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一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

  • 解放後の横書き推進
  • 1980年代初頭の転換点
  • 新聞の横書き化

  解放後の横書き推進

 1946年10月22日付の『東亜日報トンアイルボ』に、当時アメリカ軍政庁の文部編修局長だった崔鉉培チェヒョンベの「ハングル横書きの提言」が掲載されている。

 

 

 崔鉉培は、日本の植民地統治下の末期、1940年に訓民正音の理論的問題と歴史的問題について論述した『ハングルガル(正音学)』を刊行し、ハングルの普及に尽力した。1942年の朝鮮語学会事件で逮捕され、咸興ハムン刑務所で服役中に日本の敗戦を迎えた。

『ハングルガル(正音學)』

 

 この崔鉉培がハングルの横書き推進の急先鋒で、米軍政庁の朝鮮教育審議会で教科書と公文書の「ハングル専用」と「横書き」を提案し、これが採択された(崔鉉培「ハングル 解放10年の歩み(上)」『東亜日報』1955年8月15日付)。

 

 朝鮮語は伝統的に縦書きであったし、日本の統治下でも縦書きの漢字・ハングルまじり文が使われた。それに馴染んできた人々からは、ハングルの横書きに対して多くの反対論も出されたが、小中高の教科書は、漢字を用いないハングルだけで横書きにする形式が採用された。

 

1950年代の国民学校4年国語の教科書

 

1950年代の高校幾何の教科書

 

 一方、公文書も横書きが主流になっていった。 

 

 特に、1950年代以降、機械式のハングルタイプライター(打字機タジャギ)が急速に普及し、多くの公文書や企業・組織の文書が3ボル式のタイプライターで作成された。当然漢字は使われず、横書きのハングルだけを使った文書であった。

 

 

 他方、文芸書や人文系の学術書籍、新聞・雑誌などでは、旧来からの縦書きが主流だった。

 1970年代までの韓国社会は、縦書きと横書きが共存する文字環境にあった。

 

雑誌『思想界ササンゲ

高承済コスンジェ『韓国移民史研究』(1973)

 

崔仁浩チェイノ바보들의 행진パボドゥレヘンジン(邦訳:ソウルの華麗な憂鬱)』

 

 ただ、1950年代から70年代に学校教育を受けた世代は、ハングルだけで書かれた横書きの文章に馴染んでおり、縦書きのものを読むのが苦手。漢字はそこそこ読めはするが書けない。彼らは「ハングル世代」と呼ばれた。一方、同じ時代に韓国社会の中心にいたその上の世代は、ハングルだけの横書きより、漢字まじりの縦書きの文章により慣れ親しんでいた。

 

 やがて「ハングル世代」が韓国社会の中心に進出するにつれ、ハングルだけで横書きされた文章の比重が次第に大きくなっていった。

 

  1980年代初頭の転換点

 1982年12月7日付の『東亜日報』に、「定着する横書き時代」という記事が掲載されている。

東亜日報1982.12.07記事(ニュース)

定着する横書き時代

解放以後の世代の要請にそっぽを向けず

「現代文学」なども雑誌の体裁を変更

読み・書き、機械化などの様々な側面で望ましい

 多くの出版物が横書きを採用している中で、これまで縦書きに固執してきた伝統ある文芸雑誌までもが横書きに変わってきており、韓国の文字生活が新しい転換点に差し掛かっている。横書きは文字生活の機械化の促進のためにも必要という主張があったことからも、伝統ある雑誌の横書き採択は望ましいことであろう。

 創刊28年目の『現代文学ヒョンデムナク』が12月号を横書きで発行し、『文学思想ムナクササン』も新年1月号を「横書き」で製作、『韓国文学ハングンムナク』も近々横書きに転換する予定だ。

 学校で横書きに馴染んできた解放以降の世代の要求を、これ以上無視することができず、横書きに踏み切ったという『現代文学』編集者の金潤成(キム·ユンソン)氏(57)は、「これまで縦書きにこだわってきたのは特に理由があってのことではなく、単なる慣習に過ぎなかったが、今や機械化など制作の能率面から横書きに変えざるを得ないのが実情」と語った。

 文字生活の合理化のためにも、今のような縦書き・横書きの二元体制は避けるべきだと言う金氏は、「初版を縦書きで、その後、横書きに組み替えて出すとよく売れるという例もあるほど縦書き・横書きに対する読者の反応は敏感だ」と付け加えた。

…(中略)…

 読書行動開発社のパク·ムンファ氏(37)は、「今のほとんどの読者は、約20年間学校で教科書や参考書などの横書きの本を読んできたため、社会に出て縦書きのものを読むのに抵抗感を感じている」と語る。 学生たちに直接速読法を教えているパク氏は、学生たちは一般に横書き1000字を読む同じ時間で縦書き文字なら800字程度しか読めないと言う。

…(中略)…

 また「読み」「書き」において、横書きの能率が縦書きよりはるかに高い場合、これが機械化されればその能率性の差ははるかに大きくなるというのがハングル機械化推進論者の主張だ。

