ハングル打字機 | 一松書院のブログ

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 日本語のキーボード入力はアルファベット入力が主流で、漢字変換をしながら入力する。それに対し、韓国語の場合は、キーに配列されたハングルの子音キー・母音キーをたたいて入力し、漢字変換はしない。韓国語の入力でも、ローマ字入力とか漢字変換もやろうと思えばできるのだが、ほとんどやらない。ハングルは、24文字(近代半ばまでは25)の母音字と子音字の組み合わせなので、キーボードのキーに無理なくおさまる。

ㄱㄴㄷㄹㅁㅂㅅㅇㅈㅊㅋㅌㅍㅎ ㅏㅑㅓㅕㅗㅛㅜㅠㅡㅣ(・)

 

 今の韓国語入力は、文字の切れ目を意識することなく子音や母音を連打していく2ボル式が主流で、自動的に文字を整形してくれる。例えば,「ㅇㅏㄴㄴㅕㅇ」と打てば「안녕」と表示される。

ハングルシールを貼った私のiMacのキーボード
 

 スマホでも、タッチパネルから子音と母音を入れる。母音は「天・」「地 _ 」「人|」の三要素からできているので、「人|」+「天・」で「ㅏ」、「天・」+「人|」で「ㅓ」、「天・」+「地 _ 」で「ㅗ」といった原理に基づいて入力する「天地人方式」。これだと3つのキーだけで母音を全て入力することができる。

 

 日本語は、かなだけでも46個の字形があり、漢字かな混じり文でなければ実用にならない。だから、機械式のタイプライターで日本語の文章を打つことは不可能だった。コンピューター時代になり、漢字変換がある程度スムーズにできるようになって、はじめてキーボードからの日本語入力が一般化した。

 

 一方、韓国語・朝鮮語では早くから機械式タイプライターでの入力の試みがなされてきていた。

 ここでは、1934年に宋基柱ソンギジュが開発したハングル打字機タジャギを中心に、ハングルタイプライターの開発史とその意味するところ、時代背景について考えてみたい。

 

  初期のハングル打字機

 宋基柱ソンギジュが、自らが開発したハングル打字機を引っさげてアメリカから帰国したのは1934年。その打字機については後述するが、その時、朝鮮語の新聞や雑誌でこの話題が大きく取り上げられた。

 その中の一つ、朝鮮中央日報社の雑誌『中央』1934年4月号の記事「ハングルタイプライターの完成」が、それまでの打字機の開発略史に触れている。

 

ハングル打字機は、今から20年あまり前に、在米韓国人李元益イウォンイク氏が考案してニューヨークのレミントン社で製作したものが嚆矢だった。しかし、このタイプライターは、キーが88個もあって使い勝手が悪かったうえ値段が高かったので広く使われることがなかった。その後、今から15年前には、延禧ヨニ專門學校の H.H.アンダーウッド氏が、彼の伯父が経営するニューヨークのアンダーウッド・タイプライター工場で巨額の費用を投じて開発にあたったが、なかなかうまくいかず実用化されることなく終わり、それ以来十数年間はハングル打字機を完成させるのは不可能といわれていた。

 李元益が製作したとされるハングル打字機については、李昇和イスンファの『模範ハングル打字』(教学図書、1973)に、1914年に製作された機械と当時の宣伝文が紹介されている。

朝鮮の進歩の様相に□□□□
すべての前進する韓人は、諺文で文字を書く機械が出来上がったこと、そして最新式のスミス・プレミア10号の文字を書く機械が買えることを知れば、さぞ喜ぶことであろう。
とても使い勝手が良くて非常に堅固なことで有名なこの機械に新しい改良が全て備わっており、今日の朝鮮は、これを機会に、進歩と安寧に多くの助けを受けている世界の国々とも肩を並べた。
この広告文は、スミス・プレミアの諺文機械で書いたものを転写したものだ。
スミス・プレミアの諺文と英書の機械の値段や、更に詳しいことが知りたければ、下に記載した所にお尋ねいただきたい。


