済州島の人力軌道 | 一松書院のブログ

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  • 済州循環軌道
  • 軌道敷設申請と会社設立
  • 敷設工事と仮営業開始
  • 頻発した事故
  • 軌道会社解散

 

 日本の植民地時代の済州島チェジュドで、線路を走る手押し式の乗り物が運行されたことがあった。

 

 済州循環軌道株式会社が1929年9月6日に営業運行を開始したが、1931年8月には会社の解散が決まり、9月16日付で軌道の運営権も抹消された。わずか2年弱で手押し式軌道は営業運転を終えた。

 

 どのようなものだったのか、その設立の経緯や運行の実態などについて調べてみた。

 

  済州循環軌道

 釜山商工會議所が1930年に出版した『濟州島とその經濟』の地図には、済州チェジュ山地サンジを挟んで西の挟才ヒョプチェ、東の金寧キムニョンに延びる手押し軌道の路線が描かれている。

 

 

 さらに、この本の「5.交通の状態ー陸上交通」の項目に、発行当時運行中だった「人力循環軌道車」についての記述がある。1930年4月頃の取材に基づく記事内容である。長くなるが、現代文風に書き起こしておこう。

 

 次に北済州一円に運転されている人力循環軌道車について研究を進める。
 循環軌道は、一周道路に沿って本島を楕円形に一周し、貨客の積み下ろしにおいて山地一港集中を実現するものである。軌道は資本金50万円(払い込み4分の1)の済州循環軌道株式会社(社長山本政敏、専務大島宗三郎)の経営にかかり、朝鮮軽便鉄道令によりて軽便軌条を敷設し旅客貨物の運輸をなすをもって目的とする。
 島を一周する全線路120マイルに対する測量は既に了っているが、現在北済州を縦走する金寧、挟才里間35マイルの軌条を敷設し了ったばかりで、残余85マイルにわたる工事は未着手のままに放置されている。財界不況の折から、残余工事の着手期並びにその完成期などはいずれになるやら見当がつかぬとのことである。
 既設路線たる金寧、済州間15マイル、済州、挟才里間20マイルは一周道路上に敷設せられており、軌条は幅員2フィート、120ポンドのものを用い単線である。故に建設費としてレールには金は大して要していないが、想像以上に金のかかったのは架橋工事であったという。けだし線路の沿線に散在する河川の河床が岩盤であるがために橋脚も堅固に作らねばならず、また、軌道令に準拠するが故に木橋架設が許されず、全部を鉄橋としたからである。
 例の河川付近におけるV字型の地形は至るところ急勾配を現出し、1/15に達する箇所もある。ゆえに動力としてエンジンは使用することができない。もっとも現在の路線を約1里半ほど山手に変更すればエンジン動力を使用し得るそうであるが、この付近には部落が存在していないから問題にならず。どうしても現状にあっては手押人力によらなければならぬとのことである。
 既設路線が営業を開始したのは昭和4年8月6日である。停留所の数25カ所、所有台車110台手押人夫60名である。
 台車は乗客用のものは1台の定員4名、貨物用のものは1台400キロを限度とする。運転については、定期車は全部乗客用であり、貨物運搬のためには申し込みを受ければ即時に配車をするという不定期式である。乗客用の定期車は毎日午前8時、午後2時の2回にわたって同時に金寧⇄済州城内⇄挟才里というふうに単車運転を開始する。貨物車の運転は前述のごとく不定期であるが、大部分の台車が常に城内の車庫に集中されており、また、主要停留場には2〜3台の台車が準備されてあるから配車の需に応ずることは容易である。なお、台車の最大スピードは1時間6キロ内外である。
 台車の貸切運賃率を示せば左のごとくである。

