キングメーカー 厳昌録 — 東亜日報「南山の部長たち」より | 一松書院のブログ

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 8月12日日本公開の韓国映画「キングメーカー 大統領を作った男」。

 


 

 そのモデルになったのは厳昌録オムチャンノク。彼のことは『東亜日報』に連載された「南山の部長たち」の中に詳細に描かれている。金忠植キムチュンシク記者が執筆し、1990年8月から1992年10月まで週末版に掲載された。その連載の33〜35回に厳昌録が登場する。
 この連載は1992年11月に単行本として出版され、50万部を超えるベストセラーとなった。1994年には日本で『実録KCIA-南山と呼ばれた男たち』(講談社 1994)として翻訳出版されたが、上下2冊本の韓国語原本を日本語版では1冊本としたため、残念ながら厳昌録の部分は日本語版には入ってない。

 

 以下、この『東亜日報』の3回の記事を翻訳掲載する。

  • 南山の部長たち(33)「選挙懐柔工作」
  • 南山の部長たち(34)背反と義理の分かれ道
  • 南山の部長たち(35)金大中・厳昌録分断の特命

  南山の部長たち(33)「選挙懐柔工作」

東亜日報|1991.03.29記事(企画/連載)

「選挙の鬼才」厳昌録懐柔工作

金桂元が信任回復のために金大中の選挙参謀を誘惑

1971年の大統領選挙で野党撹乱の切り込み隊長を任せる

中傷宣伝の書き込みなど「神出鬼没」

KCIA、戦術を集め本にして青瓦台にも

 

「南山ゴル先生」叱責

 1970年秋、金大中キムデジュンが野党新民党の大統領候補に決まると、大統領朴正煕パクチョンヒは情報部長を交代させる決心を固めた。情報の元締めとして強大な権限と組織を持っていながら、右腕の役割を果たせてない金桂元キムゲウォンをそのままにはできなかった。しかも、手強い相手の金大中との大一番が控えていたのである。

 金大中との戦いで、朴正煕は手痛い敗北を喫していた。3年前の1967年の6・8国会議員選挙で、金大中を落選させるために朴正煕は木浦モッポを「政策地区」に指定してあらゆる手立てを使った。

 朴正煕は、鄭求瑛チョングヨンにこう言った。

鄭求瑛:大韓弁護士協会会長で、1961年の軍事クーデター後に作られた共和党の初代総裁。のちに3選改憲に反対して脱党。

 6・8選挙で、野党の何人かの当選を阻止するために、共和党候補を特別支援した。だが、金大中の「マタドール」の中傷宣伝には勝てなかった。(鄭求瑛回顧録174ページ)

※マタドール(마타도어(Matador)):選挙戦で根拠のない事実を捏造して相手を中傷したり、相手陣営の内部を撹乱させる中傷宣伝を行うこと。

 大統領自ら木浦に乗り込んで閣議を開き、選挙公約を派手に打ち上げ、共和党候補の金炳三キムビョンサムに莫大な資金をつぎ込んだ。しかし、金大中を破ることができなかった。官権・金権攻勢をかけたにもかかわらず、そこで生き残った金大中は、朴正煕にとって明らかに不愉快な相手だった。

 1970年11月のある日、朴正煕はKCIAの保安次長補の姜昌成カンチャンソンを呼んだ。

 「野党の連中が金桂元部長を南山ゴル先生と呼んでるんだって?」

 しばしば政治工作に失敗し、野党新民党の老獪な重鎮たちに翻弄されてきた金桂元への苛立ちだった。朴正煕は、大統領選挙を乗り切るために駐日大使を務めていた李厚洛イフラクを呼び戻す決心を固めたようだった。

 しかし金桂元は、朴正煕から見放されながらも、最後まで信任を回復しようとあがいた。

 金大中の組織参謀厳昌録オムチャンノクに対する懐柔工作もその一つであった。

 厳昌録。1986年に56歳でこの世を去った彼の名前は、KCIA幹部や野党重鎮の間に神話のように語り継がれている。

 