 ハングルタイプライターを考案するなどハングル機械化を研究してきた元老医師のコン·ビョンウさん(76)は、ニューヨークで韓国語新聞を発行しているスタッフに、横書きと縦書きのどちらが早く写植できるかを最近尋ねたところ、横書きが2倍以上早く写植できるとのことだったとして、文字生活の速度はまさにその国の文明を左右するものでもあり、国家的な面からも研究しなければならないと語った。

…(後略)…

 この記事に登場する公炳禹コンビョンウは、眼科医でありながらハングルタイプライターを開発し、その機種が1949年3月に行われたハングルタイプライター懸賞募集で優秀機種に選ばれた人物。コンビョンウ打字機は、朝鮮戦争後の韓国のハングルタイプライターの標準機になった。このようなハングル表記の機械化が、横書きによる学校教育を受けた世代の社会進出と相まって、漢字を使わずハングルだけでの横書き文体の広がりをもたらしたといえる。さらに、1980年初頭から電動タイプライターが開発され、より簡便な2ボル式の入力(現在のコンピューターキーボードからの入力と同じ方式)が可能になったことも、横書きの拡大に拍車をかけた。

 

 横書き拡大の象徴的な出来事の一つは、1984年から封書の住所・宛名書きが横書きを原則とするという逓信部チェシンブの規則改定であろう。

 

 

 1987年6月の「民主化宣言」ののち、民主化闘争を闘ってきた言論人を中心に刊行の準備が進められてきた『ハンギョレ新聞』は、1988年5月15日に創刊号を発刊した。紙面は韓国初の全面横書きで組まれていた。

 

  新聞の横書き化

 1980年代に各活字媒体で「横書き化」が急速に進んだが、新聞業界では、後発の『ハンギョレ新聞』以外は依然として縦書きだった。縦書きについては、1988年1月に制定されたハングル正書法(한글맞춤법ハングルマッチュムポプ)でも、縦書きの文章符号について次のように定めている。

句読点は、横書きの場合には [ 반점パンジョム(,) 온점オンジョム(.) ] を用い、縦書きの場合は [ 모점モジョム(、) 고리점コリジョム(。) ] を用いる

 縦書きで書く際の規則もちゃんと定められていたわけで、縦書き・横書きの併存状況は続いていた。

 

 『ハンギョレ新聞』以前から刊行されていた新聞の横書き化が進んだのは、 1990年代の中頃から後半にかけてで、新聞各紙がさみだれ式に横書きに移行していった。

 

1988年5月18日

1997年4月8日

1999年12月15日

 

 主要日刊紙の紙面が全面横書きになった時期は以下の通り。

  • 中央日報チュアンイルボ  1995年10月9日
  • ソウル新聞シンムン 1996年10月1日
  • 京郷新聞キョンヒャンシンムン  1997年4月8日 
  • 東亜日報  1998年1月1日 
  • 韓国日報ハングギルボ  1998年3月16日
  • 朝鮮日報チョソンイルボ  1999年3月2日 

 各新聞社の横書きへの移行が他の活字媒体に比べてかなり遅くなり、各社で相当のばらつきがあるのは、それぞれの社の編集方針や読者世代の違いといった側面もあったであろう。ただ、そればかりではなく、輪転機や編集機材、版組システム・ソフトなどの技術的な問題や設備投資の問題もあったといわれる。

 ともあれ、各新聞社が横書きに移行していくのとほぼ並行して、インターネット上でのニュース配信や市民参加型のニュースウェブサイトの台頭などがあり、ニュースは横書きで提供されるかたちが1990年代末までに定着した。

 


 韓国の主要ワープロソフトであるアレアハングルでは、今でも縦書きのハングル文書を作成することもできる。

 

 

 ただ、2017年3月28日に改訂・施行されたハングル正書法(한글맞춤법)では、縦書きの [ 모점(、) 고리점(。) ] についての規定がなくなっている。縦書きの需要がなくなっていると判断されたということであろう。

 

 ハングルの縦書き文書の作成ができなくなったわけではないが、「ハングルは横書き」がほぼ「常識化」「常態化」している。今や、縦書きにすると珍しくて人目を惹くといった時代になりつつある。

  • 昌徳宮チャンドックン前の群衆
  • 撮影場所は?
  • 敦化門トナムン前のデモ
  • 写真に写っているのは?
  • 山田写真館写真通信会
  • 3・1運動の取材と報道
  • 絵葉書はなぜ世に出なかったのか

  昌徳宮前の群衆

 毎日新聞編集委員の鈴木琢磨記者から1枚の絵葉書写真が添付されたメールが来た。絵葉書のキャプションには「朝鮮ノ騒擾京城昌徳宮前ノ群衆(大正八年三月二日)」とある。だとすると、これは1919年の3・1独立運動の2日目の一場面ということになるのだが、果たしてそうなのだろうか。本物なのだろうか。

 

鈴木琢磨氏提供

 

 これまで、3・1運動の初期のデモの写真は、カナダ人のスコフィールド(Frank William Schofield)が撮ったとされている写真(『Korea Independence Movement』)や、『大阪朝日新聞』1919年3月5日夕刊の2面に掲載された「一日の京城 鮮人女学生万歳を絶叫しながら電車道を行進す」のキャプションのついた写真などしか残っていない。

 

 

