光煕門と舞鶴住宅地・桜ヶ丘住宅地 | 一松書院のブログ

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  • 京城の城壁(東側)
  • 光煕門と新堂里
  • 新堂里売却と「島徳道路」
  • 土幕民の処遇
  • 舞鶴住宅地と朝鮮都市経営会社
  • 梶山季之と朴正煕一家が住んだ街

 ソウルの旧市街、すなわち朝鮮王朝時代の漢城ハンソンを取り巻く城壁は、今も各所で復元作業が進められている。

 解放後、最初に城壁の修復が注目されることになったのは、1968年1月の北朝鮮の武装工作員の侵入事件がきっかけだった。大統領官邸裏手の北岳山プガクサン麓にまで侵入して激しい銃撃戦になったこの事件。この時、政府は国民の国防意識を高めるという目的で、防御線にもなり得る城壁の復元推進を打ち出した。城壁の復元は、文化事業としてだけではなく安全保障の観点からも行われたのである。

 1975年から1982年までに、光煕門クァンヒムン粛靖門スクジョンムンの復元を含む9.8kmの城壁が再整備された。

 その後1997年頃からは、歴史遺産の保存・修復という観点からソウルの城壁復元が注目され始めた。2000年前後からソウル市と各区で城壁復元作業が始まり、その事業は今日も続いている。城壁の復元が困難な市街地では、城壁があったことを示すプレートが埋め込まれている。

 

 ここでは、その城壁の東側、光煕門外に開発された舞鶴住宅地と桜ヶ丘住宅地についてみて行きたい。
 

  京城の城壁(東側)

 日本の植民地支配が始まった初期にはかなりの城壁が残っていた。

 

 1922年の浅川巧の日記に、西大門ソデムンから北岳ブガック山を越えて東大門トンデムン南大門ナムデムンと城壁を一周したことが記されている。

六月四日

(前略)

 北門へ下りて一休し夏蜜柑など食べて白岳山に登つた。僅かの険もあつたが小道は続いてゐた。山頂で休んで又眺めた。朝鮮人の学生等も二、三人ゐた。城外の農家も美しく見えた。東大門に下つて附近の氷屋でビールとサイダーを飲んで昼食をした。それから松の茂つた淋しい道を城壁伝ひに東大門に向つた。東大門の近くは西洋人の土地になつてゐて鉄条網が張つてあつて通れなかつた。それから光煕門を過ぎて南山に登つた。南山の薬水は美味だつた。山頂にはケヤキやエンジユの大樹があつて岱地になつてゐた。氷屋も店を出してゐた。冷しビールの一本を分けて飲んだ。少し下ると朝鮮神社の工事をしてゐた。美しい城壁は壊はされ、壮麗な門は取除けられて、似つきもしない崇敬を強制する様な神社など巨額の金を費して建てたりするの役人等の腹がわからない。

 1918年修正測図の2.5万分の1地図では、東大門(興仁之門フンインジムン)の少し北側から北方向の城壁が残っている。東大門の南側の清渓川チョンゲチョンを越えたところはすでに城壁はなく、光煕門クァンヒの手前から城壁が残っていた。1925年、日本の皇太子成婚記念事業としてこの部分の城壁を撤去して京城運動場(現在の東大門歴史文化公園)が建設された。城壁の石材の一部はスタンドの観客席として利用された。

 

 光煕門から南方向にはずっと城壁が描かれており、南山まで城壁がそのまま残っていた。その先、南山を越えて西側に出ると、この時すでに始まっていた朝鮮神宮の建設工事のため、城壁は破壊されつつあった。

 

  光煕門と新堂里

 東大門の南側にある光煕門は、別名を水口門スグムンという。また、城内の死者はこの門を通って門外の墓地に運び出されたため屍口門シグムンとも呼ばれていた。

 


1921年 1:10,000地図

 

 光煕門を出たところの新堂里には朝鮮人の共同墓地があった。

 浅川巧の日記には、1922年の1月、柳宗悦や、金萬洙キムマンス呉相淳オサンスン廉想渉ヨムサンソプとともにこの墓地に葬られた南宮璧ナムグンビョクの墓参りに訪れたことが記されている。

一月十六日
晴れていゝ日だつた。午前は事務所に出た。
柳、金萬洙、呉、廉諸兄と南宮君の墓参をした。光煕門を出た切り通しの道、土饅頭の雪景色、松林などは静かな淋しい感じを与へた。南宮君の墓は山の頂に近く東面して前に漢江を望んだいゝ場処だつた。

1920年代の新堂里の墓地

 

