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一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

 パーシヴァル・ローウェル(Percival Lowell)が1883〜84年に朝鮮で撮影し、アメリカのボストン美術館がホームページで公開している写真についてはすでにブログで紹介した。

 

 ここでは、ローウェルの宿舎とソウルでの生活の一端、通訳や食事について見てみたい。


 ローウェルは、1883年の12月末にソウルに到着し、齋洞チェドン統理交渉トンニキョウソップ通商事務トンサンサム衙門アムンの建物に案内されここを宿舎とした。この宿舎の前を撮ったと思われる写真が残されている。

 

 ボストン美術館のキャプションには次のようにある。

The street ashes leading to the Blue Unicorn Valley. My own house on the left, brushwood carrier in foreground.

 「The street (of) ashes」とは、斎洞の「斎(재)チェ」を「灰(재)チェ」とかけてこれをasheと英訳したのかとも思われるが…。この道をまっすぐ北に上っていくと当時は翠雲亭チウンジョンがあった。現在の「北村ブクチョンヒルズ」のあたりだろう。この翠雲亭の直下に「青麟洞天」と刻字された岩があり、これは今も残っている。「青い麒麟」すなわちBlue Unicornである。

 


2008jsl님의 블로그より

 

 従って、この写真のキャプションの意味するところは、

青麟洞の渓谷に続いている斎洞の通り。左側が私の宿所で、前には薪を運ぶ人がいる。

となる。統理交渉通商事務衙門は、欧米や日本など非華夷世界の国々との外交通商関係を取り仕切る役所として、1882年に斎洞の閔泳翊ミニョンイクの旧宅に置かれた。現在の憲法裁判所のところがその場所で、その前から北岳山プガクサンを見上げると山陵がローウェルの写真とほぼ一致する。

 

 

 ローウェルは、宿舎となった統理交渉通商事務衙門の建物について『Chosön, the land of the morning calm』に次のように書き残している。

 長い旅は終わった。私は地球の反対で私の住まいとして用意された建物の敷居に立った。すでに敷居を二つ越えてきたが、さらにいくつかの敷居を越え、曲がりくねった迷路を進み、最後に短い階段を上って、ようやく立派な部屋に辿り着いた。その部屋で私は座るように勧められた。そこにはヨーロッパ風の椅子とテーブルがあった。後で分かったのだが、これらは少し前に国王殿下に贈られたもので、王宮から家具としてここに送られたものだった。接待係は、ヨーロッパ製のビスケットの箱を取り出し、発泡酒をいくつか開けた。皆が温かく迎えてはくれたが、暖房はなかった。私は座ったまま笑顔で震えていた。親切な接待係は寒さには無関心のようだった。後から彼らの服を着てみたときにその理由が分かった。すぐにお茶が出てきて、床下の暖房にも火が入った。しかし、飲み物が冷めて飲めるようになるまで、そして床下の暖房の温もりが感じられるようになるまで、長く待たなければならなかった。
 スライド式の扉は開け放たれており、部屋の温度は上がらなかった。翌日になって私がこの家の主人として振る舞えるようになってから、扉は閉めておくべきものだと私は訴えた。私の世話を命じられた人々は、そのようにするとは答えたものの、それがうまくいくとは思っていなかった。彼らは、使用人たちが「主人の言うことに従う習慣がない」ので、彼らにそれをやらせることは難しいのだと言った。朝鮮では、扉は閉めるためではなく開けるためにあるということも、落胆させられる事実なのだ。召使いたちは、名ばかりの召使いたちである。
 室内暖房がうまくいって、私が滞在するつもりになりさえすれば私の住居となるはずのこの広々とした家の中を案内された。それは、内側にいくつもの部屋があり、外側からはひと続きの家屋に見える建物だった。それは外交のための役所の迎賓館と呼ばれていた。これは新しくできた呼称だった。以前は、何人もの朝鮮の有力者の住まいであったし、最後は現在の王宮の寵臣である閔の屋敷だった。建物と同じくらい広い庭園や中庭があり、自分の住まいの中で自分が迷子になってしまいそうになった。

(1888年版 p.80)

 到着したのは陽暦の12月末。屋内でも相当に寒かったようだ。

 

 このローウェルの朝鮮訪問には、英語-日本語の通訳として宮岡恒次郎が同行していたとされている

※高田美一「宮岡恒次郎とパーシヴァル・ロウエル・エドワード・モース,アーネスト・フェノロサ : 明治東西文化交流の一面」『立正大学文学部論叢』97号(1993.3)
정영진「미국 보스턴미술관 소재 로웰의조선 사진 설명문의 오류와 정정 방안」『문화재』53巻2号(2020.6)