 3月3日に予定されていた高宗コジョン(李太王)の国葬のため、朝鮮内外から多くの人々が京城に集まってきていた。その中で、3月1日に独立宣言が出されて、朝鮮の人々が「万歳マンセ」を叫んで街頭でデモを行った。鈴木琢磨記者が送ってきた絵葉書の写真は、キャプション通りだとすれば、翌2日のデモの場面を撮ったものかもしれない。しかし、追悼と見物のために昌徳宮前に集まっていた群衆である可能性もある。

 簡単には断定できない。それに、なぜこれまで100年以上も誰もこの絵葉書の存在に気づかなかったのか。それも解明する必要がある。

 

 鈴木琢磨記者は、2023年2月27日付夕刊の紙面に「発掘!〈3・1独立運動〉絵葉書の謎を追う」という記事を書いた。その取材に協力する過程で分かってきた事実などを中心に、この絵葉書について検証してみた。

 

  撮影場所は?

 絵葉書のキャプションには「昌徳宮前ノ群衆」とある。1925年の朝鮮総督府『京城市街図』で見ると昌徳宮の敦化門前は確かに広場になっている。
 

 

1920年11月6日消印のある使用済み絵葉書(日之出商行発行)

 

 問題の絵葉書の背後に写っている山並みは南山ナムサンである。撮影のアングルから判断すると、敦化門前広場の北側の高い位置からシャッターを切ったものと思われる。

 

右は敦化門西側の北村の奥から遠望した南山(2022年)

 

 実は、敦化門は2層構造になっていて、門の裏手の左右の階段を使って昇降ができる。2階部分には開閉できる窓がついていて、ここから撮影すれば、絵葉書のアングルで写真が撮れる。

 

 

敦化門2階部分内部(문화재청 국가문화유산포털より)

 

 敦化門の2階部分からだったらこのアングルの写真撮影が可能なことは確認できた。ただ、敦化門は純宗スンジョン(李王)の住まいの昌徳宮の正門であり、この門は純宗の出入りにのみ使用されるもの。臣下や来訪者は、北西側にある金虎門クムホムンを使うことになっていた。そのような敦化門の2階に入り込んで写真を撮ることが果してできたのであろうか。疑問は残る。

 

 ちなみに、「李太王」「李王」というのは、大韓帝国を併合した日本が、大韓帝国皇帝を王に格下げして、純宗皇帝を「李王」、その先代の高宗皇帝を「李太王」としたもの。敬称も、皇帝に対して用いる「陛下ペハ」から一ランク下の「殿下チョナ」を用いるものとした。ただ、朝鮮を懐柔する目的から、朝鮮の「王族」は、日本の「皇族」と同様に扱うとされていた。

 

  敦化門前のデモ

 3・1運動のデモについては、国史編纂委員会が「3・1運動データーベース(삼일운동 데이터베이스)」を公開している。この「삼일운동 GIS(地理情報システム)」で、いつ、どのあたりでデモがあったのかがわかる。

 

 

 このシステムで「敦化門」で検索すると、以下の情報が出てくる。

3月24日、敦化門一帯で数十人が独立万歳を叫んだ

また、それ以外にも、3月1日のデモの1グループが鍾路チョンノから敦化門前を通って安国洞アングットン方面に行進したとの記載がある。しかし、3月2日に昌徳宮の敦化門前でデモがあったとする記述はヒットしない。

 

 この国史編纂委員会データベースの3月2日の「詳細情報」の項にはこのように記述されている。

3月2日0時20分、鍾路交差点で約400人の群衆が万歳を叫びながら鐘路警察署前に向かった。 多くは労働者で学生も含まれていた。警察が彼らを制止し、首謀者20人を逮捕した。群衆は散らばったが、デモを続けようとする気配が濃厚だった。昼には京城光化門クァンファムン付近に学生や市民など数百人が集まり、「朝鮮独立万歳」を叫びながらフランス領事館まで万歳デモをした。
(中略)
参加者数の推定 400名
この項目では、3月2日の午前0時直後のデモからその日午後のデモまで、数ヵ所のデモを一つにまとめている。午前0時直後のデモの400人以外の人員に関する正確な情報はなく、概観と一覧表で合わせて400と整理されているので、一応400と表示しておく。

 このデータベースでは、鍾路でデモがあったのを、夜中の「午前0時直後」としているが、陸軍大臣宛の朝鮮軍司令官の電報では、鍾路十字路に群衆が集まったのは「午後0時半」となっている。

 

 

 すなわち、実際にデモがあったのは3月2日の昼の正午過ぎで、鍾路の十字路(現:鍾閣の交差点)に集まった人々が鍾路警察(現:YMCA会館西隣)に向かってデモを行おうとした。

 

鍾路交差点から鍾路警察方向(撮影年未詳 1920年代か)

 

 このデモは解散させられたが、国史編纂委員会のデーターベースでは、再び光化門付近に集まり、西のフランス領事館に向かったと記録されている。その一部が光化門前から東に向かったとすれば、昌徳宮の敦化門前のこの場所に行き着くことになる。

 

 国史編纂委員会の「3・1運動データーベース」は、逮捕者の取調べ調書や裁判記録から、デモが行われた場所と日時を特定しているものが多い。逮捕者が出なければデモがあったことが記録されないことにもなる。すなわち、データベースでヒットしないからといってデモがなかったということにはならない。

 

  写真に写っているのは?

