の李雄平リウンピョン中尉がミグ19戦闘機を操縦して休戦ラインを越えて南側に亡命してきた。世宗セジョン文化会館で開かれた李雄平本人の記者会見では、テレビカメラの前で「大韓民国バンザイテハンミグクマンセ」を叫んでみせた。

 

 

 この年の5月5日、今度は中国民航の瀋陽発上海行きの国内線旅客機がハイジャックされて韓国領空内に飛来してきて、春川チュンチョンの空軍飛行場に着陸した。中華人民共和国は韓国と外交関係がなかったが、乗客の中国送還や機体の返還問題を協議するため政府高官を韓国に送り、ハイレベルでの韓中接触が実現した。韓国側は、1986年のアジア大会を控え、中国との関係構築の突破口とすべく「過剰接待」との批判が出るほどの厚遇をした。

 

 

 さらに、この年の8月7日には、中国空軍のミグ戦闘機が台湾への亡命を求めて韓国領内に飛来した。2月の李雄平のミグ機帰順の時も5月の中国民航機飛来の時も、警戒警報が発令されたが、きちんと警報が伝わらずにその不備が指摘されていた。ところが、この8月の中国空軍機の亡命時には、逆に本格的な空襲警報が発令され、あろうことか「敵機が仁川インチョンを爆撃中」という誤報まで流れた。10数分という短い時間だったが、首都圏の多くの住民には忘れられない事件となった。

  離散家族探し

 この年、1983年は朝鮮戦争の休戦からちょうど30年目で、KBSは休戦30周年の特別番組として、朝鮮戦争で生き別れとなった家族・親族を生放送で探す「離散家族探しイサンカジョクチャッキ」を放送した。6月30日に放送されたが、あまりの反響にその後もほぼ毎日生放送が続けられた。汝矣島のKBSの社屋の周りは、家族を探す貼り紙で埋め尽くされた。その後も、放送時間は圧縮されたが、結局11月まで離散家族探しの生放送が続けられた。

 

 

 

  アウンサン廟の爆弾

 この離散家族探しの熱気がまだ冷めやらぬ10月、全斗煥大統領は東南アジア・オセアニア6カ国歴訪に赴いた。

 

 

 8日夜、最初の訪問国ミャンマー(미얀마ミヤンマ:この当時はビルマ버마ボマと呼んでいた)に到着し、翌日の最初の行事はミャンマー「建国の父」アウンサン(アウンサンスーチーの父)の廟への拝礼であった。随行員や記者団が先着してアウンサン廟で全斗煥の到着を待っている中で、廟の上部に仕掛けられていた爆弾の起爆装置が作動し、随行の閣僚や記者など21名が死亡し、多数の負傷者が出た。全斗煥は交通渋滞で到着が遅れて難を逃れ、その後の日程を全てキャンセルして急遽韓国に戻った。

 

 ミャンマー当局は、捜査の結果、北朝鮮の工作員3人の犯行だと断定し、北朝鮮との外交関係を断絶した。

 

 

 その後、ミャンマーと北朝鮮とが国交を回復したのは2007年になってからのこと。

 

 ちなみに、映画「ハント」では、大統領を狙ったテロの舞台はタイの設定になっている。タイは国連軍・韓国軍側で朝鮮戦争に参戦した。タイ軍の最後の部隊が韓国から撤収したのは1972年で、1973年には京畿道キョンギド雲川ウンチョンにタイ軍参戦記念碑が建てられた。

 

 

 その一方で、タイは1975年5月に北朝鮮と外交関係を結び、バンコクには北朝鮮大使館が置かれている。

 映画の中の事件現場は、実際のテロ事件が起きたミャンマーでなく、タイに移されているが、なぜタイなのかはよくわからない。

 

  その後

 1988年2月24日、全斗煥は大統領の任期を終えた。退任前後から、在任中の不正蓄財疑惑などで強い批判を受け、11月に江原道カンウォンド百潭寺ペクタムサに籠って謹慎生活を始めた。

 

 その後も光州事件を始め、大統領在任中の責任を問う声は高まる一方で、後任の盧泰愚ノテウ大統領が退いた後の1995年12月に内乱罪などで拘束・起訴され、一審では死刑判決を受けた。1997年4月に大法院(最高裁判所)で無期懲役と追徴金2205億ウォンの有罪判決が確定したが、1997年末に大統領に当選した金大中キムデジュンが減刑と特赦の決定を下した。

 

 

 しかし、それでも全斗煥弾劾の声は収まらなかった。2017年の全斗煥回顧録出版をきっかけに、光州事件の際のヘリコプターからの銃撃の有無についての検証が行われた。

 

