馬場洞モクチャコルモクの火災 | 一松書院のブログ

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ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

  1. 植民地支配下の屠殺場
  2. 解放後〜1990年代の馬場洞
  3. 畜産物市場とモクチャコルモク

 

 2022年3月19日午前11時半頃、馬場洞マジャンドンのモクチャコルモク(食べようぜ横丁)で火事が起きた。

 

 

 上掲左の写真は、2015年に初めてここで焼き肉を食べた時の記念写真。右は火災から1週間後の同じ場所で、右側(南側)の店は焼け落ちてしまっている。そして、その焼け跡に、黄色い警告文が貼られている。

2022年3月26日 KorientaTV

警告文

ここは、国・公有地であり、無断占有・使用およびフェンスの毀損は、国有財産法第82条・公有財産及び物品管理法第99条、刑法第366条により告発されます。

城東区庁長

 ニュースでも、モクチャコルモクの近隣住民などから撤去の陳情や請願が度々出されてきたこともあり、焼失店舗の再建築は難しいだろうと報じられている。

 

 ここはどのような変遷をたどってきた場所なのか。調べてみた。

 

  植民地支配下の屠殺場

 今でこそ、安くて美味しい肉が買える市場、そして煙が立ち込める店で焼き肉が堪能できる横丁というイメージだが、もとをたどれば、家畜を殺して処理する屠殺場の周辺施設だった。

 

 大韓帝国時代の1909年8月21日、法律第24号屠獣規則が裁可された。そして、併合後、京城府は、府営の屠殺場を崇仁面新設里と龍江面阿峴里に置いた。

 

 

 峴底洞にも屠殺場があった。1911年に内田実が京城刑務所の南側に設立したもので、1916年に京城府がこれを買収しこれを京城府営の「京城屠獣場」とした。

 この屠殺場は、1925年になって崇仁洞に移設された。

 

 

 そして、崇仁町の家畜市場と屠殺場は、1937年になって馬場里に移される計画が発表された。

 

家畜市場・屠殺場を馬場里に移転!
起債が承認されて二万坪を買収

京城府勧業課では、今年度約十四万円の予算で現在の崇仁町にある家畜市場と屠殺場の移転先の敷地を購入するための起債の認可申請を行っていたが、数日前にその認可が下り、来月上旬には候補地である馬場里の水田、山林、墳墓、土地など二万坪を買収することになろう。
最近は金融界で土地投機に対して非常に警戒していて郊外の土地価格が下降気味であることから、用地の買収は比較的容易だと京城府では見ている。

1937年修正測図 1:10.000

 

 しかし、この馬場町への屠殺場移転は、馬場町周辺の道路や鉄道計画などの関係で実現しないまま日本の敗戦を迎えることになった。

 

  解放後〜1990年代の馬場洞

 解放後、崇仁洞の屠殺場がそのまま引き継がれた。1958年になってソウル市は馬場洞に「近代的な屠殺施設」を設けることにして土地を確保した。1961年には、「東洋最大の屠殺場」が完成して、三一畜産サミルチュクサン株式会社が落札して経営に当たった。馬場洞は食肉供給の中心地と位置付けられた。

 

 屠畜場の経営は、その後、宇成農易ウソンノンヨク株式会社に引き継がれた。その場所自体は、屠殺と卸売の場所であって一般消費者が足を運ぶ場所ではなかったが、その周辺には、横流しの肉や内臓や骨などを販売する業者や露天商なども相当いたようだ※参考1

 

 

 1980年代中盤に、可楽洞カラクドン畜産チュクサン共販場コンパンジャン禿山洞トクサンドン牛市場ウシジャンの整備が進み、ソウルの食肉の卸しや販売が様変わりし始めた。馬場洞の食肉市場でも、1980年代になると屠殺場・食肉卸売市場の西側の小売店や食堂、いわゆる「場外市場」が次第に増えてきた。

 

 

 屠殺場の移転問題は、周辺の宅地化が進んだ1980年代後半から再三取り沙汰されていたが、移転先が見つけられないまま先延ばしになっていた。

 

 1995年、経営難に陥っていた宇成農易は、屠殺場の規模を三分の一に縮小して、その跡地に高層マンション1017戸を建設することとし、3年後には屠殺場を市外に移転するということでソウル市の開発認可を得た。この時に建てられたのが現在の馬場現代マジャンヒョンデアパートである。

 馬場洞の屠殺場は、移転を実現することができないまま、1998年3月31日をもってを閉鎖された。さらに、食肉卸売市場も赤字が続き、2000年7月末には休業に追い込まれた。

 

 

  畜産物市場とモクチャコルモク

 2001年になって、ソウル市は漢江北側にも畜産物卸売市場が必要だとして、馬場洞766一帯を「畜産物特化市場」に指定しようとした。しかし、近隣住民の激しい反対でこれを断念し、ここの敷地には馬場初等学校と馬場中学校が建設されることになった。