 もう一度絵葉書の写真を検証をしてみよう。

 

 

 左手に延びている人影の長さから推測すると、3月初の午後の時間帯で13時から14時くらいであろう。国葬の前日なので、純宗の居所である昌徳宮に集まった弔問や見物の人々と考えられなくもない。ただ、人々は、昌徳宮の正門の敦化門方向とは反対側を向いている。そして、敦化門とは広場を挟んで反対側の右側と左側にそれぞれ人だかりができている。

 

 7年後の1926年の純宗逝去の際、この敦化門前で日本人が刺殺される事件が起きた。朝鮮総督斎藤実を襲撃しようとした宋学先ソンハクソンが、斎藤と誤認した日本人二人を殺傷した事件である(金虎門事件)。宋学先はその場で逮捕されて鍾路警察署で取り調べを受けたが、その際の取り調べ調書に敦化門前広場の現場見取り図が残されている。

 

 

 この見取り図によれば、敦化門前の広場の向かい側右手に昌徳宮警察署の署長官舎があり、左手の鍾路に向かう道路沿いには臥龍洞ワリョンドン派出所が存在していた。つまり、絵葉書の写真で左右にできている人だかりは、それぞれ警察関係施設の前にできていたということになる。

 

 昌徳宮警察署は、大韓帝国時代の1908年に昌徳宮内に皇宮警察署として設置されたもので、日本による韓国併合後、総督府警務総監の直属機関に改編され、王族の身辺警護と王宮の警備を担当していた。昌徳宮だけでなく、昌慶苑や徳寿宮も管轄しており、高宗の国葬の時には、純宗も徳寿宮で喪に服しており、昌徳宮警察署は徳寿宮の警護にかかりきりだったであっただろう。

 

  山田写真館写真通信会

 この絵葉書の宛名面を見てみよう。そこには、「東京麻布山田写真館内写真通信会発行」の表示がある。

 

 この「写真通信会」は、1920年6月22日の『官報』に宣伝を出している。7・8月の官報に計5回同じ広告の掲載がある。

大正元年創刊

時々ノ出来事ヤ風俗、風景等ヲ絵葉書トナシ一ケ月十枚宛毎月会員ニ配布ス
会員希望者ハ会費ヲ添ヘテ申込マレタシ
会費一ケ月十五銭 三ケ月四十銭 六ケ月八十銭

一ケ年一円五十銭(地方ハ他ニ送料一カ月要二銭)

但郵券代用一割増
東京麻布新龍土町十二山田写真館内
写真通信会

 「写真通信会」は、その時々の話題や時事ニュースの写真をセットにして会員に頒布していた。

オークションサイトより

 

 「写真通信会」は、1916年には『東京ガイド』を出版しており、その奥付けから山田市次郎が山田写真館の主人であり、写真通信会を運営していたと思われる。

 

 山田写真館の所在地の新龍土町12番地(現:六本木7丁目)は、歩兵第一連隊と歩兵第三連隊の兵営の間にある広いエリアだった。

 

 山田写真館に関しては、日本絵葉書会の会報『ヱハカキ』59号(2016冬)に、畑中正美氏が「東京山田写真館の絵葉書」を書いている。それによると、山田写真館の写真通信会の絵葉書は、東京の風俗や世相、乗り物やスポーツ、それに災害の写真などが中心だったという。この記事には、朝鮮関連の絵葉書についての言及はない。つまり、この「朝鮮ノ騒擾」の絵葉書は、写真通信会としては異例のものだったといえそうだ。

 

  3・1運動の取材と報道

 朝鮮で3・1運動が起こると、朝鮮総督府はすぐにその報道を禁じた。『京城日報』は、3月6日の夕刊で、5日に記事掲載の禁止が解除されたことを伝えると同時に、「独立万歳」を叫ぶデモがあったことを初めて報じた。

一日京城を始め各地に亘りて朝鮮独立の示威運動行はれ騒擾を惹起したるが此騒擾は数日に亘りて行はれたり該事件突発の当時恰も李太王殿下の国葬を目睫の間に控へ居ることとて該事件は一切新聞紙上に掲載を禁じられ居たるが五日総督府より掲載解禁の命ありたるに付事件の概要を左に掲ぐべし

 

 『毎日申報』は3月7日の紙面で初めて3月1日からのデモについて報じ、『大阪朝日新聞』は1919年3月5日夕刊に「一日の京城 鮮人女学生万歳を絶叫しながら電車道を行進す」とのキャプションの写真を掲載した。

 

 『大阪毎日新聞』は、報道がまだ禁止されていた3月3日夕刊に「李太王国葬儀を機会として突発せる京城の大騒擾」という記事を掲載していた。しかし、これは「発売頒布禁止」になった(斎藤昌三編『現代筆禍文献大年表』粋古堂書店 1932 p.231)。

 

 この「発売頒布禁止」となった紙面の左下にはこのような記事があった。

投石を受けたる特派員及び特派員夫人
危険中に通信事務を継続せり

群衆が総督府及び総督府官邸に向はんとする際本社京城通信部にては名村特派員が二階より写真を撮影すべくレンズを向けしに彼等は盛んに投石し名村特派員及び山口特派員夫人は身に数石を受け礫は通信部事務室に落下し来りて危険言ふ許りなかりしも通信任務を続けたり