 

 宮岡恒次郎は、1865年生まれで10歳から東京英語学校で英語を学び、10代でエドワード・モースやアーネスト・フェノロサの通訳を務めた。その関係で、ローウェルが朝鮮の報聘使ポビンサ一行をエスコートして訪米する際には、宮岡がローウェルの私設秘書兼通訳としてアメリカに同行した。さらにその後のローウェルの朝鮮訪問にも宮岡が同行したといわれており、『Chosön』の前書きにMiyaoka Tsunejiroへの謝辞がある。

 

 朝鮮の報聘使一行がアメリカ到着後に撮った記念写真に宮岡恒次郎も写っている。左から3人目、ローウェルの左後ろに立っているのが当時東京帝国大学法学部の学生だった宮岡である。その後、1887年に東京帝大を卒業した宮岡は外務省に入省して外交官になった。

 

前列左からローウェル・洪英植ホンヨンシク・関泳翊・徐光範ソグァンボム・呉禮堂(中国語通訳)、後列左から玄興澤ヒョンフンテク・宮岡恒次郎・兪吉濬ユギルチュン崔景錫チェギョンソク高永喆コヨンチョル邊焼ピョンヨン

 

 当時は、朝鮮王朝にはまだ英語の通訳がおらず、ローウェルには日本語の通訳が付いた。  『Chosön』の記述から、釜山上陸時から東莱府の「倭学訳官」が同行したのではないかと思われる。ローウェル自身も日本語は多少はできたようだが、通常のコミュニケーションは、通詞が朝鮮語を日本語に訳したものを宮岡が英語でローウェルに伝えるというものだったのだろう。

 

Korean Interpreters into Japanese,

 

 ローウェルの世話を担当したのは崔景錫と李時濂イシリョムの二人だった。崔景錫は、武官として報聘使にも随行しており(前掲写真後列中央)、李時濂は、統理交渉通商事務衙門の司官として世話役を担った。

 

Korean Gentleman

 ローウェルは『Chosön』のまえがきで、宮岡恒次郎の名前とともにこの二人の名前を挙げて謝辞を贈っている。

 

 そして、本文中では崔景錫と李時濂について次のように言及している。

 二人の役人が私の世話をするために任命された。その一人はこの屋敷の一角に住んでいた。彼は将官級の軍人で、私の護衛として旧知の間柄だった。彼の役割は、住居の責任者として財務関係全般を取り仕切った。彼はこの世で最も善良で優しい人物であり、非常に物静かで細やかに配慮していた。彼が様子を見に来た時にはいつも穏やかな満足感が漂っていた。もう一人は外務官僚の書記官だった。彼の仕事は定期的に私を訪ねることだった。ほぼ一日に一回、私の前からなくなったものがないかを確認し、それを補充するように手配した。サクァン(それが彼の肩書だった)は最も有能な民間伝承学者だった。生まれつき話し上手な彼は、世話係の仕事に最適であった。他の国であれば宴会で人々を楽しませる存在になっていたであろう。彼が披露する物語や伝説は、それだけで一冊の本になるほどだった。自分が語ることすべてを信じていたという一点を除いて、彼は朝鮮における完璧な神話学者だった。

(1888年版 p.84)

 

 ローウェルが撮った写真の中にもう一枚興味深い人物写真がある。

 

My Japanese cook dressed in Korean clothes. A corner in one of the narrow streets 

(狭い通りの一隅に韓服を着て立つ私の日本人コック)

 この日本人コックに関して、ローウェルは『Chosön』で次のように述べている。

 私は、この地の住民が創意工夫で料理した「発明品」を食べ、コックがうまく料理できたと思う「実験的食べ物」を味わった。そのコックは、自分の知らない材料や奇妙なものを手に入れては、それを試した。その才能は非常事態に対応するのには長けていたというべきかもしれない。すでに述べたように、そのコックは、私のために朝鮮人が日本から連れてきた長崎出身の男だった。初めはホームシックにかかったように、いつ出航するのかと何度も尋ねた。しかし、日本人は抜け目がなかった。実は故郷に帰りたかったのではなく、ソウルで最初の外国料理店を開くという野心的な計画を立てていて、我々の出発を心待ちにしていたのだ。そのことを彼は私には話をしないまま、数ヶ月後に海岸で別れの挨拶をする際に、私にその決意を告げた。そこで私は彼を済物浦に残すことにした。その後、彼がその計画を実行したのか、もし実行していたとしても、その年の12月に起きた日本人の虐殺事件を生き延びることができたのか、私は彼の消息を聞くことはなかった。ただ、彼は私にとっては良い使用人だった。