 2021年11月23日、全斗煥は90歳で死去した。元国家元首であったにもかかわらず、葬儀は家族葬で執り行われ、国立墓地への埋葬も実現していない。火葬された全斗煥の遺骨はいまだ自宅に安置されたままだという。

 三角地サムガクチの交差点から孝昌ヒョチャン公園方面に向かうと、すぐに京釜キョンブ線や地下鉄1号線の鉄道線路を跨ぐ高架道路にさしかかる。その高架道路の取り付け道路の左手に「夢炭モンタン」という行列のできる焼肉屋がある。

 

 

 

 この建物は、日本の植民地時代に建てられたものだという。「夢炭」のオーナーのチョ・ジュンモ氏によれば、「1910年代に日帝の鉄道部署の幹部の官舎として建てられたものと聞いている」という。

『朝鮮日報』2022年6月20日付

 

 実際には鉄道関係の官舎はこのあたりにはなかったのだが、鉄道官舎という話が伝わっていることも一つの手がかりになるかもしれない。

 

  『京城精密地図』で探してみた

 1933年に刊行された『京城精密地図』でこのあたりを見てみると、五番地の陸軍倉庫への引き込み線路と、龍山工作会社(鉄道施設・備品の製作・修理工場)手前までの線路がある。陸軍倉庫は、解放後キャンプ キムとなりUSOの敷地となった。龍山工作会社とその手前の線路跡地は、現在はマンション敷地になっている。龍山小学校(現:龍山ヨンサン初等学校)との位置関係から推測すると、現在の「夢炭」の建物の位置は『京城精密地図』に「豊栄商会」の書き込みがあるあたりになろう。

 

 

「コネスト韓国地図」より

 

 ところが、漢江通十三番地の「豊栄商会」に関して検索しても、それらしい情報がヒットしない。ほぼ諦めかけていた時に、「宝栄商会」というのが漢江通十三番地にあったことがわかった。日本語の漢字音だと「ホウエイ」で同じ。ただ、漢江通十三番地というのは「番地」といいながら漢江通と京釜線に挟まれた広い地域全体をさしている。十三番地だけではどこなのか場所が特定できない。さらに調べると、1923年4月21日付の『朝鮮総督府官報』に「合資会社宝栄商会」の登記が掲載され、その中で廣瀬平八朗の住所が「漢江通十三番地五号」となっている。また『朝鮮銀行会社組合要録』では、宝栄商会本店の場所が「京城府漢江通一三ノ六」と記載されている。

『朝鮮銀行會社組合要錄』(東亜経済時報社 1940)

 

 

 「漢江通十三番地五号」「漢江通一三ノ六」というのは、まさに『京城精密地図』で「豊栄商会」と書かれているところ。従って、『京城精密地図』に「豊栄商会」と書かれているのは「宝栄商会」の誤表記と断定できる。「豊栄商会」で検索しても出てこなかったはずだ…。

 

  宝栄商会とは

 1912年に貞嶋晋五が漢江通十三番地に開いた石炭の販売店が、宝栄商会である。

 

朝鮮中央經濟會『京城市民名鑑』1922

 

 その「宝栄商会」は、1923年に「合資会社宝栄商会」(以下「宝栄商会」とする)として登記された。合資会社となった「宝栄商会」が手がけた事業は、「南満州鉄道株式会社(満鉄)と特約に係る撫順炭及び鞍山銑鉄ノ販売」と「その他燃料の販売とこれに付帯する事業」。この合資会社化の時に、「宝栄商会」の無限責任社員(会社の債権者に対して負債の全額を支払う責任を有する社員)になったのが、それまで満鉄京城管理局経理課にいた廣瀬平八郎。そして、この廣瀬平八郎の住所として届けられたのが「漢江通拾参番地五號」だった。ちなみに、1925年までは朝鮮鉄道の運営は満鉄に委託されており、1925年4月から朝鮮鉄道局の直営になった。だから、ここで満鉄経理課とあるのは、朝鮮鉄道の経理をやっていたものである。

朝鮮中央經濟會『京城市民名鑑』1922

 

 「宝栄商会」のもう一人の出資者田川常治郞は、1919年に「龍山工作会社」を創設した実業家で、京城商工会議所の副会頭にもなっている。「龍山工作会社」は『京城精密地図』で「宝栄商会」の斜め向かいに位置しており、鉄道橋脚や信号機、その他鉄道用品に関わる製造・修理業務を行なっていた。田川常治郞もこの「宝栄商会」の合資会社化に一枚加わっていた。