 大阪毎日新聞の京城支局は、「南大門通2ノ101」にあった(京畿道『治安状況』1934年)。場所は、丁子屋(現在のロッテヤングプラザ)の南隣。当時は、山口諫男(ペンネーム山口皐天)が常駐特派員で、名村寅雄は高宗(李太王)の国葬の取材応援で京城滞在中だった。大阪朝日新聞の京城支局もそのすぐそばにあった。3月1日のデモは、朝鮮銀行前で「独立万歳」を叫び、本町を通って南山南麓の倭城台(現:芸場洞イェジャンドン)の朝鮮総督府に向かおうとしたとあるので、その時に南大門通方向にも人々が来たのであろう。

 

 

 デモの人々に不用意に、それも日本人がカメラを向けることは、かなりの危険を伴うものだったことは上掲の記事からも想像に難くない。デモの現場でカメラを構えることは難しかったということが、写真が少ない理由の一つなのかもしれない。

 

 ただ、敦化門の上部でカメラを構えたのであれば、気付かれにくかっただろうし、王宮の門に向かって投石はしない。そうした幸運からあの写真は撮られたのかもしれない。

 

  絵葉書はなぜ世に出なかったのか

 高宗(李太王)は、1919年1月21日に逝去した。日本政府は、朝鮮の人々を懐柔する下心もあって、1月27日には勅令で国葬を行うことを決めた。1月末には国葬日は3月3日と報じられ、2月14日に正式の日程が公示された。韓国併合後、初めての朝鮮での国葬ということで、朝鮮だけではなく日本内地でも早くから関心を呼んだ。

 

 3月3日の国葬の様子を伝える『京城日報』の記事の中にこのような記事がある。

 

 国葬当日、相当数の「一般写真師」が、京城日報者前(徳寿宮の斜め前)などの指定された場所で写真撮影をしたと伝えている。朝鮮各地から、そして内地からも写真師がかなりの人数来ていたことをうかがわせる。

 

 山田写真館の「写真通信会」もこの高宗(李太王)の国葬の絵葉書の頒布を企画したのではなかろうか。「朝鮮ノ騒擾京城昌徳宮前ノ群衆」の絵葉書と同じスタイルのキャプションが入った「東京麻布山田写真館内写真通信会発行」の国葬の葬列の写真が残っている。

 

 これは、オークファンのサイトで2022年10月3日に落札された絵葉書としてネット上に公開されている。朝鮮李王殿下国葬儀霊柩(大正八年三月三日)

 

 もう一枚、高宗(李太王)の葬列の写真で、鞍を載せた「竹鞍馬」と鞍のない「竹散馬」の写真の絵葉書もある。こちらは個人の所蔵で、ネット上に公開されていないので画像は掲載しないが、絵葉書の写真面のキャプションは、

朝鮮李王殿下国葬列ノ一部 (大正八年三月三日)

となっている。宛名面には、両方とも「東京麻布山田写真館内写真通信会発行」の印字がある。

 

 ところが、この写真通信会発行の国葬絵葉書のキャプションは、「李太王」とすべきところを「李王」とするという決定的な過ちを犯しているのである。大正8年3月3日の国葬は、「李太王」すなわち高宗の国葬であって、「李王」すなわち純宗の国葬ではない。これは、単なる誤植では済まされない。「李王」は日本の「皇族」に準じる扱いを受けることになっていた「王族」である。生存する「王族」を死んだことにしてしまっては、「不敬罪」にも問われかねない。

 

 山田写真館がどの時点でこのキャプションの誤りに気付いたのかはわからない。ただ、この絵葉書は配布できないものだったことは明らかだ。この高宗の国葬の一連セットは配布されないままボツになったのであろう。その結果、「朝鮮ノ騒擾京城昌徳宮前ノ群衆(大正八年三月二日)」の絵葉書も配布されることなくお蔵入りになった。そう考えるのが一番筋が通る。

 

 この3月2日のこの写真は、高宗の国葬の撮影のために京城に滞在していた山田市次郎が、国葬前日に昌徳宮を訪れた際に、たまたまデモ隊が敦化門前の広場に集まって独立万歳を叫ぶ現場に出くわして、敦化門の上から撮影したもの。京城の内情に詳しい内地人が案内していれば、金虎門から李王職の役所までは入れたし、敦化門前で騒ぎが起きれば、門の裏手の警備が手薄になった階段から2階に上がることもできたであろう。

 そして、李太王国葬の写真を撮って日本に持ち帰り、絵葉書にするときに国葬の絵葉書のキャプションで「李太王」とすべきところを「李王」とする重大なミスを犯してしまった。「写真通信会」は、「李太王の国葬」の絵葉書セットの頒布を中止し、1919年3月2日午後の敦化門前でのデモの写真も、長く人目に触れることなく埋もれたままになっていた。

 

 これが本稿の検証の結論である。

 

 1919年の時点で、朝鮮にさして関わりのない日本内地の一般人の朝鮮認識では、「李太王」と「李王」を取り違えるというのは十分にあり得ることだっただろう。

 