(1888年版 p.83)

 この写真で韓服を着ているのは、ローウェルが「親切な接待係は寒さには無関心のようだった。後から彼らの服を着てみたときにその理由が分かった」と書いているように、韓服の方が防寒に優れていたからではないか。多分、長崎から持ってきた手持ちの衣服では到底朝鮮の寒さには太刀打ちできなかったのだろう。

 

 ローウェルが、この長崎から来た日本人コックを残して朝鮮を去った10ヶ月後の12月に、金玉均キムオッキュン朴泳孝パギョンホ・洪英植らによる甲申政変カプシンチョンビョンが起きた。この政変では、日本の竹添進一郎公使が日本軍の守備隊を引き連れて国王の居所であった昌徳宮チャンドックンに出動した。3日後にソウルに駐屯していた清軍との間で交戦になり、金玉均や朴泳孝らは国王を昌徳宮から北廟プンミョに送り出し、日本の竹添公使や守備隊と共に日本公使館に退却した。この当時の日本公使館は、現在の雲峴宮ウニョングンの向かい側、天道教チョンドギョの中央会堂があるあたりにあり、昌徳宮の北側を迂回して、ローウェルが宿舎にしていた統理交渉通商事務衙門の前を通って死傷者を出しながら公使館までたどり着いた。一方、洪英植は国王に随行して北廟に向かい、その後清軍によって殺害された。

 

 洪英植は、訪米した報聘使の一員であり、ローウェルとも親交があった。おまけに、ローウェルの宿舎だった統理交渉通商事務衙門のすぐ北側が洪英植の居宅だった。ローウェルは、洪英植の父で元領議政の洪淳穆ホンスンモクと兄・洪萬植ホンマンシク、弟・洪正植ホンジョンシク、それに子供たちが一緒の写真を残している。洪淳穆は12月の甲申政変の後で洪英植の子供を連れて自決した。

 

洪萬植(兄) 洪淳穆(父) 洪英植 洪正植(弟)

 

 ローウェルは、洪英植についても『Chosön』のまえがきで名前を挙げている。

 

忠実な友であり、真の愛国者であり、ついには政治的殉教者となった今は亡き洪英植に感謝を捧げる。

 この政変の最中、日本勢力が甲申政変の「反乱」を起こした側に加担したとして、ソウルに在住していた日本人が朝鮮人住民の攻撃のまとになった。ソウル在住で、日本公使館まで辿り着いた34名は、日本公使館の館員・関係者、それに守備隊とともに仁川に脱出した。また、アメリカ公使館に逃げ込んだ16名も仁川まで清軍と朝鮮側に警護されて送り届けられた。騒乱の中で40人の日本人が犠牲になり、そのうち27人が民間人だった。これが、ローウェルが言及した「その年の12月に起きた日本人の虐殺事件」である。ただ、残念ながらローウェルは、このコックの名前などは一切書き残していない。

 

 この時の民間人犠牲者の中に、長崎出身者が二人確認できる。一人は、長崎の船大工町出身の平民・友田亀次郎、もう一人は長崎魚町出身の平民・井奈田金三である。

 

 ローウェルのコックは、この二人ではなく、ソウルのどこかで初めての洋食屋を開業したのかもしれない。そうであってほしいと思うのだが…。

 1883年〜1884年にパーシヴァル・ローウェル(Percival Lowell)が朝鮮で撮影した写真が残されている。

 ローウェルは、朝米修好通商条約の締結後、朝鮮がアメリカに派遣した報聘使使節団に参賛官として同行し、その後1883年12月末から1884年3月中旬までソウルに滞在した。甲申政変カプシンチョンビョンが起きる数ヶ月前である。ローウェルはカメラを携行していて、80枚以上の写真を撮影した。そのうちの61枚がアメリカのボストン美術館に所蔵されており、同館のホームページで閲覧できる(時々接続できなくなるようだが…)。

 

 ローウェルはアメリカに帰国後、朝鮮での体験をまとめた『Chosön, the land of the morning calm ; a sketch of Korea(朝鮮 静かなる朝の国)』(Lowell、1886)を出版し、その初版本にはこの写真のうち25枚が掲載されている。

 1888年に出版されたこの本の第3版がLibrary of Congressで公開されているが、第3版には写真は5枚しか収録されていない。

 


 ボストン美術館所蔵の写真のうちの45枚を使ってナレーションを入れた動画がYouTubeにアップされている。ここでは、そこで使われている写真とその解説を日本語訳で掲載する。

 

 

 

 