1960年代に金大中議員の組織参謀だった厳昌録氏。「組織の名手」「選挙の鬼才」と呼ばれた彼は、1971年の大統領選挙戦でKCIAに懐柔されてされて金大中候補陣営の撹乱に加担した。

 

 厳昌録は、世間での知名度は低いものの、韓国の選挙史上には必ず名前が出てくる人物である。神出鬼没の彼の組織宣伝戦術は、KCIAの手で一冊にまとめられ、その本は共和党と青瓦台に密かに配布された。

 厳昌録は1961年の江原道カンウォンド麟蹄イムジェの補欠選挙で金大中の初当選を手助けして以来、1970年に野党の大統領候補に選出されるまで、金大中を国会議員に3回当選させていた。朴正煕が不満を募らせた6・8総選挙で金大中を助けたのがまさに厳昌録だった。厳昌録は、想像を絶するネガティブキャンペーンや、官権・金権攻勢を逆手にとった選挙戦術で、自ら「選挙ゲリラ」を名乗った。金大中の政治カラーのうち、否定的な色合いのうちの相当部分は厳昌録に起因するものだった。

 そんな厳昌録は、金大中と手を組んでちょうど10年目の1971年に金大中を裏切ることになった。金大中に背を向けて、KCIAと手を組んだ1971年の4・27大統領選挙戦で、金大中陣営を逆に撹乱する「ブーメラン」を放った。

 

86年56歳で死去

 小説より数奇な運命だった。厳昌録は死ぬ日まで東橋洞トンギョドンに現れなかった。1986年、厳昌録の遺体安置所に金大中は李龍煕イヨンヒ(9・10・12代国会議員)を送って弔意を表した。

※金大中の自宅は東橋洞にあった。現在、金大中図書館の東側に自宅が残っている。

 厳昌録は、咸鏡南道ハムギョンナムド元山ウォンサンの出身で、元山師範学校を中退したという(他に、金日成キムイルソン大学を出たと本人が言ったのを聞いた者もいる)。厳昌録は、北朝鮮で左翼組職を経験してから転向したと語っていた。KCIAで対共問題を扱った李龍澤イヨンテク前議員も、徹底した「転向者」だと証言していた。

 権魯甲クォンノガップ議員の証言。

 厳昌録氏が金大中総裁に会ったのは偶然だった。彼は補欠選挙の時、我々を支援していた地元のシン社長の下で働いていた。組織化を学んだとかで、非常に緻密で、声が低く、人前に出ずにバックヤードで働くスタイルだった。ひどい肺結核を患って手術をしたことがあり病弱だった。

 厳昌録が1961年の金大中陣営で説いた内容をまとめるとこうだ。

 韓国の政権与党の選挙運動は、先頭に立って法を犯す犯罪そのものだ。1960年の3・15不正選挙のような公務員動員、現金入り封筒の配布、投開票操作まで勝手にやるといった権力の犯罪的選挙方式を打ち破らなければならない。執権党の選挙のやり方は当分は根絶やしにはできない。「柔をもって剛を制す」の戦術を開発して、官権・金権に対抗しなければ、野党は政治的に生き残ることができない。

 厳昌録はいくつかの戦術を発案した。
 

1.野党運動員が外国タバコをくわえて、与党候補の支持を勧める。有権者には安いタバコを差し出す。与党候補に対する反感を誘発する。

2.野党運動員がごく少額(今なら1000ウォン)を封筒に入れ、与党候補の名前で夜中に渡して回る。

3.野党運動員が与党候補の名前でゴム靴のようなプレゼントを配った後、翌日一斉に「他の家に配るはずのを間違って渡した」と回収する。徹底的に与党候補に対する反感を誘発する。


 今や、当たり前の「選挙小細工」になっているこうした手段のほとんどは、厳昌録によって発案されたものだった。

 