 

 検証して改めて絵葉書の写真を見なおしてみると、「独立トンニップ万歳マンセ!」という声が、私には聞こえてきたのだが…。

 1945年8月15日の正午、天皇がラジオ放送でポツダム宣言受諾を表明し、日本は太平洋戦争で敗北したことが明らかとなった。。

 

 翌8月16日、建国準備委員会の呂運亨ヨウニョンが演説する映像が残っている。呂運亨の家のすぐ裏手にある徽文フィムン高等普通校の校庭(現在の安国洞アングットン現代ヒョンデ本社ビル東側)に大勢の聴衆が集まった。

 

KBS映像実録(1995放送)動画

(KBS動画ナレーション)

初めて公開されるこの場面は、8月16日に徽文中学校の校庭で演説する夢陽モンヤン呂運亨の姿だ。解放直後、政治の中心は夢陽呂運亨だった。解放直前に日本から行政権を移譲された呂運亨は、すぐに建国準備委員会を結成して、解放直後の政局の真空状態を埋めた。8月の末まで、建準は全国に145ヶ所の支部を設置し、ソウルと地方で治安維持を担当した。

 

 以下、森田芳夫『朝鮮終戦の記録 : 米ソ両軍の進駐と日本人の引揚』(巌南堂書店 1964)の記述などを中心に、この時期の動きを呂運亨に焦点を当ててまとめてみよう。

 

  日本の敗戦前夜

 朝鮮総督府では、警務局が国外の短波放送を傍受して日本がポツダム宣言を受諾することを8月10日には把握した。しかし東京からは何の通知も指示もなかった。

 

 朝鮮の治安維持の責任者だった警務局長西広忠雄は、日本が敗戦となれば、政治犯・経済犯として留置・勾留している朝鮮人を釈放し、朝鮮人の主導によって治安を維持せざるを得なくなると考えた。西広忠雄は、その担い手として呂運亨・安在鴻アンジェホン宋鎮禹ソンジヌなどに目星をつけた。

 

 呂運亨は中道左派、安在鴻・宋鎮禹は右派の民族主義の立場にあった。この3人が、当時朝鮮内に留まっていた朝鮮民族運動の代表的人物であった。

 

 朝鮮総督阿部信行は狭心症で健康がすぐれず、 ナンバー2の政務総監遠藤柳作を中心に敗戦対応の根回しが進められた。8月11日朝、遠藤柳作は総督府農商課長だった崔夏永チェハヨンを呼んで、想定される日本の敗戦について朝鮮人としての感想を求めた。面談の最後で、遠藤は崔夏永に、西広と会って具体的な善後策について話をするよう指示した。

 

 崔夏永は、1932年に東京帝大法学部を卒業して1933年高等文官試験に合格、内務省を経て1937年に朝鮮総督府内務局事務官に登用された。解放後は米軍政庁の農商局顧問官、韓国政府の要職に就いた。1968年8月号の『月刊中央』の「政務総監、韓人課長を呼び出す」という記事で、1945年8月11日のことをこのようにように回顧している。

 (警務局長西広は)昼食をとりながら、「今朝、政務総監が崔課長と重大な話をしたそうだが、先ほど、総監からその具体的な方策を崔課長と相談しろという命を受けた」と切り出した。「ある程度統治権を朝鮮人に移譲するとすれば、誰に移譲するのがよいだろうか。 崔課長にあいだに立ってほしい」と言った。「朴錫胤氏のような方が適当ではないかと思います。この方を推薦しますので、この方を通じて交渉してみてください。 私はこれ以上お話しすることはありません」と答えた。その結果、朴錫胤氏が呂運亨氏を説得し、建国準備委員会が朝鮮の治安権を委譲されることになった。

 崔夏永が名前を挙げた朴錫胤パクソギュンは、崔夏永の東京帝大政治学科の10年先輩で、満州国の官僚になって満州国の駐ポーランド領事なども歴任した人物だった。仲介の依頼を受けると、朴錫胤はすぐに京畿道の奉安ポンアンマウルに出かけていた呂運亨を訪ね、朝鮮総督府が権限を委譲する意向であることを伝えた。

 

 呂運亨氏は当時60才、南京の金陵大学出身で、第一次世界大戦後には上海を中心に活動し、大韓民国臨時政府の要職にも就いた。その一方で、1919年12月、当時の首相原敬に招かれて東京に行き、田中義一大将はじめ日本の要人と面談し、また帝国ホテルで講演もしている。1923年にモスクワで開催された極東被圧迫民族大会に出席して上海で日本の官憲に拘束された。その後朝鮮に戻り、1933年には朝鮮語で出されていた『朝鮮中央日報』の社長に就任した。ソ連・中国・インド・日本に知人が多く、8か国語を駆使する語学力と流暢な弁舌で、青年層に特に人気が高かった。

 

 朴錫胤から権限移譲の打診を受けた呂運亨は、急遽奉安マウルから京城に戻り、親しかった鄭栢チョンベクに依頼して右派の金性洙キムソンスや宋鎭禹との連携を模索した。8月12日と13日、鄭栢が金性洙や宋鎭禹側近の金俊淵キムジュニョン(元東亜日報編集局長)と接触したが、独立国家の建国を宣言すべきだとする鄭栢に対し、金性洙や金俊淵は、重慶の大韓臨時政府を継承すべきだと主張して両者の連携は実現しなかった。