 循環軌道は営業開始後わずかに8ヶ月を経過した今日であり、なお、路線は半身不随的に金寧、挟才里間を連絡したに過ぎず、現在儲かっているのか、損をしているのか当局者でさえも見当がつかないという。しかし手押夫60名の約半数は北韓方面から招致した経験人夫であり、相当作業能率を挙げ得るものと推断して大過なかるべく、将来島民が時間的に目覚めてくれば相当に利用されるに至ると思う。筆者の目撃したところによれば、貨物運搬用として遠距離間においてはほとんど未だ利用されておらず、無論これが原因は沿線の主要部落に汽船の出入りすることが影響して、その利用を見ざる次第であるが、城内における市内線だけは相当に活用されつつあるように見受ける。なお、全線にわたって乗客用台車の利用は確かに寂寥たるもので、多くは定期自動車を利用しているという状況である。
 循環軌道計画が台湾における手押軽便軌道の施設実績に鑑み、これを本島に応用したものであることは本計画の趣意書中にも明記されているが、はたして目論見のごとく全島の貨客が将来山地の1港に集中積み下ろしされ得るであろうか。
 現在本島に就航しつつある定期船についてみるに、汽船は本島において最初まず山地に入港し、東廻りまたは西廻りのコースによって島を1周して再び山地に寄港し、次いで島を去るのであるが、その島1周に要する時間は24時間内外である。しかも島を1周するにあたり、各港に寄港して大量的に貨客の積み下ろしをなすこと言うまでもない。この汽船の周航に対抗して輸送力の少ない人力軌道車が、果たしてよく全島の貨客を1港に集中し得るであろうか。仮に輸送技術上これを実現するとしても、競争のためには極度の運賃引き下げをも意としない汽船に対抗をして、陸上の運輸機関がこれに挑戦対抗し得るであろうか。もっとも時間的に見れば全線開通時における全島120マイルにわたる貨客は二分されて、東廻り線または西廻り線を迂回して山地に集中さるるであろうが、最遠距離60マイルの地点より山地に達する場合を想像しても、フルスピードを出せばおよそ10時間内外で到達し得るから、汽船の1周24時間に比べれば確かに時間の短縮はできる勘定になる。しかし島と陸地との経済関係がわずかな時間を争うほどにスピード化さるることは、本島においては永久に望まれないと思われる。けだし如何ほど島内における陸上運輸機関をスピード化しても、一歩島外に出ると時化と濃霧とに悩まされる汽船の航行は避難また避難で、全くスピードを度外視してしまうからである。
 これを要するに、循環軌道は大規模の輸送機関でないがゆえに、定期船が島の一周を廃止せざる限り、全島の貨客一港集中を実現し得るものではない。むしろ 短距離の運転において地区的に貨客の集中積み下ろしに任ずべき性質のものであると思う。特殊の場合を除きその距離遠距離にわたる輸送は一般的に行われるものでないと思われる。

 

  軌道敷設申請と会社設立

 この人力軌道について報じられ始めたのは、1927年5月から8月にかけのことだった。5月に山本政敏などが済州島庁に線路敷設の願い書を出したとある。

 

 

 さらに、8月19日の『東亜日報』はこのように報じている。

 

…(略)…
元上海日日新聞編集長中山栄造氏を中心にこの敷設について鉄道局に正式申請し、資本金250万円の合資組織として済州邑内を起点に城山浦を過ぎて海岸に沿って全島を循環する軽便鉄道の建設をするもの。延長126マイルで、この島は海産物が豊富であり、農産・畜産も盛んで、この計画は一般の注目を集めており鉄道局も近々認可指令を発するという。朝鮮郵船会社でもこの鉄道との連結を要望し、近く具体的協定を結ぶとみられる。

 

 済州循環軌道の敷設申請者で、のちに社長になる山本政敏は、1926年に『裸一貫生活法 : 生活戦話』という本を出版している。中山栄造が編集長だった「上海日日新聞」に連載していたものをまとめたもので、小資本で起業するには…といった小商売の手引き書といった内容である。どうも上海つながりだったようで、朝鮮に関する言及は全くない。

 

 その山本政敏が済州島で軽便鉄道の会社を立ち上げることになったのである。

 