 もともと朝鮮の人々が埋葬されていたこの一帯は、土地調査事業の際に、所有者が特定できない公有地とされ、共同墓地とその周辺一帯は京城府の府有地とされた。日本人居留民団や京城府は、内地人のための火葬場や共同墓地をここに作った。さらに、二つの共同墓地の間には、京城府衛生局が管理する汚物堆積場も作られた。

 

 こうした「小門」外の土地柄ゆえに、城壁直下の空間や墓地周辺には、地方から京城に流れてきた貧しい人々が「土窟」や「土幕」を作って住みつくことになった。

 

 赤間騎風の『大地を見ろ』(大陸共同出版 1924)に光煕門外の探訪記がある(九 蛇捕りと女乞食 111コマ)。

 

 

 下の写真は、1922年1月15日付『東亜日報』 に掲載された写真で、老婆の変死体が発見された光煕門外の城壁沿いの土幕を撮ったもの。このように、城壁下の空間に城壁を利用して住居が作られていた。

 

  新堂里売却と「島徳道路」

 1925年に馬野精一が京城府尹に就任した。馬野精一は、新堂里の府有地を売却して府の財政を立て直し、さらにはそれを京城府東郊の再開発につなげようと考えた。共同墓地や汚物堆積場、火葬場を移転し、その跡地15万坪を売却することにした。

 

 もともと上述のようにあまり芳しい土地柄ではない。買い手がつかない恐れもあった。そのため、梨泰院からと奨忠壇からの2本の道路建設プランを提示し、朝鮮博覧会の会場候補地としての付加価値も強調した。

 

 それに目をつけたのが、京城府協議会員で土地ブロカーの方奎煥パンギュファンだった。方奎煥は、この話を大阪の証券業者島徳蔵のところに持ち込んだ。島徳蔵は支配人福島福之助を京城府との交渉にあたらせた。

坪三圓五十錢位なら賣つて善からうと云ふことであつた、福島氏は最初二圓五十銭位に見當をつけて居たらしいので、其れは高いと言ふことで折衝を重ねた結果三圓二十錢と云ふ事に折り合ふた、此話が進んだので馬野府尹は府協議員會と學校組合會を招集して懇談した所、經濟難に苦んで居る府の臺所を知つて居る府協議員も善い買手が出たと福の神を迎ふるやうに歡迎し満場一致で賛成し た、直ちに契約書を作成し總金額四十六萬六千八百餘圓の中、內金として十萬圓を受取り残りは昭和四年の三月末と五月末に完納する。

「土地買収にからんだ京城府と島徳蔵との経緯」

(『朝鮮及満州』第257号(昭和四年)

 結局、坪3円20銭で総額46万6,800円、内金10万円で1928年5月末に仮契約が成立した。

 

 ところが、8月になって島徳蔵本人が現地にやって来てみると、朝鮮博覧会の会場は景福宮に変更となり、建設されるはずだった2本の道路(梨泰院〜新堂里〜往十里と奨忠壇〜新堂里)は財政難で先延ばしという話が出ていた。島徳蔵は「話が違う」と土地購入のキャンセルを匂わせた。馬野精一は、2本の道路の期日までの開通を確約して島徳蔵から残金の支払いの約束を取り付けた。

 ところが、翌年1月に馬野精一は咸鏡南道知事の辞令が出て咸興に赴任した。この間の馬野精一と島徳蔵の内々のやり取りを承知してなかった京城府協議会は、奨忠壇〜新堂里の道路建設だけの予算しか認めなかった。島徳蔵は「それでは残金は払わない」という騒ぎになった。

 そこで問題は逆轉して前府尹の馬野氏に及んだ、馬野氏は府協議員の協贊を経ずして二線道路の假契約書をして居たからこんな問題 が起つたのだと云ふ事になり馬野氏の不法行爲を責むる聲が高まつた、馬野氏は三月の二十一日咸興から京城にやつて來て、府協議員を集め「自分はそんな契約をした覺えは無い」と言つた、そこで府協議員は馬野氏自分で訂正の筆を入れた契約書の原案をつき付けて、「是れは何うでゴザルか」と詰め寄つた、馬野氏は暫く其書類を見詰めて居たが「成る程 是れは自分の筆に間違ない、全く失念して居た誠に相濟まなかつた」と所謂聲淚共に下るの赤誠を面に表はし協議員の協賛を經ずして自分で斯う云ふ契約書を作成したのは失態である旨を陳謝し、此土地問題に關する経過を赤裸々に報告して諒解を求め、且つ此上島德氏が一線説に應じないと云ふ事になれば自分がどこまでも責任を負ふて解決しようと男らしく出たので、府協議員も馬野氏の心事き誠意を諒として何の不平不滿無く寧ろ馬野氏の男らしい態度を稱揚した

