- 閔忠正公
- 忠正路の命名
- 閔泳煥の銅像
- 銅像の移転
- 奠都600年と銅像移転計画
- 閔泳煥像の再移転
- 閔泳煥像、忠正路へ
2022年8月30日、ソウル西大門区忠正路の鍾根堂ビルの向かいの緑地で、閔泳煥の銅像の移転式が行われた。韓国の報道でもしばしば触れられているように、閔泳煥の銅像は、紆余曲折を経て忠正路に移されたものである。その経緯を振り返りながら、韓国の近現代史の一端を見てみよう。
中央日報より https://www.joongang.co.kr/article/25098189
閔忠正公
1905年11月17日、「第二次日韓協約(乙巳保護条約)」が締結されると、閔泳煥は条約締結に関わった5大臣の弾劾を上奏して高宗皇帝に協約の廃棄を求めた。しかし、それが却下されると11月30日に抗議の服毒自決をした。謚号は忠正、閔忠正公とも呼ばれる。
閔泳煥は自分の名刺に遺書を書き残した。
自決の翌日、12月1日付の『大韓毎日申報』は、閔泳煥の書き残した遺書を紙面に掲載した。
警して韓国人民に告ぐる遺書
嗚呼、国の恥と民の辱は乃ちここに至り、我が人民は行きて將に生存競争の中に殄滅せんとす。それ生きんとする者必ず死し、死を期せる者は生きるを得。諸公、豈に諒せざるか。ただ、泳煥いたずらに一死をもって皇恩に仰報し、以て我が二千万同胞兄弟に謝す。泳煥の死は死にあらず。九泉の下において諸君を助くるを期す。幸にも我が同胞兄弟千万倍奮勵を加え、志気を堅め、その学問を勉し、心を結びて復た我が自由独立に戮力すれば、則ち死者はまさに冥冥之中にも喜笑すべし。鳴呼、少しも失望するなかれ。我が大韓帝国二千万同胞に訣告するものなり。
各館館寄書
…略…
英国人アーネスト・ベッセルと梁起鐸によって創刊された『大韓毎日申報』は、ベッセルが社長だったこの時期には日本の朝鮮侵略を批判する記事をまだ掲載できていた。しかし、日本は1908年にベッセルを上海に追放して『大韓毎日申報』に弾圧を加え、併合後は『毎日申報』と改題して総督府の朝鮮語機関紙にしてしまった。
日本の植民地支配下では、閔泳煥の抗議の自決が朝鮮の公の場で言及されることはほとんどなかった。しかし、多くの朝鮮の人々の記憶に鮮明に残り、それは語り継がれていた。
日本による朝鮮植民地支配の終焉とともに、閔泳煥は、日本の侵略に抗した「殉国の先賢忠烈」として真っ先に取り上げられた人物の一人となった。
忠正路の命名
日本の敗戦後、朝鮮で米軍政庁による統治が始まると、それまでの日本式の「〜通り」は「〜路」、「〜丁目」は「〜街」、「〜町」は「〜洞」に改められた。同時に日本風の町名は、旧来の呼称や、朝鮮の偉人の名前にちなんだ新たな名称に置き換えられた。1946年10月1日に公示された地名変更では、旭町は会賢洞、大和町は筆洞、倭城台町は芸場洞などと変えられた。そして、本町は李舜臣にちなんだ忠武路となり、黄金町は高句麗の英雄乙支文徳の名をとって乙支路となった。朝鮮軍司令官の長谷川好道にちなんだ長谷川町は小公洞となり、1882年から1885年まで在朝鮮日本公使だった竹添進一郎から名前をとった竹添町は、閔泳煥の諡号忠正をとった忠正路と改められた。
『地番入新洞名入ソウル案内(신동명입 서울안내)』 赤字が旧地名
ソウル歴史博物館
朝鮮王朝の首都に花房義質が最初の日本公使館を置いたのは1880年12月。西大門外の京畿監営(現在の赤十字病院)の向かい側、西池(現在の金華初等学校)を見下ろす高台(現在の東明女子中学校)に公使館を置いた。1882年の壬午軍乱でこの公使館は焼かれた。花房義質の後任として赴任した竹添進一郎は、現在の楽園商街の北西側、朴泳孝が所有していた屋敷の敷地を日本公使館とした。しかし、竹添公使が深く関与した甲申政変でこの公使館も焼失した。京城に舞い戻った竹添公使は、西大門外に拠点を確保して朝鮮政府と交渉し、南山北麓の泥峴(チンコゲ:現在の芸場洞)に公使館の場所を確保することに成功した。こうした経緯を踏まえて、西大門外の一帯が竹添町と名付けられたのであろう。