 

 8月14日の夜の23時過ぎ、翌日正午に放送予定のポツダム宣言受諾に関する天皇の読み上げ原稿全文が同盟通信社京城支局に電話送稿で東京から届いた。この情報はすぐに西広警務局長と朝鮮軍管区軍参謀長の井原潤次郞に伝えられた。西広は直ちに政務総監遠藤柳作にこれを報告した。遠藤は、京城保護観察所長長崎祐三に連絡して、翌朝午前6時に呂運亨とともに政務総監官邸に来るよう指示した。呂運亨は思想犯として保護観察下に置かれていたため、遠藤は長崎保護観察所長に指示をしたのである。さらに、高等法院検事長水野重功と朝鮮憲兵隊司令官高地茂都を呼んで、朝鮮人の政治犯・経済犯の即時釈放についても指示が出された。8月15日の午前3時であった。

 

 8月15日朝6時半、呂運亨は、長崎祐三と白允和ペギュンファ検事とともに大和町の総監官邸(現:コリアハウス)に到着した。呂運亨は日本語はできたが、完璧ではなかったため白允和が通訳として同行したのである。

 

 遠藤柳作は、呂運亨を第二面会室に通してこのように切り出した。

今日12時、ポツダム宣言受諾の詔勅が下る。すくなくとも17日の午後2時ごろまでにはソ連軍が京城に入るであろう。ソ連軍はまず日本軍の武装解除をする。そして刑務所にいる政治犯を釈放するであろう。そのときに、朝鮮民衆が付和雷同して暴動を起こし、両民族が衝突するおそれがある。このような不祥事を防止するため、あらかじめ刑務所の思想犯や政治犯を釈放したい。連合国軍が入ってくるまで、治安の維持は総督府があたるが、側面から協力をお願いしたい。

 呂運亨は、「期待にそうよう努力する」と答えた。呂運亨は桂洞の自宅に戻るとすぐに治安維持のための活動を開始すると同時に、植民地支配が終わった後の国家樹立のために動き始めた。

 

 そして、冒頭の動画にあるように、呂運亨はその翌16日に、徽文高等普通校の校庭で演説をしたのである。その演説内容は以下のようなものだったという。

 朝鮮民族の解放の日がやってきました。昨日15日、遠藤が私を呼んで、「過去に二つの民族を一つにしたことが朝鮮にとって誤りだったかについては言うまい。今は別れることになったのだから、互いにすっきり別れる方がよい。誤解によって血を流したり、不祥事を起こさないよう民衆を指導してほしい」と言いました。私は5つの条件を出しました。そして、総督府から治安権と行政権を移譲されました。
 今、我が民族は新しい歴史の一歩を踏み出しました。我が民族解放の第一歩を踏み出すにあたって、我々が過去の痛みをこの場で全て忘れ、この地に合理的で理想的な楽園を建設しなければなりません。今は、個人的な英雄主義をなくし、最後までまとまって一糸乱れぬ団結で進みましょう。しばらくすると連合軍の軍隊が入城するはずです。彼らが来れば、我が民族のありのままの姿を見ることになります。我々は、少しでも恥じるような態度をとってはなりません。世界各国は我々を注視しています。そして、白旗を掲げた日本の心情を察してやりましょう。もちろん、我々は痛快な気持ちを禁じ得ません。しかし、彼らに対して我々の度量の広さを見せてやりましょう。世界文化の建設に、白頭山の下で育った我が民族の力を捧げましょう。すでに専門学校、大学生、中学生の警備隊員が配置されています。もうしばらくすれば、世界各地から立派な指導者たちが戻ってきます。彼らが帰ってくるまで、我々の力は小さなものではありますが、互いに協力し合わなければなりません。

(1945年8月16日 徽文中学校運動場での演説)

  暗殺と葬儀

 1945年9月6日、建国準備委員会は「朝鮮人民共和国」の樹立を宣言した。しかし、連合軍側は北緯38度線で米ソによる朝鮮分割占領を決めており、9月7日に仁川に上陸して9月11日に南朝鮮で軍政を開始したアメリカ軍は、朝鮮人民共和国の建国を認めなかった。

 

 北緯38度線以南の朝鮮での国家建設をめぐっては、朝鮮内外での独立運動における左右両派が対立し、それにアメリカ軍政府の思惑が絡んで混沌としていた。

 

 そのような中で、呂運亨は左右両派の合作を目指して積極的に活動していた。右翼のテロ勢力から何度も襲撃されていた。

 1947年7月19日、昼過ぎに車で恵化洞ヘファドンロータリーに差し掛かった呂運亨は、右翼白衣社の韓智根ハンジグンによって銃撃され、死亡した。

 

当時日本で発行されていた『ウリ新聞』も写真入りで報じた

 

 葬儀は8月3日に行われた。遺体が安置されていた光化門の勤労人民党(勤民党クンミンダン)の党舎前から、人民葬が行われるソウル運動場(現:東大門歴史文化公園)まで棺が運ばれ、沿道では多くの人々が見送った。当時ソウルの人口は120万人だったとされるが、沿道とソウル運動場に数十万人が追悼のために集まったという。