「柔をもって剛を制す」対応

4.金持ちの候補の食事招待・マッコリ接待に対して、無一文の野党候補が対抗する方法もある。例えば、野党運動員が与党候補の名前で数百人の有権者を飲食店に招待し、無駄足を踏ませて有権者の激憤を誘発する方法もある。
 

 組織管理の方法も独特だった。

 立候補者は、選挙運動員が選挙資金を使ってちゃんと有権者に接触したかを気にしている。例えば、10人の運動員にそれぞれ10人ずつの有権者への接触を指示する。その時に、必ず幽霊有権者を1人〜2人入れておく。ちゃんと活動した運動員は、幽霊有権者がいたことを報告するが、遊んで帰ってきた運動員は10人に会うために大汗をかいたと嘘の報告をする。

 こうした逸話が厳昌録を「組織の鬼才」と呼ばせたのである。

 

ゲリラを彷彿させる

 共和党政権で厳昌録を最初に目をつけた人物は、愼鏞南シンヨンナム(7代議員)だった。KCIAも彼を通じて厳昌録に秘密裏にアプローチを始めたということだ。

 1967年の総選挙で不正選挙と名指しされ、翌年野党候補の金相欽キムサンフムと再選挙を行った愼鏞南の証言がある。

 高敞コチャン再選挙の時、野党組織の責任者として厳昌録という人物がやってきた。噂では、選挙の鬼才で神秘的な人物だということだったので、木浦で戦った金炳三氏に会って尋ねてみた。しかし、厳昌録など知らないという。金炳三氏は何も知らずに、何度もやられたのかもしれなかった。国会の金大中議員の関係記録にも、厳昌録氏は「補佐官」「西大門在住」程度しか出ていなかった。おまけに、写真も一枚もなく、実に神秘的な人物だと感じた。その後、1965年のソウル西大門ソデムン補欠選挙で、金相賢キムサンヒョン候補が任興淳イムスンフン候補(2・3代議員)に勝った時、厳昌録が選挙参謀を務めたことが分かった。その時に厳昌録の組織宣伝教育を受けた氏に会った。聞いてみると、組織を指揮する方法はまるでインチキ教主のようで、遠隔操縦で行政官権を無力化させる術策はまさに遊撃戦方式だった。

 

  南山の部長たち(34)背反と義理の分かれ道

東亜日報|1991.04.04記事(企画/連載)

KCIA首脳からDJ連結の「遮断工作」

全国区の要求に新民党難色

組織OX、自傷劇などの選挙に驚き

「6·29」後、民正党から訪ねて諮問を求める

 

名声は1980年代まで

 金大中キムデジュンの組織参謀だった1960年代の「選挙の鬼才」厳昌録オムチャンノクの名声は、1980年代にまで響き渡っていた。

 厳昌録が東橋洞トンギョドンから姿を消し、政治の一線に姿を現すことがなくなって16年の歳月が経った1987年。6・29宣言で大統領直選制を渋々受け入れた民正党政権の幹部が、ソウル市内の瑞草洞ソチョドンSアパートの家のドアを叩いた(厳昌録は1988年1月に死去。前回の「86年死亡」は誤り)。

 盧泰愚ノテウ候補を当選させるための方策で頭を悩ます中で、伝説的な人物のことが浮上したという。

 厳昌録の妻(54)の証言。

 1987年の秋、安企部幹部がやって来た。その幹部はあらかじめ人を介して訪問の了解を取り付け、直接やってきた。私が夫(厳昌録)とお客との間を行き来しながら小耳に挟んだ話の内容で、夫がこう言ったのを覚えている。「金大中と金泳三キムヨンサムの両方が出馬することになったのでもう結末は見えている。それなのに私に何を聞こうというのか。あなたのところの当選は確か。あなたたちは政権を手放すようなこともないわけだし…」と夫が言ったことをはっきり覚えている

 この証言からも、情報機関が野党よりも常に一歩先んじていたことがわかる。安企部の幹部が厳昌録に会った直後、金大中陣営の李龍煕イヨンヒが知恵を借りるために久しぶりに訪ねて行ったのだから。