「土地買収にからんだ京城府と島徳蔵との経緯」

 すったもんだの末に、結局京城府の経費を捻出して梨泰院〜往十里と奨忠壇〜新堂里の2本の道路が建設されることになった。人々はこの道路を「島徳道路」と呼んだ。

 

 

  土幕民の処遇

 この騒動の最中、光煕門は管理や補修が行き届かず、崩落の危険があるとして積石部分を残して撤去された。

 

 共同墓地や火葬場、汚物堆積場の移転は早々と決まっていたが、問題として残されたのが光煕門周辺や城壁沿いに住みついていた土幕民・土窟民の扱いだった。それにいち早く注目したのは、『東亜日報』だった。

光熙門外墓地移転と三千の土窟民のケアを

来月中旬頃に登記手続を終えると買収側は警察と協力して追い出す方針

救濟講究策は足踏み状態

 10万円の売却契約金の受け渡しがあって、整理中の光熙門外の墓地は後継地に引き継がれ、火葬場は京城市の弘濟內里、埋葬場は東小門外の某所にと内定して、近々すべての工事終了とともに移転することになっている。日本人墓地は来年1月末までには移転を完了し、朝鮮人墓地はこの11月末には目処が立つ。この墓地の新オーナーである大阪の島徳蔵氏も、残りの30万円を支払うと同時に所有権移転をするよう催促しており、京城府では遅くとも10月中旬までには登記手続きを終える見込みである。この墓地の売却によって、行き場がなくなる600余戸、三千人余りの人々のこれからについては何らの解決策もなく、移転費がどうこうという話どころか、移転先の候補地すらない状況である。島徳蔵氏は、最近一層監視を強めて監視人に新しく入ってくる人を取り締まらせている。所有権の移転登記が終われば、警察力を動員して彼らの退去を命令するので、今年の秋には一波乱ありそうで世間の注目を集めている。京城府ではすでに売却してしまったとして見て見ぬふり、総督府でも何らの具体策が講じられないままで、彼らの移転については暗澹たる状況である。

 京城府庁の某当局者は「所有権が移るわけなので、島徳蔵氏は自分の思うようにやるでしょうが、一人二人のことではない社会問題なのだから、京城府において処理するほかに方法がないとは思いますが…」と語っている。

 結局、土幕民・土窟民の救済策が講じられることはなく、『毎日申報』によれば、1929年末の段階でも3000人(戸は誤りか)以上の貧民が行き場のないまま光煕門外のスラムで極寒の冬をむかえた。

 

 

  舞鶴住宅地と朝鮮都市経営会社

 咸鏡南道知事になった馬野精一が京城に戻って島徳蔵との約束について「自分が責任を取る」と啖呵を切ったのが1929年の3月末。その頃には、共同墓地の移転や内地人の火葬場の移設などが行われていた。上述の『毎日申報』の記事から推測すると、1929年の年末にはまだ宅地開発は始まっていなかった。しかし、1930年11月21日付の『京城日報』の記事では、この年の6月には、共同墓地や火葬場のあった新堂里一帯が「舞鶴住宅地」という名前で分譲販売され始めている。1930年に入ってから、土幕民・土窟民を排除し、城壁の撤去なども行いながら宅地造成工事が進められたのであろう。

 

この土地を売出したのは本年6月からであるが、整地された5000坪はドシドシ片づいてゆく、坪当り15円から22円で官吏や銀行員、会社員は安い安いと買ふ。モウ50口計り売れた。中には1人に1千2百坪も買つてゆく人もある、すでに坪30円でないと手放さないなどよい所は約10円方の土地値上りをみせている有様である。火葬場跡だから買い手はあるまいと思つてゐたら大間違えだ、是非火葬場跡を分けて欲しいといふものもある、何んでもそこに寺を建立する計画だそうな、案ずるより生むが易い。

モウ松の木の間を通して木の香新らしい4、5軒の小ぢんまりした新築が出来あがつている、昔は乞食でないと住まないといはれた城壁の下にもモダンな家屋が建てられてゐる。どこもこの辺の変り様は想像以上である。

とある。当時、京城の内地人の住宅難もあって、墓地や火葬場、汚物堆積場、スラム街だったことなどお構いなしに買い手がついた。この一帯の景観はこの時期に激変した。

 

 方奎煥を社長とする舞鶴住宅経営が宅地の開発・販売をやっていたが、1933年になると、世界恐慌の煽りで羽振りの良かった島徳蔵の関係企業が経営不振に陥った。舞鶴住宅経営も銀行からの借入金の返済が滞り、1933年末に東洋拓殖会社の子会社である朝鮮都市経営会社に舞鶴住宅地の経営権が譲渡された。