アメリカの実業家で天文学者でもあったパーシヴァル・ローウェル(Percival Lowell)は、1883年、日本に滞在していた時に朝鮮からやって来た報聘使一行に出会った。朝米修好通商条約締結でアメリカに向かう使節たっだ。ローウェルは駐日アメリカ公使の依頼でこの使節一行をアメリカまで引率する役目を引き受けることになった。

前列左からローウェル、洪英植ホンヨンシク閔泳翊ミニョンイク除光範ソグァンボム

ローウェルの斜め後ろは日英通訳の宮岡恒次郎

    ローウェル 除光範
閔泳翊           洪英植

 

報聘使から報告を受けた高宗は、ローウェルの労をねぎらって朝鮮に招待し、ローウェルは1883年12月20日に朝鮮を訪れて3ヶ月ほど滞在した。この時に撮影した写真が朝鮮王朝末期のソウルの様子をありのままに伝えている。

 

ローウェルはこの時の滞在経験をもとに『朝鮮 静かなる朝の国』と題した本を著した。

 

 

済物浦チェムルポからソウルに行く途中にある麻浦マポナル。西の方を眺めたアングルで、遠く楊花ヤンファナルの蚕頭峰チャムトゥボンが見える(左側)。峰の形が蚕の頭のような姿をしていることから蚕頭峰と名付けられていたが、1866年の丙寅迫害の時、カトリック信者がここで頭を切られて処刑されたことから、切頭山チョルトゥサンとも呼ばれる。

 

麻浦の南には汝矣島ヨイドの砂浜が広がっている。中央の低い山は羊馬山ヤンマサンあるいはヒツジウマ山と呼ばれていた。馬や羊を飼育していたのでその名がつけられた。現在はこの山は削られ国会議事堂が建てられている。

 

麻浦から北の阿峴アヒョンの方向を眺めたアングル。中央左手に見える孔徳洞コンドクトンの丘の麓に黒く見えるのが興宣大院君フンソンテウォングンの別荘である我笑亭アソジョン、右側の丘陵の向こう側に都城がある。

※麻浦の淡淡亭タムタムジョン(現在の碧山ビラ(벽산빌라))からの撮影と推定される

 

現在の安国アングク駅の上の交差点から斉洞チェドン方向を眺めたアングル。ローウェルは斉洞に滞在した。この一帯は朝鮮王朝時代の両班が暮らしていたところで、今は北村プクチョン韓屋村ハノンマウルとして知られている。

憲法裁判所の前から北方向

 

ローウェルの宿舎で身の回りの世話をしていた少年がシャボン玉を吹いている。この当時、石鹸は珍しいものではあったが、購入することができた。1882年に、初めて商品化された石鹸を清国から輸入したという。

 

瓦葺きの店の前に仮建物が建てられている。店の外に売り場を出して物を売る今の店と同じようなやり方。鍾路チョンノ南大門路ナムデムンノのような通りには、このような「仮家カガ」が多かった。王の行幸があると撤去され、終わると再びこのような「仮家」が作られた。

 

品物が陳列された店の前の狭くなった路地にカッ(朝鮮式の帽子)のかぶった青年が立っている。ローウェルのために雇用された日本人コックだという。
※朝鮮側でローウェルのために日本人シェフを長崎で雇った。ローウェルが朝鮮を離れる際、この青年は西洋式食堂を開店するとして朝鮮に残った。甲申政変で無事だったかはわからない。(Lowell、1888、p.83)

 

木の実が並べられているのが印象的。ローウェルによると、柑橘類や干し柿のような果物より栗やクルミのような木の実の方が品質が良かったという。

 

帽子屋が、店の前だけでなく屋根の上にまで軍帽を並べており、軍人が列をなしている。斜めになった屋根は商品陳列棚としても役立っている。

 

ソウルの薬屋や医院はクリゲ(銅峴ドンヒョン)にたくさん集まっていた。クリゲは、現在の乙支路入口ウルチロイック明洞ミョンドン一帯にあった峠。

 

水標橋スッピョギョ広通橋クァントンギョとともに清渓川チョンゲチョンで最も通行の多かった橋。 この頃はまだ橋の欄干がなかったが、1887年に水標橋に欄干が設置された。

 

通りに人が 溢れている。国王の行幸を見物しようと集まったもので、行幸の時にはソウルの街は見物人で足の踏み場もなくなるほどだった。

 

この人たちも王の行幸を見物に来たのだろう。そこで、妙な機械を持ち歩いている西洋人を見ることになった。

 

永禧殿ヨンヒジョン入口の紅箭門ホンサルムンは、特に高くて大きい。永禧殿は、太祖テジョをはじめとする歴代の王の御真影を祀った場所で、現在の中区チュング苧洞チョドン2街の中部チュンブ警察署と永楽ヨンナク教会のあたりにあった。

