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一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

 1982年11月、鈴木善幸の後を継いで総理大臣に就任した中曽根康弘は、翌83年1月に就任後初の外遊先となる韓国を訪問した。1月12日の全斗煥チョンドゥファン主催の晩餐会の挨拶で、中曽根首相は冒頭部分と最後の部分を韓国語でスピーチした。

 

 共同通信の記事には、「会場からは”日本人でこんな上手な発音は聞いたことがない”との賛辞」とあるが、この当時は日本人が韓国語を話すわけがないと思われていた時代。取材する日本側取材陣にも「韓国語で取材ができる記者」はほとんどいなかった。「アンニョンハセヨ」と言っただけで「わぁ!韓国語、上手ですね!」と驚かれるような時代だった。だから、中曽根スピーチも必ずしも「上手な発音」だったとは言い切れないのだが…。

 

 さらに、公式晩餐会後にセッティングされた2次会では、中曽根首相が「黄色いシャツ」を韓国語で歌ったというので、日本の新聞はそれを大々的に報じた。

 

 

 一方、韓国の新聞は、日本の報道とは対照的に、2次会で韓国語で歌われた「黄色いシャツ」については全く報じていない。あるいは、報じることができなかった…のかも知れない。また、晩餐会での韓国語スピーチについても、韓国紙はほとんど触れていない。『東亜日報』で、東京特派員が日本側の報道ぶりを伝える中で言及しているのが目につく程度。

 日本の新聞は、中曽根首相が晩餐会で日韓両国の不幸な歴史について反省の意を表明したのは、昨年の教科書問題以降、再び高まった「対日不信」などを考慮したものとし、中曽根首相が韓国国民に過去の歴史に対する反省の姿勢を示したものとみている。

 一方、中曽根首相は、全斗煥大統領主催の晩餐会で、スピーチのかなりの部分で韓国語を使って日韓両国の出席者を驚かせ、拍手を受けたと伝えている。

 はじめは「전두환대통령 각하…(全斗煥大統領閣下…)」の部分だけかと思われたが、それ以降も韓国語のスピーチが続き、その間何度も拍手が起こり、最後の「여러분의 건강과 귀국의 번영을...(皆様の健康と貴国の繁栄を…)」のところも韓国語で述べて日韓両国関係者を驚かせたと、日本の新聞は伝えている。

東京=鄭求宗特派員

 「中曽根康弘の韓国語」は、どうやら日本側の報道で、より大きく扱われていたようなのだ。

 

  中曽根康弘の韓国語学習

 中曽根首相訪韓後の『朝日ジャーナル』1月28日号のコラムでも中曽根康弘の韓国語が取り上げられている。そこでは、中曽根訪韓以前の「産経新聞』に掲載されていた記事(掲載日不明)が次のように引用されている。

 中曽根首相が、かなり以前から韓国語を独習していたことは周囲の者すら最近まで知らなかった。「隣の国の言葉がまったくしゃべれないというのは悲しいことだ。韓国の要人はほとんど日本語を話せる。これからはわれわれも積極的に韓国語を習わなければ」。54年、韓国を非公式訪問して帰った首相はこんな感想ももらした。
 なぜ韓国の要人のほとんどが日本語を話せるのか。戦前の36年間にわたる日本の韓国支配。この「悲しい歴史」が韓国民の背後にある。首相もそれを知りつくしている。口にこそ出さないが、人知れず韓国語を習ってきたところに、首相の韓国観がうかがえよう。

産経新聞からの引用

 中曽根康弘は、首相になる3年半前の昭和54年、すなわち1979年の4月14日から17日まで、「岸信介や船田中の後継者として韓国との紐帯を強固にする」との名目で韓国を訪問し、朴正煕パクチョンヒ崔圭夏チェギュハ金鍾泌キムジョンピルなどの韓国政界の要人と会った。韓国語の習得はこの時に思い立ったとあるが、学習はこの訪韓の後すぐに始めたわけではない。上掲の共同通信の記事に「昨年2月から韓国語を独学」とあるように、鈴木善幸内閣の行政管理庁長官に就任し、自民党総裁の後継候補として浮上した時期になって学習を始めたものと思われる。


 当時は、まだまだ朝鮮語/韓国語の学習書など少なかった時代。ちなみに、書名に「韓国語」と銘打ったものとしては、高麗書林の『標準韓国語』や『韓国語講座』、コリアン・ランゲージ・サービス『現代韓国語会話』などが出ていた。「人知れず」「独学で」1年程度であれば、普通は文字や発音、基本的な会話文までという程度だろう。訪韓時にはどの程度の韓国語の語学力だったのだろうか…。

 