※安企部:韓国中央情報部 (KCIA) は1980年末に国家安全企画部 (NSP:安企部) と改称した。

 再び愼鏞南シンヨンナム元議員の1967年の厳昌録についての回顧談を見てみよう。

 厳昌録の野党スタッフへ教育の中で、変わっていたのは有権者への接近方法だった。たとえば、初めて立ち寄る家では、顔を洗うふりをしながら高級石鹸を置いて帰る。置いていった石鹸をその家で使うようになった頃、その家に石鹸を取りに行って距離感を縮める。次に、家族構成を詳細に把握して、野党候補名義の手紙を出す。手紙の内容は、例えば「今度大学を卒業するお宅のお子さんの就職は私が責任を持ちます。他の人には絶対に内密に…」というようなもの。それをもらった有権者は熱烈な運動員になる。同じ町内にそのような手紙を何通か送れば、不思議なほど効力を発揮する。組織というものを選挙に活用した最初の人物だった。

 厳昌録の組織管理は、厳しくて徹底してものだった。彼は休む間もなく組織が順調に稼動しているかを点検するスタイルだったと李龍煕前議員は振り返った。

 いわゆる「OXマルバツ組織点検」というのが厳昌録の独創的な一面を示している。

 選挙のたびに、立候補者は与党・野党の二股をかけて金を巻き上げる二重スパイのために苦労する。ところが、厳昌録は、独特のやり方でこれを排除してしまった。

 Aが共和・新民両党の候補を行き来しながら金をせびる場合、夜のうちにAの家の門に大きいXというマークを描いておく。そして間接的に「共和党の方で役に立たない二重スパイたちにXをつけて金を渡さないようにしている」と耳打ちする。怒ったAは、二度と共和党候補になびく

ことなく新民党候補だけを応援するようになる。

 

鼈主簿伝の知恵比喩

 厳昌録は自分の知恵を、竜宮から逃げる鼈主簿伝ビョルジュブジョンのウサギの知恵に常に例えた。「韓国の執権党の犯罪的な選挙にあってはケネディも李舜臣イスンシン将軍も落選してしまう」と自らを合理化した。

※朝鮮王朝時代の寓話。南海の竜王の病気の治療薬とされる兎の生き肝を求めて、忠臣のスッポン(鼈) が兎を騙して竜宮まで連れてくる。しかし、事情を知った兎は肝を陸地に置いてきたと言って窮地を脱する。

 彼は、1967年に、愼鏞南シンヨンナム候補を倒すために選挙の終盤で自傷劇までも演出したという。

 愼鏞南氏の証言がある。

 厳昌録が遊説場で流血作戦を使いそうだという情報があり、こちらの共和党員で広く共有した。その情報は的中した。不良っぽい酔った野党青年がやってきて、遊説場で言いがかりをつけて文句を言うふりをして、自分で頭を柱にぶつけて血を流した。共和党員に殴られたという噂を広めることが目的だった。

 すぐにこちらから警察に通報してその青年を捕まえ、脚本通りの演技だったという自供を得た。私が、選挙応援にきた厳昌録に一撃を与えた唯一の人間だったかも知れない。

 大統領の朴正煕パクチョンヒに「太刀打ちできない」と言わしめた厳昌録の選挙手法は、今日も野党の一部に受け継がれている。この組織宣伝戦術を厳昌録が新民党で講義したことがあった。

 その「受講生」の中に、太完善テワンソン(88年没後、元企画院長官、2・5代維新会議員)もいた。野党時代、乙支路ウルチロ派の一員として金永善キムヨンソン金洗栄キムセヨンとともに活動した太完善は非常に几帳面な性格だった。彼は厳昌録の講義をこまめにノートを取った。

 後日、KCIA第3局の局長になったC氏は、入手した太完善のノートを南山ナムサンのKCIA幹部だけが読める「部内書籍」として発刊した。この本はたいそう評判になって、青瓦台チョンワデや共和党でも広く読まれるようになり、絶賛された。