日本が朝鮮の内政に横槍を入れ始めた時にその先頭に立った竹添進一郎の「竹添」がこの一帯の町名に使われ、解放後は、死をもって侵略に抵抗せんとした閔泳煥の諡号「忠正」が冠せられることになった。この場所が、閔泳煥とつながりのある場所だったから「忠正路」と名付けられたわけではなかった。
閔泳煥の銅像
日本の侵略に抵抗した人々を顕彰しようとする動きは植民地支配からの解放の直後から始まっていた。閔泳煥の銅像の建設の話は、安重根の銅像などとともに早い時期から出ていた。
さらに、大韓民国建国後の1948年11月30日には、「閔忠正公追念大会」が開かれることになり、その顧問に李承晩・李始栄・金九・金奎植という錚々たる面々が顔をそろえた。
大統領李承晩は、閔泳煥とはただならぬ因縁があった。李承晩は、1899年1月に朴泳孝らの高宗皇帝廃位陰謀に加担したという嫌疑で逮捕され、漢城監獄で5年9ヶ月服役した。1904年に出獄した後、李承晩は閔泳煥の斡旋でアメリカに渡った。アメリカではルーズベルト大統領に会って大韓帝国の独立擁護を請願しようとしたがうまくいかなかった。1905年8月9日付で李承晩が閔泳煥に送った手紙が残っている※。閔泳煥は、李承晩にとって特別な存在であった。
しかし、銅像の建設が具体化する前に、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の建国、さらに朝鮮戦争の勃発といった激動の中で、抵抗運動や独立闘争の顕彰事業は先延ばしを余儀なくされた。
閔泳煥の銅像建立が実現したのは1957年。閔泳煥の邸宅があったとされる竪志洞からほど近い安国ロータリーの北側(旧朝鮮生命保険ビルの前)の緑地帯に立てられた。閔泳煥の誕生日8月30日に盛大な除幕式が行われた。
銅像の移転
1971年、ソウルで地下鉄1号線の工事が始まり、それを機に交通体系の整備と道路の拡張が進められることになった。安国ロータリーも拡張されることになり、閔泳煥の銅像は敦化門前に移転された。
写真は、安国ロータリーの旧朝鮮生命保険ビル前の閔泳煥銅像
10月から11月にかけて移転工事が行われ、もとの場所から600mあまり東側の敦化門斜め前に移された。
都心の市庁前から南大門にかけての太平路分離帯緑地の北端と南端に立てられていた金庾信と柳寛順の銅像が、それぞれ南山白凡広場西側と南山2号トンネル入口に移転されたのも、ちょうどこの時期のことであった。
奠都600年と銅像移転計画
朝鮮王朝が開かれたのは1392年、1394年に開城から漢陽に都を移した。都を移すことを「遷都」あるいは「奠都」という。ソウルは、1994年が「奠都600年」ということでさまざまな事業が計画された。
上述したように、植民地支配から解放されたのち、地名呼称を旧来のものに復元したり、歴史上の偉人・英雄の名前を地名に冠した。その後、銅像が立てられていったが、銅像の位置と銅像の主の名前が冠せられた場所との相関性は考慮されなかった。その不一致を解消しようというプランがソウル市の「奠都600年」事業の一環として打ち出された。
歴史的人物 | 銅像の位置 | 移転予定先 |
世宗大王 | 徳寿宮 | →宗文化会館前 |
柳寛順 | 南山2号トンネル入口 | →西大門独立公園 |
乙支文徳 | オリニ大公園 | →乙支路緑地帯 |
丁若鏞(茶山) | 南山図書館南下 | →茶山路 |
