「愛国歌」の作詞者は… | 一松書院のブログ

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 韓国の国歌「愛国歌エグッカ」の作曲は、安益泰アニクテによるもので楽譜にもそう明記されている。

 ところが、作詞については、空白のまま。誰が作詞したかをめぐっては、諸説あって作詞者の断定には至っていない。

 

 

 今の歌詞とは多少の違いはあるものの、「愛国歌」は日本による大韓帝国併合以前からすでに歌われていた。当初は、スコットランド民謡のオールド・ラング・サイン(AULD LANG SYNE)の曲で歌われていた。日本では「蛍の光」で知られているメロディーである。

 

 

 その後、1937年3月にアメリカにいた安益泰が新しく曲をつけ、在米コリアンがそのメロディーで歌い始めた。1940年12月には、大韓臨時政府がその曲の使用を公認している。1942年8月29日にアメリカのロサンゼルスで録音されたレコードが残されており、デジタル復元されたものが韓国日報のyoutubeで公開されている。

 

 解放直後の朝鮮では、オールド・ラング・サインのメロディーで歌われていたが、1945年11月21日の『自由新聞』に、安益泰が新しく作曲した経緯とその楽譜が紹介されている。「荘厳で溌剌とした新しい曲調で歌おう」という記事である。

 

 

 オールド・ラング・サインが離別の哀愁を帯びたもので、故国を失った人々の心情にはマッチしていたとしながらも、新しい曲についてこのように記している。

(前略)アメリカにいる同胞たちは、このメロディーがふさわしくないということで、指揮者でチェリストとしても世界的に著名な安益泰氏に依頼して、荘厳でありながらも歌いやすい新しい曲を作ってもらい、在米同胞はこの新しいメロディーで愛国歌を歌っているという。在米韓族連合会の金乎キムホ氏は次のように語った。
 在米同胞は新しいメロディーの愛国歌を荘厳でありながらも溌剌と歌っています。国民会で出版した楽譜を持ってきたので、皆さんもこのメロディーで広く歌ってくださるよう望みます。(後略)

 12月24日の『中央新聞』も、紙面で安益泰作曲の譜面を紹介して、このメロディーで歌おうと呼びかけている。

 


 

 12月15日の『東亜日報』には、12月16日・17日に明治座(現在の明洞ミョンドン芸術劇場)で開かれる梨花イファ高女同窓会主催の独立祝賀音楽大会で、安益泰のメロディーの愛国歌が披露されると報じている。

 

 その一方で、『東亜日報』主催や音楽家協会・文学同盟主催・『中央新聞』後援で、新しい愛国歌の募集も行われている。

「東海の水と白頭山」という愛国歌が韓末時代からあったが、歌詞や歌曲が新しい時代に合わない点もあり、これまでの愛国歌にこだわらず新しい感覚で創作する
(東亜日報より)



 ところが、この直後、モスクワ三国外相会議で米・英・ソ・中4か国による朝鮮の信託統治が決定され、それに反対する運動の中で愛国歌が繰り返し歌われた。この時期に安益泰の曲が定着していったのではないかと推測される。結局、大韓帝国時代からの歌詞がそのまま受け継がれ、この愛国歌が1948年の建国以降、大韓民国の国歌となった。

 


 1955年4月2日、韓国政府にアメリカの出版社からこの愛国歌の作詞者についての問い合わせがあった。その出版社で編集・刊行予定の百科事典に韓国の愛国歌の作詞者を掲載したいというのである。
 

 

 上掲の『京郷新聞』の記事では「島山トサン安昌浩アンチャンホ先生が愛国歌を作詞した年月日と、現在帰国中の安益泰氏が作曲した事実などを回答することになる」となっている。しかし、実際には韓国文教部は回答を保留し、4月10日になって国史編纂委員会に作詞者の調査を委嘱した。
 