 晩餐会の首相のスピーチ原稿などは、会場で配布できるようにあらかじめ日本側で韓国語に翻訳する。

 中曽根訪韓時の駐韓日本大使は前田利一。前田は、植民地時代の朝鮮で育ち、京城中学から京城帝国大学に進み1943年9月に法科を卒業して総督府の官吏となり、敗戦後の引き揚げ後外務省に入省。その当時は朝鮮語は全くできなかった。だが、外務省北東アジア課課長として日韓国交正常化交渉に関わっていた1960年代には韓国語ができるようになっていた。もちろん大使が通訳をするわけではない。中曽根ー全斗煥会談で通訳を務めたのは小河内敏朗。1969年に外務省入省で、韓国語のエキスパート。他にも外務省にはコリア・スクールと言われる朝鮮/韓国語の熟達者がいた。ただ、翻訳は、在韓大使館の韓国人スタッフがネイティブチェックをして翻訳文を作っていた。この時には、前田利一の京城中学・京城帝大の3年先輩で日本大使館文化広報室に勤務していた金宇烈キムウヨルが担当した。スピーチは格調高い韓国語に仕上がっていた。その原稿の冒頭部分と最後の部分を、中曽根自身が韓国語として音読したのである。カタカナやアルファベットでルビが振られていたのかも知れないが、ともかく韓国語として「読み上げる」ことができた。

 

 まるでネイティブスピーカーのように韓国語を駆使する非母語話者が珍しくなくなった昨今、その基準に照らせば、中曽根首相の韓国語は「上手な発音」とは言いがたかったかも知れない。だが、1983年当時の「韓国語などできなくて当たり前」の日本からすると、非常に大きなインパクトがあったのだろう。韓国側はもちろんだが、むしろ日本側で大きな「出来事」として報じられた。

 

  「黄色いシャツ」

 公式晩餐会が終了して、中曽根首相夫妻は一旦宿舎のホテル新羅に帰った。その後、中曽根首相と随行者だけが再び青瓦台そばの「安家」の宴会場に準備されていた二次会会場に出かけた。宴会場には前田大使と小河内書記官が同席した。二次会についての記事内容は、前田大使の「ぶら下がり取材」をもとに書かれたのだろう。

 

 この二次会の開催については、訪韓前に日本側でも把握していたという記事が『毎日新聞』に出ている。二次会があることを察知したことから、中曽根首相は韓国に向かう飛行機の中で「黄色いシャツ」を韓国語で歌えるように練習することになったというのである。

 

 天皇や首相、政府高官の外遊時には、現地の儀典担当や警備当局と日本側のロジや警備の担当者が事前に綿密に打ち合わせをする。移動の際には複数台の長い車列で動くので、晩餐会の後の動きについても双方で細部にわたって事前のすり合わせが必要になる。そのあたりから、二次会の設定を察知し、歌の準備をした方がいいということになり、さらに、「この際、韓国語で歌うのはどうか」という話になったのではなかろうか。

 

 

 中曽根首相が歌った「黄色いシャツ」は、元々は1961年に韓明淑ハンミョンスクが歌ってヒットした「노란 샤쓰입은 사나이 」(作詞・作曲孫夕友ソンソグ)という曲。

 

 日本では、浜村美智子がビクターから「黄色いシャツ」として1972年にリリースした。浜村美智子は、1957年にハリー・ベラフォンテの「バナナ・ボート」を歌って「カリプソ娘」として売り出した後、結婚してしばらく引退していたが、この「黄色いシャツ」で復活。「黄色いシャツ」の日本での発売は韓国でも話題になり、1973年には浜村美智子が韓国に行って韓明淑と会ったりもした。

 

 

 黒沢東男の訳詞によるこの浜村美智子の日本語のカバーでは、「어쩐지」の部分だけが韓国語のまま「オッチョンジ」になっている。韓国/朝鮮語が日本でほとんど知られてなかった時代にかなり斬新な試みだった。

 

 

 さらに、1977年には、日本デビューした李成愛イソンエが日本語の「黄色いシャツ」を出して、その後半に韓国語バージョンを吹き込んだ。当時、美川憲一が、韓国の1967年のヒット曲「가슴 아프게」を「カスマプゲ」としてカバーし、李成愛もこの「カスマプゲ」のシングル盤を出し、そのB面に「黄色いシャツ」が収録されていた。

 

 

 ところで、日本の新聞は「カラオケ合戦」「カラオケ大会」と書いているのだが、上掲の『読売新聞』の記事にあるように、実際は「ピアノ、アコーディオンの伴奏つき」で歌ったもので、カラオケ機械を使った「カラオケ」ではなかった。1980年代の韓国では、料亭やルームサロンでは「밴드」、すなわちキーボードやアコーディオンにリズム楽器などを使った一人もしくは少人数の「生バンド」が伴奏をするスタイルだった。彼らは、韓国の曲はほぼ何でも伴奏できたし、日本の曲も大体できた。日本の歌謡曲などは、放送や公演では規制がかけられたが、飲食店のBGMや、私的な宴会で聞いたり歌ったりすることには全く何の制約もなかった。バンドは日頃から結構日本の曲のリクエストも多かったのだろう、驚くほど多様なレパートリーをこなした。

 