李滉(退渓) | 南山図書館南東下 | →退渓路緑地帯 |
元暁大師 | 孝昌公園 | →元暁路 |
閔泳煥[忠正] | 敦化門横 | →忠正路緑地帯 |
李珥(栗谷) | 社稷公園 | →閔泳煥銅像跡地 (栗谷路) |
( )内は号 [ ]内は諡号
しかし、関係団体などから「ソウル市内の通りの名前は民族のプライドを高める意味で付けられたもので、歴史的人物とは無関係」、「銅像の位置は設置時にそれなりの検討を加えたもので、その移転は予算の無駄遣い」といった批判が出された(『한겨레』 1993年4月18日付)。
その結果、この8つの移転案は全て白紙化され、移転は実現しなかった。
閔泳煥像の再移転
1971年に安国ロータリーの閔泳煥の銅像が移された先の敦化門横の敷地は、文化財庁が所有する国有地で、昌徳宮管理事務所がそこを管理していた。その国有地にソウル市の鍾路区が所有・管理する閔泳煥の銅像が移された。その前の道路は朝鮮王朝時代の儒学者李珥の号をとって栗谷路と名付けられていた。李珥の銅像は社稷公園に設置されていた。
2000年になって、この国有地を管理する昌徳宮事務所は、鍾路区に対して銅像の移転と国有地の返還を要求した。昌徳宮事務所側はその後も引き続き国有財産の返還を強く求め、2002年には返還訴訟も辞さないとした。しかし、鍾路区は代替地がすぐには用意できないとして国有地の無償使用の継続を要望した。
それまで閔泳煥の銅像は30年近く敦化門横の国有地に立っていて、1994年には閔泳煥の銅像を忠正路に移してその跡に李珥(栗谷)の銅像を移してくるプランをソウル市が出したりもしていた。それが、突如として国とソウル市鍾路区との間で対立が起きた。これには1995年の地方自治制度改革が関係しているようだ。それまで政府による任命だったソウル市長は、1995年以降は選挙で選出される民選市長に変わった。これを境に、それまで黙認されてきた「国有地の上に設置されているソウル市の鍾路区が管理する銅像」が問題視されるようになったのであろう。
2002年7月に李明博がソウル市長に就任した。李明博市長時代に閔泳煥の銅像を敦化門横の国有地から撤去して、曹渓寺の前に移転することが決定された。移転は2003年3月1日に完了した。
2003年4月9日付『東亜日報』
[首都圏]閔泳煥先生の銅像、またも移転
ソウル市鍾路区臥龍洞の昌徳宮前に立っていた閔泳煥先生の銅像は、 3月1日に鍾路区堅志洞の郵政総局市民広場の敷地に移されたが、子孫たちは、世宗路の「光化門開かれた広場」に移転することを求めている。
閔泳煥先生の子孫たちの麗興閔氏宗親会は、鍾路区庁に銅像を近くの世宗路の「光化門開かれた広場」に移転することを求めている。
宗親会側は「銅像が設置された市民広場(約200坪)は狭い上に、中央に噴水台があって銅像が隅に追いやられている」とし、「民族のために命を捧げた人物にふさわしいとは言い難く移転を建議する」と述べた。これに対して鍾路区は、「広場が狭いのは事実だが、現実的には代替地がない」と移転には難色を示した。さらに鍾路区は、「長期的には周辺の私有地を一部買い入れて公園の拡張を検討している」とし、「光化門開かれた広場はソウル市の所有なのでソウル市がこの建議を受け入れれば移転が可能かもしれない」と語った。
だが、ソウル市は消極的である。ソウル市関係者は、「関連会議で議論はするが、光化門の開かれた広場は朝鮮時代の役所の六曹の通りの復元なので、閔泳煥先生の銅像はそれにはふさわしくない」と語っている。
この時に移転先となった場所は、1884年12月に甲申政変の舞台となった郵政総局の北西側で、閔泳煥の邸宅があったとされる場所の近くだった。しかし、手狭で大通りからは見通せない空間だった。