 

 

 朝鮮都市経営会社は、舞鶴住宅地に隣接する奨忠壇住宅地や桜ヶ丘住宅地をすでに開発しており、新堂里一帯は大きく変貌することになった。

 

赤い線の道路がいわゆる「島徳道路」。それに挟まれた舞鶴住宅地、島徳道路を隔てて桜ヶ丘住宅地。衛生課分室は汚物堆積場の跡地に置かれていたもの。

奨忠壇公園の下にある「博文寺」のところは現在の新羅ホテル。右の丸い部分は現在の奨忠壇チャンチュンダン体育館で奨忠壇からの「島徳道路」を挟んで朝鮮土地経営会社が開発した奨忠壇住宅地があった。解放後、三星サムソン李秉喆イビョンチョル元会長がここに住んでおり、現在三星グループがこの一帯を所有している。

 

  梶山季之と朴正煕が住んだ街

 

 1960年代の日本で産業スパイ小説や推理小説、時代小説、風俗小説などで流行作家となった梶山季之。彼は 1979年に韓国で映画化された『族譜』や『李朝残影』などの朝鮮を舞台とする作品も残している。京城育ちの梶山は、南山小学校に通っていた1938年に「京城府城東区新堂町349」に引っ越した。上掲の地図のAの場所、桜ヶ丘住宅地の一角である。

 ここから京城中学(現在ソウル歴史博物館がある場所にあった)に通ったが、3年生の時に日本が敗戦。日本に引き揚げた。

 人気作家となってから、大宅壮一と一緒に1963年11月25日から12月2日まで韓国を訪問している。まだ、日韓の国交が回復する前の時期である。その時、以前住んでいた家を見に行っている。

「ソウル市の西南」は「東南」の誤り

すでにこの住宅はない

 

 梶山季之と朝鮮の関わりについては、『李朝残影 : 梶山季之朝鮮小説集』(インパクト出版会, 2002)の川村湊「梶山季之〈朝鮮小説〉の世界」に詳しい。

 

B

 もう一人、この旧桜ヶ丘住宅のBに今も残る日本家屋に住むことになった人物がいる。朴正煕パクチョンヒ元大統領とその一家である。新堂洞シンダンドン62-43。

 朴正煕は、第7師団長となった後、1958年5月から新堂洞の官舎に住んだ。1945年8月の日本の敗戦で空き家になった日本人の住宅が米軍政下で「敵産」として接収され、それを韓国に払い下げた家屋であろう。1930年代の「文化住宅」といわれた日本家屋がそうであったように、和洋折衷の様式。それを韓国式に改造したものに、さらに陸英修ユクヨンス夫人が手を加えたといわれている。1961年5月のクーデターで国家再建最高会議の議長となって、議長公館に引っ越した8月までこの家に朴正煕一家は暮らした。

 その後、朴正煕は大統領となり、一家は青瓦台の大統領官邸に移った。

 

 1979年10月26日、朴正煕大統領は中央情報部長の金載圭キムジェギュに銃撃されて殺害された。陸英修夫人が1974年8月の文世光ムンセグァン事件で死去してからは、長女の朴槿恵パククネがファーストレディの役割を担ってきた。11月3日の国葬を終えたのち、朴槿恵は、妹の朴槿令パククルリョンとともに青瓦台からこの新堂洞の私邸に移り、しばらくここで暮らした。

 

 その後、朴槿恵も朴槿令もこの家を出たが、家屋は陸英修女史記念事業会が引き継ぎ、2008年10月に国家文化財として登録された。その後、ソウル市が住宅の修復工事を行ない、1958-1961年当時の姿に復元して2014年に公開している。

 

 こうした数奇な運命をたどった桜ヶ丘住宅地の「文化住宅」は、1930年代の宅地開発当時の原型を残す数少ない建物として今日に伝えられている。

 

2022年7月KakaoMap ストリートビューより

 

 


 

 光煕門は1975年に復元された。

 

 

 光煕門から南へ120mほどは城壁が復元されている。しかし、そこから650mほど城壁が途切れ、新羅ホテルの敷地の東北端からまた城壁が始まる。

 

 

 ただ、この途切れている部分でも、住宅の基礎部分や切り通しなどに城壁の痕跡が残されている。舞鶴住宅地の造成・分譲の時に、城壁部分でも宅地化できるものはそのまま宅地にしたのであろう。城壁を壊した後の石材を流用したりしたと思われる痕跡もある。

 

 光煕門と新堂洞。見どころ満載の一角である。