『大京城公職者名鑑』 (1936)

 

 ところが、合資会社化の翌年、廣瀬平八郎は51歳で急死した。1925年3月25日付の『朝鮮総督府官報』に次のような記載がある。

合資会社宝栄商会無限責任社員廣瀬平八郎は大正13年(1924)12月25日死亡したり
同年(1925)1月30日京城府元町一丁目29番地 金1万5千円無限石原昊は入社したり

 亡くなった廣瀬平八郎に代わって石原昊が「宝栄商会」に入った。この石原昊も、廣瀬平八郎と同じく鉄道の経理畑の役人で、朝鮮鉄道局経理課からの天下りであった。

 

『大京城公職者名鑑』 (1936)

 

 この『大京城公職者名鑑』には、石原昊は「大正12年(1923)4月合資会社宝栄商会を創設と同時に同社代表社員となり」とある。この種の人物名鑑類の記述内容は当人の申告によるものなので、石原昊も実際には宝栄商会の合資会社化の当初から関わっていた可能性がある。そうだとすると、「宝栄商会」は、満鉄や朝鮮鉄道の石炭利権に通じていた鉄道経理畑の役人が出資して経営に加わり、朝鮮鉄道の関連業務を請け負う個人企業も出資して、貞嶋晋五の石炭販売店を合資会社化したものということになろう。

 

 1936年刊行の『大京城府大観』では、漢江通十三番地の北側に「貯炭場」が描かれている。また、『京城精密地図』では「豊栄商会」と書かれていたところが「龍山工作」となっている。このあたりが鉄道関係の複合的な企業体になっていたのかもしれない。

 

 

 1943年7月に、住居表示の変更が行われ、漢江通十三番地は漢江通一丁目となり「宝栄商会」の所在地と無限社員雪竹豊身と貞島(貞嶋)晋五の住所が「京城府漢江通一丁目250番地」に変わった。

 雪竹豊身は、1938年から高額の出資者として資料に出てくるのだが、それ以前には1937年に布教と結社が禁じられた「ひとのみち教団」の幹部として名前が挙がっている。「ひとのみち教団」の資産処理とも関連しているとも考えられるのだが、残念ながら出資に至る経緯は全くわかっていない。

 

 こうした「宝栄商会」の変遷を見てくると、漢江通十三番地5〜6号、すなわち漢江通一丁目250番地に「宝栄商会」の社屋、さらには関係者の住宅が建てられていたと考えられる。それは、鉄道関係の官舎という言い伝えが残っていることとも一定程度符合する。だが、それ以上の確証はない…。

 

  解放後の建物

 解放後、この建物がどのような変遷をたどったのか、今のところわからない。

 

 1968年の『地番入最新ソウル特別市街図』では、鉄道引き込み線がまだ残っており、この建物の場所は「250番地」になっている。

 

 

 1967年12月末に完成した三角地立体ロータリーの航空写真にそれらしい建物が写っている。旧宝栄商会の斜め向かいの旧龍山工作会社のところは、祥明サンミョン国民学校になっている。京釜線の線路を跨ぐ高架道路はまだできていない。三角地から元曉路ウォニョロ方面につながる跨線橋が開通するのは1974年7月。ちなみに、三角地の円形の立体ロータリーは1994年に撤去された。

 


 ストリートビューが残っている2008年にはこの建物は食堂になっていて、それから何度か店が変わった。

 

 

 そして、2018年から「夢炭」としての営業が始められた。

 

 冒頭の『朝鮮日報』の記事によれば、店名の「몽탄」は、全羅南道チョルラナムド務安郡ムアングン夢灘面モンタンミョンの「夢灘モンタン」から取ったものとオーナーのチョ・ジュンモ氏が語っている。夢灘面には、肉や魚を藁で炙って旨味を閉じ込める料理法が伝わっており、そのやり方を踏襲しているのだという。ただ、店名は漢字で「夢炭」と書かれており、地名とは漢字が異なる。
 

 「夢灘」がなぜ「夢炭」になったのか。ここまで書いてきたような植民地時代に石炭を扱っていた「宝栄商会」絡みで「炭」にしたということであれば、「なるほど!」と面白いストーリーができるのだが、そうではなさそうだ。このブログが建物の由来を明らかにした初めてのものだろうし…。

 

 とここまで講釈を垂れたのだが、実は美味しいと評判の「夢炭」の焼肉を食べたことがない😢

 そのうち、朝10時からウェイティングリストに名前を書き込んで食べに行こうと思っている… このブログに免じてウェイティングリストなしで入れてもらえると嬉しいんだが…まぁ、無理だろうし…😆