閔泳煥像、忠正路へ
2009年、世宗文化会館前の光化門広場に新たに世宗大王の像が出現した。1992年に計画された銅像の移転プランの中に徳寿宮の世宗大王像の世宗路移転があった。しかし、光化門広場の世宗大王像は徳寿宮の世宗大王像を移転したのではなく、この新設時に新たに製作されたものである。
徳寿宮にあった世宗大王像は、2012年になって徳寿宮を復元するとして文化財庁が徳寿宮から清涼里の世宗大王記念事業会に移転させた。
左は1977年に徳寿宮にて撮影。
この間、閔泳煥の銅像の周囲の環境はいちだんと悪化していた。
2018年11月に『週刊東亜』のクォン・ジェヒョン記者はこのように書いている。
11月30日に113回忌を迎えた忠正公の銅像はどこにあるのだろうか。 ソウル鍾路区堅志洞の郵政総局の建物(史跡第213号)、その後ろにある小さな公園の奥まった場所にある。 多分、全国で唯一のものだが、曹溪寺を訪れる信徒ですら忠正公の銅像がここにあるのを知らない。
11月14日の午前、記者が訪ねた時には銅像のまわりには大勢のホームレスが集まっていた。酒のにおいもしていた。 銅像の後ろには彼らが使っているのであろう寝具が置かれていた。すえた匂いがするのは、銅像の後ろの塀が彼らの公衆便所として使われていたからだ。
この取材のきっかけになったのは、韓国学中央研究院の鄭允在教授からの情報提供だった。鄭允在は2015年に高宗時代の政治指導者に関する研究プロジェクトを進める中で、閔泳煥の銅像が冷遇されていることを知ったという。
https://www.donga.com/news/article/all/20181118/92916760/1
また、2018年11月7日の『文化日報』には、閔泳煥の4代孫の作家閔明基が、銅像が劣悪な場所に置かれていることを訴えた 「放置された閔泳煥の銅像… 忠正公のような過酷な運命」という記事が掲載された。
ブログの探訪記事などでも閔泳煥の銅像が劣悪な環境に置かれていることが取り上げられた。
2022年3月になって、西大門区が閔泳煥の銅像を忠正路3街の緑地帯に移転させると発表した。鍾路区から区をまたいでの移転なので、ソウル市も関与したのであろう。計画では、銅像の向かい側に、高麗大学校が所有する閔泳煥関係資料などもディスプレイされることになった。
8月30日、閔泳煥の銅像移転の記念式典が開かれた。展示資料には、『大韓毎日申報』が伝えた遺書の元資料、遺書が手書きされた名刺なども含まれている。
中央日報より https://www.joongang.co.kr/article/25098189
閔泳煥の遺書 上掲『大韓毎日申報』記事参照
でもこれ、配置が逆じゃないかな…
銅像と地名を一致させようとするソウル市の30年前の銅像移転のプランは、歴史的人物の名前を冠したソウル市内の地名は必ずしもその人物と関係したものではないという声なども強く、結局白紙化され実現しなかった。解放直後の地名変更の経緯—必ずしも人物との連関性から地名が付けられたわけではない—がまだ意識されていたのであろう。
しかし、今回の銅像の移転については、「忠正公閔泳煥の銅像が忠正路に設置されるのは順当な場所への移設」という受け止めであった。
閔泳煥の銅像の従前の設置場所があまりにも環境が悪かったということもあろうが、忠正路という地名が30年間でソウルの地名として定着したことも一因だと考えられる。その意味では、乙支路、茶山路、退渓路、元暁路、栗谷路など人名を冠した地名それぞれへの銅像の移設も出てきてもおかしくはないのだが、今のところその動きはみられない。今後はどうなるだろうか…。