 

太完善の受講

 C氏の回顧談がある。

 厳昌録のアイデアの中で、有権者の自尊心を生かして接近せよという内容が印象深かった。たとえば、大田テジョンに寄る前には、必ず顕忠碑に立ち寄るようにといった具合だ。直接会ってみると、とても冷徹でクリーンに見えたが、どうしてかなりの人物だった。

 保安次長補を務めたK氏は、組織論を読んだ読書感想として次のようにいう。

最初のページを開いたらあんぐりと口が開いた。「選挙とは有権者を如何に操作するかの技術」というのが題目だった。

 KCIAが厳昌録に注目し始めたのは、金炯旭キムヒョヌック部長時代の末期からだったという。続いて部長となった金桂元キムゲウォン氏は、厳昌録の名が何度も報告で上がってきて、今でも鮮明に記憶している。金桂元部長は、金大中が大統領候補として浮上してきたため、厳昌録を東橋洞から隔離すべきだという幹部の建議を受け入れざるを得なかった。

 その頃(1970年11月)、陸軍参謀本部の情報参謀副次長を務め、KCIA保安次長補に移ってきた姜昌成カンチャンソン(当時所長)は、この隔離工作の報告を受けていた。

 

裏工作論争

 姜昌成氏はこのように証言している。

 南山では、厳昌録を懐柔したというが、赴任直後の私には、逆に情報部が騙されているようにもみえた。彼は頭がよく、弱々しくみえたが、最後までDJ(金大中)側についていたようだった。紆余曲折の末、結局DJとは決別したのだが…

 金大中が大統領候補になった後、新民党内では厳昌録の問題でいくつか議論があった。

 第一に、厳昌録の組織方式は、効果的ではあるが莫大な経費がかかり、全国規模の大統領選挙には合わないという批判が出ていた。国会議員の選挙区の大きさであれば、表の組織(A選)より裏工作(B選)が威力を発揮するが、全国規模ではその力を発揮できないという批判だった。

 第二に、厳昌録が全国区議員のイスを要求したが、金大中は様々な条件を勘案してその要求を受け入れなかった。金大中の側近は、厳昌録が金大中から離れるための口実として全国区議員を要求したものと見ていた。

 いずれにせよ、1970年の秋以降、厳昌録が、懐柔と義理の分かれ道でさまよっていたことは確かだった。厳昌録夫人によると、ソウル本洞の家の前には無線を付けた車が貼り付いていて、警察官・防犯隊員がいつもいたという。

 そんな中、厳昌録の運命を変える事件が起こった。1971年1月27日、金大中候補宅での爆発物事件だ。

 

左側から厳昌録、金玉斗氏などの当時の金大中新民党候補の側近。国会の特別調査委に出席、東橋洞金大中候補自宅爆発物事件についての証言をするために宣誓をしている

 

  南山の部長たち(35)金大中・厳昌録分断の特命

東亜日報|1991.04.12記事(企画/連載)

李厚洛部長「必要な予算いくらでも出す」

粘り強い懐柔、11日前に抱き込み

「選挙の鬼才 意外と役立たなかった」KCIA失望

東橋洞爆発事件、いまだに謎

 

党政会議の初会合

 1971年1月に発生した大統領候補の金大中キムデジュン自宅爆発物事件。4月27日の選挙の4ヵ月前に起きたこの事件は今でも謎に包まれている。

 機関によるテロか、金大中候補側の自作自演か。20年の歳月が流れた今でも双方の主張は平行線だ。当時、KCIA幹部らは「政治的注目を集めるための計略」と主張した。金大中陣営は「事件捜査を口実に金大中候補の組織資金関係などを把握しようとした機関の陰謀」(権魯甲クォンノガップ議員)と反論した。