 

 

永禧殿は光海君クァンヘグンの時に、太祖と世祖セジョの御真影を祀ることから始まり、哲宗チョルジョンまで計6人を祀っていた。

 

道端で穀物を干している家の前。 暗くてはっきりは見えなが、石臼(ヨンジャパンア)があるようだ。 水の天秤棒を担いだ水売りムルチャンスも見える。

ヨンジャパンア

 

道端の井戸で白髪の老人が水を汲んでいる。当時みんなが結っていたサントゥ(マゲ)を結っていない姿がもの珍しい。

 

鐘路の円覚寺址ウォンガクサジ(タプコル公園)のそばにある民家の様子。

 

南山の斜面に幼い少年が集まっている。瓦屋根の家が下に見えていて、背後には白岳山ペガクサンが写っている。クワを持った子供や飴売りの板ヨパンを首にかけた子供もいる。

 

朝鮮の仏教寺院を見たがっていたローウェルは、華渓寺ファゲサに行くことができた。 華渓寺は宗教施設としてだけでなくハイキングの場所としても人気があった。通訳を務めた尹致昊ユンチホをはじめ多くの人が同行した華渓寺への日帰り小旅行には妓生キセンも同行した。

 

親しくなったこの妓生の名前をローウェルは香り高いアヤメと記録している。しかし妓生の名前はアヤメではなく蘭だった。蘭をAillisと通訳したのだろう。これまで伝わっている写真の中で、この香蘭ヒャンナンが最初にカメラの前に立った朝鮮女性だと思われる。

 

華渓寺の境内で公演をする姿。 周りに人がいるが、一人ですべての役割と動作をする一人劇である。 ローウェルがわざわざ記録に残した木魚モゴが後ろに見えている。

목어(木魚)

 

坂の上に恵化門ヘファムンが立っている。ローウェルは華渓寺に行く途中で恵化門を通ったが、その位置が印象に残ったようだ。両側が急に切れて、足元に屋根が見え、深い渓谷からせり上がった丘に囲まれていると記録している。

정영진氏の論文によれば、手前に写っているのは弓術の練習に来た人物とその従者だという。

 

坂の下に都城外側の風景が広がっている。今でも恵化門前の東小門路トンソムンノを通ると高台になっていることが分かる。日本による植民地統治時代に敦岩洞トナムドンまで電車の路線を延長した時、恵化門を撤去して道路を削っており、元々は今よりもっと高かった。

※恵化町ー敦岩町間の電車が開通したのは1941年7月12日

 

西大門ソデムンの近く、現在江北サムソン病院があるところで撮った漢陽土城。仁旺山イナンサンに沿って城壁がうっすらと見える。

 

西大門外にあった慕華館モファグァンの近くの西池ソジ太宗テジョンの時に池を作り、開城ケソン崇教寺スンギョサの蓮の花をここに移植した。漢陽土城の内外に蓮池が3ヶ所あったが、この西池が最も大きくて蓮の花も多く、見物に訪れる人が多かった。

 

英祖の時、西池の横に天然亭チョニョンジョンを建てた。毋岳ムアクチェを行き来する官員がよくこの天然亭で宴会を開いていた。開港後、天然亭の近くに京畿監営キョンギカムヨンが置かれ、天然亭が日本公使館として提供されて「清水館チョンスグァン」と呼ばれた。ローウェルがここを訪れた時には、壬午軍乱イモグルラン(1882年)で清水館が焼かれて、日本公使館の跡だけが残っていた。

 

南別宮ナムビョルグンは、太宗の次女慶貞キョンジョン公主が住んでいたところで、小さな姫の住居があったということから小公洞という地名がついた。壬辰倭乱イムジンウェランの時、明の将軍李如松がここに滞在し、宣祖ソンジョが明の将軍に会うために頻繁に訪れたことから南別宮と呼ばれたという。

 

南別宮は清国の使臣と接見する場所として使われたが、1883年に清国公使(正確には淸国総辦朝鮮商務)として赴任した陳壽棠も南別宮に滞在した。赴任する直前に清国の公使館が完成していたにもかかわらず南別宮を居所とした。清国は1884年7月に南別宮を朝鮮に返還し、のちに高宗はそこに圜丘壇ウォングダンを建てることになった。

 

景福宮キョンボックンの東門である建春門コンチュンムンと遠くに東十字閣トンシプチャガックが見える。王宮の塀沿いに三清洞サムチョンドン川が流れている。少年が立っている向かい側が、今の国立現代美術館ソウル館の場所。三清洞川は1957年に覆蓋され暗渠となった。