 

몽양 여운형 장례식 영상 (몽양여운형기념관)

 

 当時はまだ決裂していなかった米ソ共同委員会のアメリカ側代表のホッジ中将(John Reed Hodge)と、ソ連側の代表スチコフ中将(Terenti Fomitch Stykov)が弔辞を述べたのも、この時点での呂運亨の存在の大きさを物語っている。

 

 しかし、呂運亨の暗殺で、左右勢力合作の動きは急激に衰退し、米ソ共同委員会の決裂、北緯38度線以南の地域での単独選挙の方向へと動いていった。

 

  呂運亨の住居

 冒頭の地図にあるように、呂運亨の住居は徽文高等普通校のすぐ近く、桂洞ケドン140番地にあった。

 

 

 この呂運亨の家の南側の140番地は、もともとは、朝鮮王朝第22代国王正祖チョンジョの生母綏嬪朴氏スビンパクシを祀った景祐宮キョンウグンがあったところで、近代に入って景祐宮を景福宮キョンボックンの西側に移して「侍衛砲兵第一大隊」を駐屯させた。日本の侵略で大韓帝国の軍隊が解散させられたのち、ここには京城府の「衛生実行部」が置かれた。ゴミと糞尿の集積場である。集積場は1924年に新堂洞シンダンドンに移されたが、桂洞のこの場所は依然として京城府の衛生部の管轄の府有地であった。解放後、ソウル市が引き継いだが、1970年代の終わりに現代ヒョンデグループがこの場所の払い下げを受け、隣接する徽文高等学校の跡地(1978年に大峙洞テチドンに移転)を入手して、1983年に現代グループの本社ビルを建設した。その時に、呂運亨が住んでいた家も半分以上が取り壊された。

 

 盧武鉉ノムヒョン政権の2005年、韓国政府はそれまで対象から外していた左派や社会主義系の独立運動家も叙勲授与の対象とすることとした。呂運亨も再び注目されたが、この時にはすでに呂運亨の住居は改造されてカルククスの店になっていた。

 

2005年当時

 

 この時、MBCの「ニュースデスク」がこの家を取材している。

 

ChatGPTによるMBC音声の要約

 解放から60年を迎え、政府は左派や社会主義系の独立運動家も叙勲授与の推薦をした。夢陽呂運亨先生もその一人である。しかし、彼のゆかりの場所は、今ではほとんど残っていない。故人の住居は今はカルグクス屋となっている。
 夢陽呂運亨は臨時政府の外務部次長として、また建国同盟を率いて独立運動と左右合作を推進した。社会主義者という理由で陰に追いやられていた彼が、叙勲推薦をきっかけに再評価されることになった。しかし、夢陽が1930年代から解放を経て暗殺されるまで過ごしたソウル桂洞の旧宅は、今では主人が変わってカルグクスの店になっている。
 この韓屋は、レンガ造りの家であったが、現在では内装も変わってしまっている。修理しても雨漏りが止まず、最終的にはテントで屋根を覆ってしまったという。
 カルグクス店のオーナーのキム・ボクテさんによると、「改修の話はこれまでも出ているが、修理は難しい」とのことである。また、夢陽呂運亨先生の子孫が北朝鮮に行ったため、夢陽の住居が放置されて荒れてしまった。1980年代初めには、「現代」の社屋が建設され、その影響で道路が変更され、夢陽の旧宅の半分近くが取り壊されることになった。
 さらに、建国準備委員会の看板を掲げていた事務所も去年取り壊され、工事が進められている。一方で、親日行為があったとされる人々の家は保存されているのに、夢陽の住居は 忘れ去られており、叙勲だけでなく、標示石を建てる必要などがあると文化遺産政策研究所のファン・ピョンウ所長は指摘する。

 

 ところが、このカルククスの店も2013年11月に火事で焼けてしまった。現在は、建て直された建物で「アンドン カルククス」の店が営業しており、道を挟んだ向かい側に呂運亨の家があったことを示す石標が設置されているだけである。

 

 


 

 1945年の8月15日の京城の日の出は午前5時47分。この日の午前6時には京城はまだ曇っていた。

 

 そんな中を、迎えにきた長崎祐三と白允和が乗った車に同乗して呂運亨は日の出直後の道を政務総監官邸に向かったのだろう。何を思っていたのだろうか…。

 

 


余談:

 このブログを書きながら、1947年8月3日に行われた呂運亨の葬儀の動画を見ていたら、葬列の背後に「京城製パン」という看板を掲げたビルが写っていることに気づいた(上掲動画の14分38秒から)。


 京城製パンの本社は京城長沙町8番地にあった。もしその場所にこの看板が残っていたのなら、葬列は鍾路を東に進んで鍾路3街で右折して乙支路からソウル運動場に向かったということになろう。

 日本の敗戦時に京城製パンの取締役の一人だった金昌植(朝鮮総督府官報1940年8月17日付)が引き継いだのかもしれない。
 それにしても、1947年の夏にまだ日本語の看板が残っていたのはちょっとした発見。日本の侵略の痕跡を始末するのは、なかなか容易ではなかったことがわかる。