 当時、大統領選挙を控え、最近の「関係機関対策会議」の原型といえる「党政要人会議」が初めて組織された。李厚洛イフラク情報部長・内務部長官・検察総長(7代KCIA部長)・共和党議長代理・検察総長・財政委員長・大統領秘書室長・KCIA次長補などがその主要メンバーだった。1970年12月、李厚洛が情報部長として着任して、「大統領選挙必勝」を誓って作ったこの会議体は、李厚洛部長自らが主宰し、その結果は秘書室長から朴正煕パクチョンヒ大統領に報告される形で進められた。

 この会議で、東橋洞トンギョドン爆発物事件も取り上げられた。李厚洛が内務長官朴景遠パクギョンウォンに「一体誰がやったんですか。警察がやったんじゃないんですか」と問い詰めた。しかし、朴景遠は「どうして警察がそんなことをするんですか。やるとすれば情報部しか……」と受け流した。

 当時の会議参加者の一人は、「そんなやり取りから見て、機関の仕業ではなかったようだ」と語った。「警察やKCIAが、そのような事件を起こして世間の耳目を集めたところで何ら得るものはなかった」と反駁する。つまりは、金大中候補側の自作自演だという主張だ。

 しかし、金大中陣営は大きく動いた。当時、情報機関が14歳だった金大中の甥弘準ホンジュン清雲チョンウン中2年、現在保険会社勤務)を犯人扱いして拷問まで行い、事件を捏造しようとしたと主張した。

 当時、弘準君に対する拘束令状をめぐって裁判所と検察の駆け引きがあった。奇妙な巡り合わせで、今は安企部部長となった徐東権ソドングォン検事と屈指の人権弁護士となった趙準煕チョジュンヒ判事が、なんと5時間46分も令状を「出せ」「出せない」と攻防戦を繰り広げたのもこの時だった。

 いずれにせよ爆発物事件を契機に、調査を受けた金大中陣営の組織員らは51人に達した。特に、KCIAが目をつけていた組織担当補佐官厳昌録オムチャンノクは、彼自身だけでなく妻のチャン氏、家政婦の金春子キムチュンジャ氏まで呼ばれて取り調べを受けた。

 

1971年1月に爆発物が炸裂した東橋洞の金大中新民党大統領候補の家で現場検証をする捜査官。玄関前のX印のところが爆発した場所。

 

 厳昌録に対するKCIAの本格的な懐柔工作が始まったのはこの時からだった。李厚洛イフラクは第6局局長の金聖柱キムソンジュ(治安本部長・9代国会議員)チームに、金大中と厳昌録とを離反させるよう厳命した。「予算」は必要なだけ使えたと当時のある幹部は証言した。

 厳昌録は、1971年2〜3月、KCIAの懐柔工作に翻弄されていたが金大中候補側に立っていた。しかし、4・27選挙を10日後に控えた4月16日の参謀会議には現われなかった。

 厳昌録が金大中を裏切って消えた直後、大邱テグ釜山プサンで奇妙なことが起き始めた。

 権魯甲クォンノガップ議員の証言がある。

 

4大敗因の中の一つ

 大邱で、選挙の終盤になって「湖南ホナム人よ団結せよ」「百済ペクチェ圏大同団結」といった印刷物が、全羅道チョルラド郷友会名義で出回った。さらに、ラッキー歯磨き粉不買といった地方色丸出しの印刷物が、地元の有権者の家にところかまわず配られた。釜山でも、「湖南候補に票を入れよう」「湖南人よ団結せよ」というスローガンが電柱に出たとの報告があった。現地の世論は、一夜にして沸き立ったが、時間がなくて何らの手も打つ暇がなかった。これが姿を消した厳昌録の仕業だと断定せざるを得なかった。