 中曽根首相訪韓時の1983年初頭であれば、韓国の歌謡曲としては「カスマプゲ」が日本でよく知られていたし、趙容弼チョーヨンピルの「釜山港に帰れ」も日本語のカバー曲や韓国語バージョンがすでにヒットしていた。そんな中で、なぜ「黄色いシャツ」が選曲されたのか…

 

 中曽根康弘は、1995年にこの時の「黄色いシャツ」のことを韓国の『京郷新聞』への寄稿記事の中で回想しているのだが、なぜ「黄色いシャツ」だったのかには触れていない。

ソウルで韓国語でおぼえた「黄色いシャツ」は、帰国後にも友人たちと会うとよく歌ったものです

 

 結局、なぜ「黄色いシャツ」だったのか、その選曲理由はわからないまま。

 


 

 この時の中曽根康弘の韓国語によるスピーチは、保守強硬派ナショナリストと目されていた中曽根が韓国語を学習していたという意外性と驚きとともに、「日韓の融和に多大の貢献をした」という肯定的評価を生むことになった。さらに、韓国語で韓国のヒット曲を歌ったことで、日本の政府関係者や官僚、マスコミ、それに韓国/朝鮮研究者などにも、日韓関係が転換するのでは—日本への批判が和らぐのでは—との期待を抱く向きもあった。

 

 中曽根が韓国語を学んでそれを使ったのは、朝鮮/韓国を理解するためというより、外交上のテクニックとして用いられたものだった。すなわち、「韓国側を喜ばせる」ためのパフォーマンスである。もちろん、外交にパフォーマンスはつきもので、日本では全くのマイナー言語であった韓国語を習得しようという中曽根の目の付け所はさすがといえばさすがである。

 

 この1983年の韓国語を媒介の一つとした中曽根の全斗煥政権との関係構築は、翌1984年の全斗煥日本公式訪問につながり、天皇晩餐会での天皇による「不幸な過去が存したことは遺憾」という発言を引き出すことになった。日本側の一部や全斗煥政権からはこれを「謝罪」とみなす見方が出た。

さらに、1985年8月15日、中曽根康弘は内閣総理大臣として靖国神社への「公式参拝」に踏み切った。

 

 他方、日韓首脳会談の合意によって青少年交流や学生交流などが始まり、それまでの中年男性が圧倒的に多かった訪韓者の年齢層や男女比が徐々に変化していく契機になったことも事実である。韓国の一般の人々の日常生活に目を向ける人々が出始め、NHKのTV/ラジオでの語学番組がスタートするのもこの時期である(放送開始は1984年)。

 

 ただ、韓国語が多少できれるようになった日本人の中に、「率直で対等なやりとりをする日韓関係」を強調し「もう侵略のことでとやかく言われる筋合いはない」として、怪しげな「韓国論」を展開する人々が出始めるのもこのあたりからである。

 

 「植民地支配の侵略性の否定」や、植民地支配下での「朝鮮人への強制・強要の否定」という言説が大手を振ってまかり通る時代になってしまった今日、40年前の「中曽根康弘の韓国語スピーチと黄色いシャツ」を振り返ると、あのパフォーマンスがその「小さな一歩」だったのかも知れないとも思えてしまうのだが…

 1982年1月から3月まで、日本テレビの「11PM」火曜日の大橋巨泉・松岡きっこ出演の放送回で、5回にわたって韓国・朝鮮問題を取り上げている。

 

 

 この時期、私はソウル在住だったのでこの番組は見ていない。当時、釜山では日本のテレビが映るらしいという話は聞いたが、実際に見たことはなかった。

 今回、Youtubeの某チャンネルに、そのうちの2回分の動画がアップされていた。現在はそのチャンネルは閉鎖されているが、著作権的な問題はないので転載した。2月1日放送の「韓国から見た日本・くいちがう歴史教育と教科書」と、3月8日の「韓国朝鮮と共に生きる」の2本。

 

 この1982年前後の韓国といえば、朴正煕大統領暗殺以降「粛軍クーデター」や光州での民主化要求の武力弾圧などを通じて権力を掌握した全斗煥が再び独裁者として登場。全斗煥の大統領就任後の1981年10月1日、バーデンバーデンで88年オリンピックのソウルでの開催が決まった。さらに、1982年1月には、解放後長年続いていた夜間外出禁止を解除し、中高生の制服や髪型を自由化するなど、大衆迎合政策を打ち上げた。

 

 一方、日本社会では、1981年から教科書検定問題をめぐって自民党が攻勢をかけ、「戦後教育の見直し」キャンペーンが始まっていた。1981年12月26日付の『読売新聞』は、社会面で「検定に統制色くっきり」「新高校教科書」「中国を“侵略”は“進出”」という記事を掲載している。

読売新聞1981年12月26日

 