記事中に「山下」とあるのは「山本」の誤り

 

 済州島は火山島で、河川は短く急峻で海に注ぐ河口付近でも両側が切り立った崖になっているところが多い。そのため「河川付近におけるV字型の地形は至るところ急勾配を現出し、1/15に達する箇所もある」ことになる。当時の非力なエンジンでは急傾斜の登りは無理ということで、台湾で実際に運行されている軌道上を人力で台車を動かす方式を採用することとした。

 循環軌道計画が台湾における手押軽便軌道の施設実績に鑑み、これを本島に応用したものであることは本計画の趣意書中にも明記されている

 

 ちなみに台湾での手押しの人力軌道の運行については写真や動画が残っている。

 

山崎鋆一郎『台湾の風光』1934


 

  敷設工事と仮営業開始

 線路の敷設工事は1928年11月に山地港から始まった。

 今は、山地川にかかる龍津橋ヨンジンギョのたもとに「トロッコ(軌道)車」の記念碑が建てられている。

 

1917年測図 1918年製版 1:50,000地図

 

 済州から挟才までの19.7マイル、済州から金寧までの14.8マイルの線路の敷設は8月後半に完了し、9月6日から仮営業を開始した。

 

 

 ところで、『濟州島とその經濟』には、

手押夫60名の約半数は北韓方面から招致した経験人夫であり、相当作業能率を挙げ得るものと推断

とある。

 朝鮮の北部では平壌ピョンヤンで手押し軌道が運行されていた。『平壌全誌』(1927)の第15編第3章交通に次のような記載がある。

平壌の地形は南北に頗る長く殊に唯一の停車場たる平壌駅は市の南端に位せるより之れと市の繁栄中心地との連絡輸送機関は市勢の進展に連れて必要を加へたる為、斉藤久太郎、坂倉益太郎、内田録雄、松井民治郎、百瀬廣之助、上杉松太郎、林文太郎氏等有力なる内地人の犠牲的投資の下に資本金1万8千円を以て明治38年9月、平壌市街鉄道株式会社を起こし…(略)…区間は大和町平壌駅前間複線1マイル17チェイン(軌間2フィート)手押式4人乗客車20台を有し随時乗客の要求によりて運転する制度にて賃銀片道10銭すなわち人力車の半額にも及ばざるを以て一部には頗る重宝視されたるもIカ年の乗客8~9万人、賃金8~9千万円にして収支償はず大正5年廃業せり

 

 平壌駅前と大和町(現在の金日成広場南側)間といえば起伏もほとんどないところ。1916年廃業となっているが、『毎日申報』の記事(1917年9月12日付)では1917年11月まで、手押し軌道車が平壌で運行されていたことになっている。

 

 平壌以外でも、規模は小さいが北部朝鮮の咸鏡北道ハムギョンプクト生気嶺センギリョン咸鏡南道ハムギョンナムド霊武ヨンム、それに江景カンギョン(忠清南道チュンチョンナムド)や金堤キムジェ(全羅北道チョルラプクド)でも手押し軌道車が運行されていた。そして、それらは1928年から30年にかけてほとんどが営業運行を停止している(『朝鮮鉄道状況 第25回』1934年)。

 

 こうしたところの「経験人夫」を済州島に呼び寄せたとも考えられる。

 

  頻発した事故

 済州島の手押し軌道は、1929年の9月7日から仮営業を始めて、全ての監査が完了して11月5日から本営業となった。

 

 ところが、仮営業の当初から、脱線や転覆する事故が相次ぎ、重軽傷者が出ていた。

済州循環軌道

事故頻頻発生

運転手重軽傷

済州循環軌道の第一期工事が終わり9月初旬から開始したが、まだ仮営業とはいうものの非常に危険だ。道に線路を敷設したものでちょっとしたものでも脱線転覆する。先日19日にも坂を下るところで転覆し運転手の金宝琪など二人が重軽傷をおった。治療費は会社持ちだが、加療の間の賃金は支払われないという。

