- 桃花洞 煉瓦工場
- 煉瓦工場の設置
- 京城監獄新設と囚人労働
- 煉瓦造の建築物
- レンガの需要と価格
- マンションへの変貌
桃花洞 煉瓦工場
1924年8月8日の『東亜日報』の「洞・町内の名物」は、桃花洞の煉瓦工場である。
桃花洞 レンガ工場
ソウルに洋風の家が散在する今日、レンガ工場なしにはやっていけません。それで西大門の外の桃花洞にレンガ工場ができました。
桃花には白い花の咲く碧桃もありますが、普通は桃花といえば赤い色が思い浮かびます。レンガにもいろいろの色がありますが、普通、レンガといえば赤だと思います。レンガを作る工場が桃花洞にあるのはぴったりでしょう。
この桃花洞のレンガ工場で働く職工たちは、他の工場の職工とは違います。赤い服を着た職工たちです。赤い服を着た職工たちが赤いレンガ作るというのもやはり色がぴったりです。
この赤い服を着た職工は、二人ずつ鎖でつながれています。もちろん仕事をする時は鎖は外されます。しかし、銃を持った人が見張り台に立ち、剣を下げた人が付いています。職工の中にはしがない身の上の人もいますが、心臓の煮えたぎる赤い血を涙として流す人も時折います。これを色で語るのはどうにも難しいので、このあたりでやめることにしましょう。
大京城府大観(1936)
このレンガ工場があったところには、現在は麻浦サムソンアパートが建っている。
「赤い服を着た職工」とは、工場の北側にあった京城刑務所の服役囚である。京城刑務所は、1912年に孔徳里に新たに建てられた監獄で、峴底洞に1908年に建てられた監獄(西大門刑務所)が手狭になったとして新設されたもの。解放後は麻浦矯導所となり、1963年に安養市に新設された安養矯導所に統合された。現在は、旧矯導所跡地の南西側ブロックが西部地方検察庁と西部地方裁判所の敷地になっており、他は払い下げられて民有地になっている。
煉瓦工場の設置
このレンガ工場は、大韓帝国の財政を管轄した度支部が1906年に建設を計画し、日本から小倉常祐などの技術者を招聘して1907年にホフマン窯2基を備えたレンガ工場を完成させた。小倉常祐は、1878年からレンガ製造が始まっていた小菅集治監(現在の東京拘置所)の技師であり、和井田は足立郡花畑村にあった帝国煉瓦工場の技術者であった。
韓国麻浦度支部煉瓦製造所ホフマン式窯
1910年の韓国併合で、度支部の煉瓦製造所は、朝鮮総督府の会計局に移管されて麻浦煉瓦工場となった。その時の操業体制について次のような記載がある。
麻浦煉瓦工場は京義鉄道沿線漢江江畔にあり、専ら煉瓦の製造供給に従事し、工場敷地及原土採取場を合わせて50,479坪、原土調合場1棟、「ホフマン」式輪窯2基、汽罐2基(計120馬力)、汽機2基(計80馬力)、煉瓦圧出機1基(40馬力)、其の他所要機械器具営造物を有し、其の作業は之を部分工賃請負とし、内、原土調合及調合原土運搬のみを直営とし、職工人夫として内地人32名朝鮮人176名、計208名を使用せり
朝鮮総督府編『朝鮮総督府施政年報 明治43年』
第7章 官業 第74節 煉瓦及土管工場
京城監獄新設と囚人労働
この段階では、内地人32名と朝鮮人176名で生産が行われており、囚人労働への言及はない。ところが、その2年後の1913年8月23日付の『毎日申報』の記事では、囚人330人がこの工場で使役されていると記されている。
この間、1912年12月に、朝鮮人の服役囚1,500人を収容する京城監獄が、麻浦煉瓦工場の北側1キロほどの孔徳里に完成している。この京城監獄の完成によって、麻浦煉瓦工場での囚人労働によるレンガの製造が始まったものと推測される。
『朝鮮総督府始政25周年記念表彰者名鑑』(1935)に金春寿という人物の経歴が記載されている。
明治43年(1910)4月1日 麻浦煉瓦工場常用人夫
明治45年(1912)5月1日 常用人夫罷免同時京城監獄監丁