 5回にわたる「11PM」の韓国・朝鮮シリーズの最後のまとめの回に3月8日の放送の冒頭で、大橋巨泉がこのように述べている。

5回にわたってお送りしてまいりましたこの問題も最後になりました。そもそもこのシリーズを始めたのは、韓国・朝鮮を鏡にして日本人を見つめ直そうという日本人問題として始めたわけです。先ほどナレーションにありましたが、東洋の指導者だとか言われまして全アジアを武力で支配すれば庶民が幸せになるなんて、みんな僕ら子供の頃でしたけど、信じこんだ。結局敵も味方も黒焦げ。

(中略)

戦後その愚かさに一時は気がついたようなんですけど、また戦前の差別意識みたいなものが、日本がお金持ちになるに従ってじわじわ出てきている。先ほど小学校の女の子が言ってたことが非常に意味があると思うんですね。日本人をぶったりなんかしたら理由が必要だけど、朝鮮人をいじめていれば朝鮮人だってことだけでそれが理由になるっていう。さっき小学校五年生の女の子が言って、僕、非常にあの言葉にドキッとしたんですけども…。

 まさに「教科書問題」勃発の前夜だった。

 

◆1982年2月1日放送

 2月1日放送の「韓国から見た日本・くいちがう歴史教育と教科書」のゲストは、早稲田大学講師宮田節子。映画「乱中日記」(1978)、ドラマ「梅泉野録」(1981 KBS2)、映画「義士安重根」(1972)、それに3・1独立運動を描いたドラマ「34人」(1979 KBS)が紹介されている。ただ、「梅泉野録」の閔妃殺害の場面、忍者が出てきたりちょっとデタラメすぎだが…😆

 実は、この頃の韓国で描かれる「日本」があまりにも実像とずれていてイラついていた。しかし、それと同時に、日本社会が侵略の歴史を知ろうとしないこと、あたかも「なかったこと」にできると思っていることに、それ以上にイラついていた。まさか、40年後に「なかったこと」にする人間が溢れている社会になるとは思ってもいなかった… 
 1982年当時の日本には、「自国の加害の歴史」を知らないことに危機感を感じていた人たちがいたことが唯一の救いだった。

 

◆1982年3月8日放送

 

(著作権の関係でドラマ部分など計12分24秒削除)

 

 もう一つの動画は、3月8日の5回シリーズ最後のまとめの回で「差別の壁を越えて」。ベルリンオリンピックのマラソン優勝者孫基貞の秘話やKBSの光復節ドラマ「ユミの日記」(KBS1981年8月16日放送) 、それに「内鮮婚」による日本人妻を取り上げている。ゲストは神奈川大学教授梶村秀樹。

 


 

 この放送の3ヶ月後の6月26日の朝刊各紙は、高校教科書の検定結果について「厳しい検定」「戦前復権」「統制一段と強化」と伝えた。「侵略」について「進攻」といい換えるほか、苛政→圧政、弾圧→鎮圧、出兵→派遣・駐兵、抑圧→排除、収奪→譲渡と「表現の変更」を求めた検定内容が報じられ、近隣各国からの激しい反発を招くことになった。いわゆる「第一次教科書問題」である。

 

 

 中国・韓国はもとより、台湾・香港・東南アジア諸国、それに北朝鮮などからの激しい反発を受けて、日本政府は8月26日に官房長官宮沢喜一名で談話を出して事態の収集をはかった。

「歴史教科書」に関する宮沢内閣官房長官談話

 

一、 日本政府及び日本国民は、過去において、我が国の行為が韓国・中国を含むアジアの国々の国民に多大の苦痛と損害を与えたことを深く自覚し、このようなことを二度と繰り返してはならないとの反省と決意の上に立って平和国家としての道を歩んできた。我が国は、韓国については、昭和四十年の日韓共同コミュニケの中において「過去の関係は遺憾であって深く反省している」との認識を、中国については日中共同声明において「過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことの責任を痛感し、深く反省する」との認識を述べたが、これも前述の我が国の反省と決意を確認したものであり、現在においてもこの認識にはいささかの変化もない。
 
二、 このような日韓共同コミュニケ、日中共同声明の精神は我が国の学校教育、教科書の検定にあたっても、当然、尊重されるべきものであるが、今日、韓国、中国等より、こうした点に関する我が国教科書の記述について批判が寄せられている。我が国としては、アジアの近隣諸国との友好、親善を進める上でこれらの批判に十分に耳を傾け、政府の責任において是正する。
 
三、 このため、今後の教科書検定に際しては、教科用図書検定調査審議会の議を経て検定基準を改め、前記の趣旨が十分実現するよう配慮する。すでに検定の行われたものについては、今後すみやかに同様の趣旨が実現されるよう措置するが、それ迄の間の措置として文部大臣が所見を明らかにして、前記二の趣旨を教育の場において十分反映せしめるものとする。
 
四、 我が国としては、今後とも、近隣国民との相互理解の促進と友好協力の発展に努め、アジアひいては世界の平和と安定に寄与していく考えである。

 韓国の全斗煥政権と日本の間には、東アジアの安全保障の問題と日本からの経済協力を要求する問題が懸案となっており、教科書問題とも相まって、韓国では「克日運動」が始まった。