Smith Premier No.10


 1913年にスミス・プレミア社はレミントン社の傘下に入ったため、上掲の記事では「ニューヨークのレミントン社で製作」となっている。

 

 広告文は縦書きになっているが、タイプライターのハングル活字を90度回転させたものを下図のように横向きに打字する構造になっていた。

 ただ、上掲の記事にもあるように、李元益の打字機は広く普及するまでには至らなかった。確かに、これはキーが多すぎる…。

 

 雑誌『中央』には、「延禧專門學校のH.H.アンダーウッド氏が、彼の伯父が経営するニューヨークのアンダーウッド・タイプライター工場で巨額の費用を投じて開発にあたった」ともあった。

 

 H.H.アンダーウッド(Horace Horton Underwood)は、延禧專門學校(現在の延世ヨンセ大学の前身)を創設したH.G.アンダーウッド(Horace Grant Underwood)の息子で、のちに延禧專門學校の校長になっている。父 H.G.アンダーウッドの兄 J.T.アンダーウッドは、ニューヨークでアンダーウッド・タイプライター社を経営していた。1916年10月に H.G.アンダーウッドが死去すると、J.T.アンダーウッドは延禧專門學校に巨額の寄付をした。延禧専門学校はその資金で高陽コヤン延禧ヨニ面に土地を取得し(現在の延世大新村シンチョンキャンパス)、1918年に新たな校舎が完成した。

 

 この校舎新築の頃に、H.H.アンダーウッドは叔父のJ.T.アンダーウッドの会社に依頼してハングルタイプライターを開発しようとしていた。後年、1933年のハングル打字機の需要調査の際、H.H.アンダーウッドは自身のハングルタイプライター開発に言及している。

 

『中央』1934年4月号

朝鮮社会の特徴は無知と貧窮だ。ハングル打字機は、私も以前考案したことがあったが、社会が必要性を感じず、また感じたとしても購買力がない。

(同上。延專副校長 H.H.アンダーウッド氏の意見を聴取したもの )

 当時の朝鮮社会の実情では、巨額の開発費を投じて商品化しても普及させるのは無理と判断したのであろう。

 

  宋基柱の横打ち横書き打字機

 ちょうど H.H.アンダーウッドがハングル打字機の開発を試みていた頃、宋基柱ソンギジュという学生が延禧專門學校の農科に在学していた。卒業後、しばらく元山ウォンサン保光ポグァン学校で教師をしたのち1925年にアメリカに留学。シカゴ大学で地理学、テキサス州立大学で生物学を学んだ。延禧專門學校で英文タイプライターに触れたことのあった宋基柱は、渡米後、ハングル打字機の開発に取り組んだ。

 

 最初は、重母音も終声も横並びで打つハングルの「横書打字法」を考案して、ハングル打字機を製作した。1929年1月17日付の『東亜日報』にこの打字機の記事がある。

朝鮮文橫書打字機發明
在米宋基柱氏の発明
今から五年前に延禧専門学校を卒業して米国に渡り、ヒューストン大学を卒業し、現在シカゴ大学で研究中の平安南道江西生まれの宋基柱氏は、長年問題だった朝鮮文横書法とタイブライター印刷機械を開発して米国政府特許局に申請した。字体がうまくできていてこれを普及させるためアメリカ在住の同胞で朝鮮打字機販売会社、朝鮮文改良協会を組織して宣伝に努力している。打字機の価格は事務室用115円、ポータブルが97円50銭程度である。

 ただ「横書」といっても、今のように整形されたハングルが横に並ぶのではなく、子音/母音をそのまま横並びに打っていくものであった。

 

『中央』1934年4月号

ㅇㅣㄴㅅㅑㅎㅏㄱㅓㅣ ㄷㅗㅣㅁㄴㅣㄷㅏ

ㅎㅏㅅㅣㅁㄴㅣㄲㅏ?