 城東区ソンドングは、場外市場だけになった馬場洞の牛市場について、2004年に23億ウォンかけて環境改善事業を行った。2002年にソウル市長に就任した李明博イミョンバクが、暗渠化されていた清渓川チョンゲチョンの復元を打ち出し、2003年7月に工事が始まっていたからである※参考2。小売店舗が立ち並ぶ571mの場外市場の中央通路に沿って屋根を設置し、各店舗に保冷ケースを設置するなど衛生・環境面での改善をおこなった。また「牛市場」の名称も「畜産物市場チュクサンムルシジャン」に変えて、一般消費者の集客に力を入れ始めた。これが現在のアーケードのある畜産物市場の原型である。

 

2022年3月

 

 さらに、2006年には城東区が主導する「清渓川チョンゲチョン下流特性化計画」で、この一帯を2008年までに韓国を代表する「食のタウン」とするプランを打ち出した。これを伝えた2006年10月31日付『文化日報』にはこのような記述がある。

마장동 ‘불고기 外食명소’로 - 성동구 2008년까지 ‘먹을거리 타운’ 조성계획

(中略)

현재 마장동에는 ‘용문집’ ‘대구집’ 등 대표적인 2개 식당과 먹자골목내 무허가 식당 20여개가 있지만 외부 방문객을 끌어들일 만큼 식당가로서의 매력이 부족한 편. 이 때문에 사실상 축산물도매시장으로만 명맥을 유지하고 있다.

 

馬場洞「焼き肉の名所」に - 城東区、2008年までに「食のタウン」造成計画

(中略)

現在、馬場洞には「龍門家ヨンムンジップ」「大邱家テギジップ」の2軒の代表的な食堂とモクチャコルモクの無許可食堂20軒ほどがあるが、外部からの訪問客を惹き付けるほど魅力ある食堂にはなっていない。そのため、ここは事実上畜産物卸売市場だけでもっているのが現状。

 この時点で、モクチャコルモクでは「龍門家」「大邱家」などの食堂が営業していた。そして、それらの店は無許可営業と書かれている。しかし、無許可にも関わらず、モクチャコルモクの食堂も城東区が主導するプランに組み込まれていた。常設食堂としてではなく、屋台ポジャンマチャのような「仮設」「臨時」の施設として黙認したのであろうか。多分、そのためだろう。各店にはトイレがなく、路地の一番西側に城東区が作った公衆トイレを使うことになっている。

2021年4月 ソウルをおさんぽ

 

 2010年3月30日の東亜日報デジタル版に「馬場洞畜産物市場のモクチャコルモクに行ったことがありますか?」という記事がある。

ソウル城東区馬場洞畜産物市場の隠れたスポットが人気を集めている。他ならぬ「馬場洞モクチャコルモク」だ。約50メートルの路地に15の牛肉専門レストランがある。30年余り前に店ができ始め、建物も古くテーブルも狭く、公共交通機関も不便な上に駐車スペースもほとんどない。毎晩、客で足の踏み場がないというのが信じられないほどだ。

これほど不便なのにも関わらず、外国人までが殺到する理由は、店でおいしい牛肉を安く食べられる上、さまざまな部位を食べ比べることができるからだ。 さらに、多少「不便な環境」が、外国人にしてみると異国情緒の観光ポイントなのだろう。
日本人観光客は、日本の雑誌の紹介記事の切り抜きを片手にやって来るという。日本人観光客が増えたため、店側では日本語の看板とメニューを用意した。

 この取材から30年前ということだと、まだ屠殺場があった1980年代から、場外市場の北側スペースに屋台や仮設小屋のような形で営業をはじめていたということになる。航空写真で見てみると、1988年までは駐車場だったモクチャコルモクのスペースに、1989年には建造物が建てられている。この時期が占有の始まりであろう。

 

 

 それが、2006年には、復元された清渓川下流の馬場洞の活性化の目玉として取り上げられ、2010年前後には、人気スポットの一つになったのである。

 

 城東区が何らかの方便を使って食堂としての営業を認めてきていたのだろうが、敷地が国有地・公有地であることに変わりはない。

 今回の火災で、城東区は原則再建築は認めないという立場のようだが、焼け残った店舗部分もあり、この一帯は果たして今後どのようになっていくのだろうか。

 

「龍門家」も「大邱家」も、今回の火災で焼失した

2022年3月26日 KorientaTV

 


 

【参考1】1984年6月14日『東亜日報』

露天商、取り締まりに投石騒動
馬場洞で2名負傷、9名即決裁判に
14日午前、ソウル城東区馬場洞大韓赤十字社ソウル支社前から牛市場に至る清渓川沿いの約200メートルの「消防道路」で、露天商約20名が、これを取り締まろうとした警察と区役所職員に投石してにらみ合いになり、正午ごろに解散した。
彼らは、前日13日に取り締まり班によって屋台を全て撤去されたが、この日彼らの一部が再び現れて警察と睨み合いになった。
管轄の城東区役所と城東警察では、13日昼、この「消防道路」周辺で牛や豚の内臓などを売っていた100人余りの露天商の取り締まりを行い、商品を全て没収していた。
この日の取り締まりで露天商の一部は、投石などで取り締まりに抵抗し、警察機動隊1名と区役所職員1名が負傷した。警察は暴力を振った露天商9名を検挙して即決裁判に回した。

 

【参考2】

馬場洞付近の清渓川は、1977年に馬場橋から京義中央線鉄橋まで覆蓋工事が行われ暗渠になっていた。

2003年からの清渓川復元工事で、覆いが撤去された。