 

 

 「独立記念館」の建設が国民的募金運動とともに浮上し、「独島는 우리 땅(独島は我が領土)」の歌がヒットして日韓間の領土問題への関心が劇的に高まったのもこの時である。日本で「竹島」が広く知られるようになるのは1996年以降のことである。

 

 

 2024年1月29日、「群馬の森」に2004年に群馬県議会の全会一致で建てられていた「朝鮮人追悼碑」が撤去された。

 40年前には「日本はとんでもないことになっている」と思っていたが、今日の日本社会に比べるとまだまだ日本は「まとも」だったなぁ—あくまで比較としてだが—…と思わざるを得ない。

 

  • 「閔妃」と「明成皇后」
  • 乾清宮
  • 王妃殺害の目撃者
  • サバチンの展示会

 

 1895年10月8日、朝鮮駐在特命全権公使であった三浦梧楼の主導の下、日本の官僚や軍、いわゆる「壮士」らが景福宮キョンボックンに乱入し、高宗コジョンの王妃を殺害する事件が起きた。日本では、「閔妃暗殺事件」「閔妃殺害事件」として知られ、韓国では、事件が乙未年に起こったため、「乙未ウルミ事変」と呼ばれる。

 この事件を扱った日本語の著作物としては、この2冊がある。

  • 角田房子『閔妃暗殺―朝鮮王朝末期の国母』(新潮社 1988) 
     2024年8月 ちくま学芸文庫で復刊 解説:森万佑子
  • 金文子『朝鮮王妃殺害と日本人―誰が仕組んで、誰が実行したのか』(高文研 2009)

  「閔妃」と「明成皇后」

 1897年に、それまでの「朝鮮チョソン」という王朝名が「大韓帝国テハンジェグッ」の国号に変わった。高宗は「ワン」から「皇帝ファンジェ」となり、すでに殺害されていた高宗の「王妃ワンビ」も「皇后ファンフ」に追封され、「明成ミョンソン皇后」の諡号が与えられた。ただ、日本の植民地支配下では「閔妃びんぴ」と呼ばれ、解放後の韓国でも、1990年代までは一般にはそのまま「閔妃ミンビ」の呼称が使われることが多かった。

NAVERNews Libraryデータベースより作成

 

 高宗の王妃をモデルにして1974年にMBCで放映されたドラマのタイトルも「閔妃」だった。

 ところが、1990年代半ばから「明成皇后」の呼称が多くなる。金泳三キムヨンサム大統領による日本統治時代の事物の排除—たとえば朝鮮総督府の建物の撤去など—が影響したものとも思われる。特に、2001年5月から翌年にかけて、KBS2でドラマ「明成皇后」が放映され、好評を博した。これ以降、韓国では「閔妃」の呼称は「明成皇后」にほぼ置き換えられた。

 

 

  乾清宮

 王妃殺害事件の現場となった乾清宮コンチョングンは、併合以前の1909年に撤去されていた。

 

撤去前の乾清宮(北闕図形より)

 

 その後更地になっていたが、植民地支配末期の1939年5月になって総督府美術館がここに建てられた。解放後は、その建物が美術展示場として使用され、1975年からは韓国民俗博物館ミンソッパンムルグァン、その後伝承工芸館チョンスンコンイェグァンとして使用された。

 

 

 1995年の旧朝鮮総督府庁舎の取り壊しを契機に、景福宮の大々的な復元計画が建てられ、乾清宮復元のため、総督府美術館として建てられた建物も1998年に撤去された。この建物の東側に、李承晩イスンマン政権時代に建てられた「明成皇后遭難之地」の石碑と朴正煕パクチョンヒ大統領名の入った「明成皇后殉国崇慕碑」、それに日本人が襲撃したときのイラストが掲示された東屋あずまやがあったが、乾清宮復元工事が始まる2004年に見られなくなった。

 

 
 2007年に復元工事が完成し、2010年からは一般に公開された。現在は建物の内部にも入れる。ただ、復元工事前にあった王妃殺害関連の碑石や東屋はなくなっている。

 


 

  王妃殺害の目撃者

 この事件を目撃した二人の西洋人がいた。一人は、1888年から侍衛隊シウィデの軍人の訓練にあたっていたアメリカ人のW・M・ダイ(William McEntyre Dye)であり、もう一人は、1883年に建築技師として朝鮮にわたったロシア帝国のウクライナ人アファナシ・イバノビッチ・セレディン・サバチン(Афанасій Іванович Середін Сабатін)だった。

 

 サバチンは、開化期の朝鮮で、仁川インチョン海関ヘグァン庁舎、世昌洋行セチャンヤンヘンの社屋、ロシア公使館、徳寿宮トクスグン重明殿チュンミョンジョン静観軒チョングァンホンを設計し、独立協会が建てた独立門トンニンムンの設計も手がけた技師なのだが、1895年10月の王妃殺害事件当時は、景福宮内で侍衛隊の指揮にあたっていた。 