 初声の下に母音を打ったり、終声の位置に子音を打つことをせずに、全てを横に並べた。今だったらこのようにキーを叩けばコンピューターが整形して表示してくれるのだが、この時代のこの方式では、人間が頭の中で「인샤하게됨니다」「하심니까?」と整形して読む必要があった。結局この方式は人々に受け入れられなかった。

 

 宋基柱は、1935年1月号の『新東亜』でこの打字機についてこのように回顧している。

最初は先走ってしまって、英文のアルファベットのようにハングルを横書き式に打っていく打字機を作ったが、結局は時期尚早で実際の使用には向いておらず、多くの努力と時間、それに多くの経費を浪費しただけで失敗しました。

 

  横打ち縦書き打字機

 宋基柱は、横書打字機の失敗から、横向きにしたハングル活字を横向きに打字して、縦書きとする方式を考案した。原理的には李元益の打字機と同じだが、シフトキー(웃글자)を使うことでキーの数が42個の文字キーと2個の移動キーと少なくなっており、漢数字と句点も割り付けられていた。

 

 

 1933年にこの打字機を完成させ、ニューヨークのアンダーウッド・タイプライター社で生産することになった。1934年1月24日付の『東亜日報』は、このハングル打字機で打った縦書きのハングル文とともに開発者宋基柱(記事中の宋基周は誤記)と打字機の紹介記事を掲載している。

 

 宋基柱は2月27日に、アンダーウッド・タイプライター社で製作した打字機を携えて帰国した。3月1日には、ポータブルの打字機を携えて朝鮮日報社を訪問している。そこで打ったと思われる鄭圃隱チョンポウンの詩が掲載された記事が出ている。

 

 

 注目されるのは、3月20日に敦義洞トニドン明月館ミョンウォルグァンで開かれた「朝鮮文打字機完成祝賀会」である。その発起人には、東亜日報社の創立者金性洙キムソンジュ、社長宋鎮禹ソンジヌ、毎日申報の理事李相協イサンヒョップ、朝鮮中央日報の社長呂運亨ヨウニョンなど言論界の重鎮、それに尹致昊ユンチホ李光洙イグァンスなど著名な文化人が名を連ねていた。

 

 

 その後、5月12日付の『東亜日報』には、鍾路二丁目91番地の宋一ソンイル商会の朝鮮文字打字機の宣伝が掲載された。

 

 さらに、西大門町の三洋サミャン社がアメリカから輸入した大小のハングル打字機を10月15日から21日まで鍾路の和信百貨店で展示している。和信百貨店といえば、三越・丁子屋・三中井という内地資本の百貨店と肩を並べる朝鮮人資本の百貨店であった。

 

 

 翌年10月には、金秉㻐キムビョンジュンが239円で販売されていた宋基柱のハングル打字機を朝鮮語学会に寄贈している。金秉㻐は、宋基柱と同じ平安南道江西の出身で、明治大学を出て京城で大同テドン興行の専務だった人物。当時の239円は現在の価格では約50万円というところだろうか。

 

 

 1936年の『東亜日報』の年頭の特集の一つ「最近の発明界の面々」でも、この宋基柱とハングル打字機が取りあげられている。

 

  受難のハングル打字機

 ところが、これ以降ハングル打字機についての記事はなくなっていく。1936年7月14日の『東亜日報』に、「以前貴紙でハングル打字機の発明についての記事があったが、これはどこで製造販売しているのか」という読者からの問い合わせがあり、それに対して「発明者と特約しているアメリカのとある会社で製造している」というそっけない回答しかしていない。それまで熱心にハングル打字機について報じていた『東亜日報』なのに、宋基柱の名前も、アンダーウッド・タイプライター社の名前も出していない。ひょっとすると、朝鮮での販売が難しくなっていたのかもしれない。