 

 

慶会楼キョンフェルでは、外国の使臣を迎えたり、国の慶事の時に宴が開かれた。

 

慶会楼の橋の横の門を過ぎると狭い道を挟んでもう一つの塀があり、その向こうに康寧殿カンニョンジョンがある。慶会楼の塀は日本の植民地時代に取り壊されたが、今は復元されている。

 

 

慶会楼の2階から泰元殿テウォンジョン方向を望む。泰元殿は景福宮を再建した際、太祖の肖像画を祀るために建てられた。植民地統治下で取り壊され、2005年に復元された。

 

景福宮の裏門である神武門シンムムンを出ると青瓦台チョンアデの前に出る。警護の問題で長い間閉ざされていたが、2006年に開放された。

 

昌徳宮チャンドククンの後苑の芙蓉池プヨンジ越しに宙合楼チュハムヌと正門の魚水門オスムンが見える。宙合楼は正祖の時に建てられた2階建ての楼閣で、1階は奎章閣キュジャンカク、2階は宙合楼と呼ばれている。

 

 

昌徳宮の後苑、演慶堂ヨンギョンダンの中の濃繡亭ノンスジョンで撮影された高宗。高宗が初めて写真を撮られたのは1884年3月10日。立った姿勢、座った姿勢、遠景から撮ったものの3枚の写真が撮られた。

 

現在残っている高宗の写真はかなりの数にのぼるが、初めて高宗をカメラに収めたのはローウェルだった。

 

ローウェルは王世子だった李坧イチョク(純宗)の写真も撮った。この日、李坧は10歳の誕生日から5日目だった。

 

領議政ヤンウィジョン洪淳穆ホンスンモクは、報聘使の一員だった洪英植の父親。 洪英植が甲申政変に参加して失敗すると、孫と共に自決した。

 

閔泳穆ミンヨンモクは当初は開化政策に賛同していたが、閔氏戚族勢力の頭目として浮上し、権力の核心人物となると急進開化派と対立し、甲申政変の時に殺害された。

 

ローウェルがソウルに滞在した際、彼の世話をした官吏。 外衙門官吏の李時濂イシリョム(左)は朝鮮を訪問する外国人のサポートを担当し、報聘使で従事官を務めた崔景錫チェギョンソク(右)はローウェルの宿舎の使用人を管理した。

 

輿に乗っているのは初代アメリカ公使ルシアス·フート(Lucius Harwood Foote)の夫人ローズ。朝鮮とアメリカは1882年5月に朝米修好通商条約を締結し、翌年アメリカから政権公使フートが赴任した。

 

メレンドルフ(Paul Georg von Möllendorff)はドイツ出身の外交官で、朝鮮で外交顧問として活動した。高宗は壬午軍乱の時に殺害された閔謙鎬ミンギョンホの邸宅をメレンドルフに下賜した。現在の曹溪寺チョゲサ寿松スソン公園一帯を占める大邸宅だった。

 

開港後、外国との交渉が活発になると、英語通訳官を養成するための外国語学校として同文学トンムンハクを置いた。1883年、メレンドルフが統理交渉通商事務衙門の付属機関として設立したが、3年後に育英公院ユギョンゴンウォンが設立されると、同文学は閉鎖された。

 

 清水宏が1940年に朝鮮総督府鉄道局の依頼で作製した短編広報映画「京城」(24分・35mm・白黒)。監督:清水宏、撮影:厚田雄春、音楽:伊藤冝二、製作:大日本文化映画製作所。京城とその近郊での撮影は1940年4月から5月初に行われた。

 ※「京城」と「ともだ志」の製作過程についてはこちらを参照

 

 この「京城」に映し出されている街並みや風景を手がかりにロケ地めぐりをやってみた。

動画はこちらから

 

 ※文中では、日本「内地」に本籍のあるものを「日本人」、朝鮮に本籍のあるものを「朝鮮人」と表記する。
 ※ 京城府内の鳥瞰地図は『大京城府大観』(1936) 

 

冒頭部分 0:48〜1:15

 左は朝鮮神宮のシルエット。

日文研朝鮮写真絵はがきデータベース

 

 右は、半島ホテル屋上から撮った明洞聖堂のシルエット。
 1945年11月にDon O'Brienが半島ホテル屋上から撮った明洞聖堂の写真(ネット上の写真は裏焼きなので水平方向に反転した)とシルエットが一致する。


Seoul, Korea-3 | Looking southeast from roof of Hanto Hotel
 November, 1945 Don O'Brien

 