 

 この二人が、日本人による朝鮮王妃殺害の現場にいて、この事件を目撃したことは日本側も気づいていた。1895年11月7日に京城公使館の一等領事內田定槌サダツチが外務大臣臨時代理西園寺公望あてに送った「明治38年10月8日王城事變顚末報告書」には、ダイとサバチンについてこのように書かれている。

『駐韓日本公使館記錄』第8巻

此時最早日出後なりしが晨きに部下の侍衛隊に逃げられ唯一人残り居りたる米国人「ゼネラル・ダイ」は其近傍に佇立して本邦人の暴行を目撃し居りたるより或者は直ちに彼を殺害すべしと叫ぶあり又某守備隊士官は堀口に向ひ彼洋人を此処より退去せしむるは君の任務なり宜しく速かに之を他に避けしむべしと請求したるに「ダイ」曰く自分は米国人なり日本人の命に従ふ能はずと退去を肯ぜず山田烈盛も亦英語を以て之と応答を始めたりしが其後間も無くして仝人は一時現場を立去り暫あつて再び出て来り傍観せり尚ほ仝日「ダイ」と共に王宮内に宿直せる露国人「サバチン」なる者も亦隠かに之を傍観し居れりと云ふ

 また、王妃殺害に実際に加担した小早川秀雄が書いた回顧録『閔后殂落事件』にもこの二人が登場する。この小早川の回想録は限定刊行されたもので、原本は未見。『世界ノンフィクション全集』に川村善二郎による現代語訳が収録されているので、それを引用する。

 

原本はこのような体裁らしい

 壁垣の中央にかまえた中門をはいり、さらに右へまがって二つの小門を進むと、国王の便殿である乾清宮の前庭に出ることができる。九重(宮中)は雲深いというが、堅牢な城門も兵士のとつぜんの進入に破れ、宮殿の内部も志士に蹂躙されて、衰退する王国の末路はまことに憐れなものではないか。
 乾清宮に奉侍する宮官は、あけがたに銃声が城内におこるのを聞いてびっくりしているところへ、早くも志士の一団が進入してきたので、なすところを知らず、あわてふためいた。殿上の韓人はことごとく顔色を失った。このとき国王は、一室の中に起立したまい、待臣数名がかたわらにいて、大君主陛下であることを、手をあげて注意していた。志士はそれが国王であることを知ると、敬意を表して、あえて殿内に入る者なし。その右手の室はすなわち 王妃の居室で、数人の婦人が室内にいて混みあい、宮内大臣李耕植もまたその中にあって王妃を擁護していたが、王妃はこの室内において白刃のもとに崩御したもうた。李耕植は室外に走って逃げようとした時、拳銃で股を撃たれ、一刀を右肩より浴びせられて、殿外に倒れた。伝えられるところによれば、洋服を着け仕込杖をたずさえた数名の朝鮮人が、志士の中にまぎれこんでいて、この惨殺を行なったともいわれる。
 この前夜、宮中においては、閔族の俊英、閔泳駿が宮中に登用されるのを祝して、盛宴が催された。宮内大臣李耕植、農商工部協弁鄭乖夏もこの宴に列席し、夜ふけて散会したのち、ともに宮中に泊まった。王妃は、盛宴の興に疲れて眠っていたので、難を避ける暇がなく、李耕植もまた、宮中にいたため、二人とも白刃の下に非命の死をとげたのである。
 殿上殿下には白刃がひらめき、庭前には将士志士が激しく往来しているとき、一名の白人が殿下に立って、この騒擾を熟視していた。彼は宮中の御雇技師であるロシア人サバチンである。また侍衛隊の訓練をつかさどるアメリカ人ゼネラル・ダイもまた、朝鮮人の従僕一名をつれ、乾清宮庭の通路で、この混乱を目撃し、日本志士に逢うごとに、帽子をとって敬礼をおこない、白髪ほうほうたる老顔に微笑をたたえて、媚を示していた。この二人は、国王の居室からわずか三、四十間のところに、宏壮な洋館を建てて住んでいたから、すぐに出てきて、この紛争を実地に目撃したのである。彼らの証言は、後日、国際間の紛議に有力な材料となった。

 さらに朝鮮側の記録にもサバチンが登場する。王妃殺害事件の翌年1896年2月に高宗はロシア公使館に避身した(俄館播遷アグァンパチョン)。そして、ロシア公使館の中からアメリカ人のグレートハウス(Clarence  Ridgley Greathouse) を顧問として王妃殺害事件についての審判と調査を命じた。その公式の報告書がアメリカ人宣教師が発行していた『THE KOREAN REPOSITORY』1896年3月号に転載されている。その中にこのような記述がある。