 解放後の1949年の『東亜日報』は、宋基柱の打字機は、30台が輸入されたが、「当時は敵治下(日本による植民地統治下)だったため発展させられなかった」と伝えている(1949年4月24日付)。

 

 1930年代になると、朝鮮総督府は「国語」の普及に力を入れ始めた。すなわち、朝鮮語の使用を抑制して日本語を使用させる動きを加速していた。そんな時期に完成した宋基柱のハングル打字機に朝鮮人の言論人や文化人が強い関心を示し、歓迎したのは、そうした流れに危機感を強めていたことも一因だったのかもしれない。

 しかし、1936年年末からは、大々的に「国語常用」のキャンペーンが始まり、朝鮮語を排斥して日本語だけを使わせる方向に向かった。

 

 

 これ以降、ハングル打字機への表立った販売や、開発・改良の試みは難しくなったものと思われる。

 

  植民地支配の終焉とハングル打字機

 日本の敗戦によって植民地支配が終わると、再びハングル打字機の使用と開発が一気に始まった。      

 米軍政下の文教部ではアメリカのレミントンランドのハングル用新打字機8台が稼働しており、200台以上をアメリカに発注したという記事が1948年3月の『工業新聞』に出ている。

 

 

 商務部でもハングル打字機の図面が作成されて、新しい機械が考案されようとしていた。

 

 

 一方、1930年代に実用化されたハングル打字機を考案した宋基柱も、印字間隔などを修正し、1分間に160字打てる改良型の新機種を開発し1949年にアンダーウッド・タイプライター社に製造を委託した。

 

 

 このようにハングル打字機が急速に関心を集め、競って開発も行われるようになったのだが、印字方法やキーの配列などは、それぞれの開発者によって異なっていた。

 そうした状況を憂慮したためであろう。1949年3月に、朝鮮発明奨励会の主催で、ハングル打字機の懸賞募集が行われることになった。審査員は、文教部・逓信部・商工部・交通部・語学会・工科大学・記者会・商工会議所・タイピスト協会から推薦されるという大掛かりなものであった。

 

 

 この懸賞募集では、ハングル打字機4機種が選ばれたのだが、その中に眼科医の公炳禹コンビョンウが開発したものがあった。

 

 

 この打字機は、整形されたハングル文字を横書きで打っていくという方式で、朝鮮戦争開戦前の1950年に、韓米援助協定の資金を得て、アメリカのアンダーウッド・タイプライター社に大量発注された。


 

 1953年7月に朝鮮戦争の休戦協定が結ばれた時、その韓国語の部分は公炳禹のハングル打字機で打たれたものだ。終声(パッチム)がないものは上寄せになり、行の下のラインが凸凹になる。

 

 

 ちなみに、1930年代に、最初に普及型のハングル打字機を開発した宋基柱は、朝鮮戦争の最中に北朝鮮の人民軍によって北朝鮮に連行され、その後の消息はわかっていない。

 

  その後

 日本の植民地支配が終わって4〜5年で、横書きで横配列のハングル文字を印字できるタイプライター(打字機)が開発され、広く普及するようになった。しかし、入力方式やキーボード配列については紆余曲折があった。

 

 公炳禹の打字機は、初声の子音と母音、それに終声(パッチム)がある場合には下に子音を打つ3ボル式であった。

 しかし、1969年の政府のキーボード統一案では、4ボル式が採用された。4ボル式は初声の子音・終声のない場合の母音・終声のある場合の母音・終声の子音のキーが配置されている。

 

 

終声の有無で母音の長さが変わるため、3ボル式よりも行の凸凹感がやや少なくなる。

 

 そして、1984年には、電動式タイプライターからコンピューター入力の時代へと移行していく中で2ボル式の子音と母音だけのキーボードが統一のキー配列とされた。しかし、まだ機械式の打字機も多かったこともあり、さまざまな論争が巻き起こった。

 

 

 それらについては、また別の機会に…