 4月18日付の『東亜日報』は、資料の収集の過程で三つの説が出ていることを紹介している。

・安昌浩説
黃義敦ファンウィドン氏の話:今歌われている愛国歌は、併合の約2年前に私が大成テソン学校(平壌ピョンヤン)の教師の時に同校で学生たちに教えた歌である。当時この歌は、同校の設立者である安昌浩先生が作詞したと聞いており、先生はそれ以外にも多くの歌をお作りになった。
しかし、最近になって愛国歌の作詞が金仁湜キムインジェ氏という説も出ているが、当時金仁湜氏は安昌浩先生と親交があり、また音楽の先生でもあったので、金仁湜氏の協力を得て「愛国歌」を作詞したのかもしれない。
また、尹致昊ユンチホ氏が愛国歌の作詞者という話もあるようだが、私が知る限りでは、尹致昊氏が米国で開催された「公会」に参加した時、唯一韓国だけが国歌を持っていなかったために国歌を作ったが、その国歌は「上帝は我が皇帝を助け…」で始まるものだったと記憶している。つまり、現在の愛国歌ではなかったと思う。
・尹致昊説
尹永善ユンヨンソン氏の話:当時(1907年)、亡き父が作詞した愛国歌の原本を持っており、亡父と崔炳憲チェビョンホン氏が共同で愛国歌を書いたとも言われているが、私は亡父が一人で書いたと聞いている。亡父は『愛国歌』以外にも皇室歌や「千万年我が皇室」など多くの歌を書いていた。
・崔炳憲・尹致昊共作説
崔晃チェホン氏の話:愛国歌は私の祖父の崔炳憲(貞洞教会初代監理師)氏と尹致昊氏が共同で作ったものである。
 この愛国歌は1905年頃に作詞されたものと推定されるが、祖父の崔炳憲監理師が歌詞を書き、リフレーン部分は尹致昊氏が作った皇室歌から引用したと考えられる。

 その調査過程で、尹致昊の直筆とされる歌詞が公開され、それに対して金仁湜がインタビューに応じて、尹致昊作詞説を否定して自分が作詞したものだと答えて話題になった。

 

 1955年7月28日、調査に当たってきた愛国歌作詞審査委員会は、「尹致昊氏説が最も有力」という結論をまとめたが、作詞者であるとは断定しなかった。

 

 

 その後も、間欠的に愛国歌の作詞者問題は取り上げられていたが、1998年から1999年にかけて議論が再燃した。

 

 

 この時に、KBSが各方面を取材して、1999年2月28日に「愛国歌の作詞者は誰かー終わりなき論争」という番組を放映した。

 

 

 この番組で、東京の韓国研究院の崔書勉チェソミョン院長が日本の公文書を紹介しているが、その後デジタル公開されるようになった1910年代の日本の公文書にも、「尹致昊の愛国歌」という記述が散見される。

 とはいえ、安昌浩を作詞者だとする主張も依然として根強い。
 

 2015年には、シン・ドンニップ(신동립)『愛国歌 作詞者の秘密(애국가 작사자의 비밀)』が出版された。

 この本によれば、上述した1955年のアメリカの出版社からの問合せに対し、当初、文教部では安昌浩作詞、安益泰作曲と回答をすることにしていた。ところが、これを知った尹致昊の遺族から訂正要求があり、愛国歌作詞審査委員会で資料調査が行われることになった。7月28日の審査委員会最終会議では、作詞者は尹致昊という意見が大勢を占めたが、最終の答申は「尹致昊が最も有力だが作詞者は未詳」となった。それは、植民地支配の最終段階で、尹致昊が日本に協力したことを大統領の李承晩が問題視していたため、愛国歌の作詞者を尹致昊とすると愛国歌自体が否定されかねないと躊躇したためだったとしている。詩人の徐廷柱ソジョンジュもそのような話をしていると著者は記している。

 

 尹致昊は、皇民化政策の中を生き延びて解放の日を迎えた。朝鮮に踏みとどまった朝鮮人が、日本による1930年後半からの戦時植民地支配体制の狂気の中で、「服従」で生き延びざるを得なかったことは事実であり、尹致昊も創氏改名をして日本の戦争遂行に協力的対応をした。そのことで、解放後「対日協力者」として糾弾された。

 尹致昊は、解放の年の12月6日に開城ケソンの自宅で死去した。12月13日に京城府都染洞トヨムドン宗橋チョンギョ礼拝堂で行われた永訣式には李承晩も列席しており(金乙漢『佐翁尹致昊伝』(乙酉文化社 1978))、尹致昊の作詞が明らかになると李承晩が愛国歌を否定してしまうから作詞者未詳にしたという説は信じ難い。

 

 他方、安昌浩は、1932年4月の尹奉吉ユンボンギルによる上海での爆弾投擲事件に関与したとして、上海から朝鮮に押送・投獄され、1935年に一旦釈放された。しかし、1937年の修養同友会事件で再び逮捕され、 獄中で病状が悪化して釈放されたが、1938年3月10日に死亡した。解放に立ち会うことはできなかったが、戦時下で対日協力を強いられることはなかった。

 

 

 韓国の愛国歌は、依然として作詞者未詳である。