 

http://anthony.sogang.ac.kr/Repository/Vol0303.pdf

P.126

 30人以上の日本人“壮士”は、リーダー格の日本人の指揮のもと、抜刀して建物に入り込んで部屋中を捜索し、捕まえた宮女たちの髪の毛を引きずり回して殴りつけ、王妃の居場所を聞き出そうとした。この様子は、国王殿下の警護に当たっていた外国人のサバチン氏を含む多くの人々が目撃した。サバチン氏はこの裁判に短時間ながら出廷し、宮殿の前庭にいた日本人将校が日本人兵士を指揮していた様子や朝鮮人宮女への暴行の模様、そして彼自身も日本人から何度も王妃の居場所を聞かれ、知らないというと殺されかねなかった状況を証言した。
 彼の証言は、日本軍の将校が中庭にいて日本人“壮士”の行為を知っていながら、日本人兵士が中庭を囲んで“壮士”が人殺しをする間、中庭の門を守っていたことを決定的に示している。
 部屋中をくまなく捜索した“壮士”は、脇の部屋に隠れていた王妃を見つけ、捕まえて日本刀で切りつけた。

  サバチンの展示会

 2020年10月19日から11月11日まで、徳寿宮重明殿で「1883年 ロシア青年サバチン、朝鮮にたる(1883년 러시아청년 사바틴, 조선에 오다)」の展示会が開かれた。1990年9月に盧泰愚ノテウ大統領が訪問先のサンフランシスコでソ連のゴルバチョフ書記長と会談し、電撃的に韓国とソ連の国交樹立が発表されてから30年。この展示会は、「韓国・ロシア修交30周年記念特別展」として開催され、駐韓ロシア大使も行事に出席した。

 

 ただ、サバチンは上述のようにウクライナ人。2022年のロシアによるウクライナ武力侵攻の後、『朝鮮日報』はこんなイラストを掲載した。

 武力侵攻前だったから開けた展示会だったとも言えそうだ。

 

 この展示会では、開化期の最も早い西洋人建築家としてのサバチンに焦点を当てると同時に、「乙未事変」の時の王妃殺害現場の目撃者としてのサバチンにも注目が集まった。この展示会には、帝政ロシア対外政策文書保管所所蔵の目撃証言記録や、事件当時の見取り図などの史料が展示された。

文化遺産ギャラリー 1883 러시아 청년 사바틴, 조선에 오다 ①

 

 2021年9月12日付『中央日報』の「ロシア人目撃者、あの日の証言」から翻訳・転載する。 

 1895年10月7日から8日にかけての夜、王宮にはダイ将軍と私がいた。何事もない平和な夜だった。午前4時、私とダイ将軍が寝ていた住居に、朝鮮陸軍中佐の李甲均イガプキュンが飛び込んできた。李甲均はダイ将軍の通訳官だった。彼は息を切らして興奮した口調で、日本軍と日本人の訓練を受けた訓練隊の兵士が宮殿を包囲していると言った。私たちはすぐに衛兵所に駆けつけた。ダイ将軍は李中佐に一緒に情勢を見に行こうと言ったが、李中佐は「国王に事情を説明しなければならない」と同行を拒んだ。

 午前5時、王宮への攻撃が始まった。北東門の外から大きな声が聞こえてきた。演説をしているようだった。途切れることなく流暢に演説をしていることから、前もって練習していたことは明らかだった。演説が終わると、朝鮮人の軍から叫び声が起こった。王宮には1500人の兵士と40人の将校が配置されていたが、午前4時30分から5時までの時間帯には、250〜300人の兵士と8人の将校だけが残っていた。日本軍の射撃を受けた侍衛隊の兵士は、応戦することなく銃を捨て、軍服を脱ぎ捨て弾を抜いて逃亡した。逃亡者の群れは2方向に向い、そのうちの1つの集団はダイ将軍を道の左側から私たち西洋人が住む家の方向に連れ去った。

 約300人の兵士や王宮の使用人、そして宦官などからなるもう一つのグループが、私を王妃と女官の居所である玉壺樓オッコルの庭に連れて行った。庭には、訓練隊の兵士や日本軍の将校たちもいた。

 一人の日本人が、女官たちの髪をつかんでは外に引きずり出し、6フィート(約180cm)の高さの窓から下に投げ出していた。私が庭に立っている間、日本人たちが10〜12人の女官を窓から投げ落として殺した。女官たちは、髪をつかまれて引きずられるときも、窓から投げられたときも、一言も叫ばず、ただ黙ってなされるままになっていた。

 この15分間、私は女官たちが殺害されるのを目撃した。王妃の住まいの庭で私が行き場のないまま立ち止まっていると、興奮した様子の5人の日本人が現れた。

 一人の日本人が日本語で演説を始めた。その演説は激烈なものだった。演説が終わると、5人の日本人は再び建物の中に駆け込んでいった。しばらくすると、また叫び声を上げながら、ある女官の髪の毛をつかんで外に飛び出した。

 興奮した日本人たちは、私の襟首をつかみ、またある者は私のジャケットの袖と襟をつかんで、王妃の居場所を教えろと脅迫的な口調で迫ってきた。私の襟首をつかんでいた日本人の一人で、かなり英語が理解できる者が私に言った。