※湖南:全羅道の別称。

※ラッキー歯磨き粉:慶尚南道晋州出身の具仁会のラッキー化学(後のLGグループ)の製品

 当時、KCIA幹部たちは粘り強い工作で厳昌録を引き入れたが、意外と活用度が低くて、「実務の面で1〜2つのアイデアを得た程度だ」という声もあった。

 しかし、金相賢キムサンヒョンなど金大中陣営の参謀たちは、厳昌録を奪われたことを、「金鍾必キムジョンピルの遊説加担」「朴正煕パクチョンヒの最後の出馬公約」「新民党要人たちの怠惰」とともに、4大敗因の一つに挙げている。

 厳昌録がソウルに姿を現したのは、選挙から1ヵ月が過ぎた6月ごろだった。彼は俗離山ソンニサンに「拉致」されていてそこから帰ってきたという。そして、日本に渡って朝鮮総連の人々を韓国側の居留民団に転向させるとも述べた。しかし、「KCIAに懐柔されて協力したことはない」と断言した。

 厳昌録の妻は、最近になって、「夫は選挙直前に政治を辞めた後、一緒に働いた組織参謀たちに「すまない」とよく言っていた。夫は買収されたのではなく、組職内部の葛藤で辞めたのだ。夫は88年1月3日に死去する直前まで、第13代大統領選挙の結果、金大中候補がどうなったのかを気にかけていた。酸素吸入器のため話せなかったので筆談で尋ねていた」と語っている。

 しかし、李龍煕イヨンヒ前議員や金元植キムウォンシック氏ら厳昌録の元同僚たちは、一様に「健康と生活が苦しく懐柔工作に屈してしまったのであり、政治的には金大中候補に対する完全な裏切りだ」と言い切った。

 金桂元キムゲウォン情報部長の時に始まった厳昌録への懐柔工作は、李厚洛イフラク部長の時に終わった。それを「仕事に対する執念と腕の違いだ」と言うKCIA幹部たちもいる。

 金桂元部長は部下のために苦労した。

 就任後間もない金桂元部長を大統領が青瓦台チョンワデに呼んだ。「KCIA次長の李炳斗イビョンドゥが豪華な住宅に住んで日本人の庭師を使っているというが、本当か」と尋ねた。朴正煕大統領は、保安司令部や大統領警護室といった情報チャンネルからの報告で知ったようだった。

 金桂元部長は南山に戻り、李炳斗次長を呼んで詰問した。意外にも李炳斗は、「そう言えば、そういうことにもなりますね」と素直に認め、辞表を出すと言った。

 後任の次長は、金致烈キムチヨル(後に法務内務長官を歴任)であった。金桂元が、法曹出身の前次長李炳斗から推薦された金致烈カードを大統領に上げたらあっさり受け入れられた。

 金桂元部長は監察室長として金海栄キムヘヨン(予備役大佐)という同郷の友人を座らせた。

 

利権ゲームのトラブル

 金桂元部長自身が情報部をよく知らなかったため、大学の同窓でもある金海栄を起用した。

 ところが金海栄が問題だった。監察室長の職位を利用して利権に無理やり介入し、幹部たちの間で確執が生じた。

 金海栄は、自分の友人が持っている時価10億ウォン程度の不動産を信託銀行傘下の防衛会社であるハンシン不動産に買い取るよう圧力をかけた。ハンシン不動産側がこれに応じなかったところ、監察室長の職位を利用して暴力を振るった。結局、ハンシン側はこれに屈して買い取ることになったが、これが国税庁の税務監査で摘発された。

 摘発時の情報部長は李厚洛で、国税庁長は呉定根オジョングン。金桂元は駐中華民国大使として赴任した後のことだった。

 窮地に陥った金海栄は、金桂元と軍に差益金5億ウォンの一部を上納したと言い逃れようとした。このため金桂元は困り果ててしまった

 金桂元は、この事件の後、何度か訪ねてきた金海栄には決して会おうとしなかった。そして、「今もJP(金鍾泌)に会うたびにこの事件のためにとんでもない迷惑をかけて申し訳なく思う」と語った。

※金桂元は情報部長の時代に共和党からの攻撃を牽制するために、当時外遊中だった金鍾泌を返り咲きさせたりした。

<金忠植記者>