2:16〜 通学風景

 いずれも朝鮮総督府の前の光化門通で撮影されたもの。光化門分局・逓信局のところが現在の世宗セジョン文化会館。総督府庁舎の西側通義町(現:通義洞トンウィドン)には東洋拓殖会社の社宅など内地人の居住地区もあったが、現在「西村ソチョン」と呼ばれる地区には朝鮮人の住居が多かった。道を渡っているのは寿松尋常小学校(1937年までは普通学校)に通う朝鮮人児童であろう。

 

3:02〜 第一高等女学校と京城中学

 画像の左は第一高等女学校の正門前、右は京城中学の正門前。どちらも日本人中等教育のエリート校で、朝鮮人の生徒が少数在学していたが、ほとんどが日本人生徒だった。

第一高等女学校と京城中学(日文研朝鮮写真絵はがきデータベース)

 

 

3:19〜 朝鮮総督府庁舎への出勤

 

4:03 バレーボールをする児童

 貞洞町の女子尋常小学校(1937年までは女子普通学校)の校庭で撮影。右の写真の後ろに見えるのは京城放送局の局舎とアンテナ。上掲地図参照

京城放送局

 

 この場面の前の校庭もこの学校で撮影したものかもしれない。だとすると、元々普通学校だったので、全員朝鮮の児童たち。ただし教師は3割程度が日本人、約7割が朝鮮人であった。

 

 男子体操の場所は不明。

 

4:34〜 京城帝国大学医学部 

 最初の建物は京城帝国大学医学部本館、現在も大学路テハンノのソウル大学校医科大学の建物として残っている。

 

4:50〜 陸軍兵志願者訓練所

 1938年に朝鮮人を兵卒とする陸軍特別志願兵制度が始まり、勅令156号によって「朝鮮総督府陸軍兵志願者訓練所」が設置された。場所は、京城の東北郊外の楊州郡墨洞里。解放後、この場所に朝鮮警備士官学校が置かれ、その後陸軍士官学校となった。動画に出てくるのは朝鮮人志願者の訓練の様子。

1/25,000地図(1914年測図1937第3回修正測図)

 

5:09〜 株式会社朝鮮取引所

 明治町(現:明洞ミョンドン)の明治座(現:国立劇団明洞芸術劇場)の北側にあった。

 

5:32〜 商業銀行→レートクレーム広告塔→京城郵便局


日文研朝鮮写真絵はがきデータベース

平尾賛平商店の化粧クリーム「レートクレーム」の巨大広告塔は1936年に建てられた。

 

本町通入口→篠崎ビル →三越(現:新世界シンセゲ百貨店)

 

貯蓄銀行(旧第一銀行本店を現在新世界別館に改装中)→青木堂 →朝鮮銀行(現:貨幣博物館)

 

 

6:09〜 警察官講習所→光化門通(現:世宗路セジョンノ)→京畿道庁

総督府庁舎前を西から東に移動しながら撮影。 

 

6:22〜 徳寿宮横から京城府庁前

 

 

6:35〜 鍾閣から鍾路を見通して和信百貨店前

 現在の地下鉄1号線鍾閣チョンガク駅上の交差点を南から北に移動しながら撮影。

 

6:50〜 京城府庁→黄金町通り(現:乙支路ウルチロ)方向→半島ホテル(現ロッテホテルの場所)

 

7:01〜 鍾路の交差点から南大門通方 →東一銀行・鍾閣

 現在の地下鉄1号線鍾閣チョンガク駅上の交差点を西から東に移動しながら撮影。

 

7:12〜12:02 朝鮮の人々の暮らし、街並み、露店、食堂、子供達、洗濯場など

残念ながら目印になる建造物などがなくて撮影場所が特定できない。

 

12:24〜 圜丘壇・半島ホテル・京城府庁・朝鮮ホテル・聖公会・朝鮮総督府

徳寿宮静観軒からのスケッチ(日文研朝鮮写真絵はがきデータベース)

 

12:46〜13:08 府民館の屋上からの撮影か?