「王妃はどこにいるんだ?王妃の居場所を教えろ!」

 私は懸命に弁明して、王妃を見分けられないことを説明した。すなわち、私は王妃の顔を見たことがなく、西洋人であり男であるために朝鮮の王妃の顔を見ることができず、また王妃の居場所を知ることもない。これらを懸命に説明したが、日本人たちは私を王妃のいそうなところに連れて行った。おそらく、彼らは私に王妃の居場所を教えさせようと決心したようだった。

 ちょうどその時、日本人の指揮官が現れた。彼が現れたとき、私を連れて行っていた日本人たちは、私を放して敬礼して指揮官に私と私のことを知っている朝鮮人を指差しながら、何かを説明していた。部下の話を聞いたその日本人指揮官は私のところに近づき、非常に厳しい声で尋ねた。

「私たちは王妃を見つけることができていない。あなたは王妃がどこにいるか知らないのか?」

 私は、王妃がどこにいるかを私に尋ねることがどんなに無意味であるかを説明した。私は朝鮮の習慣と法に従って王妃を見ることができず、また王妃の居場所を知ることができないからだ。その日本人は私の説明に納得したかのように、部下に私を傷つけないように放っておけと命じた。しかし、私のことを知っている朝鮮人は、日本の兵士に何かを熱心に話していた。私は、その朝鮮人が事件の唯一の目撃者である私を生かしておくべきではないと説得していることに気づいた。

 私が王宮から抜け出たのは午前6時だった。王宮から抜け出した私は、その足ですぐにロシア公使館に向かった。午前6時30分頃に公使館に到着するとすぐに、私が目撃したすべてのことをベーベル公使に報告した。

 また、サバチンが描いた現場の見取り図が残されている。ハングルと漢字の書き込みは後の時点で書き込まれたと思われるが、それに関する説明は見当たらない。

 

 

 この時の顛末を、サバチンはグレートハウスの調査時に証言をして、それが『THE KOREAN REPOSITORY』1896年3月号に掲載されているのであろう。

 

 現場の地図については、1895年12月21日に京城の内田定槌領事が外務次官原敬当てに送った機密第51号の公信に付属の地図が添付され、番号を振って現場の説明をしている。

機密第51号
御参考の為め別紙景福宮即ち現王居の見取図壱葉及進達候間御査収相成度右は或る本邦人の作りたる見取図に基き尚小官か実地の見聞により修正を加へ調製したるものにして固より精確を保し難く候得共概略におては格別の誤謬の無きものと相信候図中に示せる乾清宮は10月8日前後に於ける国王陛下初め王族方の御居殿にして長安堂は国王陛下坤寧閣は王妃陛下の御居間なり又坤寧閣の裏手に当り東西に横はれる一棟は王太子及王太子妃の御居間なり而して該事変の時王后陛下は図中に示せん(1)の所より(2)の所に引出され此処にて殺害に遭はれたる後屍骸は一旦(3)の室に持込み其後夾門より持出し(4)点に於て焼棄てられたる由にて11月22日小官が王城に入りたるとき燃残りたる薪類尚(4)点に散在し其傍らには何物をか埋めたる如き形跡歴然たるを認め候
右及具報候敬具

明治28年12月21日

在京城 一等領事 内田定槌

外務次官 原敬殿

 この内田定槌の公信の添付図にはサバチンの名前はないが、「ダイ等の立ち居りし処」となっているので、青マークあたりにダイとサバチンがいたものとしたのだろう。ダイの方が軍人で侍衛隊の訓練にあたり、技師のサバチンはサポート的役割にすぎなかったから。ただ、実際にはダイが、逃亡する侍衛隊の兵士に押されて現場から遠ざかった一方、サバチンは王宮の使用人などの集団に押されて現場の玉壺樓(王妃の居所坤寧閤にあった楼閣)の前庭まで行くことになり、間近に目撃することになった。内田定槌は地図にマークした時点ではそうした経緯を知らなかった。

 


玉壺樓(学習院大学東洋文化研究所蔵

 

 このように、史料を突き合わせていくと当時の現場の様子や、王妃の殺害に日本の官・民がどのように関わっていたかが浮き彫りになってくる。

 


 

 もう2年以上経ったが、2021年11月に「閔妃暗殺」に関する新たな史料発見のニュースが報じられた。王妃殺害の実行グループの一員だった領事官補堀口九万一くまいちが、事件の翌日に郷里の漢学者武石貞松に宛てた書簡が発見されたのである。記事によれば、

進入は予の担任たり。塀を越え(中略)、漸く奥御殿に達し、王妃を弑し申候

存外容易にして、却てあっけに取られ申候

などの記述があるという。堀口九万一は領事官補だから11月7日に「王城事變顚末報告書」を東京に送った一等領事內田定槌の部下に当たる。日本の官民が一体となった隣国朝鮮の王妃殺害事件だったことを如実に示すものである。