 その後も事故が多発し、さらに本営業後も事故が起きている。

 

 特に、11月22日付の『朝鮮日報』は、「開業以来、大事故が7~8回、安心できない鉄道」と手厳しい。

 

 もともと、平壌の手押式軌道もそうであったように、人力軌道は、町外れの鉄道駅と市街地の中心を結ぶという比較的平坦で短距離の移動手段として使われていた。1929年12月の『朝鮮鉄道状況 第20回』には、当時の朝鮮における人力による軌道の状況について、このように書かれている。

手押軌道

 一般運輸を営む手押軌道は、倭館・霊武・生気嶺・江景の各軌道にして、その多くは停車場と邑内を連絡する1マイル内外のものに過ぎざりし…

 「至るところ急勾配を現出し、1/15に達する箇所もある」ところで34.5マイルもの長い距離を運行する済州島の軌道は全く例外的なものであった。手押し軌道の運転経験ありという人でも、済州島の軌道環境での運転操作の経験や技術は決定的に不足していたということであろう。

 

  軌道会社解散

 本営業が始まってほぼ半年経った時点で、『濟州島とその經濟』に書かれた循環軌道の運行状況は、貨客いずれの利用も驚くほど低調だった。

貨物運搬用として遠距離間においてはほとんど未だ利用されておらず、…(略)…、城内における市内線だけは相当に活用されつつあるように見受ける。なお、全線にわたって乗客用台車の利用は確かに寂寥たるもので、多くは定期自動車を利用している

 当時、済州島を一周する道路は、路面整備が不十分な「三等道路」ではあるものの全線通行が可能になっていた。その道路を運行する乗り合い自動車の営業も始まっていた。

 

朝鮮総督府『生活状態調査 其2』1929

 

 荷物の運搬の方は、済州の山地港に寄港する連絡船が島内の各港を周回して運搬しており、遠距離の大量輸送の面では人力軌道は船便に対抗できなかった。

 

 結局、開業から2年経たずして1931年8月に済州循環軌道株式会社は株主総会で解散を議決し、軌道廃止の許可申請を行った。

 

 

 この申請は9月16日に公示され(朝鮮総督府官報1931年9月22日)、同時に済州島循環の未着工の軌道部分の認可も失効した。

 

 


 

 1931年の営業を停止した後、線路は撤去されることなくそのまま放置されたようだ。
 

 1945年の解放前後まで、場所によっては残された線路を貨物運搬用として利用していたという。韓国のWEBサイトにはそのような証言がアップされている。

翰林邑ハルリムウプ挟才里ヒョプチェリの中間地点に当たる「瓮浦里ウンポリ~翰林港(1km程度)」で、お年寄りの口から「トロッコの話」を聞くことができました。
(中略)瓮浦里に製氷工場と缶詰工場があり、翰林港に船が入ってくると、その船に氷を運ぶためにトロッコを使用しました。その「トロッコ車」は木製で床板があり、四隅に立っている40-50cmの棒を取っ手にして押していました。 当時10台以上あって、全羅南道からきた労働者や瓮浦里の住民が「トロッコ車」を押していたとのことです。

 日本の植民地支配下の瓮浦里には、竹中新太郎の缶詰工場があり、愛国印コンビーフを島外に搬出していた(『朝鮮功勞者銘鑑』1935)。その運搬にも使われたのであろう。竹中新太郎は、翰林港の漁港施設拡充計画も主導していたとあるので製氷工場も竹中の工場であった可能性もある。

 

 さらに、このWEBサイトの記事には、

解放前まで日本軍が陣地や港を作る際に土や石を運ぶために使用していたことが記録されています。

ともあるが、これについては、どこに「記録」されていたのかは不明で、確認できない。

 


 いずれにせよ、解放後も軌道の一部は残っていたのであろう。1948年の4・3事件から、その後の開発・振興事業を経る中で、人力による手押し軌道車が走っていた線路は、その痕跡が徐々に消え去っていったのであろう。