 

13:09〜 半島ホテル4階食堂から徳寿宮

 半島ホテルからは、徳寿宮の中和殿・李王家美術館(現:国立現代美術館徳寿宮館)が見通せていた。

現在の中和殿と国立現代美術館徳寿宮館

 

13:23〜13:40 昼休み風景

 ①は朝鮮総督府図書館の裏側か?。

 ③の建物は、半島ホテルの向かい側の三井物産京城支店のビル屋上。このビルはロッテホテル向かい側に現存する。朝鮮戦争後にアメリカ大使館となり、その後アメリカ文化院。1992年に韓国側に返還されてからはソウル市庁別館となり、一時期グレビンミュージアムとして使用されていた。

 

 ②④は、屋上の手すりから半島ホテル斜め向かいの清水組ではないかと推測。

 

13:40〜15:28 昌慶苑の動物園・徳寿宮・景福宮慶会楼・光化門

 15:08に出てくる門は、景福宮に朝鮮総督府庁舎を建設したため東側に移設された光化門。

 この光化門クァンファムンは、朝鮮戦争開戦直後に上部の木造部分が焼失。朴正煕パクチョンヒ政権下の1968年に景福宮キョンボックン正面に移転して光化門をコンクリート製で再建。その後改めて木造で忠実に復元する工事が行われて2010年に完成した。

 

15:28〜 織物・刺繍の工房

 撮影場所は特定できない。李王職美術品製作所という推定もある(映像資料院資料)が、製作所は1936年に廃止され、跡地は東洋拓殖会社に売却された。この製作所の施設・設備が移され、職人が移動した場所での撮影かとも推測されるが、どこに引き継がれたかは不明。

 

16:36〜17:32 競馬場・野球場・ゴルフ場

  競馬場は、朝鮮競馬倶楽部が1928年に新設里に建設。野球場は、1925年に皇太子成婚記念事業として建設された東大門運動場の一角に作られ、翌年バックネット裏に屋根付きスタンドができた。京城ゴルフクラブは、1930年に君子里(現:オリニ大公園)に18ホール(パー69)のコースがオープン。

 

17:33〜18:26 京城駅 駅そば 駅弁

 1930年代後半には京城駅でも「駅売うどん・そば」が売られており、1940年に「かけ」が11銭だった。駅弁は1938年に25銭に値下げされたが、中身が貧弱だと評判が悪く、1939年11月に40銭の高級駅弁が売り出されている。動画に出てくる駅弁は25銭なのか40銭なのか… ちなみに1940年には、葉書が2銭なので、単純計算で11銭は340円、25銭は775円、40銭は1,240円になる。

 

18:25〜18:39 明治座

 この建物は今も明洞に現存し、国立劇団明洞芸術劇場として使われている。上掲写真の奥の方に朝鮮取引所があった。映画「京城」では、明治座の入り口には清水宏監督の作品「信子」の看板がかかっている。実際に封切られたのは1940年5月6日。撮影チームは5月2日に全ての撮影を終えているので、この看板は上映予告なのだろう。

 

18:39〜 路面電車 東大門・車庫 鍾路・和信前

 左は東大門の電車停留所。後方の建物は東大門の電車車庫(現:JWマリオット・東大門トンデムン総合市場の場所にあった)。

『京城電気沿線御案内』1928年

 19:14に鍾路の和信百貨店前の停留所が出てくる。撮影は、鍾路沿いの停留所と電車内で行われたのであろう。チマチョゴリの朝鮮女性の乗客が多く見られる。

 

19:23〜 本町通

19:35 右手の建物は平田百貨店、奥の2階建ての建物は飯泉洋品店。

平田百貨店(大京城写真帖より)と本町入口(日文研朝鮮写真絵はがきDBより)

 

19:42 映像の角度や距離から、鐘紡ビルから本町二丁目の日之出商行(絵葉書・額縁販売)と向かいの田中時計店方向を撮影したものであろう…。

日文研朝鮮写真絵はがきDB

竹崎達夫「思い出の本町入り口付近」

 

19:56〜 朝鮮人の市場

 場所が特定できない。

 

20:13〜20:47 三越百貨店 売り場・閉店

 

21:27〜21:57 閉店後の三越ショーウィンドウ・夜市

 

21:59〜23:40 レストラン・天ぷら・朝鮮料亭

 1939年に詩人高橋新吉を京城に迎えた朝鮮の文人たちが歓待した様子が次のように描かれている。

 明洞の名物であるバーグランのコース料理、カネボウの洋食、川長の鰻丼、江戸川のすき焼き、そして白龍、ノアノア、黄昏、オアシス、羅典区など、個性豊かなグリルとテイールームを見物した高橋は、夜になると鍾路の食道園で妓生と神仙炉に酔い、年若い花嫁のように顔を赤らめた。

吉川凪『京城のダダ、東京のダダ』平凡社 2014

 この本の中には「天ぷら」は出てこないが、川長は天ぷらでも有名だった。

 

 この映像の撮影場所の特定はできない。ただ、この場面は、京城一の繁華街のバーグラン(ボア・グラン)・カネボウ・川長・江戸川・食道園といった飲食店・料亭の1940年の雰囲気を知る手掛かりにはなるだろう。

 

(完)