金春寿は、当初、麻浦煉瓦工場の職工として職に就いたが、1912年に煉瓦工場で囚人労働が始まるとともに京城監獄の看守の肩書きになったのであろう。
煉瓦造の建築物
煉瓦製造所で製造されたレンガは、大韓帝国末期から日本の植民地支配下での洋風建築物に建材として利用された。
1907年に、現在の鍾路区公平洞に建てられた平理院(裁判所)は、レンガ造2階建てのルネサンス様式の建物で、麻浦の煉瓦製造所で製造されたレンガが使われていた。
また、1907年3月に着工し翌年5月に竣工した大韓医院本館の建物にも、麻浦煉瓦製造所のレンガが使われている。この建物は、現在大学路のソウル大学病院の構内に残っている。
西大門刑務所の建設にも使われた。1923年、1932年の増改築時にも麻浦煉瓦製造所のレンガが使われている。
レンガの需要と価格
『東亜日報』の「洞・町内の名物」で桃花洞の煉瓦工場が紹介された1924年は、レンガの需要が減っていた時期であった。
1924年、煉瓦工場として大手の朝鮮窯業と京城窯業は年間2,000万個の生産能力がありながら半分にまで減産していた。この年、麻浦煉瓦工場分を合わせた全体のレンガ供給量のうち600万個が供給過多となっていた。この時には、麻浦煉瓦工場廃止という新聞報道が出たことがあった(『毎日申報』1924年12月3日)。
1926年も、供給1,600万個に対して800万個しか消費されなかった。その中で、囚人労働で生産コストが抑えられた麻浦煉瓦工場のレンガだけは完売しており、民間のレンガ工場を圧迫するとして問題視されたことがあった。
1929年の『朝鮮新聞』によれば、この前年あたりからレンガの需要はやや持ち直していたようだ。この時期から、京城府の外郭地域の宅地開発—舞鶴町住宅、三坂住宅地、桜ヶ丘住宅地など—が急速に進んだことも関係しているのだろう。
この時点で、最大手の京城窯業が800万個、鷺梁津の森田300万個、往十里の加藤100万個、清涼里の新井300万個、新村の某朝鮮人100万個、それに麻浦の刑務所煉瓦工場が300万個という生産水準だった。需要が増えたことで、価格がばらついたため1930年9月には、京城と仁川のレンガ業者が価格の統一をはかり、それを新聞紙上で告知している。
ここに麻浦の煉瓦工場は入っていない。1926年の新聞記事では、囚人労働のため「民間製品に比して平均で4厘安い」とあるが、小売で2銭前後のレンガで4厘安いというのは相当な安さだったことになる。
その後の麻浦煉瓦工場のレンガ生産については、1932年に煉瓦工場から囚人が脱走した事件が報じられていて生産が継続していたことがわかる。具体的なデータは見当たらないが、囚人労働によるレンガ生産は続けられていたものと思われる。
マンションへの変貌
1945年の日本の敗戦で、北緯38度線以南の朝鮮は米軍の軍政下に置かれた。麻浦刑務所で服役していた独立運動家や思想犯などは釈放されたが、刑務所施設はそのまま存続した。ただ、麻浦煉瓦工場で、そのまま囚人による煉瓦製造が行われていたかどうか、これも具体的な記録がない。
煉瓦工場は、朝鮮戦争後の1957年に操業を停止したとされ、その後工場の敷地は大韓住宅営団(のちの住宅公社)に払い下げられた。1961年10月に煉瓦工場の跡地に最新式のマンションが建てられることが報じられている。
麻浦アパートは、1962年に第1次のY型6棟が、1964年に第2次の4棟が分譲された。
その後、1987年にサムソン建築との間で再建築の契約が結ばれ、最終的に1997年5月に竣工した。 麻浦サムソンアパートは14棟で、完成当時、漢江の北側のマンションとしては最高価格を記録した。
現在の麻浦サムソンアパートには、煉瓦工場の頃の痕跡は全く残っていない。ただ、敷地の形状が昔の煉瓦工場の時代を偲ばせるだけである。














